日本人と漢詩(028)

◎絶海中津と明・洪武帝


彼が、入明時にときの皇帝・洪武帝との応酬の詩。
釈絶海
制に応じて三山《さんざん》を賦《ふ》す
熊野峰前 徐福の祠《ほこら》
満山の薬草 雨余《うよ》に肥ゆ
只今海上 波濤《はとう》穏《おだやか》なり
万里の好風 須《すべから》く早く帰るべし
明・洪武帝
御製 和を賜《たま》う
熊野峰は高し 血食《けっしょく》の祠
松根の琥珀《こはく》も也《ま》た応《まさ》に肥《こ》ゆべし
当年徐福 仙薬《せんやく》を求め
直《ただ》ちに如今《じょこん》に到って更《さら》に帰らず
 その頃の明では、日本というのは、徐福が流れ着いた東の国というのが共通認識であったようだ。
 日本の中世では、徐福到達の地、紀州南部から、補陀落信仰の機運が生まれ、幾人かの僧が渡海を試みた。Wikipedia(https://w.wiki/3TDi) 以前熊野の地を訪れた際、彼らの行跡に、とても興味深く感じた。写真は、その航海に使った船の模型。
 実は、徐福が紀州に着いたのは、往路であり、補陀落渡海は、徐福が中国に帰った復路をたどった見果てぬ航海だったのかもしれない。そうすると、絶海中津と洪武帝の詩の応酬も別の趣きを持ってくるだろう。
参考)石川忠久「日本人の漢詩ー風雅の過去へ」(大修館書店)

日本人と漢詩(022)

◎絶海中津


少し、室町時代までさかのぼって…京都五山と呼ばれた寺院在籍の僧侶が中心となった「五山文学」。といっても現在まで「伝統」と受け継がれているかといえばそうでもない。いろいろ原因はあろうが、「新・日本古典文学体系」での入矢義高さんの解説によれば、当時の日本の禅宗にあった、一家相伝主義(丸山真男流にいえば「蛸壺文化」)の影響で、それぞれの僧侶・詩人にあったはみ出た詩的感覚が、削ぎ落とされたことに求められるだろう。その中では、絶海中津(1334-1405)には、感性鋭く、佳品が多い。ネットに掲載されていた七言絶句を一首…
綠陰
綠樹林中淨似秋 綠樹の林中  淨《きよ》きこと秋に似て,
更憐翠鎖水邊樓 更に憐れむ 翠《みどり》 鎖《と》ざす  水邊の樓
乘涼踏破蒼苔色 涼《りゃう》に乘《じょう》じて 踏破《たふ は》 す  蒼苔《さうたい》の色
撩亂袈裟上小舟 撩亂《れうらん》たる袈裟《けさ》  小舟に上《の》ぼる
晩春から初夏での風景であろうか、解説や語訳は以下を参照のこと。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/jpn385.htm
写真は、絶海中津ゆかりの、京都・相国寺。子ども時代に何度か、祖父に連れてもらった記憶がある。