テキストの快楽(010)その1

◎ ツルゲーネフ作 神西清訳「散文詩」(02)


  対 話
       ユングフラウもフィンステラ—ルホルンも、いまだ人の足跡をとどめない*。

アルプスのいただき。……そそり立つがけのつらなり。……山なみのきわまるところ。
山々のうえ、 無言で澄みかえる浅みどりの空。きびしく肌をさす寒気かんき。きらめき光る堅い雪はだ。その雪をつらぬいて、 風にさらされ氷におおわれ、荒々しく立つ岩また岩。
あまぎわに、相対してそびえ立つ二つの巨岳、ふたりの巨人。ユングフラウとフィンステラールホルンと。
さてユングフラウが、隣人に話しかける。「何か変ったことはなくて? あなたのほうが、よく見えるでしょう。下界はどんなふうなの?」
またたくまに過ぎる幾千年。さてフィンステラールホルンが、ごうごうと答える。「密雲が地面をおおっている。……まあお待ち!」
またたくまに過ぎる、またも幾千年。
「さあ、こんどはどう?」と、ユングフラウ。
「こんどは見える。下界はあい変らずだ。まだらで、せせこましい。水は青く、森は黒く、ごたごたと積んだ石は灰いろだ。そのまわりに、あい変らず虫けらどもがうごめいている。ほら、まだ一度もお前やおれを汚したことのない、あの二本足の虫けらさ。」
「人間のこと?」
「うん、その人間だ。」
またたくまに過ぎる幾千年。
「さあ、こんどはどう?」と、ユングフラウ。
「虫けらは、だいぶ減ったようだ」と、フィンステラールホルンがとどろく。「下界はだいぶ、はっきりしてきた。水はひいて、森もまぱらだ。」
またたくまに過ぎる、またも幾千年。
「何が見えて?」と、ユングフラウ。
「おれたちの近所は、さっぱりしてきたようだ」と、答えるフィンステラールホルン。「だが、遠くの谷あいには、まだらが残っていて、何やらうごめいている。」
「で、こんどは?」と、またたくまに幾千年をへて、ユングフラウがきく。
「やっと、せいせいした」と、答えるフィンステラールホルン。「どこもかしこも、さっぱりした。どこを見てもまつ白だ。……見わたすかぎり、おれたちの雪だ。いちめん雪と氷だ。みんなこおってしまった。これでいい、せいせいした。」
「よかったこと」と、ユングフラウが言う。「でもわたしたち、たんとおしゃべりしたから、ひと眠りするとしましょうよ、おじいさん。」
「うん、そうだ。」
巨山はねむる。みどりに澄んだ空も、永遠にもだした大地のうえに眠る。
       II. 1878

注]
*ユングフラウも…… この題辞は、一八七八年にあっては時代錯誤の感なしとしない。この頃までにユングフラウもフィンステラールホルンも、すでにたびたび踏破されていた。前者の初征服は一ハー一年八月、より険阻と伝えられる後者の初登舉でさえ、翌ー二年八月になされた。思うにこの題辞は、感星義作家カラムジーンの『ロシア旅行者の手紙』にもとづくものか。一七八九年八月の「手紙」のなかで、カラムジンはユングフラウにふれて言う。――「かしこにはいまだ人跡をとどめず」と。

テキストの快楽(009)その1

◎ ツルゲーネフ作 神西清訳「散文詩」(01)


 岩波文庫には、神西清と池田健太郎訳の「散文詩」が収められています。このうち神西清訳の部分だけを収録します。神西清が、1933年・29歳のとき、初版「散文詩」を出版、晩年にうち11編を改訳されたものです。池田健太郎氏の注は、適時、「引用」しました。

   い な か

夏は七月*、おわりの日。身をめぐる千里、ロシアの国――生みの里。
空はながす、いちめんの青。雲がひときれ、うかぶともなく、消えるともなく。風はなく、汗ばむ心地。大気は、しぼりたての乳さながら!
雲雀ひばりはさえずり、鳩は胸をはってククとなき、燕は音もなく、つばさをかえす。馬は鼻をならして飼葉をはみ、犬はほえもせず、尾をふりながら立っている。
草いきれ、煙のにおい、――こころもちタールのにおい、ほんのすこしかわのにおいも。大麻たいまはもう今がさかりで、重たい、しかし快い香りをはなつ。
深く入りこんだ、なだらかな谷あい。両がわには、根もとの裂けた頭でっかちの柳が、なん列もならんでいる。谷あいを小川がながれ、その底にはさざれ石が、澄んださざなみごしに、ふるえている。はるかかなた、天と地の尽きるあたり、青々と一すじの大川。
谷にそって、その片がわには、小ぎれいな納屋なやや、戸をしめきった小屋がならび、別の片がわには、松丸太を組んだ板ぶきの農家が五つ六つ。どの屋根にも、むく鳥の巣箱のついた高いさお。どの家も入口のうえに、切金きりがね細工の小馬の棟かざりが、たてがみをびんと立てている。でこぽこの窓ガラスは、七色なないろに照りかえる。よろい戸には、花をさした花瓶の絵が、塗りたくってある。どの農家の前にも、きちんとしたべンチが一つ、行儀よくおいてある。風をふせぐ土手のうえには、小猫がまりのように丸まって、日にける耳を立てている。たかい敷居のなかは、涼しそうに影った土間どま
わたしは谷のいちぱんはずれに、ふわりと馬衣をしいて寝そべっている。ぐるりいちめん、刈りとったばかりの、気疲れするほど香りのたかい^草の山また山。さすがに目のく農家の主人たちは、乾草を家のまえにまき散らした。――もうすこし天日にほしてから、納屋へしまうとしよう。その上で寝たら、さぞいい寝心地だろうて!
子どものちぢれ毛あたまが、どの乾草の山からも、のぞいている。とさかを立てたにわとりは、乾草をかきわけて、小ばえや、かぶと虫をあさり、鼻づらの白い小犬は、もつれた草のなかでじゃれている。
ちぢれた亜麻いろ髪をした若昔たちは、さっぱりしたルバシ力に、帯を低めにしめ、ふちどりのある重そうな長靴をはいて、馬をはずした荷車に胸でよりかかりながら、へらず口をたたきあっては、歯をむいて笑う。
近くの窓から、丸顔の若い女がそとをのぞいて、若者たちの高ばなしにとも、乾草やまのなかの子供たちにともっかず、声をたてて笑う。
もうひとりの若い女は、たくましい両腕で、ぬれそぼった大つるべを、井戸から引っぱりあげている。……つるべは、綱のさきでふるえ、揺れ、きらめく長いしずくを、はふり落す。
わたしの前には、年とった農家の主婦が立っている。格子じまの、ま新しい毛織りのスカー卜に、おろしたての百姓靴をはいている。
大粒の、がらんどうのガラス玉を、あさ黒いやせた首に三重みえにまきつけ、白毛しらがあたまは、赤い水玉を散らした黄いろいブラトークで包んでいる。そのプラトークは、光のうせた目のうえまで垂れかかる。
が、老いしぼんだ目は、愛想よくほほえんでいる。しわだらけの顔も、みくずれている。
そろそろ七十に手のとどきそうなばあさんなのに若いころはさぞ美人だったろうと、しのばせるものがある!
右の手の日にやけた指をひろげて、ばあさんは、穴倉から出してきたばかりの、上皮もそのままの冷めたい牛乳のつぼをにぎっている。壺のはだいちめん、ガラス玉のように露をむすんでいる。左の手のひらに、ばあさんは、まだほかほかのパンの大きなひときれをのせて、わたしにすすめる。――「あがりなさいませ、これも身の養いですで。旅のだんな!」
おんどりが、いきなり高い声をあげて、ばたぱたと羽ばたきした。それにこたえて、小屋のなかの小牛が、もうと気ながにないた。
「やあ、すばらしいカラス麦だぞ!」と、わたしの馭者ぎょしゃの声がする。
ああ、気ままなロシアのいなかの、満足と、安らかさ、ありあまる豊かさよ!その静けさ、その恵みよ!
思えば、帝京ツアリ・グラードの聖ソフィヤ寺院のドームの上の十字架**をはじめ、われわれ都会の人間があくせくすることすべて、なんの役に立つというのだろうか?
                  II.1878

【注】
* 異本に「六月」
** クリミア戦争など「東方問題」に対する世人への風刺