日本人と漢詩(117)

◎堀辰雄と杜甫(02)

 以前、ブログと Facebook に、「堀辰雄と杜甫」との連載を幾編か掲載していましたが、データの不調のため閲覧できなくなっっています。気を取り直して、「日本人と漢詩」の続きとして、底本を「木耳社・堀辰雄 杜甫詩ノオト」の最初から投稿してゆきます。掲載するのは、主に堀辰雄が杜甫の詩を訳した部分からで、補足として、底本の編者・内山知也氏の解説の最低限の抜粋((1)など連番号の部分)とネットにある、杜甫の詩の、白文と読み下し文です。
 一編だけ、「日本人と漢詩(49)」に「秋興(その五)」「秋興(その六)」があります。

野 老(1)
わが草堂の籬の前には
浣花谿(2)の流れが迂折してゐる
その流れの儘に
柴門が歪んだ形をしてゐる
漁人が
向側の浪の靜かなところで
網を垂れて角を捕へてゐる
估客の船(3)が夕日を浴ぴながら溯って来るのが(4)見える
よくまあ長い路を經て
こんな風景の險しいところ(5)まで來たものだ
向うの琴臺(6)の方を眺めると
一片の雲がなんとなくそのあたりに立ちも去らずにゐる
丁度自分が此處に住んでゐるのも
あんな雲みたいなものだ……(7)


(1) 上元元年(760)秋の作
(2) 太平寰宇記に「浣花谿は成都の西郭の外に在り、一 名百花潭。」
(3) 商人の船。広徳二年(七盗)作の「絶句四首」に「兩箇黄鵰鳴翠柳、一行
白雑上靑天。窗含西嶺千秋雪、門泊東吳萬里船。」
(4) 「が」を逸する
(5) 「劍閣」は、長安から蜀に入る道中に当る四川省剣閣県北方の大剣山・小剣山の険峻を指す。けわしい剣閣山に遮られた、都を離れたこの地に流れて来たのが悲しい、の意となろう。
(6) 漢の詩人司馬相如と卓文君の旧蹟で、浣花渓の北にある。寰宇記に「相如の宅は州の西四里に在り」とあり、蜀記には「相如の宅は市橋の西に在り。即ち文君爐に当り、器を滌ひし処」とあり、益都書旧伝には「宅は少城中に在り。窄橋の下に百余歩あるは是なり。又琴台の在るあり」とあり、成都記には「浣花渓の海安寺の南に在り。今は金花市となる。城内はその旧にあらず。元魏、蜀を伐つや、営をここに下す。掘塹して大甕二十余口を得たり。けだし琴を響かせしゆえんなり」とある。
(7) 尾聯の二句は訳されていない。

 原詩白文と読み下し文は、漢詩と中国文化 から…

野老籬邊江岸回  野老の籬邊江岸回り
柴門不正逐江開  柴門正しからず江を逐って開く
漁人網集澄潭下  漁人の網は集る澄潭の下
賈客船隨返照來  賈客の船は返照に隨って來る
長路關心悲劍閣  長路關心劍閣を悲しむ
片雲何意傍琴台  片雲何の意ありてか琴台に傍ふ
王師未報收東郡  王師未だ報ぜず東郡を收むると
城闕秋生畫角哀  城闕秋生じて畫角哀し

日本人と漢詩(049)

◎堀辰雄と杜甫(01)


秋興(その五)
その頃の長安はといへば、
蓬萊山に來たかとおもふやうな立派な宮殿が、
終南山に相對して、燦爛として居った。
承露盤といふ、恐ろしい高い仙人の形をし た銅像が、
 空に聳え立ち、
西のかた、瑤池には西王母が下り給ひ、
又、東からは紫氣が棚引いてきて、
函谷關に充ち滿ちて居った……
そんな壯麗な有樣だった。
自分も、またちかぢかと、天子の龍顏拜したことが
 あった。
そのときは雉の尾でつくった扇をひらいたやうに
 雲がおのづからひらいて、
太陽の光がさあつとさしてきたかのやうだった。……
だが、いまはかかる江のほとりに臥して、
はや秋も暮れんとしてゐるのに驚いてゐる。
誰あつて、かゝる身が、
昔、朝廷に列してゐた者であることを知つてゐようや。
秋興(その六)
いまわが身のある瞿塘峽口も
又、昔ありし長安の曲江のほとりも、
秋は殆どかはらない。
遠く所は隔ててゐるけれども……
その曲江のほとりの花萼樓や芙蓉苑では
臣下のものを集められて御遊があつたが、
いつか世が亂れだして、
そのあたりまで邊地の愁が入りだした。
昔は珠の簾や刺繡をした柱の間を黃鵠が飛びかい、
錦の纜や象牙の檣をした舟が水鳥を驚かせて
 飛び立たせてゐた。
それらの歌舞の地はいまは跡方もなく、
可憐に堪へない。
おもへば、長安は、漢の頃からの都であつたものを。
「秋興八首」の原文、訓読、語釈などは「井手敏博の日々逍遥」を参考のこと
 藤村の「小諸なる古城のほとり」は、この杜甫「秋興」から趣きを受け継いでいるような気がする。
参考)
「堀辰雄ー杜甫詩ノオト」
図も同書より転載