日本人と漢詩(077)

◎永井荷風と大沼沈山
「江戸詩人選集」には、以前、紹介した成島柳北とともに、大沼沈山の詩も載っていた。そこで、沈山の詩を繙くとともに、彼を扱った永井荷風の「下谷叢話」を読んでみた。

永井荷風は、森鷗外に傾倒し、師とも仰いでいたようだ。特にその史伝小説に影響され、関東大震災の後、古き東京(江戸)に思いをはせ、「下谷叢話」(青空文庫)を発表した。鷗外のそれとは一味違い、扱う人物が荷風の縁者(鷲津毅堂の外孫)なだけに、思い入れが深い気がする。また大窪詩仏、菊池五山、館柳湾、梁川星巌、成島柳北など江戸後期から末期、明治に至るまでの漢詩人が網羅的に多く登場、彼らのコミュニティも描かれ、そこにも荷風の憧れを感じる。後半になると、維新前後の詩人が多くなり、文字通り「二世」を生きた人生だったが、荷風が取り上げる沈山は、江戸時代の「一世」を送り、残りは余燼ともいえる。荷風は書く。

枕山の依然として世事に関せざる態度は「偶感」の一律よくこれを言尽《いいつ》くしている。

孤身謝俗罷奔馳 孤身俗ヲ謝シ奔馳ヲ罷ム
且免竿頭百尺危 且ツ免ル竿頭百尺ノ危キヲ
薄命何妨過壯歲 薄命何ゾ壮歳ヲ過こユルヲ妨ゲンヤ
菲才未必補淸時 菲才未ダ必ズシモ清時ヲ補ハズ
莫求杜牧論兵筆 求ムル莫カレ杜牧ノ兵ヲ論ズルノ筆ヲ
且檢淵明飮酒詩 且ツ検セヨ淵明ノ飲酒ノ詩ヲ
小室垂幃溫舊業 小室幃《い》ヲ垂レテ旧業ヲ温ム
殘樽斷簡是生涯 残樽《ざんそん》断簡是レ生涯
[語注]奔馳:走り去る 竿頭百尺:更に一歩を踏み出すことを目指す 杜牧:唐の詩人、兵法書に詳しい 淵明:晋の詩人、陶淵明、「飲酒」の詩は有名 幃:とばり 断簡:文書の断片、「断簡零墨」という

 わたくしはこの律詩をここに録しながら反復してこれを朗吟した。何となればわたくしは癸亥震災以後、現代の人心は一層険悪になり、風俗は弥いよいよ頽廃《たいはい》せんとしている。此《か》くの如き時勢にあって身を処するにいかなる道をか取るべきや。枕山が求むる莫《なか》れ杜牧《とぼく》兵を論ずるの筆。かつ検せよ淵明が飲酒の詩。小室に幃《い》を垂れて旧業を温めん。残樽《ざんそん》断簡これ生涯。と言っているのは、わたくしに取っては洵《まこと》に知己の言を聴くが如くに思われた故である。

枕山は年いまだ四十に至らざるに蚤《はや》くも時人と相容《あいいれ》ざるに至ったことを悲しみ、それと共に後進の青年らが漫《みだ》りに時事を論ずるを聞いてその軽佻《けいちょう》浮薄なるを罵《のの》しったのである。

飲酒


憶我少年日 憶フ我ガ少年ノ日
距今僅廿春 今ヲ距《へだ》ツルコト僅《わず》カニ廿春
當時讀書子 当時ノ読書子
風習頗樸醇 風習頗ル樸醇
接物無邊幅 物ニ接シテ辺幅無ク
坦率結交親 坦率交親ヲ結ビ
儒冠各守分 儒冠各々《おのおの》分ヲ守ル
不追紈袴塵 紈袴ノ塵ヲ追ハズ
今時輕薄子 今時ノ軽薄子
外面表誠純 外面誠純ヲ表ス
纔解弄文史 纔ニ文史ヲ弄スルヲ解シ
開口說經綸 口ヲ開ケバ経綸ヲ説ク
問其平居業 其ノ平居ノ業ヲ問ヘバ
未曾及修身 未ダ曾テ修身ニ及バズ
譬猶敗絮質 譬フレバ猶敗絮ノ質ノゴトク
炫成金色新 炫《くらま》シテ金色ノ新タナルヲ成ス
世情皆粉飾 世情皆粉飾
哀樂無一眞 哀楽一真無シ
只此醉鄕內 只此ノ酔郷ノ内ニ
遠求古之人 遠ク古ノ人ヲ求ム
小兒李太白 小児ハ李太白
大兒劉伯倫 大児ハ劉伯倫
隔世拚同飮 世ヲ隔テテ同飲ニ拚《まか》セ
我醉忘吾貧 我酔ヒテ吾ガ貧ヲ忘レン

[語注]憶我少年日:陶淵明の雑詩「憶う我少壮の時」 樸醇:質素で真面目 坦率:さっぱりして飾り気がない 儒冠、紈袴:儒者が貴族の子弟に取り入る。杜甫「紈袴餓死せず、儒冠多く身を誤る」 敗絮質:ぼろの綿入れのような実情 李太白、劉伯倫:ともに酒豪、劉伯倫は「竹林七賢」の一人 拚:すっかりまかせる

ここで、荷風が割愛した沈山の「飲酒」の二首目を掲げる。


春風吹客到 春風《しゅんぷう》客《かく》を吹いて到らしむ
春酒傍花斟 春酒《しゅんしゅ》花に傍《そ》うて斟《く》む
不談天下事 天下の事を談《だん》ぜず
只話古人心 只《ただ》古人の心を話《かた》る
樽空客亦去 樽《たる》空《むな》しくして客《かく》亦《また》去る
月淡海棠陰 月淡くして海棠《かいどう》陰《くら》し
明朝又來飮 明朝《みょうちょう》又《また》来《き》たりで飲め
何勞抱素琴 何ぞ素琴《そきん》を抱《いだ》くろ労《ろう》せん

[語注]明朝又來飮:李白「我酔うて眠らんと欲す卿しばらく去れ。明朝意あらば琴を抱いて来たれ」 素琴:弦のはっていない琴。陶淵明が撫でて楽しんだとある。

 枕山がこの「飲酒」一篇に言うところはあたかもわたくしが今日の青年文士に対して抱いている嫌厭《けんえん》の情と殊《こと》なる所がない。枕山は酔郷の中に遠く古人を求めた。わたくしが枕山の伝を述ぶることを喜びとなす所以《ゆえん》もまたこれに他《ほか》ならない。

「天下の事を談ぜず、ただ古人の心をかたる」とは、「紅旗征戎《こうきせいじゅう》吾が事に非ず」(藤原定家「明月記」)にも通じるかもしれないが、沈山や荷風の感慨を額面通りに受け取ってはならず、彼ら独自のイロニーであろう。たしかなことは、時代の風潮に「前向き」なだけが、その人の評価にはならないことである。こうした荷風の江戸末期と大正から昭和にかけてを重ね合わせ、沈山に思いをはせる気持ちは現在にもきっと生かせるだろう。

荷風は、「下谷叢話」を、明治以降についての沈山などの詩作については、その墨を薄くしており、毅堂と沈山の死をもって静かに擱筆する形となる。これまた荷風の見識だろうが、余燼ともいうべき明治に入っての沈山も、世間を確かな眼で眺め、なかなか「熱いもの」を持っているようだが、いずれ、また。

【参考】
・永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫、青空文庫)
・「成島柳北 大沼沈山 江戸詩人選集 第十巻」 岩波書店

日本人と漢詩(076)

◎武田泰淳と杜甫

先日亡くなった大江健三郎の師ともいうべきフランス文学者・渡辺一夫にとってのラブレー、機会があれば紹介予定の「下谷叢話」( 青空文庫)を書いた永井荷風にとっての江戸後期文化、今回の武田泰淳にとっての司馬遷を始めとする中国文学(戦時中、殺戮の歴史というべき、中国通史「資治通鑑」を読み終えた中井正一も付け加えてもいいかもしれない。)は、彼らにとっては時代の風潮に対する抵抗の拠り所になった。彼らの時代とはまた違う困難な現代を生きる私たちにとって、そのよすがが何であるかをふと考えたくなる。
さて、武田泰淳には、戦後、数年を経て短編「詩をめぐる風景」が発表された
そのエピグラフにはこうある。

ー円き荷《はす》は小さき葉を浮かべ
細き麦は軽き花を落すー杜甫

詩の全体は、以下の通りで、五言律詩の頷聯《がんれん》である。

爲農 農と為る
錦裡煙塵外 錦里《きんり》煙塵《えんじん》の外
江村八九家 江村《こうそん》八九家
圓荷浮小葉 円荷《えんか》小葉浮かび
細麥落輕花 細麦《さいばく》軽花落つ
卜宅從茲老 宅を卜《ぼく》して茲これ従り老いん
爲農去國賒 農と為って国を去ること賒《はる》かなり
遠慚勾漏令 遠く勾漏《こうろう》の令に慚《は》ず
不得問丹砂 丹砂を問うことを得ず

語釈、訳文は、杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会
古代文化研究所:第2室などを参照。

『杜甫にとって安住の地であった、蜀成都の草堂も彼にとって安住ばかりはできなかったようだ。『杜甫の奴僕たちにとっては草堂は宿命のようなものである。……奴僕たちは他の世界を知らない」として、外の世界に開かれない宿命をもった奴僕に対し、杜甫は外界を求めてさまよう宿命にあった。「草堂は永いこと杜甫の脳裏にえがかれた幸福の象徴であった。……自然にひたり、草木にうずもれて詩の世界をひろげるために、杜甫は草堂を求めていた」。杜甫は「草堂」という「混沌世界の中に占める自分の一点」を維持してこそ、「幸福の象徴を追い求めながら旅をつづける文学者の生き方」ができたのだと泰淳は描く。
そのような生き方を選ぶ理由を、泰淳は「詩をめぐる風景」という小説において次のように説明する。「安定できず安住できない自分というものが、自分の詩の不安ではあるが新鮮な泉になっている」、「次から次へあらわれてくる諸現象、そしてそれをむかえての自分のもろもろの精神状態のごく複雑な総合が自分の詩をささえている。……それ故、自分の外界が安定しないばかりでなく、自分の内心そのものが広い広いとりとめもない混沌世界であるように思われる。」泰淳が描いた杜甫は、戦乱によって引き起こされる内心の葛藤こそが詩を作る原動力であることを知り、安穏とした草堂生活に留まることができず、「家」を捨て、「漂泊の生涯」を送る詩人であった。』

王俊文 中国戦地の風景を見つめる「喪家の狗」―武田泰淳の日中戦争体験と「風景」の創出― より

逆に、彼はそうした心情を素直に吐露することで、成都の自然(この詩では、円き荷と細き麦)とうまく重ね合わせたくみに詩情を詠いあげているように思われる。「農と為る」は為りきれない彼の吐露をのぞかせる詩題であろう。それにしても、小説では、農奴である阿火と阿桂の若きカップルの結末が哀れである。

成都の草堂は、チベット・ラサからの帰り道、成都に宿泊、そのついでにたっぷり一日訪れたことがある。もちろん、杜甫の時代の草堂とは大違いで、大規模に整備もされ、効率よく杜甫の生涯を辿ること可能だが、散策の道には人も少なく、彼の真情に少し触れることができた。

【参考】
・武田泰淳「中国小説集 第二巻」新潮社(写真)

日本人と漢詩(075)

◎一海知義と中国留学生

本箱が、本の重みで一部棚が落ちてしまった。仕方なく新調することにして、並べていた書物を取り出したが、パラパラめくり、中には熱中し、読み返しの連続で、なかなか作業が進行しない。漢詩を中心とした時折の随想を集めた著書で、7年前に物故の、一海知義先生の本があったので、結局読みふけってしまった一本の一つである。そのなかに、「『文革』を批判した漢詩」という一節があった。
思えば、1989年の第二次天安門事件から、やがて34年が経とうとしている。その弾圧の首謀者の一人、李鵬(Wikipedia)も亡くなってしまった。天安門事件の2年後、1991年3月20日、「人民日報」海外版にアメリカ留学生の、李鵬を諷する漢詩が投稿された。さすがに「人民日報」もその寓意は理解できなかったようだ。
ちょうど今の時期、中国では全人代が開催されている。前回だったかの会議の直前には、当方は中国滞在中であったが、会議の始まる前に、なかば強制的に中国から追い払われ、予定を切り上げ、日本に帰国した。今回もそうした強権発動があったことだろう。そして天安門事件などなかったように、習体制の賛美に終始することだろう。

東風拂面催桃李 東風(はるかぜ)面《おもて》を払いて桃李を催《うながせ》ば
鷂鷹舒翅展程 鷂鷹(とんび)《ようとう》翅《はね》を舒《のべ》て鵬程を展ず(鵬とおなじように遠くまで飛ぼうとする)
玉盤照海熱涙 玉盤(白玉の大皿のような月)を照せば熱涙下《くだ》り
遊子登思故城 遊子(たびびとである私は)台に登りて故城(故郷の町)を思う
休負生報國志 負《そむ》く休《な》かれ平生国に報いんとする志に
育我勝萬金 人民の我を育《はぐ》くむこと万金に勝《まさ》れり
起急追振華夏 憤起急追して華夏(祖国中国)を振《ふる》わさんも
且待神洲遍地春 且《しばら》く待たん神洲(中国)の地に遍《あまね》きの春を

第一句の最後の文字から斜め上にたどり、第八句をそのまま読むと、
李鵬、台より下《くだ》れば、民の憤《いきどお》りを平らげん、
且《しばら》く待たん神洲の地に遍《あまね》きの春を。

なお、Wikipedia 掲載の詩とは若干の異同がある。

汚職の噂も絶えない李鵬が内閣、大臣をやめれば、民衆の怒りもしずまり、春の訪れも期待できるだろう。それまでは、忍耐がつづくかもしれないが…

天安門事件で、旗を振りながら素手で戦車に立ち向かった一人の若者がいた。彼を想いながら、上記の漢詩に倣って、短歌を一つ。

いはざり
はたにおり
かぜには
とわ()つたゑかし
づつにむかひて

「『文革』は本質的にはまだ決着がついていません。しかしほんとうにそこから脱却する日は必ず来るでしょう。中国人民の批判精神と楽天性、私はそこに信頼をおき、期待しています。」(一海知義)
写真は、事件以前の天安門(1988年 Wikipediaより)
【参考】
一海知義「詩魔ー二十世紀の人間と漢詩」 藤原書店
 

日本人と漢詩(074)

◎成島柳北


仏蘭西《フランス》がらみの話題である。

成島柳北(1837-1884)は、幕末から明治にかけての人、当初は幕臣にて、荻生徂徠からの系譜で儒官であった。遊蕩にも精をだしたらしく、「柳橋新誌」なる戯作も著した。森繁久彌も時代を下っての縁者らしい。(Wikipedia)その柳北は、維新後、「東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)、共に欧米を巡る。」その時にパリとベルサイユを訪れたときの詩。

巴里雜詠 巴里雑詠(四首のうち二首)
一.
十載夢飛巴里城 十載《じつさい》 夢は飛ぶ 巴里城《パリじよう》
城中今日試閑行 城中 今日《こんにち》 閑行《かんこう》を試《こころ》む
畫樓涵影淪渏水 画楼《がろう》影を涵《ひた》す 淪渏《りんい》の水
士女如花簇晚晴 士女《しじよ》 花の如く晩晴に簇《むら》がる
閑行:のんびり歩くこと。
淪渏:さざ波。
二.
五洲富在一城中 五洲《ごしゆう》の富 一城の中《うち》に在《あ》り
石叟陶公比屋同 石叟《せきそう》 陶公《とうこう》 比屋《ひおく》同じ
南海珊瑚北山玉 南海の珊瑚《さんご》 北山の玉《たま》
廛廛排列衒奇工 廛廛《みせみせ》 排列《はいれつ》して 奇工《きこう》を衒《てら》う
五洲:全世界。
石叟:晋の石崇。富裕の人。
陶公:中国・春秋時代、越王勾践に仕えた范蠡《はんれい》。のちに斉に移り、巨万の富を築いた。
比屋:どの家も。

烏児塞宮 烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》

想曾鳳輦幾回過 想《おも》う 曾《かつ》て鳳輦《ほうれん》幾回《いくかい》か過《よぎ》り
来与淑姫長晤歌 来《きたり》て淑姫《しゅくき》と長く晤歌《ごか》せしを
錦帳依然人未見 錦帳《きんちよう》依然たるも 人見《み》えず
玻璃窻外夕陽多 玻璃《はり》窓外《そうがい》 夕陽《せきよう》多し

烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》:バロア朝時代のルーブル宮からブルボン朝のルイ十四世(アンリ四世の孫)から王宮はパリ郊外のベルサイユに移された。
鳳輦:フランス歴代の王や皇帝の馬車。
淑姫:貞淑で美しい婦人
晤歌:一緒に歌う。詩経陳風「東門之池」「彼の美なる淑姫、与《とも》に晤歌すべし」
依然:昔のまま。

成島柳北は、他の多くの官僚・知識人と同様に、福沢諭吉のいうごとく、江戸時代から明治にかけて「二世を生きた」ことは間違いない。でも、成島は、福沢のように、近代的な自己を持つことはついにできなかった。(もちろん、後年の福沢が唱えた「侵略主義」的主張を是とはしないが…)成島がパリを訪れた、1872年といえば、前年、パリコミューンが樹立されたが、約半年で崩壊させられ、徹底的な弾圧の嵐が吹き荒れていた直後であるが、彼の詩情では一顧だにされない。かろうじて、ヴェルサイユ宮から見た夕陽が、普仏戦争、パリコミューンを経た大仏帝国の落日を象徴するとも言えるだろう。

写真は、Wikipedia から
【参考文献】江戸詩人選集第十巻 成島柳北 大沼沈山 岩波書店

日本人と漢詩(073)

◎宋希璟と「老松堂日本行録」(続き)

 

朝鮮半島から、対馬、九州、瀬戸内海の港に停泊しながら、現在の西宮に上陸、のちは「西国街道」をたどって京都に向かった。西国街道は、江戸時代に京から瀬戸内海への通路として整備され、「忠臣蔵=赤穂浪士」の登場人物、萱野三平の屋敷跡もこの街道沿いにあった。(Wikipedia https://w.wiki/6N9Q)室町時代にも、京へのショートカットとして利用されたようだ。
さて、使節の宋希璟は、そんなに社会的関心が強いほうではない。それでも西宮に上陸後、すぐに、食糧難民に出くわした。漢詩自体が伝統的に社会的関心が濃厚だった伝統ゆえか、彼の役人としての「経世救民」の心情のためか、次の一首を詠んでいる。
二十日發兵庫向王所路中雜詠二首 (四月)二十日兵庫を発して王所に向う路中の雑詠 二首
過利時老美夜店 利時老美夜店を過ぐ
處〃神堂處〃僧 処〃の神堂処〃の僧
人多遊手少畦丁 人に遊手多畦丁少なし
雖云耕鏧無餘事 耕鏧に余事なし云うと雖も
每聽飢民乞食聲 毎《つね》に聴く飢民の食を乞うる声
日本人多又多飢人又多殘疾處〃道邊合坐逢行人卽乞錢 日本は人多し。また飢人多く、また殘疾多し。処々の道辺に合坐し、行人に逢えば即ち錢を乞う。

語注】利時老美夜:にしのみや、摂津国西宮
畦丁:農民

宿盛加臥店用前韻 盛加臥店に宿す 前韻を用う
良人男女半爲僧 良人の男女は半ばは僧と為る
誰是公家役使丁 誰か是れ公家《こうけ》役使の丁ならん
未見賓來支對者 未だ賓《ひん》来りて支対する者を見ず
唯聞處〃誦經聲 唯聞くは処々に経を誦《よ》む声

語注】盛加臥:摂津国瀬川、西国街道の宿駅、現在の箕面市瀬川、瀬川神社のある所だろう
公家:朝廷。国家

貧窮の結果、仏門に入るものが多く、出迎えもなく、僧侶の読経の声がむなしく響く、といった所か?
小学校低学年の頃は、箕面市の隣、池田市石橋井口堂に住み、北豊島小学校にかよっており、瀬川神社のあたりまでが遊びのテリトリーだった記憶がある。

日本人と漢詩(072)

◎柏木如亭
少し如亭の話題を続ける。

還京城寓所 京城の寓所《ぐうしょ》に還《かえ》る
京寓還來便當家 京寓《きやうぐう》還《かへ》り来《きた》つて便《すなは》ち家に当つ
嵐山鴨水舊生涯 嵐山鴨水の旧生涯《きゅうしょうがい》
老夫不是求官者 老夫《ろうふ》 是《こ》れ官を求《もとむ》る者にあらず
祇愛平安城外花 祇《た》だ愛す 平安城外《へいあんじょうがい》の花

【語釈】
當家:家の用事
舊生涯:宋・文天祥『桃源県』「山水は旧生涯」
老夫:宋・劉過『東林寺に題す』「老夫は官職を愛せざるが為に、狂名を買い得て世間に満つ」
求官:宋・蘇軾『千乗・千能両姪の郷に還るを送る」「生を治《おさ》めて富を求めず、書を読みて官を求めず」
祇:『助語審象』「祇ハ、ヤハリ其所ヲハナレズシテ始終ソレニナリユク意ナリ」以上の意なら助辞としての「祇」の使い方は抜群である。

如亭は、1807年(文化4年)と、1818年(文化15年)に京の都で居住していたらしい。そして、西日本各地を巡歴、「持病の水腫が悪化し、文政2年(1819年)7月10日に京都で没した。」(Wikipedia 「柏木如亭」の項)以上の七言絶句は、無官で花を愛する身の京暮らしの趣きを語る。また「詩本草」では、その京都の食べ物についても綴る。

京名品
平安萬世帝都。城中熱閙、市井誼譁、無物不有、無事不有、不必待言。其名園花卉、城外風景、餘之七載留滯尙未能言詳。獨于飮膳粗識一二。此可以言已。夫祇園田樂豆腐、加茂閉甕菜、北山松蕈、東寺芋魁、錦巷肉糕、桂川香魚、兒童亦知其佳。(以下略)

京の名品
平安は万世の帝都なり。城中の熱閙《ねつだう》、市井の誼譁《けんくわ》、物として有らざる無く、事として有らざる無きは、必ずしも言を待たず。その名園の花卉《くわき》、城外の風景、余の七載の留滞すら尚ほ未だ詳を言ふこと能はず。独り飲膳において粗《ほ》ぼ一二を識る。此以て言ふ可きのみ。それ祇園の田楽豆腐・加茂の閉甕《ミズキ》菜・北山の松蕈《まつたけ》・東寺の芋魁《いもがしら》・錦巷の肉糕《カマボコ》・桂川香魚《アユ》は児童も亦たその佳なるを知る。

彼が列挙した京の食べ物のうち、当方が口にしたのはそのすべてではない。松茸はもちろん、香魚、田楽豆腐なども記憶にない。法事の帰りにお決まりの「芋棒」の里いもとタラの煮つけ、正月に食べる錦市場の「カマボコ」くらいか?その中では「ミズキ=すぐき」は。今でもなじみであり、京独特の漬物らしい。すこし発酵した後の味わいは独特のものがあるが、子ども時代は全く受け付けなかった。大阪出身の父にも口に合わず、大根や茄子の「あっさり漬け」ないし「ぬか漬け」(京都では「どぼ漬け」と称していた。)のほうが好みであったようだ。それに「つけもんなんか、子どもの食べるもんやない」と口癖だった。せいぜい、ほのかに甘い「千枚漬け」の1枚か2枚、ご飯の後でつまんだものだった。

【参考文献】
・柏木如亭詩集 2 東洋文庫
・「詩本草」 岩波文庫

日本人と漢詩(071)

◎柏木如亭と洪駒父《こうくふ》
前回の続きで、不滅の中国四大美人、西施のミルクに例えられた、ふぐの話題。

「聯珠詩格」は、元の時代に出来上がった唐宋詩のアンソロジーだが、本場中国では逸亡したが、日本では、盛唐詩偏重の詩風が収まってきた江戸時代後期に本格的に復刻された。前回、登場した柏木如亭はその中から抜粋して、「訳注聯珠詩格」を享和元年(1801年)に出版した。宋・洪駒父の詩はその中には収められていないが、原著には目を通していたことだろう。

西施乳
蔞蒿短短荻芽肥 蔞蒿《ろうこう》短短《たんたん》として荻芽《てきが》肥《こ》ゆ
正是河豚欲上時  正に是れ河豚《かとん》上《のぼ》らんと欲《ほっ》する時
甘美遠勝西子乳 甘美 遠く西子が乳に勝《まさ》れり
吳王當日未曾知 呉王 当日 未だ曽《かつ》て知らず

蔞蒿:よもぎ、はこべ
荻芽:萩の若芽、竹の子に似ている
西子:西施のこと、平仄の関係で子とした
河豚の種類が違う中国では、食べ頃の旬が春とされたようだ。ヨモギが茂り、萩の芽がつく春に河をフグがさかのぼる春、西施のミルクに勝るとも劣らない。呉王の夫差は毒があるのも知らないで、西施に耽溺したので、自身の滅亡を知る由もなかった。

河豚 柏木如亭 「詩本草」より(続き)
關東賞以冬月。餘所以有雪園蘿菔自甘美、不待春洲生萩芽之句。(中略)至周紫芝平生所缺惟一死、可更杯中論鏌鎁、可謂先得吾心者矣。
関東、賞するに冬月を以てす。余が「雪園の蘿菔《らふく》自《おの》づから甘美。春洲《しゅんしゅう》萩芽《てきが》を生ずるを待たず」の句有る所以《ゆえん》なり。(中略)周紫芝《しゅうしし》が「平生《へいぜい》欠く所惟《た》だ一死。更に杯中鏌鎁《ばくや》を論ず可けんや」といふに至つては、先づ吾が心を得る者と謂ひつ可し。

蘿菔:大根のこと。当時の河フグの調理法として、みそ味で大根と一緒に煮た鍋物だっとらしい。
周紫芝:宋の詩人。如亭は彼を含む宋時代の絶句のアンソロジー「宋詩清絶」を出版した。
鏌鎁:春秋時代、呉の刀工の名で彼が鋳造した刀剣。

引用された如亭の七言絶句

冬日食河豚。河豚至冬日雪飛始肥江戶人時以爲珍雜蘿菔而爲羹味最美矣
冬日河豚食ふ。河豚は冬日、雪の飛ぶに至つて始めて肥ゆ。江戸の人、時を以て珍と為し、蘿菔を雑へて、羹《あつもの》と為《な》す。味、最も美なり
天下無雙西子乳 天下無双《むそう》西子乳《せいしにゅう》
百錢買得入貧家 百銭 買ひ得て 貧家《ひんか》に入る
雪園蘿菔自甘美 雪園の蘿菔《らふく》自《おの》づから甘美
不待春洲生萩芽 春洲《しゅんしゅう》萩芽《てきが》を生ずるを待たず
梅堯臣詩春洲生萩芽春岸飛楊花河豚當是時貴不數魚蝦 梅堯臣《ばいぎょうしん》の詩に「春洲萩芽を生じ、春岸楊花を飛ばす。河豚是の時に当たり、貴《とうと》きこと魚蝦《ぎょか》を数《かぞ》へず
魚蝦:サカナとエビ
貧乏人の家でも、フグは天下に並びないものなので、ここぞと奮発して、手に入れる。甘みのある大根と一緒に煮こむと絶品で、梅堯臣の言うように、春になり、萩が芽吹くのを待っていられない。

図は、Wikipedia より。この絵によると西施は細身で、楊貴妃に比べるとやや淡泊な印象。だとすると河豚のあっさりした味わいを表しているかもしれない。しかし、その身には毒が内在しているので、くわばらくわばら…
【参考文献】
・揖斐高「江戸漢詩の情景」(岩波新書)
・柏木如亭「詩本草」(岩波文庫)
・同「訳注聯珠詩格」(岩波文庫)
・同「柏木如亭詩集 1」(平凡社 東洋文庫)

日本人と漢詩(070)

◎柳川星巖と柏木如亭

もう一回、やや艶っぽい話題をもう一つ。

先日、瀬戸内海縁の親戚から、大ぶりの牡蠣を贈られてきた。そのまま、電子レンジで加温し、食するにとても美味だった。江戸時代にも、牡蠣は美味しい食材として重宝され、例えとして唐・楊貴妃の乳汁と例えられたようだ。(太真は、楊貴妃が道教寺院に在籍していた時の呼称)ちなみに河豚の肉は、同じ中国美人の西施の乳汁とういう意味で、「西施乳」という艶称がついている。

柳川星巖「太真乳」 七言古詩(一部)
君不見開元天子全盛日
日日後宮事嬉春
太真玉乳飽禄児
餘汁入海化不泯

君見ずや 開元の天子 全盛の日
日日 後宮 嬉春《きしゅん》を事とす
太真《たいしん》の玉乳《ぎょくにゅう》 禄児《ろくじ》を飽《あ》かしむ
余汁《よじゅう》 海に入りて化して泯《ほろ》びず

開元:唐の全盛期であった、玄宗在位中の元号。
禄児:その玄宗に反旗を翻した安禄山。楊貴妃のお気に入りだった。

河豚 柏木如亭 「詩本草」より
河豚美而殺人。一名西施乳。又猶之江搖柱名西施舌蠣房名太眞乳。皆佳艷之稱也。
河豚《かとん》、美にして人を殺す。一に西施乳《せいしにゆう》と名づく。又た、猶《な》ほこれ江揺柱《かうえうちゆう》の西施舌《せいしぜつ》と名づけ、蠣房《れいぼう》の太真乳《たいしんにゆう》と名づくるがごとし。皆な佳艶の称なり。
以下は、「フグ=西施乳」として別項にて紹介予定。

こうした伝説によると、今も楊貴妃の乳は今も海に流れ込んでいるらしい。そうすると牡蠣に舌鼓を打ったのは、その余沢にあずかったとも言えるだろう。

【参考文献】
・揖斐高「江戸漢詩の情景」(岩波新書)
・柏木如亭「詩本草」(岩波文庫)
図は、上村松園「楊貴妃」 Wikipedia より

日本人と漢詩(069)

◎江南先生と「六朝詩選俗訓」
普 無名氏・子夜歌十六首より
郞爲傍人取 郎 傍人に取られ
負儂非一事 儂《われ》に負くとこ一事に非ず
攤門不安橫 門を攤《たん》して横を安《ささ》ず
無復相關意 復《ま》た相ひ関する意無し

こちの人は よそのひとにとられた
わしを袖にさつしやること 一《イ》ちどや二どのことではなひ
門の戸をたてよせて くはんぬき《閂》をさゝぬ
もふしめくゝりするきもなひ

⚪関は、門にかけては関鎖とて門うぃしめること、人事にかけては関渉とてかゝりあふこと、又関束とて身帯などのしめくゝりすること、此《コ》詩関する意も無しと云《イツ》て、門戸をしめる心もなきと、かけかまふ意もなしと秀句せるなり。⚪又門を明離《アケハナ》しに横木《くわんぬき》をも安《さゝ》ずに置て何時皈《(帰)》られずとも郎の勝手次第にて置たがよひ。門を関《しめ》る意も無ひ、郎がことに相関《かまふ》意もなひ。郎が放埒を関束《しめくゝ》る意も、身帯家内の事に関鎖《しめくゝり》する意も無いと云。

三句、四句が若干、意味が取れない。門にカギをかける、かけないなどもうどうでもよいことなのか、カギをかけないとは、男に未練がまだ残っているのか、それとも両方の意味なのか?お判りいただければご教示願いたい。

もう一首、やや艶っぽい詩を紹介する。

擥枕北窻臥 枕を攬《とり》て北窓に臥す
郎來就儂嬉 郎来り儂《われ》に就《つ》きて嬉《き》す
小喜多唐突 小喜 多く唐突
相憐能幾時 相憐む 能《よ》く幾時《いくとき》ぞ

まくらをひきよせ なんどにねてゐれば
わしによりそいて ちわをする
ちとうれしいと思へば つかふどなことばかり
しつぽりとすることは よふどれあらふ

なんど:主に家の女性の居所。
ちわ:痴話喧嘩の「ちわ」
つかうど:不愛想。原文の「唐突」は、「つっかかる」くらいの意味。結構、多義的にも解釈できる。

「訳者」の江南先生は、本名は田中応清(1728-1780)、医学と漢学を学び、後者は荻生徂徠の流れを汲む。徂徠の主張は唐時代、それも盛唐の詩を模範とするもので、江南先生が、唐以前の南朝時代の詩、それも艶っぽい題材を選んだのはその後の「江戸情緒」の先触れとして興味深い。晩年は、京都、大阪で医術を生業として、本書を出版、岡山で客死した。

「東洋文庫」の解説で、一首が紹介されていた。
https://japanknowledge.com/articles/blogtoyo/entry.html?entryid=139

【参考文献】「六朝詩選俗訓」江南先生訓訳 都留春雄・釜谷武志校注

日本人と漢詩(068)

◎宋希璟と「老松堂日本行録」

少し、日本人と漢詩という括り方とは離れる。
「老松堂日本行録」は、1420年、室町時代に李徴朝鮮王朝使節として来日した宋希璟(송희경 1378-1446)の著作。足利義満の子、義持の時代、1429年、正式な使節団が朝鮮から派遣される以前のこと、前年には対馬(長崎県)を攻めた応永の外寇が起こっているから、政情はまだ不安定だったことだろう。その中で、往復9ヶ月をかけての、朝鮮・漢陽↔日本・京都の見聞記を序をつけての漢詩の体裁でまとめたのが本書である。その中では当時の日本での大衆の生活をなかなか鋭い観察眼で詩にまとめており、興味深い。おいおいその部分は紹介するが、まずは漢陽を出発するときの巻頭の七言絶句から。

是月十五日受命発京路上即事
特報綸音出漢陽
馬頭佳到柳初黄
此去忩(怱の異字)々人識未
好伝王語奏明光

是《こ》の月十五日命を受けて京を発する路上の即事《そくじ》
特に綸音《りんおん》を報じて漢陽を出ず
馬頭の佳到 柳初《はじ》めて黄なり
此《ここ》を去る怱々《そうそう》にして人識《し》ること未《いま》だし
好し王語を伝えて明光《めいこう》に奏せん

語釈
馬頭の佳到 馬上から見える佳い景色
柳初めて黄なり 李白「宮中行楽詩」柳の色は黄金の嫩《やわら》かに、梨の花は白雪の香《か》んばし
明光 朝鮮の宮廷を指すが、漢武亭の建てた宮殿に由来する 杜甫「壮遊」賦を奏して明光に入りぬ

とまずはこれからの旅路を見通して、その抱負を語る。

考えて見るに、日本と朝鮮半島の交流・外交関係は、直接に歴代中国王朝とのやりとりの中での間接的な折衝はあったにせよ、古代を除いてはそんなに緊密ではなかったようだ。その例外的な事象が、室町時代と江戸時代(途中、「文禄・慶長の役」という日本の侵略を挟む)に起こった。室町時代は、宋希璟の来日を先駆けとして、室町時代では、1429年以降3回、豊臣時代でも2回、江戸時代では計14回に上っている。(Wikipedia 朝鮮通信使)室町時代は、通信使への返礼として、禅僧を朝鮮に派遣したという。江戸時代は、そうした返礼はなかったところには、徳川政権のある種の「狡猾さ」があったのかもしれない。西洋世界にも明るかった新井白石ですら、朝鮮との関係を「朝衡」と「上から目線」でみていたのも象徴的である。もっとも対馬藩と縁が深かった雨森芳州(Wikipedia)は、通信使と対等な詩の応酬をしているのを見ると、関係はずいぶん成熟しているとも言える。
いずれにしても近代になってからの不幸な関係を考えれば、室町~江戸にかけての交流でくみ取れる教訓が存在していることは間違いない。

【参考文献】
・宋希璟「老松堂日本行録」 村井章介校注 岩波文庫
・三橋広夫「これならわかる 韓国・朝鮮の歴史」 大月書店
図は左「首全(李氏朝鮮首都漢陽[現在のソウル])全図 wikipedia より 右宋希璟の漢陽⇔京都での行程図