日本人と漢詩(048)

◎江馬細香、佐藤春夫と薛涛(旧字では濤)

江馬細香は薛濤の詩を読んでいたようだ。その詩集より
・燈下読名媛詩歸 灯下に名媛詩帰を読む
靜夜沈沈著枕遲 静夜沈沈として枕に著くこと遅し
挑燈閑讀列媛詞 灯を挑《かかげ》て閑《しず》かに読む列媛の詞
才人薄命何如此 才人の薄命何ぞ此の如き
多半空閨恨外詩 多半《たはん》は空閨外《がい》を恨むの詩
[語釈]
名媛詩歸:中国古代から明までの女流詩人詩集。名媛は才色兼備。恨外:夫をうらむ。
・夏日偶作《かじつぐうさく》
永日如年晝漏遲 永日《えいじつ》年《とし》の如く 昼漏《ちゅうろう》遅し
霏微細雨熟梅時 霏微《ひび》たる細雨 熟梅の時
午窗眠足深閨靜 午窓《ごそう》眠り足りて 深閨《しんけい》静かなり
臨得香奩四艷詩 臨《のぞ》み得たり 香奩《こうえん》四艶《しえん》の詩
[語釈]
昼漏:昼間の時間、漏は水時計、細香の実家は裕福だったようなので、ひょっとするとゼンマイ仕掛けの時計だったかもしれない。霏微:細やかに降りしきるさま。閨:婦人部屋。香奩:化粧箱、転じて女流の意。四艶:唐の魚玄機、薛濤、宋の李淸照あたりだろうか?もうひとりは誰なのか?興味の湧くところである。
薛濤の夏の詩から
蝉 蝉《せみ》
露滌淸音遠 露滌《ろじょう》清音《せいおん》遠《とお》ざかり
風吹故葉齊 風吹いて故葉《こよう》斉《ひと》し
聲聲似相接 声声《せいせい》相接《あいせつ》するが似《ごと》きも
各在一枝棲 各《おのおの》一枝《いっし》に在りて棲《す》む
佐藤春夫の訳
せぜのせせらぎかそけくて
枯葉《かれは》とよしも風わたり
音《ね》はもろ声にひびきども
みなおちこちに各自《おのがじじ》
参考)日本における薛濤詩の受容 https://www.nishogakusha-u.ac.jp/…/07kanbun-01yokota.pdf
江馬細香詩集「湘夢遺稿」上(図・「細香筆 白描竹」も同書より)
魚玄機 薛濤(漢詩大系15)

日本人と漢詩(047)

◎佐藤春夫と魚玄機、薛涛


 女流詩人の話題は続く。また先日とりあげた佐藤春夫の「車塵集」からの紹介。唐代の名媛詩人の双璧では、魚玄機と薛涛であろう。薛涛のほうが時代は先行し、中唐の頃、魚玄機は晩唐の詩人に属する。江戸時代以降、日本でも広く読まれ、江馬細香あたりにも影響を与えた、とある。
音に啼く鳥 薛涛   
檻草結同心 ま垣の草をゆひ結び
将以遺知音 なさけ知る人にしるべせむ
春愁正断絶 春のうれひのきはまりて
春鳥復哀吟 春の鳥こそ音にも啼け
秋ふかくして 魚玄機
自嘆多情是足愁 わかきなやみに得も堪えで
況当風月満庭秋 わがなかなかに頼むかな
洞房偏与更声近 今はた秋もふけまさる
夜夜燈前欲白頭 夜ごとの閨に白みゆく髪
春のをとめ 薛涛
風花日将老 しづ心なく散る花に
佳期猶渺渺 なげきぞながきわが袂
不結同心人 情をつくす君をなみ
空結同心草 つむや愁ひのつくづくし
図は、薛涛の画像
横田むつみ「日本における薛濤詩の受容」から( https://www.nishogakusha-u.ac.jp/…/07kanbun-01yokota.pdf )
佐藤春夫の訳は、https://blog.goo.ne.jp/bonito_1929/e/2332b67d7487115138d0b07991acc539
から

日本人と漢詩(011)

◎芥川龍之介と李賀と佐藤春夫


蘇小小の墓――(李賀)
 幽蘭露 如啼眼
 無物結同心
 煙花不堪剪
 草如茵 松如蓋
 風爲裳 水爲珮
 油壁車 夕相待
 冷翆燭 勞光彩
 西陵下 風吹雨
読み下し文は、Wikipedia 李賀の項(http://is.gd/PJaTwI)を参照。「ひとりよがりの漢詩紀行」(http://is.gd/e8hfPL)では、中国音(ピンイン)まで付けられている。
佐藤春夫は次のように訳す
幽蘭の露と
わが眼を泣き腫らし
何に願をわれは掛くべき
われ娼女《たはれめ》を誰《たれ》かは手生《ていけ》けの花と見ん
草を茵《しとね》とし
松は蓋《おほひ》となり
風は裳《もすそ》とみだれ
水は珮《おびたま》となる
油壁《いふへき》の車して
夕されば人を待つ
青白き鬼火のあかり
ひえびえとゆらめきひかり
西陵のあたり
風まじり雨振りしきり
また、「連想」を働かせることにする。とりあえずは「西湖」がキーワードになるだろうか。
以前読んだ、芥川龍之介の文章で、たしか「支那」紀行の一文、「江南游記」の中だったと記憶しているが、いかにも彼らしく、日本人ならちょっとは憧れる杭州郊外の西湖を「貶す」ところが印象的だった。有名な南朝の時代の名妓蘇小小の墓は「詩的でも何でもない土饅頭《どまんじゅう》だった。」そうだ(+_+)。これじゃあ、あまりにも蘇小小が可哀想なので、李賀の有名な詩と「古調自愛集」からの佐藤春夫の訳詩を小小、じゃなかった少々(^^;)付け加えた。原詩は、定律詩ではなく「詩余」の形。三言が基本だけに余計な説明がなく、どこかサンボリスム的でもある。というより「よこはま・たそがれ」的な体言止めの「演歌」というべきだろうか?
写真は、Wikipedia(http://is.gd/HHeKwY)からの李賀の肖像画。ちなみに、詩仙堂で見た利賀像は、あまりにもオジン臭かった。こちらのほうが「青春詩人」らしく格段にカッコよい。