読書ざんまいよせい(045)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」

第二章 私達の鄰人と私の最初の學校(続き)

 獨逸の移往者達は離れたー集團をなしてゐた。彼等の中には實際に富裕な人もゐた。彼等は他の者達よりはずつと强固な基礎をもつてゐた。彼等の家族關係は緊密であつて、彼等の息子は稀に都會へ敎育に出されてゐたが、娘達は慣習的に野良で働いてゐた。彼等の家は煉瓦で建てられ、綠や赤に塗つた鐵の屋根をもつてゐた。馬は賤けがよく、彼等の馬具は丈夫であつた。彼等のばねのある二輪馬車は『ドイツ馬車』と呼ばれた。獨逸人の中で私達の所に最も近い鄰人はイヷン・イヷノヴヰツチ・ドルンで、素足に粗末な靴をはき、日に燒けて毛の伸びた顏と灰色の髮をもつた、肥つた、活氣のある男であつた。彼はいつも、蹄が大地に雷のやうに響く黑い種馬に引かせた、立派なピカ/\塗立てた馬車を乘廻してゐた。そこにはかうしたドルン型が何人もゐたのだ。
 彼等の上に、羊王であり、草土帶の『カン二ツトヴエルスタン』でおるフアルツ・フアインの像が聲へ立つてゐた。
 この地方を馬車で走つてゐると、人は羊の大群の中を通り拔けるであらう。『この羊は誰のですか』と誰かゞ訊ねる。『フアルツ・フアインのだ。』君は途中で乾草を析んだ馬車に出會ふ。あの乾草は誰のだらう。『フアルツ・フアインのだ。』毛皮のピッミツトが柢で飛ばしてゐる。あれはフアルツ・フアインの支配人だ。駱駝の一群が突然咆え出して諸君を驚かす。駱駝をもつてゐるのはフアルツ・フアインだけだ。ファルツ・ファインはアメリカから種馬を、スヰスから牡牛を輸入した。
 當時フアインでなしに單にフアルツと呼ばれたこの一族の創始者は、オルデンブルグ侯爵の領地の羊飼であつた。オルデンブルグは緬羊飼育のために莫大な金を政府から下げ渡された。この侯爵はおよそ百萬からの借財を造つたが、何んにもしなかつた。フアルツはその所冇物を買つて、侯爵としてではなく、羊飼として管理した。彼の羊群は彼の牧場や彼の仕事と同樣に增大した。彼の娘はフアインと呼ばれた羊の飼育者と結婚した。かくて二人の牧場の王家は今日の如く合體した。フアルツ・フアインの名は、動いてゐるー萬の羊の足音の如く、無數の羊の聲の鳴聲の如く、長い牧羊杖を肩にした草原の羊飼者の呼笛の如く、澤山の牧羊犬の叫聲の如く響き渡つた。この草原そのものが、炎熱の夏にも、酷寒の冬にも、この名前を呼吸しのだ。
 私の生涯の最初の五ケ年は旣に過去つた。私は經驗を加へて行つた。人生は發明に滿溢れてゐる。そして殆ど分らない程の小さな一角においても、恰かも世界的舞臺において見るやうに勤勉に、その發明の組合せをつくり出してゐる。出來事は私の前に次から次へと輻輳する。
 或勞働少女が野良で蛇に咬まれて伴れて來られた。その少女は悲しさうに泣いてゐる。彼等は彼女の腫れた足を膝の上でしつかりと繃帶し、それを酸敗したミルクの桶の中に浸した。少女は病院へ入れられるためにボブリネツツへつれ去られた。彼女はそこから歸つて再び働く。彼女の咬まれた足は汚くよごれてずた/\になつた長靴下を穿いてゐる。だから勞働者達は、彼女を『貴婦人』としか呼ばないであらう。
 野性の豚が、自分に食物をくれてゐた男の額や、肩や、腕を咬んだ。それは豚の全群を改良するためにもつて來られた、稀らしい、巨大な野性の豚であつた。嚙まれた男は死ぬる程驚かされて、子供のやうに唤めいてゐた。彼もまた病院へ伴れて行かれた。
 二人の若い勞働者が、殼物の束を積んだ馬車の道に立つて、互に投熊手を投合つてゐた。私はその有樣に見とれてゐた。彼等の中の一人が投熊手をもつて呻きながら側らに倒れた。
 これらの凡ては或るひと夏の閒に起つたことである。そして夏と云へば、何にも事件が起らないで終つたことはない。
 或秋の夜のこと、水車場の木造の上家の全體が池の中へ滑り込んだ。栈はずつと以前から腐つてゐて、板の壁は暴風のために帆のやうに奪ひ去られてゐた。動力や、磨石や、粗目挽臼や、風袋分離器が、廢墟中に嚴然と立つてゐる。板の下から無數の水車小舍鼠が、時々飛出して來る。
 私はよく水を運ぶ人について、こつそりとモルモツト狩りに野良へ行つた。誰かゞ早すぎもせず晚すぎもしない正確さで、穴の中へ水を注ぎ、棒切れを手に持つて、その出口に艷のない濡れた毛をした鼠に似た鼻が出て來るのを待つた。年取つたモルモツトは、自分のお臀で穴をふさいで永い閒抵抗した。然し二杯目のバケツの水は奴等を降參せしめて、自ら死に飛出して來た。一人がこの死んだ動物の足を切つて、それを紐に通した——ゼムストフオ*はモルモツト一匹についてーコベツクで買つたのだ。役所では尻尾を見せろと云ふのが常だつたので、賢い奴が一匹の動物の皮で、十二の尻尾を作ることを發明した。そこでゼムストフオでは今度は、足を見せろと云ふやうになつたのだ。私はぶ濡れになつて、埃をいつぱいかぶつて歸つた。家ではかうした冒險は少しも襃められなかつた。彼等は私を食堂の長椅子の上に坐らせて、盲目エディブスとアンティゴーネの話を引合ひに出した。
 *地方管區の行政を擔任する、選擧による農村組織脸でおる。—英記者

 或日母と私とが最寄りの町のボブリネツツから橇に乘つて歸つてゐた。雪に目を眩まされ、橇に搖られて、私は居睡りしてゐた。橇が曲り角で顚覆して、私は俯向きに投り出された。毛布と秣が私を窒息させようとした。私は母の心配して叫ぶ聲を聞いたが、それに答をすることが出來なかつた。新しく雇つた、大きな、頭髮の赤い、若者の馭者が、毛布を引張り上げて、私を見つけ出した。私達は再び座席に歸つて歸路を急いだ。然し私は、惡寒が背骨の所を上つたり下つたりすると云つて、訴へ始めた。『惡寒?』毛の赤い馭者は、顏を私へ向けて、しつかりした白い齒を見せながら訊ねた。私は彼の口元を見詰めながら答へた。『さう、お前は惡寒を知つてるの?』馭者は笑つた。『何んでもありませんよ。』それからもう一言『もうすぐ着きますから。』と云つて、淺い粟毛の馬を驅立てた。
 翌晚のこと、その馭者が栗毛の馬と一緖に消失せてしまつた。所有地は大騷ぎになつた。兄の指揮する一隊が忽ち編成せられた。彼はムツツに鞍を置いて、泥棒をひどいめに合せてやると誓つた。『まづ奴を捕へなくちやいけないぞ。』と父は陰鬱さうに注意した。二日振りに一隊は歸つて來た。兄は馬泥棒の捕へられなかつたことを霧にかこつけた。白い館の色男の愉快な男ーーそれが馬泥棒だ!
 私は熱に侵されて轉げ廻つた。自分の腕や足や頭が邪魔になつた。それらは腫上つて壁や天井に壓しつけられるやうだつた。そしてそれは內部から跳出すのであるからこの障害から逃れようがなかつた。私の體は燃えるやうで、喉が刺すやうに痛んだ。母が私を覗き込んで、その次に父が覗いた。彼等は心配さうに目交せして、喉に膏藥を貼ることにした。『私はリヨヴァがヂフテリアにかゝつたのではないかと心配するんですが?』と母が云つた。
『ヂフテリアだつたら、もう疾つくに吊臺に乘せられてゐますよ。』とイヴン・ワシリエヴヰツチが答へた。
 私は漠然と、妹のロゾチカがさうであつたやうに、死を意味する吊臺に橫つてゐるところを考えへて見た。然し私は彼等が私のことを話してゐるのだとは、信することが出來なかつた。だから彼等の話を落ちついて聞いてゐた。最後に私をポブリネツツに伴れて行くことに話が定まつた。私の母は熱心な正敎徒であつたわけではないのだが、安息日に町へ行かうとはしなかつた。イヴン・ワシリエヴヰツチが私を伴れて行つた。私達は元私の家の召使であつて、ボブリツツで結婚してゐる小さなタチヤナの家に泊まつた。彼女には子供がなかつた。だから傳染の危險がなかつた。醫師のサチユノウスキイは私の喉を調べ、體溫を計り、お定りのやうに、まだ早過ぎてよく分りませんねと確言した。タチヤナは私にビール壜をくれたが、その壜の中には小さな棒切れや、板切れで造つた、立派な小さい敎會が出來てゐた。私の足や腕は、私を困らすことを止めた。私は恢復した。これは何時頃起つたことだらう? 私の生涯の新しい時代の始まるより餘り以前ではなかつた。
 その新時代はかうして來たのだ。自惚屋で子供達の敎育を幾週閒も放つて置いたアブラム叔父さんが、氣嫌のいゝ時に私を呼びつけて『行き詰らないやうに、速座に今年は何年であるか云つて御覽』と訊ねた。『えゝ知らない?  一八八五年ぢやないか!何回もくり返して覺えておいで、も一度訊くから。』私はこの質問の意味を理解することが出來なかつた。『さう、一八八五年です。』と從兄弟のだんまり屋のオルガは云つた。『そしてその次ぎは一八八六年です。』私はこれが信ぜられなかつた。時閒に名前のあることが承認されるならば、それならーハハ五年は、永久に、卽ち非常に長く長く、家の礎石の大きな石のやうに、水車小舍のやうに、或ひは現實の私自身のやうに、存在する筈である。オルガの妹のベテイヤは誰を信じていゝか知らなかつた。私達三人はみんな、新しい年が來ると云ふ思想に故障を感じた。恰度誰かゞ、扉を開けて、色々な聲が高く響いてゐる、眞暗な、空つぽの都屋の中へ伴れて行かれた時の樣に。最後に私が降參しなければならなかつた。誰でもがオルガに贊成する。だから一八八五年は私の意識の中に於て最初に名前をつけられた年になつたのだ。それは、私の形體のない、前史的な、渾沌たる時代に終末を吿げしめた。いまから後は私は年代を知つてゐる。その時私は六歲であつた。それは凶作、恐慌の年であり、ロシアに於ける竝初の大きな勞働者の騷亂の年であつた。然し乍ら、私を强く刺戟したこの年の名前は不可解なものであつた。私は承知が出來ないで、時と數との隱れたる關係を推測しようと努力した。一連の年月が經過した。それは初めはゆつくりと、それから段々と急速になつた。然し一八八五年はそれらの年次の巾に恰も年長者の如く、ー門の首領の如くに聳え立つてゐた。それは時代を標示した。
 これに續く事件が起つた。私は或時私の家の荷馬車の馭車臺に登つて、私の父を待つてゐる閒に、手綱を引張つた。若い馬は飛出して、家や、納屋や、庭やを飛越へ、路のない貯良を橫切つてデムボウスキイの所有地に向つて突進した。背後には叫び聲が起り、行く手には濠があつた。馬は猛り狂つた。殆ど馬車を顚覆させようとした。濠のごく尖端にある歪みで、馬はそこに根が生えたやうに突立つた。私の背後からは馭者が走つて來、その後には二三人の勞働者と、私の父とが續いた。私の母は泣聲を立てゝゐるし、姉は手を握り締めてゐた。母は私が彼女の方へ飛んで行つてるにも拘らず、金切り聲を立てゝゐた。父が死人のやうに蒼ざめて、私に無茶苦茶な平打ちを喰はせたことも書いて置くべきであらう。甚だあり得べからさることのやうに見えるが、私は叱られたことさへなかつたのだ。
 私が父と一緖に、エリザヴエートグラードへの小旅行をやつたのも同じ年であつたに相違ない。私達は夜明けに出發してゆつくりと步いた。ポブリネツツで馬に水飼ひした。私建は夜に入つてヴシイヴアヤ*に到着した。私達は品を保つてそれをシユヴイヴアヤと呼んでゐた。私達はその邊の郊外に盜賊が出ることを聞かされたので、そこで日の出を待つた。後年世界のどの一つの都も、パリも、ニユー・ヨークも、舖道や、綠色の屋根や、バルコ二ーや、商店や巡査や、赤い輕氣球やをもつたエリザヴエートグラードが當時私に與へたやうなそんな印象を與へはしなかつた。數時間の間私の目は大きく見開らかれ、私は文明の相貌に氣を奪はれた。
*ロシア語で、これは「不潔」を意昧する。ー—英譯者
 一年の後私は學課を始めた。或て大急ぎで顏を洗つた後で————ヤノウカでは人々はいつも大急ぎで顏を洗ふのだ————私は新しい日と、何よりもお茶に牛乳とバターケーキのついた朝食とに目を,やりながら、食堂に這入つて行つた。私は母が、瘠せた、和やかに笑つてゐる卑屈さうな男の見知らぬ人と一緖にゐるのに氣がついた。母とその見知らぬ人とは、私が彼等の會話の主人公であつたことを明かにするかのやうに、私を眺めた。
『握手をしなさいリヨヴア。お前の先生に御目にかゝるのだよ。』と母が云つた。私は多少恐れながらも、いくらかの興味を以つて先生を眺めた。その先生は私に、どの先生でもその兩親の前では未來の生徒にするやうに、溫和かに挨拶をした。母は私の行くまへに事務的手筈を立派に終つてゐた。それ故、先生は居留地の彼の學校で、私にロシア語で數學と、ヘブリユウ原語で舊譯聖書とを敎へるために、澤山の金と、澤山の麥粉の袋とを取つたのである。けれども母は少しもさうしたことを爲し終ひてゐなかつたものだから、敎授の範圍などはむしろ漠然としたまゝであつた。私は自分の茶にミルクを入れて、ちび/\と啜りながら、私の運命に於ける今後の變化を味ふやうな氣がした。
 その次の日曜日に父は私をその殖民地に伴れて行つて、ラシエル叔母さんと一緖に住はせた。と同時に私達は彼女の所へ、小麥粉や、大麥の粉や、稗や、蕎麥の入つた遮產物の荷物を持つて行つた。
 グロモクレイからヤノウカへの距離は四ヴエルストであつた。居留地を貫通して狹い谷が走つてゐた。その一方はユダヤ人の居留地であり、他の側は獨逸人の居剧地であつた。この二つの部分は極端な對蹠をなして對立してゐた。獨逸人區は、家竝は淸楚で、一部分は瓦で屋根を弄き、一部分は蘆で葺いてあり、馬は大さく、牛は艷々してゐた。ユダヤ人區では、小舍は荒廢してをり、屋根はすたすたに破れ、家畜は瘦せこけてゐた。
 私の最初の學校が、ごくわづかな印象をしか殘さないのは不思議なことだ。私が股初にロシア語のアルハベツトを書きつけた石の黑板。ペンを握つてゐる先生の瘦せた人差指、みんなで一緖にやつた聖書の音讀、物を盜んだ二三人の少年の刑罰、——凡て漠然とした斷片であり、霧のやうにきれ/”\であつて、一個の生きた繪ではないのだ。恐らく例外は、背が高くて、押出しのいゝ、先生の細君であつた。彼女は始終思ひがけなく私達の學校生活に仲閒入してゐた。或時授業中に彼女は夫に、新しい麥粉に特種の臭ひのあることをこぼしに來た。そして先生が彼女の手のひと握りの麥粉に尖つた鼻をもつて行つた時、彼女はそれを先生の顏に投げつけた。それが彼女の冗談の槪念であつたのだ。少年少女達は笑つた。たゞ先生だけは下を向いてゐた。私は、麥粉まみれになつた顏で、敎埸の眞中に立つてゐる彼を氣の毒に思つた。
 私は人のいゝラシエル叔母さんと共にゐながら、彼女のことは少しも氣に留めないで暮してゐた。母屋の同じ庭に面してアブラム叔父さんが君臨してゐた。彼は、甥や姪を全然公平に待遇した。時々彼は私だけを選り出して、招待し、私に髓のある骨を御馳走して、そしてつけ加へた。『俺《わし》はこの骨のために、お前から十ルウブルは取らないよ。』
 私の叔父さんの家は、殆どこの居留地の入口にあつた。向ひ側の端には脊の高い、陰鬱な、瘦せたユダヤ人が往んでゐた。彼は馬泥棒だといふ評判があり、、<ママ>餘り香しくない商ひをしてゐた。彼には娘があつたーー彼女にも亦如何はしい風評があつた。この馬泥棒の所から遠くない所に帽子屋が住んでゐて、ミシンの上でちく/\やつてゐた。——燃えるやうな赤い髭のある若いユダヤ人だ。この帽子屋の細君はよく、アブラム叔父さんの家にいつもゐた居留地の監督官の前へ來て、馬泥棒の娘が彼女の夫を盜まうとしてゐると云つて不平を竝べてゐた。だが監督官は一向加勢する樣子もなかつた。或日私は學校から歸りに、群衆が町の中で若い女、馬泥棒の娘を曳きずつてゐるのを見た。群衆は罵り叫び、そして彼女に唾を吐きかけた。この聖書にあるやうな情景は、永久に私の記憶の中に刻み込まれた。數年後、アブラム叔父さんはまた當時のこの婦人と結婚した。その時には彼女の父は居植地の法規によつて、共同社會の好ましからぬ人物として、シベリアに流刑に處せられてゐた。
 私の元の保姆のマーシヤは、アブラム叔父さんの家の召使であつた。私はたび/\臺所にゐる彼女の所へ走つて行つた。彼女は私とヤノウカとの關係の象徵であつた。マーシヤの所には、時々むしろ耐えられないやうな訪問者が來た。さうすると私は寧丁に送り出された。或犬觀のいゝ朝のこと、居留地の他の子供達と共に、私はマーシヤが赤ん坊を生んだことを知つた。私達は大變な興味をもつて、祕密さうにさゝやき合つた。數日後私の母がヤノウカからやつて來た。そして臺所へマーシヤとその幼兒とを見舞に行つた。私は母の背後からこつそりついて行つた。マーシャは目の上まで垂下がる頭巾をかぶつてゐた。廣いベンチの上に瘦せた幼兒が橫つてゐた。私の母はマーシャに目をやり、それから小兒を眺めた。そしてその次に何んにも云はないで、口惜しさうに頭を振つた。マ—シャは下を見詰めたまゝ默りこくつてゐた。それから母は幼兒の方を見て口を開いた。『御覽、この兒は自分の小さい手を、大人のやうに頰の下に當てゝゐるぢやないか?』
『お前はその子が不惘ではないかい。』と私の母が訊ねた。
『い、え、彼は大變親切なのです。』とマーシャは橫着さうに答へた。
『それは噓だ、お前はかはいさうだ。』と私の母は宥るやうな調子で答へ返した。一週閒の後、この瘦せた幼兒は、彼がこの世に生れて來た時と同じやうに、神祕的に死んでしまつた。
 私は屢々學校を休んで私の村へ歸つた。そして時には殆ど一週閒もそこに停まつてゐた。私はユダヤ語を話さないものだから、學校友達の閒には親しい友人がなかつた。學校の授業期閒はほんの數ケ月しか緻かなかつた。この事實は、この時代の私の追憶が貧弱であることを說明するであらう。而かもシユファーーそれがグロモクレイ學校の先生の名であつた——は私に讀書と習字とを敎へた。この兩者は私のその後の生活の役に立つた。だから、私は私の最初の先生を感謝の心をもつて記憶してゐる。
 私はブリントの紙で勉强することを始めた。私は詩を筆寫した。私は自分で詩を書きさへした。後には私の從兄弟のセーニャZと一緖に雜誌を始めた。而かもなほこの新しい道は困難であつた。私はそれにそゝのかされて、やつと筆記の技術を會得した。或時、私は獨りで食堂にゐた閒に、私は、商店や、料理場で聞いた言葉で、私の家族からは聞いたことのない特別な言葉を、印刷字體に書下し始めた。私は、私の爲すべきでないことを行つてゐるのだと承知してゐたけれども、その言葉は、禁ぜられてゐるので、猶更ら私を引きつけた。私はこの小さな紙片とマツチの空箱に入れて、納屋の背後に埋めて隱して置かうと決心した。姉がその部屋の中へ這入つて來た時は、私がその表を完成するにはまだ/\遠い頃で私は夢中になつてゐた。私はその紙を摑んだ。母が姉の後から這入つて來た。彼女達は、私に書いたものを見せろと要求した。恥かしさに眞赤になつて、私はその紙を褥椅子《ふとん》の背後に投込んだ。姉はそれを取らうとしたが、私はヒステリツクに叫んだ。『私が自分で取るから。』私は褥椅子の下に這込み、その紙を切れ切れに引き裂いた。私の失望と、淚とには止め度がなかつた。
 ー八八六年のクリスマス週閒のことであつたに相違ないが、と云ふのは、私は旣に、私達が或夜茶を飮んでゐた時に、食堂の中へ假面舞踏者達の一群が雪崩れ込んで來たことを、その時どうを書き記したがいゝか知つてゐたからである。私は驚いて大急ぎで、褥椅子の上へ飛上つた。私は靜かにして素人劇『ツアー・マキシミリアン』を貪るやうに開いた。初めて夢幻的世界が私を包み、その世界は演藝的な實在性のあるものに轉形された。私は、その主役がもと兵士であつた、勞働著のブロコールによつて演じられたことを聞いた時には、驚きあきれた。その翌日、私は夕食後、鉛筆と紙とをもつて召使部屋に行き、ツアー・マキシミリアンに彼の獨白を、私に口授するやうにと懇願した。ブロコールは餘り氣がなかつたらしいが、私は彼にまとひつき、請求し、要求し、懇願して、彼をうるさがらせた。最後に私は、自分で窓の側に坐り場所をこしらへて、傷のついた窓の閾を使ひテーブル代りにして、ツアー・マキシミリアンの詩のやうな言葉を寫し始めた。やつと五分位經つた時に、私の父が入口の所へ來て、窓の側の光景を眺めて、嚴かに云つた。『リヨヴァ、お前の部屋へ御歸り。』私は諦められないで、褥椅子の上で午後の問中泣き通した。
 私は弱々しい調子の詩を綴つた。それは恐らく、言葉に對する私の愛は示してゐたであらうが、詩の發展上に於ては、確かに何等の豫示をもなされなかつた。姉は私の詩のことを知つてゐた、彼女を通じて母がそれを知り、母を通じて父が知つてゐた。彼等は、私の詩をお客さんの前で聲高に朗讀しないかと云つた。それはとても苦しいことだつた。私は承知しなかつた。彼等は、私に最初は溫和しく、次ぎにはいら/\し、最後には嚇しつけて、催促した。時には、私は逃出した。けれども私の目上の人達は、どうすれば自分逹の望みが達せられるかを知つてゐた。私は胸をどき/\させながら、眼に淚を溜めて、他から剽竊した行ひと、とつちんかんな韻律を恥かしがりながら、自分の詩を朗讀した。
 それはそれとして、私は智慧の木の實を知つた。生活は單に日每、いや、一時閒一時閒の中にすら廣がつて行つた。食堂の破れた褥椅子から、絲は他の世界に伸びて行つた。讀書が私の生活に新紀元を開いたのだ。

読書ざんまいよせい(044)

◎風流滑稽譚(一)バルザック著小西茂也訳

【編者より】
 またもや、大層な長文痛みいる。本文に《》が使われてる故、ルビの内容は[]で已む無くされた。

王の愛妾

 今は昔、巴里両替橋の鍛冶場に居住するさる宝石師の娘に、飛切りの別嬪がおって、そのあでやかさは巴里じゅうにも鳴り響いておった。さるに依り恋の仕組のいつもごとを以て、言い寄る殿方も数知れず、妻に娶るべく莫大な金品を醵出しようとまでする篤志家も現われ、父御はすっかり有卦に入って恵比須顔でおられたとか。
 その隣人の一人に最高法院の弁護士がおったが、世間様にお喋りを売ったお蔭で、犬に蚤めがいるように沢山と地所を買い込み、たまたま見染めた隣りの娘に、結婚事をおっぱめようとして、件の父親に立派な家屋を進呈して、うんと言わせようと計られた。ひげむじゃらのこの三百代言が猿面をしていようが、下顎に歯が僅かしかなく、それもみなぐらぐらしていようが、一向に父親はお構いなく、また育ちが育ちで、――いったい裁判所で、羊皮紙や判例集や真黒な訴訟書類などの、堆肥くずの残骸の蔭に起居する司法畑の連中は、みんな嫌な臭いを身に沁みこませているものだが、――そうしたむさい悪臭を婿どんが放とうが、些かも嗅いでみることもせず、二つ返事で娘をやることを合点してしまわれた。小町娘は未来の婿どんを見るや否や、《まあ神様、お助けを。あたし真平御免だわ。》と、真向から反対めされた。しかし家屋敷がすっかりお気に召していた父親は、《それは儂の知ったことか。結構人の良人を其方に選んでとらせたのだ。あとはお前から気に入られるようにするのが、あいつの才覚というものじゃ。お前はただ跋を合わせればいいのだ。》
『そんなものでしょうか。いいわ、お父さんの言附に従う前に、あの人にうんと将来を思い知らせてやるから。』
 その晩、夕食後に弁護士が、彼女に燃えるような彼の訴訟事実を申し立てて、いかにぞっこんあつあつであるかを陳述いたし、生涯彼女に大御馳走を予約し出した時、彼女はあっさりとこう言った。『父はあなたに妾の身体を売りました。それを貴方が受けるなら妾は不仕鱈女になってお目にかけます。妾はあなたに身を許すくらいなら、行きすがりの人にこの身を任せた方がいいですわ。終世渝らぬまことを誓うのとは反対に、渝らぬまおとこ沙汰を、あたしはあなたに誓います。あなたかあたしか、どっちかの死ぬまでずっと。』
 そう云ってまだおっぺされたことのない娘っ子がみんなするように、彼女もまた泣きじゃくり出した。知った後では、阿魔っ子は決して眼では泣かぬものである。人の好い弁護士は彼女のこの変手古な仕打を、からかいかおびき寄せの手と考えた。そういえば娘っ子は相手の情炎をさらに煽って、その愛溺に乗じ、寡婦財産設定や未亡人先取権獲得や、其他くさぐさの妻の権利を、泰山の安きにおこうとして、斯様な手立てをお用いめさることが屡々である。で、弁護士も老獪なだけに、ちっともそれらを真に受けず、愁歎の美女を嗤ってこう訊ねただけだった。『祝言はいつにしよう?』『明日でも結構よ。早ければ早いほど、好き勝手に色男がもて、選び放題に色恋のできる快楽生活を送れるわけですもの。』
 童児の鳥黐にかかった河原ひわのように、恋の虜となったこの恋やみの弁護士は、早速に家に戻って嫁取り支度に取掛り、思いをただ彼女の方にばかり馳し、裁判所であたふたと婚姻手続を済ませ、司教代理判事の許で結婚の特免状を購い、彼の引受けたこれまでの訴訟事のなかで、ついぞ示したこともないようなあっぱれ迅速さで、手早く事を運んだのであった。
 ちょうどこの時分、御遠征さきから戻られた国王には、宮廷じゅうが例の小町娘の噂で、持切りなのを御覧になられた。誰それどのの提供した一千エキュの金を、彼女が蹴ったとか、何がしどのに肱鉄をくらわせたとか、はては誰にも靡こうとせぬ操正しいこの堅気娘と、たった一日でも楽しい思いが出来たら、後生の一部を割いても惜しゅうないという意気込みの貴公子がたを、みんな彼女は袖にしたなどという評判を、王にはお耳にせられ、こうした獲物がりにはかねて目のない御尊貴方のこととて、早速に町へお忍びであらせられ、鍛冶屋敷に赴いて宝石師の許にお立寄りになって、その心の想い人の為に若干の宝石を購い、且つはその店の一番貴重な宝石を、お取引あそばそうとなされた。が、王にはなみの宝石がお気に召さなかった。或は言うならば、なみの宝石が王の御趣味には合わなんだ。それで店の主人が、隠し金庫の中を掻き探し、巨きな白ダイヤをお目にかけようとして、金庫に鼻を突込んでいる隙に、王様には小町娘にこう申された。『そなたは宝石を売る柄ではなくて、受ける方がいっそ適していよう。この店の指環[はめもの]のうち、儂にその一つを選べとなら、余人も惚れ、この儂にも気に叶う一品を、もう疾うに選出ずみじゃ。儂は永久にその臣下か下僕となろう。フランス王国を捧げても、そのあたいを払い切ることはかなわぬと見たぞ。』『陛下、明日妾は祝言事をいたさねばなりません。けれどもし妾に、陛下のお腰にしておいでの短剣を、一振り頂戴出来ますならば、誓ってわらわの花を守護し、「シーザーのものはシーザーへ」の福音書の訓え通り、その花を陛下の為に、取って置くといたしましょう。』
 即座に王は短剣を御下賜あそばされた。彼女の雄々しい言葉から、王は御食慾を爾今うしなわれるまで御恋慕遊ばされ、イロンデル街の御別邸に、この新規な愛妾を囲おうと思召されながら、立去られたのであった。
 さて弁護士は結婚でおのれを縛ろうと急ぎ、鐘の音と音楽の流れるなかを花嫁を祭壇に導き、お客を下痢させるほどの盛大な酒盛を開いたが、恋敵たちの無念の思いは、そも如何ばかりであったろう。その晩、舞踏もおひらきになってから美しい花嫁御のやすんでいる筈の翠帳紅閨に婿殿は赴いた。したが相手はもう麗しい花嫁どころの騒ぎでなく、いえば訴訟ずきの小悪魔、いかりたった妖魔であった。花嫁は安楽椅子に陣取ったきりで、婿どんの床に入ろうともせず、炉の前でその忿怒や前のものを焙っているばかり。喫驚いたした花婿は、花嫁御寮の前で膝を七重に折って、初太刀とっての心楽しい打物わざに、彼女を招聘いたしたが、フンともこれに彼女は答えなかった。ひどく彼に高いものについた彼処を、ちょっと眺めるためペチコートをまくろうとして、骨も挫けよとばかりピシャリとなぐられた。しかも花嫁は頑強に口を噤んだきりだった。このお茶番はしかしかえって弁護士のお気に召した。そこで、みなさん御存じのあのことを以て、この場のけりをつけたいと思った彼は、本気でこのお茶番に乗り出し、根性わるの嫁が君から、さかんな反撃を蒙ったが、組みついたり押しつけたり、ひっ繰り返したり、くんずほぐれつのその結果は、彼女の袖を片っ方ちぎり、スカートを綻ばせたりしてのち、すべらした彼の手は、あわや愛くるしい狙いの的に達しかけた折、あまりといえば不軌蔑しろなこの異図に、柳眉を逆立てた彼女はすっくとその場に立上って、王の短剣をやおら引抜き、『あたしから何が欲しいんです!』と叫んだ。『何もかも欲しいんだ。』『不承不承にからだを提供《おつとめ》するのは、売女同然の仕打です。妾の素女点が武装されてないと思ったら、大間違いですよ。さあ、これは王様から賜わった短剣です。妾に近づくようなことをなされば、これで殺してしまいますよ。』
 そう言って彼女は、弁護士の方に眼を配りながら、消炭を取上げ、床の上に線を引いてこう附け加えた。『これから内側は王様の御領分ですから入らないで下さい。もし越境などしたら、お命は頂戴してよ。』
 打物を執ってといっても、短剣でなんぞ色恋をする積りはなかったので、花婿はすっかりしょげてしまわれた。しかしむごい彼女の宣告を聞いている間、仰山の金を費して敗訴となった弁護士の彼は、彼女のスカートの破れ目から白いむっちりしたあでやかな太腿のけなるい一部や、ローブの綻びを塞いでいる輝かしい主婦むきの裏地や、其他の隠しどころをまじまじと眺めて、ちょっとでもそれが味わえたら、死んでもよいとまで思い込み、《死のうがどうしようが!》と叫んで猛然と王領のなかに殺到いたした。
 その勢いの凄じさといったら、どすんと彼女も寝床の上に押し倒されたくらいだったが、しかし気を鎮めて花嫁は、健気にもこれに応戦し、手足をばたつかせて逆らったので、突貫花婿にせいぜい出来たことは、金色の毛皮に手を触れ得たことだけだった。それも背中の脂肉を、短剣でいささか切り取られた奮戦の賜物とはいえ、それくらいの手傷で、王の持物のなかへ突入できたとすれば、彼にとってそう大して高いものでもなかった。この僅かな勝利に酔った彼は、《この綺麗なからだ、この愛の驚異を、おのが物にせねば生きる甲斐がない。どうか俺を殺してくれ!》と叫んで、またもや王の禁猟地へ肉弾攻撃にと移った。王様のことがあたまにある花嫁は、こうした花婿の偉大なる恋情にも、べつに感動もせずに重々しげに云った。『そんなにしつこく妾を追い廻すのでしたら、あなたを殺すかわりに、あたしは自分を殺します。』
 そう言った眼差のたけだけしさに、弁護士はあっけらかんとして、べったりそこに腰をおとし、今宵の不首尾を打歎いてその夜を送った。世間の相愛の男女にとっては、楽しくもめでたい初夜を、彼は悲嘆と哀願と号叫と約束――何でも浪費してよい、黄金の茶碗で食べさす、領地や城館を購って、町娘から一廉の立派な上臈にする、八方いたらぬなき親切を尽す云々――のお世辞文句の裡にその一夜をあかし、仕舞にはもし妻が、愛の誉れの出会の槍を、良人に一回だけ折ることを許すならば、すっぱりと妻から離れて、その望む通りに、この生命を棄てても苦しゅうはないとまで申した。
 しかし相変らず頑なな彼女は、朝方になって死ぬことなら許すと云い、彼女が与え得る果報は、ただそのことのみと申した。『妾が先日申したことは、金輪際本当です。ただあの折の約束とは違って、王様にこの身を任せるつもりですわ。ですから先に威したように、行きずり人や人足や車挽きなどには、許しませんから有難く思って頂戴。』
 暁方になるや、彼女はスカートをつけ、婚礼衣裳をまた着て、望まざる花婿が依頼人の許に、しょうこと無しの用事で出掛けるのを、根気よく待った。そして弁護士が外出するや、大急ぎで彼女は王様を探しに町へ出た。が、弩[おおゆみ]の射程ほども行かぬうち、館のまわりを王の言附で見張っていた侍従に呼びとめられた。まだ貞操に南京錠をかけていた花嫁に、侍従はいきなりこう云った。『そこ許は国王を探しておられるのではありませんか?』『そうですわ。』『じゃ安心して私に何でも打明けて下さい。これからは互に助け合い、庇い合おうじゃありませんか。』とこの機敏な廷臣は肝煎り顔で、王の人となりや、王の心の掴み方や、今日は熱中し明日は冷却するそのむら気なことや、なにやかやを語り聞かせてくれた。金もふんだんに貰え、待遇も此上なしだが、ただ王を尻の下に敷くことを忘れぬようにとも、彼女に忠告してくれた。道々そんなためになる訓えをさかんにしてくれたので、イロンデル街のお屋敷に――ここは後にデタンプ夫人のお館になった――着いた時は、彼女はもうすっかり一廉の淫奔女[それしあ]に、教育されてしまっていた。
 花嫁の姿が家に見えぬもので、可哀想な良人は、犬に吠え立てられた鹿のように泣き悲しんで、それからというもの、めっきり陰鬱な男になってしまわれた。コンポステル寺で本尊のサン・ジャックさまが讃仰される数ほども、彼は同僚から嘲りや恥じしめを受け、あれこれ悲観してすっかり憔悴し乾からびてしまったので、却って仲間うちの同情を惹くくらいになった。これら髯むじゃらの状師どもは、三百代言的根性から詭弁を弄して、こう判定いたした。すなわち弁護士どのは御内儀から、騎馬槍試合を拒まれておったゆえ、決してまだ寝取られ亭主とは申されぬ。また間男が国王以外の仁であったら、結婚解消に就いて訴訟を提起出来るに残念な次第だなどと抜かした。けれど弁護士は死ぬほど彼女にぞっこん惚れ込んでいたので、何時かは彼女を自分のものにしようというあてなし頼みから、王様に預けっぱなしにしておき、あとで一晩でも一緒に巫山の夢を結べたら、終生の長っ恥も物の数ではないとまで考えめされていた。なんと深くも愛したものでは御座らぬか。それなのに、かかる偉大なる恋愛を、嘲弄めさる殿方衆が世に多いとは、嗟乎!
 かくて彼は相変らず彼女のことしか念頭になく、おのが訴訟や依頼人やちょろまかしごとや何やかやを、すっかり等閑に附してしまっていた。落し物を探し歩く吝嗇漢のような恰好で、彼は裁判所に出入し、うなだれ、放心し、気遣わしげで、遂にはある日なんど、弁護士連中がよく用を足す壁に向って、小便をしている積りで、評定官の法服に小便を引掛けてしまったことさえあった。
 その間、彼の御内室は朝に晩に国王の御寵愛をかたじけなくし、また王様にも彼女に飽満あらせられたためしがおりなかった。それほど彼女は恋の道にかけて、縦横にあじな特技を発揮し、恋の火を燃やすのも消すのも巧みな、豪の手だれとなっておったのである。今日は王様を邪慳にあしらうかと思えば、明日は猫っ可愛がりに可愛がるという風で、変幻自在に手立てを尽し、深閨の座が賑やかで、粋で艶っぽく、陽気でさかしく、達者で、色の諸わけを皆式わきまえ、他の女子衆には到底出来ぬような、いびり方やじゃらつき方まで心得ておられた。
 ブリドレ殿と申す仁は、トゥレーヌにあるブリドレの領地を彼女に捧げたが、恋の情を掛けて貰えぬ恨みから、自裁して果てられた。艶なる槍一突きのために、かく領地をも捧げて惜しまぬといったトゥレーヌの昔の伊達衆は、もう向後はござりゃまおすまい。さればこの殿の死は彼女をいたく悲しませた。それに懺悔聴聞僧も、この落命を彼女の咎目に帰したので、身は王の愛妾にありながらも、爾今はおのが魂を救済のため、領地もどんどん受領して、こっそり快楽を八方に頒とうと、内心誓った次第である。かくてこの時以来、町の尊信を彼女にあつめさせたあの大身代を、築き始めることと相成り、それと共に多くの縉紳を破滅から救ったが、なにせよその琵琶の調子を合わせることが巧く、またぬけぬけしい嘘が上手でもあったので、王様には臣下の者に福祉を授けるのに、彼女の力が大いに与っておったとは、ちっとも御存じにならなかった。いたくそのお気に召した彼女は、天井板を床板と、王に信じ込ませることもいと容易に出来たと申すのは、イロンデル街の下屋敷におられる時間の大部分を、王様にはもっぱら横臥の姿勢をお執りになっていたため、板のお見分けも覚束なくなってしまわれた故であった。王はたえず嵌物をあそばし、かの美しいしろものを擦り減らせるかどうかとお試みになったが、擦り切れたのは結局御自分で、後に好漢ついに色の病で果て給うたのである。それにまた彼女は心して宮廷でも一番に貫禄のある美貌な公達にしか肌身を許さず、従ってその御眷顧は、奇蹟のように稀れだったに拘らず、岡焼連中や競争相手は、一万エキュ出せば、しがない一介の貴族でも王者の快楽をほしいままに出来ると、蔭口いたしておったが、これはまったく跡方もない赤嘘であることは、いよいよ王と別れるという際、このことで王のお咎めを蒙った折り、彼女は王に傲然とこう答えた言辞に徴しても明らかであろう。『そんな出鱈目をわが君に申した奴を、あたしは唾棄します、呪います、三万遍も憎みます。あたしとの肉炙りに、三万エキュ以上出さぬようなしみったれなんか、ついぞ相手にしたことはございませんもの。』
 すっかり震怒あそばされていたが、王にはこの返事を聞かれて御微笑を禁じ得なかった。そして世間の徒口[あだぐち]を鎮めるため、一ケ月近くもなおお手許にとめおかれた。到頭デタンプ夫人が競争相手の彼女を失脚させ、代って出頭第一の寵姫とも女御ともなられたのであるが、その失脚ぶりがまた羨しい限りと申そうか、お婿さんとして若い殿御をあてがわれ、その殿御もまた彼女に添って至極幸福を味わられた。というのは、あまり事を知らなさすぎて、罪作りとなっているような冷たい女人衆に、転売のできるくらい彼女にはぎょうに恋情と情火が豊かだったからである。
 閑話休題[あだしことはさておき]、ある日のこと、王の愛妾は、飾紐やレースや小沓や襟飾などの恋の軍需品をもとめに、輿に乗って町に出られた。その形艶なことといい、綺羅を飾ったよそおいといい、彼女を見たもの誰もが、天国が眼前にひらけたのを見るような思いをいたした。別して若い坊主どもにはそうだった。ところがトラオワールの十字路の近くで、彼女は良人の弁護士にはたと出逢ってしまった。輿の外にその美しい片足を出し、ぶらぶら揺すっていた彼女は、蝮蛇でも見たように、慌てて顔をひっこめた。婚姻の宗主権を軽蔑して、亭主を辱しめつつ傲然と通り過ぎる御内儀が多いこの世に、なんと殊勝な志ではおりないか。『どうなさいました?』と尊崇やみがたく彼女に同伴していたド・ランノワ殿には訊ねられた。『なんでもないの。』と彼女は低い声で答えた。『あそこを通るのは、妾の良人ですが、可哀想に随分変ったこと。むかしは猿に似てましたが、今はジオブそっくり。』
 哀れにも弁護士は、大口あけたままそこに立竦んでいた。熱愛の妻とその華車な足を目にして、心の張り裂けるのを覚えたあまりである。
 聞いてランノワ殿は、大宮人の嘲弄口調でこう弁護士に言った。『あの方の良人というのに、お通り[パッセ]<*注1>を邪魔するって法があるかい?』
 この洒落を聞いて彼女は大笑いをした。が、人の好い良人は、勇ましく荊妻を手にかける代りに、彼のあたまや心臓や肝玉や何やかやを断ち割る、その笑い声を聞くと、そのまま泣き出し、王の愛妾を見ながら、因果骨に活を入れようとしていた傍らの年寄の町人の上に、危く倒れかかった。蕾の時に我が物とした美しい花が、今は匂やかに咲きみちたのを見て、その白いむっちりした肌色、妖女のようなあじまやかな肢体に接し、一段と恋煩いを覚え、言葉では到底につくせぬほど、首ったけになってしまわれた。そうした恋慕地獄を知ろうとならば、べっかんこする情婦に、先ずは狂おしい恋をしての上でなければ、何とも思案に落ち申さずだが、それにしても当時の彼ほどの溺れ方は、たぐい稀れと申さねばなるまい。いのちでも財産でも名誉でも何でも、たった一度、肉と肉であえたら、すっかり犠牲にしてもいいし、その愛の大御馳走には彼の臓腑も腰も、置き去りにして参ろうと、堅く誓ったほどだったからで、その晩は夜もすがら、『おお、そうだ。必ず彼女をものにしてみせる。神様、私は彼女の亭主ではございませんか。なんたる不愍な身の上でしょう。』など云いながら額を叩き、かつかつ座にいたたまれぬうつけなていたらくであった。
 さてこの世の中には偶然というものが幅を利かしておる。それを料簡の狭い連中は、超自然の遭遇だなんどと申し、信じようとはめさらぬが、しかし高遠な想像力をお持ちの仁は、まこととして真をおかれている。何故ならそう易々とは偶然を案出することがかなわぬからだ。で、左様な訳で弁護士が彼の愛の空頼みに望みをかけて、重苦しい徹夜に耽ったちょうどその翌日のこと偶然が彼に訪れたのである。即ち彼の依頼人のひとりで、常々王の御前に伺候していたさる知名の廷臣が、朝方、弁護士の許に参って、一万二千エキュほど即座に用立てる周旋をして貰えぬかと頼みに来た。この髯むじゃらの猫はそれに答えて、そんな大金は造作なく街角にころがっている代物ではござらぬと申し、担保や利子の保証が要るばかりか、腕組して一万二千エキュの金をぽんぽに擁しているほどの人は、この広い巴里にもたんとはいる筈がないから、それを見附けることが先ずは難事だなどと、屁理窟屋の言うような文句を並べた。『閣下、あなたさまは慳貪[けんどん]きわまる債権者をお持ちのようですな?』『そうなんだ。なにしろ相手は王の愛妾の一物ときている。が、このことは内緒だ。今夜二万エキュと俺のブリの地所を提供して、その味を試みるという寸法になっているのだから。』
 聞いて弁護士は蒼くなった。弁護士の泣きどころに触れたように延臣は思ったが、凱旋したばかりとて、王の愛妾に良人があることなぞ、彼は一向に知らなかった。『顔色がお悪いようじゃが……』『ちょっと熱があるんでごあす。で、あなたさまが契約したり金を渡したりのお相手は、しんじつ王様のあれでございますか。』『そうだよ。』『誰が取持ちに入るんです?
 それとも直々のお取引で?』『いや、そんな細かいとりきめやなんかは、小間使がやっている。これがまた凄い腕達者で芥子よりぴりっとしている女だ。王の目を掠めての夜の周旋ごとで、たんまり甘い汁を吸っているらしい。』『私の友人の高利貸[ロンバード]なら、或いは御用立ていたすかも知れません。したが血を黄金に変ずるという大錬金術師そこのけの逸物の代価を、小間使がここに来て受取らぬ限り、何とも出来ぬし、また一万二千エキュも鐚銭一文の値打もないというわけですな、フーン。』『そうなんだ。小間使に処方[アキット]<*注2>を書かせれば、占めたものなんだが。』
 と笑いながら延臣は答えた。
 小間使を寄越すようにと廷臣に頼んだので、案の定、金を受取りに、弁護士の処へ小間使はやって参った。晩祷に行く尼さんの行列のように、ずらりテーブルの上に、並べられたぴかぴかした金貨の美しさ輝かしさ気高さ頼もしさ若々しさと申したら、けだし無類千万。おそらく折檻最中の驢馬でさえ、にこりといたすに違いあるまい。が、弁護士は何も驢馬に見せつける為に、拡げた訳ではおりなかった。金の山を見た小間使はぺろぺろ唇をなめ、黄金に対して拝み文句を仰山に並べ立てた。折もよしと弁護士は彼女の耳の中に金臭芬々たる次の言葉を吹き込んだ。『これはお前さんにやるよ。』『まあ、あたしこんなにお代を頂いたことありませんが……』『おっと、と、お前の上に載せろというんじゃないよ。』そう云ってちょっと彼女を引寄せて続けた。『俺の名前をあの殿から聞かなかったかい?
 なに、知らぬ!
 そうか。何を隠そうお前がいまつかえているあの王様の堕落させたマダムの本当の良人は、この俺様なんだ。この金をあれに届けたら、またここへ戻って来てくれ。きっとお前の好みにもあうような条件で、お前にやる分の同額の金は、ちゃんと耳を揃えておくから。』
 初め不審を起した小間使は、気が鎮まると同時に、弁護士に触れずに一万二千エキュ稼げるというのは、どうした訳かと知りたがって、すぐと間違いなく戻って来た。『さあ此処に一万二千エキュある。この金で領地も買えれば、男も女も買えるし、尠くも坊主三人ぐらいの良心は買収出来よう。だからこの金でお前の心も身体も上腹も何もかも、こっちのものに出来る寸法だ。で、俺はお前を信頼する。《与える者に与えよ。》の弁護士道の建前からだ。だからすぐこれからあの廷臣の処へ行って、今晩お楽しみの予定のところ、俄かに王様が夜分お成り遊ばされることになったから、今晩だけは他へ行って、その方の埒は明けるようにと、申して来てくれ、すれば俺にあの幸運児や国王の代理が勤められる訳だ。』『まあ、どうやってですの?』『俺はお前を買収したんだ。お前もお前の細工も、俺には頤使出来る筈なんだ。俺の女房と楽しめる手筈をつけるのは、お前にすればこの金を見る瞬き二つぐらいの造作もないことだろう。だがそうしたからとて、お前は決して神様に対し、罪を犯したことにはならないんだぜ。司祭の前でちゃんと式を挙げ、手と手を握りあった夫婦を結ばすことは、いったい敬虔な信心わざじゃなかろうか。』『わかりました。どうぞお出で下さい。夕食後明りを消して、真暗にしておきますから、たんと御堪能あそばせ。但し一言も口を利いてはいけませんよ。幸いあのお方は歓喜の絶頂には、口を利かずに叫ぶばかりですし、物腰でだけ用を弁ずる習いです。根が極めて内気なたちですから、宮廷の上臈衆のように、いやらしいことばをあの最中に弄することを、何よりもお嫌いあそばしているのです。』『おお、そうか。占め占め。じゃこの金はお前のものだ。もし俺が当然この拙者に属しているあの逸物を、ペテンにかけてでもこっちのものに出来たら、お前にこの倍の金は改めてくれてやろう。』
 そこで時刻や入口や合図など、すべての打合せを済ませ、小間使は驢馬に金を積んで、しっかり宰領して戻って行った。寡婦や孤児や其他から、僅かずつ弁護士が搾って貯めた金も、万物が――もともとそこから出て来たわれわれの生命さえも、――溶かされてしまうあの小さな坩堝の中へ、運ばれて行ったわけだった。
 さて弁護士は髯を剃ったり、香料を帯びたり、最上のシャツを着たり、息の臭くならぬように、玉葱を食べるのを控えたり、精力のつく物を食べ込んだり、髪に鏝をあてたり、裁判所の下卑助が、伊達な貴公子に身をやつそうとするいろいろな秘術と芸当を尽し、若い瀟洒な紳士を気取り、軽快闊達なところを見せようと、なんとかその醜い御面相を隠すべく心を挫いたが、所詮すべては無駄であった。何処までも三百代言の匂いが、ついて廻ったからである。美しいのと好きなので有名なポルチョンの洗濯小町が、ある日曜日、色男の一人に逢おうとおめかしして御秘蔵を洗い、薬指を御存じのところへ、ちょっと滑らせて嗅いでみて、《あら、いやだ。まだ臭いわ。青い川水で滌いでみよう。》と浅瀬でいきなり鄙育ちの貝母をごしごしやったような才覚は、この弁護士にはとんとなかったのである。べたべたとありとある化粧品を塗りたくったので、彼は世にも醜悪なつらになったが、自分では世界一の色男気取りでいた。
 さて手短かに申し上げるといたそう。寒気は麻の輪が首吊りの頸を締めるように肌を引締めたが、彼は軽装して家を出て、大急ぎでイロンデル街にはせつけ、かなりの時間待ちぼけを食い、さては愚弄せられたかと思いついた頃、漸く真夜中になったもので、小間使が門を開けに来てくれた。弁護士は得々として王のお館へすべり込んだ。愛妾が休む寝床の傍らの忍び戸棚へ、小間使は弁護士を大事に閉じこめたが、その隙間から弁護士は、愛妾の美しいあらわなくまぐまを残りなく拝むことが出来た。ちょうど彼女は炉の前でお召換の最中で、何もかも透いて見える戦闘着に着換えつつあったからである。小間使と二人きりと思ってか、衣裳をつけながら、女子衆が申すなるあの埒もない事どもを彼女は口走っていた。『今夜のあたし、一万エキュぐらいの値打がなくって?
 それにブリのお城がつくのだけれど頃合のお値段じゃないかしら?』
 そう言いながら、稜堡のようにかたい二つの白い前哨を、彼女は軽く手で持ち上げてみせた。それは猛烈に攻撃されてもぐんにゃりいたさなかった代物ゆえ、今後幾多の強襲をも優に凌げるかに見えた。『あたしの肩だけだって、王国一つぐらいの値打はあるでしょう。王様だってこれに及ぶものは作れませんもの。けれど本当の話、あたしもこの稼業がそろそろいやになったわ。何時も骨折れるばっかりで、快楽なんかちっともありゃしない。』
 小間使はにこりとしたので、愛妾はさらに申した。『お前に代って貰いたいくらい。』
 小間使はさらに高く笑ってこう答えた。『黙って。あの人がいます。』『あの人って?』『御亭主さんです。』『どっちの?』『本当の。』『しッ、静かに。』
 そこで小間使は一伍一什[いちぶしじゅう]を打明けた。愛妾の御愛顧をつなぎたいのと、一万二千エキュが欲しかったからである。『じゃ折角だからお金だけのことはしてやりましょう。けれどうんと凍えさせてやるがいいわ。あんな奴になんか触れられたら、肌のこの輝きも消え、妾までとんでもない醜い御面相になってしまう。だから妾の代りにお前が寝床に入って、お前の分の一万二千エキュを稼ぐがいいよ。彼奴には妾に計略がばれるといけないからと云って、明日の朝は早く帰ってお貰い。夜明けのちょっと前、妾は入替りに、彼奴の傍に行くことにするから。』
 可哀想に良人は寒さでぶるぶる慄え、歯をガタガタいわせていた。小間使はシーツを探す口実で、忍び戸棚のところへ行って彼に言った。『もうじき暖かい思いが出来ますよ。マダムは今夜ははり切っておめかしをしていますから、さだめし結構なお相伴にあずかれるでしょう。けれど声を立てずに猛威を揮って下さいね。さもないと妾の身の破滅になりますから。』
 到頭お人好しがすっかり凍え上った頃あい、やっと明りが消され紅閨のなかで、小間使はマダムに、殿方がお出でになっていますと囁き、そう云って自分が寝床に就き、マダムは小間使のふりをして出て行ってしまった。冷たい隠れ場から出た弁護士は、暖かいシーツの中に、得たり賢しともぐり込んで、『おお、なんて極楽じゃろう』と呟いた。
 その通り小間使は、彼にまったくのところ十万エキュ以上のものを施しめされた。弁護士は王室の濫費と、町家のけちな支出との相違を、とっくり堪能をいたした。小間使はスリッパーのように笑いながら、その役割を上首尾に果してのけ、やさしい叫び声や、身の捩りや、藁の上の鯉のような跳躍や、痙攣的なとび上りで、弁護士をさかんに饗応して、言葉の代りにはア、アアで済ませた。彼女の数重なる要求に、弁護士も逐一これに充分なる回答に及んで、遂にはからっぽのポケットのようになって睡り込んでしまわれたが、終る前にこのあじな恋の一夜の記念物を手土産にしたいと思って、彼女の一跳躍に乗じて、毛を引抜いた。してそれはどこの毛か、吾儕はその場に居合せたのではないゆえ存ぜぬが、彼はこれを王の愛妾の生温かい貞操の貴重なる証拠品として、手の中にしっかと握りしめたのである。
 朝方、鶏も啼き出したので、愛妾は良人の傍らに忍び込んで、睡った振りをいたした。小間使はやって来て、この果報者の額を軽く叩きながら耳許に囁いた。『お時間ですよ。早く股引をはいてお帰りなさい。夜が明けましたから。』
 おのが宝物を残して立去るのを、ひどく悲しんだ弁護士は、消え失せた彼の幸福の源を見ようとした。と、証拠物件の検真の手続にと及んだ彼は、喫驚して言った。『おや、見たのは慥に金色だったが、これは黒いぞ。』『どうしたんです、数が足りないと、マダムが気附くじゃありませんか。』『うん、だが一寸見て御覧。』『まあ、何でも弁えていられる筈のあなたが、御存じないのですか。摘まれたものはすべて萎びて色が変るのは習いじゃありませんか。』とさげすむように云って、彼を追い出し、後で小間使と愛妾は大笑いをいたした。
 この話は世間一般の評判となって、フェロンというこの哀れな弁護士は、おのが女房をものに出来なかった唯一人というわけで、とうとう口惜し死を遂げた。この一件から別嬪フェロニエルと、呼ばれるにいたったこの愛妾は、王と別れてのち、ブザンソワ伯爵という若い縉紳と結婚いたしたが、晩年よくこの佳話を人に語り聞かせて、三百代言の匂いを嗅がずに済んだと、笑いながら申しておったとか。
 夫婦の軛をつけられるのをいやがる妻女には、あまり執着せぬがよろしいという、これはその訓え草である。

<注>
(1)「パッセ」には「経験する」「殺す」の意味もあって、ここでは三重の洒落になっている。(一)本文通り。(二)……良人なのに女房の味を知らぬ奴があるか。(三)……不義した妻を生かしておく法があるか。
(2)「アキット」には錬金術の「処方」という意味と、「領収証」という意味と二つあり、ここではその両方に掛けて洒落ている。

解説
王の愛妾 LAMYEDUROY

 王とは「禁欲王」(Ⅱ)のフランソワ一世である。王がデタンプ公妃(一五〇八―一五八〇)と情交を重ねたのは一五二六年以降であるから、丁度その頃の物語であろう。愛妾フェロニエルは実在人物で、一五四〇年頃逝去しているが、レオナルド・ダ・ヴィンチの筆と誤り伝えられている彼女の肖像画が、今なおルーヴルにある。王に寝取られた弁護士がわざと花柳病に罹って、妻を通じて国王に感染させ、宝算を縮め参らせたという説もある。王が悪疾で御他界になったことは「金鉄の友」に見える。 この小説は種々の好色咄から材料を仰いだ模様で、例えば姦通宣言のくだりはブラントーム「艶婦伝」にあり、床に線を引く話は「新百話」の第二十三話、違う女性と添寝の話は「エプタメロン」、それが下婢だったという話は「デカメロン」の第四日第八話といった工合である。なお篇中のポルチョンの洗濯小町の娘は「当意即妙」「あなめど綺譚」(Ⅲ)に再出している。

編者注】「エプタメロン」の作者は、アンリ四世の祖母に当たるマルグリット・ド・ナヴァール 。「後退りの記(010)」でも言及した。

読書ざんまいよせい(043)

◎蒼ざめたる馬(007)
ロープシン作、青野季吉訳

 アルベール・カミュは、コロナ禍の最中で讀んだ「ペスト」と「蒼ざめたる馬」に題材をとった戲曲「正義の人びと」くらいしか知らなかった。今回、岩波新書で、彼の生涯や作品の紹介を讀んで、少し興味を持った。その中で、「正義の人びと」に触れたところから、部分引用。

 戯曲は、一九〇五年のロシア第一次革命のさなか、セルゲイ大公暗殺を実行したロシアのテロリストたちを扱っている。
 一九〇五年のロシアに、自分の時代について語るのに等価の倫理を見出したのである。冷戦のさなかに、政治とモラル、正義と自由、目的と手段の問題に、抒情性と古典性を兼ね備えた演劇による答えを提示することが彼の狙いであった。「心優しき殺人者たち」ではテロの状況が忠実に再現されているが、『正義の人びと』では、いくつかのロシアを想起させる特徴を消し、歴史的モデルに自分自身の体験の記憶を注ぎ込んで、時代を超えた普遍性をもたせようとした。

 『正義の人びと』では、カミュは『誤解』のような古典劇の様式に戻り、舞台として極度に切り詰められた隠れ家の枠組みを作った。外界から切り離された登場人物たちは、つねに閉所空間にいる。大公暗殺とカリャーエフの処刑という二つの事件は、古典劇の規範に従って、舞台の外で起こる。こうした過去の美学的手法を用いて、彼はテロリズムというきわめて今日的な主題に挑んだのだ。

 セルゲイ大公殺害の任務を引き受けたカリャーエフは、同志のドーラに向かって自分の信念を語る。「だれも二度と殺人を犯さない世界を建設するために、ぼくたちは殺すのだ。大地がついには潔白な人びとで満ちあふれるためにこそ、ぼくたちは犯罪者となることを受け入れるのだ」。本来は相反するものである殺人と潔白が、ここでは関係づけられる。ロシアの民衆の潔白を実現するためにこそ、テロリストたちはみずから殺人者であることを受け入れる。しかし、『戒厳令』のディエゴはすでに、独裁者ペストのやり方は殺人をなくすと称して殺人を犯すことだと批判していた。民衆の潔白のために殺人を犯すテロリスト自身は、果たして潔白なのだろうか。この困難な問題をめぐって戯曲は展開される。
 潔白のためには殺人も必要であることを覚悟していたカリャーエフであるが、大公の馬車に子どもたちが同乗していることを知ったとき、爆弾を投げるのをためらう。ここから、カミュが創造した虚構の人物であるステパンと、カリャーエフの論戦が始まる。ステパンは、革命を実現するためにはどんな手段も許されるのであり、そこに「限界はない」と主張するが、それに対してカリャーエフはこう言う。「君のことばの裏には、やはり専制政治が顔をのぞかせている」。この「専制政治」は、『正義の人びと』執筆時の冷戦時代には左翼全体主義の巨大な国家の姿をとってあらわれていた。
 ステパンも正義を主張するが、正義の上にさらに潔白を要求する点において、カリャーエフはステパンとは異なる。「人間は正義だけで生きているのではない」、人間に必要なのは「正義と潔白」だと彼は言う。自分の身の潔白を守るため、カリャーエフは大公の甥と姪の命を助ける。そしてテロの犠牲者から奪うことになる命に対して自分の命を代償として差し出すことを覚悟する。それは、殺人が引き起こすニヒリズムに陥らないためにカミュが提示することができた唯一の解決法なのである。
 『正義の人びと』のドーラも同様に愛の権利を主張するが、彼女はロシアの圧政と闘う革命家であり、同志カリャーエフを愛しながらも、正義への愛を優先することを義務と考える。
 第三幕において、カミュの戯曲のなかでもっとも悲痛な愛の場面が二人のテロリストのあいだで展開される。ドーラはカリャーエフに、鎖につながれた人民の悲惨を忘れて自分を愛してくれるか、とたずねる。…人間たちはもはや愛するすべを知らない」。カリャーエフは、正義の集団的情熱に身を捧げている。しかし、愛を求めるドーラは、絶望的にこう問いかける。

「でも、だめね、あたしたちには永遠の冬なんだから。あたしたちは、この世界の人間じゃない、正義に生きてる人間なのよ。夏の暑さなんか、あたしたちには縁がないのよ。ああ!憐れな正義の人びとだわ!
 『結婚』で謳歌された夏は、この「永遠の冬」からはあまりにも遠い。ドーラにとっては、死こそが、カリャーエフとふたたび結ばれる唯一の避難所なのだ。幕切れ直前に、彼女の最後のせりふが痛切に響きわたる。「ヤネク!寒い夜に、そして同じ絞首刑で!これで何もかもずっと楽になるわ」。
 この作品は正義についての思想劇であると同時に、カミュにとってはまれな愛のドラマでもある。…『正義の人びと』では、…女優と劇作家の不可能な情熱恋愛が、政治的イデオロギーの議論の背後に忍び込んで、この戯曲の方向を定めたのだ。困難な愛の叫びが、反抗的抒情性とともに高まり、作品のあちこちから聞こえてくる。」

 今は、こんな学生時代と同様な命を賭けた「情熱」は持ち得ないが、カミュの出自たるアルジェ植民地の体験を持ち続けた彼の生きざまだけは伝わってきた。
 カミュの戯曲「正義の人びと」の典拠の一つになったのが、ロープシン「蒼ざめたる馬」であるが、こちらは、登場人物はすべて架空名となっている。また、ロシア的抒情か?、カミュは「政治的な緊張」に主体を置いているのに対して、いささかメロドラマ調が辛気臭くなっている。このあたりは、ザヴィンコフとカミュの気質の違いか、強いて言えば、ロシアとフランスの国民性が現れているのかもしれない。

四月十三日。

 エルナは私に云つた。
「あなたに合ふばつかりに生きてゐるやうに思へてよ。わたしあなたを夢に見ましたわ。わたしのお禱りはみんなあなたの爲めよ。」
「エルナ、お前は仕事を忘れてゐる。」
「わたしは一緖に死にましやうね.。…..ほんとにわたし、あなたとかうして居ると、小娘のやうな、赤ん坊のやうな氣がします。…..わたしはあなたに差上けるものは何んにも無いの······わわたしの愛だけ。受けて下さいね……」
 そして彼女は泣き出した。
「泣くな、エルナ。」
「わたしは嬉しくつて泣いてるのよ。······でもモウ止みましたわ。それ、泣かないでしやうね。わたしあなたにお話しゝ度いことがあるの。ハインリヒが……」
「彼がどうしたって!」
「まあ、そんな冷淡になさらないでね······ハインリヒが昨日わたしに、わたしを愛してるって、 言ったの。」
「え?」
「でもわたしはあの人を愛さなくつてよ。お存じでしやう。 わたしの愛するのはあなたけなのどう?嫉妬《やけ》て?どう?」彼女は私の耳にさゝやいた。
「嫉妬《やけ》る?馬鹿々々しい!」
「嫉妬《や》いちやいけなくつてよ。わたしあの人のことなんかちつとも思つてやしませんから。でも あの人はほんとうに可哀相。わたしそりお氣の毒に思ふの。しかしあの人の言ぶことをかな けりあならないとは思はないの。何だかあなたに裏切りでもするやうに思ったんですもの……」 「僕を裏切るつて!しかし、エルナ。」
「わたしはあなたをそんなに深く愛してるんです。それでもあの人はまた可哀相でならないの。わたしはあの人にお友達になりますつて云ひましたわ。お氣にかゝつて?」
「そんなことはないさ。エルナ。 僕は氣にしやしない。嫉妬もしない。」
 彼女は目を落した。惱んでゐた。
「あ、あなたはたどもうおかまひ無しなのねえ。」
「エルナ」と私は云った。「ある女達は、忠實な人の妻であったり、熱烈な戀人であったり、誠の深い友達であつたりする。しかし彼等は、優れたタイプの女ー生れながらの女王である女ーと較べものにはならんよ。 そう云ふ優れた女は、誰にも彼女の心を與へやしない。彼女の愛は、選ばれた一人に與へるすばらしい賜物なんだ。」
 エルナはオド/”\した眼をして聽いてゐた。それから彼女は云つた。
「あなたはまったくわたしを愛してるやしないのねえ。」
 私は接吻で彼女に答へた。彼女は私の頭を押付けて、囁いた。
「一緖に死にましやうね、え?」
「多分、そうだらう。」
  彼女は私の腕の中で眠りに落ちた。

四月十五日。

 ハインリヒの馬車に乘って出掛けた。
「どんな氣持だね?」私は彼に聞いた。
 彼は頭を振つた。
「あんまりいお役目ちやないね。」と彼は云つた。雨の中を、一日中で、馬車を驅るなんて。」
「全くだ。」と私は彼に云つた。それも、戀《こひ》に落ちてる時は、よけい不愉快だ。」
「何を知つてるんだい?」彼は素早《すばや》く私の方へ振返つた。
「何を知ってるつて?何にも知らない。知り度くもないさ。
「君は何でも嬉戲《ちやうだん》にしてしまふ。 ショーヂ。」
「そんな事ないよ。」
 私達は公園を通つた。キラ/\する雫《しづく》が、溢れた枝から、私達へふりかゝつた。芝生にはところ/”\に淺、<ママ>い綠の新しい草があつた。
「ジョーヂ!」
「え?」
「ジョーヂ。 爆發物の準備には、偶然の出來事が起る危險はないかね?」
「勿論、あるよ。偶然な出來事は、折々、起るよ。」
「すると、エルナは燒死んで仕舞ふね?」
「あるだらう。」
「ジョーヂ!」
「何?」
「何故、あの女にその仕事を委せておくんだ!」
「彼女《あれ》は黑人《くらうと》だ。」
「あ、あの女が!」
「そうだ。」
「誰かほかの人に能きないのか?」
「え?」
「出來ないこともなからう。しかし君はなぜそんなに氣にするんだい?」
「氣にしやあしない。たと知りたいんだ。」
 歸り路に、彼はまた私の方へ向いた。
「ジョーヂ。」と彼は云つた。
「もうぢきやる〈「やる」に傍點〉か?」
「うむ。」
「何時《いつ》?」
「二三週閒の中に。」
「誰かつれて來て、エルナの代りをさせることは、どうしても出來んか?」
「どうしても出來ん。」
 彼は靑い服の中で戰慄《おのの》いた。しかし何にも云はなかつた。
「誰かほかの人に能きないのか?」
「え?」
「出來ないこともなからう。しかし君はなぜそんなに氣にするんだい?」
「氣にしやあしない。たと知りたいんだ。」
 歸り路に、彼はまた私の方へ向いた。
「ジョーヂ。」と彼は云つた。
「もうぢきやる〈「やる」に傍點〉か?」
「うむ。」
「何時《いつ》?」
「二三週閒の中に。」
「誰かつれて來て、エルナの代りをさせることは、どうしても出來んか?」
「どうしても出來ん。」
 彼は靑い服の中で戰慄《おのの》いた。しかし何にも云はなかつた。
「いゝ日だ。ハインリヒ。くよ/\するな。 はしやげよ!」
「僕はいゝ氣持なんだ。」
「取立て誰かの事を氣にするな。そうするともつと幸福《しあはせ》になるよ。きっと。」
「分つとる。君が云はなくつてもいいよ。 さよなら。」
 彼は靜かに馬車を願って行つた。こんどは私が、長い閒、彼を見送つてゐた。

四月十六日

 私は自問する。私はまだエレーナを愛してゐるか?たゞ一つの影を、彼女に對する以前の愛を、 愛してゐるのではないか?ヴァニアの言つた事は正しいのではないか、私は誰も愛しない、愛す ることが出來ないのだと云ふことが?が、何故人は愛さなければならんのだ、要するに。
 ハインリヒはエルナを愛してゐる。 一生、 彼女だけを愛して行くだろう。しかし彼の愛は、 彼を幸福にはしない。私の愛は全く歡びなのに、彼のは反對に、彼を悲慘《みじめ》なものにする。
 私はまた退屈な旅館の、退屈な私の部屋に坐つてゐる。多數の人々が、私と同じ屋根の下に生きてる。私は彼等とアカの他人だ。私はこの町の石壁の中で、アカの他人だ。私は、何處でも、アカの他人だ。エルナは、自身のことは何にも考へないで、彼女の全存在を私に與へてゐる。が、私は彼女のことを氣にかけない。彼女の愛に報ゆるー何で?友情で?もしくは恐らく、友情と云ふ僞りの口實で?エレーナのことを思つてゐて、エルナに接吻する、何と云ふ馬鹿なことだ、 それでも、私のしてゐることは、それだ。しかし要するに、それが何だ!

読書ざんまいよせい(042)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(014)
付き]レフ・トルストイ「可愛い女」あとがき

 チェーホフの小説の中で、少し「成熟」した女性を描いた作品の双璧は、「犬を連れた奥さん」(青空文庫)と「可愛い女」(青空文庫)だろう。もっとも、こうしたシチュエーションは、幸か不幸か、わが人生において経験したことはないが…
 「可愛い女」は、それぞれ相手によって、自らの信条・趣味を簡単に取り替える女性。チェーホフがこの主人公を肯定的にみているのか、否定的に批判しているのかは、難しいところである。
 トルストイは、この小説を絶賛した。以下、レフ・トルストイ「可愛い女」あとがき(工藤精一郎訳)からの抜粋。


 作者は、明らかに、彼の考察によれば(しかしそれは心情によるものではない)みじめな存在である「可愛いさ、つまり芝居小屋をもつクーキンの心労を分けあったり、材木商の利害に頭を悩ましたり、獣医の考えをそのまま自分の考えとして、家畜の結核とのたたかいを人生のもっとも重大なことと考えてみたり、果ては、大きすぎる学帽をかふった中学生の勉強の問題や世話にすっかり呑みつくされてしまつたりする女を、嘲笑しようと思ったのである。
 彼は、バラム〈旧約聖書「民数記」に登場する詩人〉のように、呪うつもりであったが、詩の神がそれを彼に禁じ、祝福することを命じた、だから彼は祝福し、無意識にこのやさしい女を実にすばらしい光でつつんでやった。だからこの女は、自分も幸福になり、運命によって結びつけられた者を幸福にしてやるために、女があらねばならぬ姿の手本として、永遠にのこることになったのである。

 彼は、バラム〈旧約聖書「民数記」に登場する詩人〉のように、呪うつもりであったが、詩の神がそれを彼に禁じ、祝福することを命じた、だから彼は祝福し、無意識にこのやさしい女を実にすばらしい光でつつんでやった。だからこの女は、自分も幸福になり、運命によって結びつけられた者を幸福にしてやるために、女があらねばならぬ姿の手本として、永遠にのこることになったのである。
 この物語は、それが無意識のうちに生まれたために、このように美しいのである。
 私は師団の査閲が行われる練兵場で自転車の稽古をしたことがあった。練兵場の向う隅で一人の婦人がやはり自転車の稽古をしていた。私は、その婦人の邪魔にならないようにと考えて、婦人の方を見まもりはじめた。そして、そちらに注意をうばわれていると、かえってしだいにそちらへ近づいて行った、そして、婦人が危いと気がついて、急いで遠ざかろうとしたのに、私はぶつかって、婦人を転がしてしまった。つまり、望んでいたこととまるで反対のことをしてしまったわけだが、これもひとえに婦人にあまりに注意を向けすぎためである。
 チェーホフの場合も、これと同じことが、丁度逆に作用しと。彼は可愛い女を転がそうと思って、詩人の注意に集中しすぎて、逆に彼女を抱き上げてしまったのである。

手帖(続き)

 だがそうした細かしいいきさつは、殆んどわれわれの耳には舞い込まなかった。(Lolo)

 Sの論理。――私は他宗寛容には賛成ですが、他宗許容には反対です。厳格な意味で正教的でないものは、許容するわけには行きません。

 聖ピオニヤ及びエピマーハ、三月十一日。聖プープリヤ、三月十三日。

 詩や小説戯曲の類いは、現に入用なものを含むわけではなくて、希求されるものを含むのである。しかもそれは大衆を遥かに抜くものではなくて、たかだか大衆の最良分子が希求するものを表現するにとどまる。

 頗る用心ぶかい小紳士。賀状までも書留にして、配達証明つきで出す。

 ロシヤは曠大なる平原にして、猛漢ひとり飄々乎として疾走す。

 Platonida《プラートニダ》 Ivanovna《イヴァーノヴナ》.

 もしも君の政治思想さえ堅実ならば、以て理想的市民たるに充分である。同様のことが自由主義者についても言い得る。即ちもしその思想が堅実味を欠くならば、他の点はすべて顧慮される余地はないのだ。

 人間の眼は、失敗のときにはじめて開くものだ。

 Ziuzikov《ジュージコフ》*君。
*飲んだくれの意。

 五等官、尊敬すべき人物。ところが不意に、その彼がひそかに女郎屋を経営していることが暴露する。

 Nが非常にすぐれた戯曲を書いた。ところが誰ひとり褒めて呉れない、喜んで呉れない。そして口々に言う、「今度の御作を拝見しましょう。」

 稍々身分の高い人々は正面玄関から通った。稍々身分の低い人々は裏口からはいった。

 私の町に、キシミーシ(乾葡萄)という苗字の紳士がいましたがね。自分じゃキーシミシと言っていましたけど、なあに本当はキシミーシだと言うことは皆んなちゃんと知っていましたよ。

 彼女(ちょっと考えて)何て厭らしいんでしょう……。せめてイジューム(乾葡萄)とでも言うんならまだしも、キシミーシだなんて。

 姓。――Blagovospitannyj《ブラゴースピタヌイ》*.
*躾のよい。

 最も尊敬するIv.Iv.よ。*
*手紙の前書きに、余計な「最も」をつけた代りに相手の名イヴァン イヴァーノヴィチを略称した。

 幸運に恵まれた、何でもとんとん拍子に成功する人間は、時として何と鼻持のならぬことだ!

 NがZと関係しているという噂が人の口にのぼりだすと、どうしてもNとZの仲を結びつけずには措かないような空気が、次第次第に醸成されて行くものだ。

 まだ蝗がいた時分、私は蝗撲滅論を書いて一世を狂喜させ、名声と富とを擅《ほしいま》まにしたものです。ところが蝗がもう久しく跡を絶って、世間に忘れられてしまった今日、私は民衆の間に埋もれて、忘れられた無用の人間になってしまいました。

 快活に浮き浮きした調子で、「では御紹介しましょう、こちらはイヴァン・イヴァーヌィチ・イズゴーエフ君、家内の恋人です。」

 その荘園には到るところに立札が立っている。――「無用の者入るべからず」「花を踏むべからず」等々。

 領地には立派な図書館があって、主人の自慢の種になっているが、全く利用されてはいない。出して呉れるコーヒーは水っぽくって、とても飲めたものじゃない。庭は不趣味な造りで、一輪の花もない。――総べてこうしたことを、何かトルストイ的だと心得ている。

 イプセンを研究しようとスエーデン語を習った。そのために非常な時間と労力を費した。ところが急に、イプセンは大した作家でないことが分った。さて折角のスエーデン語をどうしたものかと途方に暮れた。*
*このスエーデン語というのはどういう意味だか分らない。勿論イプセンの書いたのはノールウェイ語である。

 Nは南京虫の駆除を商売にして、それで生計を立てている。文芸作品に対するときも、自分の職業的観点からする。……もし『コサック』に南京虫のことが書いてなければ、つまり『コサック』は駄作である。

 人間が信ずるもの、即ち存在す。

 聡明な少女。――「私、心にもない真似なんか出来ないわ……」「私、嘘なんか一ぺんもつかないわ……」「私ちゃんと主義があるのよ……」二六時ちゅう私、私、私……。

 Nが女優(あるいは歌姫)をしている妻に腹を立てて、彼女の芸を貶した劇評をこっそりと新聞に出す。

 或る貴族の自慢。――「私のこの邸はドミートリ・ドンスコイ時代*の造営でしてな。」
*十四世紀。

 ――あの治安判事さんったら、あたしの犬をひどい呼び方をしましたのよ、「こら、畜生っ!」だなんて。

 雪が降った。けれど、地面が血に染んでいるので積らなかった。

 彼は遺産を残らず慈善事業に寄附したので、親類や子供たちの手には何一つ渡らなかった。彼等が大嫌いだったのである。

 大そう惚れっぽい男。お嬢さんと知合いになるが早いか、もう山羊になってしまう。

 貴族 Drekoliev《ドレコーリェフ》*.
*棒材。

 俺の記念碑の除幕式に侍従連中が参列するのかと思うと、ぞっとするなあ。

 合理主義者ではあったが、罪深い男だったので、教会の鐘の鳴るのが好きだった。

 父親は有名な将軍、邸には数々の名画、高価な家具調度。父親が死んだ。娘たちは教育はあるのだが、自堕落な身装《みなり》をして、碌に本も読まず、馬を乗廻して、退屈がっている。

 正直な人たちだから、必要のないかぎり嘘はつかぬ。

 金持の商人が、うちの便所にシャワーを付けたいと思う。

 朝はやくからオクローシカ*を食べた。
*クヴァスで作る肉入りスープ。

 「この護符《おまもり》を失くすと死にますよ」とお祖母さんが言いました。ところが急に見えなくなったので、長いこと苦に病みました、死ぬかと思ってびくびくしました。ところがあなた、どうでしょう、奇蹟があらわれたんです――その護符が見つかって、私は生き存えることになったんです。

 誰もかもが、私の芝居を観て即座に何か教わろう、何かしら利益を汲みとろうと思って、劇場へ押しかけます。しかしお断りして置きますがね、私にはそんなやくざ者のお相手をしている暇はないのです。

 すべて新しいもの、利益《ため》になるものを、民衆は憎悪し軽蔑する。コレラが流行したとき、民衆は医者を目の敵にして打ち殺した。その一方、民衆はヴォトカを愛飲する。民衆の愛憎を標準にして、その愛し或いは憎むものの価値を判断することが出来る。

参考】
・特集「ユリイカ」 特集・チェーホフ 1988年6月号
・文芸読本「チェーホフ」 1989年8月

日本人と漢詩(112)

◎三上於菟吉とチェーホフと李群玉

 またもや、脱線!三上於菟吉は、「雪之丞変化」が代表作の大正から昭和にかけての大衆小説作家。彼に、こんな「チェーホフ論」があったのは、意外である。その中で、一首、晩唐・李群玉の詩を引く。

水蝶嚴峰倶不知 水蝶《すいちょう》 厳峰《げんぽう》 倶《とも》に知らず
露紅凝艷散千枝 露紅《ろこう》 艶《つや》を凝《こら》し 千枝《せんし》に散ず
山深春晚無人賞 山深く春晩《しゅんばん》人 賞《め》ずるなし
卽是杜鵑催落時 即ち是れ 杜鵑《とけん》催落《さいらく》の時

 水面をとぶ蝶々と険しい山は互いに気づいていない。露のような赤い花は艶っぽく美しく、千の枝に散りばめられている。山奥の春の美しさを理解する者は誰もいない。ホトトギスでさえ、それを終わらせるよう促しさえずっている。

くらいの意味か?起句の、「水蝶嚴峰倶不知」が、なんとも言えずよい。

 比較的マイナーな詩人を引用するところから、三上於菟吉は結構な素養があったのだろう。険しい山を平原の向こうに見える丘陵に変え、鳥の種類を違ったものにするという条件つきで、チェーホフの小説に出てきそうなシチュエーションではある。
 「小論」全体も、チェーホフの深読みになっており、昨今の評論家を抜きん出てなかなか秀逸である。たとえば、当方の好きな小説「いいなずけ」を論じて、

彼女の智慧を啓くものが首都の大学に、彼女を待つことを囁やく。生活の暁に立つて未知に戦のくナーヂヤは、智慧にあこがれて、病青年の啓示のままに許婚者を捨てて――一切の田舎町の平和と愛を、古いしつとりとした邸宅や、教会堂や、祖母や、母親をも捨てて大都会の渦の中へ飛び込むために家出をする。やがて病める者は死に、彼女の智慧は大学でも、さう急には啓いてくれないのがわかる。けれどもチエホフは、それを青年やうら若い処女の軽はずみとして責めはしない。チエホフは彼女の未来を見捨てない。これが若し他の作家でもあれば、青春者の「都会病」や「智識熱」の方を責めて、彼等に捨て去られるために荒廃する田舎町や、田舎人の生活を歎くだらう。さうした感傷性に堕ちないところにチエホフの面目がある。

が一例だろう。

 ライセンス的には、フリーなので、その全文を掲げる。

三上於菟吉・チエホフ小論

自叙伝――気禀の高かさ――アンドレーフとの比較――ゾラのナチユラリズム挽歌――真人――ビヨルネや及びドストエフスキーの憎悪心――チエホフの強さ――彼のニイチエ観――未来への信仰――トルストイの堂々ぶりと彼――インテリゲンチヤの克服――智慧――憎みは愛に死は生に――真理への先導――基督者チエホフ――チエホフの世界征服

 私の手許にあるチヤツトオ・ウインダス版「チエホフ書簡集」は千八百九拾余通といふ豊富な量をおさめてゐる露西亜原本から、百六十余通を摘訳したものに過ぎないが、しかし英訳者コンスタンズ・ガーネツトの巧妙な按排は分量の貧しさを優に補つて、チエホフ研究者のために少なからぬ便宜を与へてゐる。その書簡編の二九五頁、チホノフ氏に寄せた一節にかうある。
 ――僕はタガンログに一八六〇年に生れた。一八七九乍タガンログ高等学校を卒へ、一八八四年モスクワ大学医科を得業した。プウシユキン賞を受けたのは一八八八年だつた。一八九〇年に樺太へ旅行した。往きはシベリヤ通過、帰りは海路。一八九一年ヨーロツパ巡歴を試みて素ばらしい葡萄酒を飲み蠣を食つた。一八九二年にはV・A・チホノフの名付日の集りで鯨飲した。(これはこの書簡がチホノフ家の集りのすぐあとで、チホノフその人に宛てたものなので、チエホフ一流の気軽なユーモアを弄したのだ)――物を書きはじめたのは一八七九年、作品の集は「いろいろな話」「暮明の中に」「物語集」「気六かしき人々」それから長篇「決闘」だ。僕は又穏当なやり口でではあるが戯曲方面へも罪を作つた。独逸語には随分以前翻訳されたけれども、西欧には幾分除外例もある。チエツクやセルビアも亦僕を閑却せなんだ。フランスも無頓着ではない。恋の不可思議さをば十三歳で会得した。学校でも、医者どもの中でも、文学者の中でもみんなと親密につき合つた。僕は独身ものだ。(まだ此の時は有名なクニツペル夫人と結婚してはゐなかつた。――於菟吉)僕は恩給がほしい。僕は医業に自ら当つた。夏分にはときどき死体解剖もしたが此の二三年はしない。文学者ではトルストイ、医者ではザハアリンが好きだ。だが、みんなノンセンスだ。君のいいやうに書いて置いてくれ給へ。抒情詩的に事実を捏ち上げない限りは。――

 一八九二年二月廿二日モスクワで書かれたこの書簡の一節は、何といふ明るさと、正直さで彼自身の過去を語つてゐることだらう。この明るさと正直さとこそは、チエホフの最大特徴で、そして同時に彼を他の多くの文学者から隔絶させ、何の見せかけや、気取りや、声高くひびくひろめ屋の喇叭をも用ひずに、しかも小さいぺン先から流れた文字で、世界億兆に彼の魂を伝へた原動力だ。世にいくばくの良いもの、すぐれたもの、すばらしいものがあらうとも、最も良い、最もすぐれた、最もすばらしいものは「純」だ。みがきのかゝつた「素直さ」だ。智慧のプリズムを通した温い「明るさ」だ。これを同時代の作家アンドレーフ氏に比較して見給へ。同じ短かい自伝を書くにしても、アンドレーフはいつもの業々しい気取方や、見せかけや、ひろめ屋の喇叭を忘れはせぬ。(十数年前早稲田文学に昇曙夢氏が訳された「露西亜文学者自伝」を思ひ出されたし)こんな傾向の作家が常用する――大作家すらも折々慣用する思念、表現両方面のコケ嚇的手段は、なる程一時公衆を驚倒させ、魅惑させるに充分だ。彼等をして静かで、素直で、愛しはするが媚びはせぬ作家を忘れさせるに充分だ。けれども公衆が酣酔と、眩惑とから恢復した時、それは二日酔の青年が、ゆふべの悪酒の盃を思ひ出した刹那に感じるやうないまはしい後味を覚えさせるに過ぎぬ――此の場合もしいつまでも悪い陶酔が忘れられずに、もつともつと囚はれたがり、溺れたがつてゐるものがあるとすれば、それは救はれないヂレツタンチズムに堕した、憐れむべく古めかしい世紀末児の亜流に過ぎないと言はれても仕方がない、だが、正しい鑑賞力の持主たちや、芸術品から生活の尽きざる源を汲むことをよろこぶ人たちは、たとひ一度は腐つた美や、怪奇な幻影に惑はされたとしてもすぐに自分に帰つて、自分が真に求めてゐるものは、鬼面し、粉飾した作品からは到底与へられないことに気がつき、純粋で気高い――しかし、温かく素直な魂から生れたほんものの芸術を探さうとする。同時に芸術といふものが、傾向や趣味に生命点をおかず、永遠な人間性の発露に於いて「不朽」を主張する理由があるのを理解する。そしてかくの如き人々が、つまり人間らしい心で、不朽な芸術品を絶えず求める人達が、ごく手近なところにアントン・P・チエホフを持つことのいかに幸福であることよ!
 事実われわれの知る限りに於いて、チエホフ程はつきりした目で、人生を直観し得た人間は見当らぬ。されど彼自身「自分は製作に当つて殆んど無意識に筆を進めるが」しかし「文学は能ふだけ実在そのまゝに描く術である。何よりも肝心なのは絶対の真実と正直とだ」と公言して、此手段によつてのみ隠された「真珠」を此の世界に掘り出して見せることが出来ると語つてゐる。この言葉は時代はづれのナチユラリストの慣用句に似てゐると思ふものもあるかも知れない。だが、ナチユラリズムは、チエホフ以前にすでにあのゾラにさへ――ルゴン・マツカールの大作家にさへ見捨られてゐた。一八八八年彼は宣言した――「疑ひなく新らしい哲学が新らしい文学を生むのだ。ナチユラリズムはもう古い月界に居を占めた」そして三四年して、「未来は……諸理論から脱却してもつと打ち解けて人生を受け容れることを承認する者、又は者達に属するであらう。私はより広い、より複雑な描写を、人道へのより大きな門戸を信じるものである――そして私に仮すに時を持つてすれば、私自身がそれをする。彼等が叙するところを私がしてのけて見せる」と付け足した。この言葉の中には豪雄無双ないつものゾラがのぞいてゐて私達を微笑せしめるが、兎に角ゾラをしてさへもう前期のものだと叫ばせたナチユラリズムは、チエホフの胸からは過ぎ去つてゐた。チエホフこそは「諸理論から脱却してもつと打ち解けて人生を受け容れた」人間だつた。そして、そのやうに自由に、しかし正しく人生を受け容れることの可能力を持つた人間が此の世界に幾人あり得たか? 此の複雑な人生の、神を信ずる者を、不信者を、耶蘇を、悪魔を、醜くき実在を、華大なる夢想を、恋を、貪欲を「都の生活を、百姓の一生を――さうしたすべての現象を真正面から直視して、何物にも捉へられずにその現象全体を認識し、しかも弱々しい悲哀にも、荒々しい憤怒にも我々を忘れずに、新らしい生の信仰――より誠実で、より自由で、あらゆる点でより精神的な世界の到来に対する信仰を抱きつづける可能力を持つ魂がさうザラにあるものではない。この魂を抱き得る人間こそ自由主義者《リベラリズム》と呼ばれる事をすら厭ふほんものの人間――古来の宗教家や、神学者が夢想したやうな「神の創り給うた」人と呼ばれるに値する第一級の人物だ。玲瓏として曇りのない、そして絶えず一脈の温味を湛へてゐる胸は、人生の欺きや、偽りと憎みとを静かに乗り超えて、憤るべきもの憎むべきものの依つて生ずる人間生活の汚濁を、彼はみづからの手で澄まさせてやり拭ひ取つてやらうとする――チエホフの「真珠を掘り出す」といふ言葉には、此の意味が含まれてゐはすまいか? この博くやさしい気持こそ、チエホフをして徐々としかも確実に――この英吉利人の言ひふるした言葉を私はあまり好まぬ。随分プホザイクで金儲専門の商業に似てゐるが――文学世界を征服させつつある魅力の源泉だ。一切の荒々しさや、悪どさや、猛々しさは畢竟するにその持主の叡智の不足か、もしくは気禀の狭浅を示してゐる。私は折々憤怒し易く、憎悪し易い性質の天才をも尊敬する。たとへばゲーテを一生憎み通した同じフランクフオルト生れのビヨルネの「巴里からの書簡」またはその中で、ツルゲーネフを小酷くやつつけてあるドストエフスキーの「悪霊」をも、どうして重んぜずにゐられるだらう。だが、怒りに燃えた場合のビヨルネや、猜疑に昂奮した場合のドストエフスキーは、われわれを――小さく、貧しく、恒に此の人生に面していぢけてゐるわれわれを抱いてもくれず、富ましてもくれず、また希望に充たさせてもくれない。寧ろ偉大な人格の憤怒の姿は、却つてわわわれをいぢけさせ、貧しくさせ、せせこましい排他的気分にさへ誘つてしまふことがある。私はドストエフスキーを、偉いなる人間であるとは信じてゐるが、しかもその作品が全部人間の未来に約束されてゐると感じることが出来ないのを悲しむ。それに引かへて、チエホフの全製作は、十が十まで、五が五まで、それがいかに小さい分量のものでも、五枚しかないものでも、測るべからざる人間の深さと、美しさとを、われわれに暗示せぬものはない。ある人達はチエホフの静かさを弱さと誤解し、量の少なさを質の貧しさと誤認し、正確な、たぐひない美しさを、デコデコでないから、悪どくないからの故を以つて無魅惑なりとしてゐる。禍ひなる哉! 強い弱いで言へば彼なぞこそ無比の強人である。無比の強人であればこそ、彼はひとりであることすら歎きもせず、怖れもしなかつた。彼は次兄ニコラーイ――絵描きになりつつあつたニコラーイに若き時語つてゐる。「あなたは始終公衆が自分を理解しないと言つて私に訴へる。ゲーテやニユートンは訴へなかつたではないか。キリストだけは訴へたが、しかし自分を理解しないからと言つてではなく、信条を理解しないのを歎いたのだ。公衆はあなたを十分理解しますよ。もしあなたが、あなた自身を理解しないのなら、それは彼等のあやまりではない」この毅然としてしかも物静かな覚悟は、寧ろ東洋的なものを含んでゐる。私はよく曠野に旅して、雑木の中に朗らかな花を見せた花木を眺めると晩唐李群玉の詩を思ひ出す――それは、水蝶厳峰倶不知、露紅凝艶散千枝、山深春晩無人賞、即是杜鵑催落時といふのであつたが、この詩から東洋風高人の姿を充分に彷彿させることが出来、此の種の心意気を真人の至極境として尊敬するのである。さればこそ、チエホフは一切の強調された主張に対しては静かに微笑した。「私は汽車や汽船の中で、ニイチエのやうな哲学者と出逢ひ、そして一夜を語り明かしたいものだと思ふ。だが、あの人の哲学は永持ちのしないものらしいです。あれは納得の行くものといふより、華やかな見ものだ」といふ意味の言葉を、アヴイロフ夫人に対して語つてゐる。チエホフの穏かな唇は決して嘲笑は浮べない――しかし、やさしく微笑む。恐らく彼が若し昂奮した天才と――ニイチエに限らず――出逢つたなら、とつくりと相手の熱烈な言葉に耳を傾けたあとで、「お疲れにならぬやうに――その立派なお考へが御自分の胸の劫火の火炉の中で、おのづと焼け亡びてしまはないやうに――」と心の中に無限のいたはしみを以つて撫でさすつたであらう! そして天才ならぬ凡人の労役と、生苦とに悩やむものに対しては――「ああ、さぞ辛いでせうね、人生は苦しいものです――だが、私達の此の苦しみ、それは決して無効なものではない。私達が汗水を流して植えた一本の木は――椎木の林はあの禿山を豊かに飾るでせう」とやはり無限のいたはしみを以つて慰さめ励ましたであらう! この慰さめや励ましは、出鱈目の世辞ではない――成程チエホフの人生観は、悲しむべく苦しむべき此の現実世界に生きた彼である故に、いたずらに明るいものではなかつた。多くの批評家が言ふやうに、憂鬱暗憺たる一面を持つてゐた。しかし絶望の深淵に自らを陥れて、浮む瀬もない暗黒にのみ生きるには彼の智恵はあまりに澄み切つてゐた――チエホフをかなり早く日本に紹介した、前田晁氏も引用してゐるが、彼は晩年ヤルタで、クープリンに逢つた時、「此処は以前石と薊とで蔽はれた荒地であつたのですが、僕が来てから開墾して、こんな美しくしました。もう二三百年も経ちましたら、世界中がみんな花の咲き乱れた花ぞのになりませう」と語つたといふ、前田氏は、これは字義通りに取るべきではなく、絶望的な人生に対する一種のアイロニイであると言つてゐるが、私はさうとは考へぬ。その期間が二百年であるか二千年であるかは知らぬ――しかし、早晩人間生活が改善せらるべきものであり、自分達の労苦はその未来に対する捨石であるといふ観念は、新芸術の天才達の胸の祭壇を照らす光明であらねばならなかつた。――チエホフは決して絶望の極、血を吐いて死んだ人間ではない。彼は日本では多少ナチユラリストに謬まられてゐる形である。日本ナチユラリストは、殊更人生は暗黒であるといふ例証を芸術に求めて、絶望に昂奮してみたいといふロマンチシズムに囚はれてゐた――で、チエホフも一種の絶望家の如く謬り伝へられた場合もある。これ等の謬見は機会ある毎に打破されねばならぬ。人類の歴史を通じて偉いなる、又は正しき、または良き気禀を抱いた人物は、たとひ自殺者、もしくは不慮の死を遂げたものと雖も、人類の未来に絶望はしなかつた。それは狂熱した信仰家でなくとも、ソクラテスのやうな不幸な被殺者にしろ、牢番のすゝめた毒盃を微笑を以つて傾けた刹那、彼自身――即ち人類の勝利を未来に於いて信じたればこそ、安んじて死を迎へたのであらう。肉は死ぬ――だが魂は死なぬ。これは単なる迷信、または「言葉」ではない。それは精神に於いて人は人へと生き、自分は永久に延長されるからだ。ここに個人が一般人類の福祉に寄与せんとする意志の根がある。ツルゲーネフは「ルウヂン」の中にルウヂンに対して「真理」とは何だ! つまらん妄想だ。口惜しいと思ふなら出して見て貰ひたい――と放言する偏熱狂的《モノマニヤツク》な実際主義者を描いてゐるが、たとへばへーゲリズムなどが流行した後では、こんな人間の存在も多少は諷刺的意義を有するであらう。しかし、人間の精神は近代に於いてもやはりかうした暴言を許さない。神聖性は完全に偶像からは奪ひ去られたけれども、神聖なるものは新しい力で、われわれの内奥に目ざめて来た。この信念を抱き得ずして何が文学であらう! 否、生活であらう! 若しチエホフがトルストイのやうな気禀の人物であつたら、人類の未来への希望と信念とを「叔父ワーニヤ」の中で村医者の口から語らせたりなぞはせずに、堂々たる論文または宣言にして全世界に頒布したであらう。けれども彼は、彼の純朴性からあらゆる誇大な、強迫的なものを嫌つた。彼はトルストイの小説をば好いたが、堂々好みに対しては少なからずおぞ毛を振つてゐた。彼は書いてゐる――「トルストイは人間から不朽性を拒非した。だが神よ! その中にパーソナルなものがどれ程あつたか! をととひ私は彼の「死後」を読んだ。だがそれは、私が軽蔑する「ある知事の妻の手紙」よりももつと馬鹿げた、もつと咽喉の窒るやうなものだつた。世界偉人の哲学なるものに、悪魔よ取憑け! 大聖者たちはみんな将軍のやうに専制的で、将軍のやうに粗野で、無智だ。それといふのも罰を受けないといふ特権があるからだ。ヂオゲネスは民衆の顔へ唾を吐きかけた。それに対して後腹が病めぬといふことを知つてゐればこそだ。トルストイが医者達を悪者同然に誹謗して、大問題に対する無智を表白したのも、ヂオゲネス同様禁錮もされねば新聞で叩かれる憂ひもないのを知りぬいてゐるせいだ……」チエホフは「無智」なもの――従つて「粗野」であるもの専制的であるものをば、トルストイの衷に見出してさへ、眉をひそめないではゐられなかつた。チエホフはたゞ「絶対の真実」と正直さとで、彼の見た人生の現実の姿を描き――現実に潜められた「真珠」を掘り出して見せようとした。人間の痴かしさを叱りつけずに、その痴かしさを民衆ともども自分も乗り超さうと努めた。ツルゲーネフは露西亜インテリゲンチヤの典型を描いては見せたが、その病所が、いかにすれば救はれるかを訓へはしなかつたやうに見える――自分も彼等と共に苦しんでその病所を乗り越へやうとまではしなかつたやうに見える。しかしチエホフはそれをした。彼はたとへば「わが妻」の中で饑饉に悩む百姓達の救済に焦心しながら、しかもインテリゲンチヤの特徴に縛られて、徒らにその救済の方法や、結果の善悪について思ひ煩らつて実行に移ることの出来ない学者を主人公にしてゐるが、主人公にはあまりに無考へに見える美しく若き妻のナターリヤは、衷心良人の不実行で、不尊にのみ溺れてゐる性癖に愛憎をつかして、独逸種の医者リベルを相談相手に、どしどし実際的救済に突進するのである。そしてたうとう妻の人間らしい熱情が、良人を打負かすまでの夫婦の苦悶を物凄いまでに正確な筆致で彫み上げてゐる此の一篇は、人間を去勢し、無力にする智識はほんたうの智慧ではなく、ほんたうの智慧は各個の人間そのもののうちに隠れてゐること――その智慧をめいめい素朴に生かし抜くことに依つて幸福が恵まれ得るであらうことを語るのである。この智慧がひらめき輝く時、憎みは赦しとかはり、死は生と変容する。よく世の中で、誰れそれは「愛の詩人」だとか、「愛の使徒」だとか言ふが、それはいかなる恋愛詩人、もしくは狂熱宗教家《フアナティツク》よりも、本質的にチエホフに当てはまる言葉だ。で、有名な長篇代表作「決闘」の主要人物科学者コオレンは、うぢ虫のやうに憎んだラエフスキーをたうとういたはる――憎悪のあまり決闘までした弱小な軽蔑すべき生ものにも、人間らしい力が潜んでゐることを発見して、ピストルを曽つて握つた手で握手をする。チエホフが作中人物の中に、人間の進歩と進歩ヘの不断の努力を見出す時、その筆に何とも言はれない歓喜の力が宿る。現世の穢れと擾れとに精神的に死滅しつつあつた人物が、ある機縁と冒険とから「人間」に復活する時――その死中に活を求め得た作中人物、たとへばラエフスキーのやうな男と一緒に、作者自身もホーツと深い吐息をする。そして作中人物と一緒にかう呟やく――「それはボートを後へ押し戻す……ボートは二歩進んで一歩戻る。しかし船頭は頑固だ。どんな高波にも怖れない。ボートはだんだん進んでゆく。もうボートは見えなくなつた。が、半時間の後には船頭は明らかに、汽船の灯を見るだらう。一時間の後には船の梯を上るだらう。人生でもその通りだ……真理の探求に当つて人間は二歩進めば一歩後戻りをする。だが真理への渇望と頑固な意志とは、一歩一歩前進させるのだ。誰が知らう。恐らく彼等は最後には真の真理に到達するのだ。」それ故チエホフの愛する若く美しい男女たちは、不起の病に悩んでゐても、なほ且つ曙の光を讃め、折々すべての旧習の平和を捨てて、ただひとり新生活へと突進する、「許婚」のアレキサンドル・チモフエイツチは、肺病みの美術書生で、明日をも知れない病弱の身を、静かで単調な田舎に棲む大叔母の家に養ひに行くのであるが、その大叔母の孫娘に当るナーヂヤといふ娘の、今にも同じ町の青年と結婚せんばかりになつてゐる「許婚処女」の感じ易い耳に、彼女の智慧を啓くものが首都の大学に、彼女を待つことを囁やく。生活の暁に立つて未知に戦のくナーヂヤは、智慧にあこがれて、病青年の啓示のままに許婚者を捨てて――一切の田舎町の平和と愛を、古いしつとりとした邸宅や、教会堂や、祖母や、母親をも捨てて大都会の渦の中へ飛び込むために家出をする。やがて病める者は死に、彼女の智慧は大学でも、さう急には啓いてくれないのがわかる。けれどもチエホフは、それを青年やうら若い処女の軽はずみとして責めはしない。チエホフは彼女の未来を見捨てない。これが若し他の作家でもあれば、青春者の「都会病」や「智識熱」の方を責めて、彼等に捨て去られるために荒廃する田舎町や、田舎人の生活を歎くだらう。さうした感傷性に堕ちないところにチエホフの面目がある。彼は、長篇「匿名話」の中では頗る貴族的教養を有する若い大家の、偽の愛を信じて、良人を捨てて愛人の懐ろに投じたヂナイダのために、熱烈な真理と真実とを愛する一青年と共に、大官の「恋の欺満」をあばき、甘たるく豊かな、しかし偽りに充ちた恋の巣を捨てて、遠い旅に上らせてしまふ。旅に上つて彼女は死ぬ――しかしチエホフも、作中の青年も彼女の死を寧ろ、偽りの甘楽の長命よりも優ると信じてゐるのである。そして最も見逃せないのは「許婚」の病画学生も「匿名話」の青年も、ともに女主人公達に恋してゐるわけではないことだ。彼等は、彼女等のために恋をささやかずに、真理をささやく。彼等は彼女等に「恋」の情熱の代りに「真理」の情熱を注ぎ込んでやる。新生活へ突き遣る――チエホフは真の愛はむしろ、残酷に真理を知らしめてやることだと考へてゐるやうに見える。此処に、人としてのチエホフの底の知れない勇気が蔵されてゐる。そして、われわれがいつも彼の作品から、未来への希望と生活の鼓舞とを頒けて貰ひ、人生への愛を深かめさせて貰へる原因も亦、同時に此処に存してをらねばならぬ。私は敢へて言ふ――私はチエホフの衷にクリスチヤニテイの真の閃光を見る――人間の歎きを頒けることを知つて、しかも死をも怖れなかつた最高の慈悲者、最高の真理者の新らしい変容を見る。耶蘇も若々しい哲学者達に依つては、ガラリヤの柔順すぎ、弱すぎる牧者――羊しか飼へない牧者として嘲られた。チエホフも早急な批評家に依つては、彼の静かさと微笑と歎息とのために、その真面目をあやまり解かされるかも知れない。だが彼等の衷なる力は遂にすべてに克つ、チエホフの神の如き芸術は、遂に世界を征服しつくすであらう!
 この小感想の筆者は更らに、数十種の主要作について、個々の評論を試みたかつた。だが、今はこの漠とした覚え書だけに止めて置く。そのうちに早稲田文学社の好意は、より綿密な記述の自由を、筆者のために与へてくれるであらう。

 チエホフ小論 三上於菟吉著「早稲田文学」(大正13年3月号)を底本として電子書籍化。漢字は通用字体に改めた。書肆風々齋
Wikipedia 三上於菟吉
青空文庫 三上於菟吉

読書ざんまいよせい(041)

◎バルザック・小西茂也「風流滑稽譚」第1篇

【編者より】
大層な長文痛みいる。本文に《》が使われてる故、ルビの内容は〔〕で已む無くされた。ルビ区切りには、従来通り|を使用いたした。

仮初の咎

   ブリュアン老人嫁取りのこと

 ロワール川に臨むロシュ・コルボン・レ・ヴウヴレイのお城を竣工めされたブリュアン殿と申すは、若かりし頃はいたって荒々しい武弁でござった。幼にして早くも娘っ子の尻を追い廻し、金銭は湯水の如くに遣い、鬼神を凌ぐほどのあらけない振舞が多かったが、父親ロシュ・コルボンどのの逝去以来、当主に直られてこのかたは、日毎しどもない美遊に耽り、びらしゃら自堕落な歓楽に身を持ち崩しておられた。が、何はさてお銭には嚔をさせ、下帯には咳をさせ、酒樽には鼻血を出させ、地所は空堀に、遊女は総揚げに、といった御乱行が祟って、遂にはまっとうな方々からも義絶を受け、交遊相手は債鬼と獄道者よりほかなくなってしまわれたが、その高利貸とても、抵当としてロシュ・コルボンの封土権しか残っておらぬのを見て、――もともとこのRupes Carbonis(燃える岩)、すなわちロシュ・コルボンは国王の直轄所領地であったが、――隔心を生じて栗の毬よりとげとげしく相成った。されば自暴自棄からブリュアンどのは縦横無尽に暴れ廻って、人の鎖骨をへし挫いたり、詰まらぬことで誰にでも喧嘩を吹っかけたり、とんと始末におえなくなったので、隣りに住んでおった口達者のマルムウチェの和尚は、《御辺がしかく正道を踏み行わるるは、あっぱれ藩侯の分として、至極尤もの儀ながら、いっそ神の栄光のため、聖地エルサレムに大便をいたす憎きマホメットの外道どもを、征伐に御渡海遊ばされたら、猶一段と天晴れでは御座るまいか。さる上は金銀財宝と免罪符を、しこたま抱えて、この故郷へなり、乃至は悉皆のさむらい衆の嘗ての生国たる天国の故里へなりと、凱旋めされること必定でがな御座ろう。》と仔細顔にて告げたので、尤もなる分別に感じ入ったるブリュアンは、隣人知己の歓喜の下に、僧院で出陣の身支度をば整え、和尚の祝福を受けて故郷を後にいたしたのであった。
 爾来ブリュアンはアジアやアフリカの多くの町々を劫掠に及び、御用心とも云わずに邪教徒どもを薙ぎ倒し、サラセン人やギリシャ人やイギリス人その他の生皮を剥ぎ、敵味方もわきまえず、何処の国の傭兵かも見境いなしに、ぎょうに梟勇を振り廻されたのは、じたい詮索ごとが生れつきの大嫌いで、糾問は殺したあとの後廻しという、いと堅実な了簡深い資性があったからである。天帝の御意や国王の思召や、また己れの意にも叶った荒仕事を、かく励むうちブリュアンは、よき信徒であり、忠義な侍であるという名声を天下にあげて、海の彼方の国々で、散々に面白可笑しい月日を送られた。貧しい女に一文めぐむより、阿魔っ子に小判一枚とらせる方を、殿は好まれ、それもなるべく数すくなの美しい阿魔っ子に仁慈を垂れ、数多い醜い老婆などは避けるようにしておったのは、さすがにトゥレーヌ人の血を受けただけあって、転んでも只は起きぬ律儀まったい性分からと見えた。
 さるほどにブリュアンもトルコ女や聖骨や聖地などから、数々の恵沢に満喫してやや心倦んだものか、金銀財宝を山の如くに積んで、十字の軍から凱旋して参ったが、通例だれでも出陣の折のふくらんだ財布を、凱旋には軽くして、癩病ばかり重々しげに負って戻って来るのと逆だったもので、ヴウヴレイの里の人も、ひどく喫驚いたした趣きでごある。
 チュニスより戻るや、ブリュアンは国王フィリップから伯爵に叙せられ、トゥレーヌ及びポワトゥの奉行職にと取立てられた。有徳な殿には、天性すぐられた上に、若き日の無分別の天への償いとして、エグリニョルの教域に、カルム・デシオの天主堂を建立までいたされたので、近郷近在からも愛され敬われ、もっぱら教会と天主の御恩寵のうちに、安心立命の日々を送っておられた。この在りし日の放埒な若衆、無鉄砲な壮漢も、髪が薄くなるに従い図外れた道楽気も失せて、今は極めて古文真宝なる好々爺となり、涜神の言辞を面前で耳にでもせぬ限りは、滅多に怒られたこともなかった。若年血気の折に余人に代って、かかる雑言を吐き尽した覚えがあるので、堪忍しきれぬためである。さしもまた喧嘩好きだったのが、絶えて人と争わなくなられた。奉行なのですぐと相手が譲ってくれたからである。けっく今はかなわぬ望みとてないまま、頭のぎりぎりから爪先まで、いちえんなどやかに落着いてしまわれたが、小悪魔だとて同じ境遇にありつけば、やはりそうなろうではないか。
 殿の居城はスペインの胴着のように、ぎざぎざした縫い目で裁たれたシルエットを、岡の上に聳やかし、ロワール川にその姿をば水鏡しておったが、広間には見事な綴れ錦の壁掛を張りめぐらし、サラセン渡りの家什調度が、室内を狭しとばかり飾り立てられ、トゥールの市民はもとより、サン・マルタンの大司教や役僧たちの目をも奪った。サン・マルタン寺院には、純金で縁飾りした旗印一旒を、信心のしるしとして寄進つかまつった。お城の周囲には肥沃な田畑、風車場、喬林など打続いて、くさぐさの収穫物が上納せられたので、あたりでも屈指の分限者と目され、いざ鎌倉といえば、手勢一千騎を具して国王の御馬前に馳せ参ずるを辞さぬ豪の者と謳われておった。
 齢も傾いてからは、絞り首に精励な下役が、咎人の貧しい百姓などを引立てて来る毎に、奉行ブリュアンは莞爾として、《ブレディフ、宥してやれ。儂が海外で無分別に命をあやめた罪滅しとしよう。》と申されたが、敢然として罪人を樫の木に引吊したり、絞首台にぶらんこ吊りさせることも屡々とあったるは、偏に正邪を糺し、古来の慣行を領内に失わざらんがためと見えた。されば領民の従順謹直なること、昨日尼寺に入ったばかりの新発意もただならず、それに夜盗追剥どもの所行が兇悪の理は、御自分の経験で十分に御存じだったもので、呪わしいこれら猛獣どもに対しては、寸毫も容赦めされず良民の保護にと当られたので、領民いずれも枕を高く出来た次第でごある。奉行にはまた信心の篤いことも格別で、祈祷であれ、酒事であれ、万事が万事はやばやと片附けられる性分でござったので、裁判沙汰もトルコ式に捌き、敗訴人には軽口を云って慰め、食事など共にして、なにがさて力づけて進ぜることも度々とあった。生きる妨げをすれば罰は十分と申し、絞り首の罪人の亡骸も、信心衆と同じ聖土に埋葬を許し、猶太人に対してさえ、よくせき彼等が暴利や高利で身を肥さぬ限りは、きつい糾明に及ぶこともなく、奴等こそ有難い多額納税者じゃと申して、蜂が蜜を掻き込むように、普段は彼等にせっせと分捕勝手に任しておいて、宗門や国王や領内の、乃至は己が身の、利益得分を計る時のほかは、ついぞその蜜を奪ったこともおりなかった。
 かかる寛仁なる振舞から、ブリュアンは老若貴賤すべての愛着と畏敬を蒐めるにいたった。お白洲から微笑を湛えて戻る殿に、これも寄る年波のマルムウチェの和尚が、《さっても殿がそのように笑ませられるは、必定、吊し首がでけるによってじゃな。》とちょがらかすこともあったし、ロシュ・コルボンからトゥールへ馬上豊かに罷る雄姿を見て、サン・サンフォリアン新町の乙女などは、《今日はお裁きの日じゃ。ブリュアン老殿様が、あれお通りになる。》と、東方から引いて戻った逞しい白馬に跨った奉行の偉容を仰いで、とんと怖じ恐れる様子もなかったし、橋の上で少年達も石弾きの手を止めて、《お奉行様、御機嫌よろしゅう!》と叫ぶと、《おお、よい子じゃ。鞭を喰うまでは、せっせと遊んだがよいぞ。》と、戯れるのに対し、《おっと承知の介、お奉行様。》といった情景が常に領内には見られた。かく殿のお蔭で、領内も泰平に、盗賊も跡を絶ち、ロワール川大洪水の年も、冬季ただの二十二名の兇漢が、絞り首の大往生をとげたに止まり、その他に一名シャトオヌフの村で焚刑された猶太人があったが、これは聖パンを盗んだ科とも、またありあまる裕福にまかせて、それを買い取った罪とも云われておる。
 ちょうど翌年、乾草聖人祭の頃のこと、――トゥレーヌでは、サン・ジャン聖人刈取祭とこれを云っているが、――エジプト人やボヘミア人なんどの流浪の掻払いどもがさすらって参って、サン・マルタン寺院から聖宝を盗み、剰え場所もあろうに、聖母マリア様の御座のところへ、老耄犬ほどの年恰好の、仲間の賤しいモール生れの軽業の美少女を、丸裸のまま置去りにして逃げた。これぞ町びとの揺ぎなき信仰に対する、侮蔑嘲弄のしるしとも申すべく、さっても図ないかかる涜神の贖罪といたして、早速にくだんのモール娘を、草市が立つサン・マルタン広場に引き出して、噴水のほとりで生きながら火炙りの刑に処そうと、検察当局も法門もずんと裁断いたしたるところ、ブリュアン奉行はこれに首を振って、明快に陳じ申されるには、《これはいかなこと、件のアフリカ娘の魂を、まことの宗門に帰依せしめてこそ、奇特にもなり、また上天の思召にも相叶うものとそれがしは存ずる。と申すは一朝、悪魔が女体に潜んで業を張るに於ては、断決どおりに薪を山と積もうと、悪魔を焚殺することは能わぬではござらぬか。》と、不承されたので、げに寺法にも適い、慈悲福音の御教えにも添うた順義ある言として、大司教もこれに同心めされたが、町の上臈衆はじめ貴紳の面々には、《それでは見事な儀式もお流れじゃ。牢屋のなかで目を泣きはらし、縛られた山羊さながらに喚き叫んでおる、あのモール娘の所存に任せるとなれば、鴉のように長命をば望んで、ちょろり改宗してしまうで御座ろう。》と、高声で不合点したので、奉行は、《いや、異邦の娘が心底から改宗いたすとならば、一段と雅致ある儀式を、それがし執行するといたそう。躬が親しく洗礼の代父を勤め、諸事万端、盛大に挙式いたしてもよいが、生憎とまだ稚児〔コクバン〕衆(チョンガー)のそれがしゆえ、どこぞの息女に代母の役を頼まば、なおと神意にも叶うことと存ずる。》と申された。チョンガーとはトゥレーヌの土地言葉で、まだ嫁取りも済まぬか、或は童貞と見做されている若衆を、女房持ちや鰥夫から区別いたす際の言葉じゃが、総じてチョンガーと申せば夫婦ぐらしで埃臭くなった殿方より、気も軽く浮々してござるから、そんじょうそれと名はつけずとも、娘子衆ならば、ちょろくこれを見立てるすべを心得ていよう。
 モールの娘は、火刑の積木と、洗礼の聖水と、どちらを選ぶべきかをうじうじするまでもなく、エジプト産の邪宗門として焚き殺されるより、切支丹にころんで生きながらえる方を、もとより好んだので、一瞬にいのちを燃やす代りに、一生涯心臓を燃やす身とは相成った。というのは信仰心に躓きのないようにと、シャルドンヌレに近い尼寺にこもって、不犯の誓を立てることに定まったからじゃ。さて洗礼の儀式は大司教のお館にて挙げられた。トゥレーヌの衆ほど、舞や踊や飲み食いに熱中して、大盤振舞や無礼講に、羽目を外す連中は、ついぞ全世界にその比を見ないほどで、救世主の栄光を祝して、早速にトゥールの町の貴顕淑女はここを先途と踊り狂われた。老奉行職が代母の役に選んだは、後のアゼエ・ル・ブリュレ、当時のアゼエ・ル・リデルの領主の御息女で、父領主は十字軍に加わって、アクルという遠い遥かな町で、サラセン人の捕虜となり、生憎と押出しが立派すぎたため、莫大もない身代金を要求せられておった。アゼエの奥方はその金子調達のため、強慾な金貸に領地まで抵当に入れ、一文なしに身をはたいて殿の帰りを待ち侘びつつ、町の陋屋に起臥しておられたが、坐る敷物はなくとも気位だけはシバの女王よりも高く、主人の襤褸切れを護る忠犬のように、頼もしずくなところがごあった。斯様な窮乏のどん底に陥ったアゼエの奥方を見るに忍びず、奉行は救済の一助として、エジプト娘の代母になることを、アゼエの息女に体よく頼みこんで、金品贈与の口実を得られた。さて奉行にはサイプラスの町で劫掠いたした重い金鎖を所蔵しておったのを、贈物として臈たけた代母の頸に掛けようと、殊勝にも考えついたが百年目、図らずもそれと一緒に、己が封土も白髪も金銀も軍馬も、総ざらい掛けてしまう結果とは相成った。と申すはトゥールの上臈衆に交って、アゼエのブランシュ姫が孔雀の舞をみやびやかに踊る妙な姿を、一目見るに及んで首ったけ、ふならふならと入れ揚げてしまわれたからである。
 モールの娘もこれが娑婆見納めの日というので、芸尽しに綱渡り、軽業、曲芸、輪舞、跳躍と、あらゆる妙技を出しきって、座の衆目を奪ったが、ブランシュ姫の舞いざまの清艶都雅に比しては遥かに及ばず、ずんと一籌を輸したとは世間の取沙汰でござった。玉敷の床板にも恥じらう踝をした芳紀十七の姫御前が、年が年ゆえあどけなげに、踊り興ずるそのさまは、さながら初の一節を奏でそめる蝉の風情と申そうか、眺めるブリュアンはけなるい老いの煩悩に取憑かれてしまわれた。まことそれは猛々しい脳溢血的な弱味さかんな修羅燃やしで、積む白髪の雪に恋の炎も消え尽す頭部は別として、足の底から頸筋のあたりまで、奉行の身体は燃え焦げたのである。その機に及んで初めて己が居城に足らぬのは、奥方ばかりということに奉行は気附き、実際以上の淋しさをば覚えられた。なにがさてお城に奥方のないは、釣鐘のない撞木と同じという訳で、奉行がこの世に望むものがあったとしたら、奥方を迎えるという一事のほかにはなく、もしもアゼエの奥方が兎や角、返事を渋ったなら、自分にはこの世からあの世に移るばかりしかないと、立ち所に嫁取りの儀を切望いたされた。しかしこの洗礼祭の騒ぎの間は奉行も並々ならぬ恋の痛手を痛感することも僅かだったし、ましてや頭の毛を薄くしたおのが八十路の不祥に思い及ぶことも尠く、うら若い代母の容姿が、あまりにはっきりと眼の底に灼きついたので、おのが霞まなこのことも打忘れてしまわれた。それにまたブランシュ姫も御母堂の下知のまま奉行を下にもおかず目差しや身振りで款待いたされたが、代父の年が年ゆえ昵懇に及んでも何の仔細もないと、思い定めたからでもあろうか。春の朝のように目ざめているトゥレーヌの悉皆の娘っ子とはうって変って、生来初心でおぼこなブランシュ姫は、されば手に接吻することを老人に先ずは許した。――それからしてちょっと下の頸っこ、いや、ずんと窪っこのところに。と、こう申したるは祭から一週間後、この二人の婚礼を司った大司教猊下でごあるが、嫁取りも立派だったが、さっても花嫁御寮ときたら、更に立派でござりや申した。
 ここなブランシュ姫はまこと類いなく華奢で優雅であられたが、なかでもそのおぼこ振りと申したら、古来その例しも聞かぬほどのかいもくの野暮娘で、色恋の道も心得ねばその仔細も手段もわきまえず、人は臥床の内で何もせぬものと思い、赤子は縮緬甘藍の中から出るものと合点めされていた。そがい母者人が何一つ知らせずにこの懐ろ娘を育て上げたからで、スープを歯のあわいから何として吸うたものやら、弁えさせないで大きくしたほどの丹精の甲斐には、清い華やかな純な乙女が花咲いて、天国へ飛翔する翼を欠いた天使そっくりと申したらよろしかろう。
 泣き沈んだ母御前の賤居を後にいたして、サン・ガチアン大聖堂にしつらえられた晴れの祝儀の庭に、ブランシュ姫が赴こうと立出でて、セルリの街筋に敷きつらねられた錦の毛氈を渡るそのあでやかな姿に、目の放楽をいたそうと、近郷近在からこぞって物見にと老若男女が集まって参られたが、トゥレーヌの土を、こうまで可愛げな足が踏んだことはないとか、こうまで涼しい碧い眸が空を仰いだこともおりないとか、こうまで見事な敷物や花吹雪が街を飾った祝言もないとか、いやはやもっぱらの取沙汰でごあった。町の娘子衆や郊外のサン・マルタンや、シャトオヌフの当世娘たちは、めでたく伯爵夫人の玉の輿を釣ってのけたブランシュ姫の丈長の鹿子色の編髪を羨まぬとてはなかったが、それとともに、いやそれ以上に、姫の金糸の衣裳、海彼の宝玉、白ダイヤ、或は奉行に身を永遠に結びつけた縁〔えにし〕の糸とも知らずに、姫が無心にまさぐっておった黄金の鎖を、所望すること切なるものがござった。
 この花嫁と並んで立った老奉行の有卦に入ったるその浮かれ振りと申したら、皺や眼差や仕草の悉くから諸果報がこぼれ出んばかりで、老いの腰を鎌ほどに伸して、花嫁の傍に倚り添ったるさまは、晴れの調練にまかり出る野武士よろしくで、手を脇腹にあてがっておったは、はや歓喜に喘ぎ困〔こう〕じ過ぎたためでごあろう。妙なる祝鐘の音や、眼も綾な練り行列や、華麗を尽した盛儀のさまは、《大司教直々の御婚儀》と後世に語り伝えられたほどで、モール娘の雨霰も結構、老奉行の洪水も結構、改宗の洗礼の大溢れも結構と、町の娘子衆は自分等もあやかりたくて願うたが、もとよりエジプトにもボヘミアにも程遠いトゥレーヌの里のことゆえ、こうしたお目出度もその後はついぞ起ったためしとておりなかった。
 祝儀が済んでのちアゼエの奥方は、奉行から莫大な金子を賜わったので、早速にアクルへ下ってその金で良人の身を買い戻そうと、息女のことは呉々も花婿どのに頼んで、万端の準備を整えくれた奉行の麾下や組頭や士卒を供といたして、その日のうちに出立せられた。ずっと後になって、アゼエの領主ともども奥方には戻って参られたが、癩を患っていた良人を、伝染の危険をも顧みずに甲斐甲斐しく看護いたして、全治せしめたその献身ぶりこそは、いたく世上の歎称をば受けられた。
 さて婚儀もとどこおりなく済み、三日にわたった披露の宴も賀客の大満悦裡に果てて、ブリュアン殿は供廻りも美々しく新婦をおのが居城にと伴って、マルムウチェ和尚がお祓いをした新床へ、世の常の良人の形儀に従って厳かに案内いたし、ロシュ・コルボンの領主にふさわしい緑の金襴金糸を張りめぐらせた大きな閨房にて床入りの式を行われた。身体じゅう香水を浴びたブリュアン老人が、新婦の傍らに添臥し、いざ肉と肉になると、やおら新郎は新婦の額ぎわに先ず以て接吻し、次いで花嫁の金鎖の環の止金の胸に触れるあたり、白いふくよかな乳房の上に接吻をいたした。……が、これをもって、それなりけりの終りとは相成った。
 階下の広間では、なおもはずむ舞の手拍手、華燭の祝歌、陽気な戯事、それらを耳にしながらも老武弁の伊達者には、己れを信ずること篤きあまりに、余の儀に及ぶことを控えて愛のしこなしは沙汰止みにといたしたのでごある。嘉例にしたがって、金の杯に浄めた床入りの酒が、傍らにおかれてあったのを目口かわきの新郎はぐっとあおって気力をつけめされたが、腹うちこそその薬力で暖ったものの、だらりとした下紐の中心は、むなしく何の験気もおりなかった。しかし新婦は新郎のかかる叛逆不逞を、いささかも訝る模様もなかった。心底からのいや堅気な未通女で、婚儀に就いて心得ておったことは、僅かに懐ろ娘の眼にありありと見えるもの、――衣裳だとか、酒盛だとか、馬匹だとか、奥方になり女主人となること、伯爵夫人として領地を統べること、遊行や下知をほしいままにすることだけと合点なされているだけで、とんとうんつくな子供も同じこと、褥のあたりに垂れた金の総や瓔珞を爪繰り、おのが初花を埋むべき廟所とも知らずに、ただその壮麗さに驚嘆の眼を瞠っておったのであった。おのが罪科に気づくに、遅過ぎた気味のある不念な奉行は、それでもなお後日に儚ない望みをかけ、今宵がほどは仕業の補いを、言葉をもって埒明けんずと心構えられた。したが後日に期すといっても、妻に振舞おうと彼が大事にしている当の代物は、くやしや毎日、少しがほどずつ虧耗してゆくをなんとしょう。そこで奉行は新妻に四方八方〔よもやま〕話を仕掛けてもてなされた。衣裳櫃はおろか、蔵や長持の鍵まで、悉皆|奥方〔おく〕に預ける話、屋敷田畠の宰領を一任して、一切の口出しを慎しむ話、――つまりトゥレーヌ人の言い草に従えば、麺麭の片きれを相手の頸に掛けてやる話を、仔細らしくしだしたのであった。聞いて花嫁は乾草の山に踏み込んだ若い軍馬さながら満悦して、三国一の気前よい殿御と奉行をあがめ奉り、褥の上に身を起して婉然とし、われこそ爾今は天下晴れての夜毎のあるじと、緑錦の臥床を今更のように眺めて、一段となまめいた面持で床上を撫でさすられた。花嫁が次第にかく美色を呈してもやついて参るのを見た老獪な殿には、乙女子にこそ余り接せられなかったが、好きものの女人を常に手玉にとられた幾多のむかしの御体験からして、羽根蒲団の上では女人がいかにしどもなく牝猿になるものかを、身に沁みて御存じだったもので、昔なら辞退尻込みどころでない例の女子のすなる手玩びやあじゃらなキッスといった、濡事のけなるいたわれ遊びのからくみを、こっちに仕掛けられて、法王の御入滅のようないまの己れが身の冷灰を見破られることを心配いたし、われと果報を忌み怖れるもののように、新床の片端にと身をしざって、仮粧ばんだ新妻に向って申された。
『のう、そなたももはや奉行が奥方じゃ。まこと大名の御内室じゃて。』
『まだで御座りましょう。』
『はて聞えぬことじゃ。なんでおみが家刀自でないぞ。』ひどくうろたえて奉行は申した。
『されば子を生みまいらせぬほどは、嫡室とは申されますまい。』
『なんと道すがら牧場を見つろうが。』老翁は話題を転じた。『いかにも。』
『されば、あれもわこぜがものじゃ。』
『はあ嬉しや。されば蝶を捕まいて随分と遊び申そう。』と笑いながら答えた。
『さてこそ聞き分けのよい。途中、森も見つろうがの。』
『はあ、あの森は殿と御一緒でなくば淋しゅう御座りましょう。お伴い下さりませ。したがラ・ポヌウズが心を籠めて、われらが為にと醸しおかれた床入の御酒〔みき〕を、少しわらわにも賜わりませ。』
『これはいかなこと。あれを飲うだなら体内に炎を発するわ。』
『さればこそ所望いたすのじゃ。妾は一刻も早う子を生みまいらしょうと存ずれば、それに験のあると聞き及ぶかの飲料を下さりませ。』とさも怨めしげに申されたが、この言葉に姫が頭の先から足の裏まで、おぼこ娘のことを察知めされた奉行には、『そのことならば先ず以て、天主の御意がのうては叶い申さぬ。且つは女体の刈入れ時にならねば、能わぬことじゃて。』
『妾〔み〕が刈入れ時は何時でござりましょう!』嫣然としてブランシュは訊ねた。
『造化の神の思召す時じゃ。』と強い笑いを作って申した。
『してそれは、どのように仕るもので御座る?』
『されば神秘の学、錬金の業、危険極まる隠事であるわ。』
『さてこそ躬がしのびごとを憂えて、母者人には、いたく打泣かれたのも尤もじゃ。したがベルト・ド・プリュイリが嫁入りの手柄話に鼻高々と申したは、これほど易い業も天下に御座りやないとじゃが……』と夢みる面持で新婦は云った。
『それは年によりけりじゃ。』と老城主は答えた。
『時にわごりょは儂が厩舎で、トゥレーヌにその名も高い白駒を見たか喃。』
『あい。天晴れ温和な駒にて御座りまする。』
『さればあれもそなたに進ずるほどに、気が向く儘に乗り廻すがよいぞ。』
『噂に違わぬ親切な殿、有難う御座やりまおす。』
『なおその上に、余の大膳職、礼拝堂番、主計役、主馬頭、料理方、代官なんどを始めとして、呼名をゴオチェと云う躬が旗持の若小姓モンソロオ殿に、麾下の侍、武士、足軽、軍馬を引具せしめて、わぬしの膝下に跪坐させようぞ。万一そなたの下知に怱々従わなんだ者あれば、立ちどころに絞り首じゃ。』
『してかの神秘錬金の術と申されたを、今ここで行うわけには参らぬかや?』
『なかなか。まず余の儀に立ちこえて肝要なは、そなたも儂も、天主の御恩寵に屹度適うた身に相成ることじゃ。さなくば罪業沢山の悪しき子を生むを以て、重く寺法にも禁ぜられておるわい。世に済度も叶わぬ無道の者夥しいは、何れも両親が魂の清らに澄む折を待たず、無分別にも子孫に邪念を伝えたからなのじゃ。美しき有徳な子は無垢な父母のみが生む定めなれば、新床にお祓いをなすのもそが為じゃ。さるに依りマルムウチェの和尚もこの床に魔除けをいたしたる筈。時に其方は教会の掟に背いた覚えはござないか。』
『されば弥撒の前に罪障悉皆赦免の御沙汰を拝しましたれば、其後は何一つの罪咎もつゆ覚え御座りませぬ。』と口早やにブランシュは申した。『おもとほどの天晴れな者を北の方にいたして、儂は双びもない果報者じゃて。したが躬は邪宗門のごと、はや涜神の振舞を犯しおったわ。』と狡い奉行は思い出したように叫ばれた。『まあ、何故にて御座りまする?』
『されば舞が一向に果てず、わごぜと水入らずに一室に引籠って、かく接吻をなすの期が、かいしき参らぬによって、先刻はつい神を呪い申したわ。』
 そう申して慇懃に姫の手をとり、接吻を雨霰として、空言睦言かきまぜてさまざまに述べ立てられたので、姫はすっかり悦に入り満足気であったが、昼の踊やさまざまの儀式に疲れを覚えたものか、《明日こそはさような呪いを発せずと床に籠れるよう、妾が十分こころしまする。》と言いつつ夢路にこそは入りめされた。残された老人は新妻の白い美しさに、げしゅう心奪われ、優しい姫の心根に接してその恋心も弥募ったが、この天真爛漫さを保たせる術を心得るのは、何故に牛が反芻するかを説き明らめるのと同じ難渋ごとと考えて、少からずに困却いたした。前途にさらに何の光明とてなかったが、無心にすやすやと寝入っているブランシュの妙なる麗質をしげしげと見るにつけ、翁の胸中の焔は燃え上って、飽く迄この恋の寵珠を守り防がんずと、堅く心に決心めされた。老いの目に涙を浮かべつつ彼は姫の美しい金髪や、可愛らしい瞼や、赤い爽かな口許に、眼の覚めぬようそっと接吻をいたした。……そしてそれが彼の享有のすべてでごあった。してそれはブランシュの心に通うことのない沈黙の快楽であっただけに、うわずった彼の心は一段と燃え燻ぶるばかりで、落葉した老路の雪を、いたく嘆いた憐れなこの老奉行は、歯の落ち尽した時分に胡桃をお授けになられた神様のお戯れに、しんぞじゅつない思いをいたされたのであった。
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読書ざんまいよせい(040)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(013)

 松田道雄先生は、「文芸読本 チェーホフ・桜の園』」で書いている。

 私はチェーホフが好きです。その理由を書くことは鑑賞の一部になるかと思います。およそ自由な市民がものを読んでたのしむという場合、そのたのしみが最大であるのは、好きな人間の書いたものを読むときです。
 嫌いな人間の書いたものは読まないというのは、自由な市民の誇るべき特権です。
 人間と作品とをつねに結びつける市民の素朴な鑑賞法は、市民の生活自身のなかで養成された生活の知慧の一部分というべきものでしょう。信用できない生き方をしている人間のつくるものは信用できるためしがないということを日々思い知らされているからです。
 作家の生活を自分の生活のなかでうけとめるということで市民は好きな作家と嫌いな作家をよりわけるのです。…

 では、松田大先輩の顰《ひそみ》に倣《なら》って、「文芸読本」中の、福田恆存、小林秀雄、中村雄二郎各氏の文章は読まないでおこう(笑)。

 閑話休題、チェーホフの比較的長い中編小説に「三年」(1895年発表)という比較的知られていない作品がある。発表当時もあまり評判は芳しくなかったが、読んでみると味わいのある良品である。
 商人の父(暴力的なのは、チェーホフの実父の面影があるという。)と病気の姉を持つ、ラープチェフは、ユーリアに恋心を抱き、だしぬけにプロポーズする。この間、彼女の忘れた傘がちょっとした小道具である。最初は彼女は躊躇するが、彼と所帯を持つ。子どもの死もあり、心はだんだん離れていったが、また、古い傘を見たユーリアは、ラープチェフの元に帰ってゆく。この間、「三年」の月日だった。小説の最後のラープチェフの思い。
『もう少し生きのびて、それを見ることにしよう。』
が印象的である。そして他のチェーホフの作品の多くが、男女の生きて、亡くなってを問わず別れを描くが、ともかくにも元の鞘に収まるのも珍しく感じる。

 実は、「チェーホフの手帖」は、1890年、彼の一大転機となったサハリン(樺太)行の翌年、1881年、編集者スヴォーリンが同行したヨーロッパ旅行の記述から現存する。しかもその合間には、「三年」のプロットが書き込まれているので、構想から発表までの年月をとって「三年」と名付けたのかと勝手な想像をしてみている。
 手帖の最初に

一ページ
このノートはA・P・チェーホフの所有である。
ペテルブルグ、M《エム》・イタリヤンスカヤ、ーハ番地、スヴォーリン方。
二ページ

2 イワンにはソフィヤが気に入らない、リンゴ臭いから。

6ウイ—ン着。Stadt Frankfurut〔チェーホフが止まったホテルの名〕。
寒い。

三ページ

2 くイワンは女性を敬わない、なぜなら気短かで、女性をありのままに見るからだ。>女性のことを書くなら、いやでも恋のことを書かねばならぬ。
3 く一般の福祉に奉仕しようという願望は、必ず魂の要求であり、個人的幸福の条件でなければならない。もしその願望がそこから起るのではなくて、理論的な、あるいはその他の配慮から起るなら、それはまやかしである。>
以上、池田健太郎訳

 前置きが長くなったが…

 毎日、昼飯が済むと良人は、坊主になってしまうぞと言って妻を威かす。妻は泣く。

 Mordokhvostov《モルドフヴォーストフ》*君。
*鼻面と尻尾。

 夫婦が十八年も一緒に暮らして喧嘩ばかりしている。とうとう夫は、ほかに女が出来たと根も葉もない打明け話を妻に聞かせて、夫婦わかれになる。夫は非常に満足だ。町じゅうの人は憤慨している。

 何の役にも立たぬもの、忘れられた面白くもない写真の貼ってあるアルバムが、隅っこの椅子の上に載っている。もう二十年もそうして転がっているが、誰ひとり思いきって棄てる気になれない。

 四十年前のこと、Xという稀に見る非常に立派な人間が五人の人の命を救った次第を、Nが話して聞かせる。一同がその話を至極冷淡に聴いているのが、このXの功績がもう忘れられて一向に人々の興味を惹かないのが、Nには不思議でならない。

 一同は極上のキャヴィヤにがつがつとかぶりついて、瞬く間に平らげてしまった。

 荘重な演説の最中に小さな息子に向って、「ズボン《まえ》のボタンをおかけ。」

 あなたがその人間に、彼がどんな体たらくなのかを見せてやるとき、はじめて彼は向上するのです。

 鳩羽色の御面相。

 ある地主が、鳩やカナリヤや鶏の羽色を変えて見ようと、胡椒の実や、マンガン酸加里や、そのほか色んな愚にもつかぬ餌を与える。――これが彼の唯一の仕事で、客の顔さえ見ればその自慢ばなしをする。

 有名な声楽家を傭って、結婚式の席上で使徒行伝を誦ませる。彼は誦み上げて、見事な出来栄えだったが、お金(二千)は払って貰えなかった。

 笑劇。――わたしの知人のKrivomordyj《クリヴォモルディ》(顔まがり)君は、名前こそ変てこですが、ちゃんとした男です。Krivonogij《クリヴォノーギイ》(足まがり)でもKrivorukij《クリヴォルーキイ》(手まがり)でもなくって、実に「顔まがり《クリヴォモルディ》」っていうんですが、ちゃんと結婚して、奥さんに可愛がられていましたっけ。

 Nは毎日牛乳を飲んでいた。そのたびにコップへ蠅を入れて、従僕を呼んで詰問するのだった、「これは何ちゅうことか?」まるで人身御供みたいな顔をして。これをしないでは一日も生きて居られなかった。

 陰気な女だ、蒸風呂の臭いがする。

 Nが妻の不貞を嗅ぎつけた。彼は憤慨する、煩悶する。けれど逡巡決せず、胸におさめて黙っている。彼は何も言わずに、とど相手のZからお金を借り入れる。そして相変らず自分は潔白だと思っている。

 弓形パンで飲むお茶を切上げるときには、私は「食いたくない!」と言う。ところが読みかけた詩や小説を中途で投出すときには、「これじゃない、これじゃない!」と言う。

 公証人が高利で金を貸す。遺産は残らずモスクヴァ大学へ寄附いたしますんで、とそんな弁解をしながら。

 その寺男はなんと自由主義者だった。曰く、「今じゃ私達の仲間が、まさかと思うような割目から、ぞろぞろ這い出して来まさあ。」

 地主のNは、モロカン教を奉ずる隣村の地主一家としょっちゅう喧嘩をして、訴訟沙汰をもちあげたり、悪罵を放ったり、呪ったりしている。ところが、やがて彼等がよそへ移住して行ってしまうと、彼は空虚を感じて、みるみる老い衰えて行く。

 Mordukhanov《モルドゥカーノフ》君。

 N夫婦の家に妻君の弟が引取られている。若いくせにめそめそした男で、人の物を盗んだり、嘘をついたり、狂言自殺を図ったりする。N夫婦は途方に暮れる。へたに家を追出して自殺をされちゃ堪らないし、またいくら追出したくっても、どんな風にやったらいいのか分らない。彼が手形偽造の罪で収監される。N夫婦は自分達が悪かったのだと思って、涙に暮れる、懊悩する。悲嘆のあまり妻が死ぬと、夫も間もなくその後を追った。そこで財産はすっかり弟の物になったが、彼は放蕩に使い果たして、またもや懲役に行った。

 仮にだよ、僕が嫁に行くとしたら、まあ二日もすれば逃げ出しちまうだろうよ。ところが女というやつは、すぐさま夫の家に居ついちまうんだ。まるでその家で生まれたような工合にね。

 いよいよ君も九等官(Tituliarnyj《チトウリヤルヌイ》 Sovetnik《ソヴエトニク》*)になったね。だが一たい誰に忠告しようと言うんだね? 誰ひとり君の忠告なんか聴く奴がないように願いたいもんだ。
*Sovetnikは顧問乃至忠告者の意。

 トルジョーク*。町会が開かれる。議題は、町の資産増加の件。……決議に曰く、ローマ法王にトルジョークへ移転方を招請すること。すなわち法王の居市と奠《さだ》めること。
*モスクヴァ西北の小工業都市。

 へぼ詩人の歌にこんな句があった。――彼は蝗のごとく逢引に飛びゆけり。

参考】
・チェーホフ全集10 中央公論社
・チェーホフ全集14 中央公論社
・文芸読本「チェーホフ」 河出書房新社
・ 沼野充義「チェーホフ 七分の絶望と三分の希望」講談社