読書ざんまいよせい(051)

◎柳広司「太平洋食堂」

 まだ、運転免許を保持していた頃、和歌山県の新宮市まで、大阪から車で、出かけた事があった。太平洋を、車窓右手にして、長い旅路をひたすらはしりつづけた。
 新宮では、古代から中世、江戸時代にかけて行われた「補陀落渡海」に使った舟などを見学した。「補陀落信仰」は、僧侶が、このような小舟で、浄土をめざし、わずかな食糧で熊野灘に乗り出し、そのほとんどがそのまま帰らぬ身になったことを言う。
 その他、中国は秦の時代、始皇帝が不老不死の薬を所望し、日本に遣わせたとさせる、徐福伝説が残っている地である。詩人の佐藤春夫作詞の新宮市歌のなかにも「徐福もこゝに来たりとか」とある。
 新宮は、目前の太平洋と切っても切れない関係にある。さらに言えば、この伝承や史実のように、この地の人々の心情の根底には、海を隔てた、異国への思い入れも深いようだ。
 明治後期、この新宮で、医業を営んだのが、大石誠之助(1867~1911)である。彼は。アメリカ各地、インド、シンガポールなど海外留学をへて、新宮に「ドクトル大石」医院を開業した。ドクトルは「毒取る」とあだ名され、「貧しい人からはお金を取らない。そのぶん、金持ちから多めにとる。」との診療スタイルで多くの患者さんから、たよりにされたようだ。また、「太平洋食堂」となづけた、現在いうところのデイケアでは、子どもたちをはじめ、多くの住民に食事を提供したそうだ。現在。わたしたちが取り組んでいる、「無料低額診療」や「子ども食堂」の、偉大な先駆けである。
「医者をやっとったら、貧しい者、虐げられている者、 苦しんでいる者がおるのがいやでも目に入ってくる。それがアカンことやと思いながら、その現実から目を背け、手をこまねいて生きていけるもんやろか?」というのが、後記の本の解説にはある。
 与謝野鉄幹ら「明星派」の歌人とも交流し、やがて、幸徳秋水らの社会主義者と面識を深めてゆく。その結果、「大逆事件」という、山県有朋をはじめとする、時の為政者による、卑劣な一大フレームアップ(謀略)で、刑場の露と消えた。
「みなの頭の上に、よく晴れた秋空がひろがっている。川が流れ、海へと流れ込む。そこはもう、太平洋だ。」(柳広司「太平洋食堂」より)
 
 格差のない社会を目指したが、残念なことに、一旦、途絶えたようにも見える大石誠之助の願いを、新たな形で受け継いでゆきたいものである。また、もう一度、機会があれば、太平洋(パシフィック・オーシャン=平和な大海)を眺めたいとしきりに願う今日このごろである。
参考】柳広司「太平洋食堂」(小学館文庫)

日本人と漢詩(096)

「日本人と漢詩」は番外編が2投稿あるので、連番号を修正した。
◎石川啄木と白居易(白楽天)

啄木には、漢詩の実作はないが、短歌には意外と漢詩的な側面もある。白楽天は、李杜のやや下に置く傾向はあるが、彼の白楽天の詩集は、あまり人口に膾炙する詩以上に、熱心に読んでおり、自らの短歌にも影響を与えたと考えられる。

浪淘沙《ろうとうさ》
       ながくも声をふるはせて
       うたうがごとき旅なりしかな
これは、啄木が、1908年、一年間にわたる北海道各地の旅から離れ、文学一本で身を立てるため、単身で東京生活を始めた、日付は、10月23日の作品である。

浪淘沙 白楽天
隨波逐浪到天涯 波に随《したが》い浪を逐《お》いて天涯《てんがい》に到る
遷客生還有幾家 遷客《せんかく》生きて還《かえ》るは幾家《いくか》か有る
却到帝鄕重富貴 却って帝郷《ていきょう》に到りて重ねて富貴ならば
請君莫忘浪淘沙 請《こ》う君忘るる莫《なか》れ浪の沙《いさご》を淘《とう》するを

浪のまにまに天涯に貶詫《へんたく》(遠く追いやられること)された人は、生きて還ることは稀である。もし幸いに都へ帰って、さらに富貴になりえたならば、全く浪に淘《あら》われた沙のようだと思うがよい。(佐久間節訳解「白楽天詩集」第四巻)

以前、啄木は、白楽天のことを、李白・杜甫の下位に置く傾向があると指摘したが(日本人と漢詩(060))、、決して軽視したわけではなく、ややマイナーな詩作も含めて、こまめに読んでいたらしい。白楽天には珍しい、ややメランコリックな詩情を自作の短歌にうまく取り入れている。

浪淘沙六首白文は、以下のサイトにある。

啄木の本領は、拠点を東京に移した時から始まったと言ってよい。ただし、彼の人生は、あと4年しか残されていなかったが…
「大逆事件」関係では、古い蔵書から、歌人の碓田のぼる氏の新書を読み返した。戦後になりようやく資料が出揃ってきた「大逆事件」の全容を書く端緒で夭折したのが返す返すも残念である。そもそも、秋水が「暴力革命」論者であったかは、かなり難しい問題だろう。「大逆事件」供述書にそのような記載があったとしても、権力側から「嵌められた」側面が強いかな?その供述書を読むことができた啄木は、秋水の意志を受け継ぎ次の時代へ進もうとしたし、厳しい現状に対しても、何とか「人民的議会主義」への模索があったと指摘する。繰り返しになるが、その意志、意欲は、明治の終焉と時を同じくし、そして象徴的だが、啄木の夭折とともに、一旦、断絶と終焉を迎え、継承されることはなかった。碓田のぼる氏は、やがて大正から昭和にかけてのプロレタリア文学に引き継がれたとするが、議会への態度を含め、かなり強引な説明であることは否めないし、今日的な検討が必要であろう。

参考】
啄木と中國一唐詩選をめぐって一
北の風に吹かれて~独り漫遊記~啄木歌碑巡り~1~
・「石川啄木と『大逆事件』」(碓田のぼる 新日本新書)(写真も本書から)