読書ざんまいよせい(018)

◎正岡子規スケッチ帖(002)

初|南瓜《かぼちゃ》
六月二十八日雨

青空文庫・夏目漱石「子規の畫」より
図は、漱石に寄せた子規の絵 東京都足立区綾瀬美術館HPより

子規の文は、
「コレハ萎ミカケタ処ト思ヒタマヘ
画ガマヅイノハ病人ダカラト思ヒタマヘ
嘘ダト思ハバ肘ツイテカイテ見玉ヘ」

短歌は「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰りくるかね」
参考】「正岡子規スケッチ帖」(復本一郎編)岩波文庫

読書ざんまいよせい(017)

◎正岡子規スケッチ帖(001)

 「正岡子規スケッチ帖」を購入、木下杢太郎とは違った趣きもあり、眺めていて飽きない。余力があれば、少しづつ紹介する。
 図は、岩波文庫表紙以外は、「国会図書館デジタルコレクション」から、転載した。また岩波文庫での注釈は、一切省略した。

— ここから —
これは蘇山人《ろさんじん》が支那に赴くとき持ち来《きた》りて何か書けと言ひて残し置きし帖なり 其《その》後蘇山人逝きて此《ここ》帖に主なし 乃《すなわ》ち取りて病牀いたづらが(書)きの用に供す 名づけて菓物帖といふ 中に為山《いざん》子の筆に成れる者二枚あるは初めより画《か》きありし也
  明治三十五年七月十六日  病子規

青梅 明治三十五年 六月二十七日雨

参考】「正岡子規スケッチ帖」(復本一郎編)岩波文庫

読書ざんまいよせい(016)

◎バルザック・小西茂也訳「ゴリオ爺さん」(002)

長文です!

 生々しい苦惱と、とかくは空ろな喜びとに溢れたこの谷底は、それこそ恐ろしいまでに動搖を呈してゐたので、幾分なりとも長續きのする感動を、そこに惹き起こさうがためには、何か途方もないやうなものをでも、持ち出さなければならないだろう。しかも、そこには惡德と美德とがよりかたまつて、由々しいどえらいものとなつた苦惱が、あちらこちらに轉がつている。それに接したら利己心も射倖心も、佇立してそぞろ憐れを催さずにはゐられまい。だがそうした際に覺える感銘とても、かぐはしい果實のように、たちまち食らいつくされてしまうのである。文明の車は、かのジャッゲルナットの山車*と同じで、よしんば餘人のようにやすやすとは轢き碎きがたい心をその轍にかけるにしても、車輪の回轉速度をやや緩めたと思ふまもあらばこそ、たちまちにもそんなものは壓し潰し去つて、勝ちほこつた步みをなほも續けてゆくのである。
*〔印度クリシュナ神像を載せる車。往時迷信者は喜んで身をその轍の下に投じ極樂往生を遂げたといふ。〕
 讀者諸君もこの車と同じように、きつと振舞われることだろう。諸君はこの本をその白い手にとつて、「こいつ面白さうだぞ」と呟きながら、ふくよかな肱掛椅子に深々と身を沈められる。そしてゴリオぢいさんの人知れぬ不運話を讀み終えてから、お手前の無感動は棚にあげ、ひとへに作者をけしからぬものにして、やれ誇張にすぎるの、詩的空想に墮してゐるなどと、おとがめ立てになりながら、夕食の卓に向はれて健啖ぶりを示されることだらう。ああ! だがしかと心得おかれたい。このドラマは作りごとでもなければ、お話でもないのである。オール・イズ・トルーだ。してその正眞正銘さといつたら、誰でもが各自の家のなか、おそらくはまたその心の奧深くに、このドラマの要素を認めることが出來るに違ひはないくらゐなのだ。
 さて、この下宿館につかわれている建物は、ヴォーケル夫人の持家である。ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの下手、ちやうど界隈の地形がラルバレート街のほうへ、馬匹もめつたに上り下りせぬほどの急な險しい傾斜をなして、落ちかかろうとしているあたりにある。こうした地勢のおかげで、ヴァル・ド・グラースの圓屋根《ドーム》とパンテオンのそれとの間におしつめられたこれら町々には、あたり一帶に靜寂がみなぎつているのだが、この二つの記念建造物から投ぜられる黃ばんだ色調のため、まわりの雰圍氣もさま變つて、圓屋根の放ついかめしい色合いは、界隈一帶をいかにも陰氣くさいものにしてゐる。そこいらの舖石も乾き上り、溝には泥も水もなく、塀にそつて雜草が生い繁つている。どんな呑氣な人閒でも、ここらを通りかかれば皆と同じようにやつぱり氣が滅入りこんでしまうだろう。馬車の音でさえここでは一つの事件となる。どの家も暗くじめじめとして、庭塀は牢獄を思はせる。ひょつこりと迷ひこんできたパリ人が、ここらあたりで見かけるものといつたら、賄つきの下宿屋か學校か病院、貧窮か倦怠、死に瀕した老殘の姿か、苦役を强ひられる華やかなるべき靑春のさまなどであらう。パリのどこの界隈でもこれほど陰慘で、そして敢て言うならば、これほど人に知られないところはないだろう。わけてもこのヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りは、この物語をはめこむブロンズの額緣としては、何よりふさはしい唯一のものである。しかもこの物語たるや、どんなにくすんだ色合いや沈重な思索で、著者が讀者の頭を準備しておいても、けつして過ぎるということはあるまい。それはちょうど地下墓所《カタコム》のなかに旅人が降りて行くとき、一段ごとに日の光が薄れ、案內者の歌聲が次第に洞にひびいてゆくのと同じである。まつたくこれはぴつたりとした比喩だと思ふ。空洞の頭蓋骨と、ひからびきつた心と、さてどちらが見て怖ろしいか、誰にそれが決められよう?
 この下宿屋の正面閒口は小庭に面し、建物はちやうどヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りと直角をなしているので、奧行はすつかり消されてしまつている。正面閒口に添つて、ちやうど建物と小庭との間に、小砂利を敷いた、幅一間あまりの水盤狀の空地があり、その前方の砂を敷いた小徑の兩傍には、天竺葵や夾竹桃や石榴などが植わつた、靑や白の大きな陶器鉢が竝べてある。この小徑に通じている中型の門には、一枚の看板が揭げてあり、それには「メゾン・ヴォーケル」、そしてその下のほうには「男女其他御下宿」と麗々しく書かれてあつた。
 甲高い呼鈴がとりつけられた格子門のあいだから、小さな舗道の突き当り、ちょうど通りに面した突き当りの壁の上に、界隈の画家の筆になる、緑の大理石まがいのアーチ門を、昼間ならのぞき見ることができるだろう。絵筆でごままかしていかにも神龕《ずし》みたいにしてあるその下に、キューピッドの像が立っている。もっとも像の塗料も剥げちょろけになっているが、それを見て象徴趣味を好む手合いは、そこから程遠からぬところで治療されているパリ社交病〔パリ社交病はそこからほど近いサン・ジャック新町にあったカピュサン病院(ミディ病院)で治癒されていた〕の神話をでも、きっとそこに読みとることだろう。像の台座の下にある、なかば消えかけた次のような碑銘は、一七七七年パリに帰ったヴォルテールにたいして示された熱誠のほどを披瀝《ひれき》し、この装飾物の由緒ある年代を偲ばせている。

 人なべて知れ、汝の主《あるじ》はキューピッドぞ
 彼は主なり、かつて主なりき、なお主たるべし

 夜になると格子門は完全な門に置き替えられた。正面間口と同じ長さを幅にしている小庭は、通りの庭塀と隣家の仕切塀とに囲まれていた。常春藤《きづた》のマントが隣家には一面に垂れかかっておおいつくし、パリの町なかだけに、それは絵のような効果をあげて、道行く人々の眼を惹いていた。どの塀も樹檣《じゅしょう》となった果樹や葡萄樹でおおわれ、その埃りっぽいひょろひょろした果実の実り具合はヴォーケル夫人の年々の懸念の種であり、下宿人相手の好個の話題となっていた。庭の両塀に添って、狭い小径が菩提樹《チュール》の木立にと通じてくる。コンフラン家の生まれながらヴォーケル夫人は、下宿人たちの再三の文法上的注意にもかかわらず、頑としてチュイユとそれを発音して止まなかった。左右の両小径の間に、円錐形に仕立てられた果樹の寄り添った朝鮮|蘇《あざみ》の方形花壇があって、その周囲はすかんぽ、ちしゃ、ぱせりなどで縁取られていた。菩提樹の木立の下には、緑色の円テーブル、腰掛がそのまわりにはおかれてあった。土用の候になると、コーヒー代ぐらいには事欠かぬ程度の客人たちが、卵もかえりそうな炎暑のさなかを、ここまでコーヒーを啜《すす》りに出張《でば》って来る。
 正面建物は四階建てで、その上に屋根裏部屋がある。総体粗石づくりで黄色く塗りつぶされているが、パリのほとんどすべての家屋敷が、不名誉の凶相をかく呈しているというのも、もっぱらかかる黄色塗りのせいである。小さなガラスのはまった五つの開き窓が、正面の各階にはあって、それぞれにブラインドが取り付けられてあるが、それが思い思いの揚げ方をしているので、いっせいに並ばずに妙にちぐはぐである。建物の側面には各階に窓が二つずつ、一階のそれには金網張りの鉄格子が、飾りとしてついている。建物の裏手には、およそ三間幅ほどの中庭があり、豚、鶏、兎などが、仲よくそこに暮らしている。突き当りには薪をしまう物置小屋があって、物置と調理場の窓の間には肉類を入れる容器が吊してあり、その下を流し場の脂ぎった汚水が流れてゆく。この中庭にはヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに面した狭い小門がついていて、悪臭は真平御免とばかり炊事女は、この汚水溜にざぶざぶと水を注いで、家うちの汚物を門から外へと掃き落してしまっている。
 もちろん、一階は下宿営業用にあてられていて、そのとっつきの部屋は、通りに面した二つの窓から採光し、ガラス張りのドアで出入りするようになっている。このサロンにすぐ続いた食堂は、階段口で調理場から隔てられている。階段は蝋引きの着色タイルと木とでできている。艶のあるのとないのとで、互い違いの縞模様に織られた粗毛織の肱掛椅子や腰掛が、ずらり備えつけられたこのサロンほど、見る目にもの悲しい眺めはまたとないであろう。中央には灰白のサント・アンヌ大理石をはった丸テーブルがあり、その上には今日到るところに見受けられる白磁のコーヒーセットの、金の網目模様もなかば消えかかったやつが、飾りとしておかれてある。床張りの粗悪なこの部屋は、肱の高さぐらいまで、腰羽目が張られている。残りの壁の部分には、テレマークの主要場面を描いた、ワニス塗りの壁紙が貼ってあり、その古典的人物にはいずれも彩色が施してある。鉄網を張った窓と窓との間の鏡板には、ユリシーズの息子のためにカリプソが催した饗宴の図が、下宿人たちの展覧に供されている。四十年来この絵は、若い下宿人たちの冗談の種になって来た。懐《ふとこ》ろが淋しいのでやむなく忍んでいる下宿の飯を自嘲して、いつまでもこんな境遇に甘んじている身ではないと、思い上っていたからである。石の暖炉の焚き口がいつも綺麗なのは、よっぽどの特別な場合でもなければ、火がたかれぬことを現わしていた。暖炉棚には丸笠をかぶせた古ぼけた造花が、二つの花瓶に仰山に挿してあり、その近くにはいとも悪趣味な青大理石の置時計が飾りとしてでんと据えおかれていた。
 このサロンの発散する匂いといったら、およそ言葉では言い表わしようがないが、強いて言ったら、「下宿屋の匂い」とでも評すべきものだろう。むっとしてかびくさく、腐った脂肉のような悪臭、ひやっとし、鼻にしめっぽく、衣服にまで浸み込むていの匂い、食べ終ったあとの部屋の匂い、調理場、食器室、遍路宿泊寺の匂い。老若下宿人めいめいからの、「その独特な」カタル性の発散気が放つ、嘔吐を催すようなこうした臭気の成分を、検定する方法でももし発見されたなら、おそらくかかる匂いをも描破することを得よう。だがなんと、こんな平俗ないとわしさを覚えるサロンではあったが、これでもお隣の食堂にくらべたら、まだしも貴婦人方の紅閨《こうけい》のように、優雅で香り高いものとも申せることが、おわかりになられよう。
 その食堂たるや、すっかり羽目板づくりになっている。もとは何かの色で塗られてあったのであろうが、今はもうさだかではない。その地色の上を、塵垢が層をなして、奇怪な模様を描いている。壁わきのねばつくような食器戸棚の上には、切子の曇りガラスの水差し、波紋形のついた錫《すず》のお盆、青い縁とりをしたトゥールネ焼の厚手の磁器皿の一かさねなどがのっていた。片隅にある箱には、番号のついた仕切りがついていて、汚れたり、葡萄酒のしみがついたりした下宿人たちのナプキンが、そこにはしまわれている。よそだったらどこでもお払い箱の、ぶっこわしてもぶっこわれぬ家具類が、ここには陣取っていて、まるで養老院における文明の敗残者たちといった恰好で控えている。部屋には雨が降るとカプシン僧の人形が、顔を出してくる晴雨計があり、食欲も失わさせられるような俗悪な版画が、金線の入った漆塗りの木框にあちこちおさまり、銅の象嵌をした鼈甲《べっこう》型の掛時計、緑色のタイルの陶器製ストーブ、埃と油とが一緒についたアルガン式のケンケ洋灯。それにまた、細長い食卓の上の蝋引のテーブルクロスといったら、すっかり脂がしみついていたので、外から飯だけ食いにくる悪戯好きの病院助手だったら、外科用のメスでのように指をつかって、自分の名をそこに、書きとめることもできたであろう。それからまたびっこな椅子、スパルト繊維でできたみじめったらしい小さなわらマット、こいつはいつも巻きが戻ってしまっていたが、ついぞその姿を消したことがない。それに穴があき、蝶番《ちょうつがい》ははずれ、木も黒こげになった見る影もない足|炬燵《ごたつ》。これらの家具調度がどんなにおいぼれて、ひびだらけで、腐りはて、ぐらぐらにむしばまれ、片輪で片目でよぼよぼで、気息えんえんたるありさまであるか、それを逐一説明するには、およそ事詳しい描写が必要となるのであるが、それではあまりにもこの物語の興趣が殺《そ》がれ、せっかちな読者諸君はご容赦になってはくださるまい。
 磨りへったためか、それとも色塗りしたためか、床の赤いタイルはくぼみだらけである。そんなわけでここに君臨しているのは、詩情のない貧窮といってよい。鬱積した、擦り切れきった貧窮である。まだ泥にこそまみれてはいないが、しみだらけの貧窮である。穴もつづれもない貧窮ながらに、いまにも腐ってしまいそうなそれである。
 この食堂がもっともその光彩を放つのは、午前七時ごろ、ヴォーケル夫人の飼猫がご主人より先に現われて、食器戸棚の上に跳びあがり、小皿でそれぞれ蓋をしたお碗のなかの牛乳を嗅ぎまわって、ごろごろ朝方の咽喉ならしをする一時であろう。まもなくお女将《かみ》も姿を現わす。きざったらしくかぶったツル織の布帽の下からは、入毛の付髷《かもじ》がゆがんではみ出ている。しわだらけにすぼまったスリッパを、足に引きずってだ。老けた小肥りの顔の中央には、おうむのくちばしのような鼻が出張っている。小さなぽっちゃりした手、教会にしげしげ通う信心家のようにでっぷりとした物腰恰幅、充溢しきって波を打っている胴着、そういったすべては、打算心がうずくまり、わざわいが泄ってきているこの部屋と、ぴったり調和をかもし出していた。ヴォーケル夫人は、生暖かいむっとする部屋の悪臭を吸っても、いっこうに胸も悪くせられないもようだった。秋の初霜のようなお女将の冷ややかな顔立ち、しわの寄った眼もと、踊子の作り笑いから、手形割引業者の苦い渋面にまでもかわるその表情具合、いってみれば夫人の人体《にんてい》のすべてが、この下宿屋を解明しつくしていること、下宿がお女将の人柄を含有しているがごとくにであった。そういえば徒刑場も看守なしにはすまされない。そのどちらかを抜きにしたら、そのものの想像はできないだろうからだ。背の低いこの青ぶくれの夫人は、こうした生活環境の所産だったのだ。ちょうどチフスが病院の発散空気の結果であるように。毛編みの下袴《したばき》が、上着のお古でつくったスカートからはみ出し、ひびいった布地のほころびから、綿がのぞき出しているといったそのあんばいは、よくこのサロンや食堂や小庭を、端的に表現するものであり、それは料理場をも予告し、あわせて下宿人たちをも予覚せしめている。されば夫人がその姿を見せてはじめて、この場の光景もここにその全きを得るわけである。
 正面建物は四階建てで、その上に屋根裏部屋がある。総体粗石づくりで黄色く塗りつぶされているが、パリのほとんどすべての家屋敷が、不名誉の凶相をかく呈しているというのも、もっぱらかかる黄色塗りのせいである。小さなガラスのはまった五つの開き窓が、正面の各階にはあって、それぞれにブラインドが取り付けられてあるが、それが思い思いの揚げ方をしているので、いっせいに並ばずに妙にちぐはぐである。建物の側面には各階に窓が二つずつ、一階のそれには金網張りの鉄格子が、飾りとしてついている。建物の裏手には、およそ三間幅ほどの中庭があり、豚、鶏、兎などが、仲よくそこに暮らしている。突き当りには薪をしまう物置小屋があって、物置と調理場の窓の間には肉類を入れる容器が吊してあり、その下を流し場の脂ぎった汚水が流れてゆく。この中庭にはヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに面した狭い小門がついていて、悪臭は真平御免とばかり炊事女は、この汚水溜にざぶざぶと水を注いで、家うちの汚物を門から外へと掃き落してしまっている。
 もちろん、一階は下宿営業用にあてられていて、そのとっつきの部屋は、通りに面した二つの窓から採光し、ガラス張りのドアで出入りするようになっている。このサロンにすぐ続いた食堂は、階段口で調理場から隔てられている。階段は蝋引きの着色タイルと木とでできている。艶のあるのとないのとで、互い違いの縞模様に織られた粗毛織の肱掛椅子や腰掛が、ずらり備えつけられたこのサロンほど、見る目にもの悲しい眺めはまたとないであろう。中央には灰白のサント・アンヌ大理石をはった丸テーブルがあり、その上には今日到るところに見受けられる白磁のコーヒーセットの、金の網目模様もなかば消えかかったやつが、飾りとしておかれてある。床張りの粗悪なこの部屋は、肱の高さぐらいまで、腰羽目が張られている。残りの壁の部分には、テレマークの主要場面を描いた、ワニス塗りの壁紙が貼ってあり、その古典的人物にはいずれも彩色が施してある。鉄網を張った窓と窓との間の鏡板には、ユリシーズの息子のためにカリプソが催した饗宴の図が、下宿人たちの展覧に供されている。四十年来この絵は、若い下宿人たちの冗談の種になって来た。懐《ふとこ》ろが淋しいのでやむなく忍んでいる下宿の飯を自嘲して、いつまでもこんな境遇に甘んじている身ではないと、思い上っていたからである。石の暖炉の焚き口がいつも綺麗なのは、よっぽどの特別な場合でもなければ、火がたかれぬことを現わしていた。暖炉棚には丸笠をかぶせた古ぼけた造花が、二つの花瓶に仰山に挿してあり、その近くにはいとも悪趣味な青大理石の置時計が飾りとしてでんと据えおかれていた。
 このサロンの発散する匂いといったら、およそ言葉では言い表わしようがないが、強いて言ったら、「下宿屋の匂い」とでも評すべきものだろう。むっとしてかびくさく、腐った脂肉のような悪臭、ひやっとし、鼻にしめっぽく、衣服にまで浸み込むていの匂い、食べ終ったあとの部屋の匂い、調理場、食器室、遍路宿泊寺の匂い。老若下宿人めいめいからの、「その独特な」カタル性の発散気が放つ、嘔吐を催すようなこうした臭気の成分を、検定する方法でももし発見されたなら、おそらくかかる匂いをも描破することを得よう。だがなんと、こんな平俗ないとわしさを覚えるサロンではあったが、これでもお隣の食堂にくらべたら、まだしも貴婦人方の紅閨《こうけい》のように、優雅で香り高いものとも申せることが、おわかりになられよう。
 その食堂たるや、すっかり羽目板づくりになっている。もとは何かの色で塗られてあったのであろうが、今はもうさだかではない。その地色の上を、塵垢が層をなして、奇怪な模様を描いている。壁わきのねばつくような食器戸棚の上には、切子の曇りガラスの水差し、波紋形のついた錫《すず》のお盆、青い縁とりをしたトゥールネ焼の厚手の磁器皿の一かさねなどがのっていた。片隅にある箱には、番号のついた仕切りがついていて、汚れたり、葡萄酒のしみがついたりした下宿人たちのナプキンが、そこにはしまわれている。よそだったらどこでもお払い箱の、ぶっこわしてもぶっこわれぬ家具類が、ここには陣取っていて、まるで養老院における文明の敗残者たちといった恰好で控えている。部屋には雨が降るとカプシン僧の人形が、顔を出してくる晴雨計があり、食欲も失わさせられるような俗悪な版画が、金線の入った漆塗りの木框にあちこちおさまり、銅の象嵌をした鼈甲《べっこう》型の掛時計、緑色のタイルの陶器製ストーブ、埃と油とが一緒についたアルガン式のケンケ洋灯。それにまた、細長い食卓の上の蝋引のテーブルクロスといったら、すっかり脂がしみついていたので、外から飯だけ食いにくる悪戯好きの病院助手だったら、外科用のメスでのように指をつかって、自分の名をそこに、書きとめることもできたであろう。それからまたびっこな椅子、スパルト繊維でできたみじめったらしい小さなわらマット、こいつはいつも巻きが戻ってしまっていたが、ついぞその姿を消したことがない。それに穴があき、蝶番《ちょうつがい》ははずれ、木も黒こげになった見る影もない足|炬燵《ごたつ》。これらの家具調度がどんなにおいぼれて、ひびだらけで、腐りはて、ぐらぐらにむしばまれ、片輪で片目でよぼよぼで、気息えんえんたるありさまであるか、それを逐一説明するには、およそ事詳しい描写が必要となるのであるが、それではあまりにもこの物語の興趣が殺《そ》がれ、せっかちな読者諸君はご容赦になってはくださるまい。
 磨りへったためか、それとも色塗りしたためか、床の赤いタイルはくぼみだらけである。そんなわけでここに君臨しているのは、詩情のない貧窮といってよい。鬱積した、擦り切れきった貧窮である。まだ泥にこそまみれてはいないが、しみだらけの貧窮である。穴もつづれもない貧窮ながらに、いまにも腐ってしまいそうなそれである。
 この食堂がもっともその光彩を放つのは、午前七時ごろ、ヴォーケル夫人の飼猫がご主人より先に現われて、食器戸棚の上に跳びあがり、小皿でそれぞれ蓋をしたお碗のなかの牛乳を嗅ぎまわって、ごろごろ朝方の咽喉ならしをする一時であろう。まもなくお女将《かみ》も姿を現わす。きざったらしくかぶったツル織の布帽の下からは、入毛の付髷《かもじ》がゆがんではみ出ている。しわだらけにすぼまったスリッパを、足に引きずってだ。老けた小肥りの顔の中央には、おうむのくちばしのような鼻が出張っている。小さなぽっちゃりした手、教会にしげしげ通う信心家のようにでっぷりとした物腰恰幅、充溢しきって波を打っている胴着、そういったすべては、打算心がうずくまり、わざわいが泄ってきているこの部屋と、ぴったり調和をかもし出していた。ヴォーケル夫人は、生暖かいむっとする部屋の悪臭を吸っても、いっこうに胸も悪くせられないもようだった。秋の初霜のようなお女将の冷ややかな顔立ち、しわの寄った眼もと、踊子の作り笑いから、手形割引業者の苦い渋面にまでもかわるその表情具合、いってみれば夫人の人体《にんてい》のすべてが、この下宿屋を解明しつくしていること、下宿がお女将の人柄を含有しているがごとくにであった。そういえば徒刑場も看守なしにはすまされない。そのどちらかを抜きにしたら、そのものの想像はできないだろうからだ。背の低いこの青ぶくれの夫人は、こうした生活環境の所産だったのだ。ちょうどチフスが病院の発散空気の結果であるように。毛編みの下袴《したばき》が、上着のお古でつくったスカートからはみ出し、ひびいった布地のほころびから、綿がのぞき出しているといったそのあんばいは、よくこのサロンや食堂や小庭を、端的に表現するものであり、それは料理場をも予告し、あわせて下宿人たちをも予覚せしめている。されば夫人がその姿を見せてはじめて、この場の光景もここにその全きを得るわけである。
 五十そこそこぐらいのヴォーケル夫人は、「よもの苦労をなめつくした女」のすべてに似たところがあった。ガラスのような眼玉をし、もっとよけいに玉代を払わせようとむきになる、遣手《やりて》婆さんの生《き》一本さがそこにはほの見えていた。しかも自分の運命をやわらげるためなら、どんなことだってやりかねぬ気象の女だった。もしも陰謀人のジョルジュなりピシュグリュ〔ジョルジュ・カドゥダルはブルターニュの王党派首領で、ナポレオン暗殺を企てて一八〇四年逮捕されて斬首。ピシュグリュ将軍もその連累者として同じ運命をたどった。『暗黒事件』参照〕なりが、いまだにお上に売り込めるものなら、すかさずやってのけたであろう。にもかかわらず、下宿人たちは、「根はいい女なのだが」とお女将のことを言っている。自分たちと同じようにお女将が泣きごとを言ったり、しゃくりあげたりするのを聞いて、めぐり合せの悪い人とばかり、思いこんでいたからである。亭主のヴォーケルとは、なにをしていた男だったのだろう? 亡夫のことをお女将は、ついぞ人に語り聞かせたためしがない。どうして亭主は破産したのだろう? 「不仕合せ続きでしてね」と、お女将はそれに答えていた。亭主は彼女にさんざんに苦労をかけ、その死後に遺したものといったら、泣くための眼と、住むためのこの家屋敷と、他人のどんな不幸にも同情するせきはない権利とをだけだった。なぜなら苦しめるったけの苦しみを、みんな自分は嘗めたのだからというのが、このお女将の通り文句であったから。
 女主人の小刻みな足どりを聞きつけて、でぶっちょの料理女シルヴィは、あわてて寄宿人たちの朝飯の仕度にとりかかった。外から食事をしにくる客は、概して夕飯の折だけで、これは月ぎめ三十フランの割りになっていた。
 この物語のはじまった当時、下宿人は総勢七人だった。二階にはこの家で最上の二組の部屋があり、その小さいほうにはヴォーケル夫人が住み、もう一つをフランス共和国政府陸軍出納支払官未亡人たるクーチュール夫人が占めていた。母親代りになって同夫人は、ヴィクトリーヌ・タイユフェルというごくうら若い娘と一緒に暮していた。この二婦人の下宿代は千八百フランに上った。三階の二部屋もふさがっていて、一方はポワレという老人、もう一方は四十がらみで黒いかつらをつけ、頬ひげも染めたヴォートランと名乗る、もとは商人だったとかいう男が住んでいた。四階は四つの部屋から成り、その二つが貸されていた。マドモワゼル・ミショノーという老嬢と、以前はそうめんやマカロニやうどんなどの製麺業者で、ゴリオ爺さんとみんなから呼ばれて甘んじている老人とが、それぞれそこに住んでいた。ほかの二部屋は渡り鳥も同様な連中、ゴリオ爺さんやミショノー嬢と同じく、賄費と間代をあわせて、月に四十五フランしか払えぬような貧乏学生にと用意されてあった。ヴォーケル夫人は書生を置くことをあまり喜ばず、他に適当なのがない場合にだけ、迎え入れていた。書生はパンを食べすぎるからである。
 ちょうどその頃、この二部屋の一つを、アングレーム近傍から法律の勉強にと、パリに上って来た一青年が借りていた。家族が多いので年に千二百フランの仕送りをするためには、彼の一家もそうとうな窮乏を忍ばねばならなかった。ウージェーヌ・ド・ラスティニャックというのが、その青年の名だったが、自分の逆境に発奮して、勉学へと志を立てた立身青年の一人で、双肩にかかった両親よりの嘱望のほどを年若くして彼は知り、学問のご利益をはやくも考え合せて、他日の立身栄達にそなえて、その学業の指針を社会将来の趨勢にあらかじめ順応させて、衆に先んじて社会を搾取してやろうという、年少気鋭の一人であった。
 好奇の念に燃えた彼の観察と、パリのサロンに入り込みおおせた巧みなその手腕とがなかったら、この物語もこれほど真実味のある色調で、彩りつくすことはできなかったであろう。まさしくこれ彼の鋭敏なる頭脳の働きと、慄然たる状況の秘密を看破しようとした、その願望に帰すべきものである。しかもこの状況たるや、それを作り出した人たちからも、またそれを忍従している者からも、ひた隠しに隠されているところのものであったが。
 四階の真上には洗濯物を吊して乾かす小室と、二つの屋根裏部屋とがあって、そこに下男のクリストフと、でぶっちょの炊事婦シルヴィとが寝泊りしていた。これら七人の下宿人のほかに、ヴォーケル夫人は法科や医科の学生たち、年にならして八名ばかりと、また近所に住み、夕御飯だけの契約の二三人の常連とをとっていた。だから夕飯時には、食堂に十八人ばかり集って来たが、二十人ぐらいまでは優に収容ができそうに見えた。しかし朝は七人の下宿人しか現われなかったので、朝飯のあいだのそのつどい具合といったら、家族たち内輪の食事時の観をば呈していた。それぞれに上靴のまま降りて来て、外から食事に来る連中の風采や態度、前夜の出来事などについて、ざっくばらんな意見が交され、水入らずの親しさでみんなは語りあっていた。これら七人の下宿人はヴォーケル夫人の駄々っ子たちだった。夫人はそれぞれの下宿料の額によって、その心尽しなり敬意なりを、さながら天文学者よろしくの精確さで測って、わかち与えておったのである。
 偶然の巡りあわせから、ここに同宿することになった七人も、それと同じような斟酌《しんしゃく》をはたらかせていた。三階の下宿人二人は、月に七十二フランしか払っていない。クーチュール夫人だけはべつとして、こんな安い下宿料は、ラ・ブールブ慈善産院とサルペトリエール女性救護院とのあいだにある、サン・マルセル通りでもなければ、とうていに見られない相場で、多少なりと目立つ不幸の重荷の下に、これら下宿人はおしひしがれている連中に違いないことを、前知らせするものである。そんなわけでこの家の内部が、むき出しにしている荒涼たる光景は、その常連たる住人たちの、いちように損じた着衣のなかにも、繰り返されていた。男たちのつけている長上着は、怪しげな色にあせ、都雅な巷《ちまた》なら道ばたの隅に転がっているような靴を、それぞれにはいて、シャツは擦り切れ、下着はお化けとなっていた。女たちのローブも、これまた流行おくれの染直しや色あせもので、古いレースは繕《つくろ》いだらけ、手袋も使い古して垢光りし、襟飾りは万年褐色、肩掛けといったら総体がほぐれかかっていた。服のほうはこんなふうとしても、それをつけているからだのほうは、大部分ががっしりとした骨組で、人生の嵐に耐えきった体躯をし、顔つきは硬く冷たく、通用停止をくったエキュ銀貨のそれのように、微塵も艶っ気が見られなかった、萎《しぼ》んだ口許ながら、がつがつした歯が武張《でば》っていた。幕のおりたドラマか、あるいは現に演ぜられつつあるドラマが、これら下宿人からは予覚させられた。もっともそれは華やかな脚光を浴び、彩られた書割《かきわり》のあいだで演ぜられるドラマではなく、生ける無言のドラマ、心をあつく掻き乱し、血を凍らせるようなドラマ、いつ果てるとてもない持続のドラマである。

編者注】「ゴリオ爺さん」は、青空文庫にて、中島英之訳で収録されていますので、一旦アップは中断します、ただし、訳者の著作権は存続しています。

読書ざんまいよせい(015)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(004)

 年収は二万五千から五万。でもやっぱり金に困ってピストル自殺を図る。

 おそろしいほどの貧乏。二途《にっち》も三途《さっち》も行かない。母親は後家さん。娘はひどく不器量である。遂に母親は心を鬼にして、娘に街へ出るように勧める。彼女はいつぞや若い頃、衣裳代を稼ぐため夫にだまって街へ出たことがある。彼女には若干の経験があるわけである。彼女は娘に教えてやる。娘は街へ出て、夜が明けるまで歩き廻ったが、買おうという男は一人もない。醜女だから。二日ほどして、三人組のどこかの無頼漢が通りかかって彼女を買った。彼女の持って帰ったお札《さつ》をよく見たら、すでに無効になった富籤《とみくじ》の札だった。

 二人の妻妾《おんな》。一人はペテルブルグに、一人はケルチ*に置いてある。年じゅう絶えない痴話喧嘩、威し文句、電報沙汰。男はいっそ自殺しちまおうかとまで考える。やっと仕舞いに或る策を思いついた。二人を一緒に住まわせたのである。彼女たちは当惑して、化石したみたいになった。黙り込んで、おとなしくなった。
*遥か南方、クリミヤ半島の港。

 或る登場人物。とても大学に居たとは思えないほど幼稚極まる男。

 そこで私は、現実だと思っていたことがじつは夢で、夢の方が現実なのだといったような、そんな夢を見たのです。

 人間は女房を貰うと好奇心がなくなるということに私は気がつきましたよ。

 幸福を知覚するには、まず大抵は時計を巻くぐらいの時間が要る。

 駅の傍の汚ならしい小料理屋。そうした店には、きまって白鱘魚の塩漬に山葵を添えたのがある。一体ロシヤではどれほどの白鱘魚《しろちょうざめ》を塩漬にするのやら!

 Zは日曜になると、スーハレフ広場*へ古本を漁りに行く。「可愛いナーヂャへ。作者より」という献詞のついた父の著書をみつける。
*モスクヴァの広場。日曜市が立つ。

 ある役人が知事夫人の肖像を胸にぶら下げている。七面鳥を胡桃で飼い肥らせて、彼女へ進物にする。

 頭脳は明晰で、心性は純潔で、肉体は清楚でなければなりません。

 ある奥さんが養猫場を営んでいるという評判が立った。そこで彼女の恋人は、尾を踏んづけて猫たちを酷い目にあわせた。

 その士官は妻君と一緒に風呂屋へ行く慣わしだった。そして二人とも従卒に洗させるのだった。明かに彼を人間扱いにはしていなかったので。

 ――そこへあの男が勲章に威儀を正して現われたのさ。
 ――はてな、あの男の持ってる勲章っていうと?
 ――九七年の国勢調査の有功銅章だよ。

 ある官吏が、全課目に五点を貰って来たと云って息子を打擲する。成績不良だと思ったのだ。あとで人から、それは君の方が悪い、五点は満点だと聞かされたが、それでもまた息子を殴りつけた。今度は自分に腹が立ったので。

 頗《すこぶる》る善良な男が、岡っ引に間違えられそうな御面相をしている。ワイシャツの飾ボタンを盗んだのは彼だと、皆がそう思っている。

 真面目一方の、袋みたいにずんぐりした医者が、とてもダンスの上手な娘に恋をする。そして彼女の気に入ろうと、マズルカの稽古を始める。

 雌雀には、雄雀《おっと》の鳴声がチュッチュッ囀るのではなしに、とても上手な歌に聞える。

 家に引籠って静かな生活をしていると、人生は別に異状もないように見える。ところが一あし街へ出て、観察の眼を働かせて見ると、例えば女に色々と物を問いかけたりして見ると、人生はじつに凄惨だ。パトリアルシエ・プルドィ*のあたり一帯、見かけは平穏無事だけれど、その実あすこの生活は地獄なのだ。
*モスクヴァの公園と街の名。「僧正ケ池」の意。

 この赤い頬ぺたをした奥さんや老婦人たちは、湯気が立つほど健康だ。

 領地は間もなく競売に出る。何から何まで貧乏くさい。従僕だけは相変らず道化役みたいなお仕着せをきている。

 神経病や神経病患者の数が殖えたのじゃない。神経病に眼の肥えた医者が殖えたのだ。

 教養があるほど不仕合せだ。

 人生は哲学と背馳する。怠惰のないところに幸福はなく、無用の物だけが満足を齎《もた》らす。

 お祖父さんに魚を食べさせる。もしもお祖父さんが中毒しないで、命に別条がなかったら、家じゅうの者が魚を食べる。

 文通。青年が文学に身を捧げることを夢みて、年中その希望を父親に書いてよこす。とうとう役所をやめて、ペテルブルグへ出て文学に専心する。――検閲官になったのだ。

 一等寝台。六、七、八、九号の旅客。話題は嫁のことである。世間一般では姑《しゅうと》のことで苦労するが、われわれインテリは嫁のことで苦労する。「私の長男の嫁はなかなか教育があって、日曜学校や図書館の世話を焼いています。けれど手前勝手な、気性の烈しいお天気屋で、肉体的にも嫌悪を催させます。食事の時など、何かの新聞記事のことがもとで、いきなりヒステリを起したりするんです。実に思いあがった女ですよ。」

 もう一人の嫁。――「人なかに出るとちゃんとしていますが、家の中じゃ恥もへったくれも無い女で、煙草は喫むし、けちん坊です。お砂糖を齧りながらお茶を飲むときなど、お砂糖を唇や歯の間に挟んだままで物を言うんです。」
*ここまではロシヤ人普通の習慣。

 Meshchankina*
*「町人女」という意味の女の苗字。

 ロマーンは、本性は不身持の悪い土百姓のくせに、召使部屋では他《ほか》の者の身持を取締るのを義務と心得ている。

 でぶでぶと肥った小料理屋の女将。――豚と白|鱘魚《ちょうざめ》の混血児。

 マーラヤ・ブロンナヤ*で。――一ぺんも田舎へ行ったことのない少女が、田舎の感じにひたって、夢中になってその話をしている。遊歩道や梢の鳥を念頭に置きながら、人真似鴉や大鴉や仔馬の話をしている。
*モスクヴァの街の名。

 コルセットをした二人の若い士官。

 ある大尉が、自分の娘に築城術を教えた。

 文学上の新形態のあとを追って、必ず生活上の新形態が生じて来る(予言する者)。だからよく保守的な人間精神にひどく毛嫌いされるのである。

 神経衰弱にかかっている法律家が、片田舎の家に帰って来て、フランス芝居の独白を朗読する。――朗読はとんちんかんな馬鹿げたものになる。

 人間は好んで自分の病気を話題にする。彼の生活の中で一番面白くない事なのに。

 例の知事夫人の肖像を胸にぶらさげている役人は、金貸しをして、ひそかに一財産こしらえている。彼が十四年間も肖像をぶらさげていた前の知事夫人は、今では後家になって、病身で、その町の郊外に住んでいる。その息子が何か手違いをして、四千の金が要る。彼女はこの役人を訪れる。彼は夫人の話を退屈そうに聴き終ってから、こう言う。――
「折角ですが何のお力添えも致し兼ねますな、奥さま。」

 男と交際のない女はだんだん色褪せる。女と交際のない男はだんだん馬鹿になる。

 病身な宿屋の亭主が医者に頼む――「私が病気になったとお聞きになったら、お招きしないでもどうぞ来て下さい。家の妹は吝嗇ですから、どんなことになったって貴方を呼びに行きはしますまい。往診料には三ルーブルお払いします。」一二カ月してから医者は、亭主が重態だという噂を聞く。そこで出掛けようとしていると、その妹から、「兄は亡くなりました」という手紙がとどく。五日たって偶然その村へ行った医者は、宿屋の亭主がついその朝死んだことを知る。憤慨して宿屋へ行く。喪服を着た妹が、部屋の隅に立って詩篇を誦んでいる。医者は彼女を吝嗇だ薄情だと非難しはじめる。妹は詩篇を誦みながら、二三句ごとに罵り返す。(「お前さんみたいなのは掃くほどいるよ……。何だってのこのこやって来たんだよ。」)彼女はこちこちの旧教徒で憎悪に燃え、凄い剣幕でがなり立てる。

読書ざんまいよせい(014)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」


トロツキーの「田園交響曲」はまだまだ続く
第一章 ヤノウカ(続き)

 私達は大佐が建てた小さな土の家に住んでゐた。藁葺きの屋根は軒の下に無數の雀の巢の張り場所となつてゐた。外側の壁は、蛇の孵化所である深いひヾで疵痕だらけになつてゐた。時としてこの蛇は毒蛇と間違へられて、ひゞの中へサモワルの熱湯を流し込まれることがあつたが、何んの役にも立たなかつた。天井は、大雨の時には雨漏りがした、殊に廣間では、水を受けるために壺や盥が汚い床の上に置かれた。部屋は狭く、窓は薄暗かつた。二つの寢室と、子供部屋の床は粘土で出來てゐて、蚤がうよ/\してゐた。食堂は、每週一回づゝ黄色い砂で磨き上げる木の床を誇つてゐた。嚴かにも接待室と命名せられた座敷の床は、僅かに八步位の長さでしかなかつたが、それでもペンキが塗つてあつた。大佐未亡人はこの部屋に滯在してゐた。
 家の周りには黄色いアカシアや赤や白のバラ、それから夏埸には蔓葡萄が成長してゐた。庭には何等の垣もしなてかつた。父が建てた瓦屋根の大きな土造の家には、鍛冶場、料理部屋、召使部屋などがあつた。その次には『小さな』木造の納屋があり、その向ふには『大きな』納屋が建つてゐた。その向ふに、も一つ『新しい』納屋が建てられた。皆んな盧で葺いてあつた。これらの納屋は石で持上けられてゐたので、その下を流れる水で穀物が黴るやうなことはなかつた。暑い時や寒い時には、犬や、豚や、鶏がこの納屋の中に避難してゐた。そこでは牝鷄が卵を生むに恰好の場所を發見した。私はそれが欲しさによく石の間に這込んで卵を取つたものだ。この隙間は大人が這込むには餘り小さすぎたのだ。每年『大ぎな』納屋の屋根には、鶴が巢を造つてゐた。この鶴は、蛇や蛙を喰べたらしくその赤い嘴を高く空中に上げてゐることがよくあつた。ーーそれは恐しい光景だ!鶴の體は、嘴のところから下に向つてのたうつて行つた、そしてそれは恰も蛇が内側から鶴を喰つてゐるやうに見えた。
 この納屋は、新鮮な嗅ひのする小麥、荒い刺のある大麥、滑つこくて殆ど液體のやうな亞麻仁、冬葡萄の靑綠色の房、それから輕くて細かい燕麥などを納めた貯藏室に分かれてゐた。子供達が隱れん坊をして遊んだ頃には、時に特別のお客さんが來た時などは、この納屋の中に隠れることを許されたものだ。私は仕切りの一つを這渡つて、一つ〇貯藏都屋に這入り、小麥の山を迅登つて、他の側へ沿り落ちたものだ。私の腕は肘まで、私の脚は膝まで滑り落ちた小麥の束で埋められ、あちこち引き裂かれたシャツや靴には麥粒がいつぱいになつた。納屋の戶は閉められて、體裁のために誰かヾ外から南京錠を、ゲームの規定に從つて、閉めないで引つかけて置くのであつた。私は殺物の中に埋つて埃を吸ひながら凉しい納屋の中に横り、Y ちやんとか、J ちやんとか、S ちやんとか、或ひは妹のリザとかその他の人が、他の者を見つけても私を見つけず、庭の中をあちこち走つてゐるのを聞きながら冬小麥の中に溺れてゐたものだつた。
 厩、牛小舍、豚小舍、それから鷄小舍などは皆、私達の住居の反對側の方に建つてゐた。これらは凡て、泥と藁と木の枝とで出來てゐて、粘土をもつてどうにかくつゝけ合せてあつた。高い|はねつるベ<傍点>が、中天高くこの家から百ヤード位も伸上つてゐたので、泥と肥料と藁で作り直さなければならなかつた。この井戶の向ふには、この農家の菜園に水を注ぐ池が横つてゐる。春の洪水は、每年堰を持つて行つた。池の上の小山の上には水車小屋が立つてゐた。ーーこの木造小舍は十馬力の蒸氣エンヂンと二個の臼石とを持つてゐた。母は、私の幼年時代の最初の幾年かの間、彼女の勞働時間の大部分をこゝで過したのである。この製粉所は私達の所有地のため許りでなく、同じく近所全體のためにも動いてゐたのである。百姓達は十哩乃至十五哩四方から彼等の穀物をもつて來て、製粉のためにその十分の一を拂つて行つた。暑い時や打穀間際には、製粉所は晝夜兼行で動いた、そして私が讀み書きを覺えてからは、私が百姓達の穀物を計り、製粉の値段を計算することになつてゐた。收穫が終ると製粉所は閉塞され、動力は打穀のために持ち出された。その後新しい石と瓦で造つた建物の中に、据ゑつけの動力が備へられた。私達の古い土造の家も、ブリキの屋根を非いた大きな練瓦造りに換へられた。然しかうしたことのあつたのは、私がもう十六歲にもなつてからのことである。前年の夏休みの間,私は新しい家のために窓と窓との距離を計算したり、扉の大きさを計つたりしたが、結局說計を完成することは出來なかつた。私がその次に田舍を訪れた時、私は石の土底の築かれてゐるのを見た。私はその家には住なかつた。その家は今日ソヴイエツトの學校に使はれてゐる。
 百姓達は、彼の穀物が挽上るまでに、製粉所で往々二三週間も待たされることがあつた。近くに住んでゐる連中は、袋を順番に列べておいて家へ歸つて行つた。遠くから來た者は、自分の馬車の中で寢起きし、雨の降る時には製粉所の中で寢た。この百姓の中の一人が、一度馬勒を失くしたことがあつた。誰かゞ或馬の側を一人の子供がうろ/\してゐるのを見た。百姓達はその子供の親爺の所へ押寄せて行つて、藁の下を檢べた。ところがそこに馬勒があつたのだ!陰氣な髭を伸した百姓の、その少年の父は、この罪を被せられた小さな惡人、不埒な惡漢は、その馬勒を自分でも知らないで取つたのであつて、彼がそれを隱くしてやらうとしたのであつたことを神に誓つて、東に向つて十字を切つた。然し誰もこの父親を信じた者はなかつた。そこでその百姓は彼の息子を捕へて、その盜まれた馬勒で打ち始めた。私はこの光景を大人達の背後から眺めてゐた。その少年は悲鳴を舉げて、二度と再びやらないからと誓つた。百姓達はその少年の悲嗚には何等の關心を持たないで、陰氣くさゝうに覗き込んでゐた。彼等は煙草を吸ひながら、親爺は尤もらしく體裁だけに息子を打つてゐるが、彼自身が鞭打たるべきなのだと、髭だらけの顏,でぶす/\云つてゐた。
 納屋や家畜小舍の向ふ側には、數百フイートの、二個のべらぼうに長い小舍が伸てゐた。一つは蘆で出來てをり、他は藁で出來てゐて、切妻屋根の形をした壁なしで、直接土地に横つてゐた。新鮮な穀物はこの小舍の中に積上げられ、雨降りや、風のある日は、人々はこの中で唐箕と篩とをもつて働いた。この小舍の向ふには脫穀場があつた。谷を渡ると搾乳場があつて、その壁は全部乾いた肥料で出來てゐた。
 私の幼年時代の生活の凡ては、大佐の土造の家と、そこの食堂にあつた古い安樂椅子とに結びつけられる。この安樂椅子はアメリカ杉に見えるやうに被せ木がしてあつて、私はお茶の時にも、晝食にも、夕食にもその上に坐つた。こゝで私は妹と人形をもてあそび、また後には讀書をしてゐた。覆ひはふた處裂けてゐた。小さな穴はイ.ワン・ワシリエヴヰツチの坐つた椅子に近い部分にあり、大きな方は父の次の私の坐つた處にあつた。『この安樂椅子も新しいカバーが欲しいな』といつもイ・ワン・ワシリエヴヰツチが云つてゐた。
『ずつと以前にさうしなきあならなかつたのさ。』と母はよく答へたものだ。『私達はツアーが殺された年からカバーをかけ換へないのだよ。』
 すると父は自分でそれを辯明したものだ。『然しお前たちは、或人がそのいまわしい町に着くと、彼は彼方此方と奔走する辻馬車は高い、そこで彼は最初から終りまで、どうかして早く農場へ取つて返さうかと考へてばかりゐる、そして彼が何にを買ひに來たのかすつかり忘れてしまふ。と云ふ話を知つてるだらう。』
 一本の粗木の、ペンキも塗つてない垂木《たるき》が、食堂の低い天井を走つてゐた、そしてこの上に凡ゆる品物が自分のゐどころを發見してゐた。卽ち猫が這入らないための設備の板金、釘、絲、書物、紙で栓をしたインク壺、古い錆びたペンのくつゝいたペン。ヤノウカには一本の餘計な.ペンもなかつたのだ。こゝでは、私が古い繪入り雜誌『野原』を見て馬を書くために、私は食事用のナイフを使つて自分で木切れでもつてペンを造つたことがあつた。煙突の出てゐた天井の下に、猫が住んでゐた。煙突が餘り暑くなつて來ると、その猫は自分の子供達を口に啣へて、勇敢に飛下りた。背の高いお客はテーブルから立上る時には、彼の頭を垂木で打つたものだ。それだものだから、私達は天井を指差しながら『頭に氣をつけなさい』と云ふ習慣をもつてゐた。
 客間の中で最も驚くべき品物は、尠くとも部屋の四分のーを占領してゐる古いスピネツト(ピアノの前身)であつた。私はそれが來た時のことを覺えてゐる。凡そ十五哩許り離れたところに住んでゐた、或破產した地主の細君が、町へ移つて彼女の家具を賣拂つたことがあつた。私達は彼女からソフアーと、三個の曲木《まげき》細工の椅子と、何年間も納屋の中に納つてあつた、破れた、絃のついてゐる、古い潰れさうなスピネツトとを買つたのである。父はその品物に十六ルウブルを支拂ひ、それを馬車に積んでヤノウカへ運んで來た。それを鍛冶場で檢査した時に、中から二匹の死んだ二十日鼠が出て來た。鍛冶場は冬の幾週間かの間、スピネツトで占領せられてゐた。イヴン・ワシリエヴヰツチはそれを掃除し、膠でくつ付け、磨いて新しい絃を見つけて’その中へ入れて調子を合せた。鍵盤はみんな改へられ、かくてスピネツトの聲が客間に響くに至つたのである。それは弱々しい音ではあつたが、我慢のならないものだつた。イヴン・ワシリエヴヰツチは彼の魔法のやうな指を、彼の手風琴の階調からスピネツトの鍵盤に移して、カマリンスカヤとかポルカとか、『我が愛するオーガスチン』などを演奏した。私の長姉も音樂の稽古を始めた。私の長兄はエリザヴェートグラードで數ケ月ヴアイオリンの稽古をしてゐたので、時々下手な彈奏をやつてゐた。そして最後には、私も兄のヴアイオリンの音譜を見て、一本の指でやつてゐた。私は音樂を聞く耳がなかつたので、私の音樂に對する愛はつひに生長されずに終つてしまつた。
 春になると庭は泥の海に變つた。イヴン・ワシリエヴヰツチは、木靴と云ふよりは、むしろ木製の半長靴を自分で造つた、そして私は彼が譜段の背丈《せたけ》よりー呎方高くなつて步くのを、嬉しがつて眺めてゐた、時には年寄りの馬具師が出て來ることもあつた。誰も彼の名は知らなかつたやうた。彼は八十を越した老人で、ニコラスー世の軍隊に二十五年間勤めてゐたのである。白い髭と髮とをもち大きな廣い肩を見せて、彼は彼の巡歷工場が備へつけてある納屋を橫切つてのろ/\と步きなながら、やつとのことで彼の重い足を動かした。『私の足は段々弱くなる』と彼は十年前から繰返してゐた。反對に革の臭ひのする彼の手は、釘拔きよりも强かつた。彼の爪はスピネツトの象牙の鍵盤に似てゐて、その先はとても銳かつた。
『モスコウが見せて欲しいかね?』とこの馬具師が訊ねた。勿論見たい! するとその老人は彼の拇指を私の耳の下へ當てゝ持上げた。彼の恐るべき爪が、私の身體へ喰込んで、私は痛められ傷けられた。私は、自分の足を蹴つて降りようとした。『モスコウが見たくなけりや、そんなにしなくもいゝだ。』痛められた癖に私は逃げはしなかつた。老人は納屋の梯子を登りながら、『よおオ!』と云つた。『この屋根部屋の中に何にがあるかを見てゐな。』私はトリックがあるかも知れないと思つて這入つて行くことを踌躇した。それは次の結果になつた、一等年少の粉屋のコンスタンチンと料理人のケテイとが屋根部屋にゐるのだ。兩人とも美しくて、陽氣で働き手である。『何時お前とケテイとは結婚しょうと云ふのだい』と主婦が訊ねると『どうしてヾございます、私達は御覽の通り大變うまく行つてをりますのでございます。結婚するとなると十ルウブルもかゝります、でございますからむしろ私はケテイに靴を一足買つてやりますよ』とコンスタンチンが答へたのである。
 草土帶の暑い、きびしい夏が終つて、刈入れと收梗の骨の折れるクライマツクスが過去ると、一年間の苦役を始末する早秋が來る。今度は脫穀機が全速力で震動する。活動の中心は、家から四分のー里もある小舍の向ふの脫穀場へ移された。埃の雲が脫殼場の上をいつぱいにしてゐる。脫毅機の音は泣き聲を立てた。眼鏡をかけた粉屋のフィリップがその側に立つてゐる。彼の黑い髭は灰色の埃で蔽はれてゐる。人々は小麥束を馬車から運んで來る。彼は運んで來る人々には見向きもしないで、それを受取り、束を解き、別々に振離して脫穀機の中へ投込む。一抱え每に脫穀機は骨を啣へた犬のやうに唸り立てる。藁を選分ける機械は、麥藁が進んで行くにつれて、それを選出しては吐き出す。籾殼は橫側のパイプから吐出され、齒止めの上の藁の積重なりの所まで運ばれて行き、私は機械の木製の臺尻の上に立つて、手綱でそれを押へてゐる。『落ちないやうに要心してゐろよ』と父が怒鳴る。それでも私は十遍もひつくり返つた。私は或時は藁の中へ落ち、また或時は粗殼の中へ落込む。灰色の埃の雲は脫穀場を厚く蔽ひ、エンヂンは呻き、殼は人々のシヤツや、鼻の中に這入つて嚏をさせる。『お、いフイリツプ、早すぎるぞ。』脫穀機が餘り兇暴に唸り出すと、父は向ふの方から注意する。きは齒止めを揚げる。とそれは私の手から滑り出して、その全部の重さが私の指の上に落ちかゝる。その痛さと來たら、頭がくら/\する程の烈しさであつた。私は、泣顏を人々に見られないやうに横側から滑り降りて、家へ駈けて歸つた。母は私の手に冷い水をかけて、私の指を繃帶するが、然し痛さは止まない。そして傷は濃んで數日の間私を苦しめる。
 今度は小麥の袋が納屋や小舍にいつぱいになつて、庭の中に防水布で蔽うて高く積上げられる。時時は主人自ら篩の側に立つて、籾殻を吹飛すためには、どうして箍を廻すか,どうしたら一度力强く押すと、出來上つた穀粒が一粒も殘さすに、堆植の中へ落るかを、人々にやつて見せる。風除けのある小舍や納屋の中では、簸別機と風劉丹離機とが動いてゐる。そこでは穀粒が仕上げられて、市場へ出す準備がせられるのである。
 さてその次には商人がお錢の袋と、奇麗に塗つた箱入れの秤とをもつてやつて來る。彼等は我粒を檢査し、値を立てゝ手付け金を父に押しつける。私達は彼等をいと丁寧に待遇して、お茶や菓子を振舞ふ。然し私達は彼等に穀物を賣りはしないのだ。彼等は雜魚に過ぎないのだ。主人はかうした商賣の道には長けてゐる。彼は自分の仲賀商人をニコラエフに持つてゐるのだ。『まあ暫くこのまゝにして置きませう、穀物は飯を喰はせろとは云ひませんからね。』と彼が云ふ。
 一週間も經つとニコラエフから手紙か,時によつては電報が來て、ーフードにつき五コペツク以上も値を揚げて來る。『そこで吾々は千ルウブル儲けたと云ふものだ。』と主人が云ふ。『これは何處の䉤からでも出來るんぢやないんだ。』然し時にはあべこべの事が起る。時として値が落ちるのである。世界市場の目に見えない力がヤノウカにさへ響くのである。すると父はニコラエフから歸つて憂鬱さうに『どうも今年はーー何んと云つたけーーアルゼンチンから小麥を積出し過ぎたらしい。』と云ふのだ。

読書ざんまいよせい(013)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(003)

 ある四等官が美しい景色を眺めて曰く、「何たる絶妙な自然の排泄作用*じゃ!」
*「営み」というつもりで生半可な術語を使った。

 老犬の手記から。――「人間は料理女《コック》さんの棄てる雑水や骨を食べない。馬鹿な奴!」

 彼の持っているものといったら、天にも地にも学生生活の思い出しかなかった。

フランスの諺。―― Laid comme nu chenille.毛虫の如く醜し。(大罪業の如く悪し。)
*原文にunとある。

 男が独身を守ったり女が老嬢で通したりするのは、互いに相手に何の興味も起させないからだ。肉体的な興味をすら。

 大きくなった子供達が食卓で宗教論をやって、断食とか坊主とか云ったものをこき下ろす。年寄りの母親は、初めのうちかんかんになって怒る。そのうちに慣れたと見えて、ただにやにや笑っている。やがての果てには、なるほどお前達のいう通りだ、私もお前達のお宗旨になりますよと、だしぬけにそう言い出す。子供達は気持がわるくなった。この婆さんこの先なにをやり出すことやら、子供達には見当がつかなかった。

 国民的科学というものはない。九九の表に国民的も何もないように、国民的なものは既に科学ではない。

 脚の短い猟犬が街を歩いて、自分の足の曲がっているのを羞かしく思った。

 男と女のちがい。――女は年をとるにつれて、ますます女の仕事に身を入れる。男は年をとるにつれて、ますます女の仕事から遠ざかる。

 折悪しくもち上ったこの思いがけない恋愛沙汰は、次のような場合にそっくりだ。――子供達をどこか散歩に連れて行く。散歩はなかなか愉快で賑やかだ。そのとき突然、一人の児が油絵具を食べちまった。

 ある登場人物が人の顔さえ見れば言う、――「そりゃああなた、蛔虫《むし》ですよ。」そして自分の娘に蛔虫の療治をする。娘は黄色くなった。

 無能ななまくら学者が二十四年間も勤続して、結局なんの貢献もせず、御自分同様に見識の狭い無能な学者を何十人と世に送り出しただけだった。彼は毎夜ひそかに製本をする。これが彼の真の天職なのだ。この道にかけては名人で、深いよろこびを感じている。彼のところに、学問好きの製本屋が出入りしている。これは毎夜こっそりと学問をする。

 コーカサス公が白い長衣を着用して、無蓋の文芸欄《フーイトン》*に乗って行かれた。
*馬車(フェーイトン)との発音の類似から来た間違い。

 ひょっとしたらこの宇宙は、何かの怪物の歯の中*にあるのかも知れぬ。
*歯の間に(銜えられての意)の言い違いだ。

 ――右へ寄らんか*、この黄眼玉**め!
*ロシヤは右側通行が慣わしである。
**冬期ペテルブルグに出稼ぎした百姓馭者の蔑称。

 ――食《あが》りたいのですか?
 ――いや、その反対です*。
*これでは「吐きたい」という意味になってしまう。

 腕が短かくて頸の長い懐妊の奥さん、カンガルーそっくり。

 人を尊敬するのは何という楽しいことでしょう。私は本を見ても、作者がどんな恋をしたか、カルタが好きだったかどうか、などということは一切気になりません。私はただ彼の嘆称すべき仕事を見るだけです。

 恋をするなら必ず純潔な相手を選べというのは、つまりエゴイズムです。自分にはありもしないものを女性に求めるなんて、それは愛じゃなくて崇拝です。人間は自分と同等の者を愛すべきですからね。

 いわゆる子供のような純な生活の悦びとは、動物的な悦びに他ならず。  私は子供の泣声は我慢がならない性分です。しかし自分の子の泣くのは聞えませんよ。

 中学生が或る奥さんに、レストランで昼飯を御馳走する。懐中には一円二十銭。勘定は四円三十銭。金がないので彼は泣き出した。亭主は耳朶をつまんで引張った。奥さんと話していたのはエチオピヤの話だった。

 打ち見たところ、キャベツを添えた腸詰のほかは一切お嫌いらしい男。

 事業の大小は懸ってその目的にあり。目的の大なる事業を大事業という。

 ネフスキイ通り*を馬車で行くとき、左のかた乾草広場を眺めたまえ。煤煙色の雲、団々たる赤紫色の落陽。ダンテの地獄だ!
*ペテルブルグの中央にある広小路の名。

読書ざんまいよせい(012)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)

手帖より
一八九二 年―― 一九〇四年

 人類は歴史というものを、戦闘の系列《つらなり》と考えて来た。なぜなら今までは、闘争が人生の主眼だと心得ていたのだから。

 ソロモンが智慧を希ったのは、とんでもない過失だった。
注】以下4字下げ
*チェーホフの遺稿の中にソロモンの独白を自筆で浄写したものが残っていた。
―― ソロモン(一人)ああ、人の世の生《せ》は何と暗いことだ。子供心に怖ろしかった闇夜の暗さも、今の一寸先も見えぬ生き様ほどに、俺の心を怯え上らせたことはなかった。神よ、御身が父ダビデに授けられた能といえば、ただ言葉を音に結び合わせ、絃に合わせて御身を讃め歌い、甘い涙を流し、人々の眼にも涙を誘い、そして美に微笑みかけることでしかなかったのに、この私にはそのうえに、何故この喘ぎ悩む魂や、眠りもやらぬ飢えた思念を授けられたのだ。塵から生れ出た虫けらのように闇のなかに身を遊、 絶望と恐怖とにがくがくと総身を顫わせながら、有りとある物象に解きがたい秘密を見、また聞く。
この朝が来たのは何の意《こころ》か? 寺院《みてら》の陰から太陽が昇って、棕櫚の樹を金色に染めたのは何の意《こころ》か? 女の美しさは何のためにある? あの鳥はどこへ急ぐのだ? 所詮はあの鳥も雛鳥も、また急いでゆく目当ての場所も、この俺と同じに塵ひじと化するものなら、 ああして翔ることに何の意味がある? ああ、いっそ生れない方がましだった。それとも、眼も思念《おもい》も授かっておらぬ石にでもなった方がましだった。夜が来るまでに身体《からだ》をへとへとに疲れさせて置こうと思って、 昨日はひねもす平《ひら》人足のように、寺院に大理石を運搬して見た。それが今こうして夜になったのに、やっぱり俺は眠れない。もう一ぺん行って寝て見よう。フォルゼスが言うには、駆けて行く羊の群を心に描いて、いつまでもそれを思い続けていれば、やがて意識朦朧となって寝入れるとのことだ。それをやって見るとしよう。……(退場)

 世間普通の偽善者は鴿《はと》を気どるが、政界や文学界の偽善者は鷲を気どる。しかし、彼等の鷲のような威容に面喰うには及ばない。彼等は鷲ではなく、たかだか鼠か犬に過ぎない。

 われわれよりも愚昧で汚穢なもの、それが民衆である。行政上では納税階級と特権階級の二つに分けている。しかしどんな分け方も当らない。何故ならわれわれは 悉く民衆であり、われわれの為す最も善いことは、即ち民衆の仕事だからだ。

 モナコ公がルーレツトを持っている以上、ましてや徒刑囚はカルタぐらい弄んだっていい筈である。

 イヴァン*は恋愛哲学を並べることはできたが、恋愛はできなかった。
*チェーホフの弟。

アリョーシヤ お母さん、僕は病気のお蔭で頭が鈍っちまって、今じゃまるで子供の頃みたいなんです。神様に祈ったり、泣いたり、喜んだり……。

 なぜハムレットは死後に見る夢のことを苦に病んだりしたのだろう。この世に生きていたって、もっと怖ろしい夢がやって来るのに。
 フェルトの長靴じゃいけませんわ。
 なる程これじゃ見っともないな。縁を縫わせなくちゃいけないね。

 父親は病気になったので、シベリヤへ行かせて貰えない。
 お父さん、あなたはちっとも御病気じゃないのね。だってほら、ちゃんとフロックを召して、長靴を穿いて……。
 わたしはシベリヤへ行きたいんだよ。釣竿を持って、エニセイかオビ河の岸辺に腰をおろす。渡舟には懲役さんや移住民が乗っている。……此処のものは何を見ても虫酸が走るよ。窓のそとのあの紫丁香花、砂の敷いてある小道……。

 寝室。月の光が窓から射し入って、肌着の小さなボタンまでも見える。

 善人は犬の前でも恥かしさを感じることがある。

画像は、Wikipedia より。
本文、訳文の著作権は消失している。

読書ざんまいよせい(011)

◎バルザック「人間喜劇」カタログとゴリオ爺さん(001)

 書店に立ち寄り、偶然手にしたのが、バルザック「『人間喜劇』総序・他」(岩波文庫)、「総序」も興味深いが、カタログ(1845年)を見ているだけで、十分「人間喜劇」に浸っている気がした。カタログに挙げられている130編余の小説のうち、有名所をほんの数編しかかじっただけだが、例えば、山の写真を見て、日本百名山を踏破したような気分である。もっとも百名山の登頂は半分を少し達成したが、まずは、一生のうちに「人間喜劇」のたとえ半分も読むことはないだろう。とりあえず、文庫の「付録」にあった「カタログ」の一部から抜粋。(余力があれば全カタログを紹介する。

第I部風俗研究 ÉTUDES DE MŒURS
[l] 私生活情景 Scénes de la vie priveé
(1『子どもたち Les Enfants』)
(2『女子寄宿学校 Un Pensionnat de demoiselles』)
(3『寄宿学校内 Intérieur de collége』)
4『毬打つ猫の店 La Maison du chat-qui-pelote
5『ソーの舞踏会 La Bal de Sceaux
6『二人の若妻の手記 Méoires de deux jeunes mariées
7『財布 La Bourse
8『モデスト・ミニョン Modeste MignonJ
9『人生の門出 Un début dans la vie
10『アルベール・サヴァリュス Albert Savarus
11『ラ・ヴァンデッタ La Vendetta
12『二重家庭 Une double familleJ』
13『家庭の平和 La Paixdu ménage
14『マダム・フィルミアニ Madame Firmiani
15『女性研究 Étude de femme
16『偽りの愛人 La Fausse MaîtresseJ
17『イヴの娘 Une fille d’Éve
18『シャベール大佐 Le Colonel Chabert
19『ことづて Le Message
20『ざくろ屋敷 La Grenadière
21『捨てられた女 La Femme abandonnéeJ』
22『オノリーヌ Honorine
23『ベアトリクス Béatrix ou les Amours forcées
24『ゴプセック Gobseck
25『三十女 La Femme de trente ans
26『ペール・ゴリオ Le Pére Goriot(ゴリオ爺さん)
27『ピエール・グラスー Pierre Grassou』→パリ生活情景
28『無神論者のミサ La Messe de l’athée
29『禁治産 L’Interdiction
30『夫婦財産契約 Le Contrat de mariage
(31『婿と姑 Gendres et belles-mères』)
32『続女性研究 Autre étude de femme

 数少ない読了小説で、一番印象深かったのは、26『ペール・ゴリオ』(ふつう、『ゴリオ爺さん』という名で親しまれている。その頃、シェイクスピアの「リア王」を読み、芝居も覧たので、思いの外、プロットが似ていることが、興味のそそるところだったのかもしれない。
 当方が、実際のカルチエ・ラタンの現場に佇んでいた経験をもった、だいぶ以前のことである。
 続くかどうかは、自信はないが、その冒頭部分、(角川文庫昭和26年11月26日版小西茂也訳で、作者はもちろん、訳者の著作権も消失している。青空文庫にもないはずである。)図は、岩波文庫表紙と角川文庫版「ゴリオ爺さん」挿絵
— ここから「ゴリオ爺さん」
    偉大にして令名赫赫たる
     ジョセフロウ・サン・ディレール*へ
     その著作と天才を讃美するしるしとして
          ド・バルザック
*注)ジョセフロウ・サン・ディレール(1772-1844)動物學者。變態說論者。キュヴイエ・ガルなどと共にバルザックに大きな影響を與えた。

 本文は、新字新かなづかい(創元社版)、ただし挿絵などは旧かな版からも転載した。

第一章 下宿屋
第二章 二つの訪問
第三章 社交界への登場
第四章 不死身
第五章 二人の娘
第六章 爺さんの死

登場人物

ゴリオ爺さん
 かつて製麺業者として成功し、莫大な財産をきずいた商人。だが、愛妻を亡くしてからは、嫁いだ二人の娘の言うがままになって、ヴォケール夫人の下宿屋でひっそり暮らす。

アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人
 ゴリオ爺さんの上の娘。「サラブレッド」とあだ名される。父親から金をひきだすのがうまく、それがまた妹との喧嘩をひきおこす。

デルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人
 銀行家に嫁いだゴリオ爺さんの下の娘。名門に嫁いだ姉にたいする嫉妬にさいなまれている。ラスティニャックを夢中にさせ、親しくなる。

ウージェーヌ・ド・ラスティニャック
 野望を胸にパリに出てきた二十二歳の青年。勉学に励んで学位をとる道と、社交界に進出して地位を手に入れるという、二股をかけた生活を送ろうとする。

ヴォーケル夫人
 下宿屋の女主人。世間の苦労をなめつくしたやり手のおかみ。

ヴォートラン
 得体の知れない四十がらみの大男。ラスティニャックの野心を見ぬき、金銭の援助を申しでる。

ボーセアン子爵夫人
 パリ社交界の女王の一人。ラスティニャックの遠縁で、彼の上流社会進出に力をかす。恋の手練手管をラスティニャックに教えながら、いっぽうでは社交生活に虚しさを感じている。シルヴィ 下宿屋の太っちょの料理女。

ヴィクトリーヌ・タイユフェル
 百万長者の父親に認知してもらえず、死んだ母の遠縁にあたるクーチュール夫人と下宿屋にひっそりと暮らす娘。

ビアンション
 ラスティニャックの友人の医学生。

ダジュダ・パント侯爵
 ポルトガルの富裕な貴族。ボーセアン子爵夫人の愛人。

下宿屋

 ヴォーケル夫人は旧姓コンフランという年配のおかみさんで、もう四十年来パリで下宿屋を開いていた。カルチエ・ラタンとフォーブール・サン・マルソーの間にある、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りでのヴォーケル館といえば、すこしは人にも知られ、下宿人に老若男女を迎え入れていたが、相当に信用があるその下宿館の風儀を、ついぞ云々《うんぬん》せられたこともなかった。もっともここ三十年、若い連中をお客にしたことは一度もなかったし、家からの仕送りがよっぽど乏しければ別だが、若い身空でいて腰が落ち着けるような下宿屋でもまたなかった。
 けれどこのドラマの始まった当時の一八一九年には、一人の貧しい娘がそこに下宿人になっていた。ドラマなる言葉は最近のロマンチック文学で、ふんだんに濫用されて歪められた結果、すっかり信用を堕《おと》してしまっているが、ここではぜひともその語を用いておく必要がある。なにもそれは言葉の本来の意味からいって、この物語がドラマチックだからというのではない。一巻のこの物語が果てるや、パリの城壁の内と外で、おそらく若干の涙が流されるであろうからである。だがこの物語は、パリ以外のところでも、十分に解ってもらえるだろうか? そうした疑問も一応はもっともだ。観察だくさんで、しかも地方色に溢れた本情景の特異性といったものは、モンマルトルの岡とモンルージュの高台にはさまれ、いまにも崩れ落ちそうな壁土とどぶ泥の溝川とで、名を売ったこの谷底のなかでもなければ、その真味を知るわけにはゆかぬからである。

読書ざんまいよせい(010)

◎蒼ざめたる馬(004)
ロープシン作、青野季吉訳

 三月二十八日。

 知事は確かに彼の生命に對する企てを知つた。昨夜彼は、突然ボドゴルノエへ出立した。私達はそこへ尾けて行つた。ヴアニャ、フエドル、ハインリヒは異つた場所で見張りをした。 私は町を彷徨つた。それが私の定められた役目だつた。
 私達はいま彼のこを十分知つてゐる。失敗する筈はない。すぐ日を決めてよい。ヴァニャが第一に……

 三月二十九日。

 アンドレエ・ペトログツチはこゝに居る。彼は、中央委員會の一員で、諸鑛山での長い年月の勞働と西比利へ追放されたことを誇としてゐて、古い革命家の生活をしてゐるのである。 憂鬱な眼と失つた灰色の髪を持つてゐる。
 我々は一緒に料理屋へ登った。
「ねえ。ヂヨーヂ君。」彼は惶てたやうな様子で始めた。「少時《しばらく》仕事を延ばそうと云ふ話しが出てるゐるんだがね。君はどう思ふかね?」
「給仕!」と私は呼び立てた。「蓄音器で『コルネヴイコの鐘』をやれ。」
「君は他事《よそ》々々しくしてゐるが」と彼は言った。「非常に重大な事だよ。我々の現在の策略と下院の仕事とどうして調和し得るか?我々は確實な周到な立場を保たなけりやならない。一方かまたは他方なんだ。立憲主義に適合して下院に這入つて行くか、若くは、明らさまに反對して、そして……それから勿論……ね、どう思ふね?」
「どう思ふつて!どうも思はないさ。」
「然し、よく心を定めて呉れ給へ。事情は君を―‐君達の團隊をだよ--除外するかも知れないから。」
「何?」 私は寧ろ鋭く訊ねた。
「除外すると云ふのは適當な言葉ぢやない、然し--ね、どう云つたらよいか?… 勿論我々は分つてゐる……ねぇヂヨーヂ君、我々は了解してる……それが我々の仲間をどんなに失望させるか知つてゐる。我々は高い価値をおいてる……そして、要するに未だ何事も定つてはないんだ」
 彼の類は檸檬《レモン》のやうに黄く、眼の周りに皺があつた。彼は、場末の惨めな下宿に住んで、酒精ランプで湧かした茶を啜って、一冬《ひとふゆ》薄い外套を着て、企らんだり議論したりして時を費してるたに違ひない。彼は『仕事をしてゐた』のであつた。
「アンドレエ・ペトロヴッチ」と私は彼に言った。「決心なんぞは打捨つて置き給へ。君の勝手にしていゝ譯だ。君達がどんな決定をしやうと、やはり僕達は仕事を続けるばかりさ。」
「本統にそうか?君は中央委員の決定に歸しないのか?」
「然し、ジョーヂ君。」
「それが僕の最後の言葉だ。アンドレエ・ペトロヴツチ。」
「それならどうする?」彼は私をせがんだ。
「うむ。」
「仕事をどうする?」私は言ひ返した。
 彼は溜息をして、私に手を差した。
「君の今言ったことを僕は彼等に云ひはしない。」と彼は言った。「どうにか甘く行って欲しいものだ。君は僕を怒ってやしないだらうね?」
「さよなら、ヂヨーヂ。」
「さまなら、アンドレエ・ペトロヴツチ。」
 空は寒さの近い兆に星で一杯であつた。狭い荒れた通りは不思議な光景を呈してゐた。 アンドレエ・ペトロヴツチは汽車に間に合ふのに急がなければならなかった。可哀そうなお爺さん、可哀そうな父《とつ》ちゃん坊つちやん!······それでもまあ彼等のは天國だ。

三月三十日

 私はまたエレーナの家の近くをぶらつき始めた。それは巨大な、灰色な、重々しい建物だ。 地主は商人のキユボロソフだ。エレーナはそんな立派な家にどうして住んでることが出来るんだらう。
 霜の中に立つて、閉ちた扉の前を何度も行つたり來たりして、起つて来そうもないことを待つ てゐるのは、馬鹿々々しいと云ふことを私は知つてゐる。ひょつとして彼女に遭ったとしても、 それがどうなることか?何にもならないのだ。
 私は昨日大通りでエレーナの夫に會つた。最初私が遠くから彼を見た。その時彼は寫真を見るのに或店の窓際に立ち止つたのであつた。彼は私の方へ背中を向けてゐた。私は這いて、彼の傍に止った。彼は背の高い、細々して、頭髪の見事な、二十五位の男で、士官だ。
 彼は見返つてすぐ私が分つた。私は彼の眼の中に悪意と嫉妬とを認めた。彼が私の眼に何を認めたかは知らない。
 私は彼に嫉妬もしてゐなければ、彼を嫌つてもゐない。然し彼は私の邪魔になつてゐる。そこに物或物が在る。 彼を眺めたときに私には次の言葉が思ひ浮んだ。
 今日は雪がして小川は傾斜地を走つてゐる。水が日光にキラ/\輝いてゐる。 雪が溶け 田舎の空氣には春の匂ひ、興奮させるやうな森の濕りがある。夜はまだ霜が下るけれど、 日盛りには地面は滑らかになつて屋根からは滴りが落ち始める。
 この前の春を私は南方で過した。夜は參宿《オリオン》の輝きがあるばかりでのやうに闇であつた。 朝、私は海へ出る道でよく砂利濱を歩いた。 ひーず《傍点》は森の中で蕾がふくらみ、白百合もやはりそうだ。私は懸崖に登った。焼くやうな陽光は私の頭上にあり、遙か下方に海の透き通るやうな靑さを見ることが出來た。 蜥蜴は石の上を匍ひ、蚊は空中に羽を鳴らしてゐた。 私は熱い石の上に軀を伸して波の音に入ることが好きだった。時が過ぎて、物は忽ち私の眼から消えて仕舞ふ――海も、森も、春の花も。全宇宙が生命の無限の歓びに滿ちた巨大な一軆となつた・・・・・・そして 今は?
 私の友達のベルデユームの士官が、コンゴーで服務した闇の生活を私に語った。そこには
彼が唯一人で、五十人の黒人兵士を率いてゐた。彼の哨兵線は大きな川の岸に在つた。太陽は少 しもほどよい濕さを送らず、發黄病の不斷の危険のある所であつた。對岸には彼等の王と法律と 有つてゐる黑奴の獨立部落があつた。晝は夜に続き、再び晝が来た。朝も、晝も、晩も、彼は 砂の岸のある同じ濁つた川、靑く光つた同じ爬蟲類、分らない言葉をかつてゐる同じ黒人を見る のであった。折々暇つぶしに彼は銃を取つて茂つた葉の中にある毛の頭を打った。
 彼の兵士が岸の黒奴を一人捕虜にすると、それを一定の場所において、暇つぶしに射撃の標的にした。逆《ぎやく》にまた、彼の方の一人が對岸で捕へられると、手足を切取られて、川の中に立たせられ、頭だけ出して一晩中そうしておかれた。翌日には彼の首は切られた。
 白人が黑人と異いがあるかどうか私は疑ふ。異ひは何であるか?選擇がなされなければなら ない。「汝殺す可からず」か――この場合、我々の凡ては、黑人があると同じに、人殺しだ。また は「眼には眼、齒には齒」か――この場合には、辯解する必要はない。私の望みはそうだ。 そして 私は私の好きなことを實行する。申譯や、他人の意見を非常に氣にする中には、臆病の要素が含 まれてみないか?何故人は、人殺しと呼ばれることを怖れ、英雄と呼ばれることを欲するか?要するに、他人の言ふことに向つて、私は何を氣にするか?
 ラスコルニコフは婆さんを殺して、婆さんの血で彼自身が息を止められた。ヴアニアは殺す爲 めに出てゐる。彼は幸福を感ずるであらう。 彼はそうであらうか、私は疑ふ!愛の爲めにそれをするのだと、彼は言ふ。しかし愛は存在するか?キリストは實際三日目に死から甦つたか?······ それはみんな言葉に過ぎないのだ・・・・・・。否《いな》。」
  お前の襦袢の虱《しらみ》が、
 「お前は蚤《のみ》だ」とお前を嘲ったら
 引きづり出して殺して仕舞へ。

著者・訳者とも著作権は消失している
図は、ザヴィンコフ「テロリスト群像」(上)岩波現代文庫 表紙

読書ざんまいよせい(009)

◎アントン・チェーホフ「いいなずけ」と「作家の手帳」(訳者はしがき)

 赤旗4月19日「金曜名作館」に、「アントン・チェーホフ没後120年」と称し、特に、彼の最後の小説「いいなずけ」が取り上げられていた。(画像左)
 晩年の彼のテーマ「古い時代からの人それぞれの決別」に連なるものだが、どうもそれだけではなさそうだ。「新しい生活」に決心だけではなく、実際踏み出した女性の物語である。それと、その女性への指南役として、自らをモデルとした人物を配している点である。
 小説の結末はこうである。
「 ナージャは祖母の泣き声を耳にしながら、長いあいだ部屋を歩きまわっていたが、やがて電報を取り上げて読んだ。きのうの朝サラトフでアレクサンドル・チモフェーイチ、つまりサーシャが結核のために亡くなったという知らせだった。
 祖母と母親のニーナ・イワーノヴナは追善供養の手配に教会に出かけたが、ナージャはまだ長らく部屋のなかを歩きながら考えていた。ナージャはありありと意識した──自分の人生はサーシャが望んだようにその方向を転じたんだと。自分がここではひとりぼっちで、必要とされない赤の他人であるとも意識した。また、自分にとってもここの一切が不必要なものとなり、一切の自分の過去もわが身からもぎ取られ、めらめらと燃えあがり、その灰までもが風に吹き飛ばされるようにかき消えてしまったことをありありと感じた。ナージャはサーシャの部屋に入って、しばらくたたずんでいた。
 《さよなら、いとしいサーシャ!》──ナージャは心のなかでサーシャに別れを告げた。するとナージャの前に、新しい広々としたはてしない生活が開けてきた。それはまだおぼろげで謎だらけだが、ナージャの心をつかんで、おいでおいでと差し招いていた。 ナージャは二階の自分の部屋に行って荷物をまとめると、その翌朝、家の者に別れを告げ、元気に意気揚々とこの町をあとにした。もう戻ることはないと考えながら。」(浦雅春訳)
 読者は、ヒロインの行く末をかれこれ予測し、「革命家」という意見が多かったとある。小説の書かれた、1903年のロシアといえば、それまでの一定の停滞を経て、「革命」の高揚期、しかし反面では昏迷をも内に含んだ転換期の入り口にも当たる。その中では、ヒロインはどんな革命家の道をたどったのだろうか?「社会革命党(エスエル)」に代表されるザヴィンコフのようなテロリストだろうか?また、やがては、スターリンやプーチンにもつながる独裁者の登場を助ける役割を果たすだけなのか、それとももっと新しい別の基盤のある「革命家」なのだろうか?まさか、前二者であるはずはないし、当たり前だが、チェーホフは何も語ることなく、1904年に世を去った。そして今はとりわけ大事なのは、チェーホフが語ったかもしれないメッセージに思いを馳せようではないか!

 続編として、神西清訳の「チェーホフの手帖」を少しずつ、テキスト化するのを目論んでいる。とりあえずは、訳者の神西清の「はしがき」から

はしがき
 これは作家チェーホフの私録である。その成り立ちについて簡単に左に記す。チェーホフの死後、妻オリガ・クニッペル=チェーホヴァの手もとに、一冊の手帖が保存してあった。それはチェーホフが、折りにふれての感想や、将来の作品のための腹案や、スケッチや心覚えの類を、丹念に書きとめて置いたものである。なかには読書の折りなどに彼の心を打ったと思われる、他の作家からの抜き書きなども見受けられる。この手帖は一八九二年に始まって一九〇四年に終っている。つまり彼がサガレンの旅から帰還の後、なか一年を置いて『隣人』や『六号病室』などを書いた年を起点にして、『桜の園』の上演によって祝祷された彼の最後の年に及んでいるのである。してみるとこの手記の年代は、作家としての彼の円熟期に当っており、忘れがたい幾多の名作をその背景にもっているわけである。
 この手帖とは別に、チェーホフの遺した手稿の束のなかから、特に『題材・断想・覚書・断片』と表に記した紙包みが発見された。このばらばらの紙片に書き込まれてあるものも、内容からいえば手帖と同じ性質のものである。年代的にもまず同じ時期のものと推測される。
 これらの私録をチェーホフがどんなに大切に扱っていたかは、彼がわざわざノオトブックを用意してその大部分を浄書していたことからも察しのつくことである。何かの作品に織り込まれて使用ずみになった分は、彼の手で抹殺してある。尤もそれが作品の中に形を変えて導き入れられている場合には、生かしてこの本にも収めてある筈である。こうした編纂者の配慮のおかげで、私たちはチェーホフの制作過程の一斑にも接し得るわけである。例えば『三人姉妹』の台詞の草案などがその例である。
 しかしこの私録がチェーホフの死後に持つ意義は、勿論そんななところにとどまっているのではない。この貴重な私録は、チェーホフの発想の秘密を私たちに解体して見せている。その断ち切られた一片ごとに、チェーホフの智慧が異様な光を放っているのである。
『日記』はー八九六年から一九〇三年にわたっている。言いかえると、彼が『わが生活』を書き『かもめ』を発表した年から、『許婚』や『桜の園』を書いた年までである。原本には『日記よリ』となっていて、或いは誰かの手で抄出されたものではないかと疑わせるが、文章の姿にまでその手が及んでいようとは考えられない。彼の手紙がひどく饒舌なのと裏返しに、彼の日記は恐ろしく簡潔なスタイルをもっている。この内外両面の対照は興味ぶかいことである。この日記の性格は彼の手帖に酷似している。
 この手帖と日記のほかになおーニの文献的な資料を添えて、私は四年前にやはり『チェーホフの手帖』と題した本を上梓したことがある。書肆は芝書店であった。今度その本の中から純粋にチェーホフの私録だけを取り出して刊行するに際しては、ほとんど改訳にちかい斧鉞《ふえつ》を加えたことを申し添えたい。稀覯《きこう》の原本を貸与された伊藤職雄氏、 訳者の疑問を解きつつ懇切な助言を惜しまれなかったM・グリゴーリエフ氏の御好意に深い感謝を捧げる。
ー九三八年秋
神 西 清
(元本は、画像右)

参考】
・馬のような名字 チェーホフ傑作選 (河出文庫) 浦雅春 (訳)
・チェーホフの手帖(新潮文庫) 神西清訳