後退りの記(016)

◎モンテーニュとアンリ四世
◯堀田善衞「ミシェル 城館の人」
◯ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

一瞬だが、歴史が澱んだ日に寄せる

 1580年は、モンテーニュとアンリ四世にとって特別な年であったようだ。モンテーニュは、生涯唯一の外国旅行に出かける。アンリ四世にとっては、4年前にパリ宮廷を脱出に成功、ようやく未来に一筋の光明が見えてきた。三人のアンリの戦いは、これからだったが…

「われわれのミシェルは、一五八〇年六月二十二日に彼の城館を出て、北東フランス、ドイツ、スイス、オーストリアを経てイタリアへの、十七カ月にもわたる旅に出た。」

「人生は、旅なり」が、彼に似つかわしいが、「公務」以外の実際の旅の経験は、意外と少ない気がする。今週(2024年7月7日付け)の赤旗日曜版で池澤夏樹さんが、「動く作家」の代表として、堀田善衛を挙げているが、この旅行で、わがミッシェルは、「動く作家」として、一段と深化を遂げたことは間違いないだろう。

〈旅行は私にとって有益な訓練であるように思われる。精神は未知のもの、新奇なものを見て、絶えず修業をする。また、しばしば言ったように、生活を形作って行くには、精神に絶えず多くの異った生活や思想や慣習を見せ、われわれの人間性がつねに様々に変化して、形をつくって行くものであることを味わわせること以上に、よい教育はないと思う。そうしてやれば、肉体も暇をもてあましもしなければ、疲れすぎもしない。いや、適度の運動は肉体を生き生きと息づかせる。私は結石病みではあるが、八時間から十時間は、馬に乗ったままでいても苦痛を感じない。〉

堀田善衞. ミシェル 城館の人 第三部 精神の祝祭 (集英社文庫) より

 旅行の直前、1580年に「エセー」初版を上梓し、アンリ四世に献呈したモンテーニュは、アンリ四世と二度目の邂逅をはたす。(このあたりは、多分、ハインリッヒ・マン特有のフィクションであろう。ただ、プロテスタントの盟主であった、アンリ四世に与することは、モンテーニュにとって、命がけの行動であったには確かであろう。今日《こんにち》、フランスにおいて、極右政権阻止のために、中道勢力が、左派の「ヌーボー・フロン」と選挙協定を締結したことに例えられようか?とまれ、その証拠に、「エセー」が、ローマ・カトリックによって「禁書」と断罪される憂き目に遭っているのが、なによりの証拠であろう。)

「『何をわたしが知っていよう』(ク•セ•ジュ)とアンリは言葉をはさんだ。二人が最初に言葉をかわして以来、それは彼が忘れたことのないものだった。今それが折よく彼の口からもれたのだった。モンテーニュはそれを否定しなかった。彼は頭をふりながら、神を前にしてはそう言わなくてはならぬ、とだけ言った。われわれはもとより神の知をわかちあうものではない。それだけにわれわれは、 地上のことに通じる定めをもっている。節度と懐疑をもってすれば、地上のことは大方理解ができよう。『均衡のとれた中庸の人物をわたしは愛する。度をこえることは善においてもほとんどいとうべきものだ。ともかくも、無節度はわたしの言葉をふさいでしまう。これに対してはわたしは言葉をもたない。』(「エセー」第一巻第三十章)」

「アンリは去ってゆく人(モンテーニュ)を追って、もう一度彼をいだき、その耳もとで言った。『わたしには作品はない。しかし作品をしあげることができる。』」

ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」より

 図左は、モンテーニュのイタリアなどの旅の軌跡。「モンテーニュの旅」 から収録した。 図右は、「エセー」へのモンテーニュの書き込み

旅の内容は、機会があれば投稿する。

後退りの記(015)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」
関根秀雄訳「モンテーニュ随想録」

前回は、アンリ四世とモンテーニュとの邂逅について触れたが、「アンリ四世の青春」訳者あとがきによれば、特に「サン・バルテルミの虐殺」以前のそれは、作者ハインリヒ・マン特有の、フィクション上の創作だそうだ。それにしても、よくできた創作であり、作品に奥深い味わいをもたらしている。彼らの実際の出会いは、モンテーニュの晩年になってかららしいが、その時二人は「十年来の知己を得た」思いだったに違いない。
ここでは、少し遡って、モンテーニュをめぐって「虐殺」前後までの歩みを振り返ってみる。

まず、堀田善衛は、モンテーニュは、「エセー」の中では。「虐殺」のことは一言も触れていない、と云う。ところが、「エセー」は、1572年、虐殺の年に第一稿が作られている。この事で、彼のスタンス、彼が語らないことで、おのずと語っていることが感じられるのは、当方だけであろうか?よくモンテーニュは「折衷主義」「現状肯定の保守派」とも評されるが、この「頑なさ」は、そうした評判とは相容れないことは確かであろう。

少し長くなるが、遡ること彼の勉学時代に、少し年上で無二の親友だったラ・ボエジーの言葉から…

「実際、すべての国々で、すべてのひとびとによって毎日なされていることは、ひとりの人間が十万ものひとびとを虐待し、彼等からその自由を奪っているということなのだ。これをもし目のあたりに見るのでなく、ただ語られるのを耳にするだけだったならば、誰がそれを信じようか。(中略)しかし、このただひとりの圧制者に対しては、それと戦う必要もなく、それを亡ぼす必要もない。その国が彼に対する隷従に同意しないだけで彼は自ら亡びるのだ。(中略)それ故、自分を食いものにされるにまかせ、またはむしろそうさせているのは民衆自身ということになる。隷従することをやめれば彼等はすぐそのような状態から解放されるのだろうから。民衆こそ自らを隷従させ、自らの咽喉をたち切り、奴隷であるか自由であるかの選択を行なってその自主独立を投げすて軛をつけ、自らに及ぶ害悪に同意を与え、またはむしろそれを追い求めているのだ。」

「あわれ悲惨なひとびとよ、分別のない民衆たちよ、自分たちの災厄を固執し、幸福に盲目である国民たちよ。諸君は諸君の面前でその収入のうち最も立派で明白な部分が、諸君から奪い去られてゆくままに放置している。(中略)そしてすべてのそのような損害、不幸、破壊は、数々の敵からではなくて、まさにひとりの敵、諸君が、それが今あるように大きく今あるように大きくしてしまっているその人間から来ているのだ。その人間のために諸君はあれほど勇敢に戦争に出かけて行き、その人間を偉大にするために、諸君は自分の身を死にさらすことを少しも拒まない。しかし、諸君をそれほどに支配しているその人間は、二つしか眼を持たず、二つしか手を持たず、一つしか身体を持たず、諸君の住む多数無数の都市の最もつまらない人間の持っているもの以外は持っていない。ただあるものは、諸君が自分たちを破壊するために、彼に与えている有利な地歩だけなのだ。」
「諸君は子供たちを養うが、それは彼が彼等に対してなし得る最良のこととして、彼等を自分の戦争へと連れ出し、殺戮の中へ送り込み、自分の貪慾の執行者、自分の復讐の実行者とするためなのだ。」
「獣すらも全然了解できないか、耐えられないほどの、かくも多くの卑劣な行為から、もし諸君がそう試みるならば諸君は脱出出来るのだ。それもそれから脱出しようと試みるのではなく、ただそうしようと望むだけでよい。もはや隷従するまいと決心したまえ。そうすればそれで諸君は自由なのだ。私は、諸君が彼を押したり揺らせたりするようにすればよいと言いたいのではない。ただ彼をもはや支えないようにしたまえ。そうすれば彼は、基礎をとりのけてしまった大きな巨大な人像のように、それ自身の重みによって崩れ、倒れ、砕けるのが見られるであろう。」

ラ・ボエジーは、むしろカソリックに近い立場を堅持した。その彼をして、こうしたプロテスト(抗議)を上げせしめたのは、フランス宗教戦争の悲惨さを前にして、止むに止まれぬ思いからであろう。再三に渡って述べるが、21世紀の現在の実状を訴えているわけではないが、自ずと重なって響くのは、悲しい現実だろう。

「虐殺」前は、カソリックとプロテスタントに政治的党派としてほぼ明確に別れていたが、その後はその色分けは、単純化されるどころか、政治的打算も重なって、プロテスタントめいたカソリック、またはその逆といったように混沌とも言える状況になってきた。モンテーニュは、心に期するものがあってか、シャルル九世、アンリ三世を中心とした王統派に近づきはするが、その親好は、プロテスタント寄りの知識人と結んでいた。そんな中で、アンリ四世との関わりはどうなっていくだろうか?次回は、1572年~1592年くらいの時期に触れたい。日本史で言えば、信長の台頭から、秀吉の朝鮮侵略くらいにあたる。

どうする、信長・秀吉・家康、どうする、三人のアンリたち、そしてモンテーニュ!