日本人と漢詩(111)

◎一休禅師と祇園南海(補足)と野口武彦

 最近、野口武彦が亡くなったのを知ったので、彼を偲んで、少し寄り道をして、手持ちの著作から二つ。

ー休禅師・『美人陰有水仙花香』ー『狂雲集』

楚台応望更応攀 楚台は応《まさ》に望むべく更に攀づべし
半夜玉床愁夢間 半夜玉床愁夢の間
花綻一茎梅樹下 花は綻ぶー茎梅樹の下
凌波仙子遶腰間 凌波《りょうは》の仙子腰間を遶《めぐ》る

 野口氏曰く「花は花でもこれは(言葉がわかる)解語の花」、ま、ここまで「花」の範囲を拡げるか?という感もなきにもあらずだが、「凌波仙子」というのは、北宋黄庭堅の漢詩に典拠をもつ水仙の異名。でもこれ以上の語釈は、無粋、野暮と取られそうなのので、略しておく。

 前回、祇園南海の漢詩は、も一つ評判芳しくなかったようなので(笑)もう、一首追加。

 野口武彦曰く「『雨暗渡頭』と題する七絶の佳什をあげて祇園南海の論を終えることにしよう。」

煙湖草岸雨如塵 煙湖草岸雨塵ノ如シ
野渡舟間隣自親 野渡舟間鵰自ラ親シム
一箇短節蓑笠客 一箇ノ短節蓑笠ノ客
恐是錦囊尋詩人 恐ラクハ是レ錦囊詩ヲ尋ヌルノ人

 こちらもひとつだけ語釈。結句「恐是錦囊尋詩人」は、唐・李賀の故事による。才あふれる李賀は湧き出る詩想を、なぐり書きし、腰にぶら下げる袋に投げ込んだという。画の人物を李賀に擬え、客観的に鑑賞している自分。画はおそらく現実のそれではないだろう。そのことで、詩才をたのんだ己の若き日に思いを馳せ、この詩で内面化した自己を表現するのだろうか?

図は、野口武彦「花の詩学」表題と一休禅師(Wikipedia から)

参考】
・野口武彦「花の詩学」「江戸文学の詩と真実」

日本人と漢詩(110)

◎祇園南海と木村蒹葭堂と中村真一郎(補足)

 しばらくは、中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」に載る漢詩を、書籍の最初から順を追って紹介したい。まずは、木村蒹葭堂の本格的なオープンであるが、前回紹介分のの祇園南海の補足から。
 木村蒹葭堂の絵の師匠、池大雅は、一度だけ祇園南海に面会したことがある。その一度の邂逅で、真髄を伝授されたという。池大雅は木村蒹葭堂の絵の師匠。文化史的につながっていると中村真一郎はいう。図は、池大雅と祇園南海の画から。
 祇園南海は、漢詩作での名をあげたと、江村北海「日本詩史」で評価されるが、若い頃は、その才を托んで、周囲の反発をかったようだ。「放蕩無頼」の罪状で、一度は流謫の身となったが、将軍吉宗の斡旋もあり、その後、紀州藩の儒官の身分を得る。その間も、彼は、外面《そとずら》と隔絶した、内面性を持っていた、と野口武彦氏は指摘する。最晩年の73才の時の、彼の詩。

『己巳歳初作』(寛延二年、一七四九)
我素人間無用客 我素卜人間《じんかん》無用ノ客
設令有用亦何益 タトヒ用有ルモ亦タ何ノ益アラン
惟應嬾眠冤復眠 惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ
撃攘起息亦役役 撃攘 起息 亦タ役々

&emsp:結句は、直訳すれば「地面をを踏み硬めて息をハーハーさせるなど日常生活動作をもっぱらにする」くらいの意味か?

 当方、この詩作の年齢以上になり「惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ」は当っているにしても、こんな心境に達しているかどうか、疑問であるし、あるし、別途の問題ではある。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」
・野口武彦「江戸文学の詩と真実」