読書ざんまいよせい(033)

◎アレクサンドル ゲルツェン「誰の罪」

 まずは、ゲルツェン「ロシアにおける革命思想の発達について」(金子幸彦訳)の訳者の解説から。

 ベリンスキイはその論文『一八四五年のロシヤ文学』(ー八四六)のなかでゲルツェンの小説『誰の罪か?』の特質について語っている。
 「目的とか内容の空しさとかを意に介せずに、ときには無から作品を生み出すところのたかい芸術性というものを示している作品があるが、ゲルツェンのこの小説はこのような作品には属さない。しかしまたこれはつぎのような作品ーーすなわち空想力に欠けた作家が、あたかも論文のなかにおけるように、一定の道徳的問題についてのおのれの思想と見解とを発展させ、性格も動きもまったくないような作品ともちがう。『誰の罪か?」の作者は知力を詩にみちびき、思想をいきいきとした人物に変え、自己の観察の果実をー劇的な動きにみちた行動へ移す不思議な能力をもっている。全巻をとおして現実のなんという驚嘆すべき正確さが見られることであろう。すベては見事に調和している。ーーーつの余分なものもなく、一つの欠けたものもない。文体のおどろくべき独創性、そしてなんとゆたかな知力、ユーモア、機知、愛情、感情が見られることであろう。」

 「誰の罪か?」の日本語訳は、今のところ、大正11年(1922年)の梅田寛訳しか刊行されていないようだ。そこで、利用規約などを参照すると、著作権フリーの文章を「翻訳・公開」するのは、OK のようなので、今回、「機械翻訳」による訳文作成を試みた。とりあえずは、作品の「梗概」などから…これも、ロシア語版Wikipediaおよび Wikiquote に掲載されているので、ライセンス的にはパスである。
 「機械翻訳」なので、日本語的に意味が通じないところの「瑕疵」はあると思われるが、最小限に止め、基本はそのまま掲載する。なお、梅田寛訳を参照したところもあるが、逐一注記しない。
 以上、したがって訳文の二次利用は可能であるが、訳文の正誤までは、当方の責任外である。

 「誰の罪か?」の新訳が現れることを心から期待しつつ…

「梗概」

作者 Gertsen, Alexander Ivanovich
原語 ロシア語
執筆年代 1841-1846
初版発行1846年
出版社 Otechestvennye Zapiski

 「誰が悪いのか』(原題:Who’s to Blame?)は、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ヘルツェンによる二部構成の小説で、1841年から1846年にかけて書かれ、1846年に雑誌に発表された。ロシア初の社会・心理小説の一つであり、ロシアリアリズムの最初の作品の一つである。

プロット

 村に住む地主のアレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロフは、息子のミーシャのために新しい教師を雇う。ドミトリー・ヤコヴレヴィチ・クルシフェルスキーである。
 ネグロフ一家は、読書やその他の知的探求に馴染みがなく、家庭経営に積極的に参加することもなく、取るに足らない仕事に没頭し、大食と睡眠にふけっていた。無作法で無愛想だ。しかし、ネグロフの隠し子であるルバにとっては、このような生き方はまったく異質なものだった。そのため彼女は、同じくネグロフ家の生き方を受け入れられない教養ある青年クルシフェルスキーに近づく。二人は恋に落ちる。ドミートリ・ヤコヴレヴィチはあえて手紙で自分の気持ちを打ち明ける。クルツィフェルスキーの気持ちを察した家庭教師のエリザ・アウグストヴナが彼を助け、恋人たちのデートの約束を取り付ける。元来臆病なクルツィフェルスキーは、手紙を渡すためだけに夜のデートに出かけることにした。恐ろしくなった青年は、目の前にいたのがルボンカではなく、ネグロフの妻グラフィラ・ルボヴナであることを知り、手紙を忘れて逃げ出す。困惑したグラフィラ・ルヴォヴナもまた、イライザ・アヴグストヴナに騙された罪のない犠牲者となっていた。腹立たしく思った女性は、夫に手紙を渡した。アレクセイ・アブラモヴィッチは、この手紙が非常に好都合に発見されたことに気づき、隠し子という重荷を取り除くために、先生をリュボンカと結婚させることにする。結婚に先立つこのようなばかげた状況にもかかわらず、クルツィフェルスキフの家庭生活は幸せで、夫婦は互いに愛し合っていた。この愛の結実がヤーシャ少年であった。二人は家族ぐるみで仲良く暮らし、唯一の友人はクルポフ医師だった。
 この頃、ネグロヴィー県の中心地であるネルン市に、それまで長い間不在だった裕福な地主ウラジーミル・ベルトフが外国からやってきた。彼は貴族選挙に参加するつもりであった[6]。彼の努力にもかかわらず、NNの住民はベルトフを仲間に受け入れず、ベルトフにとって選挙は時間の無駄であった。ある民事事件のためにNNに留まることを余儀なくされたベルトフは、自分の居場所を見つけようとしたこの試みも失敗に終わったことに絶望する。彼はほとんど完全に孤立し、NNでの唯一の友人はクルポフ医師だけだった。彼はベルトフをクルシフェルスキー家に紹介する。ベルトフとクルツィフェルスキー一家は、新しい出会いをとても喜ぶ。ベルトフは自分の考えやアイデアを分かち合う相手を得、クルツィフェルスキーは彼の中に、自分たちの内面を豊かにすることのできる、高度に発達した人物を見出す。かつてネグロフ家でリューバとドミトリが理解し合ったように、彼らは言葉半分、目半分で理解し合う。リューバとベルトフの一致は、大きなもの、愛へと発展していく。気持ちを隠しきれなくなったベルトフは、クルシフェルスカヤに告白する。そして一気に3人の人生を破壊する。リュボフ・アレクサンドロヴナは夫から離れられず、ベルトフも愛しているが、夫を愛している。クルツィフェルスキーは、自分がもはや以前ほど愛されていないことに気づく。ベルトフは、最も親しい人の人生を台無しにしてしまったという思いに苛まれ、彼のそばにはいられない。街中に噂が広まる。クルシフェルスキーは酔いつぶれている。クルポフ医師は起きたことに罪悪感を覚える。ベルトフは、自分もクルチェフスキーに劣らず苦しんでいること、自分の感情をコントロールできないこと、リュボフ・アレクサンドロヴナは夫より身近な人を見つけたが、以前のように幸せになることはないだろうと断言する。他に出口がないと考えたベルトフは、クルポフと同意して旅立つことにした。彼は再び祖国を去る。
 リュボフ・アレクサンドロヴナは枯れていく。クルーツィフェルスキーは酒を飲んでいる。別れは幸福と心の平安をもたらさなかった。未来は悲しく暗い。

登場人物

 アレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロフは退役した騎兵少将。「太った、がっしりした男。裕福な地主。1812年の戦争に参加。引退してモスクワに定住し、その後、怠惰から村に移り住む。村では農奴の娘ドゥーニャと結ばれ、リューバをもうけた。村での生活も退屈になり、彼はモスクワに戻り、結婚を決意するまで、再び怠惰な娯楽に耽った。ドゥーニャとその娘は不名誉なことになり、精神病院に送られた。結婚後、ネグロフはミーシャとリサという子供をもうけた。世俗的な生活に飽き、すっかり怠惰になった夫婦は、ついに村に移り住んだ。

 ドミトリー・ヤコヴレヴィチ・クルシフェルスキー – モスクワ大学物理数学科卒業。地区医師ヤコフ・イヴァノヴィチとドイツ人女性マルガリータ・カルロヴナの息子。ヤーコフ・イヴァノヴィチの診療所は悲惨な状態で、一家は貧しかった。一家には5人の子供がいたが、3人は猩紅熱で死に、長女はどこかの下士官と駆け落ちし、ミーチャだけが残された。ミーチャは病弱だったが、母親の努力で生き延びた。ある慈善家が地元の体育館を訪れ、そこでミーチャに目を留め、モスクワ大学で学ばせたいと申し出たのだ。大学の物理学科と数学科を卒業したドミートリ・ヤコヴレヴィチは、就職先を見つけることができず、状況はますます悪くなっていった。そんな矢先、ネグロフの寛大な申し出があった。

 グラフィラ・ルボヴナ・ネグロヴナは、アレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロヴの妻だった。浪費家の伯爵と商人の娘である彼女は、マヴラ・イリニシナ伯爵夫人に育てられた。伯爵夫人は姪に対して非常に厳格で厳しかった。結婚が彼女の運命を好転させた。

 セミョン・イヴァノヴィチ・クルポフ医師は医学委員会の検査官である。クルポフは『クルポフ博士』の中で、万病説を展開する。

 リューバは、アレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロフと農奴の娘ドゥーニャの隠し子である。ネグロフの結婚後、彼女はルドメンスカヤに追放されたが、グラフィラ・ルボヴナの取り成しのおかげで紳士の家に戻され、貴婦人として育てられた。

 ウラジーミル・ペトロヴィチ・ベルトフは裕福な地主で、元公務員であった。ベルトフの母ソフィは農奴だった。女主人は、利益を上げるために、農奴の娘数人を家庭教師にすることにした。その中には、後にウラジーミルの母となる女性も含まれていた。教育を受けたソフィーは、近所の地主に売られた。その地主の若い甥は、放蕩三昧の生活を送っていたが、ソフィーに目をつけたが、驚いたことに拒絶された。哀れな少女は仕方なく、地主にタダにしてくれるよう懇願し、サンクトペテルブルクに逃れた。しかし、ベルトフが流した噂が彼女の評判を落とし、どこにも居場所を与えられなかった。窮地に追い込まれたソフィーは、ベルトフに怒りの手紙を出すことにした。その手紙に心を打たれたベルトフは、自分のしたことを深く悔い改め、その結果、二人の関係は結婚に至った。やがてベルトフは2歳の息子を残して亡くなった。教育の重荷はすべて、母親と家庭教師のスイス・ヨーゼフの肩にのしかかった。成長したウラジーミルは、モスクワ大学法学部に入学した。同大学を卒業後、サンクトペテルブルクに奉公に出た。ロシア官界の堅苦しい雰囲気に馴染めず、半年後に退官。医学や美術に携わろうとしたが、こうした活動もすぐに冷めてしまった。恋愛に失敗したベルトフは、異国の地へ赴く。

創作の歴史
作者の紹介によれば、この小説は1841年に亡命先のノヴゴロドで書き始められ、最初の部分もそこで書かれた。モスクワに到着後、ゲルツェンは書き上げた作品を友人たちに見せたが、彼らは気に入らなかった。この原稿はベリンスキーに高く評価された。

編者注】画像は、ベリンスキーの肖像(Wikipedia から)

読書ざんまいよせい(031)

◎アレクサンドル ゲルツェン「誰の罪」「向こう岸から」

 「革命家」に必要な資質とはなんだろうか?どんな状況であろうと失わない「楽天性」か?時には、味方に対してさえ、断罪する「冷徹さ」か?物事をきちんと筋道をつけて分析する「明晰さ」か?「革命家」ゲルツェンの場合は、前の二者ではないことは確かである。あとの評価であろうが、それに彼独特の「憂愁」が付け加わり、のちのレーニンやトロツキーなどと一線を画する所以である。
 最近、刊行された新訳の自伝「過去と思索」でもその傾向は、顕著であり、第一部から第四部まで、一気に読み、ゲルツェンの魅力に引きずり込まれた。この自伝はいずれ紹介する機会があろうが、ここでは、彼のシベリア捕囚時代の小説が、国立国会図書館デジタルコレクション「誰の罪」でなんとか読めるので、パラパラとページを「クリック」してみた。

梅田寬譯・ゲルツェン「誰の罪」

ゲルツェンの事ども

 ア・ゲルツェン(一八一二~ー八七〇年)はモスクワの或る富裕な家庭に生れた。彼の母親はドイツ人であった。彼は相當學識ある露・獨・佛等の家庭敎師と獨・佛の十八世紀の哲學者の著書を集めた豐富なる父の圖書室とにつて敎育された。佛の百科全書を選んだ事が彼の心に深い痕跡を殘し、その爲後年、若き友人達と同じく獨の純正哲學の硏究に貢獻した時にも、彼は十八世紀の哲學者から受けた思索の具象的方法及び心意の自然的傾向を決して棄てなかつた。
 一八三〇年のフランス革命が全歐洲の思想家に深い印象を與へたころ、彼はモスクワ大學へはひって物理と數學を學んだ。ゲルツェンはその親友である詩人オガリョーフ等と共に靑年結社を結び、政治上、社會上の問題を討議したり殊にサン・シモン主義を提唱したりした。そして當時のニコラス一世を諷罵した或る歌が之れ等の結社から唱へられため、ゲルツィン等は捕縛された。相當に重罪に處せられる所を或る顯官の運動で赦され、ゲルツェンはウラル地方のヴャトカに追放され共で六年を暮した。 一八四〇年赦されてモスクワに歸った時、彼はロシヤの文壇が獨逸哲學の影響をうけて形而上學の抽象的思想に夢中になつてゐるのを見出した。ヘーゲルの絕對說、その人類に就ての三體說及び「實在するものはて合理である」といふ結果に對する效果盛んに論議されてゐた。そしてヘーゲル崇拜家はニコラス一世の制政治をも合理的であると主張し、大批評家ペリンスキイ(一八〇年~一八四八年)ですらも制政治の歷史的必然說を承認せんとした程であつた。ゲルツェンも無論ヘーゲル硏究に努めたが、その硏究によって共友エム・バクーニン(一八二四年~一八七六年)と同樣全然異つた結論に到達した。かくてゲルチェンやバクーニン、ベリンスキイ、ツルゲーニェフ、チェルヌイシェーツスキイ等は西歐主義《ザパドーニーチェストフ》の左翼主義を組織し、ア・スタンケヴィッチ(一八一七年~一八四〇年)一派はスラヴ國粹主義《スラウヲヤノフイーリストフ》の右翼を組織した。
 西歐主義の大體の綱領は、ロシヤも歐州からの除外物ではなく、 ロシヤも亦西歐諸國の通つてきたと同一の路を必ずや通るであらう。 從つてロシヤの踏むべき次の階梯は農奴制 (後一八五七年より六三年までに斷行された)である。そして次には西歐諸國に於て發達したと同樣の發達を見るであらう、といふのである。彼等はつまり廣義でいふ西歐文明の謳歌者であつた。これに對しスラヴ國粹主義はロシヤはロシヤ自らの使命をもつてゐる。吾人はノルマン民族の樣に外國を征服した事はない。吾人は今尙古い時代の組織を保つてゐる。從つて吾人は國粹主義者の所謂ロシヤ生活の三つの根本的原則、卽ち希臘正敎と露帝《ツァーリ》の絕對權力と家長的家族の原則に返つて、吾人自らの全然獨創的な發達の徑路を進まねばならぬといふのである。 ゲルツェン等前記の人々は西歐主義者の內でも最も進んだ意見をもつてゐた。卽ち、西歐諸國に於いて地主竝びに中產階級の兩者が議會に於て無制限の勢力を占めた結果、勞働者と農民との蒙つ困苦、而して歐洲の大陸諸國がその官僚的中央集權によつて政治的自由を制限したこと、是らは決して「歷史必然」ではない。ロシヤは恁うした失策をくり返す必要はない。寧ろ彼等先進國の經驗に鑑みて反對に出なければならない。而して其土地共有制や帝國の或部面に見らるゝ自治制や或はロシヤの村落に於ける自治體の制限を失ふことなしに工業主義の時代を迎へ得るなら、それは莫大な利益であるであらう。從つて其村落自治體を破壞し地主貴族の手に土地を集中しめ、而して無限、多種多樣なる地方の政治的生活をプロシヤ人、彼はナポレオンの政治的中央集積の理想によつて中央政府の手に掌握せしむるは、資本主義の勢力の强大なる今日、最も大なる政治上の失策といふべきである、と彼等は主張した。然るに、後年農奴制が廢止止せらるゝに至ったとき、この主義者とスラヴ國粹主義者との閒に最も注意すべき一致を確立したのであつた。國粹主義者は總體に於いて保守的ではあったが、その最も立派な代表者の唱へた或る點.卽ち農奴制度の廢止に就いての農民の事實上の根本的制度たる自治、法律、聯邦制度の、その他信仰及び言論の自由等の主張は前者と一致したのである。
 ゲルツェンは一八四二年に再びノヴゴロドへ追放され、次いで四七年外へ行ったがに遂に再び母國へ歸へらず七〇年に五十九歲で、スイスに於て寂しく死んだ。その頃フランスに二月革命(一八四八年)あり、やがてナポレオン三世が出でゝ帝政時代再び出現し、フランスを中心に全歐を風靡してゐた會主義的運動の痕跡すらも一掃さるゝに及んで、ゲルツェンは西歐の文明に深い絕望を感ずるに至つた。彼はブルードンと共に「人民の友」なる新聞を巴里で發刊したが官憲の壓迫著しく、遂にフランスからはれた。彼は其後スイスに歸化したが、一八五七年ロンドンに定住し、その年始めて自由なロシヤ語の雜誌「北極星」を刊した。この誌上で彼は政治上の論文及びロシヤの最近史に關する極めて價値ある材料であると同時に、嘆賞に價する追悼記「過去の事實と思想」を發表した。この雜誌の次に「鐘」と稱する新聞を發行した。この新聞によつて彼は海外に在りながら、その勢力はロシヤに於ける一つの眞の力となった。ツルゲーニェフはこの新聞の爲に遠く援助する所があった。「鐘」上にはロシヤ國內では迚も發表も難い致い失政の事實を摘發し、一方論說はゲルツェンによつて政治文學稀に見る力と、內部的な溫情と、形式の美をもつて書かれた。「鐘」の多數はロシヤに搬入され、至る所に撤布された。アレクサンドル二世までがその每號を讀んでゐた。ゲルツェンのロシヤ國內での勢力がその晚年おとろへて、彼にとつて代つたのは 靑年たちであつた。
 ゲルツェンは政治、社會、哲學、藝術に關する多くの有名な論文を殘したが、また「誰の罪か?《クト ウイノワート》」ほかの數種の小說を書いたことも忘れてはならない。問題小說である「誰の罪か?」は一八四二年ノヴゴ ロドに追放されたときに書き起したもので、ロシヤに於ける知識的典型の發達史のなかにしばしば引あひに出される、彼の有名な代表作である。內容は前篇と後篇とに別れてゐて、かなり興味ある複雜を示してゐるが、要するにこの全篇の主要人物は、貧しい家に生れて大學を卒業し、退役將軍邸に家庭敎師となり、のち中學校《ギムナジア》敎師となったクルチフェールスキイと、そこの將軍の妾腹の娘でクルチフェールスキイと、自由戀愛より結婚生活にはひつたリューポニカ、それからクルチェフールスキイの舊友でその家庭に來つて、戀の三角關係をひき起したペェリトフ、獨身主義の醫者クルーボフ等である。ゲルツェンは、彼獨特の簡潔、明快な、而も老巧な諷刺に富んだ筆法を以て、彼等を心ゆくまで活躍しめてゐる。そこに描き出されたロシヤ貴族、官吏、軍人、知識階級《インテリゲンツィア》、保守階級、無產者、農奴等は、ゲルツェンの目をとほしては容赦なく衣をぬがされ、おどろくべき赤裸々とされて、その眞實、その本體を毫も掩ふよしがない。しかもこの話は恰も現今わ が日本に見るが如き社會問題、婦人問題、戀愛問題、敎育問題、家庭問題等を多量に、また縱橫に含み、そこに生ずる經緯の興味あり又おそるべき結果に向って徐々として進む。ゲルツェンはこの結果に至つて、卽ち三つの破壞された生活の殘骸を指して、これは果して『誰の罪』であるか!と世閒に問はんとしたのである。この問題小說はロシヤ後來の文學者、批評家に常に愛讀され、諸種の議論の材料とされたもので、わが國には未だ紹介されてなかったのが不思議なほどである。

 因にこの拙譯は一九二四年一月ベルリン、ラドゥイジュニコフ書店發行の露語原書による。

    一九二四年一月

 次に、フランスなどでの、1848年の2月~6月革命の勃発から敗北までの彼の見聞きした出来事とそれへの彼の思いを綴った「向こう岸から」より、息子に宛てたその序文から…
 同じころマルクスは「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」を書いた。「題材」が一緒で、しかもどちらも優劣がつかず、それでいて、読後感で違いがあるのは、二人の立ち位置、気質の違いが明らかになり、とても興味深い。1848年革命の顛末の受け止め方は、ゲルツェンらしく、「向こう岸から」の論旨の展開は決して読みやすいものではない。こうした「韜晦」の故に、後世にすんなりとゲルツェンは受け入れられなかったのであるが、今の御時世だからこそ、傾聴に値する。

    わが息子アレクサンドルに

 わが友サーシャ〔「アレクサンドル」の愛称〕
 私はこの本を君に捧げる。それは、私がこれまでこれ以上に良い本を書いたことがなかったし、おそらく、これからもこれ以上に良い本を書くことはないだろうからだ。また、私は闘いの記念碑として、この本を愛しているからだ。この闘いの中で、私は多くのことを犠牲にしてきたが、しかし、知ろうとする勇気を捨てたことはなかった。そして、最後に、古臭い奴隷的な偽りに満ちた見方、別の時代に属しているにもかかわらずわれわれの間に生き延び、ある者たちを妨げ、ある者たちを脅かしている、愚かしい偶像に対する不羈の人間の、時として不遜な抗議を、幼い君の手に託すことを私はいささかも恐れていないからだ。
…。
 来るべき社会改造の宗教はただ一つ、私が君に遺す宗教だけだ。そこに天国はない、褒賞もない。あるのは己の意識、己の良心だけだ……いつの日にか故国に帰り、この宗教を広めてほしい。

 ……人間の理性と個人の自由と友愛の名において、私は君のこの道を祝福する。

    君の父
          一八五五年一月一日 トウィックナムにて

アレクサンドル ゲルツェン. 向こう岸から (平凡社ライブラリー799) . 平凡社. Kindle 版.

編者注】「誰の罪」の訳者、梅田寬は1969年没とあるので、著作権は消失していないと判断するのが妥当である。したがって、ゲルツェンの紹介を兼ねて、訳者の序文の部分引用に留める。また、言うまでもなく、「向こう岸から」も訳者の著作権は存続しているので、これまた、ゲルツェンの序文の一部の「引用」である。代わりに「誰の罪」のロシア語原文からの「自動翻訳」を後日掲載する予定である。