読書ざんまいよせい(073)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(013)

〚編者注 以下の底本は、科学の古典文献の電子図書館「科学図書館」の古典文献の電子図書館「科学図書館」から〛

付録・唯物論史

    まえがき

 唯物論はひとつの世界観であるが、この世界観はつねに敵をもっていた思想であった。このことをまず知っておくことが必要である。どんな世界観思想だってもちろん反対論をともなわないものはない。その思想がはっきりしていればいるだけ、反対論がともなうのは当然のことである。しかし、単なる反対者でなくて必ず敵をもつということは、唯物論思想の特質であり、この思想の運命である。
 唯物論史は周知のように古代ギリシアのレウキポスやデモクリトスからはじめられるが、すでにこれらの思想家たちからが、敵としてはとりあつかわれなかったにしろ、プラトンやアリストテレスからよく言われず、少くとも世界観のうえで味方とは考えられていなかったことは、アリストテレスの書いているものからしても、明らかである。ヨーロッパでは唯物論の思想を人々のうちに滲透させた人としてルクレティウスはすぐれた思想家であるが、ほぼ二〇〇〇年もの長いあいだ彼の著述(『ものの本性について』)が避けられていたようであるのも、じつは宗教の信仰にたよる人々や眼に見えぬイデーのみ貴ぼうとした観念論者たちのなかに、黙っている小さな無数の敵がいたのだとおもう。近世になると唯物論の敵の例は多い。敵が多いだけでなく、判然と必ず敵を呼び出す思想として、唯物論は出てきているのである。
 誰もコペルニクスやガリレオを唯物論者だとレッテルを貼りはしないが、しかし何としても聖書のなかの造物者としての神を否定してしまった点では、これらの自然科学者たちは近世の唯物論的世界観への道をひらいた第一人者だといわねばならない。コペルニクスやガリレオが不倶戴天の敵を宗教裁判所を代表とする信仰者たちのなかに呼びおこしたのは、じつに近世の自然科学的世界観のなかにある無神論的唯物論だったのでなくてはならない。一八世紀のフランスの唯物論者たち、ラマルク、エルヴェシウス、ジャン・メリエなどとなると、生涯敵をもちつづけたのであった。一九世紀から二〇世紀のマルクス、エンゲルス、レーニンとつぎつぎあげてくれば、もう唯物論はつねに敵があることによってひとつの体系ある思想組織となった世界観であったことがあきらかである。さて私たちは今やそのような唯物論的世界観の支持者を「近代日本をつくった人々」のなかに置いて考察しようとしているのである。
 「近代日本」とはいったい何だろう。それはいうまでもなく、近代的性格をそなえるようになった時代の日本のことでなくてはならない。近代的性格とは、人間が自分自身を見出し(ルネサンス)、神を否定し(一八世紀)、産業の仕方を機械化し(一九世紀)、世界観を自然科学的思想のうえに築いてしまった時代(二〇世紀)がもっている性格のことでなくてはならない。してみると、近代日本とは、かつて「神国」と呼ばれ通してきた日本が右のような近代化を実現するに至った日本のことだということになる。日本は近代化という至難のことをとにかく一世紀たらずの間になしとげたのである。日本がかように近代化されてしまったことが、日本人の生活を幸福にしたと無条件にいえるかどうか、それについてはいろいろな意見があることでもあろう。しかし上述の意見で日本が近代化していることは、どうしようもない事実である。
 民族国家の近代化の困難は、日本だけではない。ソヴィエトも中国もそれぞれこの困難を背負った。そしてその困難さにはそれぞれ特徴があった。日本の場合、そのむつかしさの特徴はどういう点にあったのであろうか。
 いずれは近代化とは生活の合理化ということで言いかえられるものである。合理化において日本人はどういう特質を示したか。日本人は生活の合理化を個々の人間のうちの知恵において処理したが、その知識の客観的な組織(科学および科学的技術)において処理しなかった。このことへの着眼は日本文化を理解するにとって大切な鍵であると私はおもう。もし、日本人が前者をすら欠いでいたら、今日日本は世界の最劣等の民族国家であったろう。
 生活の合理化が正規にすすんだ例は西欧の諸国であるが、そこでは組織だった産業が先頭に、技術と科学がこれにつき、純粋な科学がこれにともない、哲学はこれらの全線に併行した。これをぜんたい的にいうと、客観的組織化が特徴だった。日本に欠けていたものはこれだった。
 つまり、サイエンスとテクノロジーとが欠けていたことである。学問と実践の両方において組織性がなかったこの国において、もっとも困難なるものは以上いったような意味での組織的な客観的な世界観の欠如である。
 日本の唯吻論はこうした世界観の弱さのなかに形成されねばならぬものだった。荒野の地に花が咲こうとしたが、この花はつねに摘みとられようとされた花だったわけだ。私たちは福沢諭吉のような近代的思想家によってこの荒れた土地がややいっぱん的に耕地化されていったことはみとめるが、唯物論の播種とまではいかなかった。むしろ日本人の生活の合理化をもっとも具体的に尖鋭に押しすすめようとした森有礼のような思想家によって、唯物論はようやく根を下しはじめたといいたい。あとでのべるように、森には合理化を鮮明に強力に押し出した啓蒙家の面があったから。
 日本の近代化をそれぞれの文化部門でひきうけた思想家実践家たちのなかで、唯物論者たちはどういう課題をどういうように解いていったか。この問題に若干の考察を加えることが、この論文の狙いである。さて、そうしたとき唯物論者とはどの範囲までの合理的な近代的思想家を指すのであるか。このことをヨーロッパにおいてその実例のもっとも判然とみられるような型に分けて考えることをしないで、日本の近代化の実情についてその型をいちおうさだめて、叙述してみたいとおもう。
 生活の合理化へと日本人の思想を導いた人々を唯物論への道を準備した人たちとして、これを啓蒙家または哲学思想家のなかから見出すことがまず最初に試みられる。これらの人々は当然明治の初期または中期に属する。第二に、合理化の思想をとくに具体的に鮮明に押しすすめた人々を唯物論への道を拓いた人たちとして、政治家または専門の学者のなかから見出すことがなされる。この型の人々も、どちらかというと明治時代に属する。第三は、唯物論という世界観をとくに意識しこれを志向した思想家ではないという点では、第一第二と共通する。しかし、第三では、唯物論思想をすでに意識していて、これと併行して別箇の世界観をもってとおした人々について考察する。第四では、唯物論という世界観を日本人の間に実現させようと努力した人々を、考察する。第五には更に、唯物論の一九世紀後半、二〇世紀の前半における発展の実情からみて、歴史的唯物論という新観念のもとで新しい世界観を樹立しようとした人々を評論してみることである私は右のように五つの型をつくってみて、これでこの人物評論を主とする近代日本の唯物論小史をまとめてみたいとおもう。その五つはA・B・C・D・Eに分けることにしたい。なお読者が私の『日本の唯物論者』を参照されることを望みたい。
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南総里見八犬伝(011)

南總里見八犬傳卷之五第十回
東都 曲亭主人 編次
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一言いちごんまこと]をまもつ伏姫ふせひめ深山しんさん畜生ちくせうともなはる」「金まり大すけ」「伏姫」「やつふさ」

きんおかして孝德一婦人たかのりいつふじんうしな
はらさき伏姬八犬子ふせひめはつけんしはしらす

 義實よしさね夫人五十子おくかたいさらこは、八房やつふさ爲體ていたらくを、人のつぐるに驚きて、もすそかゝげいそがはしく、伏姬のをはします、子舍こざしきへはや來給ひしが、と見れば處陜ところせきまでに、侍女們をんなばら戶口とぐちにをり、治部殿ぢぶどの[義實をいう]もをはしませば、ひめにはつゝがなきものから、親子が中に犬をおきて、問答もんどう最中もなか也。ことはつるまでとて、竊聞たちぎゝしつゝ潸然さめさめと、うちなきてゐましけり。とはしらずして侍女們をんなばらは、いでてゆく犬におそれて、おもはず左右へひらきしかば、交加ゆきかひみちやゝあきて、かくはつべうもあらざれば、走りりつゝ姬うへの、ほとりへ撲地はた伏沈ふししづみ、聲ををしまず泣給へば、義實ははぢらひて、うち見たるのみ物のたまはず。伏姬ふせひめは母のそびらを、なでおろし、又なでおろし、「緣由ことのよしを聞きこしめせし。おん心こゝちはいかにぞや」、となぐさめられて、母うへは、かうべもたげて淚をぬぐひ、「きかずはいかでなげきをせん。なう伏姬、よにも怜悧さかしくましませば、殿との御諚ごでふ表裏うらうへなく、賞罰せうばつの道なほかれとて、名をけがし、身をすて給ふ。そは父うへに孝行なり共、ぜうもとり、そげなば、たれかはこれを譽侍ほめはべる。凡生およそいきとしいけるもの、二親ふたおやならぬもあらざるに、母が歎きをおもはずや。さりとては心つよし。幼稚をさなきときの多病なる、母の苦勞をやうやくに、昔かたりになすまでに、生育おひたち給へば又さらに、見增みま標緻きりやうは、月も花も、及ばぬものをいかなれば、われからその身をにゑにして、くやしとだにもおぼさぬは、あやにまつはるものの、しうねき所爲わざに侍るべし。やよさめ給へ、さめ給へ。年來としころ念ずる神の加護かご、佛の利益りやくもなき世」と、さとしつなきつ、いとせめて、くり返し給ふ母の慈悲ぢひに、伏姬はたへかねし、淚をそで推包おしつゝみ、「しかのたまへば不孝の罪、おもきが上になほ重し。親のなげきもかへりみず、なきのちまでも名をけがす、それかなしまぬに侍らねど、命運めいうんの致す所、まことのがれぬ業因ごういんと、思ひさだめて侍るなる。これみそなはせ」、と左手ゆんでかけたる、珠數ずゞさや〳〵と右手めてに取り、「わらはが幼稚をさなかりしとき、役行者えんのぎやうしや化現けげんとやらん、あやしきおきながとらせしとて、たまはりしより身を放さぬ、この水晶すいせう念珠ねんじゆには、かずとりの玉に文字もじありて、仁義禮智忠信孝悌じんぎれいちちうしんこうていよまれたる。この文字もんじゑれるにあらず、又うるししてかけるにはべらず、自然しぜんせうあらはれけん、年來日來としころひごろ手にふれたれども、磨滅すれうすることなかりしに、景連かげつらが滅びしとき、ゆくりなく見侍れば、仁義の八字はあとなくなりて、ことなる文字もんじになり侍り。このころよりぞ八房が、わらはに懸想けさうし侍るになん。これはた一ッの不思議なる。過世すくせさだま業報欤ごうほうか、と欺くはきのふけふのみならず、そのたでしなばや、と思ひしはいくそたび、手にはやいばをとりながら、いなこの世にして惡業あくごうを、ほろぼずは、のちの世に、うかむよすがはいつまでも、あらしの山にちる花の、みのなるはてを、神と親とに、まかせんものを、とあぢきなき、浮世の秋にあひ侍り。これらのよしをかしこくも、さとり給はゞおんうらみも、忽地散たちまちはれてなか〳〵に、思ひたえさせ給はなん。さてもあまり七年なゝとせの、おん慈愛いつくしみあだにせる、子は子にあらず前世さきのよの、怨敵おんてきならめ、と思食おぼしめして、今目前まのあたりに恩義をたち御勘當ごかんだうなし給はらば、身ひとつにうく恥辱はぢは又、うまん世の爲也、とはかなく賴む彌陀西方みださいほう、佛の御手みて絲薄いとすゝき尾花をばなもとに身をばおくとも、つひ惡業消滅あくごうせうめつせば、うしろやすく果侍はてはべらん。只願たゞねがはしきはこの事のみ。これ見て許させ給ひね」、とさしよせ給ふ珠數ずゞの上に、玉なす淚かずそひて、いづれ百八|煩ぼんなうの、迷ひはとけ母君はゝぎみは、うたがはしげに顏うち熟視まもり、「さまでよしある事ならば、はじめより如此々々しか〳〵、と親にはなどてつげ給はぬ。什麼そもその珠數ずゞあらはれしは、いかなる文字ぞ」、と問給へば、義實「これへ」、ととりよして、うち返し〳〵、つく〴〵と見て嘆息たんそくし、「五十子いさらこ思ひたえ給へ。仁義禮智の文字もんじきえて、あらはれたるは如是畜生によぜちくせう發菩提心ほつぼだいしんの八字なり。これによりて又思ふに、八行五常はつこうごじやうは人にあり、菩提心は一切衆生いつさいしゆせう人畜にんちくともにあらざるなし。かゝれば姬が業因ごういんも、今畜生ちくせうみちびかれて、菩提の道へわけ入らば、のちの世さこそやすからめ。まこと貧賤榮辱ひんせんゑいちよくは、人おの〳〵そのくわあり。姬が三五の春のころより、鄰國りんこくの武士はさら也、彼此をちこち大小名だいせうめうあるひは身の爲、子の爲に、婚緣こんえん募來もとめこしたる、幾人いくたりといふ事をしらねど、われは一切承引つやつやうけひかず。今茲ことし金碗大輔かなまりだいすげを、東條とうでふの城主にして、伏姬をめあはせて、功ありながら賞を辭し、自殺したる、孝たかよしに、むくはばや、と思ひつゝ、言過失ことあやまちて畜生に、愛女あいぢよを許すも、ごうなりいんなり。五十子いさらこは義實を、うらめしとのみ思ひ給はん。たゞこの珠數ずゞの文字を見て、みづからさとり給ひね」、と叮嚀ねんごろに慰めて、ときあかし給へども、はれぬは袖の雨催あまもよひ、聲くもらして泣給ふ。
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読書ざんまいよせい(072)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(012)
む す び


 以上、二篇、五章、十六節にわたって、唯物論思想の線につながる人たちの評伝を試みたのであるが、さいごにぜひ述べておきたいことは、それらの人たちの学問的な且つ思想的なつながりである。「補」のところで論評した人たちは別であるが、その他の思想家たちは或るひとつの共通の線において、とにかくむすびつくのである。どのひとりとして、啓蒙の第一線に立っていない人はない。ややもすれば隠されがちな人間存在の本質からの欲求を、社会に向って呈露させようとしなかった人はいないのである。さて、そうではあるが、学問的思想のうえでのそれらの人たちのつながりがのこらず確認できるとは決していえないのである。
 ヨーロッパだったら、デモクリトスやエピクロスの思想とつながりのない唯物論者はまず稀だし、ベーコンやホッブスに何かのかたちでつながらないということはなかったし、一八世紀いごだったら、フランスの唯物論者たちの考え方をふりかえってみない唯物論者はまずないといっていいし、また一九世紀の後半いごだったら、マルクス、エンゲルスが、ひき合いに出される場合がほとんどである。かようにして、学問的思想のうえでれん関のないということは考えられない。
 この書は日本唯物論史ではなく、個々の唯物論者を評伝することを意図しているのだから、思想の歴史的な結びつきを明瞭に書き表わすことに努力したわけではないが、その結びつきを探すことが終始私にとっては問題であった。戸坂潤は、河上肇と教養や学問で結ばれる点があるが、兆民や秋水とは或る隔りをもっている。兆民は仏教や老荘から彼の唯物論思想を成長させるものを汲みとったが、秋水においては同じことは求められない。諭吉の啓蒙思想には江戸時代の思想家からくる影響はあったろうが、彼が蟠桃の無神論や昌益のラディカルな反観念論思想に触れたとは(少なくとも今の私には)思えない。
 しかし、それならすべで無連絡かといえば、そうではなくて、梅園は益軒の影響を深くうけていると察せられるし、春臺や仲基などは、また淇園すらもが、徂徠の先行なくしてはおそらく考えられないであろうし、その他こうしたつながりならば指摘されるものがいくつかあるであろう。いっぱんに、人物と人物との思想体系と思想体系との歴史的つながりについては、実証的な研究をまたないでは、つながりが「無い」という断定は、ほとんどぜったいにといっていいほどに、さしひかえねばならぬのだから、私たちの場合でも、個々の唯物論者の相互の学問的・思想的つながりについては、否定的な断定は遠慮しなくてはならない。これからいごの研究において、日本の唯物論思想家相互の関係が明らかにされる労作が必ずや公けにされるであろう。孤独の反逆者だと私たちが考えている昌益でも、必ずしもそうでなかったことが或いは明瞭になる日があるかも知れない。
 日本の唯物論思想家たちの思想的つながりについての私の見解は以上のごとくであるが、それにしても、ヨーロッパの場合と比べてみるとき、どの思想家も(ことに江戸時代においては)まえに先行者がなく、後にすぐつづく後進者がなく、一様にむすびつくべき唯物論思想の太い主脈の線がなかったことが、強く感じられるのである。
 ここで、つぎのことを述べておきたい。明治以後においては、もっと多くの唯物論者をとりあげて評伝すべきであることを痛感したのであるが(たとえば、野呂栄太郎や三木清、唯物論研究会に属していた永田広志、鳥井博郎、伊藤至郎その他のひとびと)、紙数のうえでその余裕がなかった。
 なお、明治・大正時代における自然科学者で、生活の仕方が合理主義的で唯物論的であった人たち(たとえば狩野亨吉博士のような人物)についても、のべておきたかったが、これらは他日機会を得たとき試みたいと思うのである。 

追 記

 この書の成立について、英宝社の佐々木峻君の二ヵ年にわたる私に対する激れいと、池城安昌君の校正、年表・索引その他の協力とに対して、厚くお礼を述べておきたい。(一九五六年六月記

〚編者注 年表・索引のテキストは省略する。〛

読書ざんまいよせい(071)

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(05) 第三幕


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リヤ王:第三幕 第一場
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第三幕

第一場 荒野ヒース

雷電、風雨。闇夜。ケントと一紳士とが左右より出る。

ケント
 誰れだ、此ひどいあらしに?
紳士
 此天氣同樣、心が亂脈になってゐる者です。
ケント
 あんたですか?王はどこにおいでゝです?
紳士
 荒れ狂ふ雨や風と鬪っておいでゝす。風に對って、地球を海ン中へ吹き込んでしまへだの、 でなきゃ、天地を一變させるか、滅亡させるために、卷き返る海を大陸まで吹き上げッちまへだのとおっしゃって、 あの白い頭髮かみのけをば掻き毟ったり何かなさると、怒りたける烈風が暗雲やみくものそれを攫って、 玩弄おもちやにします。つまり、王は人體の小天地で、 激しく相鬪ってゐる大天地の雨風をばないがしろにしようとしていらせられるのです。 乳の盡きた熊さへも潛み、獅子やかつゑた狼さへも出歩き得ない如是こんな晩に、帽子もめさんで、 走りまはって、まるで棄鉢になっておいでなさるのです。
ケント
 だれかお傍にゐますか?
紳士
 阿呆がゐるばかりです。やつは例の通り洒落のめして、それで以て斷腸のお苦しみを打消さうとつとめてゐます。
ケント
 てまへ貴下あんたを善く知ってをますから、見込んで、一大事を御委託申したい。 上手に隱してゐなさるから、表面うはべにはまだ見えないが、 オルバニーどのとコーンヲールどのとはおツそろしく仲がわるい。又、二人とも、 其忠義めかす家臣のうちにゃァ、内々フランス王の間者となって、 見たことや聞いたことを細大となく彼方あちらへ通信してゐる者があります、…… 運星のお庇で高い位に在る人たちにゃァ、兎角えてさういふ臣下が附いて廻るものです。…… そこで、兩公爵の口論の事から、陰謀の事から、老王に對する虐待乃至それらの根本と見做すべきあらゆる祕密までが、 とうに通信されてゐるさうです。いや、とにかく、フランス王が此内訌に乘じて攻め寄せるといふことは、事實です。 吾々の油斷を機として、既に主立った港々に上陸し、今にも軍旗を飜さうとしてゐるのです。 そこで、あんたへのお頼みはです。もしてまへを信じて、急いでドーヴァーまで行って、 王が何樣どんな不倫な取扱ひにお逢ひなされ、お氣が狂ふほどのお悲しみといふことを正しく報道して下されたなら、 必ず厚く其勞力ほねをりを感謝されるお人にお逢ひなさるでありませう。てまへうぢも育ちも紳士です、 傳聞うけたまはり及んだことがあって、あんたに此役目をお頼みします。
紳士
 尚ほ篤とうけたまはりました上で。
ケント
 いや、それは無用です。自分は表面うはべに見えるよりも以上の者だといふ證據に、此財布を、 これをひらいて、中の金子きんすをお使ひなさい。 もしコーディーリャさまにお逢ひなされたら……必ずお逢ひなさるでせうから……此指輪を御覽に入れて下さい、 すれば、てまへが何者かといふことは其際そのをり、お話なさるでありませう。……

あらし烈しくなる。

えィ、此あらしは!王をお搜し申して來よう。
紳士
 お手を。(手を振合ふ)何か外に申し殘されたい事は?
ケント
 ほんの一言、しかし今まで申したよりも大切な事。といふのは、王をお見附け申したなら…… あんたは其方そツちへ、わたしは此方こツちへ往かう……眞先に見附けた者が大きな聲で呼ぶことにしませう。

二人とも入る。
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南総里見八犬伝(010)

南總里見八犬傳卷之五第九回
東都 曲亭主人 編次
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戲言けげんしんじて八房やつふさ敵將てきせう首級しゆきうたてまつる」「里見よしさね」「杉倉氏元」「里見よし成」「伏姫」「八ふさ」

盟誓ちかひやぶり景連兩城かげつらりやうぜうかこ
戲言けげんうけ八房首級やつふさしゆきうたてまつ

 卻說安西景連かくてあんさいかげつらは、義實よしさねの使者なりける、金碗大輔かなまりだいすけあざむとゞめて、しのびしのびに軍兵ぐんびやうてわけしつ、にはかに里見の兩城りやうぜうへ、犇々ひし〳〵推寄おしよせたり。その一ひとそなへは二千餘騎、景連みづからこれをて、瀧田たきたの城の四門しもんかこみ、晝夜ちうやをわかずこれをむ。またその一隊ひとそなへは一千餘騎、蕪戶訥平等かぶととつへいらを大將にて、堀內貞行ほりうちさだゆきこもりたる、東條とうでふの城をかこませ、「兩城一時いちじ攻潰せめつぶさん」、といやがうへにぞ攻登せめのぼる。そのこと爲體ていたらく稻麻とうまの風にそよごとく、勢ひをさ〳〵破竹はちくに似たり。このとき里見の兩城りやうぜうは、兵粮甚乏ひやうろうはなはだともしきに、民荒年たみくわうねんえきつかれて、催促に從はず、只呆たゞあきれたるのみなれ共、恩義の爲にいのちかろんじ、寄手よせてものゝかすともせざる、勇士猛卒ゆうしもうそつなきにあらねば、をさ〳〵防戰ふせぎたゝかふものから、主客しゆかくの勢ひことにして、はや兵粮につきしかば、しよくせざる事七日に及べり。士卒はほと〳〵たへかねて、夜な〳〵、へいこえ潛出しのびいで射殺いころされたる敵の死骸しがいの、腰兵粮こしひやうろう撈取さぐりとりて、はつかうへみつるもあり、あるは馬を殺し、死人の肉をくらふもあり。義實よしさねいたくこれをうれひて、杉倉木曾介氏元等すぎくらきそのすけうぢもとら、もろ〳〵の士卒しそつ聚合つどへ、さてのたまふやう、「景連は表裏ひやうり武士ぶしちかひを破り義にたがふ、奸詐かんそは今さらいふにしも及ばねど、さのみおそるゝ敵にはあらず。かれ兩郡のひとて、わが兩城を攻擊せめうてば、われも二郡のひとをもて、かれが二郡のひとに備ふ。よしや十二分に勝得かちえずとも、午角ごかくいくさはしつべきに、わが德らで五穀登ごゝくみのらず、內に倉廩空さうりんむなしうして、ほかにはあたの大軍あり。甲乙こうおついまだわかたずして、ちから既にきわまれり。縱百樊噲たとひひやくはんくわいありといふとも、うへては敵をうつによしなし。たゞ義實が心ひとつ、身ひとつのゆゑをもて、この城中にありとある、士卒を殺すに忍びがたし。今宵衆皆烏夜こよひみな〳〵やみまかして、西の城戶きとより走り去れ。からくも命をまつたうせん。その時しろに火をかけて、まづはや妻子さいし刺殺さしころし、義實は死すべきなり。二郞太郞じろたらうもとくおちよ。そのてだて箇樣々々かやう〳〵」、と精細つばらかに示し給へば、衆皆みな〳〵これをきゝあへず、「御諚ごじやうでは候へども、その祿ろくうけ妻子やからを養ひ、なんのぞみ筍且かりそめにも、まぬかるゝことはえうせず。只顯身たゞうつせみの息の內に、寄手よせての陣へ夜擊ようちして、名ある敵とさしちがへ、君恩くんおん泉下せんかほうぜん。この餘の事はつゆばかりも、ねがはしからず候」、とことばひとしく回答いらへまうすを、義實はなほ叮嚀ねんごろに、說諭とききとし給へども、承引うけひく氣色けしきなかりけり。
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読書ざんまいよせい(070)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(011)

第二節 とさか・じゅん(戸坂潤)

一 空間論からの出発

 戸坂潤の青年時代の魂をとらえた学問は空間論である。哲学の諸問題のなかでも、とくに空間論を明らかにすることに力をそそいだのであった。空間論を哲学の問題としてうけとること、これに対照されるものは時間論である。さて、ここでまず素朴な質問をだしてみよう。それは案外に事態の本質をついている問いだとおもうからである。空間論と時間論、そのどちらが一般に唯物論の立場に関係が多いか?
 この質朴な問いには簡単にいっぺんに答えられる。それはもちろん空間論であると答えることである。哲学史は唯物論の祖だといって、いつでも古代ギリシアのレウキボスとデモクリトスをあげるのであるが、これらの自然哲学者ののこした断片のうちには時間の論は見あたらない。そのつきにひいでた唯物論者として私たちはローマの詩人ルクレティウスをあげたいが、彼の『物の本性について』という詩の形でかかれている千何百行のなかにも時間論の思索を汲み出すことはむつかしい、ほとんどできない。同じことは十九世紀のフランスの唯物論者たちについてもいえる。といって、時間論が人間のする思索の対象として価値が少ないのではない。もしも楽しく悠々と思索で暮らせるのだったら、時間は人に限りなく問題を提供することだろう。しかし、人間にとっては運命的にまでさいごまで空間論はまといつく。空間論的に人間が規定されている人間存在の根本事実は、どうしようもない。時間は人に空間論的にしか考えさせない。空間論が明らかにされないでは時間論の成立は考えられない。空間論は科学の哲学の一般的基礎だといってよい。
 日本で、はじめて空間論の研究をめざしたのは戸坂潤である。彼は彼の『空間論』という論文註(1)のなかで、こういっている。

「空間というもの、又は空間という概念は、殆んど凡ゆる科学乃至理論の中に、問題となって現われて来る。例えば絵画や彫刻、演劇や、キネマに就いてさえも、その理論の内に空間が可なり大切な問題となって現われるだろう。一体吾々が視・触り・聴くこの、 世界―――実在界―――それらは悉く、空間的な規定を離れることが出来ない。吾々は日々の生活を完全にこの空間の支配下に送っているのである。だから、空間の問題が凡ゆる理論または科学の問題として取り上げられるということは、実は何の不思議もない。それは凡ゆる領域に浸潤している問題である」

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南総里見八犬伝(009)

南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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真野まの松原まつはら訥平とつへい大輔だいすけふ」「金まり大すけ」「かぶ戸とつ平」

行者ぎやうじや岩窟いはむろ翁伏姬おきなふせひめさう
瀧田たきた近邨きんそん狸雛狗たぬきいぬのこやしな

 金碗かなまり八郞孝吉たかよしが、にはかに自殺したりける、こゝろざしをしらざるものは、「かれ死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜あたら命をうしなひし、こは全く玉梓たまつさに、のゝしられしをはぢたるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、かしこき人のことに、男子寡欲なんしくわよくなれば、百害を退しりぞけ、婦人にねたみなければ、百拙ひやくせつおほふといへり。まいて道德仁義をや。されば義實よしさねの德、ならずして、鄰國りんこくの武士景慕けいぼしつ、よしみを通じ婚緣こんいんを、もとむるも又多かりける。そが中に、上總國椎津かつさのくにしひつの城主、萬里谷入道靜蓮まりやのにうどうじやうれん息女そくぢよ五十子いさらご呼做よびなせるは、けんにしてかほよきよし、義實仄ほのかに傳へきゝて、すなはちこれをめとりつゝ、一女一男いちぢよいちなんうまし給ふ。その第一女は嘉吉かきつ二年、夏のすゑに生れ給ふ。時、三伏さんぶくの時節をひやうして、伏姬ふせひめとぞなつけらる。二郞じらうはそのつぐの、年のをはりにまうけ給ひつ、二郞太郞じろたらうとぞ稱せらる。のちに父の箕裘ききうつぎ安房守義成あはのかみよしなりといふ。稻村いなむらに在城して、武威ぶゐます〳〵さかんなりき。しかるに伏姬は、襁褓むつきうちよりたぐひなく、彼竹節かのたけのようちより生れし、少女をとめもかくやと思ふばかりに、肌膚はだへたまのごとくとほりて、產毛うぶげはながくうなぢにかゝれり。三十二さうひとつとしてくかけたる處なかりしかば、おん父母ちゝはゝ慈愛いつくしみ尋常よのつねにいやまして、かしつきの女房にようぼうを、此彼夥俸これかれあまたつけ給ふ。さりけれども伏姬は、となく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物をいはず、えみもせず、うちなき給ふのみなれば、父母ちゝはゝ心くるしくおぼして、三年以來醫療みとせこのかたいりやうを盡し、高僧驗者げんざ加持祈禱かぢきとう、これかれとものし給へども、たえしるしはなかりけり。
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読書ざんまいよせい(069)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(010)

第二編 明治以後

第四章 マルクス主義の唯物論者

第一節 かわかみ・はじめ(河上肇)

一 河上の思想遍歴

1

 河上肇の生涯、そのなかでもわけて彼が唯物論者として活動するまでの、そしてそれから後の思想の生涯、それをここにのべることが、この節での私の仕事である。
 河上もまた幸徳秋水と同じように、思想のうえの生涯という点では、郷土からくる影響をになっている。彼ははやくから「梅蔭」という号を自分につけていた。彼の家の庭に梅の老木があったためであるが、号は少年の頃から吉田松蔭に私淑していたためにつけたのである。彼は蘇峰の『吉田松蔭』を中学時代に感激してよんだことを後に語っている。松蔭に対する尊敬はなみなみならぬものだった。それは青年時代までつづいていた註(1)。『自叙伝』のなかに、こういうことが記されている。「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云ったやうな欲望は、松蔭先生によつて絶えず刺戟されてゐたことと思ふ」。このようにして、河上は郷土の思想家松蔭のえいきょう﹅﹅﹅﹅﹅のもとにあったことは、まず注意しておいてよいであろう。河上は、中学の課程を岩国学校で学び、ここを卒えてから山口高等中学校に入ったのであるが、そこでは彼は文科の学生だった。ところが卒業試験の直前になって、「法科へ転じよう」という決心をした。この転科のもと﹅﹅となったものは、もうすでに彼のうちに宿っていたようである。松蔭に私淑したこの少年には前述のように「胸の底に、経世家的気分と云ったやうなもの」があったのだった。彼には早くから、少年経世家としての風があっただけではない。すでにれっきとした﹅﹅﹅﹅﹅﹅経世家らしい論策が書かれていた。彼は岩国学校の頃に友人と回覧雑誌をつくっていたが、その雑誌には「討論」という欄があった。彼はこの欄に『日本工業論』という文章をのせていた。「……方今旧日本已ニ去リテ新日本将ニ生レントス、而シテ英アリ露アリ、毎ニ我ガ釁ニ乗ゼント欲ス、……而シテ我国工業盛ンナラズ、故ヲ以テ、例ヘバ戦艦ヲ造ラントスルヤ、又之ヲ仏人ニ委任シ、多量ノ金銭費シ、多量ノ苦労ヲ要シ、或ハ道ニシテ之ヲ失ヒ、遂ニ我レニ勇アリ武アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損スルアルニ至ル、嗚呼惜イ哉、是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ致ス所ニシテ実ニ我ガ神州ノ為メニ悲ム可キ事実ナリトス……註(2)」まことに堂々たる経世の文であるといわねばならない。とにかく、彼は法科に転じたのである。ここにすでに彼の遍歴の旅ははじまっているといえよう。このときの転向はいかにも少年らしかった。というのは、日本にはじめて政党内閣ができ、昨日までは青年政治家であったものが「一躍して台閣に列する」というような時代の風がこの少年に「昂奮を与えた」からである。
『自叙伝』の叙述にしたがってではあるが、私が少年河上をこのように批評してくると、河上はやがて大学に入り法科を出て、いわゆる出世街道を馳け進んだ青年だったように描かれるかも知れない。しかし、そうでないことは、「河上肇年譜註(3)」の一九〇一年(明治三十四年)のところを一べつ﹅﹅しただけでも、この青年のなかにある経世家的なものが、彼の成長とともに伸びてゆきつつあったことを、知ることができよう。そこにはこう書いてある。「十一月足尾鉱毒地の罹災民救済のための演説会をきき、翌日身に纏ってゐる以外の衣類を残らず行李につめて救済会の事務所にとどけた。このことは当時の毎日新聞(十一月二十三日)に『特志の大学生』といふ見出しで記事にさへなった。」
 河上は一九〇三年(明治三十六年)に東大を出て、翌年は東大の農科大学実科講師や、その他の二、三の学校の講師をしたが、そうしたことよりも、一九〇五年(明治三十八)に読売新聞に『社会主義評論』を書きはじめたことに注意をむけるのが、私たちには意義がある。彼のこの評論は、周知のように、たちまち多くの読者をもち、新聞の発行部数がそのために増加したというほどだった。もとより、このときの河上の評論はマルクス主義には遠いものだった。ここでマルクス主義のことを持ちだすのは、このころ彼はマルクス主義の学説にセリグマンを訳することを通じて注意を払っていたからである。しかし、「社会主義評論」では、まだ唯物論的な社会主義に共感をよせてはいなかった。むしろ、トルストイ的な、平和な無我的な愛を主張註(4)していたくらいだった。
 私はここで河上が、無我愛を主張した伊藤證信との結ばれについて記すべきところへきたとおもうが、その前に彼のなかの「経世家」の動きに属する活動をもうひとつここにのべておかねばならない。明治三十八年は河上にとって多事な年だった。彼はこの年『日本尊農論』を書いて公けにしている。菊判二〇〇頁の本である。今日では見る機会が少なかろう。この本にふれている前掲(註(4)を参照)の『河上肇』のなかにつぎのような記述がある。「彼が尊農を説くゆえんは、商・工業の発展が農民を《無資無産の放浪者として工場に出入せしめ、もつていはゆる資本家の使役する所に任》じ、《多数の国民は凡て労働者階級に堕落し尽く器械の奴隷たるに至れるを見ん》ということや、また工場法制定に反対し、労働条件の向上が生産費を増加し、海外輸出の衰退をきたすとして、《同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、却つて異邦において異人種を顧客として尊重》するという当時の実情に反対して、大多数の国民の幸福を守るということから、〔河上が〕出発している点が大切である」。とにかく、河上は日本の農民に、心をよせ、これに強く関心をもったのである。これをみても、いぜんとして彼の内なるいわゆる「経世家的」な思想の動きの深かったことを見てとることができる。
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南総里見八犬伝(008)

南總里見八犬傳卷之四第七回
東都 曲亭主人 編次
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一子いつしのこして孝吉たかよし大義たいぎす」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」

景連奸計信時かげつらかんけいのぶとき
孝吉節義義實たかよしせつぎよしさね

 杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもとが使者、蜑崎十郞輝武あまさきじうらうてるたけ東條とうでふよりはせ參りて、麻呂信時まろののぶとき首級しゆきうまゐらせたりければ、義實よしさね大床子おほせうじのほとりにいでて、くだんの使者をちかくめさせ、合戰かつせん爲體ていたらくを、みづからとはせ給ひしかば、蜑崎十郞まうすやう、「兵粮乏ひやうろうともしくまします事、氏元かねてこゝろにかゝれば、百姓們ひやくせうばら催促さいそくして、運送うんそうせばやと思ふ程に、安西景連あんさいかげつら、麻呂信時、はや定包さだかねにかたらはれて、海陸かいりくの通路をふさぎ、小荷駄を取らん、とわれをまつこと難義なんぎに及びしかば、氏元ます〳〵憂悶うれひもだへて、いたづらに日をすぐしたり。しかるに景連、一夕竊あるよひそかに、家隸某甲いへのこなにがしをもて、氏元にいはするやう、『山下定包は、逆賊ぎやくぞく也。よしや蘇秦張儀そしんちゃうぎをもて、百遍千遍相譚もゝたびちたびかたらふとも、承引うけひくべうは思はざりしに、信時にそゝのかされて、かれが爲にみちふたぎ、良將勇士をくるしめしは、われながら淺猿あさまし、と後悔臍こうくわいほぞかむものから、信時只管ひたすらやじりとぎて、とけども思ひかへさねば、これ亦靴またくつへだてて、かゆきくにことならず。つら〳〵事のぜうはかるに、信時は匹夫ひつふの勇士、利の爲に義を忘れて、むさぼれどもあくことなし。景連舊好きうこうを思ふゆゑに、一旦いつたん合體するといへども、もしあやまちあらためずは、狂人を追ふ不狂人、走るは共にひとしかるべし。所詮しよせん合體のおもひをひるがへし、まづ信時を擊果うちはたして、兵粮ひやうろう運送の路を開き、里見殿さとみとのに力をあはして、賊首ぞくしゆ定包を討滅うちほろぼし、大義をのべんと思ふのみ。さきにはたま〳〵來臨らいりんせられし、里見ぬしをえうとゞめず、あるじぶり禮儀いやなかりしは、かの信時がこばめるゆゑなり。願ふは和殿わどの、城をいでて、短兵急たんへいきうせめかゝれ。信時は野猪武者ゐのしゝむしや也、敵を見て思慮もなく、一陣に進んず。そのとき景連後陣ごぢんより、さしはさみてこれをうたば、信時を手取てとりにせん事、たなそこを返すごとけん。狐疑こぎして大事だいじあやまち給ふな。をさ〳〵回いらへまつ』といへり。しかれども氏元は、敵のはかりことにもや、と思ひしかば、佻々かろかろしく從はず、使者の往返度わうへんたびかさなりて、いつはりならず聞えにければ、さは信時をうたんとて、安西にてふじ合せ、ふりふらずみ五月雨さみだれの、黑白あやめもわかぬ暗夜くらきよに、二百餘騎を引いんぞつし、ばいふくみ、くつわつぐめ、麻呂信時がたむろせる、濱荻はまをぎさく前後ぜんごより、犇々ひしひしおしよせて、ときどつとつくりかけ無二無三むにむざんついる。敵よすべしとはおもひかけなき、麻呂の一陣劇騷あはてさわぎて、つなげる馬にむちあてつるなき弓にをとりそえ紊立みだれたつたるくせなれば、只活路たゞにげみちもとむるのみ、防戰ふせぎたゝかはんとするものなし。そのとき信時聲をはげまし、『たのもしげなきものどもかな。敵はまさしく小勢こぜい也。推包おしつゝんうちとらずや。おとされて前原まへはらなる、安西にわらはれな。うてよ進め』、とはげしくげぢして、眞先まつさきに馬乘出のりいだし、やりりう〳〵とうちふりて、逼入こみい寄手よせて突倒つきたふす。その勢ひはまさこれむらがひつじうちる、猛虎まうこるゝにことならず。士卒はこれにはげまされ、將後陣はたごぢんなる安西が、援來たすけきなんと思ひけん、にげんとしたるきびすめぐらし、唬叫わめきさけびて戰へば、こゝろならずも躬方みかた先鋒せんぢん面外とのかたおひかへされ、みちのぬかりに足もたゝず、すべつまつひきかねたり。當下そのとき杉倉氏元は、まなこいからし、聲をふりたて、『一旦破りし一二のさくを、おひかへさるゝことやはある。名ををしみ、はぢをしるものは、われに續け』、といひあへず、白旄採さいはいとつて腰にさしあぶみを鳴らし、馬を進めて、烏夜やみきらめ長刀なぎなたを、水車みづくるまの如く揮廻ふりまはして、信時にうつかゝれば、かゞりの火ひかりきつと見て、『は氏元。よき敵也。其處そこ退のきそ』、と呼びかけて、やりひねつはたつけば、發石はつしうけてはねかへし、ひけばつけり、すゝめば開き、一上一下いちじやういちげと手を盡す。大將かくのごとくなれば、躬方みかたも敵も遊兵ゆうへいなく、相助あいたすくるにいとまなければ、氏元と信時は、人をまじへず戰ふ程に、信時焦燥いらつつきいだす、やり尖頭ほさきを氏元は、左手ゆんでちやう拂除はらひのけ、おつとおめいて、向上みあぐる所を、長刀なぎなた拿延とりのべて、內兜うちかぶと突入つきいれて、むかふざまに衝落つきおとせば、さしもの信時灸所きうしよ痛手いたでに、得堪えたヘやりを手にもちながら、馬よりだう滾落まろびおつる、音に臣等わくらは見かへりて、とぶがごとくにはせよせて、その頸取くびとつて候」、と言葉せわしく聞えあぐれば、義實つく〳〵とうちきゝて、「氏元がその夜の軍功、賞するにたへたれども、計略足はかりことたらざりけり。景連にはか心裏反うらかへりて、信時をうたする事、そのゆゑなくはあるべからず。夫兩雄それりゃうゆう竝立ならびたゝず。信時景連相與あひともに、われをうつともとみかたずは、必變かならずへんを生ずべし。るを氏元ゆくりなく、安西にそゝのかされて、信時をうちとりしは、躬方みかたの爲に利はなくて、景連が爲になりなん。かの安西はなにとかしつる」、ととはせ給へば蜑崎あまさき十郞、「さ候景連は、そのさり躬方みかたために、征箭一條そやひとすぢ射出いいださず、いつの程にか前原まへはらなる、さく退しりぞきて候」、とこたへまうせば、義實は、あふぎをもつてひぎうち、「しかれば既に景連が、奸計かんけいあらはれたり。わが瀧田をせめしとき、勝敗測はかりかたしといへども、定包さだかね天神地祇あまつかみくにつかみ憎にくませ給ひて、人のゆるさぬ逆賊なり、一旦その利あるに似たるも、始終全しじうまつたからじとは、景連は思ひけん。定包つひ滅亡めつぼうし、義實その地をたもつに及びて、信時は安西がたすけになるべきものならず。只大たゞおほばやりに勇めるのみ、ともに無むぼういくさをせば、もろまけなんことをおそれて、うへには義實と合體して、氏元に信時をうたせ、景連はその虛にじやうじて、平館ひらたて攻落せめおとし、朝夷郡あさひなこふりあはれうして、牛角ごがくの勢ひを張らんとす。うちあふぎはづるゝとも、わが推量はたがはじ」、とその脾肝はいかんすくごとく、いと精細つばらかのたまふ折、氏元が再度の注進ちうしん某乙なにがしをとこはせ參りつ、「信時既にうたれしかば、殘兵頻ざんへいしきりみださわぎて、にぐるをひた追捨おひすてて、氏元は軍兵ぐんびやうを、まとめてやがて東條へ、歸陣して候ひしに、あにおもはんや景連は、はや前原まへはら退しりぞきて、平館ひらたての城を乘取のつとり、麻呂まろ采地朝夷れうぶんあさひな一郡、みなおのが物とせり。狗骨いぬほねをりて、たかとらせし、氏元は勞して功なし。おんせいをさしむけ給はゞ、先せんぢんうけたまはりて、朝夷一郡いへばさらなり、景連が根城ねしろほふりて、このいきどはりはらすべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉貞行等に書簡を寄せたり。金碗かなまりも堀內も、こゝに至りてその君の、聰察叡智そうさつゑいち感伏かんふくし、「はやく景連をうち給へ」、と頻りにすゝめ奉れば、義實かうべをうちふりて、「いな安西はうつべからず。われ定包さだかねほろぼせしは、ひとり榮利ゑのりを思ふにあらず、民の塗炭とたんすくはん爲也。さは衆人もろひとのちからによりて、長狹平郡ながさへぐりぬしとなる、こよなきおのさいはひならずや。景連梟雄けうゆうたりといふ共、定包がたぐひにあらず。その底意そこゐはとまれかくまれ、志をわれに寄せ、木曾介氏元が、信時をうつに及びて、かれいちはやく平館なる、城をぬきしをねたしとて、いくさを起し、地を爭ひ、蠻觸ばんしよくさかひに迷ひて、人を殺し民をそこなふ、そはわがせざる所也。景連奸計おこなはれて、平館を取るといへども、なほあきたらで攻來せめくるならば、一時いちじ雌雄しゆうを決すべし。さもなくはさかひまもりて、こゝより手出しすべからず。みなこのむねをこゝろ得よ」、と叮嚀ねんころさとし給へば、孝吉貞行は、さらにもいはず、左右に侍る近習輩きんじゆのともがら、蜑崎等もろ共に、感佩かんはいせざるものもなく、「いにしへの聖賢せいけんも、このうへややはある」、と只顧稱贊ひたすらせうさんしたりける。かくて義實は、手づから氏元に書を給はりて、かれほめかれさとして、安西をうつことをとゞめ、「人の物を取らんとて、わが手許たなもとを忘るゝな。鄙語ことわざにいふ、あくことしらぬ、たかつめさくるかし。籠城ろうぜうほか他事あだしこと、あるべからず」、といましめて、蜑崎十郞等をかへし給ひつ。
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南総里見八犬伝(007)

南總里見八犬傳卷之三第六回
東都 曲亭主人 編次
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賞罰せうばつあきらかにして義実よしさね玉梓たまつさ誅戮ちうりくす」「玉つさ」「定かねが首級」「戸五郎が首級」「どん平が首級」

倉廩さうりんひらきて義實よしさね二郡にぐんにぎは
君命くんめいうけたまはりて孝吉三賊たかよしさんぞくちう

 卻說瀧田かくてたきた軍民等ぐんみんらは、まづ鈍平等どんへいらうたんとて、城戶陜きどせまし、と詰寄つめよせて、ときどつあげしかば、思ひがけなく塀の內より、やり穗頭ほさきつらぬきたる、生頸なまくびを高くあげ、「衆人もろひとわれをなにとかする。われはや非をくひぎやくさりこゝろざし寄手よせてにかよはし、逆賊定包さだかね誅伐ちうばつせり。いざもろ共に城を開きて、里見殿さとみどの迎入むかへいれずや。同士擊どしうちすな」、とよばゝらして、城戶きどさつおしひらかせ、岩熊鈍平いはくまどんへい妻立戶五郞つまだてとごらう鎧戰袍華よろひひたたれはなやかに、軍兵夥ぐんびやうあまた前後にたゝして、兩人床几せうきしりかけ軍團把ぐんばいとつてさし招けば、軍民等はあき惑心まどひて、くだんくび向上みあぐるに、こはまがふべうもあらぬ、定包が首級しゆきうなり。「原來さては鈍平戶五郞等、のがるべきみちなきを知りて、はや定包をうちたるならん。憎し」、と思へど今更に、同士擊どしうちするによしなければ、やむことを得ずそのげぢに隨ひ、城樓やぐら降參こうさんはたたてて、正門おほてのもんおしひらき、鈍平戶五郞等を先にたゝして、やが寄手よせてむかふれば、里見の先鋒金碗せんぢんかなまり八郞、こと仔細しさいをうちきゝて、定包が首級をうけとり、軍法なれば鈍平等が、腰刀こしかたなさへとりおかして、大將に報知奉つげたてまつれば、義實よしさねは諸軍を進めて、はやその處へ近つき給へば、鈍平等は阿容々々おめおめと、沙石いさごかうべ掘埋ほりうづめて、これを迎奉むかへたてまつり、城兵等ぜうひゃうら二行にぎやうについゐて、僉萬歲みなばんぜいとなへけり。しばらくして後陣ごぢんなる、貞行も來にければ、前駈後從ぜんくごしよう隊伍たいごを整へ、大將しづかに城にいりて、くまなく巡歷じゆんれきし給へば、神餘じんよがゐまぞかりし時より、只管驕奢ひたすらけうしやふけりしかば、奇麗壯觀きれいさうくわん玉をしきこかねのべずといふことなし。加以これのみならず定包又さだかねまた民をしぼりて、あくまで貪貯むさぼりたくはへたる、米穀べいこく財寶倉廩くらみちて、沛公はいこうコウソ]が阿あばうりしとき、幕下ばくか[頼朝ヨリトモ]が泰衡やすひらうちし日も、かくやとおもふばかり也。さりけれども義實は、一毫いちごうおかすことなく、倉廩くらをひらきて兩郡なる、百姓等に頒與わかちあたへ給へば、貞行等これをいさめて、「定包誅ちうふくしたれども、なほ平館ひらたて館山たてやまには、麻呂安西まろあんさい强敵ごうてきあり。さいはひにこの城をて、軍用乏ともしからずなりしを、一毫いちごうたくはへ給はず、百姓ばらにたまはする、賢慮けんりよつや〳〵こゝろ得かたし」、とまゆうちひそめてまうすにぞ、義實きゝてうち點頭うなつき、「しか思ふは眼前の、ことわりに似たれども、民はこれ國のもとなり。長狹平郡ながさへぐりの百姓等、年來としころ惡政にくるしみて、今ぎやくさりじゆんせしは、飢寒きかんのがれん爲ならずや。るをわれ又むさぼりて、彼窮民かのきうみんにぎはさずは、そは定包等に異ならず。倉廩くら餘粟あまんのあわありとも、民みなそむきはなれなば、たれとゝもに城を守り、たれとゝもに敵をふせがん。民はこれ國のもと也。民のとめるはわが富む也。德政むなしからざりせば、事あるときに軍用は、もとめずもあつまるべし。惜むことかは」、とのたまへば、貞行等は更にもいはず、感淚そゞろとゞめかねて、おんまへを退出まかでけり。
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