中井正一「土曜日」巻頭言(03)

 今回は、すこし掲載順を変え、「土曜日」第十五号( ー九三六年八月十五日)から…

◎虚しいという感じだけに立ち止まるまい

 人は営みの嵐音の中で、すき間を洩れる風のような不思議な想いにめぐりあうことがある。
 何故こんなに多くの人々が歩いているのか。何故こんなに多くの人々が苦しんでいるのか、何故苦しみがあるのか。何故こんなに忙しいのか、何故人は笑っているのか、何故泣いているのか。
 小さな子供が母親にいくらでも問いかける問のような、何か大きな問が、次から次へと追いかけるように、止まることなく湧いてくることがある。
 それは想いというよりは、一つの感じである。自分にもわからない一つの心の動きである。そよそよと吹く風が、大気の全体を音もなく動かしているような、あらゆるものを親しく撫で、触ってゆく微かな感じである。
 そしてそこに漲るものは、大きな虚しさである。このすべての営みが全体をあげて、寥々たる無の中に沈んでゆくのではないかという感じである。
 それは実に太古の民もが、大きな自然や、激しい人生に臨んで、いだいた感じであり、その時代その時代において、その色合いが変わりその現わしかたが違ってきた想いである。そして、その想いの中に立ち止まって、それを、「道」にまで変えてきたことが度々である。
 しかし、大切なことは、この感じを、この虚しさだけに立ち止まらせては、ものを半分で止めて打ち切っているのだと気づくことである。
 すべての物のさながらな生きいきした動きが、いろいろのものに拒まれ、いろいろのものによってそらされていることを、微かにも気づいた人間の心が、この感じである。利刃のような鋭さをもって切り裂いているこのいいあらわしようのない豊富な人間の心が、この漠然とした感じである。この大きな虚しい心である。この虚しい心は、虚しさだけで立ち止まってはならない。この感じこそすべての行動のはずみとしての感情の基礎であり、知識の源である。批判の精神の原始的な無尽の蔵である。
 烈々とした、人間の明日へののぞみに直ちに打ち変わる原鉱であり、ほんとうの知恵の嵐の最初の微風である。それは手離さないことによって、人間のあらゆる正しい行動の原動となる至宝である。
『土曜日』はかかる宝のいっぱいにみちている倉庫である。

編者注】
 総選挙も終わり、「虚しいという感じだけ」の現在の心境にピッタリのタイトルである。これから各政党で虚々実々の駆け引きが盛んになるだろう。そういう意味では「激動の時代、先のわからない時代」の訪れである。その中では、その場限りの言い訳や当たり障りのない言葉、もっときつく言えば、嘘、騙し、虚偽の言葉などやがて削ぎ落とされるに違いない。沖縄から、ほんのりと風があったが、「ほんとうの知恵の嵐の最初の微風」を感じたかどうかはおぼつかない。人々の暮らしの営みを静かに、しかもしっかりと見守ってゆくしかないのかもしれない。この巻頭言が書かれた九年後に、日本が迎えた敗戦の日を、それに至る狂気の戦争の日々を含め、絶対に来ささないためにも。

 図は、「土曜日」に掲載された、京都市の喫茶店の広告。なかには、今も続いている店もあるという。