◎シュテイフター作 小島貞介訳「湖畔の処女・水晶」
[編者注記]
シュテイフター(1805-1868)(Wikipedia)は、オーストリアの作家。
小島貞介(1907-1946)(Wikipedia)は、戦前のドイツ文学者。敗戦後シベリア抑留中に栄養失調により38歳で死去した。彼も戦争犠牲者の一人と言えよう。
シュテイフテル(Adalbert Stifter, 1805-1868年)著,小島貞介(1907-1946年)譯「湖畔の處女・水晶」。
底本:ロマンチック叢書7「湖畔の處女・水晶」,青磁社, 昭和二十三年一月二十一日印刷,昭和二十三年一月二十五日發行,昭和二十四年七月三十日再版發行。
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湖畔の處女・水晶
シュテイフテル 原著
小島貞介 譯
目次
* 湖畔の處女
* 一 森の城
* 二 森の移動
* 三 森の家
* 四 森の湖
* 五 森の草地
* 六 森の巖
* 七 森の廢墟
* 水晶
* あとがき
湖畔の處女・水晶:湖畔の處女・一 森の城
小國オーストリアの北境三十哩にも渡つて森林がその薄色の帶を西へと曵いてゐる。 それはタイア川の水源地に起つてボヘミアの國土がオーストリアとバヴァリアに境を接するあの境界結節點にまで及ぶ。 昔この地點に、礦物結晶結成の際の針状體樣に、巨大な尾根又尾根の一群が衝突して屈強な山巓を盛り上げた。 この山嶺は三つの國土から遙かの彼方にその水色の森をのぞかせ、波打つ丘陵地と水量豐かな溪流とを四方に送り出す。 巓はこの種の山形によく見る樣に山脈の走路を阻み、かうして山脈はここから北に折れて數日の行程に渡つて連つてゐる。
廢絶した入江にも似たこの森林彎曲の地點こそここに語らうとする物語の舞臺である。 親愛なる讀者を直接事件の人物に招ずる前に、 先づ彼等が生活し活躍した右の幽麗な森林彎曲地帶中の二つの地點を手短かに紹介してみることにする。 神々の惠みを得て彼の地をさまようたその日以來私の胸に宿るあの物狂ほしくも麗しい溪谷の風景をばせめて千が一だけ描き得ればと思ふのみえある。 私逹は逍遙の途次天がすべての人に必ず一度は而も多くは一つの相として贈る彼の二重の夢、 青春の夢と初戀の夢とを、かの地に於いて夢みた。 それは一日幾千の心の中より一の心を選み出でて未來永劫に私逹の所有とし又唯一のもの最も麗しいものとして魂の底深く刻むものであり、 更にその心が逍遙うた山野を眼前に髣髴として永遠に消ゆる事のない花園とそて玄くも又あたたかい不可思議の想像の扉へと投げかけるものである。
今はなきローゼンベルグ一族の灰色の廢墟クルマウの古都と古城から路を西にとる旅人は蕭條たる丘陵の合間彼方此方に一片空色の山影の覗くのを見るであらう。 それは奧地に連なる山脈の會釋とその記しだ。 やがてとある屋根を越えると遂に午前を通じて見た數々の丘はもう姿を見せず、 膨大な青色の山壁が南から北へと獨りわびしく走つてゐる。壁は巾廣な帶をなし、一色に夕空を埀直に區切つて、 谷間を抱き込んでゐる。谷間からはクルマウの邊りに見捨てたモルダウの流れが再びきらきらと光る。 流れは只クルマウに於けるよりも若くその水源に近い。 廣く、豐饒なこの谷には部落が點散してその中に小邑オーベルプランがある。 この山壁は將に北向せんとする先の森林であつて恰好の目標をなしてゐる。 然し目ざす本來の地點はこの山壁の略々八合目にあたるとある湖なのである。
モルダウの谷間から登ると先づ蝦夷松銀松の單調な密林が幾時間となく續いてゐる。 軈て湖尻の溪流に沿ひ傾斜面をなして打開けた野に變る。 此處は荒れ放題の裂け崩れた地層で、專ら暗黒色の土壤、幾千年を閲した植物の黒い死の床である。 花崗岩の岩塊がその上に一面散在してゐる。それが雨に曝され洗はれ浸蝕されて、 恰も蒼白い髑髏の樣に土壤と著しい對照をなして居り、 此處彼處には又崩壞した樹木の殘骸や打ち寄せられた丸太等が累々と横はつてゐる。 溪流を褐色の含鐡水が流下する。水は然し透明で水底の白砂が一面に淡紅色に光る砂金の樣に陽光を浴びて輝いてゐる。 人跡全く未踏、破られたことのない沈默。
一時間の逍遙の後蝦夷松の幼樹林に逹する。そしてその黒天鵝絨の土壤を立出でて更にも色濃い湖面の邊りにと立つ。
幾度か胸躍らして物語の世界にも似たこの沼のほとりへと登つて行つたのであるが、 その度に深い寂寞の情に抑ゆべくもなく心打たれた。 布を打ち擴げたそのままに皺一つない湖は峻險な岩石の合間を穩やかに湛へてゐる。 鬱々と繁つた嚴かな蝦夷松の森林帶がこれを取圍み、 年古びた離れ木の一つ一つが古代建築の圓柱の樣に所々に枝なしの幹をさしのべてゐる。 森林帶の對岸には岩石の臺地が灰色の壁にも似て埀直に頭を擡げてゐる。岩は嚴肅な色彩を四方に擴げてゐる。 下から見た巖の上の松は遙かに高く迷迭香の草の根ほどに小さい。 土の不足から往々松は倒壞して湖面へ落下する。湖上を見渡すと慘澹たる混亂をなして古色蒼然とした樹幹が對岸一帶に折重つてゐる。 それ等がどんよりと黒い水面を區切る樣は、例へばうら悲しいほのじろく光つた逆茂木である。 岩壁の右手はブロッケンシュタインと呼ぶ屈強な花崗岩の破風を盛り上げ、 左側は緩傾斜をなす一帶の屋根へと轉じ、丈の高い樅の林や肌理の細かな苔の織りなす緑布に被はれてゐる。
摺鉢のこの沼には文字通り風一つない。水は湛へたまま動かない。 沼は言はば巨大な暗黒の鏡、その深い奧底から森と灰色の岩と大空とが覗いてゐる。 沼の上には面積の小さい青空が深刻單調なその青を湛へてゐる。 人は幾日となく此處に彳みその思ひをひそめることが出來る。 胸底深く沈んだ物思ひを妨ぐる物音とては僅かに樅の實の落つる微かな響き、短くくぎつた禿鷹の絶叫のみ。
此の湖畔に立ち屡々同じ思ひに襲はれた。沼は不氣味な自然の眼だ。 こちらをぢつと見詰めてゐる。眞黒な眼。岩石の額と岩石の眉の奧から、 暗く繁つた樅の睫毛に隈どられて。そしてその中には身じろぎもしない水が、化石した涙のしづくの樣に。
沼の周圍、殊にバヴァリアに向つては密生林が延びてゐる。 寂たる處女峽谷が溪流をその懷に抱いて巾廣な尾根又尾根の間を走り、 所々に聳り立つ岩壁には幾千とも知れぬ發光體が日を浴びて輝いてゐる。 遠近の森の草地は陽光の下に身を繰り擴げて、雜多な野獸の燦爛たる集會堂をなしてゐる。
これが前に言つた二點の一つである。ここで第二の地點へと移る。同じ水ではあるがこれは優美な水流。 上述の山壁の一高地から見渡した時、眼下に展開した彼のモルダウの光帶がそれである。 尤もここから東に向つて更に略々十時間の行程を行かねばならぬ。 青色の靄にぼかされた山壁の森の繁みを縫うて光帶は森よりも更に強く光りながら曲りくねる谷間に沿うて遙かの彼方までその姿を見せてゐる。
はじめは一筋の光の絲、それがゆらめくリボンとなり、 遂にはほの暗い森の峽にまつはる巾廣い銀の帶。 それから突然――四圍のうら悲しい森の暗の中に優しい月の樣なぽつかりと開いた明るい盆地へと流れは迸り出るのであるが、 軈て又樅と銀松の漆黒の根を潤ほしてゐる。 盆地に入ると氣持のいい野と緑の草地とにさしかかる。 草地には天鵝絨の褥に眠るが樣にその名も麗しいフリードベルグの町がある。 ここからしばらく續いた後で流れは再び物蔭にかくれる。 はじめはイェズイーテンの森蔭、次はキーンベルグの森、 更に最後には魔壁のはざまにと呑み込まれて了ふ。
右に述べたと凡そ同じ範圍にこの森の娘の走路を一望にうちに收め得る地點はとある崩れ落ちた騎士の居城である。 城は盆地から見れば青い空色にかすんだ骰子の樣に山壁の輪廓に浮出てゐる。 フリードベルグの窓々はこの廢墟を西南に見る。町人等はこれをトーマの峯トーマの塔又は簡單に聖トーマなどと呼びならはしてゐる。 城は太古の騎士の居城でその昔住んだ騎士の殘忍故今魔法にかけられて暴風雨と日光に曝されながらも幾千年に亙つて崩れ落ちることが出來ないのだと言ひ傳へてゐる。
過ぎし日幾度この古びた城壁に腰を下ろしたことであらう。 興に乘つてはものの本の讀み耽り、ひたむきに目覺めんとする青春の甘いときめきに耳傾け、 崩れ落ちた窓越しに青空を見やり、さては傍の繁みを走る金色の小動物に見とれ、 或は又これ等すべてを止めてなすこともなく只靜かに默々と壁と石とに降り注ぐ陽光を身に感じつつ、 憂愁にみちたこの場所に住んだ最後の人々の運命を未だ知るに至らなかつた頃も、 好んでそして又幾度か私はこの地を彷徨うた。
物聞かん術もない外壁に圍まれて灰色の四角な塔が緑なす草地に立つて居る。 中庭には綾なす森の千草が咲亂れその間にましろな石の數々をちりばめてゐる。 塔の周は芝草であり、彼方此方に平たいもの、塊、細長いもの、 その他不思議な形をした樣々な花崗岩が散在してゐる。 大小の室一つとしてもう人の住み得るものはない。 漆喰と上塗の跡形もない壁のみひとり澄み渡つた大空に聳え立つてゐる。 そしてその高所には所々に訪ふ人もない扉ともう上り得べくもないバルコン。 バルコンの側に並ぶ窓々はもう夕陽に照り映ゆることもなく、 はびこるに任せた美しい雜草がその飾窓に繁つてゐる。 凹壁に武噐はなく只斜に射す陽が幾百の金矢を織りなすばかり。 ありし日飾り床に燦然と輝いた寳石のよすがともなるものは今や巣ごもれる駒鳥の黒い問ひたげな瞳のみ。 壁の果つるところに屋根を支へる梁は見えず、只濃青の空を區切つて蝦夷松の幼樹がその緑色の生活を始めようともがいてゐる。 地下室、廊下、居間、すべては塵芥の山。黒い眼の草花がこれを追うて咲き榮えてゐる。 塵埃の山のあるものは屋内から三階の窓にも逹してゐる。 ここに登る者の眼前に展がる光景。それは四圍の悲しみの記念物の數々とは凡そ逆な感じではあるが、 これこそ芽生えんとする印象に完成の一線を引くものであることを忽然として感ずるのである。 見よ!ほの暗い樅の梢を遙かに越えた彼方に無限の展望が四方にひろがつて汝の眼に流れ込み忽ちその光にまなこ眩むではないか。 呆然として自失せる汝の瞳はゆらめく陽光の霧のさなかにただよひ、 緑なす山嶺の彼方をさまよふのであるが、やがて峯々の背後なる一線青色のうすぎぬへと及ぶ。 それはドナウの彼岸五穀のみのる傾斜地と果樹林とをのせた惠み多い國土である。 最後に視線は眼界を區切る彼の厖大なる半月形、ノーリック・アルプスの山々に逹する。 晴れた日には大ブリールが青空にかかつた白い綿雲の樣に光つてゐる。 トラウンシュタインは結晶した蒼穹のさなかに蒼白い雲の輪廓を描き出してゐる。 アルプス全連山の遠峯は透明な魔女の帶の樣に天をひき包んでゐるが、 その端はたをやかな殆ど目に見えない光の綾絹となつて消え去つてゐる。 その弱光のあいまに微動する白い點又點、恐らく更に遠い山脈のいただく雪であらう。
瞳をめぐらして北を見よ。ここには巾廣な山壁が安らかに身を横たへてゐて、 麗はしい濃青へと色あせつつモルダウの流を遡るにつれ次第に低くなつてゐる。 西には森又森の快い青はあり、遙かに遠いその間からをちこちに纖美な青い煙の柱が晴れた空に向つて昇つてゐる。 この風景に言ひ知れぬ愛と憂愁が住んでゐる。
旅人よ。さてこの風景に見飽いたならば共に二百年の昔に歸ることにしよう。 廢墟に咲き誇る青い釣鐘草と雛菊と蒲公英と幾千のその他の雜草を頭から拭ひ去らう。 その跡には外壁のほとりまで續く白砂を、入口には屈強な山毛欅の門、塔には暴風にも毅然とした屋根を、 壁には輝く窓を置かう。部屋々々を分けて、あらゆる美しい家具と住み心地のよい裝飾で飾らう。 そこですべてがありし日のままに、金工の鑄物場を出て來たばかりの姿になつたなら、 さあ共に中央の階段を二階へ昇らう。扉がさつと開く――はて、愛くるしいこの二人は。
これはヰッティングハウゼン家のハインリッヒの娘逹で、 私逹が今居る所もハインリッヒの居城なのだ。今はやはり廢墟となつてヰるが近くに聖トーマと言ふ小寺院が建立され、 その名前がこの城に移つたもので、以然は城もヰッティングハウゼンと言はれてヰた。
妹娘の方は窓邊に坐つて縫取りをしてゐる。未だ朝早くなのにもうすつかり氣付けを濟ましてゐる。 三十年戰役時代の繪畫に今でもよく見られる樣な非常に繪畫的な樣式の淡青の着物。 すべてがしつくりしてゐる。きりきりしやんとした袖口に胴衣、引裾の皺一つにも心が配られ、 どの蝶結びもきちんとしてゐるし、どのふくらみも立派である。 着付けの全體構築の上に破風格で小さな綺麗な頭が浮いてゐる。 どこまでも金髮で古風な衣裳の中から殆ど不思議な若さに輝いてゐる。 見るとすぐ分る樣に彼女はこの着物を着ることが大變嬉しくてそれで着てゐるのである。 暗褐の殆ど黒めがちの眼が、ふと物に驚いて或は物問ひたげな風情で見上げる樣な場合に、 ブロンドの捲毛と竒妙な對照になる。然しそんな時まんまるい目があどけなく枠に收まつてゐるので、 悲しみと情熱に觸れたことのない若い魂が世の中が餘りにも廣くてすばらしいと言ふので、 その小窓から無邪氣におづおづと覗いてゐるのが、見る者の眼にも分る樣に思はれるのである。 髮の樣子から見れば十八の上、目から察すれば十四以下多分その中程であらう。
姉娘は未だ着付が濟んでゐない。白い寢衣のまま安樂椅子樣のものに腰掛けてゐる。 椅子の上に澤山の紙や羊皮紙の卷物をぶちまけてその中を何やら搜してゐる。 漆黒豐富な毛髮は無慘にもほどけ落ちて、ひだに富む寢衣の雪の白さを落下する飛瀑の樣に斷ち切つてゐる。 麗しくも才長けたその顏。只思ひなしに蒼白さはあるが却つてそのため兩の眼が毛髮の色と映えて一入黒く輝いてゐる。 黒ダイアの瞳、妹の褐色のよりももつと大きい位。部屋は娘逹の居間兼寢室であらう。 奧には樫の木造りの寢臺が二臺据ゑられてゐる。それぞれに絹の天蓋があり、花咲くばかりの緞帳が埀れてゐる。 今使用されたものか腰掛と足臺は位置が亂れて白い寢衣の類がしどけなくその上にたれかかつてゐる。 祈祷臺は祈る姿がお互に見えない樣にそれぞれ別な窓下においてある。 何故なら信仰は戀と同じ樣に人をぢするものなのだから。 化粧臺には狹い長い鏡がありその他はみごとな寳石類が並んでゐるだけである。 未だ朝非常に早いことは屋外に長々と引いた物蔭や露に濡れた樅の木が銀色に光つてゐるのでも分る。 空は快晴。アルプスの連峯が枠にはめられた樣に二つの窓の中に見えてゐる。 そして光り輝く大空がその上に擴がつてゐる。
窓邊の娘は縫取りに餘念がない。ほんの時折眼をあげて姉の方を見やる。 姉は急に搜しものを止めて豎琴を取上げる。そしてもう先刻から切れ切れなしのび音が夢みる樣にこぼれて來る。 音は何の連絡もない。例へば水底に沈んだメロディーの點々と現はれた島。
突然妹は口を開いた。「ね、クラリッサ。隱さうとしてもその歌よく知つてますわ。 又歌ひたくなつたのね。」
話しかけられても答へもせず姉は二句程口づさむ。
「見たるは白き骸骨と
かたへには金の冠も。」
そこまで歌つて止めたが琴を持つたまま絃の間から姉は妹の無邪氣な顏をぢつと見た。
妹は優しいまるい眼でこれに答へてそれから殆どおづおづと言ひ出した。
「何故だか私その歌氣味が惡いのよ。不吉な豫感がして。意味がとても恐いんですもの。 それにお姉樣がこの歌ばかり歌つてらつしやるのをお父樣もお好きでいらつしやらないことは御存じでせう。」
「だけどね、この歌つくつた人とても優しい親切な方なのよ」と姉は言葉をさへぎつた。
「ではその方は同じ樣にもつと優しい、もつと氣持のいい歌をつくることが出來た筈だわ。 歌と言ふものは優しくてあどけないものでなければいけないわ。 みんなが好きになつてこの歌のように恐がられない樣に」と妹。 クラリッサは妹の言ふことを聞きながら殆ど母親がする樣に優しい愛をこめて妹を見てゐたがやがて言ふのだつた。
「本當に優しい深切なひとね、あなたは何て純なのでせう。でもあの恐怖、あの戰慄こそ、 私逹の深い深い良心なのよ。遂には二倍もの親切に變るものよ。」
「いいえ、いいえ」と、一人は答へた。「私はもう始めからすぐ優しいわ。 歌は氣持よくつて朗かでなければいけないと思ふの。今日の日の樣に、 見渡す限り雲一つなく、どこもここも青々々、まじりのない氣持のいい青、 御姉樣の歌はいつも霧や雲それとも月の光の樣ですわ。 月の光も綺麗には違ひないけれど、みんなが恐がるのよ。」
「限りもなく美しい浮雲、流れ雲!!」とクラリッサは答へた。 「荒れ果てた大空に咲き誇る姿、山にかかつて輝く樣、夢みる態、光る宮殿になりむくむくと一杯に陽を受けてゐる風情、 疲れて睡たげな子供の樣に夕暮に燃立つその赤さ。ね、ヨハナ、あなたの天國は何て純なのでせう。 深くて美しくてひんやりしてて。でもその天には今に靄がかかるのよ。 人はそれに呪はしい情熱と言ふ名をつけます。あなたは靄を大變樂しいものだと思ふでせう。 青空の中に搖れ動いてゐる天使だと呼ぶでせう。所がこの靄からやがて燃ゆる電閃と暑い雨とが來ます。 その雨はあなたの涙よ。所がもつとこの涙の中から美しく光つたあの虹の門、人の手の及び難い約定の門が生れるのよ。 すると月明りも純に思はれあの歌が優しい歌になつて來るわ。 世の中はね、大變廣くつて同じ喜びの中にも烈しい喜びがあつて、 そのために胸が裂けるのよ。又同じ惱みにもまごころこめた惱みがあるものよ。 それはしんみりとした。」
ヨハナはつと立上つて姉の許へつかつかと歩みより、言ひしれぬ優しさをこめてくちづけた。 そしてその首に兩腕を投げかけて言つた。
「お姉樣はいつもさうよ、判つてゐますわ。お姉樣は胸をいためていらつしやるのね。 でも忘れないで頂戴。お父樣があなたを愛していらつしやるのよ。 御兄樣も私もそれから人は誰だつてきつと。御姉樣は他のどの方よりも御優しいんですもの。 本當はそんな口きくものではないわ。それよりか歌ひませうよ。何でも、あの王樣の歌だつて構はないわ。 ちやんと知つてるのよ、お姉樣つてば今朝起きた時からあの歌のことが氣になつてゐたんですもの。」
クラリッサは子供らしい唇に心から二度接吻を返した。 その唇の今盛り上らうとする無心な美しさを姉は戀人の樣になつかしんだ。 やがてほほゑんで言つた。「心配しなくとも大丈夫よ。ほんとに。 あなたの美しい花模樣の刺繍をうんと手傳つてあげるわね。お父樣が御喜びになるわ。」 ヨハナと向合ひにクラリッサは刺繍枠に坐つた。ヨハナは草花を刺してゐたが姉は甘んじて背景その他を刺した。 二人はそれから色々世話話をしたがやがて默りこんえ了つた。 それから又話し出した。會話の奧にはいつも心から愛し合つてゐる二人の姉妹の思ひやりがこもつてゐた。 尤もそこには姉娘が妹をやさしくいたはる風情が見えた。 小さい方は何か心にかかることがありげに思はれた。 先刻から何度も言ひかけては口ごもつた。然しやがて思切つてある大膽な密獵者の話を話し出した。 ヨハナの聞いた所によると此の男は西方の森を選んで住んでゐる。 ヨハナの時代にはこの森は今日に比べれば遙かに深いものであつたのである。 密獵者の身邊には世にも不思議な噂が立つてゐた。魔彈でなければどんなに射つてもこの男は死なないし、 又夜になると現身のこの世には全く居もしない樣な魔者逹と色々語り合ふのだと言ふ。 この話はヨハナが現に昨日聞いたばかりなのだ。
クラリッサはそれに反對して、そんなことは迷信が尾に鰭をつけたのだ、 世間の人と言ふものは本當に恐い話を喜びたがるものだから、 そんな男などはじめから、居ないのかも知れないと言つた。
「いいえ、居ると思ふわ」とヨハナは熱心に口をはさんだ。
「それにしてもその人は世間で思つてゐる樣な人ではきつとないわ」とクラリッサが答へた。
「ええ、きつともつともつと惡者だわ。ショピッツェンベルグの可哀想な粉屋のこと知つてるでせう。 その男に射ち殺されたのよ。」
「まあ!はつきり分つて居ないことをそんな風に言ひ觸らすものではないわ。 あの粉屋はスヱーデン軍の間諜に使はれたのよ。だから殺されたんだわ。」
「さう。みんながさう思つてゐるのよ。然し誰も證據を見せることは出來ないわ。 ――あのね、これはお姉樣だけに申し上げるわ―― 騎士のところからお父樣に手紙を屆けて來た獵童が下人部屋でその男の噂してたのを昨晩きいて了つたのよ。 その男は脊高のつぽで、樹木の樣にがつしりして、剛髯をはやし、長い獵銃を肩にして幾日も幾日も林を縱横に歩くのよ。 こちらの平地に住んでゐる人々の中でその男を見たものは殆どないのだけれども、 獵童はお姉樣とわたし程間近から見たのですつて、そして確かにその男が人殺しをしたのです。 粉屋の死骸はパルクフリーデルの森のあの岐れ路のマリア樣の傍にあつたのよ。 身體中傷は一つもなくて只顳[需|頁;#1-94-06]を打ち貫いた小さな彈丸の跡だけですつて。 そしてこんな小さな彈丸を使ふのはあの密獵者だけなの。 それからも少し言つたことがあるんだけど、それは餘り罸當りなことだから本當ではないと思ふわ。」
「なあに。」
「此の密獵者はね、鐵砲を只ズドンと射ちさへすれば誰でも思ひ通りの人に必ずあたるのですつて。」
「まあ、あなたはそんなお話ばかり聞きたがるのね」とクラリッサは大變眞面目に言つた。
「恐しい根も葉もない嘘ばかりだわ。若し私逹がこれから先神樣の攝理に御頼りしなければならないのなら、 それが神樣の御思召なら、神樣がそんな意地惡な竒蹟をお許しになる筈はないぢやないの。 神樣には宇宙のこと何でもお出來になるのですし、 それに神樣にお頼りするのは私逹の務めであり喜びなのですもの。」
「私だつてそのまま信じはしなかつたのよ」とヨハナもしみじみと言ふ。 「ですけれどそこで話を聞いてて、腰元逹がまるで顏色を失つてゐるのを見ると、 私もぞつとしましたわ。そして行つて了はうと思ひながらも、 つい又言葉に引きよせられて了つたのです。彼の人は何もかも全く目の前に見える樣に話すのですもの。 向ふの山奧にある森のこともすつかり。向ふでは森がどこまでも涯なく擴がつてゐてそれに比べると私逹の森なんかまるでお庭なのよ。 綺麗な暗い魔の湖が眞中にあるんですつて。岸には不思議な岩や不思議な樹木が立つてゐて、 開闢以來曾て斧の響いたことのない深い林が湖を取りかこんでゐるんだわ。 湖に出る程奧までは未だ行つたことがないけれどもその中にそれを決行しようと獵童は言つてゐるわ。 行くとなれば銀の魔彈を携へて行つて例の密漁の人殺しをお目に掛り次第やつつけるんですつて。 相手は鉛彈には不死身なのよ。」
「では何故一體もつと早くやつて了はなかつたのかしら、 あなたが言ふ通りこれまでに何度も逢つたのでしたら」とクラリッサは言つた。
「それ御覽。あなたは無邪氣なお馬鹿さんよ。そしてその若者は法螺吹きの曲者だわ。 あなた逹を恐がらしてそれで偉者振らうとしたのよ。私だつたら話なんか聞きやしないわ。 例の人だつてきつと何の罪もない山番よ。それともそんな人全然居ないのかも知れない。 あの森に分入つた人々はみんな若々しい草花や雜草やすばらしい樹木の繁茂した美しい原生林、 無數の名も知らぬ鳥や獸の棲家を見たばかりで少しも怪しいことには出逢はなかつたのだから。」
「でもグレッケルベルグの河では最近豬の頭蓋が流れて來てそれに小さな彈丸が着いてゐたのよ。」
「さあもう止しませう」とクラリッサは微笑みながら言つた。 「森とか湖とか骨とか獵人とかあんまり多すぎてこの薔薇の角の所がみつともなくなつたぢやないの。」
丁度盜賊や魔法に關する想像が最も逞しく羽を延ばす年頃になつてゐるヨハナはなかなか止めようとはしなかつたが、 クラリッサはもうその口には乘らなかつた。そこでヨハナがけなされた薔薇を辯護したことから話は刺繍のことに移つた。 それからヨハナ一流の意表外な飛躍を遂げながら話は續いた。舞踏の話と思へば死のこと、 戰さの準備の話かと思へばラ・ンデルの花が、ジャムが、彗星が話題になつた。 心臟から脈搏が跳び出す樣に輕妙な思付の群がぴよんぴよんと躍つて、 次々に乙女の唇から流れ出る。そのつぶらな眼は大きく見開いて私逹を優しく見てゐる。 賢者逹のあらゆる善知にもまして私逹は思はず心を惹かれる。 神の純粹な作品、人の心と言ふものはあらゆるものに勝つて貴いものである。周圍の惡に染まず、 惡の世界に就いては夢にも知らぬ心が極端な努力でかち得た修養に比してどれ位神聖なものであるかは言葉では言はれない。 何故なら修養の人の面には常に以前の荒廢の陰翳がまつはつてゐて、 その痛ましい印象は消えるものではない。胸中の惡を抑へんと勉むる力がむしろその人の惡への慾望の逞しさの證となる時、 私逹は殆ど畏怖の念すら抱くのである。この人を驚歎はするのであるが、 心の自然の愛と言ふものは胸に何の惡も棲んでゐない人々に向つてのみ迸り出る。 さればこそ二千年の昔彼の一者なる人の言葉に、「この小さきものの一人を躓かするものは禍なる哉」とある。 私逹がかうして二つの美しい顏貌を見、一つ一つが瞳の銀光の輪に篏めこまれて、 透明なダイヤモンドの樣なその言葉の數々を聞いてゐると、 質素なこの室が日常の家具が並んでゐるにも拘らず神聖な清らかな例へば寺院の樣にも思はれるのである。
太陽はもう森の上に昇つてゐた。午前の日射しが輝き渡り靜まり返つた梢の上にきらきらと光つてゐた。 一筋の明るい陽光がやはらかに刺繍の上に注ぎはじめた。すると――戸の外で行儀よく物靜かに入室を求むるノックの音が聞えた。 つとヨハナが立つて未だかけたままになつてゐた閂を急いで外した。 直ぐ優しく會釋しながら一人の男が這入つて來た。 娘逹の父はその朝の室にこの樣につつましくこの樣に慇懃にまるで餘處から來た人の樣に入つて來たのである。 當時彼はもう非常な年配であつたが實に立派な老翁であつた。 ヴァンダイクの書額から拔け出た樣なその姿――黒天鵝絨の衣服をまとひ丈高く堂々たる風貌、 頭髮は純白、輝く銀髯は廣くみごとな老人の胸の上に波打つ如く埀れ下つてゐた―― 眼は巖の樣な皺のある額の下に強い輪廓をなし物言ふ如く。 その姿はまるであの豫言者逹の時代のものとも思はれ、 ありし日の逞しくも雄々しい力と人柄の偉さのしのばれる姿、 騷しい雷雨の後に鳴りをしづめた晩夏の風景にも似て今は只思遣りの柔和な夕陽に照らし出された姿、 秋の實り田の上に顏を出す疲れた滿月の樣に、靜かな柔かな深い思ひやり。 彼はその頃未だ僅かながら見受けられたうらぶれた騎士道の面影を殘してゐた。 他の花はみなとうに穀物倉に刈り集められた時、 刈跡の秋の野の咲く百合のひともとにも比べられる凡そ四圍にそぐはない存在であつた。
二人の子供は父の意を讀まうとする樣にその眼を見つめる。 父は刺繍を續ける樣にと言ふ。それが續けられると父は脇目もふらずしんみりした愛のこもつた眼で二人を見てゐる。 彼は刺繍を調べる。それを讚める。あれこれと尋ねる。そして子供逹の間にはいつも適切な答を言ふ。 答は油の樣に子供逹の心へ流れこむ。
乙女逹の母は十年も前に他界してゐたので、年老いた父が母なしの娘逹の間にゐるのを見ると一入心を動かされた。 乙女逹に惠まれなかつた愛を女親の分までも取り返さうと氣を遣つてゐる男親の態度に一種言ひしれぬ優しさがあつた。 末娘には特に愛が足りないかの樣に父は妹娘に心をつかつた。
娘逹のささやかな家政に何か要るものはなかつたか、刺繍の絲がなくなりかけてゐはしないか、 着物や布地はきちんと綺麗にしてゐるかどうか、下婢や腰元逹に何か落度はなかつたか、 その他何かないものや慾しいものはないかなどと訊ねて、 どの問にも「いいえ」とか「まあ、おやさしいお父樣」とか言ふ答ばかりであつた時、 父はにこにこして、でもわしはアウグスブルグの町から綺麗な珍しいものを持つて來る樣に注文してやつて置いたよ、 來たらお前逹自分で自由に選りとるがよい、一週間の中にはきつと來るに違ひないと思ふ、 そしてこれでわしは名譽と喜びとが得られると言ふものだよ、 それ迄に精々慾しいものやおねだりするものや、何が要るかしら、若しやあつたらあれを取らう、 あれは取るまいなどよく考へておきなさいと言つた。 それから何か苦しいこと望ましくないことが心にかかつてゐてそれを口に出すのを少しでも延ばさうとしてゐる樣に娘逹の色んな小さなことにまで口を出して熱心に話した。 ヨハナの鷄のこと、小鹿と野鶲のこと、それから窓の草花―― クラリッサの琴と寫生帳、手紙や遠く離れてゐるお友逹の消息など。 最後に金髮の子に向つて父は、もう夕べの御祷りを眠つて了ふ樣なことはないだらうな、 ほんの二三年前迄はお前はバルコンや庭の芝草の上にすつかり寢こんで了つてゐるので、 それを連れ上げて消え殘つた夕陽の光を浴びながらやつとこさで着物を脱がしたものだがと聞くのであつた。 それから更に二人に向つて、 お前逹は御祷りの時にはいつでも亡くなつたお母樣のことを思ひ出すだらうなと感動をこめて尋ねた時に、 二人にも父親が何か心に懸ることがあつてそれを打ち明けるのを恐れてゐると言ふことがよく分つた。 多くの剛毅な人々がよくさうである樣に、 彼は娘逹に對して父としての心遣ひと同時に又戀人の持つ樣な不安にも似たものを持つてゐた。 この點こそこの強壯な老人に見られる最も美しい長所の一つであつた。 ところが娘逹の方も父に對する畏敬と尊敬は限りなく一層深いものであつたので、 二人とも父の樣子をぢつと見ながら不安で一杯であつた。然し誰も口を切るものはんかつた。 愛は例へば徳の樣にあらゆる形態に於いて小心である、そして畏怖は恐怖自らよりも更に臆病である。 娘逹が父を理解してゐた樣に父にも娘逹の心がよく分るのである。
たたみ目が崩れないやうに注意して綺麗に疉んだ白リンネルを取除けて安樂椅子を窓近く刺繍枠の傍へ押しやつて、 父はその上に娘逹と向合ひに腰をかけた。相變らず上べは居心地がいいからさうした樣に。 娘逹の前をつくらはうとすてゐるのが、實はむしろ平氣らしい素振りで自分自らを、慰めてゐるのであつた。
「お前方はもう聞いて知つてゐることと思ふが、實は昨日自分で歸つて來たのではないが、 騎士が狩獵の旅先から手紙をつけて使ひを寄越してな」と彼は切り出した。 「みんな非常に面白かつたらしい、獲物がしこたまとれた模樣だ。それに向ふの森はさながら庭園で、 美しくて、靜かで、すつかり人里離れて人手が及んでゐない樣は、いくら讚めても讚め足りぬ位ぢやさうな。 もう今では四週間以上も騎士は向ふで狩獵の樂しみに憂身をやつしてゐるわけだ。 一行のものが森に別れを告げるのが如何にも辛いさまは手紙を讀んだだけでもほろりとさせられるよ。 『外の世界からは何の氣配も豫感も這入つて來ないのです。 そして莊嚴な靜寂が數日の行程に亙つて同じ姿でいつまでも續いていつもその優しい姿を小枝や木の葉がくれに見せて居て、 最もかよわい小草でさへのびのびと生ひ茂つてゐるのを知つては人間の世界にここ數年間と言ふもの戰爭と破壞の騷音が荒れ狂うてゐるやうなどは殆ど信ぜられない程です。 外界では最も高價な最も精巧な存在物である人命があわただしくわけもなく破壞されてゐるのに、 この森では最も微小な草花が正反對の辛勞と細心とをかけて育てはぐくまれてゐます」と騎士は言つてゐる。 ね、お前逹。あの人逹は素晴らしい岩山を見つけたんだよ。 森から高く首を擡げてゐてそこに登るとここの城が見えると言ふのだよ。 こちらからも赤い隅の部屋から見ればそれが見えるに違ひないと言つて來てゐる。 今日にもあの部屋に望遠鏡を仕立てて、その岩はブロッケンシュタインと言ふのだが、 岩臺が發見出來るか見てみようではないか。 それとも冬前に一そのこと皆であの美しい原始林へ遠足に出かけたらもつと面白いかも知れないな。」
ぎよつとして父親を見上げたヨハナの瞳が光つてゐた。父の眼はこれに答へてにこやかにその意を問ひ返した。 立上つて室内をあちこち落着きを失つた樣に歩き廻つた。ヨハナはうれはしげに父の素振りを見守つてゐた。 やがて父はヨハナの前に進み出て眞劍に心をこめて言つた。 「愛くるしい臆病ものの小鹿さん。――どうも止むを得ない、みんなであの森林地へ行かねばならんかも知れん。 ――まあ、お聞き――この夏中いろいろと心を碎いたことに就いてどうしてもお前逹に話さねばならなくなつた。 此の手紙はローゼンベルグからのものだ。これはゴルデンクロークから、こちらはプラーグ、 次はマイセン、最後の一つはバヴァリアからだ。 今日まで私はお前逹は知り度くもないことで心を傷める樣なことがない樣に戰場方面の情報はいつも知らさないで來た。 然し私は戰場にはどこにも通信網をはつておいて絶えず現在状況の動向に關する知識と將來の豫想が立つ樣にして置いたのだよ。 すべては祖國のためと、神樣によつて定められた通ち父としての喜ばしい務め、 と言ふのはお前逹を保護するためにしたことです。敵軍は冬前に上部ドナウ地方への進出を企ててゐて、 その右翼が私逹の山を乘り越えて行くことに決定してゐる。 このスヱーデン人逹は私の名を十二分に承知してゐるし、 假令知らぬにしてもあの仲間が私逹の家を行きがけの駄賃に掃蕩すて了ふだらうと言ふことは十分信ずべき筋がある。 この冬の初雪は恐らくこの城の黒く燒け落ちた壁の廢墟に降りかかることだらう。――それは構はぬ――家は又建てるさ。 それにお前逹の一身に關しては私は一番よいと思ふ方策を立てておいた。 金銀財寳の處置をどうするかは後でお話しよう。今はもつと大事なこと、 お前逹の身の振方に就いて、深林の奧に一つの足場があつて、私はとうから知つて居た。 寂しいところで人里から全く離れて、一筋の山徑も人の通る足跡も、 その他凡そ人の氣配と言ふものは影も見えない。それにこの場所は四方が塞がつてゐて通路は唯一方だけ。 ここさへ用心すればよい。その他のことは何もかも不思議に思ふ程このましく優美で、 例へて見れば優しい荒野の微笑、人の憂をしづめる護照であり、招待の手紙だね。 ここに一軒の家がある。私がこの夏建てさしたのだ。お前逹が樂しく氣よく住める樣にすつかり設備もすんでゐる。 こちらの城が復興して再び危險がなくなるまではお前逹にはあちらに住んで貰はねばならぬ。 誰も家のあることを知つてゐrるものはない。建てた者逹はみな私とは三重ものつながりに結ばれてゐるのだから。 先づ私はみんなから誓約をとつておいたし、第二にその者逹は皆數年來臣下として私に忠節をつくして來たし、 最後に私は近頃からふとした機會である仲間の全動産を保管して戰禍が去るまで私の財産と一緒に保護することになつて居つたが、 その仲間だけを今度の用に選んだのだ。この者逹が誓約を破つて私に危害を及ぼす樣なことは先づあるまい。 みなの者は非常に峻嶮な岩越えの間道から現地へおりて行つたがこの間道は今では岩石爆破作業によつて通れぬ樣にしてある。 私逹はこれまで人の通つたことのない森の奧地を拔けて廻り道をすることにならう。 この方は地面が平らだからずつと樂だと思ふ。騎士の考ではその邊では森が極めてまばらで恐らく馬で行くことさへ出來るだらうとのことだ。 少し行くと路はいくらか困難になるが、 その邊で山案内が一人他の路傳ひに自分の村からやつて來て私逹を待つてゐる手筈になつてゐる。 お前逹には山轎が用意されてゐるだらう。森は原始的ではあるが、このあたりと同じ樣に美しくて親しみ深い森だよ。 それから人と言つてはお前逹は滯在してゐる間中召使逹の他には誰にも逢はないことと思ふ。 まあこれだけして置いた。お父樣はこれでいいと思ふ。さあ、お前逹。何か言ひなさい」
二人とも死んだ樣にだまつて父をぢつと見てゐた。
父は微笑んで「それで!ヨハナ。此處のお部屋のことがそんなに悲しいかね。 あ!あちらの部屋もここと同じ造りで調度もすつかりこのままなんだよ。え!」
ヨハナは非常な努力をしておづおづと口を切つた。「でもあすこには人殺しの密獵者がゐる。」
父親はこれをきいてぴくぴくと眉を動かした。然しやがて大變物靜かにしつかりとした語調で言つた。 「そんなもの居ません。こんな馬鹿げた噂がお前逹の部屋まで這入つたことは甚だ殘念なことだ。 私は不快千番ぢや。そんな者は居やせん。私の言ふことを信じなさい。 騎士はここを留守にしてゐるこの三ヶ月と言ふものフィリックスと一緒に森を縱横に驅馳してあらゆる奧地の住民や、 炭燒き、木樵り、或は山番の小屋を訪ねては例の噂の火元やそれと思しいものを搜したのです。 無用なもくろみではあつたが、私逹の氣持を安んずる爲にわざわざ企てたことです。 そんあ男は影も形もゐない。この地方には理由もなく傳はつて來たあの噂さへ向ふでは聞かれやしない。 非常に殘念なことだ。お前方はこの噂故につまらぬことを想像しては心を惱ますだらう。 不孝者奴!一體お前はヨハナ、お父樣がお前を盜賊や人殺しの所へ出してやると思ふのか。 それに假令密獵者がゐたにしても、その人は綺麗な老翁で却てお前方の世話をしてくれることになるだらう。 そしてお前はすぐにお父樣を愛する樣にすきになつて了ふよ。 さあ機嫌をおなほし。向ふに行けば又向ふが離れにくくなるよ。 愈々この城が又新しく今までにない程美々しく飾り立てが出來たとお前逹に知らせる日になると、 きつと又嬉しさに目を輝かしながらもお前逹は住みなれた場所を去るのが悲しくて涙ぐむだらうよ。 安心しなさい、つまらぬ考はかなぐり捨てておしまい。考へても御覽、 一月するとこの邊は一面戰場となつて砲煙に包まれ、此の室で立琴がなる代りに干戈のとどろきと殺風景な工事の響が起るのだ。 氣を取りなほしてさあ用意をなさい。一週間以内に出發しよう。 それとも今度のことに就いて未だ何か言ふことがあるかね。」
娘逹は二人共喜び勇んではゐなかつた。然し何も言ふことはなかつた。 いつもの樣にお父樣の意圖はそのまま立派であつた。 二三日中にすつかり旅仕度を調へませうと約束した。此の朗かに晴れた朝の部屋に、柔和な午前の日射しの中を游ぎながら、 二人の天使の姿に潔められ、嚴かな靜かな外の自然にもとられて今急に悲しみの幕が下りた、 そしてその幕のうしろには當惑した顏が三人。父親は娘故に、娘逹は當面した事件故に。 そしてみながさりげない振りを裝うて、却て愈々こだはるばかりであつた。
それで父親は窓邊に寄つた。飽かず空模樣をながめて、出會ひ頭に妙にこぢれた娘逹の氣持を少しでも和らげようとした。 折から南の地平から昇りはじめた羊雲を數へるのに忙しいものの樣に、 片手を眼に翳していつまでも念入りに雲を見た。娘逹の方は――不思議なことである。 渝らぬ愛の瞳に棲む魔力に觸るると憂ひもみな和む――やさしく見交した二人の目はお互にそれであつた。 さき程あれ程大きく強かつたヨハナの不安が今は全く跡形もなく消えてゐた。 父は微笑を湛へて窓邊から二人の所へやつて來た。 若しお前逹が今日例の森の岩とそれから序に私逹の木造の森の城が床の間に收められた樣にその中腹に位してゐる美しい遠い山壁の走行も見ようと思ふのなら、 あんまり緩りしてゐてはいけない。私が先に行つて赤い部屋に望遠鏡を据付けることにしよう、 空模樣の通りになるとすれば今日は一夕立來るに違ひないからと言つた。 父はいたづらものの樣にヨハナを見た。 ヨハナの唇はもうすつかり紅の輝きを取戻してそつと微笑みながらそれを蔽さうとしてゐた。 父はでも見てとり何もかも分つてゐた。と言ふのは天氣豫報は父の苦手のひとつで、 十遍も當らなければその後で一囘位當つたところで、彼一流の徴候の正確を信ずるのは御自分ばかりになるのに無理もなかつた。 今日も亦例の徴候が鏡の樣に澄んだ空に發見されたのか、 それともこよなきその心ばえ故に父は氣分を引立てようとして只いつはりを並べたものであつたか、 誰も知らない、それでいいのだ、最初の緊張した氣分がいとしい娘逹の顏から消えたのを見て父は心樂しかつた。 朗かに戲れながら出口へ近づいて行つた時、二人だけにしてやるのが一番いいことを父はよく知つてゐた。 「クラリッサ、お前着物をきるのが大變だらうな」と把手を手にかけながらも一度振返つて言つた。 「でもせき立てることはないよ。お父樣にはその前にも一つすることがある。 若しお前逹濟んだら勝手に赤い部屋へ行くがよい。そしてその旨お父樣のところへ言つて寄越しなさい。 でも急ぐことはないよ。」
さう言つて父は部屋を出て背後の扉を閉めた。
天にも地にも代へ難い娘二人。 父が娘逹の着付けの長いのを難じたとしてもそれは言葉を托して何のかくし立てもない信頼の氣持を現はしたのにすぎないのであるが、 娘逹の餘りにも純眞な心にはそれが分らなかつた。二人は遽てふためいてどれかそこら邊にあつた衣裳をつけた。 お父樣を永くお待たせしてはいけないのである。
父が去つた後、唯一囘姉妹は抱擁して、 お互に救け合ひいつまでも離れないで行かうと言ふ固い強い斷つことの出來ぬかための印に二度三度熱い接吻を交した。
げに愛の力は竒蹟である。危險と困窮の時愛するものの目から流るる愛の光は、 假令自らが何の保護もなく保護を受けねばならぬよわい乙女の目であつても、 忽ち私逹の心の周りに確信の鐡壁を築いてくれる。
喜びと信頼とそれから陽氣と冗談と好竒心までも先刻の接吻の中から生れ出て乙女の旨へと流れこんだ。 着つけを遽てて何か間違へたりをかしな風に出來たりすると二人は聲を立てて笑つた。
やつとすんで娘逹は赤い部屋へ急いだ。 行つてみると父男爵に昨日の若い獵人がつまらぬ法螺を吹くものではないとしかられてゐた。 「もういい」と娘逹が這入つて來るのを見て父は言つた。「もういい、さつさと行け――おい、おい、 セバスチヤン、私がそんなに恐いのか」と彼は一段聲を和らげて若者の後から追ひかける樣に呼んだ。 「何さま遽てふためいて逃げ出しをる。下へ行つて一杯酒でも飮め、それとも二杯にするか。さあ行け。」
獵人は去つた。父は大變な機嫌で娘逹の方を向いた。「おや、おや、えらく速く濟んだね。 御覽、すばらしいだらう。どれ、望遠鏡を据ゑて覗くことにしよう。」
そして三人は覗いた。


