テキストの快楽(007)その2

◎木村久夫遺書「きけわだつみのこえ」より


木 村 久 夫き む ら ひ さ お
  一九一八年(大正七)四月九日生。大阪府出身
  髙知髙等学校を経て、一九四二年(昭和十七)四月、京都帝国大学経済学部に入学
  ー九四二年十月一日入営
  ー九四六年五月二十三日、シンガポールのチャンギー刑務所にて戦犯刑死。陸軍上等兵。二十八歳

 死の数日前偶然にこの書*を手に入れた。死ぬまでにもう一度これを読んで死にこうと考えた。四、五年前私の書斎で一読した時のことを想い出しながら、「コンクリート」の寝台の上で遥かなる故郷、我がかたを想いながら、死の影を浴びながら。数日後には断頭台の露と消える身ではあるが、私の熱情はやはり学の道にあったことを最後にもう一度想い出すのである。
 この書に向っているとどこからともなくずる楽しさがある。明日は絞首台の露と消ゆるやも知れない身でありながら、尽きざる興味にきつけられて、本書の三回目の読書に取り掛る。昭和二十一年四月二十二日。
*田辺元『哲学通論』。

 私はこの書を充分に理解することが出来る。学問より離れて既に四年、その今日においてもなお難解をもって著名な本書を、 さしたる困難もなしに読み得る今の私の頭脳を我ながら有りがたく思うと共に、過去における私の学問生活の精進を振返って、楽しく味あるものと喜ぶのである。

 私の死こ当っての感想を断片的に書きつづってゆく。紙に書くことを許されない今の私にとっては、これに記すより他に方法はないのである。

 私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢ねんれい三十に至らず、かつ、学なかばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾はらんの極めて多かった私の一生は、またもやたぐいまれなー波瀾の中に沈み消えて行く。我ながらー篇の小説を見るような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観ていかんが湧いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のようなかげの犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。

 日本は負けたのである。全世界の憤怒ふんぬと非難との真只中まっただなかに負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで行くのである。これで世界人類気持が少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種をのこすことなのである。

 私は何ら死に値する悪をした事はない。悪をしたのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸のかたきを長崎でたれたのであるが、全世界から見れぱ彼らも私も同じく日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように见えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやというほど他国人にいて来た事であるから、あえて不服は言い得ないのである。彼らの眼にとまった私が不運とするより他、苦俏の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける。

 今度の事件においても、最も態度のいやししかったのは陸軍の将校連に多かった。これに比すれば海軍の将校連は遥かに立派であった。

 このたびの私の裁判においても、また判決後においても、私の身の潔白を証明すべく私は最善の努力をして来た。しかし私が余りにも日本国のために働きすぎたがため、身が潔白であってもせめは受けなければならなくなった。「ハワイ」で散った軍神も、今となっては世界の法を犯した罪人以外の何者でもなくなったと同様に、「ニコバル」島駐屯ちゅうとん軍のために敵の諜者ちょうじゃ〔スパイ。敵の通報者〕を発見した当時は、全軍の感謝と上官よりの讃辞を浴び、方面軍よりの感状〔戦功に対して上官から与えられる賞状〕を授与されようとまでいわれた私の行為も、一ケ月後起った日本降伏のためにたちまちにして結果は逆になった。その時には日本国にとっての大功が、価値判断の基準の変った今日においてはあだとなったのである。しかしこの日本降伏が全日本国民のために必須ひっすなる以上、私一個の犠牲のごときは忍ばねばならない。苦情をいうなら、敗戦と判っていながらこの戦を起した軍部に持って行くより仕方がない。しかしまた、更に考えを致せば、満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない。

 我が国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、将来の明るい日本のために大きな役割を果す果すであろう。それを見得ずして死ぬのは残念であるが、致し方がない。日本はあらゆる面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的の試練と発達とが足らなかった。万事に我が他より勝れたりと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった。

 かつてのごとき、我に都合のしきもの、意にわぬものはすべて悪なりとして、ただ武力をもって排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく認識し、吟味し、価値判断する事が必要なのである。これが真の発展を我が国にきた所以ゆえんの道である。

 あらゆるものをその根底より再吟味する所に、日本国の再発展の余地がある。日本は凡ての面において混乱に陥るであろう。しかしそれでよいのだ。ドグマ的な凡ての思想が地に落ちた今後の日本は幸福である。「マルキシズム」もよし、自由主義もよし、凡てがその根本理論において究明せられ解決せられる日が来るであろう。日本の真の発展はそこから始まるであろう。凡ての物語が私の死後より始まるのは悲しいが、私にかわるもっともっと立派な頭の聡明そうめいな人が、これを見、かつ指導して行ってくれるであろう。何といっても日本は根柢から変革し、構成し直さなければならない。若き学徒の活躍を祈る。

孝子こうこに早く結婚させて下さい。私の死によって両親並びに妹が落胆はなはだしく、一家の衰亡に至らん事を最も恐れます。父母よ妹よ、どうか私の死に落胆せずに、ほがらかに平和に暮して下さい。

 我々罪人を看視しているのは、もと我軍に俘虜ふりょたりし「オランダ軍」の兵士である。かつて日本軍兵士より大変なひどい目にわされたとかで、我々に対するシッペイ返しは相当なものである。殴る蹴るなどは最もやさしい部類である。しかし我々日本人もこれ以上の事をやって来たのを思えば文句はいえない。ブツブツ文句をいっている者に陸軍の将校の多いのは、かつての自己の所行を棚に上げたもので、我々日本人さえもっともだとは思われない。一度も俘虜を扱った事のない、また一度もそんな行為をした事のない私が、かようなところで一様に扱われるのは全く残念ではあるが、しかし向うからすれば私も同じ日本人である。区別してくれという方が無理かも知れない。しかし天運なのは私は一度も殴られた事も蹴られた事もない。大変皆から好かれている。いる。我々の食事は朝、米粉の糊と夕方にかゆを食う二食で、一日中腹がペコペコで、ヤット歩けるくらいの精力しかない。しかし私は大変好かれているのか看視の兵隊がとても親切で、夜分こっそりと「パン」「ビスケット」煙草などを持って来てくれ、昨夜などは「サイダー」を一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。その物に対してよりも、その親切にである。その中の一人の兵士があるいは進駐軍として日本へ行くかも知れぬというので、今日私は私の手紙を添えて私の住所を知らせた。この兵士らは私のいわば無実の罪に非常に同情して親切にしてくれるのである。大局的には極めて反日的である彼らも、個々の人として接しているうちには、かように親切にしてくれる者も出て来るのである。やはり人間同士だと思う。

 この兵士はかつて我軍の俘虜となっていたのであるが、その間に日本の兵士より殴る、蹴る、焼くの虐待を受けた様子を語り、なぜ日本兵士にはあれほどの事が平気で出来るのか全く理解が出来ないといっていた。また彼には、日本婦人の社会的地位の低い事が理解出来ぬ事であるらしい。

 吸う一息の息、吐く一息の息、喰う一さじの飯、これらの一つ一つのすべてが今の私にとっている。我々の食事は朝、米粉の糊と夕方に粥を食う二食で、一日中腹がペコペコで、ヤット歩けるくらいの精力しかない。しかし私は大変好かれているのか看視の兵隊がとても親切で、夜分こっそりと「パン」「ビスケット」煙草などを持って来てくれ、昨夜などは「サイダー」を一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。その物に対してよりも、その親切にである。その中の一人の兵士があるいは進駐軍として日本へ行くかも知れぬというので、今日私は私の手紙を添えて私の住所を知らせた。この兵士らは私のいわば無実の罪に非常に同情して親切にしてくれるのである。大局的には極めて反日的である彼らも、個々の人として接しているうちには、かように親切にしてくれる者も出て来るのである。やはり人間同士だと思う。  この兵士はかつて我軍の俘虜となっていたのであるが、その間に日本の兵士より殴る、蹴る、焼くの虐待を受けた様子を語り、なぜ日本兵士にはあれほどの事が平気で出来るのか全く理解が出来ないといっていた。また彼には、日本婦人の社会的地位の低い事が理解出来ぬ事であるらしい。  吸う一息の息、吐く一息の息、喰う一さじの飯、これらの一つ一つの凡てが今の私にとっては現芝の触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く。やがて数日のうちには私へのお呼びも掛って来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚もなくやって来たこれらの事が味わえば味わうほど、このようにも痛切なる味を持っているものであるかと驚くばかりである。口に含んだー匙の飯が何とも言い得ない刺激しげきを舌に与え、溶けるがごとくのどから胃へと降りて行く触感を、目を閉じてジッと味わう時、この現世の千万無量の複雑なる内容が、すべてこの一つの感覚の中にこめられているように感ぜられる。泣きたくなる事がある。しかし涙さえ今の私には出る余裕はない。極限まで押しつめられた人間には何の立腹も悲観も涙もない。ただ与えられた瞬間瞬間を有難く、それあるがままに享受きょうじゅしてゆくのである。死の瞬間を考える時には、やはり恐しい不快な気分に押し包まれるが、その事はその瞬間が来るまで考えない事にする。そしてその瞬間が来た時は、すなわち死んでいる時だと考えれば、死などは案外にやさしいものなのではないかと自ら慰めるのである。
 私はこの書を数日前計らずも入手するを得た。偶然これを入手した私は、死までにもうー度これを読んで死にたいと考えた。数年前、私が未だ若き学徒の一人として社会科学の基本原理への慾求よっきゅうの盛んなりし時、その一助として、この田辺氏の名著を手にした事があった。
何分なにぶん有名なむずかしい本であったので、非常な労苦を排して読んだ事をおぼえている。そのある時は洛北白川の一書斎であったが、今は遥か故郷を離れた昭南しょうなんの、しかも監獄の冷い「コンクリート」の寝台の上である。生の幕を閉じる寸前この書を再び読み得たということは、私に最後の楽しみといこいと情熱とを与えてくれるものであった。数ケ年の非学究的生活の後に始めてこれを手にし一読するのであるが、何だかこの書の一字一字の中に昔の野心に燃えていた私の姿が見出されるようで、誠に懐しい感激に打ちふるえるのである。真の名著はいつどこにおいても、またいかなる状態の人間にも、然ゆるがごとき情熱と憩いとを与えてくれるものである。私はすべての目的慾求から離れて、 一息の下にこの書を一読した。そして更にもう一読した。何ともいえないすがすがしい気持であった私に取っては死の前の読経どきょうにも比すべき感を与えてくれた。かつてのごとき野心的な学究への情熱に燃えた快味ではなくて、あらゆる形容詞を超越した、 言葉では到底表わし得ないすがすがしい感を与えてくれたのである。私はこの本を私の書かれざる遺言書として、何となく私というものを象徴してくれる最適の記念物として後にのこす。私がこの書に書かれている哲理をすべて充分に理解したというのではない。むしろ私の理解した所はこの書の内容からは遥かに距離のあるものかも知れないが、私の言いたい事は、本書の著者田辺たなべ氏が本書を書かんとして筆をられたその気分が、私の一生を通じて求めていた気分であり、この書を遺書として、最もよく私を象徴してくれる遺品として遺そうと思わしめる所以の気分である、という事である。

 私の死を聞いて、先生や学友の多くが愛惜あいせきしてくれるであろう。「きっと立派な学徒になったであろうに」と愛惜してくれるであろう。もし私が生きながらえても、平々凡々たる市井しせいの人として一生を送るとするならば、今このままここで死する方が私として幸福かも知れない。まだまだ世俗凡欲ぼんよくにはけがされ切っていない今の若い学究への純粋さを保つたままで一生を終る方が、あるいは美しくいさぎよいものであるかも知れない。私としては生きながらえて学究への旅路を続けて行きたいのは当然の事であるが、神の眼から見て、今運命の命ずるままに死する方が私には幸福なのであるかも知れない。私の学問が結局積読つんどく以上の幾歩も進んだものでないとして終るならば、今の潔いこの純粋な情熱が、一生の中、最も価値高きものであるかも知れない。

 私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽した。私の上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ、それがため、命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理である。私にとっては私の生きる事が、かかる将校連の生きる事よりも日本にとっては数倍有益なる事は明白と思われ、また事件そのものの実情としても、命令者なる将校連にめが行くべきは当然であり、また彼らが自分自身でこれを知るが故に私に事実の陳述を厳禁したのである。ここで生きる事は私には当然の権利で、日本国家のためにもなさねばならぬ事であり、かつ、最後の親孝行でもあると思って、判決のあった後ではあるが、私は英文の書面をもって事件の真相を暴露ばくろして訴えた。判決後の事であり、また上告のない裁判であるから、 私の真相暴露が果して取り上げられるか否かは知らないが、とにかく最後の努力は試みたのである。初め私の虚偽の陳述が日本人全体のためになるならばやむなしとして命令に従ったのであるが、結果は逆に我々被命者らにあだとなったので、真相を暴露した次第である。もしそれが収り上げられたならば、数人の大佐中佐、数人の尉官連が死刑を宣告されるかも知れないが、 それが真実である以上は当然であり、また彼らの死によってこの私が救われるとするならば、国家的見地から見て私の生きる方が数倍有益である事を確信したからである。美辞麗句びじれいくばかりで内容の全くない、彼らのいわゆる「精神的」なる言語をきながら、内実においては物慾、名誉慾、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人たちが、過去においてして来たと同様の生活を将来において続けて行くとしても、国家に有益なる事は何らし得ないのは明白なりと確信するのである。日本の軍人中には偉い人もいたであろう。しかし私の見た軍人中には偉い人は余りいなかった。早い話が高等学校の教授ほどの人物すら将軍と呼ばれる人々の中にもいなかった。監獄において何々中将、何々大佐という人々に幾人も会い、共に生活して来たが、軍服を脱いだ赤裸せきらの彼らは、 その言動において実に見聞するに耐えないものであった。この程度の将軍をいただいいていたのでは、日本にいくら科学と物量があったとしても戦勝は到底望み得ないものであったと思われるほどである。ことに満州事変以来、更に南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追うを仕事とする商人よりも、もっと下劣な根性になり下っていたのである。彼らが常々大言壮語して言った「忠義」「犠牲的精神」はどこへやったか。終戦により外身を装う着物を取り除かれた彼らの肌は、実に見るに耐えないものだった。

 しかし国民はこれらの軍人を非難すろ前に、かかる軍人の存在を許容し、また養って来た事を知らねばならない。結局の責任は日本国民全体の知能程度の浅かった事にあるのである。知能程度の低い事は結局歴史の浅い事だ。二千六百余年の歴史があるというかも知れないが、内容の貧弱にして長いばかりが自慢にはならない。近世社会としての訓練と経験が足りなかったといっても、今ではもう非国民として軍部からおしかりを受けないであろう。
 私の学生時代の一見反逆的として見えた生活も、全くこの軍閥的傾向への無批判的追従に対する反撥に外ならなかったのである。

 私の軍隊生活において、将校連が例の通り大言壮語していた。私が婉曲えんきょくながらその思想に反対すると「お前は自由主義者だ」と一言の下にね付けられたものだ。軍人社会で見られた罪悪は、枚挙すれば限りがない。それらはすべて忘却しよう。彼らもやはり日本人なのであるから。しかし一つ言っておきたい事は彼らは全国民の前で腹を切る気持で謝罪し、余生を社会奉仕のために捧げなければならない事である。
 天皇の名を最も濫用らんよう、悪用したものも軍人であった。

 私が戦も終った今日に至って絞首台の露と消える事を、私の父母は私の不運として嘆くであろう。父母が落胆の余り途方に暮れられる事なきかを最も心配している。しかし思いめぐらせば、私はこれで随分武運が強かったのである。印度インド洋の最前線、敵の反抗の最も強烈であった間、これが最後だと自ら断念した事が幾度もあった。それでも私はかすきず一つ負わずして今日まで生き長らえ得たのである。私としては神がかくもよく私をここまで御加護して下さった事を感謝しているのである。私は自分の不運を嘆く事よりも、過去における神の厚き御加護を感謝して死んで行きたいと考えている。父母よ嘆くな、私が今日まで生き得たという事が幸福だったと考えて下さい。私もそう信じて死んで行きたい。

 今、計らずもつまらない「ニュース」を聞いた。戦争犯罪者に対する適用条項が削減せられて我々に相当な減刑があるだろうというのである。数日前番兵からこのたび新たに規則が変って、命令を受けてやった兵士の行動には何らの罪はない事になったとの「ニュース」を聞いたのと考え合わせて、何か淡い希望のようなものがき上った。しかしこれらの事は結果から見れば、死に至るまでのはかない波に過ぎないと思われるのである。私が特にこれを書いたのは、人間がいよいよ死に到るまでには、色々の精神的な葛藤をまき起して行くものである事を記し置かんがためである。人間というものは死を覚悟しながらも絶えず生への執着しゅうじゃくから離れ切れないものである。
 アンダマン〔ベンガル湾東部の諸島〕海軍部隊の主計長をしていた主計少佐内田実うちだみのる氏は実に立派な人である。氏は年齢三十そこそこで、東京商大を出た秀才である。多くの高官たちの大部分がこの一商大出の主計官に、人間的には遥かに及ばないのは何たる皮肉か。日本国全体の姿も案外これに類したものではないかと疑わざるを得ない。やはり読書し思索し自ら苦しんで来た者としからざる者とは、異なる所のあるのを痛感せしめられた。

 随分な御厄介やっかいを掛けた一津屋ひとつやの祖母様の苦労、幼な心にも私には強く刻み付けられていた。私が一人前になったら、まず第一にその御恩返しを是非ぜひせねばならないと私は常々それを大切な念願として深く心に抱いていた。しかし、今やその祖母様よりも早く立って行かねばならない。この大きな念願の一つを果し得ないのは私の心残りの大きなものの一つである。この私の意志は妹の孝子により是非実現されんことをねがう。今まで口には出さなかったが、この期に及んで特に一言する次第である。

 私の葬儀などは簡単にやって下さい。ほんの野辺のべ送りの程度で結構です。盛大はかえって私の気持に反します。墓石は祖母様の横に立てて下さい。私が子供の時、この新しい祖母様の石碑の次に立てられる新しい墓は果して誰の墓であろうと考えた事があるが、この私のそれが立つであろうとは想像もしなかった。そこからは遠く吹田すいたの広々とした景色が見えましたね。お盆の時、夜おまいりして、遠くの花壇でうち上げられる花火を遠望した事を思い出します。お墓前の柿の木のを今度帰ったら存分ってやりましょう。私の仏前及び墓前には、従来の供花よりも「ダリヤ」や「チューリップ」などのはなやかな洋花を供えて下さい。これは私の心を象徴するものであり、死後は殊に華やかに明るくやって行きたいと思います。美味おいしい洋菓子もどっさり供えて下さい。私の頭に残っている仏壇は余りにも静か過ぎた。私の仏前はもっと明るい華やかなものでありたい。仏道に反するかも知れないが、仏になる私の願う事だからよいでしょう。そして私一人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ私の誕生日である四月九日を仏前で祝って欲しいと思います。私は死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは、ただ、私の生れた日だけであって欲しいと思います。

 私の一生の中、最も記念さるべきは昭和十四年八月だ。それは私が四国の面河おもごたにで初めて社会科学の書を繙いた時であり、また同時に真に学問というものの厳粛さを感得し、一つの自覚した人間として出発した時であって、私の感激ある生はその時から始まったのである。

 この本を父母に渡すようお願いした人は上田うえだ大佐である。氏は「カーニコバル」〔ベンガル湾南東ニコバル諸島中の島〕の民政部長であって、私が二年にわたって厄介になった人である。他の凡ての将校が兵士など全く奴隸のごとく扱って顧みなかったのであるが、上田氏は全く私に親切であり、私の人格も充分尊重された。私は氏より一言の叱りをも受けた事はない。私は氏より兵士としてではなく一人の学生として取扱われた。もしも私が氏にめぐり合わなかったら、私の「ニコバル」における生活はもっと惨めなものであり、私は他の兵士が毎日やらされたような重労働により、恐らく病気で死んでいたであろうと思われる。私は氏のお蔭により「ニコバル」においては将校すらも及ばない優遇を受けたのである。これ全く氏のお蔭で氏以外の誰のためでもない。これは父母も感謝されてよい。そして法廷における氏の態度も実に立派であった。

 この一書を私の遺品の-っとして送る。シンガポール、チャンギー監獄において読了。
 死の直前とはいいながら、この本は言葉では表わし得ない楽しさと、静かではあるが真理への情熱とを与えてくれるものがあった。何だかすべての感情を超越して私の本性を再び揺り覚ましてくれるものであった。これがこの世における最後の本である。この本に接し得た事は、無味乾燥なりし私の生涯の最後に憩いと意義とを添えてくれるものであった。母よ泣くなかれ、私も泣かぬ。
 いよいよ私の刑が執行せられることになった。戦争が終り、戦火に死ななかった生命を、今ここで失うことは惜んでも余りあるが、大きな世界歴史の転換の下、国家のために死んでゆくのである。宜しく父母は私が敵弾に中って華々しく戦死を遂げたものと考えて諦めて下さい。

 私が刑を受けるに至った事件の詳細なる内容に付ては、福中英三ふくなかえいぞう大尉に聴いて下さい。ここで述べることは差控える。

 父母はその後お達者でありますか。孝ちゃんは達者か。孝ちゃんはもう二十二歳になるんですね。立派な娘さんになっているんでしょうが、一眼見られないのは残念です。早く結婚して私に代って家を継いで下さい。私のいない後、父母に孝養の尽せるのは貴女あなただけですから。

 私は随分なお世話を掛けて大きくして頂いて、いよいよ孝養も尽せるという時になってこの始末です。これは大きな運命で、私のような者一個人ではとてもいかんともし得ない事で、全くあきらめるよりほかないです。言えば愚痴は幾らでもあるのですが、総て無駄です。止しましょう。大きな爆弾に中って跡形もなく消え去ったのと同じです。

 こうして静かに死を待っていると、故郷の懐しい景色が次から次へと浮んで来ます。分家の桃畑から佐井寺さいでらの村を見下ろした、あの幼な時代の景色は、今もありありと浮んできます。たにさんの小父さんが下の池でよく魚を釣っていました。ピチピチとふなが糸にかかって上って来たのを、ありありと思い浮べます。

 次に思い出すのは何といっても高知こうちです。私の境遇的に思想的に最も波瀾はらんの多かった時代であったから、思い出も尽きないものがあります。新屋敷しんやしきの家、こうの森、高等学校、さかい町、猪野々いのの、思い出は走馬灯のごとく走り過ぎて行きます。
塩尻しおじり〔『塩尻公明。倫理学者。一九〇一―六九]、徳田、八波の三先生はどうしておられるであろう。私の事を聞けば、キット泣いて下さるであろう。随分私はお世話を掛けた。私が生きていたら思いは尽きない方々なのであるが、何の御恩返しも出来ずに遥かな異郷で死んで行くのは私の最も残念とする所である。せめて私がもう少しましな人間.になるまでの生命が欲しかった。私が出征する時に言いのこしたように私の蔵書は全部、塩尻先生の手を通じて高等学校に寄附して下さい。塩尻先生にどうかよろしくお伝えして下さい。先生より頂戴した御指導と御厚意とは、いつまでも忘れず死後までも持ち続けて行きたいと思っています。先生の著書『天分と愛情の問題』をこの地の遠隔なりしため、今日の死に至るまで、遂に一度も拝読し得なかった事はくれぐれも残念です。

すべての望みを失った人間の気持は実に不思議なものである。いかなる現世の言葉をもってしても表わし得ない。すでに現世より一歩超越したものである。死の恐しさも感じなくなった。

 降伏後の日本は随分と変ったことだろう。思想的にも政治経済機構的にも随分の試練と経験と変化とを受けるであろうが、そのいずれもが見応えのある一つ一つであるに相違ない。その中に私の時間と場所が見出されないのは誠に残念だ。しかし世界の歴史の動きは、もっともっと大きいのだ。私ごとき者の存在に一瞥いちべつもくれない。泰山鳴動たいざんめいどうして踏み殺された一匹のありにしか過ぎない。私のごとき例は幾多あるのである。戦火に散って行った幾多の軍神もそれだ。原子爆弾で消え去った人々もそれだ。かくのごときを全世界にわたって考えるとき、おのずから私の死もうなずかれよう。既に死んで行った人々のことを考えれば、今生きたいなどと考えるのは、その人たちに対してさえ済まないことだ。もし私が生きていれば、あるいは一人前の者となつて幾分かの仕事をするかも知れない。しかしまた、ただのつまらぬ凡人として一生を送るかも知れない。未だ花弁も見せず、つぼみのままで死んで行くのも一つのり方であったかも知れない。今はただ、神の命ずるままに死んで行くより他にないのである。

 この頃になつてようやく死ということが大して恐ろしいものではなくなつた。決して負け惜しみではない。病で死んで行く人でも、死の前になればこのような気分になるのではないかと思われる。でも時々ほんの数秒間、現世への執着がひよっこり頭を持ち上げるが、直ぐ消えてしまう。この分なら、大して見苦しい態度もなく死んで行けると思っている。何といっても、一生にこれ程大きい人間の試験はない。
 今では父母や妹の写真もないので、毎朝毎タ眼を閉じて、昔の顔を思い浮べては挨拶している。あなたたちもどうか眼を閉じて私の姿に挨拶を返して下さい。

 私の事については、今後次々に帰還する戦友たちが告げてくれましよう。何か便りのあるたびに、遠路ながら、戦友たちを訪問して、私の事を聴き取って下さい。私は何一つ不面目なることはしていない筈だ。死ぬ時もきっと立派に死んで行きます。私はよし立派な日本軍人の亀鑑きかんたらずとも、高等の教育を受けた日本人の一人として何ら恥ずる所のない行動をとって来たはずです。それなのにはからずも私に戦争犯罪者なる汚名を下された事が、孝子の縁談や家の将来に何かの支障を来しはせぬかと心配でなりません。「カーニコバル」に終戦まで駐屯ちゅうとんしていた人ならば、誰も皆、私の身の公明正大さを証明してくれます。どうか私を信じて安心して下さい。

 もしも人々のいうようにあの世というものがあるなら、死ねば祖父母にも戦死した学友たちにも会えることでしょう。それらの人々と現世の思い出話をすることも楽しみの一つとして行きましょう。また、人のいうように出来るものなら、あの世で蔭ながら父母や妹夫婦を見守っていましょう。常に悲しい記憶を呼び起させる私かも知れませんが、私のことも時々は思い出して下さい。そしてかえって日々の生活を元気づけるように考えを向けて下さい。

 私の命日は昭和二十一年五月二十三日なり。

 もう書くことはない。いよいよ死におもむく。皆様お元気で。さようなら。
  ー、大日本帝国に新しき繁栄あれかし。
  ー、皆々様お元気で。生前は御厄介になりました。
  ー、末期の水を上げて下さい。

    みんなみの露と消えゆくいのちもて朝がゆすする心かなしも
    朝かゆをすすりつつ思う故郷の父よ嘆くな母よ許せよ
    遠国とおくにに消ゆる生命のさびしさにまして嘆かる父母のこと
    友のゆく読経どきょうの声をききながらわれのゆく日を指折りて待つ
    指をかみ涙流して遥かなる父母に祈りぬさらばさらばと
    眼を閉じて母をしのべば幼な日のいとし面影消ゆる時なし
    音もなく我より去りしものなれど書きて偲びぬ明日という字を
    かすかにも風な吹き来そ沈みたる心のちりの立つぞ悲しき
    明日という日もなき命いだきつつ文よむ心つくることなし

  以下二首、処刑前夜の作
    おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかむ
風もぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でまし

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 遺骨はとどかない。爪と遺髪とをもってそれに代える。
     処刑半時間前擱筆かくひつす。 木村久夫

【編者注】
 岩波文庫「きけ わだつみの声」収載の木村久夫遺書の全文である。ただし、注釈は一部を除き、割愛した。
大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2025年8月号搭載の記事。

今の御時世だから(37)


ほくせつ医療生協機関紙での木村久夫さんの話の続き(2015年9月号)・前号に対しての当方の感想も掲載されていた。
「お便りコーナー」テキスト
 8月号「ほくせつの歴史散歩」で取り上げられた木村久夫さんは私の豊中高校 (当時は中学)の先輩にあたります。一時は、金沢第四高等学校志望とありま すから、実現していたら二重の意味で先輩です。
 昨年、東京新聞などで「きけわだつみのこえ」に収録分以外にもう一通別の遺書があったと報じられました。そこにはさらに鋭い当時の軍部批判 が書かれていました。
「彼(軍人)が常々大言壮語して止まなかった忠義、犠牲的精神、其の他の美学 麗句も、身に装ふ着物以外の何者でもなく、終戦に依り着物を取り除かれた彼等の肌は実に耐え得ないものであった。此の軍人を代表するものとして東條前首 相があ る。更に彼の 終戦に於て自殺(未遂)は何たる事か。無責任なる事甚だ しい。之が日本軍人の凡てであるのだ。」
 歴史に仮定が許されるはずはありません。でもその歴史的事実を起こした原因の深い洞察と、現在の私たちに課せられた課題に真剣に向き合うこ とが木村久夫さんが遺したものだと思えてなりません。「戦争法案」の帰趨が危惧される昨今、もう一度そのことを噛みしめてみたいと思います。