読書ざんまいよせい(020)

◎蒼ざめたる馬(005)
ロープシン作、青野季吉訳

◎蒼ざめたる馬(004)
ロープシン作、青野季吉訳

 四月六日

 復活祭の前週間は過ぎた。今日、楽しいは鳴り響いてゐる。復活祭の日曜日だ。夜は、投び 満ちた行列、キリストの讃美の中に、過ぎた。街々は朝から澤山の人出がして、林檎一つ落ちる 余地もない。頭に白いハンカチーフを巻いた百姓女、兵隊、襤褸を着た食、制服の學生 彼等はみんな接吻したり、 向日葵の種を噛んだり、お僥舎《しやべ》りをしたり、笑ったり、無駄口をたさいたりしてゐる。赤い復活祭の卵や、しやうが<傍点>餅が路傍で賣られ、色のついた風船がリボンにつながれてゐる。群衆は、巣の中の密蜂のやうに、ブンブン鳴りざめいてゐる。
 少年時代に私達は、四旬齋《レント》の六週間のあひだ聖晩餐の仕度をした。 丸一週間斷食をして、式の日にも、晩餐の儀禮のすむまでどんな食べ物に觸れなかつた。それから五週間目《パツシヨンウイク》が来た。 ……おゝ、私達の跪拝の狂熱、會堂に展けられた救世主の御慕への熱情的な密着! 「主よ、われらが罪を赦させ玉へ。」復活祭の朝々は、天國のやうな感じを與へた。蠟燭の輝き、蠟の匂ひ、僧侶の雪白な法服、金色の龕があつた。・・・・・興奮で息が詰りそうであつた。キリストはすぐ甦り玉ふか?
 私達は清められた復活祭のバンの一片を持つてすぐ家に歸らうか?
 家では、すべてがお祭りの仕度になつてゐた。復活祭の全週間はお祭り日であつた。
「お占ひなされ、旦那さま。」一人の小娘が私の手に封じ物を押し入れた。
 小娘は裸足で襤褸を着てゐる。お祭りらしい様子は何にもない。 彼女から買った灰色の紙に、次のやうな豫言がある。
「悪運に追廻さるとも、希望を棄つる勿れ、失望に道をゆづる勿れ。汝は大いなる困難に打克ち、運命をして汝にその車輪を向けしむるならん。汝の企は、汝の思ひしよりも更に一層大いな る、全き成功を以つて飾らるゝならん。」
 そうだ、私にとって、これは佳い復活祭の卵ではないか?

 四月七日

 ヴァニアは他の人達と一緒に、馭者立場に暮してゐる。彼は腰掛の上に彼等と喰付いて眠る。彼は共同釜で食つてゐる。 自分で馬の手入れをして、馬車の掃除をする。 彼は馬車を驅って、終日、街中で費す。彼はこぼ<傍点>さない。彼の仕事にすつかり満足してゐる。
今日、彼は新しい着物を着て居り、頭髪は鮮やかに油をぬられて、長靴は氣持よく鳴る。
 彼は私に云つた。
「遂に復活祭が来た。それは善い・・・・・・キリストは甦った。眞實だよ、ジヨーヂ。」
「うむ、何が善いことだい?」
「あゝ、君は・・・・・・君は悦びを持つてゐない。君は、萬象を在りのまゝに受取らないんだ」
「君はそうか?」
「僕?そりあ全く別だ。しかし僕は君が気の毒だよ、ジヨーヂ。」
「気の毒だ?」
「そうだ・・・・・・君は誰をも愛さい。 君自身をさへ愛さないんだ。・・・・・・僕等の立場《たちば》に。一人の馭者がゐる、チツホンと云ふんだ。色の黒い髪の巻き下つた百姓なんだ。彼は悪魔のやうに意地惡だ。以前には大變な物持ちだつたんだが、大火ですつかり持つてたものを無くしたんだ。人が憎くんで彼の家へ放火したんだ。彼はそれが忘れられないで、誰でも、どんなものでも、呪つてゐる。彼は、神も、學生も、商人も、小供さへも、呪つてるんだ。 彼は彼等をすつかり嫌つてるんだ。『彼奴等は犬畜生だ。彼奴等は誰も彼も。』と彼は云ふんだ。『彼奴等はキリスト教徒の 血をすゝつてるんだ。そして神は、天から彼奴等を見下して、それを観て楽しんでゐるんだ。』・・・・・・或日、僕が茶店を出て立場へ歸つて来ると、チツホンが立場の真中に突立つてゐた。脚を廣く 開いて立ち上つて、袖を巻くし上げてゐた。大いに手綱を握つて、馬の眼を激しく打つてゐるんだ。生命《いのち》の氣《け》もない可哀想な馬は、拳固を外そうとして頭をふるのに、彼は續けかけ續けかけ眼を亂打するんだ。『骸骨奴!』 彼は皺枯れ聲で努鳴った。『獣奴!思ひ知らしてやるぞ』『チツホン 何故可哀相なものを打つんだ!』私は彼に問ふた。『默れボロ野郎!』彼はさう答へて、益々怒つて馬を打つんだ。。
 ヴアニアは砂糖の小さい一塊りを嚙んで、茶を綴って、續けた。
「怒るなよ、ジヨーヂ、笑ふな。僕の考へてることを知ってるかね?僕等は、僕等はみんな、貧しい心なんだ。僕が生活を驅つて行く力は何だ?憎惡だ、たゞ憎惡だけだ。僕等は愛さない、愛すと云ふことはどんなことか、僕等は知らない。僕等は戰ふ。僕等は殺す。 僕等は焼く。そして僕等もまた絞め殺され、縊られ、焼かれるのだ。何者の名に於いて、それが爲されるのか?聞かせてくれい。。
私は肩をゆすつた。
「ハインリヒに聞け、ヴアニア。」
「あゝ、ハインリヒ!彼は人々を自由にして、彼等のすべてに食物を與へることを信じてゐる。 しかしそれはマルタの役目なんだ。マリアお役目は何だ?人が自由の爲めに死なんとする。いや 自由の爲めばかりぢやない、一滴の涙の爲めにも死なんとする、それは僕は十分了解する。僕も、地に奴隷なく、飢ゆる者の無いことを、神に禱る。しかしそれで事がすむんぢやないよ、ジヨーヂ。現在、人々の生活が非眞理の上に建てられてあることを、僕等は知ってる。眞理はいつたい何處に在るのか?話せるなら話して呉れ。」
「眞理とは何か?君の言ふのはさうか?」
「そうだ、真理とは何か?ねえ君 『我の生れ、我の此世に来れるは、眞理の證《あかし》を爲さんが爲めなり。眞理に在る凡ての者は、我聲を聞く』さ。」
「ヴァニア、キリストは、汝殺すこと勿れ、と云つたよ。」
「知ってる。しかし血のことはまだ云ふな。何か他のことを話して呉れ。歐羅巴は世界に二つの言葉を與へて、それを苦痛で封じ込んだ。第一が自由だ、第二が社會主義だ。しかし僕等は世界にどういふ言葉を與へたか?自由の名において、多くの血が流された。が、誰が自由を信ずるか?が、君は實際、社會主義が地上の天國だと信ずるか?愛の名において、愛の爲めに、誰が火刑柱に上つたか?人々が自由になり、子供が食に飢えず、母が泣き悲しまないだけでは充分ではないと、僕等のうちの誰かこれまで敢《あ》えて言つたか?それよりもつと以上に、彼等がお互に相愛する必要が、大いなる必要があるんだ。神は彼等共に在り、彼等の心の中に在らねばならんのだ。それだのに、その神と愛を、彼等は忘れてゐる。しかしマルタは眞理の分でしかない。あとの半分はマリアだ。僕等のマリアは何處に居るか?一つの大きな道の爲めに、今や戰はれてゐる、僕は强くそれに信頼する。それは百姓の道だ。凡てのキリスト教徒の道だ、實にそれは、キリストの道なんだ。それは神の爲めに、愛の爲めに、戦はれてゐるんだ。人々は釋放たれ、食を與えられ、愛の生命は彼等のものとなるだろう。僕もまた、吾々は神の民だといふことを、信ずる。愛が吹き込まれ、キリストがその中につてゐるのだ。僕等の言葉は、復活の言葉だ、主よ、甦れ!……僕等の信仰は小さい、僕は小供のやうに弱い。それだから僕等は劍を執《と》るんだ。僕等が劍を振廻すのは、力がある爲ぢやない。僕等の弱さと僕等の恐怖とからなんだ。しかしながら明日来る者を待て。彼は純なる者だ。彼等は劍を要しない。彼等は强い。が、彼等の來る前に、僕等は死ぬだらう。そして僕等の小供のその孫が神を愛するであらう。彼等は神のうちに生き、キリストを讃美するであらう。新しい世界が彼等に啓らけ、彼等はその中に、僕等が現在見ることの出来ないものを、見出すてあらう。……そして、おゝ、ヂヨーヂ!今日は復活祭の日曜日だ。キリストは甦つた!せめて今日一日だけで僕等の傷《きず》を忘れやう。そしてお互に眼を打合ふことを止《よ》そう……」
 彼は、新しい考が突然思ひ浮んだやうに、寧ろ不意に止《や》めた。
「どうしたんだ、ヴァニア?何か云はうとしてるたんぢやないか?」
「君に云ふがねぇ。鎖を斷ち切ることは不可能だ。僕には他の途はないんで、全く何にも。僕は殺しに行く、しかし僕は福音を信する、キリストを讃へる。おゝ、苦痛だ!」
 居酒屋は、お祭りを祝つた酒醉ひの喧騒で滿たされてゐた。ヴアニアは卓子掛の上に頭を低く垂れかけて待つてゐた。私は何をすることが出来たか・・・手綱《たづな》で彼の眼を打つことか?

・写真は、「集合写真の断片。ボログダでの若きサヴィンコフ(Wikipedia より)
・著者・訳者とも著作権は消失している。

後退りの記(016)

◎モンテーニュとアンリ四世
◯堀田善衞「ミシェル 城館の人」
◯ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

一瞬だが、歴史が澱んだ日に寄せる

 1580年は、モンテーニュとアンリ四世にとって特別な年であったようだ。モンテーニュは、生涯唯一の外国旅行に出かける。アンリ四世にとっては、4年前にパリ宮廷を脱出に成功、ようやく未来に一筋の光明が見えてきた。三人のアンリの戦いは、これからだったが…

「われわれのミシェルは、一五八〇年六月二十二日に彼の城館を出て、北東フランス、ドイツ、スイス、オーストリアを経てイタリアへの、十七カ月にもわたる旅に出た。」

「人生は、旅なり」が、彼に似つかわしいが、「公務」以外の実際の旅の経験は、意外と少ない気がする。今週(2024年7月7日付け)の赤旗日曜版で池澤夏樹さんが、「動く作家」の代表として、堀田善衛を挙げているが、この旅行で、わがミッシェルは、「動く作家」として、一段と深化を遂げたことは間違いないだろう。

〈旅行は私にとって有益な訓練であるように思われる。精神は未知のもの、新奇なものを見て、絶えず修業をする。また、しばしば言ったように、生活を形作って行くには、精神に絶えず多くの異った生活や思想や慣習を見せ、われわれの人間性がつねに様々に変化して、形をつくって行くものであることを味わわせること以上に、よい教育はないと思う。そうしてやれば、肉体も暇をもてあましもしなければ、疲れすぎもしない。いや、適度の運動は肉体を生き生きと息づかせる。私は結石病みではあるが、八時間から十時間は、馬に乗ったままでいても苦痛を感じない。〉

堀田善衞. ミシェル 城館の人 第三部 精神の祝祭 (集英社文庫) より

 旅行の直前、1580年に「エセー」初版を上梓し、アンリ四世に献呈したモンテーニュは、アンリ四世と二度目の邂逅をはたす。(このあたりは、多分、ハインリッヒ・マン特有のフィクションであろう。ただ、プロテスタントの盟主であった、アンリ四世に与することは、モンテーニュにとって、命がけの行動であったには確かであろう。今日《こんにち》、フランスにおいて、極右政権阻止のために、中道勢力が、左派の「ヌーボー・フロン」と選挙協定を締結したことに例えられようか?とまれ、その証拠に、「エセー」が、ローマ・カトリックによって「禁書」と断罪される憂き目に遭っているのが、なによりの証拠であろう。)

「『何をわたしが知っていよう』(ク•セ•ジュ)とアンリは言葉をはさんだ。二人が最初に言葉をかわして以来、それは彼が忘れたことのないものだった。今それが折よく彼の口からもれたのだった。モンテーニュはそれを否定しなかった。彼は頭をふりながら、神を前にしてはそう言わなくてはならぬ、とだけ言った。われわれはもとより神の知をわかちあうものではない。それだけにわれわれは、 地上のことに通じる定めをもっている。節度と懐疑をもってすれば、地上のことは大方理解ができよう。『均衡のとれた中庸の人物をわたしは愛する。度をこえることは善においてもほとんどいとうべきものだ。ともかくも、無節度はわたしの言葉をふさいでしまう。これに対してはわたしは言葉をもたない。』(「エセー」第一巻第三十章)」

「アンリは去ってゆく人(モンテーニュ)を追って、もう一度彼をいだき、その耳もとで言った。『わたしには作品はない。しかし作品をしあげることができる。』」

ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」より

 図左は、モンテーニュのイタリアなどの旅の軌跡。「モンテーニュの旅」 から収録した。 図右は、「エセー」へのモンテーニュの書き込み

旅の内容は、機会があれば投稿する。

読書ざんまいよせい(019)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(005)

 新米の知事が属僚に向って演説をした。商人を集めて演説をした。女学校の卒業式で、教育の真義について演説をした。新聞の代表者に演説をした。ユダヤ人を集めて、「ユダヤ人よ、余が諸君の参集を求めたのは……。」一と月たち二た月たつが仕事の方は何一つしない。また商人を集めて演説。またユダヤ人を呼んで、「ユダヤ人よ、余が諸君の参集を求めたのは……。」みんな飽々してしまった。とうとう彼は官房の長官に言う、「いや君、こいつは俺の手に合わんよ。辞職しちまおう!」

 田舎の神学校生徒が、ラテン語の糞勉強をする。半時間ごとに女中部屋へ駈け込んで、眼を細くして女中たちをつついたり抓《つね》ったりする。女中たちはキャッキャッと笑う。それからまた本に向う。彼はこれを「気分爽快法」と名づけている。

 知事夫人が、例の役人を招んでチョコレートを一杯御馳走した。この声の細い男は、彼女の崇拝者だ。(胸にぶら下げた肖像)。彼はそれから一週間というもの幸福な気分を味う。彼は小金を蓄めていて、無利子でそれを貸していた。――「貴女にはお貸し出来ませんな。貴女のお婿さんがカルタで擦ってしまうでしょう。いや、それだけは御免を蒙ります。」知事の娘というのは、いつか毛皮頸巻《ボア》をして劇場のボックスに納まっていた女だが、その夫がカルタに負けて官金を使い込んだのだ。鯡《にしん》でヴォトカをやるのに慣れて、ついぞチョコレートというものを飲んだことのない役人は、チョコレートのお蔭で胸が悪くなる。知事夫人の顔に浮んでいる表情、「私、可愛らしいでしょう。」身仕舞いに大そうな金をかけて、それを見せびらかす機会――夜会の開催を、いつも待ち焦れている夫人だった。

 妻君を連れて巴里へ行くのは、サモヴァル持参でトゥーラ*へ行くのと同じさ。
*欧露の都会。サモヴァルなどの金属手工業で有名。

 インテリの地主一家の治療に招かれて、毎日その邸に通った。お金で払うのは工合が悪いので、その家では亭主へ服を一着贈ってよこして、彼女を大いに無念がらせた。長々とお茶を飲んでいる夫を見ると、彼女は癇癪が起きて来るのだった。夫と一緒に暮すうち、彼女はやつれて器量が落ちて、意地の悪い女になる。地団太を踏んで、夫をどなりつける、「あたしを離縁してお呉れ、この碌でなし!」夫が憎くてならなかった。彼女が働いて、謝礼は夫が受取るのである。彼女は県会の医員だから、謝礼を受ける訳には行かないのだ。知合いの人達が亭主の人物を見抜いて呉れず、やっぱり思想のしっかりした男だと思っているのが、彼女は忌々しかった。

 青年が文学界にはいって来ないというのは、その最も優れた分子が今日では鉄道や工場や産業機関で働いているからである。青年は悉く工業界に身を投じてしまった。それで今や工業の進歩はめざましいものがある。

 女がブルジョア風を吹かす家庭には、山師やぺてん師やのらくら者が育ち易い。

 教授の見解。――大切なのはシェークスピヤではなく、これに加えられる註釈なり。

 来るべきジェネレーションをして幸福を達せしめよ。だが彼等は、彼等の父祖が何のために生き、何のために苦しんだかを自問せねばならぬ。

 愛も友情も尊敬も、何物かに対する共通の憎悪ほどには人間を団結せしめない。

 十二月十三日。工場の女主人に会った。これは一家の母であり、富裕なロシヤ婦人だが、ついぞロシヤで紫丁香花《ライラック》を見たことがないという。

 手紙の一節。――「外国にいるロシヤ人は、間諜かさもなければ馬鹿者だ。」隣の男は恋の傷手を癒しにフロレンスへ行く。だが遠くなるほど益々恋しくなるものだ。

 ヤルタ*。美貌の青年が四十女に好かれる。彼の方は一向に気がなく、彼女を避けている。彼女はさんざ思い悩んだ挙句、腹立ちまぎれに彼についての飛んだ醜聞を言い触らす。
*クリミヤ半島にある避暑地。

 ペトルーシャの母親は、婆さんになった今でも眼を暈《くま》どっていた。

 悪徳――それは人間が背負って生れた袋である。

 Bは大真面目で、自分はロシヤのモーパッサンだと言う。Sも同じ。

 ユダヤ人の姓。――Chepchik《プロチョール》*.
*小さな頭巾。

 魚が逆立ちしたような令嬢。口は木の洞みたいで、つい一銭入れて見たくなる。

 外国にいるロシヤ人。――男はロシヤを熱烈に愛する。女の方はじきにロシヤを忘れて一向に愛さない。

 薬剤士Protior*.
*「眼を擦《こす》った」というほどの意。

 RosaliaOssipovnaAromat《ロザーリア オシポヴナー アロマート》*.
*「花咲く小薔薇」と「芳香」を組合せた女の姓名。

 物を頼むには、金持よりは貧乏人の方が頼みいい。

 で彼女は春をひさぐことになって、今ではベッドの上で寝る身分だった。零落した叔母さんの方は、そのベッドの足もとに小さな毛氈を敷いて臥せって、嫖客《おきゃく》がベルを鳴らすと跳ね起きるのだった。お客が帰るとき、彼女は嬌羞を浮べて、科《しな》を作って言うのだった。
「女中にも思召しを頂かしてよ。」
 そして時おり十五銭玉をせしめた。

 モンテ・カルロの娼婦たち、いかにも娼婦らしいその物腰。棕櫚も娼婦みたいな感じ。よく肥った牝鶏も娼婦みたいな感じ。……

 独活《うど》の大木。ペテルブルグの産婆養成所を出て助医の資格をとったNは、思想《かんがえ》のしっかりした娘である。それが教師Xに恋した。つまり彼もやはり思想《かんがえ》のしっかりした男で、日ごろ彼女の大いに愛読している小説ごのみの刻苦精励の人だと思ったのである。そのうち次第に、彼が酒喰いののらくら者で、お人好しの薄野呂だということが分って来た。学校を首になると、彼は女房の稼ぎを当てにして居候暮しをやりだした。まるで肉腫《サルコマ》みたいな余計者で、彼女を搾り尽すのだった。或るとき彼女は、インテリの地主一家の治療に招かれて、毎日その邸に通った。お金で払うのは工合が悪いので、その家では亭主へ服を一着贈ってよこして、彼女を大いに無念がらせた。長々とお茶を飲んでいる夫を見ると、彼女は癇癪が起きて来るのだった。夫と一緒に暮すうち、彼女はやつれて器量が落ちて、意地の悪い女になる。地団太を踏んで、夫をどなりつける、「あたしを離縁してお呉れ、この碌でなし!」夫が憎くてならなかった。彼女が働いて、謝礼は夫が受取るのである。彼女は県会の医員だから、謝礼を受ける訳には行かないのだ。知合いの人達が亭主の人物を見抜いて呉れず、やっぱり思想《かんがえ》のしっかりした男だと思っているのが、彼女は忌々しかった。

 若い男が百万マーク蓄めて、その上に寝てピストル自殺をした。

「その女」……「僕は二十《はたち》のとき結婚して以来、生涯ヴォトカ一杯飲んだことも、煙草一本喫ったこともありません。」そういう彼が他に女をこしらえると、世間の人は反って彼を愛しはじめ、今までよりも信用するようになった。街を歩いても、皆が今までより愛想よく親切になったのに彼は気づくのだった――罪を犯したばかりに。

 結婚するのは、二人ともほかに身の振り方がないからである。

 国民の力と救いは、懸ってそのインテリゲンツィヤにある。誠実に思想し、感受し、しかも勤労に堪えるインテリゲンツィヤに。

 口髭なき男子は、口髭ある婦人に同じ。

 優しい言葉で相手を征服できぬような人は、いかつい言葉でも征服はできない。

 一人の賢者に対して千人の愚者があり、一の至言に対して千の愚言がある。この千が一を圧倒する。都市や村落の進歩が遅々としている所以である。大多数、つまり大衆は、常に愚かで常に圧倒的である。賢者は宜しく、大衆を教化しこれを己れの水準にまで高めるなどという希望を抛棄すべきだ。寧ろ物質力に助けを求める方がよい。鉄道、電信、電話を建設するがよい。そうすれば彼は勝利を得、生活を推し進め得るだろう。

 本来の意味での立派な人間は、確乎として保守主義的な乃至は自由主義的な信念を抱く人々の間にのみ見出されるだろう。いわゆる穏健派に至っては、賞与や年金や勲章や昇給に著しく心を惹かれがちである。

 ――あなたの叔父さんは何で亡くなったのです?
 ――医者の処方はボトキン氏下剤*を十五滴となっていたのに、十六滴のんだのでね。
*極めて無害な緩下剤。

 大学の文科を出たての青年が郷里の町へ帰って来る。そして教会の理事に選挙される。彼は神を信じているわけでもないが、勤行《おつとめ》には几帳面に出て、教会や礼拝堂の前を通るときは十字を切る。そうすることが民衆にとって必要であり、ロシヤの救いはそれに懸っていると考えたからである。やがて郡会の議長に選ばれ、名誉治安判事に選ばれ、勲章を貰い、たくさんの賞牌を受けた。――さていつの間にか四十五の年も過ぎたとき、彼ははっとして、自分がこれまでずっと身振狂言をやって来たこと、道化人形の真似をして来たことを悟った。だが既に生活を変えるには晩かった。或る夜の夢に、突然まるで銃声のような声がひびいた――「君は何をしている?」彼は汗びっしょりになって撥ね起きた。

読書ざんまいよせい(018)

◎正岡子規スケッチ帖(002)

初|南瓜《かぼちゃ》
六月二十八日雨

青空文庫・夏目漱石「子規の畫」より
図は、漱石に寄せた子規の絵 東京都足立区綾瀬美術館HPより

子規の文は、
「コレハ萎ミカケタ処ト思ヒタマヘ
画ガマヅイノハ病人ダカラト思ヒタマヘ
嘘ダト思ハバ肘ツイテカイテ見玉ヘ」

短歌は「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰りくるかね」
参考】「正岡子規スケッチ帖」(復本一郎編)岩波文庫

読書ざんまいよせい(017)

◎正岡子規スケッチ帖(001)

 「正岡子規スケッチ帖」を購入、木下杢太郎とは違った趣きもあり、眺めていて飽きない。余力があれば、少しづつ紹介する。
 図は、岩波文庫表紙以外は、「国会図書館デジタルコレクション」から、転載した。また岩波文庫での注釈は、一切省略した。

— ここから —
これは蘇山人《ろさんじん》が支那に赴くとき持ち来《きた》りて何か書けと言ひて残し置きし帖なり 其《その》後蘇山人逝きて此《ここ》帖に主なし 乃《すなわ》ち取りて病牀いたづらが(書)きの用に供す 名づけて菓物帖といふ 中に為山《いざん》子の筆に成れる者二枚あるは初めより画《か》きありし也
  明治三十五年七月十六日  病子規

青梅 明治三十五年 六月二十七日雨

参考】「正岡子規スケッチ帖」(復本一郎編)岩波文庫

読書ざんまいよせい(016)

◎バルザック・小西茂也訳「ゴリオ爺さん」(002)

長文です!

 生々しい苦惱と、とかくは空ろな喜びとに溢れたこの谷底は、それこそ恐ろしいまでに動搖を呈してゐたので、幾分なりとも長續きのする感動を、そこに惹き起こさうがためには、何か途方もないやうなものをでも、持ち出さなければならないだろう。しかも、そこには惡德と美德とがよりかたまつて、由々しいどえらいものとなつた苦惱が、あちらこちらに轉がつている。それに接したら利己心も射倖心も、佇立してそぞろ憐れを催さずにはゐられまい。だがそうした際に覺える感銘とても、かぐはしい果實のように、たちまち食らいつくされてしまうのである。文明の車は、かのジャッゲルナットの山車*と同じで、よしんば餘人のようにやすやすとは轢き碎きがたい心をその轍にかけるにしても、車輪の回轉速度をやや緩めたと思ふまもあらばこそ、たちまちにもそんなものは壓し潰し去つて、勝ちほこつた步みをなほも續けてゆくのである。
*〔印度クリシュナ神像を載せる車。往時迷信者は喜んで身をその轍の下に投じ極樂往生を遂げたといふ。〕
 讀者諸君もこの車と同じように、きつと振舞われることだろう。諸君はこの本をその白い手にとつて、「こいつ面白さうだぞ」と呟きながら、ふくよかな肱掛椅子に深々と身を沈められる。そしてゴリオぢいさんの人知れぬ不運話を讀み終えてから、お手前の無感動は棚にあげ、ひとへに作者をけしからぬものにして、やれ誇張にすぎるの、詩的空想に墮してゐるなどと、おとがめ立てになりながら、夕食の卓に向はれて健啖ぶりを示されることだらう。ああ! だがしかと心得おかれたい。このドラマは作りごとでもなければ、お話でもないのである。オール・イズ・トルーだ。してその正眞正銘さといつたら、誰でもが各自の家のなか、おそらくはまたその心の奧深くに、このドラマの要素を認めることが出來るに違ひはないくらゐなのだ。
 さて、この下宿館につかわれている建物は、ヴォーケル夫人の持家である。ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの下手、ちやうど界隈の地形がラルバレート街のほうへ、馬匹もめつたに上り下りせぬほどの急な險しい傾斜をなして、落ちかかろうとしているあたりにある。こうした地勢のおかげで、ヴァル・ド・グラースの圓屋根《ドーム》とパンテオンのそれとの間におしつめられたこれら町々には、あたり一帶に靜寂がみなぎつているのだが、この二つの記念建造物から投ぜられる黃ばんだ色調のため、まわりの雰圍氣もさま變つて、圓屋根の放ついかめしい色合いは、界隈一帶をいかにも陰氣くさいものにしてゐる。そこいらの舖石も乾き上り、溝には泥も水もなく、塀にそつて雜草が生い繁つている。どんな呑氣な人閒でも、ここらを通りかかれば皆と同じようにやつぱり氣が滅入りこんでしまうだろう。馬車の音でさえここでは一つの事件となる。どの家も暗くじめじめとして、庭塀は牢獄を思はせる。ひょつこりと迷ひこんできたパリ人が、ここらあたりで見かけるものといつたら、賄つきの下宿屋か學校か病院、貧窮か倦怠、死に瀕した老殘の姿か、苦役を强ひられる華やかなるべき靑春のさまなどであらう。パリのどこの界隈でもこれほど陰慘で、そして敢て言うならば、これほど人に知られないところはないだろう。わけてもこのヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りは、この物語をはめこむブロンズの額緣としては、何よりふさはしい唯一のものである。しかもこの物語たるや、どんなにくすんだ色合いや沈重な思索で、著者が讀者の頭を準備しておいても、けつして過ぎるということはあるまい。それはちょうど地下墓所《カタコム》のなかに旅人が降りて行くとき、一段ごとに日の光が薄れ、案內者の歌聲が次第に洞にひびいてゆくのと同じである。まつたくこれはぴつたりとした比喩だと思ふ。空洞の頭蓋骨と、ひからびきつた心と、さてどちらが見て怖ろしいか、誰にそれが決められよう?
 この下宿屋の正面閒口は小庭に面し、建物はちやうどヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りと直角をなしているので、奧行はすつかり消されてしまつている。正面閒口に添つて、ちやうど建物と小庭との間に、小砂利を敷いた、幅一間あまりの水盤狀の空地があり、その前方の砂を敷いた小徑の兩傍には、天竺葵や夾竹桃や石榴などが植わつた、靑や白の大きな陶器鉢が竝べてある。この小徑に通じている中型の門には、一枚の看板が揭げてあり、それには「メゾン・ヴォーケル」、そしてその下のほうには「男女其他御下宿」と麗々しく書かれてあつた。
 甲高い呼鈴がとりつけられた格子門のあいだから、小さな舗道の突き当り、ちょうど通りに面した突き当りの壁の上に、界隈の画家の筆になる、緑の大理石まがいのアーチ門を、昼間ならのぞき見ることができるだろう。絵筆でごままかしていかにも神龕《ずし》みたいにしてあるその下に、キューピッドの像が立っている。もっとも像の塗料も剥げちょろけになっているが、それを見て象徴趣味を好む手合いは、そこから程遠からぬところで治療されているパリ社交病〔パリ社交病はそこからほど近いサン・ジャック新町にあったカピュサン病院(ミディ病院)で治癒されていた〕の神話をでも、きっとそこに読みとることだろう。像の台座の下にある、なかば消えかけた次のような碑銘は、一七七七年パリに帰ったヴォルテールにたいして示された熱誠のほどを披瀝《ひれき》し、この装飾物の由緒ある年代を偲ばせている。

 人なべて知れ、汝の主《あるじ》はキューピッドぞ
 彼は主なり、かつて主なりき、なお主たるべし

 夜になると格子門は完全な門に置き替えられた。正面間口と同じ長さを幅にしている小庭は、通りの庭塀と隣家の仕切塀とに囲まれていた。常春藤《きづた》のマントが隣家には一面に垂れかかっておおいつくし、パリの町なかだけに、それは絵のような効果をあげて、道行く人々の眼を惹いていた。どの塀も樹檣《じゅしょう》となった果樹や葡萄樹でおおわれ、その埃りっぽいひょろひょろした果実の実り具合はヴォーケル夫人の年々の懸念の種であり、下宿人相手の好個の話題となっていた。庭の両塀に添って、狭い小径が菩提樹《チュール》の木立にと通じてくる。コンフラン家の生まれながらヴォーケル夫人は、下宿人たちの再三の文法上的注意にもかかわらず、頑としてチュイユとそれを発音して止まなかった。左右の両小径の間に、円錐形に仕立てられた果樹の寄り添った朝鮮|蘇《あざみ》の方形花壇があって、その周囲はすかんぽ、ちしゃ、ぱせりなどで縁取られていた。菩提樹の木立の下には、緑色の円テーブル、腰掛がそのまわりにはおかれてあった。土用の候になると、コーヒー代ぐらいには事欠かぬ程度の客人たちが、卵もかえりそうな炎暑のさなかを、ここまでコーヒーを啜《すす》りに出張《でば》って来る。
 正面建物は四階建てで、その上に屋根裏部屋がある。総体粗石づくりで黄色く塗りつぶされているが、パリのほとんどすべての家屋敷が、不名誉の凶相をかく呈しているというのも、もっぱらかかる黄色塗りのせいである。小さなガラスのはまった五つの開き窓が、正面の各階にはあって、それぞれにブラインドが取り付けられてあるが、それが思い思いの揚げ方をしているので、いっせいに並ばずに妙にちぐはぐである。建物の側面には各階に窓が二つずつ、一階のそれには金網張りの鉄格子が、飾りとしてついている。建物の裏手には、およそ三間幅ほどの中庭があり、豚、鶏、兎などが、仲よくそこに暮らしている。突き当りには薪をしまう物置小屋があって、物置と調理場の窓の間には肉類を入れる容器が吊してあり、その下を流し場の脂ぎった汚水が流れてゆく。この中庭にはヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに面した狭い小門がついていて、悪臭は真平御免とばかり炊事女は、この汚水溜にざぶざぶと水を注いで、家うちの汚物を門から外へと掃き落してしまっている。
 もちろん、一階は下宿営業用にあてられていて、そのとっつきの部屋は、通りに面した二つの窓から採光し、ガラス張りのドアで出入りするようになっている。このサロンにすぐ続いた食堂は、階段口で調理場から隔てられている。階段は蝋引きの着色タイルと木とでできている。艶のあるのとないのとで、互い違いの縞模様に織られた粗毛織の肱掛椅子や腰掛が、ずらり備えつけられたこのサロンほど、見る目にもの悲しい眺めはまたとないであろう。中央には灰白のサント・アンヌ大理石をはった丸テーブルがあり、その上には今日到るところに見受けられる白磁のコーヒーセットの、金の網目模様もなかば消えかかったやつが、飾りとしておかれてある。床張りの粗悪なこの部屋は、肱の高さぐらいまで、腰羽目が張られている。残りの壁の部分には、テレマークの主要場面を描いた、ワニス塗りの壁紙が貼ってあり、その古典的人物にはいずれも彩色が施してある。鉄網を張った窓と窓との間の鏡板には、ユリシーズの息子のためにカリプソが催した饗宴の図が、下宿人たちの展覧に供されている。四十年来この絵は、若い下宿人たちの冗談の種になって来た。懐《ふとこ》ろが淋しいのでやむなく忍んでいる下宿の飯を自嘲して、いつまでもこんな境遇に甘んじている身ではないと、思い上っていたからである。石の暖炉の焚き口がいつも綺麗なのは、よっぽどの特別な場合でもなければ、火がたかれぬことを現わしていた。暖炉棚には丸笠をかぶせた古ぼけた造花が、二つの花瓶に仰山に挿してあり、その近くにはいとも悪趣味な青大理石の置時計が飾りとしてでんと据えおかれていた。
 このサロンの発散する匂いといったら、およそ言葉では言い表わしようがないが、強いて言ったら、「下宿屋の匂い」とでも評すべきものだろう。むっとしてかびくさく、腐った脂肉のような悪臭、ひやっとし、鼻にしめっぽく、衣服にまで浸み込むていの匂い、食べ終ったあとの部屋の匂い、調理場、食器室、遍路宿泊寺の匂い。老若下宿人めいめいからの、「その独特な」カタル性の発散気が放つ、嘔吐を催すようなこうした臭気の成分を、検定する方法でももし発見されたなら、おそらくかかる匂いをも描破することを得よう。だがなんと、こんな平俗ないとわしさを覚えるサロンではあったが、これでもお隣の食堂にくらべたら、まだしも貴婦人方の紅閨《こうけい》のように、優雅で香り高いものとも申せることが、おわかりになられよう。
 その食堂たるや、すっかり羽目板づくりになっている。もとは何かの色で塗られてあったのであろうが、今はもうさだかではない。その地色の上を、塵垢が層をなして、奇怪な模様を描いている。壁わきのねばつくような食器戸棚の上には、切子の曇りガラスの水差し、波紋形のついた錫《すず》のお盆、青い縁とりをしたトゥールネ焼の厚手の磁器皿の一かさねなどがのっていた。片隅にある箱には、番号のついた仕切りがついていて、汚れたり、葡萄酒のしみがついたりした下宿人たちのナプキンが、そこにはしまわれている。よそだったらどこでもお払い箱の、ぶっこわしてもぶっこわれぬ家具類が、ここには陣取っていて、まるで養老院における文明の敗残者たちといった恰好で控えている。部屋には雨が降るとカプシン僧の人形が、顔を出してくる晴雨計があり、食欲も失わさせられるような俗悪な版画が、金線の入った漆塗りの木框にあちこちおさまり、銅の象嵌をした鼈甲《べっこう》型の掛時計、緑色のタイルの陶器製ストーブ、埃と油とが一緒についたアルガン式のケンケ洋灯。それにまた、細長い食卓の上の蝋引のテーブルクロスといったら、すっかり脂がしみついていたので、外から飯だけ食いにくる悪戯好きの病院助手だったら、外科用のメスでのように指をつかって、自分の名をそこに、書きとめることもできたであろう。それからまたびっこな椅子、スパルト繊維でできたみじめったらしい小さなわらマット、こいつはいつも巻きが戻ってしまっていたが、ついぞその姿を消したことがない。それに穴があき、蝶番《ちょうつがい》ははずれ、木も黒こげになった見る影もない足|炬燵《ごたつ》。これらの家具調度がどんなにおいぼれて、ひびだらけで、腐りはて、ぐらぐらにむしばまれ、片輪で片目でよぼよぼで、気息えんえんたるありさまであるか、それを逐一説明するには、およそ事詳しい描写が必要となるのであるが、それではあまりにもこの物語の興趣が殺《そ》がれ、せっかちな読者諸君はご容赦になってはくださるまい。
 磨りへったためか、それとも色塗りしたためか、床の赤いタイルはくぼみだらけである。そんなわけでここに君臨しているのは、詩情のない貧窮といってよい。鬱積した、擦り切れきった貧窮である。まだ泥にこそまみれてはいないが、しみだらけの貧窮である。穴もつづれもない貧窮ながらに、いまにも腐ってしまいそうなそれである。
 この食堂がもっともその光彩を放つのは、午前七時ごろ、ヴォーケル夫人の飼猫がご主人より先に現われて、食器戸棚の上に跳びあがり、小皿でそれぞれ蓋をしたお碗のなかの牛乳を嗅ぎまわって、ごろごろ朝方の咽喉ならしをする一時であろう。まもなくお女将《かみ》も姿を現わす。きざったらしくかぶったツル織の布帽の下からは、入毛の付髷《かもじ》がゆがんではみ出ている。しわだらけにすぼまったスリッパを、足に引きずってだ。老けた小肥りの顔の中央には、おうむのくちばしのような鼻が出張っている。小さなぽっちゃりした手、教会にしげしげ通う信心家のようにでっぷりとした物腰恰幅、充溢しきって波を打っている胴着、そういったすべては、打算心がうずくまり、わざわいが泄ってきているこの部屋と、ぴったり調和をかもし出していた。ヴォーケル夫人は、生暖かいむっとする部屋の悪臭を吸っても、いっこうに胸も悪くせられないもようだった。秋の初霜のようなお女将の冷ややかな顔立ち、しわの寄った眼もと、踊子の作り笑いから、手形割引業者の苦い渋面にまでもかわるその表情具合、いってみれば夫人の人体《にんてい》のすべてが、この下宿屋を解明しつくしていること、下宿がお女将の人柄を含有しているがごとくにであった。そういえば徒刑場も看守なしにはすまされない。そのどちらかを抜きにしたら、そのものの想像はできないだろうからだ。背の低いこの青ぶくれの夫人は、こうした生活環境の所産だったのだ。ちょうどチフスが病院の発散空気の結果であるように。毛編みの下袴《したばき》が、上着のお古でつくったスカートからはみ出し、ひびいった布地のほころびから、綿がのぞき出しているといったそのあんばいは、よくこのサロンや食堂や小庭を、端的に表現するものであり、それは料理場をも予告し、あわせて下宿人たちをも予覚せしめている。されば夫人がその姿を見せてはじめて、この場の光景もここにその全きを得るわけである。
 正面建物は四階建てで、その上に屋根裏部屋がある。総体粗石づくりで黄色く塗りつぶされているが、パリのほとんどすべての家屋敷が、不名誉の凶相をかく呈しているというのも、もっぱらかかる黄色塗りのせいである。小さなガラスのはまった五つの開き窓が、正面の各階にはあって、それぞれにブラインドが取り付けられてあるが、それが思い思いの揚げ方をしているので、いっせいに並ばずに妙にちぐはぐである。建物の側面には各階に窓が二つずつ、一階のそれには金網張りの鉄格子が、飾りとしてついている。建物の裏手には、およそ三間幅ほどの中庭があり、豚、鶏、兎などが、仲よくそこに暮らしている。突き当りには薪をしまう物置小屋があって、物置と調理場の窓の間には肉類を入れる容器が吊してあり、その下を流し場の脂ぎった汚水が流れてゆく。この中庭にはヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに面した狭い小門がついていて、悪臭は真平御免とばかり炊事女は、この汚水溜にざぶざぶと水を注いで、家うちの汚物を門から外へと掃き落してしまっている。
 もちろん、一階は下宿営業用にあてられていて、そのとっつきの部屋は、通りに面した二つの窓から採光し、ガラス張りのドアで出入りするようになっている。このサロンにすぐ続いた食堂は、階段口で調理場から隔てられている。階段は蝋引きの着色タイルと木とでできている。艶のあるのとないのとで、互い違いの縞模様に織られた粗毛織の肱掛椅子や腰掛が、ずらり備えつけられたこのサロンほど、見る目にもの悲しい眺めはまたとないであろう。中央には灰白のサント・アンヌ大理石をはった丸テーブルがあり、その上には今日到るところに見受けられる白磁のコーヒーセットの、金の網目模様もなかば消えかかったやつが、飾りとしておかれてある。床張りの粗悪なこの部屋は、肱の高さぐらいまで、腰羽目が張られている。残りの壁の部分には、テレマークの主要場面を描いた、ワニス塗りの壁紙が貼ってあり、その古典的人物にはいずれも彩色が施してある。鉄網を張った窓と窓との間の鏡板には、ユリシーズの息子のためにカリプソが催した饗宴の図が、下宿人たちの展覧に供されている。四十年来この絵は、若い下宿人たちの冗談の種になって来た。懐《ふとこ》ろが淋しいのでやむなく忍んでいる下宿の飯を自嘲して、いつまでもこんな境遇に甘んじている身ではないと、思い上っていたからである。石の暖炉の焚き口がいつも綺麗なのは、よっぽどの特別な場合でもなければ、火がたかれぬことを現わしていた。暖炉棚には丸笠をかぶせた古ぼけた造花が、二つの花瓶に仰山に挿してあり、その近くにはいとも悪趣味な青大理石の置時計が飾りとしてでんと据えおかれていた。
 このサロンの発散する匂いといったら、およそ言葉では言い表わしようがないが、強いて言ったら、「下宿屋の匂い」とでも評すべきものだろう。むっとしてかびくさく、腐った脂肉のような悪臭、ひやっとし、鼻にしめっぽく、衣服にまで浸み込むていの匂い、食べ終ったあとの部屋の匂い、調理場、食器室、遍路宿泊寺の匂い。老若下宿人めいめいからの、「その独特な」カタル性の発散気が放つ、嘔吐を催すようなこうした臭気の成分を、検定する方法でももし発見されたなら、おそらくかかる匂いをも描破することを得よう。だがなんと、こんな平俗ないとわしさを覚えるサロンではあったが、これでもお隣の食堂にくらべたら、まだしも貴婦人方の紅閨《こうけい》のように、優雅で香り高いものとも申せることが、おわかりになられよう。
 その食堂たるや、すっかり羽目板づくりになっている。もとは何かの色で塗られてあったのであろうが、今はもうさだかではない。その地色の上を、塵垢が層をなして、奇怪な模様を描いている。壁わきのねばつくような食器戸棚の上には、切子の曇りガラスの水差し、波紋形のついた錫《すず》のお盆、青い縁とりをしたトゥールネ焼の厚手の磁器皿の一かさねなどがのっていた。片隅にある箱には、番号のついた仕切りがついていて、汚れたり、葡萄酒のしみがついたりした下宿人たちのナプキンが、そこにはしまわれている。よそだったらどこでもお払い箱の、ぶっこわしてもぶっこわれぬ家具類が、ここには陣取っていて、まるで養老院における文明の敗残者たちといった恰好で控えている。部屋には雨が降るとカプシン僧の人形が、顔を出してくる晴雨計があり、食欲も失わさせられるような俗悪な版画が、金線の入った漆塗りの木框にあちこちおさまり、銅の象嵌をした鼈甲《べっこう》型の掛時計、緑色のタイルの陶器製ストーブ、埃と油とが一緒についたアルガン式のケンケ洋灯。それにまた、細長い食卓の上の蝋引のテーブルクロスといったら、すっかり脂がしみついていたので、外から飯だけ食いにくる悪戯好きの病院助手だったら、外科用のメスでのように指をつかって、自分の名をそこに、書きとめることもできたであろう。それからまたびっこな椅子、スパルト繊維でできたみじめったらしい小さなわらマット、こいつはいつも巻きが戻ってしまっていたが、ついぞその姿を消したことがない。それに穴があき、蝶番《ちょうつがい》ははずれ、木も黒こげになった見る影もない足|炬燵《ごたつ》。これらの家具調度がどんなにおいぼれて、ひびだらけで、腐りはて、ぐらぐらにむしばまれ、片輪で片目でよぼよぼで、気息えんえんたるありさまであるか、それを逐一説明するには、およそ事詳しい描写が必要となるのであるが、それではあまりにもこの物語の興趣が殺《そ》がれ、せっかちな読者諸君はご容赦になってはくださるまい。
 磨りへったためか、それとも色塗りしたためか、床の赤いタイルはくぼみだらけである。そんなわけでここに君臨しているのは、詩情のない貧窮といってよい。鬱積した、擦り切れきった貧窮である。まだ泥にこそまみれてはいないが、しみだらけの貧窮である。穴もつづれもない貧窮ながらに、いまにも腐ってしまいそうなそれである。
 この食堂がもっともその光彩を放つのは、午前七時ごろ、ヴォーケル夫人の飼猫がご主人より先に現われて、食器戸棚の上に跳びあがり、小皿でそれぞれ蓋をしたお碗のなかの牛乳を嗅ぎまわって、ごろごろ朝方の咽喉ならしをする一時であろう。まもなくお女将《かみ》も姿を現わす。きざったらしくかぶったツル織の布帽の下からは、入毛の付髷《かもじ》がゆがんではみ出ている。しわだらけにすぼまったスリッパを、足に引きずってだ。老けた小肥りの顔の中央には、おうむのくちばしのような鼻が出張っている。小さなぽっちゃりした手、教会にしげしげ通う信心家のようにでっぷりとした物腰恰幅、充溢しきって波を打っている胴着、そういったすべては、打算心がうずくまり、わざわいが泄ってきているこの部屋と、ぴったり調和をかもし出していた。ヴォーケル夫人は、生暖かいむっとする部屋の悪臭を吸っても、いっこうに胸も悪くせられないもようだった。秋の初霜のようなお女将の冷ややかな顔立ち、しわの寄った眼もと、踊子の作り笑いから、手形割引業者の苦い渋面にまでもかわるその表情具合、いってみれば夫人の人体《にんてい》のすべてが、この下宿屋を解明しつくしていること、下宿がお女将の人柄を含有しているがごとくにであった。そういえば徒刑場も看守なしにはすまされない。そのどちらかを抜きにしたら、そのものの想像はできないだろうからだ。背の低いこの青ぶくれの夫人は、こうした生活環境の所産だったのだ。ちょうどチフスが病院の発散空気の結果であるように。毛編みの下袴《したばき》が、上着のお古でつくったスカートからはみ出し、ひびいった布地のほころびから、綿がのぞき出しているといったそのあんばいは、よくこのサロンや食堂や小庭を、端的に表現するものであり、それは料理場をも予告し、あわせて下宿人たちをも予覚せしめている。されば夫人がその姿を見せてはじめて、この場の光景もここにその全きを得るわけである。
 五十そこそこぐらいのヴォーケル夫人は、「よもの苦労をなめつくした女」のすべてに似たところがあった。ガラスのような眼玉をし、もっとよけいに玉代を払わせようとむきになる、遣手《やりて》婆さんの生《き》一本さがそこにはほの見えていた。しかも自分の運命をやわらげるためなら、どんなことだってやりかねぬ気象の女だった。もしも陰謀人のジョルジュなりピシュグリュ〔ジョルジュ・カドゥダルはブルターニュの王党派首領で、ナポレオン暗殺を企てて一八〇四年逮捕されて斬首。ピシュグリュ将軍もその連累者として同じ運命をたどった。『暗黒事件』参照〕なりが、いまだにお上に売り込めるものなら、すかさずやってのけたであろう。にもかかわらず、下宿人たちは、「根はいい女なのだが」とお女将のことを言っている。自分たちと同じようにお女将が泣きごとを言ったり、しゃくりあげたりするのを聞いて、めぐり合せの悪い人とばかり、思いこんでいたからである。亭主のヴォーケルとは、なにをしていた男だったのだろう? 亡夫のことをお女将は、ついぞ人に語り聞かせたためしがない。どうして亭主は破産したのだろう? 「不仕合せ続きでしてね」と、お女将はそれに答えていた。亭主は彼女にさんざんに苦労をかけ、その死後に遺したものといったら、泣くための眼と、住むためのこの家屋敷と、他人のどんな不幸にも同情するせきはない権利とをだけだった。なぜなら苦しめるったけの苦しみを、みんな自分は嘗めたのだからというのが、このお女将の通り文句であったから。
 女主人の小刻みな足どりを聞きつけて、でぶっちょの料理女シルヴィは、あわてて寄宿人たちの朝飯の仕度にとりかかった。外から食事をしにくる客は、概して夕飯の折だけで、これは月ぎめ三十フランの割りになっていた。
 この物語のはじまった当時、下宿人は総勢七人だった。二階にはこの家で最上の二組の部屋があり、その小さいほうにはヴォーケル夫人が住み、もう一つをフランス共和国政府陸軍出納支払官未亡人たるクーチュール夫人が占めていた。母親代りになって同夫人は、ヴィクトリーヌ・タイユフェルというごくうら若い娘と一緒に暮していた。この二婦人の下宿代は千八百フランに上った。三階の二部屋もふさがっていて、一方はポワレという老人、もう一方は四十がらみで黒いかつらをつけ、頬ひげも染めたヴォートランと名乗る、もとは商人だったとかいう男が住んでいた。四階は四つの部屋から成り、その二つが貸されていた。マドモワゼル・ミショノーという老嬢と、以前はそうめんやマカロニやうどんなどの製麺業者で、ゴリオ爺さんとみんなから呼ばれて甘んじている老人とが、それぞれそこに住んでいた。ほかの二部屋は渡り鳥も同様な連中、ゴリオ爺さんやミショノー嬢と同じく、賄費と間代をあわせて、月に四十五フランしか払えぬような貧乏学生にと用意されてあった。ヴォーケル夫人は書生を置くことをあまり喜ばず、他に適当なのがない場合にだけ、迎え入れていた。書生はパンを食べすぎるからである。
 ちょうどその頃、この二部屋の一つを、アングレーム近傍から法律の勉強にと、パリに上って来た一青年が借りていた。家族が多いので年に千二百フランの仕送りをするためには、彼の一家もそうとうな窮乏を忍ばねばならなかった。ウージェーヌ・ド・ラスティニャックというのが、その青年の名だったが、自分の逆境に発奮して、勉学へと志を立てた立身青年の一人で、双肩にかかった両親よりの嘱望のほどを年若くして彼は知り、学問のご利益をはやくも考え合せて、他日の立身栄達にそなえて、その学業の指針を社会将来の趨勢にあらかじめ順応させて、衆に先んじて社会を搾取してやろうという、年少気鋭の一人であった。
 好奇の念に燃えた彼の観察と、パリのサロンに入り込みおおせた巧みなその手腕とがなかったら、この物語もこれほど真実味のある色調で、彩りつくすことはできなかったであろう。まさしくこれ彼の鋭敏なる頭脳の働きと、慄然たる状況の秘密を看破しようとした、その願望に帰すべきものである。しかもこの状況たるや、それを作り出した人たちからも、またそれを忍従している者からも、ひた隠しに隠されているところのものであったが。
 四階の真上には洗濯物を吊して乾かす小室と、二つの屋根裏部屋とがあって、そこに下男のクリストフと、でぶっちょの炊事婦シルヴィとが寝泊りしていた。これら七人の下宿人のほかに、ヴォーケル夫人は法科や医科の学生たち、年にならして八名ばかりと、また近所に住み、夕御飯だけの契約の二三人の常連とをとっていた。だから夕飯時には、食堂に十八人ばかり集って来たが、二十人ぐらいまでは優に収容ができそうに見えた。しかし朝は七人の下宿人しか現われなかったので、朝飯のあいだのそのつどい具合といったら、家族たち内輪の食事時の観をば呈していた。それぞれに上靴のまま降りて来て、外から食事に来る連中の風采や態度、前夜の出来事などについて、ざっくばらんな意見が交され、水入らずの親しさでみんなは語りあっていた。これら七人の下宿人はヴォーケル夫人の駄々っ子たちだった。夫人はそれぞれの下宿料の額によって、その心尽しなり敬意なりを、さながら天文学者よろしくの精確さで測って、わかち与えておったのである。
 偶然の巡りあわせから、ここに同宿することになった七人も、それと同じような斟酌《しんしゃく》をはたらかせていた。三階の下宿人二人は、月に七十二フランしか払っていない。クーチュール夫人だけはべつとして、こんな安い下宿料は、ラ・ブールブ慈善産院とサルペトリエール女性救護院とのあいだにある、サン・マルセル通りでもなければ、とうていに見られない相場で、多少なりと目立つ不幸の重荷の下に、これら下宿人はおしひしがれている連中に違いないことを、前知らせするものである。そんなわけでこの家の内部が、むき出しにしている荒涼たる光景は、その常連たる住人たちの、いちように損じた着衣のなかにも、繰り返されていた。男たちのつけている長上着は、怪しげな色にあせ、都雅な巷《ちまた》なら道ばたの隅に転がっているような靴を、それぞれにはいて、シャツは擦り切れ、下着はお化けとなっていた。女たちのローブも、これまた流行おくれの染直しや色あせもので、古いレースは繕《つくろ》いだらけ、手袋も使い古して垢光りし、襟飾りは万年褐色、肩掛けといったら総体がほぐれかかっていた。服のほうはこんなふうとしても、それをつけているからだのほうは、大部分ががっしりとした骨組で、人生の嵐に耐えきった体躯をし、顔つきは硬く冷たく、通用停止をくったエキュ銀貨のそれのように、微塵も艶っ気が見られなかった、萎《しぼ》んだ口許ながら、がつがつした歯が武張《でば》っていた。幕のおりたドラマか、あるいは現に演ぜられつつあるドラマが、これら下宿人からは予覚させられた。もっともそれは華やかな脚光を浴び、彩られた書割《かきわり》のあいだで演ぜられるドラマではなく、生ける無言のドラマ、心をあつく掻き乱し、血を凍らせるようなドラマ、いつ果てるとてもない持続のドラマである。

編者注】「ゴリオ爺さん」は、青空文庫にて、中島英之訳で収録されていますので、一旦アップは中断します、ただし、訳者の著作権は存続しています。

読書ざんまいよせい(015)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(004)

 年収は二万五千から五万。でもやっぱり金に困ってピストル自殺を図る。

 おそろしいほどの貧乏。二途《にっち》も三途《さっち》も行かない。母親は後家さん。娘はひどく不器量である。遂に母親は心を鬼にして、娘に街へ出るように勧める。彼女はいつぞや若い頃、衣裳代を稼ぐため夫にだまって街へ出たことがある。彼女には若干の経験があるわけである。彼女は娘に教えてやる。娘は街へ出て、夜が明けるまで歩き廻ったが、買おうという男は一人もない。醜女だから。二日ほどして、三人組のどこかの無頼漢が通りかかって彼女を買った。彼女の持って帰ったお札《さつ》をよく見たら、すでに無効になった富籤《とみくじ》の札だった。

 二人の妻妾《おんな》。一人はペテルブルグに、一人はケルチ*に置いてある。年じゅう絶えない痴話喧嘩、威し文句、電報沙汰。男はいっそ自殺しちまおうかとまで考える。やっと仕舞いに或る策を思いついた。二人を一緒に住まわせたのである。彼女たちは当惑して、化石したみたいになった。黙り込んで、おとなしくなった。
*遥か南方、クリミヤ半島の港。

 或る登場人物。とても大学に居たとは思えないほど幼稚極まる男。

 そこで私は、現実だと思っていたことがじつは夢で、夢の方が現実なのだといったような、そんな夢を見たのです。

 人間は女房を貰うと好奇心がなくなるということに私は気がつきましたよ。

 幸福を知覚するには、まず大抵は時計を巻くぐらいの時間が要る。

 駅の傍の汚ならしい小料理屋。そうした店には、きまって白鱘魚の塩漬に山葵を添えたのがある。一体ロシヤではどれほどの白鱘魚《しろちょうざめ》を塩漬にするのやら!

 Zは日曜になると、スーハレフ広場*へ古本を漁りに行く。「可愛いナーヂャへ。作者より」という献詞のついた父の著書をみつける。
*モスクヴァの広場。日曜市が立つ。

 ある役人が知事夫人の肖像を胸にぶら下げている。七面鳥を胡桃で飼い肥らせて、彼女へ進物にする。

 頭脳は明晰で、心性は純潔で、肉体は清楚でなければなりません。

 ある奥さんが養猫場を営んでいるという評判が立った。そこで彼女の恋人は、尾を踏んづけて猫たちを酷い目にあわせた。

 その士官は妻君と一緒に風呂屋へ行く慣わしだった。そして二人とも従卒に洗させるのだった。明かに彼を人間扱いにはしていなかったので。

 ――そこへあの男が勲章に威儀を正して現われたのさ。
 ――はてな、あの男の持ってる勲章っていうと?
 ――九七年の国勢調査の有功銅章だよ。

 ある官吏が、全課目に五点を貰って来たと云って息子を打擲する。成績不良だと思ったのだ。あとで人から、それは君の方が悪い、五点は満点だと聞かされたが、それでもまた息子を殴りつけた。今度は自分に腹が立ったので。

 頗《すこぶる》る善良な男が、岡っ引に間違えられそうな御面相をしている。ワイシャツの飾ボタンを盗んだのは彼だと、皆がそう思っている。

 真面目一方の、袋みたいにずんぐりした医者が、とてもダンスの上手な娘に恋をする。そして彼女の気に入ろうと、マズルカの稽古を始める。

 雌雀には、雄雀《おっと》の鳴声がチュッチュッ囀るのではなしに、とても上手な歌に聞える。

 家に引籠って静かな生活をしていると、人生は別に異状もないように見える。ところが一あし街へ出て、観察の眼を働かせて見ると、例えば女に色々と物を問いかけたりして見ると、人生はじつに凄惨だ。パトリアルシエ・プルドィ*のあたり一帯、見かけは平穏無事だけれど、その実あすこの生活は地獄なのだ。
*モスクヴァの公園と街の名。「僧正ケ池」の意。

 この赤い頬ぺたをした奥さんや老婦人たちは、湯気が立つほど健康だ。

 領地は間もなく競売に出る。何から何まで貧乏くさい。従僕だけは相変らず道化役みたいなお仕着せをきている。

 神経病や神経病患者の数が殖えたのじゃない。神経病に眼の肥えた医者が殖えたのだ。

 教養があるほど不仕合せだ。

 人生は哲学と背馳する。怠惰のないところに幸福はなく、無用の物だけが満足を齎《もた》らす。

 お祖父さんに魚を食べさせる。もしもお祖父さんが中毒しないで、命に別条がなかったら、家じゅうの者が魚を食べる。

 文通。青年が文学に身を捧げることを夢みて、年中その希望を父親に書いてよこす。とうとう役所をやめて、ペテルブルグへ出て文学に専心する。――検閲官になったのだ。

 一等寝台。六、七、八、九号の旅客。話題は嫁のことである。世間一般では姑《しゅうと》のことで苦労するが、われわれインテリは嫁のことで苦労する。「私の長男の嫁はなかなか教育があって、日曜学校や図書館の世話を焼いています。けれど手前勝手な、気性の烈しいお天気屋で、肉体的にも嫌悪を催させます。食事の時など、何かの新聞記事のことがもとで、いきなりヒステリを起したりするんです。実に思いあがった女ですよ。」

 もう一人の嫁。――「人なかに出るとちゃんとしていますが、家の中じゃ恥もへったくれも無い女で、煙草は喫むし、けちん坊です。お砂糖を齧りながらお茶を飲むときなど、お砂糖を唇や歯の間に挟んだままで物を言うんです。」
*ここまではロシヤ人普通の習慣。

 Meshchankina*
*「町人女」という意味の女の苗字。

 ロマーンは、本性は不身持の悪い土百姓のくせに、召使部屋では他《ほか》の者の身持を取締るのを義務と心得ている。

 でぶでぶと肥った小料理屋の女将。――豚と白|鱘魚《ちょうざめ》の混血児。

 マーラヤ・ブロンナヤ*で。――一ぺんも田舎へ行ったことのない少女が、田舎の感じにひたって、夢中になってその話をしている。遊歩道や梢の鳥を念頭に置きながら、人真似鴉や大鴉や仔馬の話をしている。
*モスクヴァの街の名。

 コルセットをした二人の若い士官。

 ある大尉が、自分の娘に築城術を教えた。

 文学上の新形態のあとを追って、必ず生活上の新形態が生じて来る(予言する者)。だからよく保守的な人間精神にひどく毛嫌いされるのである。

 神経衰弱にかかっている法律家が、片田舎の家に帰って来て、フランス芝居の独白を朗読する。――朗読はとんちんかんな馬鹿げたものになる。

 人間は好んで自分の病気を話題にする。彼の生活の中で一番面白くない事なのに。

 例の知事夫人の肖像を胸にぶらさげている役人は、金貸しをして、ひそかに一財産こしらえている。彼が十四年間も肖像をぶらさげていた前の知事夫人は、今では後家になって、病身で、その町の郊外に住んでいる。その息子が何か手違いをして、四千の金が要る。彼女はこの役人を訪れる。彼は夫人の話を退屈そうに聴き終ってから、こう言う。――
「折角ですが何のお力添えも致し兼ねますな、奥さま。」

 男と交際のない女はだんだん色褪せる。女と交際のない男はだんだん馬鹿になる。

 病身な宿屋の亭主が医者に頼む――「私が病気になったとお聞きになったら、お招きしないでもどうぞ来て下さい。家の妹は吝嗇ですから、どんなことになったって貴方を呼びに行きはしますまい。往診料には三ルーブルお払いします。」一二カ月してから医者は、亭主が重態だという噂を聞く。そこで出掛けようとしていると、その妹から、「兄は亡くなりました」という手紙がとどく。五日たって偶然その村へ行った医者は、宿屋の亭主がついその朝死んだことを知る。憤慨して宿屋へ行く。喪服を着た妹が、部屋の隅に立って詩篇を誦んでいる。医者は彼女を吝嗇だ薄情だと非難しはじめる。妹は詩篇を誦みながら、二三句ごとに罵り返す。(「お前さんみたいなのは掃くほどいるよ……。何だってのこのこやって来たんだよ。」)彼女はこちこちの旧教徒で憎悪に燃え、凄い剣幕でがなり立てる。