テキストの快楽(009)その3

◎ シェイクスピア・坪内逍遙訳「リア王)(01)第1幕
リヤ王

シェークスピヤ 作
坪内逍遙 譯
* 第一幕 第一場
* 第一幕 第二場
* 第一幕 第三場
* 第一幕 第四場
* 第一幕 第五場
* 第ニ幕 第一場
* 第ニ幕 第二場
* 第ニ幕 第三場
* 第ニ幕 第四場
* 第三幕 第一場
* 第三幕 第二場
* 第三幕 第三場
* 第三幕 第四場
* 第三幕 第五場
* 第三幕 第六場
* 第三幕 第七場
* 第四幕 第一場
* 第四幕 第二場
* 第四幕 第三場
* 第四幕 第四場
* 第四幕 第五場
* 第四幕 第六場
* 第四幕 第七場
* 第五幕 第一場
* 第五幕 第二場
* 第五幕 第三場

登場人物

* ブリテンの王、リーヤ。
* フランスの王。
* バーガンディーの公爵。
* コーンヲールの公爵。
* オルバニーの公爵。
* ケントの伯爵。
* グロースターの伯爵。
* グロースターの男、エドガー。
* グロースターの庶子、エドマンド。
* 阿呆。(阿呆役、即ち弄臣。)
* 廷臣、キュラン。(コーンヲール公の侍士)
* グロースターの配下の民、老人。
* 侍醫。
* ゴナリルの家令、オズワルド。
* エドマンドに使はるゝ一武將。
* コーディーリャに侍する一紳士。
* 傳令。
* コーンヲールの家來數人。
* リーヤの女、ゴナリル。
* リーヤの女、リーガン。
* リーヤの女、コーディーリャ。

其他、リーヤに附隨せる武士ら、武將ら、使者ら、兵士ら、侍者ら。

場所

ブリテン。

(書中及び本文中にては、邦語との調和、其他の都合上、例の如く、必ずしも正音に拘泥せず。)

第一幕

第一場 リヤ王宮殿。

此日、王リヤが王位を退くと同時に、其所領を三分して、其三王女に分配する筈なので、 老齡のグロースターは其庶子エドマンドを從へて、 鯁直かうちよくを以て聞えてゐるケントの伯爵と共に出て來て、 王の臨場を待ってゐる。

ケント
王はコーンヲールどのよりもオルバニー公爵を一段御贔屓かと存じてをったに。
グロー
始終そのやうにも見えてをりましたが、王國御配分の今日となっては、 どちらを最も御尊重やら分りませぬ。雙方の御配當が如何にも精細に平等で、 擇ぶことの出來ませんほどでござりから。
ケント
(エドマンドを見て)あれは御子息でござるか?
グロー
養育致したは手前に相違ござらんが、あれは自分のぢゃと申すたびに、 毎々赧い顏をいたし、今ではもう慣れて鐵面皮になりました。
ケント
お言葉がはらに入りかねます。
グロー
ところが、此者これのお袋のはらに入りましたので、それが大きうなり、 寢床にねかす夫はまだ迎へも致さんうちに、搖籃ねかごせる小さひのが出來ました。 え、不品行ふしだらをお察しなされたかな?
ケント
不品行ふしだらも強あながち咎めるには及びますまい、如是こんな立派なのが出來て見れば。
グロー
なれども手前には、正腹ほんばらの、さればとて一段かはゆいと申す譯でもないせがれがござる、此者これよりは一年ほど年長としうへの。此奴は出て來いとも言はんうちに、 不作法にも飛び出した奴ではござるが、お袋は標致きりやうよしで、 生ませるまでには大分面白いこともござったことゆゑ、子でないとは申されませんわい。…… エドマンド、此お方を存じてをるか?
エドマ
いゝえ、存じません。
グロー
ケント伯爵どのぢゃ。わしの尊敬するお方ぢゃ。お見知り申しておけ。
エドマ
何分よろしう。
ケント
おひ~お知交ちかづきになって、是非御別懇に致すであらう。
エドマ
御知遇に背かぬやうに勤めまするでございませう。
グロー
れは九年外國へ參ってをりましたが、また直ぐに遣はす積りで。……

セネット調の喇叭が聞える。

王のお渡りぢゃ。

喇叭につれて、一人寶冠を捧げ持ちて先きに立つ、つゞいてブリテンの國王のリヤ、 次女の婿コーンヲール公爵、長女の婿オルバニー公爵、長女ゴナリル、次女リーガン、 三女コーディーリャ及び從臣大勢出る。王は七十以上の高齡で、身、神共に衰へて、 もう耄けかゝってゐるのであるが、傲岸な、わがまゝな氣質は其壯年の時のまゝである。

リヤ
グロースターよ、フランス王とバーガンディーの公爵とを接待しておくりゃれ。
グロー
かしこまりました。

グロースターはエドマンドを伴って入る。

リヤ
此間このひま其方そち逹のまだ存ぜぬ内密の旨意を申し聞かさう。……地圖を持て。…… まづ、我が王國をばみつに分けた。予も高齡と相成ったによって、すべて面倒な政治上の用向は、 悉く若い壯健すこやかな者共に委ねて、身輕になり、靜かに死の近づくのをたうといふ決心ぢゃ。 ……我が愛子コーンヲール、……また、子たるの愛に於ては少しも劣ることのないオルバニー公爵、 予は、今日只今、化粧料としてへ遣はすべきむすめ共の所領を公表しようと存ずる。 然るは、今にして永く未來の爭根を絶たんがためぢゃ。フランス王とバーガンディーの公爵とは、 末姫コーディーリャの愛に對する競爭者となって、其戀を遂げうために、久しう此宮中に逗留せられた。 其返辭もまた今日の筈ぢゃ。……むすめどもよ、今や、予は、支配をも、所領をも、 國事に關する心勞をも、悉く脱ぎ棄てゝしまはうと存ずるによって、聞かしてくれ、 其方そなた逹のうちで、誰れが最も深くわしを愛してをるかを。 眞に孝行の徳ある者に最大の恩惠を輿へようと思ふから。……長女ゴナリルから申せ。
ゴナリ
父上、わらはゝ口で申し得らるゝより以上にあなたをば愛しまする、目よりも、空間よりも、 自由よりも、貴き又は稀なる、ありとあるあたひあるもの以上に、命よりも以上に、 威嚴や健康や美や名譽の添った生命以上に貴下あなたをば愛しまする。子のかつて獻げ、 父のかつて受けた限りの愛を以て。……息をも乏しからしめ、 ことばをも不能ならしめまする程の愛を以て。ちようどそれほどの、 ありとあらゆる愛以上にあなたを愛しまする。
コーデ
(傍白)コーディーリャは何とせうぞ?……心で愛して默ってゐよう。
リヤ
(地圖を指し)此綫より此綫まで、鬱蓊たる森林と豐饒なる平野、魚に富める河々と裾廣き牧場とを有する、 此境域一圓の領主とそなたをばするぞよ。これは、そなたとオルバニーとの子々孫々にまで、永久の財産ぢゃ。 ……さて、予が最愛の二女リーガン、コーンヲールの奧方は何といはるゝな?
リガ
わたくしの心持も姉上と全く同じなのでございます、姉上同樣におぼしめしていたゞいて當然と存じてをります。 姉上はわたくしが思ってをる通りをおっしゃったのでございますの、只、少ゥしおっしゃり足りませんばかり。 わたくしは、最も大切な感覺の、ありとあらゆる歡樂をも仇敵あだがたきと斥け、 只一へに殿下を愛敬し奉るのを幸福と思ふてをりまする。
コーデ
(傍白)ぢゃ、此コーディーリャは(何といはう)!……いや~、なンにもいふまい、 とても此心は舌ではいはれるやうなものぢゃァないから。
リヤ
これがそなた及びそなたの子孫の世襲の財産ぢゃ、我が美なる王國の此豐かな三分の一は。 廣さに於ても、價格ねうちに於ても、其樂しさに於ても、ゴナリルに遣はしたのに少しも劣らん。 ……さて、可愛いやつ、いツしまひに呼びはするが、いッかなおろそかに思ふてはゐぬコーディーリャよ、 フランスの葡萄も、バーガンディーの乳も、おのしをば夢中になって戀ひ慕ふてをる。 こりゃ、姉たちのよりも一段ゆたかな三分の一を貰ふために、おのしはどのやうなことを言ふぞ?申せ。
コーデ
(そっけなく)なンにもいふことはございません。
リヤ
なんにも?
コーデ
はい、なんにも。
リヤ
(目に角を立てゝ)なンにもないところからはなンにも生れん。改めて申せ。
コーデ
わたくしは、不仕合せなことには、むねにある事を口に出すことが出來ません。 わたしは義務相應にあなたを愛しまする、それより多くもなく、少くもなく。
リヤ
どうしたのぢゃ、コーディーリャ?いひかたを繕はんと身の爲になるまいぞよ。
コーデ
父上さま、あなたは私を生んで、育てゝ、かはゆがって下さいましたから、 そのお禮に正當な子たる者の義務だけは盡しまする。命令おほせを守りまする、愛しもし、敬ひもしまする。 ……何故に姉上がたは夫をお迎へなされましたか、眞實あなたばかりを愛しなされるなら? 恐らく、わたしは、もし婚禮すれば、貞實につかへねばならぬ夫の爲に、 愛をも心づかひをも勤めをも半分は傾けねばなるまいと存じまする。父上ばかりを愛さうと思ふたら、 わたくしは決して姉上がたのやうに結婚はいたしますまい。
リヤ
(愕き呆れて)それは本心でいふのか?
コーデ
はい、本心でございます。
リヤ
幼少でありながら、それほどまでに柔情やさしげの無い?
コーデ
幼少であっても、申すことは眞實でございます。
リヤ
(赫となって)勝手にせい。なりゃ、其眞實を持參金にしをるがよい。太陽のたふとい光りをも、 ヘケートの神祕をも、夜の闇をも、人間が生死のもとたるあらゆる天體の作用はたらきをも誓ひにかけて、 予はこゝに、父たる心づかひをも、近親たることをも、血族たることをもげ棄て、 今日より永久におのれをば勘當する。殘忍野蠻の、 おのが食慾をかす爲にうみの子をも喰ふといふ彼のシゝヤ人を友逹ともして、 憐れみいたはったはうがましぢゃわい、昨日まではむすめであったおのれをばいたはり憐れむよりは。
ケント
あゝ、もし、我が君には……
リヤ
默れ、ケント!……龍と怒りとの間に立つな。……いツ彼女あれをかはゆう思ふて、 彼女あれが深切な介抱をば末のたのみともしてをったに。……退れ、目通り叶はん! ……天の神々も照覽あれ、あいつめは子では無い、むすめで無いぞ!……フランス王を呼べ。 ……えゝ、起たんか?バーガンディーを呼べ。

一侍臣急ぎ奧へ入る。

コーンヲールとオルバニーとは、むすめ等二人の所領と共に第三の分をも分配せい。 彼奴あいつは、正直と自稱しをる其高慢をたねに結婚しをれ。 お前たち兩人に、我權力をも、最上の位をも、王座に附帶するあらゆる名譽、實力をも讓り輿へる。 わしは、月々、百人の武士を附人に控へおき、それをお前たちが扶持することにして、 一月代りにお前たちのやしきで世話になるであらう。わしは只王といふ名義、稱號だけを貰ふておく。 國家の收入、統治の實權等一切は、婿どの、悉くお前たちのものぢゃ、其證據として、 只今こゝで此王冠を分ち遣はす。

王冠を二人に渡さうとする。ケント見かねて王の前にひざまづいて

ケント
リヤ王殿下、常に我が王と崇め、我が父とも愛し、我が主君と奉じ、神に祈り奉るたび毎に我が大保護者と……
リヤ
弓ははや引絞ったわ、先を避けい。
ケント
いゝや、其箭そのや鋭尖きツさきで胸を貫かれてもかまひません。(憤然として起ち上って) リヤ王が御本心を失はせられた上は、ケントは禮儀を棄てまするぞ。

王は劍に手を掛ける。

何をなさる?國君が阿諛へつらひに屈する時には、忠臣も能う口を開かんと思し召すか? 至尊に愚昧な振舞ひがあれば、直諫は恥を知る者の義務でござる。……王權は元の通りお手許に留めおかせられい、 そして御再慮あって、決してかやうなおそろしい輕忽な振舞ひをなされますな。 末姫君は決して御不幸ではござらん、若し此判斷にして相違ひたさば、手前の一命を召されませ。 外に反響する音の低いは、内に誠情まごころが充實してゐるので、心の空虚でない證據でござる。
リヤ
默れ、ケント、命が惜しくば。
ケント
いや、此命はお身代りの御用にもと今日まで貯へました。お爲故にならば惜しみません。
リヤ
えゝ、目通り叶はん。退れ。
ケント
いゝや、退りません。從前通り手前をば目安になされて、是非黒白こくびやくのお見分をなされませ。
リヤ
やァ、アポローも照覽あれ……
ケント
やァ、アポローも照覽あれ、御誓言は無益むやくでござる。
リヤ
おゝ、おのれ!無禮者め!

王再び劍を拔きかける。オルバニーとコーンヲールとでそれを止める。

オルバ、コーン
まァ~!
ケント
良醫を殺して惡い病に報酬をおやりなされ。お宣言のお取消しをなさらんに於ては、 聲が此喉から出る限り、あくまでも間違った御所業ぢゃと申しまするぞ。
リヤ
默れ、不忠者!忠義を存ずるなら、先づよく聽け!おのれ敢て…… 予はかりそめにも敢てせざるに……君臣の盟約を破壞せんと欲するのっみか、甚しき傲慢不遜の態度を以て、 予が宣言の實行を妨げんと致しをったる事、王たる者の性として、身分として、決して忍ぶ能はざる所ぢゃ、 予が其權を執り行ふ只今に及んで、其應報そのむくいを受けい。五日だけは許し遣はす、世の不便、 災厄を避くる準備の爲に。しかしながら第六日には、必ず此國に背を向けをらう。 若し第七日となって尚ほ國内にうろつきをらば、見附け次第死刑にする。立去れ! ヂュピターも照覽あれ、此宣告いひわたしは一たび出でてはかへらんぞよ。
ケント
(愀然として)おさらばでござる。王がかやうな振舞ひをなされるからは、此國には自由は無い、 此處に留まるのは追放も同然ぢゃ。……(コーディーリャに對ひ)神々も貴女こなたをば愛憐いとほしんで、 お護りなさるゝであらう、思ふこと正しく、其言ふこと更に最も正しい娘御!…… (ゴナリルとリーガンに對ひ)孝行らしい口吻から善い結果の生ずるやう、實行によって大言の始末をなされ。 ……(皆々に向ひ)おゝ、かた~゛これで暇乞ひをいたします。 住み慣れん國に合せて爲慣れた生活くらしを續けませうわい。

ケントしを~として入る。
喇叭の聲盛んに起る。グロースター伯が先きに立ち、フランス王とバーガンディーの公爵とを案内して出る。 從者大勢ついて出る。

グロー
フランス王とバーガンディー公とが渡らせられてござります。
リヤ
(冷靜を裝って)バーガンディーどの、先づ貴下こなたに尋ねまする、 貴下こなたはそれなる王と末女おとむすめを爭ひめされたが、貴下こなたが、 若しそれだけを得る能はざれば此縁邊は止めるとある最低額の化粧料は幾何いかほどでござるの?
バーガ
大王殿下、手前はかねてお約束のあった以上を要求致しません。また、あれ以下をお遣はしではございますまい。
リヤ
バーガンディーどの、れめをかはゆう存じてをった時分にはさうもござったのぢゃが、 今は値が下りました。それ、そこに居りまする。若しあの見すぼらしい體内に存在する者が、いや、其全體そのぜんたいが、吾等の勘氣を蒙ったがために、いささかの財産も添ひませんが、それでもお氣に適ふたら、 それに居りまする、お伴れなされ。
バーガ
失禮ながら、さういふ御條件では、推選いたしかねます。
リヤ
なりゃ、お棄てなされ。神かけて、只今申したのが彼れが財産の全部でござる。……(フランス王に) 大王よ、吾等は貴下こなたの御懇請を重んじまするによって、吾等が憎う思ふ者をお娶りなされいとは申しかねる。 ぢゃによって、現在の親すらも子といふことを恥づるやうな女よりも一段もつと立派な者へ愛情をお向けなさるがよい。
フラン
さて~、竒怪なこと!つい先刻までは貴下こなたの御祕藏であり、貴下こなたが御称讚の主題でもあり、 御老體の藥膏でもあり、最善でもあり、最愛でもあった姫が、 忽ちのうちに八重九重やへこゝのへの恩惠を剥ぎ去られねばならんほどの大不埒を犯されたとは。定めし、 前々御吹聽あった愛情が健全である限りは、姫の罪は竒怪至極と申すほどの甚しいものでございませうな。 しかし姫にさやうなことがらうとは、奇蹟でもなくば、吾等の理性の能う信じませんことでござる。
コーデ
(王の前にひざまづきて)殿下にお願ひ申し上げまする、もしも……妾は、 心にもない事を滑かに言ふことが拙うございますゆゑ、……妾は心に思ふたことは、 言ふよりも先きに行はうと存じますゆゑ、……どうぞお願ひ申しあげまする、妾が御寵愛を失ふたのは、 決して不品行でも、汚はしい振舞ひでも、不貞操でも、不名譽の所業でもなく、へつらふ目附や辯舌を有たぬゆゑに御勘氣を受けたのぢゃとおっしゃって下されませ、 それらを缺いでゐるために御寵愛を失ふたけれど、自身では、それが無いのが徳の有るのぢゃと信じて、 いつそ喜んでをりまする。
リヤ
(いよ~怒って)親に怒りを起さすやうなおのれ、生れをらなんだがましぢゃわい。

コーディーリャは泣き顏になりながらも、詫びようとはしない。

フラン
只それのみで?爲やうと思ふ事をも兎角いはずしておく語少ことばすくなの持前?…… バーガンディーどの、姫に對する其許そのもとの意見は?愛もまことの愛ではない、 愛のみを主とせんせ他の條件を交ふるやうでは。姫をお迎へなさるか?其身そのまゝが化粧料といふ事ぢゃが。
バーガ
リヤ王殿下、前にお申し出しあったゞけをお添へ下されい、 手前即座にコーディーリャどのを迎へてバーガンディー公爵夫人といたしまする。
リヤ
何も遣はしません。誓ふた上は、決定けつじやうしてござる。
バーガ
(コーディーリャに)お氣の毒ながら、父御をお失ひなされたゆゑに、夫をも失ひめされた。
コーデ
(傍白)バーガンディーどの、御機嫌よろしう!……財産を目的めあての愛情であるからは、 (迎へようといはれたとて、お前の)妻にならうとは思ひませぬ。
フラン
(コーディーリャに)コーディーリャどの、貧しうて却って最も富み、棄てられて却って最もいみじく、 憎まれて却って最もいとほしいコーディーリャどの、あなたとあなたの徳操みさをとを吾等が拾ひまする。 棄てられたものを拾ふに故障はあるまい。(と手を執って)あゝ、あゝ!彼等はこれほどに冷かに取扱ひをるのに、 不思議にも我が愛情は烈火のやうに熱して燃ゆる。……殿下よ、 化粧料もない貴下こなたの令孃むすめごを偶然に拾ひまして、吾等が妻、我が國民の妃、 我がフランス國の王妃といたしまする。水くさいバーガンディー公爵が幾人いくたりあらうと、 此の知れぬ淑女を我が手から買ひ取ることは出來まい。……コーディーリャどの、 人々に暇乞ひをなされ、むごい人逹ではあるが。此處を失ふて、 貴女あなたは此處よりも更に善い處を得られたのぢゃ。
リヤ
其許そのもとに進ぜまする。御自分のになされ、吾等はそのやうなむすめは有たん。 又と其面そのつらを見まいわい。……

王は席をって起つ。

ぢゃによって、立去りをらう、父の恩愛もなしに、祝福もなしに。……さァ~、バーガンディーどの。

喇叭。フランス王と、ゴナリルとリーガンとコーディーリャとだけ殘りて、皆々入る。

フラン
姉上たちに暇乞ひをなされ。
コーデ
父上御鍾愛のあなたがたへ、涙に浸る目でコーディーリャがお別れ申しまする。 あなたがたのお氣質はよう知ってゐますけれど、妹の身としては、 世間で謂ふあなたがたの缺點を口にするに忍びません。父上に孝行をなされて下され。 口に出しておっしゃったあなたががたのお心に父上をお頼み申しまする。……けれども、 御勘氣を受けてゐなければ、もっと善いところへ頼んでゆきたい。……さやうなら、おふたりとも。
リガン
わたしたちへの務めぶりのお指揮さしづには及びません。
ゴナリ
御自分の殿御の機嫌を損ねないやうになさい、運命のお餘り程に思ふて、お前さんを拾ふてくれた殿御です。 父上に從順を怠ったお前さんです、自身が缺乏した其不徳相當の缺乏が身に報いますのよ。
コーデ
八重に包んだ虚僞いつはりが今に露見する時が來ませう。惡いことは如何どう掩ひ隱してゐても、 遂には恥辱はぢを受けねばなりません。……さやうなら!
フラン
さァ~、コーディーリャどの。

フランス王はコーディーリャを促して入る。

ゴナリ
いもうと、二人の身に密接に關係したことで、いろ~話したいことがあります。 父上は今夜にも最早もういらっしゃりさうだよ。
リガン
きッとさうです、あなたのとこへ。來月は私どもへ。
ゴナリ
知っての通り、齡のせゐでおそろしく氣まぐれにおなりなされたわね。 その證據を見たのは一度や二度ぢゃない。いつでもコーディーリャは一番のお氣に入りであったのに、 あの通り、譯の分らん理由で勘當ぢておしまひなさるんだものを。
リガン
老耄のせゐです。それでも御自身にはほとんど氣が附いてゐませんの。
ゴナリ
若い健全な頃でさへも一徹短慮な人であったのが、齡を取りますったんだから、 永い間性癖となった弱點にかてゝ加へた老耄で、怒りぽくもなって、 始末におへない我儘をなさると思はねばなりません。
リガン
わたしたちとても、のケントと同じに、いつ、どんな氣まぐれな目に逢ふか知れませんよ。
ゴナリ
フランス王が出立するので、挨拶や何かで、奧ではまだ手間が取れませう。……どうぞお前さん、 わたしと合體してやって下さい。もし父上があゝいふ氣立で威をおふるひなさるやうであると、 權力を渡して貰ったからッて、有害無益ですよ。
リガン
尚ほ善く御相談いたしませう。
ゴナリ
どうにかせにゃなりませんよ、今のうちに。

二人とも入る。

坪内逍遙(1859-1935)譯のシェークスピヤ(1564-1616)作「リヤ王」です。
底本:昭和九年十月廿五日印刷、昭和九年十一月五日發行の中央公論社、新修シェークスピヤ全集第三十卷。

【ネットでの底本】
osawa さん、投稿(更新日: 2003/02/16)
2025年9月22日 一部訂正(底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた)にてアップ。

テキストの快楽(009)その2・読書ざんまいよせい(064)

◎ グリーンブラット「暴君」ーシェイクスピアの政治学(01)


 まず、本書の問題提起から…

 一五九〇年代初頭に劇作をはじめてからそのキャリアを終えるまで、シェイクスピアは、 どうにも納得のいかないい問題に取り組んできた。
――なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうなどということがありえるのか?

 シェイクスピアの作品には、様々な「暴君」が登場するが、イギリス王朝のプランタジネット王朝やランカスター王朝などの王の歴史劇は、いずれまとめて書くが、本書での引用について、面白く感じただけに一言。「ヘンリ六世」で、王に反乱をしかけた、ジャック・ケイド(王ではないが、その素性や行動から、充分、「暴君」たるに値する人物であった。)の言葉されるセリフ
“make England great again!”(ふたたびイギリスを偉大に!)
は、調べたかぎりでは、シェイクスピアのどの戯曲にもでてこない。本の出版年に初当選した、某国のトップは、シェイクスピア(ないしジャック・ケイド)を気取ったかと思ったが、逆に、著者が現代の暴君に引きずられた、ないし「筆のすさび」なのかもしれない。某大統領が、シェイクスピアを引用するなんで、ちょっと考えられないし、それとも、その時代の僭主希望者の、それを示唆する伝承があったのだろうか?

 結論として…

リーダーに対して人はつい皮肉な見方をしてしまったり、そうしたり—ダーを信頼するお人よしの大衆に絶望しがちだったりすることをシェイクスピアは承知していた。リーダーはしばしば体面に傷があって堕落しており、群衆はしばしば愚かで、感謝を知らず、デマゴーグに翻弄されやすく、実際の利益がどこにあるのか理解するのが遅い。最も卑しい連中の最も残酷な動機が勝利を収めるように思える時代もある(時に長く続くかもしれない)。しかし、シェイクスピアは、暴君とその手下どもは、結局は倒れると信じている。自分自身の邪悪さゆえに挫折するし、抑圧されても決して消えはしない人々の人間的精神によって倒されるのだ。皆がまともさを回復する最良のチャンスは、普通の市民の政治活動にあると、シェイクスピアは考える。暴君を支持するように叫べと強要されてもじっと黙っている人々や、囚人に拷問を加える邪悪な主人を止めようとする召し使い、経済的な正義を求める餓えた市民をシェイクスピアは見逃さない。
「人民がいなくて、何が街だ?」

 十分納得されるソリューション(解決法)である。

なお、本書に関連し、坪内逍遥訳「リア王」「マクベス」「ジュリアス・シーザー」などを投稿予定である。

参考
Wikipedia から
ヘンリー6世_(イングランド王)
シェイクスピア「ヘンリー六世 第2部」
ジャック・ケイド

テキストの快楽(009)その1

◎ ツルゲーネフ作 神西清訳「散文詩」(01)


 岩波文庫には、神西清と池田健太郎訳の「散文詩」が収められています。このうち神西清訳の部分だけを収録します。神西清が、1933年・29歳のとき、初版「散文詩」を出版、晩年にうち11編を改訳されたものです。池田健太郎氏の注は、適時、「引用」しました。

   い な か

夏は七月*、おわりの日。身をめぐる千里、ロシアの国――生みの里。
空はながす、いちめんの青。雲がひときれ、うかぶともなく、消えるともなく。風はなく、汗ばむ心地。大気は、しぼりたての乳さながら!
雲雀ひばりはさえずり、鳩は胸をはってククとなき、燕は音もなく、つばさをかえす。馬は鼻をならして飼葉をはみ、犬はほえもせず、尾をふりながら立っている。
草いきれ、煙のにおい、――こころもちタールのにおい、ほんのすこしかわのにおいも。大麻たいまはもう今がさかりで、重たい、しかし快い香りをはなつ。
深く入りこんだ、なだらかな谷あい。両がわには、根もとの裂けた頭でっかちの柳が、なん列もならんでいる。谷あいを小川がながれ、その底にはさざれ石が、澄んださざなみごしに、ふるえている。はるかかなた、天と地の尽きるあたり、青々と一すじの大川。
谷にそって、その片がわには、小ぎれいな納屋なやや、戸をしめきった小屋がならび、別の片がわには、松丸太を組んだ板ぶきの農家が五つ六つ。どの屋根にも、むく鳥の巣箱のついた高いさお。どの家も入口のうえに、切金きりがね細工の小馬の棟かざりが、たてがみをびんと立てている。でこぽこの窓ガラスは、七色なないろに照りかえる。よろい戸には、花をさした花瓶の絵が、塗りたくってある。どの農家の前にも、きちんとしたべンチが一つ、行儀よくおいてある。風をふせぐ土手のうえには、小猫がまりのように丸まって、日にける耳を立てている。たかい敷居のなかは、涼しそうに影った土間どま
わたしは谷のいちぱんはずれに、ふわりと馬衣をしいて寝そべっている。ぐるりいちめん、刈りとったばかりの、気疲れするほど香りのたかい^草の山また山。さすがに目のく農家の主人たちは、乾草を家のまえにまき散らした。――もうすこし天日にほしてから、納屋へしまうとしよう。その上で寝たら、さぞいい寝心地だろうて!
子どものちぢれ毛あたまが、どの乾草の山からも、のぞいている。とさかを立てたにわとりは、乾草をかきわけて、小ばえや、かぶと虫をあさり、鼻づらの白い小犬は、もつれた草のなかでじゃれている。
ちぢれた亜麻いろ髪をした若昔たちは、さっぱりしたルバシ力に、帯を低めにしめ、ふちどりのある重そうな長靴をはいて、馬をはずした荷車に胸でよりかかりながら、へらず口をたたきあっては、歯をむいて笑う。
近くの窓から、丸顔の若い女がそとをのぞいて、若者たちの高ばなしにとも、乾草やまのなかの子供たちにともっかず、声をたてて笑う。
もうひとりの若い女は、たくましい両腕で、ぬれそぼった大つるべを、井戸から引っぱりあげている。……つるべは、綱のさきでふるえ、揺れ、きらめく長いしずくを、はふり落す。
わたしの前には、年とった農家の主婦が立っている。格子じまの、ま新しい毛織りのスカー卜に、おろしたての百姓靴をはいている。
大粒の、がらんどうのガラス玉を、あさ黒いやせた首に三重みえにまきつけ、白毛しらがあたまは、赤い水玉を散らした黄いろいブラトークで包んでいる。そのプラトークは、光のうせた目のうえまで垂れかかる。
が、老いしぼんだ目は、愛想よくほほえんでいる。しわだらけの顔も、みくずれている。
そろそろ七十に手のとどきそうなばあさんなのに若いころはさぞ美人だったろうと、しのばせるものがある!
右の手の日にやけた指をひろげて、ばあさんは、穴倉から出してきたばかりの、上皮もそのままの冷めたい牛乳のつぼをにぎっている。壺のはだいちめん、ガラス玉のように露をむすんでいる。左の手のひらに、ばあさんは、まだほかほかのパンの大きなひときれをのせて、わたしにすすめる。――「あがりなさいませ、これも身の養いですで。旅のだんな!」
おんどりが、いきなり高い声をあげて、ばたぱたと羽ばたきした。それにこたえて、小屋のなかの小牛が、もうと気ながにないた。
「やあ、すばらしいカラス麦だぞ!」と、わたしの馭者ぎょしゃの声がする。
ああ、気ままなロシアのいなかの、満足と、安らかさ、ありあまる豊かさよ!その静けさ、その恵みよ!
思えば、帝京ツアリ・グラードの聖ソフィヤ寺院のドームの上の十字架**をはじめ、われわれ都会の人間があくせくすることすべて、なんの役に立つというのだろうか?
                  II.1878

【注】
* 異本に「六月」
** クリミア戦争など「東方問題」に対する世人への風刺

テキストの快楽(008)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(06)


     

 ドゥブローヴィノで馬車が備へた。それで前進する。トムスクまであと四十五露里といふ所で、 今度はトム河が氾濫して牧地も道も水浸しだから、先へは行けないと言ふ。また舟で渡らなければならない。そこでも、クラースヌィ・ヤール のときと同じ目に逢った。舟は向ふ岸へ行ってゐるが、 かう風が强く波が高くては、とても戾っては來られない。……仕方がない、待たう。
 朝になると雪が降りだして、二寸以上も積った(それが五月十四日である)。ひる頃からは雨になって、すっかり雪を洗ひ流した。夕方、太陽が沈むころ岸に出て、こちらの岸へ漕ぎ渡って來る舟が水流と鬪ふ有樣を眺めてゐると、霙まじりの雨に變った。……そのとき、雪や寒氣とまるで合はない現象が起った。私ははつきりと雷鳴を聞いたのである。敝者たちは十字を切って、これで暖かになるといふ。
 舟は大きい。先づ八九十貫からの郵便物を積み、 それから私の荷物を積んで、濡れた筵ですっかり覆ふ。……郵便夫は背の高い老人で、梱の上に腰をかける。私は自分のトランクに腰をおろす。私の足もとには、雀斑だらけの小さな兵隊が席を占める。外套は搾るばかり、 軍帽から襟頸へ水が流れる。
 「神よ、祝福あれ。さあ綱を解け!」
 柳の叢林のほとりを流れに沿うて下る。今しがた十分ほど前に馬が二頭溺れ、荷車の上にゐた男の子だけは柳の藪につかまつてやっと助かった、と橈子たちが話してゐる。
 「漕げ、漕げ、みんな話はあとでも出來るぞお」と、舵取がいふ 、「頑張れよう。」
 川を掠めて、雷雨の前によくある早風はやてが颯々と吹く。……裸かの柳が水面に糜いてざわめく、忽ち川は暗くなり、不規則な波が立ちはじめた。……
 「みんな、藪の中へ向けろよう。風さやり過すだ」と楫取が靜かに言ふ。
 舳は柳の藪の方を向いた。が橈子の一人がそのとき、荒れ模樣になると夜通し藪の中にゐなければならなくなる、それでも矢張り溺れるのは同じことだから、先へ進まうぢやないかと言ひ出した。多數決できめることになって、 やはり先へ進むことにする。……川はますます暗くなる。烈しい風と雨が橫なぐりに吹きつナる。岸はまだまだ遠く、萬ーの場合には縋りつける筈の柳の藪は、後へ遠ざかつて行く ……長い生涯に色んな目に逢つて來た郵便夫は、默り込んで、凍りついたやうに身動きもしない。橈子たちも默ってゐる。……小さな兵隊の頸筋が、 見る見る紫色に變る。私の胸は重くなる。もし舟が顚覆したらと、 そればかり考へる。……先づ第ーに半外套を脫がう。それから上衣を、それから……。
 だが、岸が次第に近くなつて、橈子にも元氣が出てきた。沈んだ胸も次第に輕くなる。岸まであと三間半の上はないと分ると、 急にはればれして、もうこんな事を考へる。
 「さてさて臆病者は有難いものだ。ほんのちょつぴりした事で、これほど陽氣になれる。」

[注記]底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。

テキストの快楽(007)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(05)


     

 何といふ氾濫だらう!コルイヴァニでは驛馬車が出ないと斷られた。オビ河畔の牧地が水浸しでとても行けないといふ。郵便までが差止めてあつて、特別の指圖を仰いでゐる所だといふ。
 驛の書記は、 私に次のやうな道を取れと勸めて吳れた。自前の馭者を傭って先づヴィユンとか云ふ所へ行く。それからクラースヌイ・ヤールへ行く。クラースヌイ・ヤールで小舟に乘って十二露里行くと、ドナブローヴィノに出る。そこなら驛馬車が出る筈だといふ。で、敎へられた通りにする。先づヴィユンへ行き、それからクラースヌイ・ヤールへ出る。……そこでアンドレイといふ百姓の家に連れて行かれる。彼は舟を持ってゐるのだ。
 「はあ舟かね、舟はあるでさ」とアンドレイが言ふ。彼は亜麻色の鬚を生やした、五十歲ほどの瘦せた百姓である。――「舟はあるでさ。今朝がた早く、議員さんとこの祕書の人をドゥブローヴィノへ乘せて行きましたが、追っつけ戾りましよ。ま、待つ間に茶なりと召上れ。」
 お茶を飲んで、 それから羽根蒲圍と枕の山に攀ぢ登る。……目が覺めるたびに舟のことを訊く。――まだ歸って來ない。寒くないやうにと、女房たちが座敷の煖爐を焚いて、序でに皆でパンを焼く。座敷の中が暑いほどになり、パンはすっかり燒け上ったが、舟はまだ歸らない。
 「とんだ野郎に漕がせてやりましただ」と,主が頭を振り振り歎息する、「まるで女みたいに愚圖な奴で、 風が怖くて船が出せんと見えます。まあ御覽なされ、吹くこともえらう吹きますわい。もう一杯茶なりと上りなされ。さぞ退屈でがせう。……」
 ぼろぼろの羅紗外套を着た跣足の馬鹿が一人、雨にぐしょ濡れになって、 薪や水桶を入口の檐下に引摺り込んでゐる。彼はひっきりなしに座敷の私の方を盜み見する。櫛を入れたこともなささうなもぢやもぢやの頭を覗かせて、何か早口に言ふかと思ふと、犢のやうにもうと唸ってまた隱れる。そのびしょ濡れの顔や瞬かぬ眼を眺め、 その聲を聞いてゐると、自分までが間もなく何か馬鹿なことでも言ひ出しさうな氣がする。
 晝過ぎになると亭主のところへ、とても背の高いひどく肥った百姓がやつて來た。幅のひろい頸筋はまるで牡牛のやうで、大きな握り拳をしてゐる。どうやら脂肪ぶとりのロシヤの酒場男に似てゐる。ピヨ —トル・ペトローヴィチと呼ばれるこの男は隣村の住人で、弟と一緒に五十頭の馬を持ってゐる。自前の馭者をしたり、宿場の卜ロイ力を請負ったり、百姓をしたり、家击の賣買をしたりしてゐるが、今日は商用でコルィヴァ二まで行くのだといふ。
 「旦那は,ロシヤからですか」と彼が私にきく。
 「左樣。」
 「一ぺんも行ったことがないでさ。この邊ぢやトムスクへ行つて來ただけでも、まるで世界じゆう廻って來でもしたやうな顏をしてゐまさ。新聞で見ると、 もうぢき此處まで鐵道が敷るそうですが。旦那、そりやー體どういふ工合のものですかね 機械が蒸氣で動く――ここまではよく分ります。たが、 假にまあ村を通ることになつたとすると、百姓家を壊したり人間を壓し潰したりはしませんかね。
 で說明してやると、謹聽しながら時々「へえ、そんなもんですか」といふ。話してゐるうちに、この脂肪ぶとりの男はトムスク へもイルクーツクへもイルビートへも行ったことがあり、女房持ちではなく、獨學で讀み書きを覺えたことが分った。トムスクへしか行ったことのない亭主に對しては一種鷹揚に構くて、厭々なかん聽いてやるのだといった風を見せる。何かお撮みなさいとか、ひとつ如何ですなどといはれると、「いやお構ひなく」と慇懃に答へる。
 亭主と客がお茶の卓に坐る。この家の嫁と見える若い女方が、お茶を盆にのせて出し恭ゝしくお辭儀をする。二人は茶碗を取って默つて飲む。傍の暖爐のほとりにサモヴァルが沸ってゐる。私はまた羽根蒲團と枕の山に攀ぢ登り、横になって本を讀む。それから下に降りて書く。長い長い時が過ぎる。が若い女房は相變らすお辭儀をして、 亭主と客は相變らずお茶を飮んでゐる。
 「ベ、バア」と、表の檐下で馬鹿が叫ぶ’。「 メ、マア!」
 だが舟は歸らない。外は暗くなり、座敷には牛蠟がともされる。ヒョートル・ペ眺め、 その聲を聞いてゐると、自分までが間もなく何か馬鹿なことでも言ひ出しさうな氣がする。
 晝過ぎになると亭主のところへ、とても背の高いひどく肥った百姓がやつて來た。幅のひろい頸筋はまるで牡牛のやうで、大きな握り拳をしてゐる。どうやら脂肪ぶとりのロシヤの酒場男に似てゐる。ピヨ —トル・ペトローヴィチと呼ばれるこの男は隣村の住人で、弟と一緒に五十頭の馬を持ってゐる。自前の馭者をしたり、宿場の卜ロイ力を請負ったり、百姓をしたり、家击の賣買をしたりしてゐるが、今日は商用でコルィヴァ二まで行くのだといふ。
 「旦那は,ロシヤからですか」と彼が私にきく。
 「左樣。」
 「一ぺんも行ったことがないでさ。この邊ぢやトムスクへ行つて來ただけでも、まるで世界じゆう廻って來でもしたやうな顏をしてゐまさ。新聞で見ると、 もうぢき此處まで鐵道が敷るそうですが。旦那、そりやー體どういふ工合のものですかね 機械が蒸氣で動く――ここまではよく分ります。たが、 假にまあ村を通ることになつたとすると、百姓家を壊したり人間を壓し潰したりはしませんかね。
 で說明してやると、謹聽しながら時々「へえ、そんなもんですか」といふ。話してゐるうちに、この脂肪ぶとりの男はトムスク へもイルクーツクへもイルビートへも行ったことがあり、女房持ちではなく、獨學で讀み書きを覺えたことが分った。トムスクへしか行ったことのない亭主に對しては一種鷹揚に構くて、厭々なかん聽いてやるのだといった風を見せる。何かお撮みなさいとか、ひとつ如何ですなどといはれると、「いやお構ひなく」と慇懃に答へる。
 亭主と客がお茶の卓に坐る。この家の嫁と見える若い女方が、お茶を盆にのせて出し恭ゝしくお辭儀をする。二人は茶碗を取って默つて飲む。傍の暖爐のほとりにサモヴァルが沸ってゐる。私はまた羽根蒲團と枕の山に攀ぢ登り、横になって本を讀む。それから下に降りて書く。長い長い時が過ぎる。が若い女房は相變らすお辭儀をして、 亭主と客は相變らずお茶を飮んでゐる。
 「ベ、バア」と、表の檐下で馬鹿が叫ぶ’。「 メ、マア!」
 だが舟は歸らない。外は暗くなり、座敷には牛蠟がともされる。ヒョートル・ペトロー ヴィチは、私が何用で何處へ行くのか、 戰爭は本當にあるのか、私のピストルは幾らするのかなどとしきりに訊いてゐたが、流石の彼ももう喋り疲れたらしい。
 默って食卓に頰杖をついて、何やら考へ込んでしまつた。蠟燭が燃えくづれてしんになつた。扉が音もなく開いて、馬鹿がはいって來て横に腰かけた。腕は肩まで裸かになってゐる。瘠せ細って、まるでステッキみたいな腕だ。腰をおろして蠟燭にじっと見入つた。
 「出てけ、出て行けつたら」と亭主が言ふ。
 「メ、マア」と彼は唸ると、腰を跼めて-表へ出て行った、「ベ、バア。」
 雨が窓硝子を打ってゐる。……亭主と容は鴨のス—ブを食べはじめた。二人とも食べたくはないのだが、 退屈凌ぎに食べてゐる。……それが濟むと若い女房か羽根蒲團や枕をゆかに敷く。亭主と客が着物をぬいで、並んで橫になる。
 何といふ退屈さだらう。氣を粉らさうと、 生れ故鄕のことを考へて見る。そこはもう春だ、冷たい雨が窓を打ちはらない。だがそのとき、灰色の沈滯した無為の生活が、意地惡く思ひ出されて來る。あすこでも矢張り蠟燭は崩れてしんになり、 人々が矢張,「メ、マア。ベ、バア……」と叫んでゐるやうに思はれる。引返す氣はしない。
 毛皮の半外套を自分で床に敷き、 橫になって枕許に蠟燭を立てる。ヒョ—トル・ペトローヴィチが首をもたげ.て、私の方を見てゐる。
 「旦那、私はかう思ふんですがね……」と彼は亭主に聞えぬやうに小聲でいふ、「シベリヤの人間は無學で不運な奴ら・たとね。半外套だの捺染更紗だの瀬戸’物だの釘だのと、ロシヤからはどんどん送って來るんですがね、奴等と來たらまるで能なしなんです。地面を耕すことと、自前馭者でもするほかには、 何一つしやしません。……魚ひとつ漁れないんですからね。退屈な人間どもですよ。まったく堪らないほど退屈な奴等でさ。奴等と一緖に暮らしてゐると、 際限なく、 肥って來ます。魂や智慧の足しになるものと來たら、 これつぱかりもありませんや 憐れ憫然たる次第ですよ。それでゐて一人一人を見るとみんな相當な人間で、氣立は柔しいし、盜みをするではなし、喧嘩を吹掛けるぢやなし、大して酒飮みでもありません。人間ぢやなくて、まあきんみたいな連中です。ところが見てゐると、世の中のためには何ひとっせず、 一文の値打もないくたばりやうをするんです。まるで蠅か、 さもなけりや蚊みたいなもので。一體何のために生きゐるのかつて、 ためしに訊いて御覽なさい。」
 「働いて食べて着てさへゐれば」と私が言ふ、「その上に何が要るかね。」
 「やっぱり人間てものは、どういふ必耍があって生きてるか知ってゐなけりなりますまい。ロシヤの人間はきっと知ってゐるでせう。」
 「いいや、知らずにゐる。」
 「そんな筈はない」と、ピョートル・ペトローヴィチは少し考へてから言った、「人間は馬ぢやありません。ざっと申せば、このシベリヤの土地には、『道』といふものがないのです。よしんば何かそんなものがあつたにしても、とうの昔に凍つてしまったのです。人間といふのは、 二の『道』を求めなければならないのです。私は金も勢力もある百姓です。評議員にも押しが利きます。ここにゐる亭を明日にも酷い目に逢はせることだつて出來ます。この男を私のところで牢死させ、 子供たちに乞食をさせることだつて出來ます。さうしたところで私には何の咎めもなくこの男こは可の保護も與へられますまい。つまり、『道』も知らずに生きてゐるからです。……私らが人間だといふことは 、お寺の出生簿に書いてあるだけです。ピョ—トルだ、 アンドレイだといって、その實は狼なんです。それとも神樣の眼から見たら。これは笑ひ事ではありません。 怖ろしい事です。ところがこの亭主は横になつて、額に三度十字を切ると、それでもういい氣でゐます。 甘い汁を吸って、小金を蓄め込んで、ひよつとしたらもう八百ぐらゐは蓄まってゐるでせうが、 まだ齷齪と新しい馬を買ひ足して、ー體それが何になるのか自分の心に訊いて見たことが一度だつてあるでせうか。あの世へ持つて行けはしませんからね。いや、よしんばそんな疑問を起して見たにしても、とても分るものですか。頭が空っぽなんで。」
 ピョートル・ペトローヴィチは長いこと喋つてゐた。……だがそれもやつと濟んだ もう白々と明けかけて、鷄の鳴く聲がする。
 「メ、マア」と馬鹿が唸る、「ベ、バア。」
 だが舟はまだ歸らない。

テキストの快楽(007)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(002)

     ー 私たちの国には唯物論者がいたか

 日本には唯物論者がいたかどうか? いったい、日本には唯物論という思想の休系があったのかどうか? まずこの問いにこたえることから、この本をかきはじめたいと思う。
 ずばり言ってしまうなら、私たちの国には唯物論者はいなかった、日本には唯物論の体系といっていいような思想の体系はなかった、そう言えるのである。
 さて、このようにいってしまうと、ここに誰にとってもいろいろの疑間がむらがりおこるだろう。それらの疑問のうちでは、おそらくつぎの疑問がまず投げ出されることだろうし私たちの国には唯物論君はひとりもいなかったかと。ひとびとはさらにこうきくであろう。明治時代に中江兆民や幸徳秋水がいたではないか、大正・昭和の時代に河上肇や野呂栄太郎のような人がいたではないか。さらに、戸坂潤や永田広志のような人がいたではないか。人はきっとそうきくことであろう。そう、これらのひとびとは唯物論者と呼ばれているのである。そういえば江戸時代だっていないことはない。あんなに封建思想が強固で、ものを自巾に考えるすきさえもなかった時代に、かまだ・りゅうおう(鎌田柳泓)のような人がいて、人間が考えることは頭の中にある一種変った肉のしわざだというところまで主張したこともあるのだから、唯物論者はいなかったといってしまうと、とうぜん疑問がおこってくることだろう。だが、それにしても、私たちの国には唯物論者はいなかったという、さきの私の断定を私は改めないほうがよいと思う。もちろん、右にあげたようなひとびとをとらえて観念論者である(もっとも柳泓はここでしばらくあずかっておくけれども)とは、誰だって言いはしないし、私もそう考える何らの理由も持たない。それなら、右のひとびとは唯物論者であるか?問題はここからである。
 ことに明治・大正・昭和の時代のなかからあげられた右のひとびとが、唯物論者であると呼ばれるのは、社会主義者であったがために唯物論者だとせられがちなのであり、共産主義者であったがためにそうされていることが多いのである。必ずしもそこにまちがいがあるわけではない。しかし、社会主義者であること、共産主義者であることが、唯物論者たることをきめるたったひとつの基準なのではない。私たちはこのことを考えておきたい。ロシアには、十九世紀の施半にすでに社会主義者がいくらも出ていたが、その人たちがことごとく唯物論者であったのではなかった。フランスには十八世紀に、すでに幾人かの、はっきりした唯物論者かいたが、その人たちは社会主ス者であったから唯物論者であったのではない。今日でも、ことごとく現実に共産主義者であるとみずから考えている人が、あらゆる意味において唯物論者であると決定することはできない。
 唯物論には、それが唯物論であることの思想的な、世界観的な、いわば確乎たる特質があるのでなくてはならない。唯物論者はそうした世界観のシステムにつながっているのである。あたかも、めんめんとつらなる電送の太い線に結びついている碍子がいしのように、その電線に結びついている限りにおいて、個々の碍子は電流を確実につたえるものの一つなのである。今日でも、個々の唯物論者は、或る政治的組織に入ったから、そのとき唯物論者になったのではなくて、その政治的組織のなかにある世界観的な唯物論の太い線に結びついたから、「唯物論者」なのである。
 ヨーロッパでは、この線は小さいながら、古代ギリシアからはじまって、ぜんじ大きくなり、近代にいたっているのである。マルクス、エンゲルスは、この太い線をイデオロギーの歴史の発度のなかから見出した人たちなのである。マルクス、エンゲルスによってはじめてこの世界観の太い線が張られたのではなくて、これらのひとびとは、この線の現実的意味をはじめてみつけだし、これを深化し、強化したのである。
 この思想的な世界観的な線が、私たちの国にあったか、それともなかったか。もしあったとするならば、どういうあり方であったか、これが私たちの問題である。
 それは日本本にはなかったといいきれる。いや、日本のみでなく、もっとくわしくいうと、老荘的な、仏教的な、儒教的な思想、ことに仏教的な思想から深い影響をうけとっている東洋のすべての諸民族のなかには、あの太い世界観の線は通っていなかったのであるということができる。じつにこの意味において、私は私たちの国には唯物論はなかったというのであり、唯物論者はいなかったと主張するのである。唯物論者のあるなしについて、きびしくいえば、いちおう以上のようにいうことができる。
 もちろん今日となればちがうだろう。唯物論という思想システムの線は、ヨー ロッパの近代世界観が日本へ移植されるとともに、ことに政治的イデオロギーの移入とともに、近代日本に移されている。それがゆえにこそ、中江兆民や幸徳秋水が、とにかくに唯物論者であるといわれ、河上肇や野呂栄太郎が、戸坂潤や永田広志が弁証法的な唯物論者であったということができるのである。私たちにとって問題なのは、これらの人たちが、あの唯物論という世界観の太い線が全くなかった国のなかに住み、そうした国の言語をもちい、そうした国の庶民の生活の仕方にならい、この国の習俗のなかにひたり、その思想(河上ならば河上、戸坂ならば戸坂の思想)の他人への影響力を狭い範囲の或る日本人の間にのみもっていたことなのである。
 こうしたことが、考慮されないままで、すべて社会主義、マルクス主義に属していれば、なべてみな雎物論者であると言ってしまうことは、論を正しくすすめることにはならない。右にあげた中江兆民以下のひとびとが、その中でしばられて活動したあの社会的な諸条件のうちでも、その人の思想の他のひとびとへの影響力がいつまでも一定範囲にとどまりがちであったことは、唯物論者の存在にとって、重大な問題であると思うのである。私がかくいうのは、さきにあげた人々を唯物論者と呼びがたいとか、ほんとうの唯物論者と呼びたくないとか、そうしたことを言わんとしているためではないのである。むしろその反対なのである。これらの人たちは、唯物論の伝統の少しもなかったこの国において、多くの唯物論反対者にとりまかれて、いやそれどころか、じつに、ことごとくが観念論的な習俗のなかにあって、新しい世界観をかちとったことが、かえって、私たちにとつて切実に思われるのである。
 それにしても、はじめから、日本には唯物論があった、わが国には唯物論者がいたと、.女易にきめて、私たちの問題(日本における唯物論のあり方という問題)を、おしすすめることはできないのである。だから私は、はっきりと、私たちの国には過去において唯物論の思想体系はなかった、したがって唯物論者はいなかった、すくなくとも、いることが困難であったと、まず提言したいのである。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

テキストの快楽(006)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(04)


 身を切るやうな寒い風が吹き出した。たうとう雨になって 、それが夜晝ぶつ通しに降りつづく。イルトィシ河までもう十八露里の所で、例の自前馭者から私を引繼いだフョードル・ハーヴロヴィチといふ百姓が、 これより先へは行けないと言ひ出した。豪雨のためイルトィシ河畔の牧地が、すっかり水浸しなのだといふ。昨日プストィンスコ工村からやって來たクジマも危く馬を溺れさせるところだった、待たなきゃならねえ。
 「何時まで待つのかね」と私が訊く。
 「そいつあ分らねえ。神樣にでも尋ねなされ。」
 百姓小屋へはいる。座敷には赤い上シャッを着た老人が坐ってゐて、苦しげに息をついては咳をする。ドーフル氏散をやると大分鎭まった。しかし彼は藥を信用しない。樂になったのは「辛抱してじっとしてゐた」お蔭だといふ。
 坐り込んで考へる。今夜はここに泊ったものかしら。だがこの老人は夜通し咳をするだらうし、恐らく南京蟲もゐるだらう。それに明日になったら、益ゝ水嵩が增さぬものでもあるまい。いやこれは、いっそ出發した方が利口だ。
 「やっぱり出掛けるとしよう、フヨードル・パーヴロヴィチ」と私は亭主に言ふ、「とても待つちやゐられないからな。」
 「そりゃ旦那の宣しいやうに」と彼は大人しく應じる、「水ん中で泊ることにならにゃいいが。」
 で、出發する。雨はただの降りやうではない。所謂土砂降りである。私の乘つてゐる旅行馬車には屋根がない。はじめの八露里ほどは泥濘の道を、それでもだくを踏ませて行つた。
 「こりやまあ、えらい天氣だ」と、フョードル・ハーヴロヴィチが言ふ、「本當をいふと長いこと河へは行って見ねえで、水出もどんなだか知らずにゐましただ。そこへもって來てクジマの奴が、ひどく威すもんで。いや何とか行き通せねえでもなささうだ。」
 だがそのとき、 一面の大きな湖が眼の前にひろがる。それは水につかつた牧地だ。風がその上をさまよひ嘆き、 大きなうねりを立てる。そこここに小島や、 まだ水に浸らぬ地面の帶が頭を出してゐる。道の方角は橋や沼地に渡した粗朶道でわづかに知られるが、それも皆ふやけて脹れ返り大抵は元の場所からずれてゐる。湖の遙か彼方には、 褐色の見るからに暗澹たるイルトィシの岸が連なり、 そのうへに灰色の雨雲が重く垂れてゐる。岸のところどころに斑ら雪が白い。
 湖にさしかかる。大して深くはなく、車輪も水に浸ること凡そ六寸に過ぎない。橋さへなかったら割合に樂に行けたかと思はれる。橋の手前では必らず馬車を降りて、 泥濘か水の中に立たされる。橋を渡るには、先づその上に打上げられてゐる板や木片を集めて、浮き上った端の下にはなければならぬ。馬は一匹づつ離して渡らせる。フョードル、ハーヴロヴィチが馬をはづす役で、 はづした馬をしっかり抑へてゐるのが私の役目である。冷たい泥だらけの手綱を握ってゐると、强情な馬が後戻りをしたがる。着物は風に剥がれさうだし、雨は痛いほどに顏を打つ。仕方がない、引返すか。――だがフョードル・パーヴロヴィチは默って何も言はない。私の方から言ひ出すのを待ってゐるらしい。私も默ってゐる。
 强襲で第一の術を陷れる それから第二の橋、第三の橋と。……ある所では泥濘に足をとられてすんでのことで轉ぶところだった。またある場所では馬が强情を張って動かなくなり、頭上を舞ふ野鴨や剛がそれを見て笑った。フョードル・ハーヴヴィチの顔附や、その悠々として迫らぬ動作や、また落着き拂った沈默振りから推すと、こんな目に逢ふのは初めてではないらしい。それどころかもっと酷い目に逢ふのも珍しいことではないらしく、出口のない泥濘や水浸しの道や冷たい雨などは、夙の昔に平氣になってゐると見える。彼の生活も並大抵ではないのだ。
 やっと小島に辿りつく。そこに屋根無しの小屋がある。びしょ濡れの糞の傍を、びしょ濡れの馬が二匹步いてゐる。フョードル・パーヴ口ヴィチの呼聲に應じて、小屋の中から鬚もぢやの百姓が手に枯枝を持って現はれ、道案內に立って吳れる。この男が枯枝で深い場所や地面を測りながら、默って先に立って行くあとから、私達もついて行く。彼が私達を導くのは、細長い地面の帶の上である。つまり、所謂「山背」づたひに行くのである。この山背を行きなされ。それが盡きたら左に折れそれから右に折れると、別の山背に出ます。これはずっと渡船場まで續いてゐますぢや、と言ふ。
 あたりにタ闇が迫って來る。野鴨も鷗も居なくなつた。鬚もぢやの百姓も、私達に道を敎へて置いて、 もうとうに歸ってしまった。第一の山背が尽き、また水の中に揉まれなから左に折れ、それから右に折れる。するとなるほど第二の山背に出る。これは河の岸まで續いてゐる。
 イルトィシは大きな河だ。もしエルマク*が氾濫のときこの河を渡ったのだったら、鏈帷子くさりかたびらは着てゐないでも溺れ死んだに違ひない。對岸は高い斷崖をなして、まるで不毛である。その向ふに谷が見える。フョードル・パーヴロヴィチの話では、私の目的地であるブストィンノエ村*に出る道は、この谷聞に泻って山を越えるのだといふ。こちらの岸はなだらかな斜面で、水面を拔くこと二尺あまりに過ぎない。やはり秃山で、風爾に曝されたその姿は見るからにせり辷りさうだ。濁った波のうねりが白い齒を剝き出して、さも憎らしげに捧を打つては直ぐ後へ退く。その有様は、打見たところ蟾蜍ひきがへるか大罪人の怨靈ぐらゐしか住むとも思はれぬこの醜いつるつるの岸に觸るのも汚らはしいといつた風である。イルトィシの河音はざわめくのではない。また吼えるのでもない。その底に沈んだ棺桶を、片端から叩いて行くやうな音を立てる。咒はれた印象だ。
 渡守の小屋へ乘りつける。小屋から出て來た一人が言ふ。――この荒れ模様ぢやとても渡れませんや。まあ明日の朝まで待ちなされ。
 で.そこに泊ることになる。夜通し私は聞く――船頭たちや馭者の鼾を、 窓をうつ雨の音を、風の唸りを、それから怒ったイルトィシが、 棺桶を叩いてゐる音を。……翌る朝早く岸に出る。雨は相變らず降ってゐるが、風は稍ゝ收まった。けれど渡船ではとても渡れない。少さな舟で渡ることになる。
 ここの渡船の仕事は、自作農の組合の手で營んでゐる。從って船頭の中には一人の流刑囚もなく、皆この土地の人間である。親切な善良な人間ばかりだつた。向ふ岸に渡って、馬の待ってゐる道へ出ようとつるつる辷る丘を攀ぢ登って一行く私の後から、彼等は口々に道中の無事と、健康と、それから成功とを祈って哭れた。……が、イルトィシは怒ってゐる。……

[注]
*エルマク ドン・コサックの首長。十六世紀後半寡兵を以てウラルを越えシベリヤに侵入して、イルトィシ河までの範圖を確立した。
*ストィンノエ村 「不毛の村」の義。

テキストの快楽(006)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(001)

          ま え が き

 日本人は、外国人から唯物主義だといわれたり、理想アイディアというものがわからない国民だと批評されたりした。その一例をいえば、チェンバレンやデニングなどであるが、日本人の性質のうちにはそう批評される点のあることは否定できない。さて、そうでありながら他方において、日本には唯物論の哲学といわれるほどのものはないといわれている。こうなってくると、まことに割りの合わない話である。
 ほんとうのところ、日本人は唯物論という思想はもたなかったのか。そういう思想組織がもてるようには、日本の思想丈化の成り立ちができていなかったのか。それとも、別の在り方をして、唯物論思想をもっていたのか。もしもっていたのなら、その思想はどういう形応でできていたのか。こうした問題はこれまで少しも明らかにされなかった。
 さて、それが明らかにされるには、何が唯物論かという問いが改めて投げ出されねばならないであろう。なぜなら、日本に唯物論があったにしても、ヨーロッパにおける在り方とはちがっているにちがいないから。いずれにしても、唯物論の概念が明瞭でなくては、問題は前へすすまない。
 いったい、マテリアリズムとは何をさすのであるか。
 心かそれとも物か、意識かそれとも物質か、こうした問いを押しつめていったら、マテリアリズムは、はっきりとわかるのであろうか。いよいよのところは精神しかないのだという見解、いや、けっきよくは物質しかないのだという見解、この二つが、昔と変らないまま、今日る繰りかえされている。
 私の考えでは、二つの見解のうちの前者は、頭のなかで<考え 傍点>をととのえ、紙のうえに文章をかき、人にものを教えることだけを仕事にしている人たちの場合において、真理とおもえるのであり、後者は、物を作ること、生産にいそしむことをしている人たち、および、それらの人たちの生活に共感できる人たちにとって、真理であり得る。私にはそのように思われる。
 してみると、双方の主張者のこうした論議だけでは、観念論が真理なのか唯物論が真理なのか、きまらない。唯物論と観念論の是非は、あのような、ただひとつのディメンションではきまらないのではあるまいか。物質の概念の究明のほとんどなかった過去の日本人の場合では、ことにそうなのではあるまいか。
 しかし、唯物論といわれる世界観が、どういうひとびとによって支持されているかがわかれば、そこから逆に、何が唯物論かが、かえって明らかになるのではあるまいか。
 観念論とは、その社会が泥沼のようであろうと風波さえたたねばよいと現状を甘受し、享有している人たちの世界観であるのではなかろうか。唯物論とは、それとは逆で、現状に決定的に疯議し、人間生活の在り方を、ほんらいのものにかえそうとする人たちの世界観ではあるまいか。
おまえは神の子であると教えようとする人がいると、いや私たちは神の子ではないと言い張る。おまえの存在は本質的には精神だと宣言しようとする人がいると、いや私たちの存在の本質は物質の運動であると言い張る。こういったように、人間存在の本質から出てくる抵抗、ことにその社会的な本質からくる抵抗、それの思想的表現、これがじつに唯物論であるのではあるまいか。
 私は、はじめから、このような唯物論の概念をたずさえて、日本人の生活の歴史のなかに入っていったのではなくて、世界観や学問観において傑出した過去の人物を評伝するうちに、以上のべたようなマテリアリズムに対する理解を、いっそう深くしたのである。
 私は、その理解をさらにととのえ、それを公けにするために、日本の唯物論者の現われかたを、つぎのような仕方に分けて、論評してみたのである。すなわち、「唯物論への道を準備した人々」、「唯物論に近づいた人々」、「ふたたびそれへの準備をはじめた人々」、「新しい時代(明治・大正・昭和)の唯物論者」の四つである。日本の思想文化史のように、ひだしわが多く、明暗の度の細かい思想の歴史のなかに、個々の唯物論者を見出すには、断定のゆきすぎをひかえることが大切なので、その点を考えて、試みた叙述方法なのである。
 この「まえがき」で言っていないこと、それはほかでもなく、個々の唯物論者たちの相互の歴史的つながりのことであるが、それを「むすび」のところで述べておいたから、それをも、さきに併せて読んでもらうことがのぞましい。
    ー九五六年六月下旬
           三 枝 博 音

参考】
Wikipedia 三枝博音
 三枝博音は、戦前、「唯物論研究会」に属し、様々な労作を執筆した。戦後も、そのスタンスは変わらなったが、「政治的党派」に与することなく、微妙な「距離感」を保っていたようだ。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

読書ざんまいよせい(063)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(09)

付録

     社會主義と國體
 先頃某會合に於て、社會主義の大要を講話した時に、座中で第一に起った質問は、社會主義は我國體と矛盾しはせぬ歟、といふのであった、思ふに社會主義を非とする人々は皆此點に疑問を持つて居るらしい、否な現に公々然と社會主義は國體に害が有るなどと論じて居る人も有るといふことだ、『國體に害が有る』の一語は實に恐ろしい言葉である、人でも主義でも議論でも、若し天下の多數に『アレは國體に害がある』と一たび斷定せられたならば、其人、若くは其主義、若くば其議論は全く息の根を止められたと同様である、少くとも當分頭は上らぬのである、故に卑劣な人間は議論や理窟で間に合はぬ場合には手ツ取り早く『國體に害あり』の一語で以て其敵を押し伏せ樣と掛るのだ、そして敵とする物の眞相實狀如何を知らぬ人々は『國體に害あり』說に無暗と雷同する者が多いので、此卑劣の手段は往々にして功を奏し、アタラ偉人を殺し、高尙な主義を滅し、金玉の名論を湮めて仕舞ふことが有る、故に『國體に害あり』といふ叫び聲が出た時には、世人は之に耳を傾けるよりも、先づ其目を拭うて、事の眞相を明かにするのが肝要である。
 幸か不幸か、予は歷史に喑く國法學に通じないので、國體とは如何なるものであるかてふ定義に甚だ惑ふ、又國體なるものは誰が造ったものかは知らぬ、併し普通に解釋する所に依れば、日本では君主政體を國體と稱する樣だ、否な君主政體と言ふよりも、二千五百年一系の皇統を名ける樣だ、成程是は古今東西類のない話しで、日本人に取ては無上の誇りで.なければならぬ、國體云々の言葉を聞けば、萬人均く心臟の鼓動するのも無理はないのだ、所で社會主義なるものは、果して彼等の所謂、國體、卽ち二千五百年一系の皇統存在すてふことと、矛盾衝突するのであらう歟、 此問題に對して、予は斷じて否と答へねばならぬ。
 社會主義の目的とする所は、社會人民の平和と進步と幸福とに在る、 此目的を達するが爲めに社會の有害なる階級制度を打破して仕舞つて、人民全體をして平等の地位を得せしむるのが社會主義の實行である、是が何で我國體と矛盾するであらう歟、有害なる階級制度の打破は決して社會主義の發明ではなくて、旣に以前より行はれて居る、現に維新の革命に於て四民平等てふことが宣言せられたのは、卽ち有害なる階級の打破ではない歟、そして此階級の打破は卽ち我國體と矛盾どころ歟、却つて能く一致吻合したものではない歟。
 封建の時代に於て尤も有害なる階級は、卽ち政權を有する武門であった、而して此階級が打破せられて社會人民全體は政治上に於て全く平等の地位と權力を得たのである.、社會主義は卽ち維新の革命が武門の階級を打破した如く、富の階級を打破して仕舞つて、社會人民全體をして、其經濟上生活上に平等の地位と權利を得せしめんとするのである、若し此階級打破を以て國體に矛盾するものと言ふならば、維新の革命も亦國體に矛盾すると言はねばならぬ、否な憲法も、議會も選擧も皆國體と矛盾するものと言はねばならぬ。
 社會主義は元より君主一人の為にするものでなくて、社曾人民全體の爲めにするものである、故に進步したデモクラシーの主義と一致する。併し是でも決して國體と矛盾するとは言へぬ、何となれば、君主の目的職掌も亦社會人民全體の爲めに圖るの外はないのである、故に古より明王賢王と呼ばれる人は、必ず民主主義者であったのだ、民主主義を採られる君主は必ず一種の社曾主義を行って其德を謳はれたのだ。
 西洋の社會主義者でも決して社會主義が君主政治と矛盾撞着するとは斷言せぬ、君主政でも民主政でも、社會主義を孰れば必ず繁榮する、之に逆へば衰へる、是は殆ど定まった數である、此點に於てトーマスカーカップが其著『社會主義硏究』中に說く所は、 最も吾人の意を得たものである、カーカツプ日く、『社會主義は進步した民主主義と自然に吻合するのである、けれども、實際上に其蓮動の支配が必ず民政的でなければならぬといふの道理は毫もない、獨逸などではロドべルタスの計畫の樣に、帝王の手で遣れぬことはないのである、ラツサールの理想は是である、ビスマ-クも或程度まで是を遣つた、實際富豪の階級に對する交讓(ユムブロマイス)に厭き果てた帝王が、渙然洒然として都鄙の勞働者と直接抱き合つて一個の社會主義的帝國を建設するのは、決して難事でないのである、斯る帝画は、材能ある官吏を任用し社會改善に熱心なる人民てふ軍隊に擁せられて益々强盛に赴くであらう、そして若し能く時機が熟したならば帝王彼自身に取ても、溫々ながら資本家階級の御機嫌を取って居るよりも、此種の政策は遙かに宜しきを得たものと言はねばならぬ。
カーカツプは更に列國競爭に就て論じて日く『列國の競爭は、少くとも近き將來までは益々激烈に赴くに相違ないが、此點に於ても、人民が先づ其社會紐織の瀾和を得るといふことは、實に莫大の利益である、先づ多數勞働者の靈能を發達させ、熱誠堅固の心性を夷うて、卽ち自由敎育を受けたる人民を以て團結した國民を率ゐるの國は、彼の不平ある、隨落したる無智なる貧民を率ゐる所の資本的政府に對して、今日の科學的戰爭に於て、必ず大勝利を占めるであらう、是れ恰も第一革命の際に於ける佛蘭西軍隊の熱誠に加ふるに、今日の完全なる學術を以てしたると同樣の結果である』云々、故に能く社會主義を採用するの帝王、若くは邦國は、卽ち彼の一部富豪に信頼する帝王若くは邦國に比して、極めて强力なるものである、社會主義は必しも君主を排斥しないのである。
 併し繰返していふが、社會主義は、社會人民全體の平和と進步と幸福とを目的とするのであつて、決して君主一人の爲めに個るのでない、故に朕は卽ち國家なりと妄言したルイ十四世の如き極端な個人主義者は、元より社會主義者の敵である、衆と偕に樂むと言った文王の如き社會主義者は、喜んで奉戴せんとする所である、而して我日本の祖宗列聖の如き、殊に民の富は朕の富なりと宣ひし仁德天皇の大御心の如きは、全く社會主義と一致契合するもので決して、矛盾する所ではないのである、否な日本の皇統一系連綿たるのは、實に祖宗列聖が常に社會人民全體の平和と進步と幸福とを目的とせられたるが爲めに、斯る繁榮を來たしたのである、是れ實に東洋の社會主義者が誇りとする所であらねばならぬ、故に予は寧ろ社會主義に反對するものこそ反つて國體と矛盾するものではない歟と思ふ。
    (明治三十五年十一月十五日、『六合雜誌』第二六三號所載)

     社會主義と商業廣吿

 維新後三十年間我日本の社會に於て、凡そ進步發達したといっても、商業廣吿程進步發達したものはあるまい。
 維新以前の商賣の廣吿といったら、ケチな木板摺の引札だの或は四辻に貼紙をするのだの、又小間物屋や化粧品などは、時々人情本の作者に頼んで、其著述の中で謳って貰ふ位が關の山であつた、夫から京阪では東西屋と名づけて、東京でも折々見かけるが、柝木を拍て觸れ步くのがあつた位ゐだ、然るに今日に至っては如何だ、右を向いても廣吿、左を向いても廣吿、廣吿が鉢合せをして推すな/\と騷いで居る、維新以前の所謂花の大江戶は、忽然として化して廣吿の東京となつた、赤本に一行二行の寄生蟲であったのが今や新聞雜誌書籍の前後に大威張で乘つかつて、甚だしきは肝心の記事よりも、廣吿のページの方が多いので、雜誌に廣吿があると言ふよりも、廣吿に雜誌があると言ふ方が適當であるやうだ、斯く獨り廣吿の分量が澤山になつたのみならず、其技術手段に至っても、實に驚く可き發達をなした、否な現に益々發逹しつゝあるのである。
 斯樣な進步發達は、果して何に原因するであらう歟、又其社會の上に影響する利害如何であらう歟、又其利害の結果を如何に處分し行くべきである股、是は當然起るべき011題である、否な起さねばならぬ問題である、否な頗る面白い問題である、予の考ふる所では。
 第一廣吿の目的原因は單に其商賣や品物を世間に吹聽し報知するといふのに止まらぬ、是れは注意すべき點である、彼等の目的は實に自身の商賣ビジネスを維持し擴張すると同時に、他人の商賣販路も奪ふのにあるのだ、是は全く今日の經濟組織が自由競爭の組織であるので、同業者との競爭に打勝たねば立行かないから起つたのだ、廣吿は單に報知の術也と思ったら大に間違ふ、報知した上に、他人の華主を奪うて、競爭に打勝つと言ふ必要が有るので有る。
 論より證據で競爭の激しい商品ほど、廣吿することが多いのである、例へば賣藥、煙草、麥酒、石鹼、齒磨化粧品、小間物などいふ、孰れの店でも大抵同樣の品物で、誰でも模擬が出來る競爭の品物は、從つて廣吿の優劣で、共商賣の優劣を爭ふのだ、だから廣吿の盛大なる度は、自由競爭の激烈の度を示すのバロメートルである、左すれば甲の雜貨商が今年一千圓の廣吿料を拂ったと聞けば、乙の雜貨商は、翌年一千五百圓を投じて華主を爭ふ、スルと甲は更に二千圓を投ずるといふ譯で、日に月に廣吿料が多くなる、又手段に至っても、甲が墨繪の看板を出せば、乙が修色畫の看板を出す、又乙が十行の廣吿をすれば、甲が廿行といふ風に競爭又競爭で今日の進步と發達を來したのである、何のことはない、列國の軍備の擴張と同樣である、命限り根限り、資本の續く丈雙方で增して行くので、殆ど底止する所を知らぬのだ、現に有名なるピアスソーブの如きは資本の三分一以上廣吿料に投じて居る、其所で此廣吿の競爭が社會に及ぽす利害如何と見ると廣吿の利益是は言ふまでもなく何人も感じて居る所で、第一に需用者の便利、第二販路の擴張、從つて生產も多くなって商工業が發達するといふのである、然るに飜って其弊害の方を見ると實に悚然として恐るべき者がある、廣吿の弊害は凡そ三つに大別せられる。
 一は自然の美を害する事、美を愛すると云ふ事は、人間の極めて高尙なる性質で、天然の美景は、此高尙なる品性を養ふに尤も必要の物である、殊に近世文明の弊として、天下萬人が盡く物質的の利益に狂奔するの時に於ては、之が矯正の爲めに美術心の涵密は益々急切を感ずるのであるに拘はらず、近頃の廣吿は、到る處に俗惡極るペンキ塗の看板を立てゝ、天然の美景を無殘に破壊して行くのである、讀者は平生東京を一步踏出せば、是等の多くの例證に接するであらう、常に高尙なる美術を見、音樂を聞けば、自ら高尙なる品性を養ひ得るに反して、常に鳥獸の虐殺を見、若くは行ふものは自ら殘忍になる、小烏の聲を聞て、歌を詠みたいと思ふ人もあれば、直ぐに獵銃を持出したくなるものもあるを考へれば、 此廣吿が天然の美景を損じて、幾十萬の人が之を見る每に、アヽ嫌だ、といふ不快の感を催す時から、後には平氣になるまでに如何に國民の品性を下等にしたか解らないのだ、曾て村井商會が彼明媚なる京郁の東山へ持て來て、サンライスの廣吿を立てたことがある、是は畏くも離宮からもお目關りになるといふので取外したが、東山にサンライスと來ては如何に利の外は見ぬ商人とは言へ、 野卑といふ事は通り越して、 實に殘忍ではあるまい歟。
 第二は道德を害し風俗を害する事、 前に言つた通り廣吿の目的が同業者との競爭に打勝つに在る以上は、報知吹聴のみでは濟まぬ、出來る丈け華主を自分の方に引付ける樣に試みねばならぬ、そして競爭が激烈なるに從つて、其手段方法も、正とか不正とか言つては居られぬ、誘惑でも、欺罔でも構はず遣付ける、實に到らざるなしである、試に彼賣藥の功能書を見よ、効能神の如しとか禮狀如山とか是さへあれば醫師も病院も全く不用であるかの如く思はれるのだ、夫から甚しい猥褻の文章や圖畫などを揭げて、靑壯者の心を鑠かさうとするのがある、其道德を害し風敎を害することは實に一方ならぬので、手段方法が巧妙なればなる程、弊害も亦多いのである、併し以上二種の弊害は個人の心得で多少の防ぎも出來るのであるが、第三の弊皆に至っては社會をして非常の損失を受けしめて居るのが有る。
 外でもない社會の富と勞働の浪費、である、社會の富が廣吿の爲めに浪費さるゝのは實に莫大の額である、或人の調べに依れば、米國で一年間に廣吿を費す所は五億萬弗の多きに達すといふことだ、卽ち十億萬圓で、日本政府の歲計の四倍に當る、其中、正常の報知吹聽は五百萬弗、卽ち一千萬圖あれば足りるので其他は全く競爭の爲めに餘計な手段方法を要する爲めに費すのだ。
 日本は元より斯くまでには到らぬが、 併し日本の富に比較しては實に驚く可き多額を拋って居る、予は未だ精密なる統計は造り得ないが、一寸勘定した所ても、每月東京府下の新開のみでも、七萬圓內外、大阪のみても三萬內外の廣吿料は拂はれて居る、卽ち一ヶ月に十萬圆である、夫れから各地方の新聞のみに一ヶ月十萬圓と言ふ金だ、夫れから雜誌廣吿、看板廣吿、引札、樂隊、御馳走廣吿などの總べてを合併したならば、日本商業は一年間に三百萬圓の廣吿料を支出して居るといふことは、優に斷言することが出來るのだ、そして此額は月々歲々に驚くべき比率を以て增加してるのだ、然らば卽ち此一ケ年三百萬圓の大金は果して如何なる所から湧き出るのであるか。
 此大金が商人の懷から出ると思つたら、夫こそ大きな誤診である、言ふ迄もなく彼等は此廣吿料を商品の代價の裡に見積つてあるのだ、吾人は實に一本の卷煙草にすら多少の廣吿料を拂って居る、商品の代價は正當の定價よりも確かに夫れ丈け高くなって居る、社會人民は夫れ丈け餘計な富を作って彼等に支拂って居る勘定ではない歟。
 社會には現に多くの貧民が有る、若し一戶五口の貧民を一年三百圓で養ひ得るとしたならば、我等が年々廣吿料の爲めに費す所の三百萬圓の大金で實に五萬人の貧民の衣食を支へることが出來るではない歟、一方に其日の煙に逐はれて居る貧民が年々增加するにも拘らず、一方に社曾の富を無益に使ひ捨てる額も斯く年々に增加するのは、獨り社會の損失のみでなく、抑も人道の許す所であらう歟。
 如此く多額の富の浪費に加へて、廣吿の競爭の爲めに耗らす天才、技術、勞力も亦莫大の額である、是等の能力を生產的に若くは高尙なる事業の爲めに使つたら、如何に社會全體の爲めに利益を與へるであらう歟、是れ皆經世家の深く思ひを致すべきの點である。
 以上廣吿より生ずる弊害の矯正策に就ては、未だ日本では講究をした人はないやうだが、歐洲では以前から大分議論が喧しいのである、現に或國では廣吿に課稅して、無暗な膨脹を制裁せんとしてるのもある、英國などでも贋吿が天然の美景を損ずるのを憂へて、商工局の許可を得なければ、看板を建ることを許さぬやうにしようといふ意見がある、是も一策には違ひない、現時の如く全然放任して置くには、優るに相違ない、併し此處は絕景だから許可しない、那處は勝地でないから許可しようといふ如き美景の區別を、美術家でもない商工局に鑑定を賴むといふのは、ちと筋違ひではあるまい歟、殊に斯様の干涉は、得て弊害が伴ひ易いので、尤も注意を要するのみならず、唯だ天然の景色保存といふ丈けで、全體の弊害矯正は出來ぬのである。又課稅論の如き、國庫の歲入を增すといふなら兎も角も、決して廣吿減少の目的は達せられぬ、若し廣吿が課稅せられたなら、夫丈け品物の値を高くするのみである、競爭者が多くて其競爭に打勝ねばならぬ必耍がある以上は、又打勝つべき唯一の手段が展吿である以上は、如何に重税でも止める譯には行かぬのだ、廣吿を止めるの際は、卽ち破産の時であるのだ、故に謀稅の結果は品物の代價騰貴に過ぎないのである故に廣吿問題眞個の解決は、卽ち是等の弊害を一掃しようと言ふのには、課桃も姑息、商工局の認可權も姑息である、唯だ彼等商人をして廣吿の必要をなくせしむるより外はない、此廣吿の必要をなくするのは、卽ち自由競爭の經濟組織を廢するに在るのだ、前に述た如く、廣吿は一に自由競爭の發生物で、競爭の激しい品物ほど廣吿が盛んだ、試に見よ、郵便の如き電信の如き、 競爭がないので、廣吿に金を我す必要がない、從って其手數料も廉いのである、然るに若し郵便や電信が私設會社の事業で競爭したならば、彼等は必ず本會社の郵便は便利だとか、電信の文字が確實だとか、配達が速かだとか、廣吿して、頻りに自分の會社の切手を澤山資らうとするに違ひない、其結果は今の三錢の切手も或は四銭五錢位に引揚げて廣吿料を見積るといふ勘定になるであらう、唯だ彼等は社會の公有で、競爭がないから、正當の報知以外には廣吿をせぬのである、鐵道でも、汽船でも競爭のない所には誇大の廣吿はしないのだ、煙草でも、石驗でも、賣藥でも、皆同一の道理でなければならぬ。
 如此く廣吿の原因は競爭であるが、競爭の原因は何かといへば、卽ち資本と土地の私有である、個人が銘々に其私有の資本と土地で儲けようとするから起るのだ、 故に社會全體が土地と資本を
共有物にして、一切の生產の事業も總て共同でするといふことにしたならば卽ち社會主義を實行したならば、自由競爭から生ずる弊害は、全く消えて、品物は旅くて澤山で、人間の生活も豐かになって、働く時間も少くなつて、萬人の平和のみならず、 目下廣吿の競爭に心を苦しめて居る商人資本家等も肩を休めて大に氣樂になるであらう、是が本間題の根本的解決法である。
         (出所不詳)

    社會主義と婦人

 婦人の性は皆な僻めりと斷じ、女子は養ひ難しと嘆じ、 婦人は成佛せずと罵り、婦人を眼中に置くは眞丈夫に非ずと威張れるの時代に比すれば、近時婦人に關する硏究論義の日に地す其盛を致し、甚しきは則ち專門婦人硏究者の肩書を有せる文人をすら出せるが如き喜ぶべきの現象たるに似たり、而も仔細に其硏究の目的方法を檢し來るに及んでは、未だ吾人の希望に副はざるもの多きを覺ゆ。
 吾人は婦人の生理的及び心埋的特性を剖扶して微を穿ち細に入れる多くの文士と著作とを見たり、吾人は婦人平常の祕事陰址を爬羅剔抗して眼あたり之に接するの感あらしむるの多くの文士と著述とを見たり、吾人は婦人の短所缺點及び其罪悪を鳴らして殆ど完膚なからしめたる多くの文士と著述とを見たり、吾人は婦人の運命の不幸と境遇の悲惨とを說て一字一淚なるの多くの文士と著述とを見たり、而も彼等果して能く現時の所謂婦人間題を解釋せりと為すを得べき乎。
 見よ吾人が彼等に依て學び得る所の者は、男子は如何にして婦人に愛せらるべきやてふ一事に非ずや、男子は如何にせば婦人を玩弄し得べきやてふ一事に非ずや、如何に現時の婦人が尊敬するに足らざるやてふ一事に非ずや、如何に現時の女學生が憎悪すべき者に非ずやてふ一事にあらずや、如何に女工を雇使せる工場主中殘忍暴虐の行ひを恣にせる者あるかてふ一事にあらずや、換言すれば彼等の吾人に示し律たる所の者は、婦人は玩ぶべき者也、海老茶袴は疝に觸る者也、女工は憫なる者也、如此き耳、然り唯だ如此き耳、是れ女子養ひ難しと嘆ぜるの時代に比して果して幾十步を進め得たりとする乎、廿十世紀の婦人間題に於て果して幾分を解釋し得たりとする乎。
 現時に在て多くの婦人は確かに男子の玩弄物たる也、確かに男子の寄生蟲たる也、 然れども婦人は永く如此くなる可き乎、ならざるべからざる乎、否な古來社會文明の進むに從て、婦人が漸次に其地位を上進するは、是れ爭ふ可からざるの事實也、而して難人が其社會組織に與って、より重大なるパートを働くの社會は、ヨリ文明なる社會たるは、亦是れ爭ふべからざるの事實也、社會文明の改善と進步は常に層一層に段一段に婦人地位の上進を要請願求しつゝある也、而して今の婦人硏究者の目的方法は果して此要求に副ふ者ある乎。
 思へ婦人が男子の玩弄に甘ずるは、 其獨立を得ざれば也、 男子の寄生蟲たり、 或は諸種の不潔なる誘惑に魅せられ、或は悲慘の境遇に沈むもの、亦其獨立を得ざればなり、彼等は其知識に於て其財產に於て、 獨立するを許されざれば也、 而して是れ誰か之をして然らしむるや、 先天乎後天乎、否な社會の組織其者は彼等を殘暴し凌虐して、人間を化して器械と化せる也、萬物の靈長を化して劣等の動物と化せる也。
 從來の社會組織は婦人に敎育を與へざりき、婦人に財產を與へざりき、婦人の獨立を許さヾりき、婦人は男子の玩弄物たり奴隸たり寄生蟲たらざれば活く可からざる者也と宣吿したりき、此時に於て何ぞ婦人の性の僻めるを怪しほん、何ぞ其脆弱なるを怪しまん、其諸種の誘惑に勝ち得ずして、多くの敗德を出し、多くの悲慘なる境遇に陷ることを怪しまんや、而して更に見よ現時の社會は何が故に婦人を殘暴凌虐するの爾く甚しきや、此れ見易きの理也、何となれば今の社會や社會協同の社會に非ずして自由競爭の社會也、自他相愛の社會に非ずして弱肉强食の社會也、故に人々日く、汝我を殺さずんば我汝を殺さんと、然り人は生きざるべからず、生んと欲して競爭せざる可からず、競爭するの極、他を殓さヾる可らず、他を奪はざる可らず、 國と國との間然り人と人との間然り、男子と男子と、女子と女子との間然リ、 何ぞ男子の女子を券械となし奴隸となすを怪まん、兵士が國家の霞たるが如く、勞働者が賣本家の犧牲たるが如く女學生も女工も藝妓も、甚だしきは細君も、皆な男子が個々兢爭の利益の爲めに犧牲に供せられずんば已まざるは、是れ今日の社會に於て、實に必至の勢ならずんばあらず。
 故に二十世紀の婦人問題や、是れ實に重大なる社會間題也、而して是を解決する、先づ婦人をして其奴隸の境より救うて、彼等をして平等の人間たらしめざる可らず、共知識と財産とに於て獨立を得せしめざる可らず、而して之を為す唯だ現時社會の自由競爭の組織を變じて、社會協同の組織となすに在るのみ、他人を犧牲とする事なくして、獨立するを得るの組織と爲すにあるのみ、此れ卽ち社會主義の實行也。
 吾人の社會主義を唱ふるや、或人日く、汝土地財産の共有を欲す、人の細君も亦共有となさんとするかと、嗚呼是何の意ぞ、是れ實に婦人を以て貨物と同視する舊思想也、社會主義の理想は細君を以て共有たらしめざると同時に共良人の專有たるをも許さ須る也、人は平等也、婦人も亦平等の人間也、他人の所有物たる可らず、彼を所有するものは卽ち彼自身ならんのみ、而して婦人も亦社會全體の知識財產の平等の分配に與って以て個人性の獨立を全うせん、如此にして婦人問題は始めて解決せらるゝを得べくして、決して彼の小說の賣れんを求め、新聞雜誌の賣れんを求むるに依て解釋するを得可からざる者也。(明治三十五年十月十日、『萬朝報』所載)

  附 錄 終

      立言者。未必卽成千古之業。吾取其有千古之心。
      好客者。未必卽盡四海之交。吾取其有四海之願。
[編者注]
読み下し
言を立つる者は、未だ必ずしもすなわち千古の業をなさざるも、吾、その千古の心あるを取る。
客を好む者は、未だ必ずしもすなわち四海の交わりを盡さざるも、吾、その四海の願いあるを取る。
 典拠は、『小窓幽記』から。
訳は、
「著述する者は必ずしも歴史に残る大作を完成して千古の大事業を達成するとは限らないが、千古の年代に貢献しようという思いは評価される。客人を迎えるのが好きな人間は必ずしも広く世界各地の友と交遊し尽くすことができるとは限らないが、世界各地の友と交遊しようとする思いは評価できる。」(清言小品「小窓幽記」解読 PDF

  附 錄 終

[編者注]
 これで、岩波文庫版「社会主義神髄」は、平野義太郎氏の「解題」を除き、すべてテキスト化した。ご愛読に感謝する。引き続き、三枝博音「日本の唯物論者」の中江兆民、幸徳秋水の項をアップするが、その前に、該当書の「まえがき」「序論」から。
 全編を参照するには→ タグ:社会主義神髄

読書ざんまいよせい(062)

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(03)

       三

 チュメーンからトムスクまでの間には、シベリヤ街道に沿つて一つの小村も部落もない。あるのは大村ばかりで、それが二十乃至二十五露里、時には四十露里もの間隔を置いてゐる。この土地に莊園が見られないのは、つまり地主がゐないからである。工場も水車場も、旅籠も見られない。……沿道で人の住む氣配のするものと言へば、風に唸る電線と里程標ぐらゐなものである。
 村には必らず敎會がある。時によると二つもある。學校もまづ村每にあるらしい。百姓小屋には一軒ごとに掠鳥の巢箱があつて、それも垣根とか白樺の梢とかの、手のとどきさうな低い所に置いてある。掠鳥を可愛がるのはこの土地の風習で、これには猫も手を出さない。庭といふものはない。
 寒さのびりびりする夜を乘り通して、明け方の五時に、自前馭者の家の座敷に坐つてお茶を飮む。その座敷といふのは廣々とした明るい部屋で、飾りつけなどは、クールスクやモスクヴァあたりの百姓の夢想だも及ばぬほどに立派である。淸潔なことは驚くぱかりで、塵ひとつ汚點ひとつない。塵は白塗り、ゆかは必らず板張で、それをペンキで塗るか、または色模様の粗麻布を敷きつめるかしてある。卓子が二脚、長椅子がー脚、 それに椅子、食器棚、 窓の上には鉢植もある。一隅には寢臺があつて、羽根蒲團や赤い被ひを掛けた枕などが、その上に山を築いてゐる。この山に登るには椅子を臺にしなければ駄目だ。そして寢ると、身體は浪の底に沈み込む。シベリヤの人はふつくらした寢床が好きなのだ。
 隅の聖像を中心に、兩側には繪雙紙が貼りつらねてある。皇帝の肖像がかならず幾通りかあつて、それからゲオルギイ・ポベドノーセッツ*、「ヨーロッパの諸君主」(その中にはどうした譯か、ペルシャの王樣までが見受けられるーー)、績いてラテン語やドイツ語で題銘のはいつた聖徒の畫像、 バッテンベルグ公*やスコベレフ*の半身像、それからまた聖徒の像。……壁の裝飾にはボンボンの包紙や、火酒ヴオトカのレッテル卷煙草から剝いだペーパーまで使つてある。この貧相な飾りは、堂々たる寝臺や色塗りの肘とまるでそぐはない。だがどうも仕樣がないのだ。藝術の需要は旺盛なのだが、藝術家の方で現はれて來ないのだから。扉を見たまへ。それには靑い花と赤い花の咲いた木が描いてある。何やら鳥もとまつてゐるが、どうも烏よりは魚に似てゐる。木は壷から生えてゐる。その壷によつて見ると、これを描いたのはヨーロッパ人ーーつまり追放者に違ひないことが分る。天井の環形も煖爐の飾りも、同じく追放者がたくつたものだ。いかにも不細工な繪ではあるが、この邊の百姓にはこれだけの腕前もないのだ。九ケ月のあひだ、拇指だけ別になつた手袋をはめたなりで、 指を一本一本伸ばす暇もない。やれ零下四十度の酷寒、やれ牧場が二十露里も水浸しになつた。——さうして短い夏が來ると、一時に疲れが出て肩は張る、筋は拘攣つれる。こんな風ではどうして繪なんかやつてゐる暇があらうか。彼等が畫家でも音樂家でも歌手でもないのは、 年ぢゆう自然との猛烈な鬪爭に追はれてゐるからだ。村で手風琴の音のすることも滅多にないし、また馭者が唄ひ出すのを待つてゐたら、なほさら馬鹿を見る。
注]
*ゲオルギイ・ポベドノーセッツ 希臘神話の農事の神から轉化したと推測されるキリスト敎の聖者の一人。ロシヤでは家畜の保護者の性質を帶びてゐる。畫像としては、槍を以て龍を突く騎士の姿であらはされる。
*バッテンペルグ公 初代のブルガリヤ公アレクサンドル(在位一八七九――八六)。口シヤ政府の意に抗つて憲法を制定し、ルーマニヤ、セルビャと戦つて勝つた。
*スコベレフ ロシヤの有名な將軍(一八四三――八二)。七七・八年の露土戰爭をはじめ赫々たる武勲が多い。
 あけつぱなしの扉から、 廊下ごしに別の部屋が見える。板敷の明るい部屋である。そこでは仕事の眞最中だ。お主婦さんは、年のころ二十五ほどのひょろ長い女だが、いかにも人の善ささうな柔和な顏をして、 卓子のうへの揑粉を揑ねてゐる。眼にも胸にも兩手にもきらきらと朝日が當つて、まるで揑粉を日光と揑ね混ぜてゐるやうだ。亭主の妹らしい娘がブリン*を燒き、屠殺したての仔豚を料理女が茹でる。亭主はフェルト惺靴の製作に餘念もない。何もしないのは老人だけだ。婆さんは兩足をぶらさげて煖爐ペチカに腰かけ、溜息まじりに呻いてゐる。爺さんは咳をしながら煖爐のうへのとこに寝てゐたが、 私の姿を見るとのこのこ這ひ下りて、 廊下を越して座敷へはいつて來た。世間話がしたいのだ。……今年の春は相憎と近來にない寒さでしてと、先づそこからロを切る。やれやれ明日はもうニコラ様*で、 明後日はまた耶蘇昇天節だといふに、 咋夜も雪が降りをつて、 村の往還ぢやどこかの女子おなごが凍え死にましてな。家畜どもは餌がないので細くなりますし、犢なんぞはこの寒さで腹を下します。……それから今度は私に向ひ、どこから何處へ何の用でつつ走りなさる、 奧さんはおありか、 女子供はもうぢきにいくさがあると噂しよりますが、 あれは本當でせうかなどと尋ねた。
注]
*プリン 英米で朝食に供する本來の意味でのパンケーキに似てゐる。
*ニコラ樣 「ニコラの日」の意。露曆五月九日を指す。「ニコラ様が濟んだら冬を讃へよ」といふ諺がある。
 子供の泣聲がする。それでやつと、寝臺と煖爐のまん中に小さな搖籃が吊つてあるのに氣がついた。お主婦さんは揑粉を抛り出して、こつちの部屋へ駆け込んで來る。
 「ねえ商人の旦那、 ひよんな事がありますもので」と、彼女は搖籃をゆりながら、柔和な笑顏を私に向ける、「二た月ほど前、 オムスクから赤ん坊を抱へた町人女が來て泊り込みました。……しやんとした身裝みなりをしとりましたが。……何でもチュカリンスクでその兒を生み落して、洗禮もそこでして來たとか申しました。產後のせいか道中で加減が惡くなりましてね、私方のこれニの部屋に寢かせてやりました。亭主持ちだと言つとりましたが、なに分りは致しません。顏に書いてあるぢやなし、旅行券も持つちやをりませんもの。赤ん坊だつてきつと父親てておやの知れない…」
 「餘計なことまでほざきをる」と爺さんが呟く。
 「來てから一週間ほどしますと」とお主婦さんは續ける、「かう申すのです、――『オムスクへ行つてやどに會つて來ますわ。サーシャは置いといて下さいな。一週間したら貰ひに來ますから。連れて行つて道中で凍え死なしちや大變ですものね。……』そこで、 私はかう申しました、――『ねえ奧さん、世の中にや十人十二人と子供を授かる人もあるのに、家のも私も罰あたりでまだ一人も授からないんです。物は相談だが、サーシャ坊をこのまま私らに貰へませんかね。』すると暫く考へとり
ましたが、やがて、『でもちょいと待つてドさいな。夫に相談して見て、一週間したら手紙でお返事しませう。さあ、やどが何と言ひますか。』 でサーシャを置いて出て行きましたが、 それつきりもう二た月にもなるのに、姿も見せず手紙も來やしません。とんだ喰はせもので。サーシャは親身になつて可愛がつてやりましたが、今ぢや家の子やら他人ひとの子やら、さつぱり分りませんです。」
 「その女に手紙を出すんだね」と私は智慧を貸した。
 「なるほど、 旦那の仰しやる通りだ」と、亭主が廊下から言ふ。
 彼は這入つて來て、私の顏を默つて見てゐる。まだ何か智慧の出さうな顏附だと見える。
 「そんなこと言つたつて、出せるものかね」とお主婦さんが言ふ、「苗字も言はずに出て行つたもの。マリヤ・ペトローヴナ、それつきりさね。オムスクの町はお前さん廣いからね。とても分りつこないさ。雲をつかむやうなもんで。」
 「なるほどな、 そいつは分らねえ」と亭主は相槌をうつて,また私の顏を見る。まるで『旦那、何とかなりませんか』とでも言ふやうだ。
 「折角これまで馴れつこになつたものを」と、お主婦さんは乳首をふくませながら言ふ、「夜晝なしに泣聲が聞えると、違つた氣持になるぢやないか。この小屋までが見違へるやうになるぢやないか。それを、明日にもあの女が戾つて來て連れて行くかと思ふと、一寸先は闇で……」
 お主婦さんの眼は眞赤になつて、淚が一ぱい溜つた。そして急ぎ足で部屋を出て行つた。亭主はその後姿へ顎をしやくてて、薄笑ひを浮べて言ふ。――
 「馴れつこになつただと……へん、不憫になりやがつた癖に。」
 さう言ふ自分も馴れつこになつて、 やはり不憫になつて來てゐるのだが、男としてそれを白狀するのは極りが惡いと見える。 ,
 何といふ心善い人のだ。お茶を飮みながらサーシャの話を聞いてゐるあひだ、私の荷物は外の馬車に積みつぱなしにしてある。ああして置いてられはしまいかと尋ねると、彼等は笑つてかう答へる。――
 「誰が盜むものかね。よる夜中だつて盜みやしねえでさ。」
 事實、旅行者が盜難に逢つた噂は、道申絶えて.耳にしなかつた。その點では、この土地の風俗は醇朴を極め、一種善良な傳習を守つてゐると言ひうる。たとひ馬車の中に財布を落したとしても、拾つた馭者が自前の馭者なら、中も改めすに返しに來ることは疑ふ餘地がない。驛馬車にはあまり乘らなかつたので、その方の馭者の事はほんの一例しか舉げられないが、宿場で待つ間の退屈凌ぎに手に取つて見た不平帳では、盜難の訴へはただー件しか眼につかなかつた。旅人の長靴を入れた袋が紛失したのである。しかも袋は間もなく見附かつて持主の手に歸つたから、 當局の裁決が示してゐるやうに、この訴へは結局「詮議に及ばず」なのだ。更に迫剝事件になると、噂話にも上らぬほどである。まるであつた例しがないのだ。ここに來る途中で散々に威かされた例の破落戶ごろつきにしても、旅行者にとつては兎や鴨ほどにも害はないのださうだ。
 お茶には、小麥粉のブリンや、凝乳と卵の入つた揚饅頭や、小さな燒菓子や、角形つのがたパンの揚物などが出た。プリンは薄くつて、厭に脂つこい。角形パンになるとその味ひも色合も、 どうやらタガンログ*やドン・ロストフ邊のいちでウクライナ人の賣つてゐる、 あの黃色い孔だらけの環形ラスクを思はせる。シベリヤ街道に沿つては到るところ、パンの燒き方が非常にうまい。每日、 大量に燒くからであらう。小麥粉の値段は安く、四貫目で三四十銭位なものだ。
注]
*タガンログ ロストフに近く、アゾフ海に臨む港町。チェーホフは此の町で生れた。
 だが、パンの揚物だけでは腹の蟲は收まらない。そこで晝食に何か料理を頼むとすると、 出るものとい へば、 何處でも必らず「鴨のスープ」に極つてゐる。このス—プには手が附けられない。どろどろに濁つた液體のなかを、野鴨の肉片だけならまだしも、中身も碌に洗つてない臓物までが泳いでゐる始末である。まるで美味うまくはないし、見ただけでも胸がむかつく。どの百姓小屋を覗いても、獵の獲物が貯へてある。シベリヤでは狩獵の法律などはまるで行はれず、一年ぢゆうぶつ通しに小鳥を射つ。しかしどれだけ射つたにしても、野禽の盡きる心配はまづあるまい。チュメーンからトムスクに至る千五百露里の間に野禽の群は夥しいが、使へる鐵砲は一挺だつてないし、飛ぶ鳥の射落せる獵人は百人に一人位なものであらう。鴨を捕るときには、.普通は沼泥の現はれた所やびしょびしょの草の上に腹這ひになつて、大人しく坐つてゐるのだけを狙つて射つ。そのうへ彼等の立派な鐵砲は五度やそこら引金を引いたのぢや中々彈丸たまが飛び出さないし、いざ發射すると肩や頰にひどい反動が來る。幸ひに獲物に當つたにしても、それから先がまた一苦勞である。長靴と上股引をぬいで、冷たい水の中を這ふやうにして行く。この土地には獵犬がゐないのである。