読書ざんまいよせい(037)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(011)

編者注】神西清が訳した「チェーホフの手帖」は、実は、まだ作品に使われていない題材に限られており、その一部分にすぎない。その他、小説や戯曲に使われたメモは、中央公論社「チェーホフ全集」に池田健太郎訳で収録されている。今後、チェーホフの小説を扱う投稿の中で、「部分引用」の形で、紹介する機会もあろう。

 劇団の座頭《ざがしら》兼舞台監督が、寝床の中で新作の脚本を読む。三四頁読むと愛想が尽きて、床《ゆか》に叩きつけ、蝋燭を消して毛布にくるまる。暫くすると思い直して、また脚本を拾って読みはじめる。やがてまた、だらだらした無能な作品に腹が立って、また床に叩きつけ、また蝋燭を消す。暫くするとまた読みだす。……やがて上演したら、散々の不評だった。

 Nは気むずかしい陰気な重苦しい男だが、それでいてこんなことを言う、「私は冗談が好きですよ。いつも冗談ばかり言っています。」

 妻は小説を書く。それが夫の気にくわない。だが気持のこまやかな男なので、それが言い出せず、死ぬまでそれで悩み通す。

 女優の運命。――はじめは、ケルチ(クリミヤの町)の裕福な良家の娘、生の倦怠、何か満ち足りない心境。――舞台に立つ、慈善事業、燃えるような恋、やがて情人達。――最後に、毒を仰いで自殺を図る、未遂。それからケルチ、肥った伯父の家での生活、孤独の愉しさ。女優には酒も結婚も妊娠も禁物だということを、彼女はしみじみと悟る。演劇が芸術になるのはまだまだ未来のことだ。今のところは未来のための闘いのみ。

 (憤然と訓戒口調で)「なぜ俺に、お前の女房の手紙を読ません?親類ではないか。」

 神よ、願わくは我をして、自《みず》ら知らずまた解さぬことを非難し或いは語らしめ給うな。

 なぜみんな弱者だの陰気者だの不道徳漢ばっかり描くんでしょうな? そう言って、強者や健康者や面白い人間だけを描けと忠告する時、人は暗に自分自身を指しているのである。

 戯曲のために。――何ということなしに嘘ばかりついている男。

 補祭 Katakombov*《カタコムボフ》.
*地下の納骨所。

 文芸批評家N・N。尤もらしい、自信たっぷりの、非常にリベラルな男だ。彼が詩の話をする。彼はすぐに相手の説を認める、なるほど仰しゃる通りでと言う。――天分の少しもない男だなと云うことが、私にはすぐ分った(私は彼のものは読んだことがない)。誰かが、アイ・ペトリ(クリミヤの山)へ行こうと言い出す。雨が降りそうだからと私は反対したが、やっぱり出掛けることになる。泥濘《ぬかるみ》の道、雨が降り出す。批評家は私の隣に腰かけている。私は彼の無能さを感じる。連中は彼にお世辞を使って、僧正のように持ち上げる。帰り途は晴れたので、私は徒歩で帰った。何と人々は好んで自己偽瞞をやりたがることだろう。何と彼等は予言者や占者が好きなのだろう、まったく何という衆愚どもだ! まだそのほかに、一行のなかには中年の勅任官がいた。彼が沈黙を守っていたのは、自分を正しいと考えて、その批評家を軽蔑していたからであり、また同じく天分がないからでもある。利口な人達と同席しているので、微笑《わら》うまいとするお嬢さん。

 Alexej《アレクセイ》 Ivanych《イヴァヌチ》Prokhladiteljnyj《プロクラディチェリヌイ》氏(冷やす)、或いはDushespasiteljnyj《ドウシェスパシチェルジニー》氏(魂を救う)。お嬢さん曰く、「あの人の所へ嫁ってもいいけど、Prokhladiteljnaja《プロフラジチェルナハ》夫人なんて厭な名ね。」

 動物園長の夢。先ず最初にモルモットが動物園に寄附される。次に駝鳥、次に禿鷹、次に羊、それからまたもや駝鳥。寄附が際限なく続くので、動物園は満員になる。――余りの怖ろしさに園長は目をさます、汗びっしょりになって。……

 馬を車に附けるのは鈍《のろ》いが、馬車を走らせるとなると速い、そんなところがこの国民の性質の中にある――と、曾《かつ》てビスマルクが言った。

 役者というものは金があると、手紙を出さずに電報を打つ。

 昆虫界では芋虫から蝶々が出る。人間界では反対に、蝶々さんから芋虫が出る。

 飼犬は食物を呉れて可愛がって呉れる主人たちにはなつかないで、打《ぶ》ってばかりいる赤の他人の料理女になついた。

 ソフィーは、吹抜け風で愛犬が風邪を引きはしまいかと心配だった。

 この辺の地味はすばらしく上等です。ためしに梶棒《かじぼう》を植えて御覧なさい、一年たったら馬車が生えますよ。

 非常に考えの進んだ、自由思想の持主であるXとZとが結婚した。ある晩、仲よく話をしているうちに、口論をはじめて、やがて掴み合いになった。翌る朝、お互いに恥かしく、狐につままれたような気持がする。あれは何か例外的な神経作用だったのだろうと考える。次の晩もまた口論と掴み合い。それが毎晩つづいた挙句に、自分達も別に教養がある訳ではなく、世間並みの野蛮人なのだということにやっと気がついた。

 戯曲。客を避けるために、下戸のZが大酒家のふりをする。

 子供が出来ると、私たちは妥協癖や町人根性などという持ち前の弱点を、そっくり「これも子供のため」とかこつける。

 ――伯爵様、わたくしはモルデグンヂヤ*へ参ります。
*「しゃっ面の国」ほどの意。

 Varvara《ヴァルバーラ》 Nedotiopina*《ネドチョーピナ》嬢。
*「できそこない」ほどの意。

 技師または医師Zが、編輯長をしている伯父を訪問する。面白くなって、度々訪ねて行くうちに寄稿をする様になり、だんだん自分の仕事を投げやりにする。ある夜更け編輯局を出てから、ふと思い出して、頭を抱える――万事休す! 白髪がふえる。それからと云うものこれが習慣になって、すっかり白髪頭になり、皺だらけになる。そして尊敬すべき、しかし名も無い出版屋になった。

 三等官の老人が、子供たちに見ならって、自分も自由主義者になる。

 新聞『輪形パン』。

 サーカスの道化役――これは才物である。彼と話をしている案内人は、フロックを着てはいるが凡俗である。嘲りの薄笑いを浮べた案内人。

 ノヴォズィブコフ*から出て来た伯母さん。
*欧露の町の名。「新しい揺籃」ほどの意。

 あの男は脳軟化症にかかったので、脳味噌が耳へ漏って来たんですよ。

 なに、文士だと? よし五十銭で文士にしてやる。それでもなりたいか?

 正誤表。――Perevodchik《ベレヴォツチク》(訳者)はPodriadchik《ポドリアツチク》(請負師)の誤植。

 四十になるみっともない無能な女優が、晩飯に鷓鴣《しゃこ》を食べた。私は鷓鴣が可哀そうでならなかった。この女優よりもこの鷓鴣の方が、生涯どれだけ才能あり怜悧であり潔白であったか知れないと、今さらに思い偲んだ。

 医者は私にこう語るのを常とした、「もし君のからださえ保《も》つなら、思う存分に飲みたまえ。」(ゴルブーノフ*)
*十九世紀後半の俳優兼民話作者。

 Karl《カルル》 Kremertartarlau《クレメルタルラウ》君。

 野原の遠景、白樺が一本。その画の下の題銘に曰く、孤独。

 客たちは帰った。彼等はカルタをしていた。帰った後の乱雑さ――一ぱいにこもった煙草のけむり、ちらばった紙きれ、皿小鉢。しかし肝腎なのは、黎明と回想。

 馬鹿者に褒められるより、その手に掛って討死した方がましだ。

 持主が死んだら、どうして樹がこうも見事に繁るもんですか?

 登場人物が図書室を備えている。だがいつも他家《よそ》へお客に行っている。さっぱり閲覧者がないのである。

 人生はいかにも宏大無辺なものに見えはするが、人間はやっぱり五銭銅貨の上にちょこなんと坐ってるのさ。

 ゾロトノーシャ*だって? そんな町はない! あるもんか!
*欧露の町の名。「金を含有する」の意。

 彼は笑うとき、歯と上下の歯茎を見せる。

 彼は心を擾さぬ文学が好きだった。即ちシラー、ホメロス等々。

 女教師Nが、夕方家に帰る途中で、知合いの女から思いがけない話をきく。それは、Xが彼女を恋していて、結婚を申込もうと思っている、というのである。不器量で、結婚のことなどついぞ考えたこともなかったNは、帰宅してから、怖ろしさのあまり長いこと顫えている。それから、その晩は一睡もせずに、泣き明かす。やがて明けがた近くになると、Xを慕うようになる。ところがその日のお午《ひる》ごろ、あの話はただの当て推量で、Xの求婚の相手は彼女ではなく、Yであることを知る。

 四十五歳の女と関係して、やがて怪談を書きだした。

 私は印度へ行った夢を見ました。するとその地方の領主とか王侯とかいう人から、象を贈られました。しかも二匹も贈られたんです。その象にすっかり悩まされて、とうとう眼がさめました。

 八十爺さんが六十爺さんを相手に話している、「よくも恥かしくないね、お若いの!」

 教会で「今日ぞ吾等が救いの|はじめ《グラヴィーズナ》」を合唱している時、彼は家で魚の頭《グラヴィーズナ》のスープを煮ていた。ヨハネ斬首の日には、首に因む丸いものは一さい口に入れなかったが、家の子供たちを打ちのめした。*
*「斬る」と「打つ」は同じ語根sekを有する。

 記者が紙上に嘘を書いたが、本当を書いた様な気がしていた。

 孤独が怖ければ、結婚をするな。

 御本人は金持だが、お母さんは養老院にいる。

 お嫁さんを貰って、家具を入れて、書き卓《つくえ》を買って、文房具を揃えた。ところが何一つ書くことがなかった。

 ファウスト曰く、「なんでも用に立つ事は知ることが出来ず、知っている事は用に立たぬ。*」
*この句は鴎外の訳による。

 嘘をついても人々は信じる。ただ権威を以て語れ。

 やがて墓の中にひとり横たわるように、実際の俺は一人ぼっちで生きている。

 ドイツ人が言う、「主よ、われら蕎麦菓子《グレシネヴィキ》*を憐れみたまえ。」
*Greshniki(罪人)を言い違えた。

 「ああ、私の大事な吹出物《おでき》さん」と許嫁《いいなずけ》がうっとりした声で言った。相手はちょっと考えていたが、やがて腹を立てて――破談になった。

 瓶はフニアジ・ヤノス*の瓶だが、中には桜ん坊か何かの酢漬けがはいっている。
*鉱泉水の名。

読書ざんまいよせい(036)

◎エーリヒ・ケストナー「終戦日記一九四五」(岩波文庫)


 ナチスに批判的で、戦時中執筆禁止だったドイツの児童文学作家ケストナーの、1945年2月7日から8月2日までの書きとどめた日記、時には、今から振り返るとナチス幹部とそれを支えた民衆の滑稽さはあるが、根底にはそれに対する怒りと悲しみを表明する。
 「戦後」の記述だが、ある女優がヒトラーと向かい合って、お互い、手を斜めに挙げるハイル・ヒトラーの敬礼と、握手で手を差し伸べる動作を繰り返したなど、チャップリンの映画のようである。
 「ドイツ人には国民になる素質がない」という彼の言葉は、私たちにとっても十分に重い。
 被害だけではなく、今もなお続く、加害の歴史も含めて、「1945年を銘記せよ!」

読書ざんまいよせい(035)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(010)

 Nは毎日Xの家へ行く。色んな話をしているうちに、心から彼に共鳴してしまう。と急にXが、居心地のいい自分の家を出て他所《よそ》に移る。Nは彼の母親に、どうして移ったのかと尋ねる。「貴方が毎日いらっしゃるからですよ」と母親が答える。

 いとも詩的な婚礼だったのに、やがて――何という馬鹿ども、何という餓鬼ども!

 愛。それは昔は大きかった何かの器官が退化した遺物か、それとも将来何か大きな器官に発達すべきものの細胞か、そのどっちかである。現在のところそれは、満足な働きをせず、ひどく期待はずれな結果をしか与えない。

 大そう知識のある男が、一生のあいだ催眠術だの降神術だのと嘘をつきとおす。人もそれを真に受ける。――いい男なのだが。

 一幕目で立派な紳士のXが、Nから百ルーブル借りる。そして四幕を通じて返さない。

 お祖母さんには息子が六人と娘が三人あるんです。ところでお祖母さんが誰を一番可愛がっているかというと、いま監獄にはいっている飲んだくれの出来損いなんです。

 神父 Ierohiromandrit《イエロヒロマンドリート》*
*Ierei(司祭)+Arhimandrit(掌院)

 工場の支配人のNは、若くて財産もあり妻子もある、幸福な男だったが、『X水源の研究』という論文を書いて大いに好評を博した。或る学会の会員として招かれたので、職務を抛ってペテルブルグへ出て、妻君を離別し、身代限りをし、とうとう死んでしまった。

 ――(アルバムを見ながら)この醜面《しやつつら》は一たい誰です?
 ――それ、叔父さんですわ。

 ああ、戦慄すべきは骸骨ではなくて、私がもはや骸骨に恐怖を感じないという事実だ。

 良家の少年が、我儘で悪戯っ児で強情で、家内じゅうの頭痛の種だった。父は官吏でピアノを弾く男だが、息子に愛想がつきて、庭の奥へ連れて行って殴りつけた。そのときはいい気持だったが、やがて厭な気持がして来た。息子は士官になったが、何事にも嫌悪を感ぜずにはいられなかった。

 Nが長いあいだZの愛を求めている。彼女は非常に信心ぶかい娘。彼が結婚を申込んだとき、彼女はいつか彼から贈られた乾枯びた花を、祈祷書のなかに挿んだ。

 Z――町へ行くんなら、序でにこの手紙を郵便函へ抛り込んで呉れ。
 N――(頓狂に) 何処へですって? 何処に郵便函があるんだか知りませんね。
 Z――それから薬種屋へ行って、ナフタリンを買っといで。
 N――(頓狂に) 忘れますね。そのナフタリンていうなあ。

 海上の暴風。法律家の眼には犯罪と映じるに相違ない。

 Xが友人の領地にお客に行った。素晴らしい領地だが、従僕たちはXを冷遇した。友人は彼を大人物扱いにして呉れるが、居心地の悪いこと夥しい。コチコチの寝床で、寝間着も出してないが、請求するのは何となくてれくさかった。

 私の姓はKúritsyn《クーリツィン》じゃありません。Kuritsyn《クリーツィン》ですよ。*
*それぞれ「牝鶏」と「喫煙」の派生語。

 稽古。
 妻 『パリアッチ』の節《ふし》はどうでしたかしら。ミーシャ、ちょっと口笛でやって見てよ。
 夫 舞台じゃ口笛は禁物だ。舞台は――お寺だよ。

 コレラが怖くって死にました。

 追善供養に釘を持ち出すが如し。(不似合いの譬え。)

 千年の後、ほかの遊星の上で、地球について交わされる会話。――「ねえお前、あの白い樹をおぼえてるかい……。」(白樺)

 Anakhthema《アナフテマ》!*
*Anathema《アナテマ》(呪詛の語)の発音違い。

 Zigzakovskij《ジグザコーフスキー》,Oslitsyn《オステリツィン》,Svinchutka《スヴィンチュトカ》,Derbalygin《ヂェルバリジン》.*
*「ジグザグ」「牝驢馬」「小豚」「法螺吹き」

 お金を持った女。ところ嫌わずに蔵《しま》い込んである。頸筋にも脚の間にも。……

 ク・ク・ク・ハ・ハ・ハ!

 こうした一切の手続け。*
*但し原語には、英語のProcedure《プロセデュア》を勘違いしてPrecedure《プㇾセデュア》と言ったほどの可笑味がある。

 総べてこういうこと(解雇の件)は、大気の現象ぐらいの気持でやりなさい。

 医師会議のときの会話。第一の医師がいう、「どんな病気でも塩で癒ります。」第二の医師(これは軍医)がいう、「どんな病気でも塩を断てば癒ります。」第一の医者は自分の妻を例に挙げる。第二の医者は娘を例に挙げる。

 母親は思想のしっかりした婦人。父親も同じ。二人とも講義を受持っている。学校、博物館、等々。夫婦はお金をためる。ところが子供達は凡くら揃いで、金をどしどし使う、相場をやる。……

 Nは十七の年にドイツ人に嫁いだ。夫に従ってベルリンへ行って住んだ。四十歳で後家になった時には、ロシヤ語もドイツ語も碌に話せなくなっていた。

 その夫婦は客好きだった。客がいないと夫婦喧嘩がはじまるから。

 そりゃアブサードな話ですな! そりゃアナクロニズムですな!

 「窓を閉めなさい! 汗を掻いてるじゃありませんか! 外套を着なさい! オーヴァシューズを穿きなさい!」

 時間が足りなくて困るようになりたかったら、何んにもせずにいて見たまえ。

 俺もさんざ向う見ずをやって来たが、そろそろ娑婆ともお別れらしいぞ。

 夏の朝、日曜日、馬車の音がきこえる。あれは弥撒《ミサ》に出かけたのだ。

 彼女は生れて初めて手に接吻された。すると彼女は堪らなくなって、夫への愛が冷め、「脱線して」しまった。

 何と妙《たえ》なる名よ。聖母の涙、駒鳥、鴉の眼*。……
*いずれも花の名。

 肩章をつけた林務官、生れてこのかた森を見たこともない。

 その紳士はマントン(南仏)の近くに別荘を持っている。それは、トゥーラ県の領地を売った金で買い入れたのだ。その彼が、所用でハリコフにやって来たとき骨牌《カルタ》で負けて、この別荘を人手に渡すのを私は目にした。それから鉄道に勤めて、やがて死んだ。

 晩餐のとき美人を見て、噎《む》せてしまった。やがて別の美人を見て、またもや噎せてしまった。そんな工合で晩餐ができなかった。美人が大勢いたので。

 大学を出たての医者が、レストランの監督をする。「医師監督御料理。」彼はナルザン鉱水の成分を筆記する。学生達の信任を得て、店は繁昌する。

 あの人は食べたのではない、味わったのだ。

 女優の夫。妻の祝儀興行のとき、得意満面でボックスに納まって、ちょいちょい起ち上ってはお辞儀をした。

 O・D伯爵家の昼餐。肥って、さも大儀そうな従僕たち、不味いカツレツ。金はあり余っていながら、何か出口のない袋小路の感じ、家風《しきたり》に縛られて動きのとれない感じ。

 郡医が言う、「医者でなくて、誰がこの天気の悪いのに出歩くものですか。」――これが自慢で、人の顔さえ見れば愚痴をこぼし、自分の勤めほど面倒な職業はこの世にあるまいと鼻高々である。酒は飲まず、屡々医学雑誌にそっと投稿するが、載った例しはない。

 Nの夫は陪席検事を振り出しに、地方裁判所の判事を経て、やがて控訴院判事になった、平均点の上でも下でもない、面白味のない男である。彼女は夫を熱愛する。息を引取るその時まで愛しつづける。夫の不行跡が耳にはいると、優しいいじらしい手紙を書く。臨終のときも、いじらしい愛の表情を浮べて死ぬ。彼女は明かに夫を愛していたのではなくて、もっと高尚で立派な、存在しない誰かしら他の人を愛していて、この愛を夫に注いだのである。やがて彼女が死んだあとで、その家には彼女の足音がきこえた。

 彼等は禁酒会員だけれど、ときどき小さなグラスで一杯だけやる。

 真実は最後の勝利者だと人は言う。だがこれは真実ではない。

 賢者は言う、「これは嘘だ。だがこの嘘がないと民衆は生きて行けないし、またこの嘘は歴史的に神聖化されているのだから、いま直ちにこれを撲滅するのは危険だ。まあ幾分の修正を施すぐらいのところで、当分は放って置く方がいい。」天才は言う、「これは嘘だ。だから存在してはならぬ。」

 M.I.Kladovaia《エム・イー・クラッドヴァイア》夫人*。
*お蔵、物置き。

 口髭を生やした中学生が、気取って片足だけ軽くびっこをひく。

 年功だけの無能な作家が、まるで高僧みたいな威厳をつくっている。

 X町のN氏とZ夫人は、ともに聡明で教育のある自由主義的な人で、ともに隣人の福祉のために働いている。しかし二人は殆んど未知の間がらで、口を開けばきっと互いに他を嘲笑して、愚昧で粗野な大向うを喜ばせるのだった。

 彼はまるで誰かの髪をひっ掴むような手附きをして、こう言った、「どっこい、こうなったらもう逃がさんぞ。」

 Nは田舎へ行ったことがないので、田舎では冬になると通行はすべてスキイに限られているものと思っている。「ひとつスキイの快味を満喫して見たいものですなあ!」

 N夫人は操を売っている。誰の顔を見てもこう言う、「他《ほか》のみなさんと異《ちが》ってるから、貴方が好きだわ。」

 インテリ婦人、いやもっと正確にいえばインテリ社会に属する婦人は、虚言癖をもって秀でている。

 Nは或る病気の研究、その病原菌の研究に一生のあいだ苦闘した。彼はこの闘いに生涯を捧げ、あらん限りの力を尽した。ようやく死期が迫ったころ突然、この病気は決して伝染するものではなく、ちっとも危険ではないことが分った。

読書ざんまいよせい(034)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」

第二章 私達の鄰人と私の最初の學校

 ヤノウカから一ヴエルスト足ずの所に、デムボウスキイ家の財產があつた。父はその土地を借りてそれへ澤山の營業關係を結びつけた。地主のテオドシア・アントノヴナは嘗ては、知事夫人であつた老ポーランド婦人であつた。彼女は最初の金持ちの夫が死んだ後、彼女よりも二十歲も年下の彼女の支配人のカシミール・アントノヴヰツチと結婚した。テオドシア・アントノヴナは彼女の第二の夫とは永く 一緖にゐなかつたのだが、彼はその後も財產を管理してゐた。カシミール・アントノヴヰツチは背の高い、髭を蓄へた、騷々しい、愉快なポーランド人であつた。彼はよく大きな橢円形のテープルで、私達と茶を飮みながら、騷がしく馬鹿氣た話を幾囘も幾囘も話して、獨特の言葉をくり返しながら、指をポキ/\折つて語調を强めた。
 カシミール・アントノヴヰツチは、蜂がその臭ひを嫌ひだつたので厩や牛小舍から臭ひの來ないだけの距離の所に、蜜蜂の巢をもつてゐた。この蜂は果樹や、白アカシアや、冬葡萄や、蕎麥から筮を造つた。——要するに、蜂は潤澤そのものゝ眞中にゐたのだ。カシミール・アントノヴヰツチはいつも、綺麗な金色の蜜のいつぱいになつた蜂窩の一片を入れて、ナフキンで葢をした二つの皿を私達の所へ屈けてくれた。
 或日イブン・ワシリエヴヰツチと私は、子を取るための鳩をカシミール・アントノヴヰツチから貰ふために出かけた。大きなガランとした家の隅の部屋で、カシミール・アントノヴヰツチは私達に茶やバタや蜜や凝乳などをじめ/\した臭ひのする大きな皿に乘せて出した。私は坐つてコツブのお茶を飮みながら、のろ/\した會話を聞いてゐた。『晚くならないの。』と私はイヴン・ワシリエウヰツチにさゝやいた。『大丈夫少し待つておいで、私達は鳩が鳩小舍に這入るまで待たなくちやならないんだよ。まだ、そこに居るだらう。』私は退屈になつて來た。最後に私達は、穀物小舍の上の鳩小舍の中へ、提燈をつけて登つて行つた。『さあ御覽よ。』とカシミール・アントノヴヰツチが私に叫んだ。鳩小舍は四方に垂木がついてゐて、長くて暗かつた。それは廿日鼠や、蜜蜂や、蜘蛛の巢や鳥の强い臭ひがした。誰かゞ提燈を差出した。『ゐる/\ !捕へなさい!』とカシミール・アントノヴヰツチがさゝやいた。地獄のやうな騷動が起つて、鳩小舍は羽の旋風でいつぱいになつた。一瞬間、私は世界の終りが來て、吾々は何もかも無くしてしまつたやうな氣がした。段々と私は意識を取返して、ひそく聲で云つてゐるのが聞こえた。『こゝにもゐる!こつち/\ーーさう/\、袋にお入れなさい。』イブン・ワシリエヴヰツチは袋を一つだけ持つて行つてゐた。そして歸道の間中、私達は背中で、鳩小舍の中での騷ぎを續けてゐた。私達は鳩小舍を鍛冶場の上に造つた。私はその後、鳩に水をやつたり、小麥や、稷や、パン屑をやるために、一日に十度もそこへ登つて行つた。一週間の後、私は巢の中に卵が二つあるのを發見した。然し私達がこの重大な出來ごとを詳細に觀賞するまへに、鳩は一度に一|番《つがひ》づゝ元の古巢へ歸り始めた。羽を切られた三番がやつと後へ殘つた。そしてこれらも亦その羽が伸びると、私達が彼等のために造つてやつた巢と餌箱のある美しい小舍を後に、飛去つてしまつた。かうして鳩を育てようとした私達の冒險は終つたのである。
 父はT夫人と云ふ强い性格の四十がらみの未亡人から、エリザヴェートグラード近くの土地を少し借りた。彼女の處にいつも侍《はべ》つてゐるのも同じく 一人者になつた牧師で、彼は|かるた<傍點>や音樂その他樣樣なものゝ、愛好者であつた。T夫人はこの牧師と一緖に、私達との契約の條件を見るために、ヤノウカへやつて來た。私達は、居間とそれに績く部屋を彼等に割當てゝ、夕食には、鷄肉のフライやシエリイ酒や、櫻のプデインが料理として出された。食事が終つた後、私は客間に殘つてゐて、牧師がT夫人の側に坐つて、彼女の耳に何事かを笑ひながらさゝやいたのを見た。彼は上衣の前をめくつて、縞ズボンのポケットから、組合せ文字のついた銀の煙草入れを出して、紙卷煙草に火をつけ、まるく煙の輪を吹いた。それから彼は女主人がゐない間に、彼女は小說の中に對話だけを讀むのだと私達に話した。皆は上品に笑つたけれども、批評することは差控へたと言ふのは、私達は彼がそれを彼女に吿げる許りでなく、それに尾に鰭をつけかねないことを知つてゐたからである。
 父はカシミール・アントノヴヰツチと組合で、T夫人から土地を借り始めた。アントノヴヰツチの妻が恰度その頃死んだので、彼に急激な變化が起つた。彼の髥からは灰色の毛が消え、彼は糊の固いカラーをはめ、ネクタイにはネクタイビンを差して、婦人の寫眞をポケツトに入れて步いてゐた。他の凡ての人のやうに、カシミール・アントノヴヰツチも私の叔父のグレゴリイのことを笑つたが、彼が彼の凡ゆる秘密を打開けたのは、グレゴリイにであつた。彼は封筒から寫眞を取出して叔父に見せた。『見て下さい。私はこの美人に云つたのです「御婦人よ、あなたの唇はキツスをするために出來てゐるのです」とね。』と彼は有頂天で殆ど失神しさうな有様で、グレゴリイ叔父さんに叫んだのだ。カシミール・アントノヴヰツチはその美人と結婚した。が結婚生活の一年牛許りを終つた時に、突然に死んでしまつた。Tの領地の廣場で、牝牛が彼を角で突いて、突殺してしまつたのだ。
 F兄弟は、私達の所から約ハヴエルストの所に、數千エーカーの土地を所有してゐた。彼等の家は宮殿のやうであつて、澤山の客室や、撞球室や、その他樣々なもので贅澤に設備せられてゐた。Fの二人兄弟レウとイヴンは、この凡てを彼等の父親テイモシイから相續したのである。そして段々とその相續財産をすり減してゐた。この財產の管理は用人の手中にあつて、二重記入簿記であるにも拘らず、帳簿は缺損を示してゐた。
『グヰツド・レオンテイエヴヰツチは、もし土造の家に住んでゐたなら、私よりもずつと金持ちですよ。』とこの兄の方がよく私の父のことを云つた。そして私達がこのことを父に繰返すと、父は非常に喜んだ。弟のイヴンは、或時、彼等の銃をかついだ二人の臘師と、ー團の白い狼獵用犬を背後に從へて、ヤノウカを馬で乘拔けたことがあつた。こんなことはヤノウカでは嘗て見られないことであつた。『奴さんたちは閒もなく金をみんなすつてしまふだらうがなあ。』と父は不贊成らしく云つた。非運の前兆は、ケールソン縣のかうした諸家族の上にあつた。彼等は凡て非常な速力で下り坂を突進した。そして或者は世襲の貴族に屬し、或者は勤勞の代償として土地を赋與せられた政府の官吏に或者はポーランド人に、或者はドイツ人に、また或者は一八八一年以前に土地を買ふことの出來たユダヤ人に屬する等々、その種千差萬別であるにも拘らず、このことだけは眞理であつた。これらの草土地時代の發見者の多くは、その道に於ける優れた、成巧的な巧妙な自然の掠奪者であつたのだ。
 然しながら私は彼等の凡てが『八十年代』の初めに死んだので、その中の誰をも知らなかつた。彼等の多くは、はした金でゝはあるが、巧妙な機敏さで活動を始め、たとひそれが住々犯罪的なものであつたとしても、彼等は恐るべき財產を造つた。これらの人々の第二代目は、フランスの知識や、自分の家の撞球室や、彼等の信用に對する凡ゆる惡德によつて、新參の貴族になつた。『八十年代』の農業恐慌は大西洋の彼方との競爭を捲起し、彼等を無慈悲に打ちのめした。彼等は枯れた木の葉のやうに沒落した。第三の時代は半ば腐つた無賴漢、人でなし、骨ぬき、早熟の役立たずの一組を、生み出した。
 貴族の敗滅の最高峰はゲルトパノフの一家によつて達せられた。一大村落及びー全郡は彼等の名で呼ばれてゐた。その全地方が一時、彼等に屬してゐたのだ。それだのに年取つた相續人に現在殘されてゐるもわは僅かに千エーカーの土地であるのだ。しかもそれすら二重にも三重にも抵當に這入つてゐた。私の父はこの土地を借てゐたのだが、地代は銀行へ利子に這入つてしまつた。ゲルトパノフは年中歎願書と、農民に宛てた苦情と命令の手紙を書いて暮してゐた。彼は私達所を訪問する時にはいつも煙草と砂糖の塊りを袖の中に隱すのであつた。そして彼の細君も同じことをした。彼女は涎を流しながら、農奴と、グランドピアノと、絹と、香水との彼女の若い時の話しをいつも物語つた。彼等の二人の息子は殆ど無敎育で育つてゐた。弟のヴイクトールは私の家の鍛冶場の弟子であつた。
 ヤノウカから凡そ六ヴエルストの所に、ユダヤ人の地主の一家が住んでゐた。彼等の名はM……スキイと云ふのであつた。彼等は奇妙な、狂つた運命にあつた。彼等の父親のモイセイ・カーリトノヴヰツチは六十歲であつたが、貴族的方面の敎育を受けてゐたことによつて有名であつた。彼はフランス語を流暢に話し、ピアノを彈き、文學を談じた。音樂會でピアノを彈くには彼の左手は弱かつたが右手は大丈夫なのだと彼は云つてゐた。彼の伸び放題にした指の爪が、私の家の古いスピネットの鍵盤を打つと、カスタネットのやうな騷がしい音を立てた。彼は、オジンスキイのポーランド舞踏曲から始めて、いつの閒にかリツツの狂想曲に移り、それから急に『處女の祈り』に落込んだ。彼の會話もそれと同樣に出鱈目であつた。彼はいつも彈奏の最中にそれを止して、立ち上つて、鏡の方へ行つた。そこで誰も側にゐる者がないと、彼は髭をさつぱりさせると云ふ考へから、彼の火のついた卷煙草で口の兩側の髭を燒いた。彼は絕えず煙草を吸つた。そして彼は煙草を吸ふことが嫌いでもあるやうに、それを歎いた。彼は彼の物凄い年取つた細君に、十五年の閒口をきかなかつた。彼の息子のダビツドは三十五歲だつた。彼はいつも顏の半面を白い繃帶で蔽ひ、その上から赤いピク/\動く眼を覗かせてゐた。ダビツドは自殺未遂者であつた。彼は軍隊にゐた時、勤務中の士官を侮辱した。士官は彼を毆つた。ダビツドは士官の頰に平手打ちを食はして兵舍の中へ走り込み、自分の銃で自殺しようとした。彈は彼の頰をかすつた。さうしたわけで彼は今でも、始終白い繃帶をくつゝけてゐるのだ。この罪を犯した兵士は嚴重な軍法會議でやつゝけられたが、然しM……スキイ家の戶主は、その當時まだ生きてゐた――金持ちで、勢力家で、無敎育で、專制家の老カーリトンであつた。彼は全地方を起たせて、孫に責任のないことを明言せしめた。要するに恐らくこの事件は全然嘘ではなかつたのだ。その時以來、ダビッドは彈に擊たれた頰と、氣狂ひの證明書とをもつて暮して來たのだ。
 私が始めて彼等を知つた時、旣にM……スキイの一家は下り坂にあつた。私の幼年時の閒、モイセイ・カーリトノヴヰツチは立派な輓馬に輓かれた四輪馬車に乘つて、よく私達の所を訪問してゐた。私がまだごく少さな、恐らく四つか五つの時に、私は長兄と一緖に^M……スキイ家を訪ねたことがあつた。彼等は大きな、手の行屈いた庭園を持つてゐたが、そこではー―-實際に!―-孔雀が逍遙してゐた。私はそこで生れて始めて、氣まぐれな頭に冠をかぶり可愛いゝ小さな鏡を尻尾につけ、足に拍車をつけたこの不思議な鳥を見たのであつた。孔雀はもの後ゐなくなつた。そしてそれと同時に色色なことが起つた。その庭園の垣はこな/”\に毀され、家畜が果樹や草花を折つてしまつた。此頃ではモイセイ・カーリトノヴヰツチは肥料馬に引かれた荷馬車に乘つてヤノウカへやつて來る。その息子は財產を盛返さうと努力してゐる。然しそれは百姓としてゞあつて、紳士としてゞはない。
『私達は數頭の年とつた馬を買つて、ブロンスタインがやつたやうに、朝のうちそれを乘廻して見たいものだ!』
『あの人達は成功しないよ。』と私の父が云つた。ダビッドはエリザヴエートグラードの市場へ『年取つた小馬』を買ひにやられた。彼は市場の巾を步き廻り、騎兵であつた眼をもつて馬な鑑定し、そしてトロイカを選んだ。彼は夜おそく歸つて來た。家は輕い夏物を着たお客さんでいつぱいだつた。アブラムは手にランプを持つて、馬を見るために玄關《ポーチ》に出て行つた。婦人の一團や學生や若^建が彼に續いた。タビツドは突然彼が得意な境遇にあることを感じた。そして各々の馬のいゝ所を讃美し、特に一頭の馬を讃めて若い貴婦人に似てゐると云つた。アルバムは頣鬚を搔きながら云つた。『馬はみな上等だ。』この騒ぎは小野宴で終つた。ダビツドは美しい若い貴姉人のスリツパーを脫がせ、それにビールを滿して唇へ持つて行つた。
『あなたはそれを飮まうとしてゐるのではないでせうね?』とその少女は、驚愣か、それとも嬉しさかで、顏を赤らめて叫んだ。
『若し私が自殺を恐れないならば……』スリツパーの中味を喉に流し込みながら、吾等の英雄は答へた。
『お前の功名を手放しで自慢するものではないよ。』といつも無口な彼の母が不意に応酬した。彼女は隅の大きな、氣力のない女で、家庭上の凡ゆる車荷が彼女の上にかゝつてゐるのだ。
『あれは冬小麥ですか?』アブラム・M……スキイは彼の拔目なさを示す爲に、或時私の父に訊ねた。
『春小麥でないことは確かです。』
『ニコポール小麥ではないですか?』
『あれは冬小麥だと云ひませう。』
『私もあれが冬小麥であることは知つてますが、然しその種類は何になんです、ニコポールですか、ギル力ですか』
『どれがどうなんだか、私はニコポール冬小麥なんて云ふのは聞いたことがありませんよ。誰か持つてゐる人があるかも知れませんが、私はそんなものを持つたことはありませんよ、私のはサンドーミル小麥なんです。』と私の父は答へた。
 この息子の努力は何等酬ひられるところがなかった。一年後に、私の父は再び彼等から土地を借りた。

読書ざんまいよせい(033)

◎アレクサンドル ゲルツェン「誰の罪」

 まずは、ゲルツェン「ロシアにおける革命思想の発達について」(金子幸彦訳)の訳者の解説から。

 ベリンスキイはその論文『一八四五年のロシヤ文学』(ー八四六)のなかでゲルツェンの小説『誰の罪か?』の特質について語っている。
 「目的とか内容の空しさとかを意に介せずに、ときには無から作品を生み出すところのたかい芸術性というものを示している作品があるが、ゲルツェンのこの小説はこのような作品には属さない。しかしまたこれはつぎのような作品ーーすなわち空想力に欠けた作家が、あたかも論文のなかにおけるように、一定の道徳的問題についてのおのれの思想と見解とを発展させ、性格も動きもまったくないような作品ともちがう。『誰の罪か?」の作者は知力を詩にみちびき、思想をいきいきとした人物に変え、自己の観察の果実をー劇的な動きにみちた行動へ移す不思議な能力をもっている。全巻をとおして現実のなんという驚嘆すべき正確さが見られることであろう。すベては見事に調和している。ーーーつの余分なものもなく、一つの欠けたものもない。文体のおどろくべき独創性、そしてなんとゆたかな知力、ユーモア、機知、愛情、感情が見られることであろう。」

 「誰の罪か?」の日本語訳は、今のところ、大正11年(1922年)の梅田寛訳しか刊行されていないようだ。そこで、利用規約などを参照すると、著作権フリーの文章を「翻訳・公開」するのは、OK のようなので、今回、「機械翻訳」による訳文作成を試みた。とりあえずは、作品の「梗概」などから…これも、ロシア語版Wikipediaおよび Wikiquote に掲載されているので、ライセンス的にはパスである。
 「機械翻訳」なので、日本語的に意味が通じないところの「瑕疵」はあると思われるが、最小限に止め、基本はそのまま掲載する。なお、梅田寛訳を参照したところもあるが、逐一注記しない。
 以上、したがって訳文の二次利用は可能であるが、訳文の正誤までは、当方の責任外である。

 「誰の罪か?」の新訳が現れることを心から期待しつつ…

「梗概」

作者 Gertsen, Alexander Ivanovich
原語 ロシア語
執筆年代 1841-1846
初版発行1846年
出版社 Otechestvennye Zapiski

 「誰が悪いのか』(原題:Who’s to Blame?)は、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ヘルツェンによる二部構成の小説で、1841年から1846年にかけて書かれ、1846年に雑誌に発表された。ロシア初の社会・心理小説の一つであり、ロシアリアリズムの最初の作品の一つである。

プロット

 村に住む地主のアレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロフは、息子のミーシャのために新しい教師を雇う。ドミトリー・ヤコヴレヴィチ・クルシフェルスキーである。
 ネグロフ一家は、読書やその他の知的探求に馴染みがなく、家庭経営に積極的に参加することもなく、取るに足らない仕事に没頭し、大食と睡眠にふけっていた。無作法で無愛想だ。しかし、ネグロフの隠し子であるルバにとっては、このような生き方はまったく異質なものだった。そのため彼女は、同じくネグロフ家の生き方を受け入れられない教養ある青年クルシフェルスキーに近づく。二人は恋に落ちる。ドミートリ・ヤコヴレヴィチはあえて手紙で自分の気持ちを打ち明ける。クルツィフェルスキーの気持ちを察した家庭教師のエリザ・アウグストヴナが彼を助け、恋人たちのデートの約束を取り付ける。元来臆病なクルツィフェルスキーは、手紙を渡すためだけに夜のデートに出かけることにした。恐ろしくなった青年は、目の前にいたのがルボンカではなく、ネグロフの妻グラフィラ・ルボヴナであることを知り、手紙を忘れて逃げ出す。困惑したグラフィラ・ルヴォヴナもまた、イライザ・アヴグストヴナに騙された罪のない犠牲者となっていた。腹立たしく思った女性は、夫に手紙を渡した。アレクセイ・アブラモヴィッチは、この手紙が非常に好都合に発見されたことに気づき、隠し子という重荷を取り除くために、先生をリュボンカと結婚させることにする。結婚に先立つこのようなばかげた状況にもかかわらず、クルツィフェルスキフの家庭生活は幸せで、夫婦は互いに愛し合っていた。この愛の結実がヤーシャ少年であった。二人は家族ぐるみで仲良く暮らし、唯一の友人はクルポフ医師だった。
 この頃、ネグロヴィー県の中心地であるネルン市に、それまで長い間不在だった裕福な地主ウラジーミル・ベルトフが外国からやってきた。彼は貴族選挙に参加するつもりであった[6]。彼の努力にもかかわらず、NNの住民はベルトフを仲間に受け入れず、ベルトフにとって選挙は時間の無駄であった。ある民事事件のためにNNに留まることを余儀なくされたベルトフは、自分の居場所を見つけようとしたこの試みも失敗に終わったことに絶望する。彼はほとんど完全に孤立し、NNでの唯一の友人はクルポフ医師だけだった。彼はベルトフをクルシフェルスキー家に紹介する。ベルトフとクルツィフェルスキー一家は、新しい出会いをとても喜ぶ。ベルトフは自分の考えやアイデアを分かち合う相手を得、クルツィフェルスキーは彼の中に、自分たちの内面を豊かにすることのできる、高度に発達した人物を見出す。かつてネグロフ家でリューバとドミトリが理解し合ったように、彼らは言葉半分、目半分で理解し合う。リューバとベルトフの一致は、大きなもの、愛へと発展していく。気持ちを隠しきれなくなったベルトフは、クルシフェルスカヤに告白する。そして一気に3人の人生を破壊する。リュボフ・アレクサンドロヴナは夫から離れられず、ベルトフも愛しているが、夫を愛している。クルツィフェルスキーは、自分がもはや以前ほど愛されていないことに気づく。ベルトフは、最も親しい人の人生を台無しにしてしまったという思いに苛まれ、彼のそばにはいられない。街中に噂が広まる。クルシフェルスキーは酔いつぶれている。クルポフ医師は起きたことに罪悪感を覚える。ベルトフは、自分もクルチェフスキーに劣らず苦しんでいること、自分の感情をコントロールできないこと、リュボフ・アレクサンドロヴナは夫より身近な人を見つけたが、以前のように幸せになることはないだろうと断言する。他に出口がないと考えたベルトフは、クルポフと同意して旅立つことにした。彼は再び祖国を去る。
 リュボフ・アレクサンドロヴナは枯れていく。クルーツィフェルスキーは酒を飲んでいる。別れは幸福と心の平安をもたらさなかった。未来は悲しく暗い。

登場人物

 アレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロフは退役した騎兵少将。「太った、がっしりした男。裕福な地主。1812年の戦争に参加。引退してモスクワに定住し、その後、怠惰から村に移り住む。村では農奴の娘ドゥーニャと結ばれ、リューバをもうけた。村での生活も退屈になり、彼はモスクワに戻り、結婚を決意するまで、再び怠惰な娯楽に耽った。ドゥーニャとその娘は不名誉なことになり、精神病院に送られた。結婚後、ネグロフはミーシャとリサという子供をもうけた。世俗的な生活に飽き、すっかり怠惰になった夫婦は、ついに村に移り住んだ。

 ドミトリー・ヤコヴレヴィチ・クルシフェルスキー – モスクワ大学物理数学科卒業。地区医師ヤコフ・イヴァノヴィチとドイツ人女性マルガリータ・カルロヴナの息子。ヤーコフ・イヴァノヴィチの診療所は悲惨な状態で、一家は貧しかった。一家には5人の子供がいたが、3人は猩紅熱で死に、長女はどこかの下士官と駆け落ちし、ミーチャだけが残された。ミーチャは病弱だったが、母親の努力で生き延びた。ある慈善家が地元の体育館を訪れ、そこでミーチャに目を留め、モスクワ大学で学ばせたいと申し出たのだ。大学の物理学科と数学科を卒業したドミートリ・ヤコヴレヴィチは、就職先を見つけることができず、状況はますます悪くなっていった。そんな矢先、ネグロフの寛大な申し出があった。

 グラフィラ・ルボヴナ・ネグロヴナは、アレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロヴの妻だった。浪費家の伯爵と商人の娘である彼女は、マヴラ・イリニシナ伯爵夫人に育てられた。伯爵夫人は姪に対して非常に厳格で厳しかった。結婚が彼女の運命を好転させた。

 セミョン・イヴァノヴィチ・クルポフ医師は医学委員会の検査官である。クルポフは『クルポフ博士』の中で、万病説を展開する。

 リューバは、アレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロフと農奴の娘ドゥーニャの隠し子である。ネグロフの結婚後、彼女はルドメンスカヤに追放されたが、グラフィラ・ルボヴナの取り成しのおかげで紳士の家に戻され、貴婦人として育てられた。

 ウラジーミル・ペトロヴィチ・ベルトフは裕福な地主で、元公務員であった。ベルトフの母ソフィは農奴だった。女主人は、利益を上げるために、農奴の娘数人を家庭教師にすることにした。その中には、後にウラジーミルの母となる女性も含まれていた。教育を受けたソフィーは、近所の地主に売られた。その地主の若い甥は、放蕩三昧の生活を送っていたが、ソフィーに目をつけたが、驚いたことに拒絶された。哀れな少女は仕方なく、地主にタダにしてくれるよう懇願し、サンクトペテルブルクに逃れた。しかし、ベルトフが流した噂が彼女の評判を落とし、どこにも居場所を与えられなかった。窮地に追い込まれたソフィーは、ベルトフに怒りの手紙を出すことにした。その手紙に心を打たれたベルトフは、自分のしたことを深く悔い改め、その結果、二人の関係は結婚に至った。やがてベルトフは2歳の息子を残して亡くなった。教育の重荷はすべて、母親と家庭教師のスイス・ヨーゼフの肩にのしかかった。成長したウラジーミルは、モスクワ大学法学部に入学した。同大学を卒業後、サンクトペテルブルクに奉公に出た。ロシア官界の堅苦しい雰囲気に馴染めず、半年後に退官。医学や美術に携わろうとしたが、こうした活動もすぐに冷めてしまった。恋愛に失敗したベルトフは、異国の地へ赴く。

創作の歴史
作者の紹介によれば、この小説は1841年に亡命先のノヴゴロドで書き始められ、最初の部分もそこで書かれた。モスクワに到着後、ゲルツェンは書き上げた作品を友人たちに見せたが、彼らは気に入らなかった。この原稿はベリンスキーに高く評価された。

編者注】画像は、ベリンスキーの肖像(Wikipedia から)

読書ざんまいよせい(032)

◎風流滑稽譚(一)バルザック著小西茂也訳

編者注】「ゴリオ爺さん」は、青空文庫にて、中島英之訳で収録されていますので、一旦アップは中断します、ただし、訳者の著作権は存続しています。そこで、「風流滑稽譚」全三作の大作の投稿をぼちらぼちらと…まずは、「前口上」から。

目次

前口上
美姫インペリア
仮初の咎
王の愛妾
悪魔の後嗣
路易十一世飄逸記
大元帥夫人
箱入娘
金鉄の友
衣手の風流
当意即妙
後口上

これはド・バルザックの大人、トゥレーヌの諸寺より蒐めて開板せるもの世のパンタグリュエルの徒の慰み草に供すべく、余人の為にはあらず焉。

    前口上

 この草紙は、おらが国さトゥレーヌ不朽の粋士、フランソワ・ラブレエが献酬めされた名うての酒仙や座ぬけの呑助どもの髭口に合わそうとて、吟醸いたした洒脱芳醇なる詩酒でござって、作者の念願は同じくよきトゥレーヌ人たるの実を示し、めぐわしきわが郷土のお歴々の御酒興を添えんが為に他意ござらぬ。五穀はもとより寝取られ男、伊達男、おどけ男に至るまで遍ねく穣ったわが郷土より、簇出いたした法朗西屈指の名士には、追悼の涙も未だ乾かぬクーリエ<*注1>あり、『立身の途』の著者ヴェルヴィルあって、多士済々とは申せ、デカルト大人のみは願い下げといたしたい。その仔細はと申すに、大人はいたって気重な隠士で、美酒佳肴より空虚な夢想の方を讃えられた仁ゆえ、トゥールの町の料亭や喫茶の旦那衆からは貶しまれ見誤まられ、偶々人の噂話に上っても、何処のお人じゃと訊ね返されるほどに、かいもくの野暮太郎でござったからじゃ。
 さてこの書冊の種を申そうならば、グルナディエール・レ・サン・シール、サシェ・レ・アゼエ・ル・リデル、マルムウチェ、ヴェレエツ、ロシュ・コルボンなんど、わが郷土のそんじょうそこらにおいであった、めでたい沙門の翁たちの鬱散養気の風流談義、さては昔覚えの説教僧やしただるい老嫗が口伝たる浮世咄などからでござる。
 総じて古人は笑った途端にお腹のなかから、馬が飛び出ようが、駒が跳ね出そうが、お構いめされずにただ腹の底から、しんから笑いこけられたものじゃが、今時の若い女子衆ときては、澄まし顔にて可笑しがろうとめされてござるわ。したが王妃の頭上に油壺が似合わぬよう、華やかな法朗西国にはさような仕草は、なによりふさわしからぬ限りじゃて。
 されば抱腹絶倒は男子にのみ賦与せられた特権でごあって、人は浮世の波風に曝され放題ゆえ、今更に物の本で読む要もないくらい涙の種を知っとる筈じゃから、ここに些か寛闊の譫言を印行することも、時節柄この上もない御奉公と存ずるわ。
 まこと今の御時世たるや、憂いことばかり糠雨さながらに降りしきって身を濡らし、はては身内に滲み透って、女郎衆の縦線《レイ・ビユブリック》をもって、諸万人《レビユブリック》の諸々の気のつきを晴らさんとしておった往時の風儀も、まさに消融せんといたしておる。剰え分際はずれた手出しもいたさせず、じっと大人しく神や王のなすが儘に任せて、よろず笑いにまぎらせ得心しおった、いにしえ老パンタグリュエルの儕輩《ともがら》も、今や残り尠なになった許りか、日に日に身まかってゆく現状ゆえ、名だたるこれら古雅なる浮世草紙の断簡零墨が、唾は引っ掛けられ、塵芥にはまぶれ、大小便を垂れ流され、さらに咎め立てられ、はじしめられゆくごとき、憂慮すべき成行を目の前にしては、雅趣あるゴオロワの残肴に、ひそかに舌鼓を打つ吾儕など、夜の目も合わぬ何ともじゅつない思いじゃて。
 また僻々しい批評家連《あらさがしや》や、言葉の屑ひろいどもや、人の趣向や心組に難癖つける世の天邪鬼たちに、ひとつ想起して戴きたいことは、笑いは童心からひり出され、歳月の旅枕を重ねるにつれ、ランプの油よろしく薄れ消えゆくものなのでごある。詮ずるところ笑わんが為には、心の無邪気さと浄らかさこそ必須不可欠、その不可欠の持ち合せもない口敲きの下卑蔵《げひぞう》には、汝《なれ》が持前の不徳や不醇をひた隠すべく、あれあのように、頬桁をすぼめ、口をゆがめ、眉をしかめて御座るのでごある。
 この草紙の有様《ありよう》は、抜差ならぬ群図《グループ》であり、布置正しき彫像であるゆえ、いかなる美術家と雖も、その姿容を変改すること叶わぬは明々白々、まして談義の若干、乃至はこの戯作全般が、尼寺に向くように仕立てられてごあらぬからとて、無花果《いちじく》の葉なんどをあてがおうずる道学先生こそ、出頭第一の愚か者となり申そう。さはさりながら吾儕とて、心進まぬながらも尻軽貞女やお転婆娘たちの、耳朶を叩き、明眸を眩ませ、豊頬を赧らめ、紅唇を膨らませかねぬていの、昔言葉の艶々しすぎる文言は、はや心して稿本より剪除いたしておき申した。当代のなり下れる風儀が性に合わぬとばかりぜい言ってはおれぬし、婉曲の語法の方が、なまのよりずんと風雅のこともあるからじゃい。
 まこと吾儕も年をとったかして、束の間の若気の痴れわざより、長々しい莫迦ごとの方が、ゆるゆると賞翫出来るによって、好もしくなり申した。じゃによって拙者に悪口は、平に御容赦を願いたい。昼日中よりも、夜分にこの笑い本を読んで戴けばまことに幸甚。また極めて情を燃やさせ易い冊子ゆえ、いまどき生娘が残りおったとしても、それら熱高い乙女っ子には覗かせぬよう、いっち気を遣われたいものじゃ。――なんどと忠告一番、筆を擱き申すが、この経籍そのものに関しては、顧みて心中晏如たるものがごある。とぬけぬけ申すいわれは、これが生れ故郷は心構の高い雅びな土地柄で、そこに発したるものこれ悉く、何れも大いなる成功を博しおること、金羊皮章、聖霊章、靴下留章、沐浴章なんどの勲記標章や、その他幾多の天下に冠たる文物に照らしても明らかな通りで、それらの加護に身を任せたれば、作者としても先ずは大安心。『いでや心の朋友たち、楽しみめされ。悠々と体を寛ぎ腰を伸ばして、残る隈なく読み興ぜられよ。さりながら読んだ揚句に、はて一向に下らぬわいなど仰有る御仁は、疳瘡に罹ってお果てめさるがよい。』
 かく申されたるは智慧の公子、道化の王侯、われらが崇めるラブレエの宗師にて御座る。方々には帽を脱し膝を正して謹しんで清聴と云爾。

  *注1* クーリエ・ド・メレ(一七七二―一八二五)フランス文人、政治的パンフレットを著す。『ダフニスとクロエ』の飜訳あり。
  *注2* ベロアルド・ド・ヴェルヴィル(一五五八―一六一二)フランス十六世紀の作家。ラブレエ調の好色小咄集『立身の途』の著あり。

編者注】本文、訳者とも、著作権は消失しています。画像はいずれも、Wikipedia より

読書ざんまいよせい(031)

◎アレクサンドル ゲルツェン「誰の罪」「向こう岸から」

 「革命家」に必要な資質とはなんだろうか?どんな状況であろうと失わない「楽天性」か?時には、味方に対してさえ、断罪する「冷徹さ」か?物事をきちんと筋道をつけて分析する「明晰さ」か?「革命家」ゲルツェンの場合は、前の二者ではないことは確かである。あとの評価であろうが、それに彼独特の「憂愁」が付け加わり、のちのレーニンやトロツキーなどと一線を画する所以である。
 最近、刊行された新訳の自伝「過去と思索」でもその傾向は、顕著であり、第一部から第四部まで、一気に読み、ゲルツェンの魅力に引きずり込まれた。この自伝はいずれ紹介する機会があろうが、ここでは、彼のシベリア捕囚時代の小説が、国立国会図書館デジタルコレクション「誰の罪」でなんとか読めるので、パラパラとページを「クリック」してみた。

梅田寬譯・ゲルツェン「誰の罪」

ゲルツェンの事ども

 ア・ゲルツェン(一八一二~ー八七〇年)はモスクワの或る富裕な家庭に生れた。彼の母親はドイツ人であった。彼は相當學識ある露・獨・佛等の家庭敎師と獨・佛の十八世紀の哲學者の著書を集めた豐富なる父の圖書室とにつて敎育された。佛の百科全書を選んだ事が彼の心に深い痕跡を殘し、その爲後年、若き友人達と同じく獨の純正哲學の硏究に貢獻した時にも、彼は十八世紀の哲學者から受けた思索の具象的方法及び心意の自然的傾向を決して棄てなかつた。
 一八三〇年のフランス革命が全歐洲の思想家に深い印象を與へたころ、彼はモスクワ大學へはひって物理と數學を學んだ。ゲルツェンはその親友である詩人オガリョーフ等と共に靑年結社を結び、政治上、社會上の問題を討議したり殊にサン・シモン主義を提唱したりした。そして當時のニコラス一世を諷罵した或る歌が之れ等の結社から唱へられため、ゲルツィン等は捕縛された。相當に重罪に處せられる所を或る顯官の運動で赦され、ゲルツェンはウラル地方のヴャトカに追放され共で六年を暮した。 一八四〇年赦されてモスクワに歸った時、彼はロシヤの文壇が獨逸哲學の影響をうけて形而上學の抽象的思想に夢中になつてゐるのを見出した。ヘーゲルの絕對說、その人類に就ての三體說及び「實在するものはて合理である」といふ結果に對する效果盛んに論議されてゐた。そしてヘーゲル崇拜家はニコラス一世の制政治をも合理的であると主張し、大批評家ペリンスキイ(一八〇年~一八四八年)ですらも制政治の歷史的必然說を承認せんとした程であつた。ゲルツェンも無論ヘーゲル硏究に努めたが、その硏究によって共友エム・バクーニン(一八二四年~一八七六年)と同樣全然異つた結論に到達した。かくてゲルチェンやバクーニン、ベリンスキイ、ツルゲーニェフ、チェルヌイシェーツスキイ等は西歐主義《ザパドーニーチェストフ》の左翼主義を組織し、ア・スタンケヴィッチ(一八一七年~一八四〇年)一派はスラヴ國粹主義《スラウヲヤノフイーリストフ》の右翼を組織した。
 西歐主義の大體の綱領は、ロシヤも歐州からの除外物ではなく、 ロシヤも亦西歐諸國の通つてきたと同一の路を必ずや通るであらう。 從つてロシヤの踏むべき次の階梯は農奴制 (後一八五七年より六三年までに斷行された)である。そして次には西歐諸國に於て發達したと同樣の發達を見るであらう、といふのである。彼等はつまり廣義でいふ西歐文明の謳歌者であつた。これに對しスラヴ國粹主義はロシヤはロシヤ自らの使命をもつてゐる。吾人はノルマン民族の樣に外國を征服した事はない。吾人は今尙古い時代の組織を保つてゐる。從つて吾人は國粹主義者の所謂ロシヤ生活の三つの根本的原則、卽ち希臘正敎と露帝《ツァーリ》の絕對權力と家長的家族の原則に返つて、吾人自らの全然獨創的な發達の徑路を進まねばならぬといふのである。 ゲルツェン等前記の人々は西歐主義者の內でも最も進んだ意見をもつてゐた。卽ち、西歐諸國に於いて地主竝びに中產階級の兩者が議會に於て無制限の勢力を占めた結果、勞働者と農民との蒙つ困苦、而して歐洲の大陸諸國がその官僚的中央集權によつて政治的自由を制限したこと、是らは決して「歷史必然」ではない。ロシヤは恁うした失策をくり返す必要はない。寧ろ彼等先進國の經驗に鑑みて反對に出なければならない。而して其土地共有制や帝國の或部面に見らるゝ自治制や或はロシヤの村落に於ける自治體の制限を失ふことなしに工業主義の時代を迎へ得るなら、それは莫大な利益であるであらう。從つて其村落自治體を破壞し地主貴族の手に土地を集中しめ、而して無限、多種多樣なる地方の政治的生活をプロシヤ人、彼はナポレオンの政治的中央集積の理想によつて中央政府の手に掌握せしむるは、資本主義の勢力の强大なる今日、最も大なる政治上の失策といふべきである、と彼等は主張した。然るに、後年農奴制が廢止止せらるゝに至ったとき、この主義者とスラヴ國粹主義者との閒に最も注意すべき一致を確立したのであつた。國粹主義者は總體に於いて保守的ではあったが、その最も立派な代表者の唱へた或る點.卽ち農奴制度の廢止に就いての農民の事實上の根本的制度たる自治、法律、聯邦制度の、その他信仰及び言論の自由等の主張は前者と一致したのである。
 ゲルツェンは一八四二年に再びノヴゴロドへ追放され、次いで四七年外へ行ったがに遂に再び母國へ歸へらず七〇年に五十九歲で、スイスに於て寂しく死んだ。その頃フランスに二月革命(一八四八年)あり、やがてナポレオン三世が出でゝ帝政時代再び出現し、フランスを中心に全歐を風靡してゐた會主義的運動の痕跡すらも一掃さるゝに及んで、ゲルツェンは西歐の文明に深い絕望を感ずるに至つた。彼はブルードンと共に「人民の友」なる新聞を巴里で發刊したが官憲の壓迫著しく、遂にフランスからはれた。彼は其後スイスに歸化したが、一八五七年ロンドンに定住し、その年始めて自由なロシヤ語の雜誌「北極星」を刊した。この誌上で彼は政治上の論文及びロシヤの最近史に關する極めて價値ある材料であると同時に、嘆賞に價する追悼記「過去の事實と思想」を發表した。この雜誌の次に「鐘」と稱する新聞を發行した。この新聞によつて彼は海外に在りながら、その勢力はロシヤに於ける一つの眞の力となった。ツルゲーニェフはこの新聞の爲に遠く援助する所があった。「鐘」上にはロシヤ國內では迚も發表も難い致い失政の事實を摘發し、一方論說はゲルツェンによつて政治文學稀に見る力と、內部的な溫情と、形式の美をもつて書かれた。「鐘」の多數はロシヤに搬入され、至る所に撤布された。アレクサンドル二世までがその每號を讀んでゐた。ゲルツェンのロシヤ國內での勢力がその晚年おとろへて、彼にとつて代つたのは 靑年たちであつた。
 ゲルツェンは政治、社會、哲學、藝術に關する多くの有名な論文を殘したが、また「誰の罪か?《クト ウイノワート》」ほかの數種の小說を書いたことも忘れてはならない。問題小說である「誰の罪か?」は一八四二年ノヴゴ ロドに追放されたときに書き起したもので、ロシヤに於ける知識的典型の發達史のなかにしばしば引あひに出される、彼の有名な代表作である。內容は前篇と後篇とに別れてゐて、かなり興味ある複雜を示してゐるが、要するにこの全篇の主要人物は、貧しい家に生れて大學を卒業し、退役將軍邸に家庭敎師となり、のち中學校《ギムナジア》敎師となったクルチフェールスキイと、そこの將軍の妾腹の娘でクルチフェールスキイと、自由戀愛より結婚生活にはひつたリューポニカ、それからクルチェフールスキイの舊友でその家庭に來つて、戀の三角關係をひき起したペェリトフ、獨身主義の醫者クルーボフ等である。ゲルツェンは、彼獨特の簡潔、明快な、而も老巧な諷刺に富んだ筆法を以て、彼等を心ゆくまで活躍しめてゐる。そこに描き出されたロシヤ貴族、官吏、軍人、知識階級《インテリゲンツィア》、保守階級、無產者、農奴等は、ゲルツェンの目をとほしては容赦なく衣をぬがされ、おどろくべき赤裸々とされて、その眞實、その本體を毫も掩ふよしがない。しかもこの話は恰も現今わ が日本に見るが如き社會問題、婦人問題、戀愛問題、敎育問題、家庭問題等を多量に、また縱橫に含み、そこに生ずる經緯の興味あり又おそるべき結果に向って徐々として進む。ゲルツェンはこの結果に至つて、卽ち三つの破壞された生活の殘骸を指して、これは果して『誰の罪』であるか!と世閒に問はんとしたのである。この問題小說はロシヤ後來の文學者、批評家に常に愛讀され、諸種の議論の材料とされたもので、わが國には未だ紹介されてなかったのが不思議なほどである。

 因にこの拙譯は一九二四年一月ベルリン、ラドゥイジュニコフ書店發行の露語原書による。

    一九二四年一月

 次に、フランスなどでの、1848年の2月~6月革命の勃発から敗北までの彼の見聞きした出来事とそれへの彼の思いを綴った「向こう岸から」より、息子に宛てたその序文から…
 同じころマルクスは「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」を書いた。「題材」が一緒で、しかもどちらも優劣がつかず、それでいて、読後感で違いがあるのは、二人の立ち位置、気質の違いが明らかになり、とても興味深い。1848年革命の顛末の受け止め方は、ゲルツェンらしく、「向こう岸から」の論旨の展開は決して読みやすいものではない。こうした「韜晦」の故に、後世にすんなりとゲルツェンは受け入れられなかったのであるが、今の御時世だからこそ、傾聴に値する。

    わが息子アレクサンドルに

 わが友サーシャ〔「アレクサンドル」の愛称〕
 私はこの本を君に捧げる。それは、私がこれまでこれ以上に良い本を書いたことがなかったし、おそらく、これからもこれ以上に良い本を書くことはないだろうからだ。また、私は闘いの記念碑として、この本を愛しているからだ。この闘いの中で、私は多くのことを犠牲にしてきたが、しかし、知ろうとする勇気を捨てたことはなかった。そして、最後に、古臭い奴隷的な偽りに満ちた見方、別の時代に属しているにもかかわらずわれわれの間に生き延び、ある者たちを妨げ、ある者たちを脅かしている、愚かしい偶像に対する不羈の人間の、時として不遜な抗議を、幼い君の手に託すことを私はいささかも恐れていないからだ。
…。
 来るべき社会改造の宗教はただ一つ、私が君に遺す宗教だけだ。そこに天国はない、褒賞もない。あるのは己の意識、己の良心だけだ……いつの日にか故国に帰り、この宗教を広めてほしい。

 ……人間の理性と個人の自由と友愛の名において、私は君のこの道を祝福する。

    君の父
          一八五五年一月一日 トウィックナムにて

アレクサンドル ゲルツェン. 向こう岸から (平凡社ライブラリー799) . 平凡社. Kindle 版.

編者注】「誰の罪」の訳者、梅田寬は1969年没とあるので、著作権は消失していないと判断するのが妥当である。したがって、ゲルツェンの紹介を兼ねて、訳者の序文の部分引用に留める。また、言うまでもなく、「向こう岸から」も訳者の著作権は存続しているので、これまた、ゲルツェンの序文の一部の「引用」である。代わりに「誰の罪」のロシア語原文からの「自動翻訳」を後日掲載する予定である。

読書ざんまいよせい(029)

はじめに―関西勤労協での講義「芸術論への旅」を受講して

 先日まで関西勤労協で「芸術論への旅」とのタイトルの講座があったため、計4回にわたり受講してきた。芸術の発生からはじまり、その哲学的根拠など多岐にわたるテーマであった。途中、絵画、写真、生け花など主に造形芸術に触れた部分など、あまり関わらない分野だけに、教えられる部分が数多くあった。最終回は、チェーホフとブレヒトの芝居を扱った講義であり、一層興味を惹かれた。そこで、講義後のディスカッションに少しでも寄与するために、チェーホフについて、思うところをまとめてみた。
 その昔、まだ芝居など「現役」だったころ、「芸術とは?」といった論議に口泡飛ばしたものだ。「芸術は『表現』だ!」「いや違う『認識』であるべきだ!」との二大論陣の少し離れたポジションにいて、こうした「こ難しさ」にも付き合わされた。前者は、吉本隆明などが主張するところ、後者は「旧」左翼系が譲らぬところ。少しあとで永井潔という画家が、「認識」説をきちんと整理して、提起したところで、「そんなものだろう」と一応の納得したものだ。ただ、吉本の「芸術=表現論」も、「認識」とした上での、歴史的に見て「政治主義」的な引き回しに我慢できなかったことはなんとか理解できたが…
 以下、講座での当方のメモから…
◎チェーホフにおける「表現」と「認識」
・チェーホフの戯曲は、いずれも一筋縄ではゆかず、「演出」する立場からは、意外と厄介である。
・彼の戯曲は、患者の「カルテ」であり、小説は「レシピ=処方箋」に例えられると読んだことがある。
そこで、4大劇の結末を見てみると…(いずれも神西清訳)
○「かもめ」
(ト書き)右手の舞台うらで銃声。一同どきりとなる。
○「ワーニャ伯父さん」
ワーニャのセリフ「…わたしのこのつらさがわかってくれたらなあ!」
ソーニャのセリフ「でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。」
(ト書き)テレーギン、忍び音にギターを弾く。
○「三人姉妹」
(ト書き)楽隊はだんだん遠ざかる。
オーリガのセリフ「それがわかったら、それがわかったらね!」
○「桜の園」
(ト書き)はるか遠くで、まるで天から響いたような物音がする。それは弦の切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。ふたたび静寂。そして遠く庭のほうで、木に斧を打ちこむ音だけがきこえる。
徐々に、劇の結末が、静謐になっているのがわかる。
◎究極の「自己表現」とは?「芸術的感性」の感性はここにあるように思われる。
○「赤旗記事」の画像参照
「いいなずけ」(1903年)は、チェーホフ最後の小説で、好きな小説の一つであるが、肉体的衰えから、やや荒削りの感は否めない。それでも、再論するが、この場合、チェーホフにとっての究極の「自己表現」とは(副)主人公の「死」であろう。最後の言葉が、「Ich sterbe !」“私は死ぬ”というのも彼らしい。もっとも、「人はよく嘘をつく。その死ぬときでさえ」という彼らしい発言あり。
○その「自己表現」は、他との関わりの中で、彼の深い「認識」と結びついていた。と同時に、「奇をてらう自己表現」は、あくまでその場限りでいずれ忘れ去られるだろう。
○ただし、各個人の「認識」が、極めて政治主義的かつあまりにも狭量な「断罪」をくだされた歴史―今も続いているかもしれない―を繰り返してはならない。
◎「ナンセンス劇」と見る中村雄二郎のチェーホフ解釈
○チェーホフの「したたかさ」(表現的には「なにも解らない」とする彼の韜晦」)にまんまと引っかかった、悪質の「不可知論」的な陥穽に過ぎないのではないか?初期の短編「ねむい」や後期の中短編「谷間」、「退屈な話」、「犬を連れた奥さん」などが、「ナンセンス劇」であってたまるか!
○「臨床の知」というのも、「カルテ」と「処方箋」に日々格闘するわが身にとっては、許されない暴論にすぎない。

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(009)

 お嬢さんが嬌態《しな》をつくって、こんなお喋りをする、「みんな私のことを怖がっていますの……世間の男も、風《かぜ》も……。 ああ、もう何も仰しゃらないで! あたしお嫁になんか決して行きませんわ!」家はというと貧乏で、父親は大酒飲みだ。もし人が、彼女が母親と一所懸命に働いて、父親のことを人前に隠そうと骨を折るのを見たら、彼女に対する深い尊敬の気持で一ぱいになるだろう。同時にまた、彼女がなぜ貧乏や労働をそれほど恥かしく思って、あのお喋りを一向に恥じないのか、不思議な気がするだろう。

 レストラン。自由主義的な話がはずんでいる。温厚なブルジョアのアンドレイ・アンドレーイチが急にこんなことを言い出す――「妙な話ですが、これでも私はアナーキストだったことがあるんですよ!」みんなびっくりする。A・Aの話。――厳格な父親。その田舎町に徒弟学校が出来たが、職業とは何ぞや教育とは何ぞやなどというお談義に夢中になって、何一つ教えては呉れず、だいいち何を教えたらいいかも見当がつかなかった。(だって町じゅうの人を靴屋にしたら、誰が靴を註文するものですか。)彼は学校を追い出された。家からも追い出された。地主邸の執事の助手に住込んだ。金持や飽食の徒や肥っちょが癪に障って来た。地主が桜の木を植えた。A・Aは手伝いをしているうちに、手もとが狂った振りをして、シャベルでその生白い肥った指をばらばらにしてやりたくて堪らなくなった。そこで眼をつぶって力一ぱいに打ち下したが、外れてしまった。それから出て行った。森、野原の静寂、雨。温かい場所が恋しくなって、叔母さんの家へ行った。叔母さんは輪形パンでお茶を御馳走して呉れた。すると、アナーキズムは消えてしまった。……話が済んだとき、卓子の傍を四等官のLが通り過ぎる。それを見ると、A・Aは直ぐさま起ち上がる。それからLが家作持であることなどを説明する。
 ――私は仕立屋へ徒弟奉公に出されました。親方が裁って呉れたズボンを、私が縫いはじめたところが、側条《わきすじ》が曲がっちまって、それこんな工合に膝のところへ出てしまいました。そこで指物師の所へ奉公にやられました。或るとき鉋を使っていると、手が滑った拍子に鉋が窓へ飛んで、硝子が割れました。――その地主はレット人で、栓抜き《シトーボル》という名でした。今にもめくばせをして、「ええおい、一杯やりてえなあ!」とでも言い出しそうな顔つきをしていました。毎晩一人で飲んでいましたっけが、それが癪に障って来ました。

 クヴァス販売商が、王冠印のレッテルを貼っている。Xはそれを見て、癪で業腹でならない。商人の分際で王冠を簒奪しやがってと思うと、居ても立っても居られない。Xは法廷へ訴え出たり、誰かれ問わずつき纏ったり、返報の手段をさがしたりしているうちに、心痛と過労がもとで死ぬ。

 家庭教師をこう言ってからかう、「マダム・手真似《テマネ》」。

 Shapcherygin《シャエプチェルギン》,Tsambizebuljskij《ツァムビゼぶりスキー》,Svinchutka《スヴィンチュトカ》,Chemouraklia《チェモウラクリア》.

 老年の尊大さ、老年の厭人主義。軽蔑されている老人を私は何人見て来たことだろう!

 晴れ渡った厳寒の日に、卸したての橇に敷物を掛けて届けて来るのは実にいい気持だ。

 XがN町に赴任して来た。彼は暴君のように振舞う。自分以外の人が成功《もて》るのを喜ばない。第三者がいると態度が変る。女の姿が見えると声の調子が変る。葡萄酒を注《つ》ぐときには、先ず瓶《びん》の頸のところを自分のコップにちょっぴり注いでから、同席の人達に注ぐ。婦人と散歩するときは腕を支える。つまり何かにつけて教養を見せようとするのである。他人の洒落には決して笑わない。――「もう一度言って見たまえ。」「その手は古いな。」人の顔さえ見ればとっつかまえて一席講話をやるので、みんなが飽々してしまった。老婦人連が「独楽」と綽名をつけた。

 立居振舞も、部屋へ這入るときの作法も、物の問い方も、何一つ知らない男。

 Utjuzhnyj《ウチュージヌイ》*氏。
*熨斗という字から作る。

 問われもせぬのにしょっちゅう先手を打つ男。――私には梅毒はありません。私は正直な男です。家内も正直な女です。

 Xは一生涯、召使の風紀頽廃や、その矯正法や抑制法のことばかり、話したり書いたりした。そして、自分の家の従僕やコック女を除いて、ほかの誰からも見棄てられて死んだ。

 小さな娘が有頂天になって自分の叔母さんのことを、――「うちの叔母さんはとても美人よ、美人よ、家《うち》の犬みたいに美人よ!」

 Maria《マリア》 Ivanovna《イヴァーノヴナ》 Kolotovkina《コロトフキナ》*.
*「攪拌棒」、或いは「やりきれぬ女」。

 恋文の一節。――「お返事の切手を同封しました。」

 優秀な人たちが農村から都会へ出てくる。だから農村は疲弊しつつあるのだし、今後も疲弊を続けるであろう。

 パーヴェルは四十年の間コックをしていた。しかも自分の作ったものは食わず嫌いで、ついぞ口に入れたことがなかった。

 保守的な人達が害毒を流すことが極めて少ないのは、彼等が臆病で、自己に確信をもっていないからである。害毒を流すのは保守主義者ではなく、心の荒んだ人達である。

 女への恋が冷める。恋から解放された感情。やすらかな気分。のびのびと安らかな想念。

 どっちか一つ。――馬車に乗っているか、それとも降りちまうか。

 戯曲のために。――自由主義の婆さんが若づくりをする、煙草をすう、話相手なしでは居られない、情深い。

 特別寝台の乗客――それは社会の屑だ。

 あそこにいるのは黒土帯人《チェルノジェム》です。つまりレーピン*の『ザポローグ人』ですね。
*ロシヤの人物画の大家。『スルタンへの国書をしたためるザポローグ人』はその傑作の一つ。

 奥さんの胸に、肥ったドイツ人の肖像がぶら下っている。

 一生涯、選挙のたびに左派に投票した男。

 死人の着物を脱がせた。けれど手袋を脱がせるひまがなかった。手袋をした屍体。

 地主が食事をしながら自慢する、「田舎は暮らしが安いですよ。――鶏も自分のだし、豚も自分のだし。――暮らしが安いですよ!」

 税関吏が職務を愛するのあまり、政治上の不穏文書を捜して、旅客の持物を残る隈なく検査する。これには憲兵までが憤慨してしまう。

 真の男性(muzhchina《ムシチーナ》)は、夫(muzh《ムーシ》)と官等(chin《チン》)とより成る。

 教育。――「よく嚼《か》むんだよ」とお父さんが言う。そこでよく嚼んで、毎日二時間ずつ散歩をして、冷水浴をした。だがやっぱり不仕合わせな無能な人間が出来あがった。

 商工業的医学。

 四十歳のNが十七になる少女と結婚した。第一夜、彼は彼女を炭坑町へ連れて帰った。彼女は床にはいると、彼を愛していないと言って急に泣き出した。善人のNは狼狽して、悲哀に胸をつまらせて、書斎へ寝に行く。

 むかし荘園のあった場所には、その跡形も残っていない。ただ一つ紫丁香花《ライラック》の叢だけは、そっくり残っているけれど、どうしたわけか花が咲かない。

息子 今日は木曜でしたね。
 (聞き取れずに)え?
息子 (怒って)木曜ですよ!(静かに)お風呂にはいらなくちゃ。
 え?
息子 (ぷりぷりして、憤然と)お風呂ですよ!

読書ざんまいよせい(028)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(008)

 妻が咽び泣いた。夫が肩をつかんで揺すぶると、彼女は泣きやんだ。

 結婚すると、彼には政治も文学も社会も、一切が今までほど面白く思えなくなった。その代り、妻や赤ん坊に関するあらゆる些事が、非常に重大なものになって来た。

「なぜお前さんの歌はそんなに短いの?」と或るとき小鳥にたずねてみた、「もしや息が続かないのじゃないの?」
「私には歌がとても沢山あるのです。それをみんな歌ってしまいたいので。」
――アルフォンス・ドーデ

 犬が教師を憎む。彼に吠えついてはいけないと言われたのだ。犬は見上げて、吠えずに口惜し涙を流す。

 信仰は精神のはたらきだ。動物には信仰はない。野蛮人や未開人にあるものは、恐怖と疑惑である。信仰に達し得るのは高尚な組織体だけだ。

 死は怖ろしい。だが、永劫に生きて決して死ぬことがないと意識したら、もっと怖ろしいことだろう。

 公衆が芸術に於いて愛するのは、何よりも先ず俗なもの、とうに彼らが知っているもの、慣れているものである。

 リベラルで、教育もあり、年も若いが、そのくせ吝嗇な学校の主事。毎日学校へやって来て、長広舌をふるうが、お金と来たらびた一文も出さない。学校はぐらぐらで今にも倒れそうだ。しかも彼は、自分が必要且つ有用な人物だと心から思い込んでいる。教師は彼を憎んでいるが、当人はそれに気がつかない。害毒は実に甚だしい。或る日教師は堪忍袋の緒が切れて、怨恨と嫌悪に燃える眼で睨みつけながら、思いきり悪罵を浴びせかける。

 教師曰く、「プーシキンの百年祭をする必要はないです。彼は教会に何の貢献もしませんでした。」

 Guitarova《ギターロヴア》嬢(女優)。

 オプチミストになって人生を知得したいなら、他人の言うこと書くことを信ずるをやめよ。自ら観照し、自ら究め探れ。

 ある夫婦が生涯X(イクス)の説を熱心に信奉して、公式のようにそれに則って自分の生活を築いた。そして死ぬ間際になって、はじめて自分の胸に問うてみた――「ひょっとしたらあの説は間違っていはしなかったかしら?Mens sana in corp oresano(身健則心明)という諺は、嘘っぱちじゃなかったかしら?」

 私の嫌いなもの――陽気なユダヤ人、急進論者のウクライナ人、酔いどれたドイツ人。

 大学はあらゆる才幹を養成する。但し鈍才をも含む。

 これに鑑みまして、足下*よ。事情みぎの如くでありますので、足下よ。……
*原文にはMy dear Sirをmydeasrとでも略したほどの可笑味がある。

 最もやりきれない人種は、田舎の名士なり。

 われらの不真面目なる性情により、われらの大多数が人生現象を洞見し熟考する能力と習慣を欠くことにより、「ちぇっ、下らない!」との言の頻繁に発せらるることわが国の如きを見ず。かくも安易に、屡〻嘲笑を以て、他人の功績乃至は真摯なる問題に対すること、わが国の如きを見ず。また一面、権威の名の重んぜらるること、幾世紀にわたる奴隷の境涯によって卑屈となり自由を怖るる、われらロシヤ人に於けるが如きを見ず。……

 医者が商人(それも教育のある――)に、肉汁とチキンを勧めた。商人はてんから茶化してかかった。先ず昼飯に野菜スープと仔豚を食べて、それから医者の命令を思い出しでもしたように肉汁とチキンを命じ、これもぺろりと平らげた。とても滑稽だと思いながら。

 修道司祭《イエロモナフ》のエパミノンド神父は、魚を釣ってポケットに入れて置く。家に帰って食べたくなると、一尾ずつポケットから出して揚げる。

 貴族Xは、家具も備品も一切つけて領地をNに売って置きながら、何から何まで竈の風戸《かぜど》まで浚って行ってしまった。それ以来Nは、貴族と名のつくものは一切嫌いになった。

 金持のインテリXは農民の出だったが、手を合わさんばかりに息子に頼んで曰く、「ミーシャ、自分の身分を変えるなよ! 死ぬまで百姓でいるがいい。貴族にも商人にも町人にもなるなよ。今じゃ郡会の役人に百姓を処罰する権利が出来たという話だが、そんならそれで勝手に権能を持たせて処罰させて置け。」彼は百姓の身分を誇りにして、尊大でさえあった。

 ある謙遜な男のために祝賀の催しがあった。一同はいい機会とばかり、てんでに自己誇示やお互い同志の褒めっくらで時を忘れた。食事も終ろうという頃になってやっと気がついてみると――当の御本尊を招ぶのを忘れていた。

 可愛らしい物静かな奥さんが、激怒のあまりこんなことを言った。――「もし私が男だったら、あいつの横面を張り倒してやるんですのに!」

 回教徒は魂の救いのために井戸を掘る。私達も銘々に、生涯が跡形もなく永劫の中へ過ぎ行かぬため、学校か井戸か、何かそんなものを遺すことにしたらさぞいいだろう。

 われわれは卑屈と偽善とでへとへとになっている。

 犬に着物を食い破られたことのあるNは、今でも何処かへ這入るたびにこう訊く、――「ここには犬はいませんか?」

 Peter《ピョートル》 Demianych《デミヤーノウッチ》 Istochnikov《イストーニチコフ》.*
*源泉または名人の意。

 Grush《グルーシ》氏、Polkatytskij《ポルカトイツキイ》*氏。
*「梨」カトイク(有名な煙草製造者の名)の半分の意。

 男妾を職業とする若い男が、精力を保つため大蒜《にんにく》ソースを常用する。

 学校の主事。鰥夫《やもめ》ぐらしの司祭が、手風琴を鳴らしながら、『聖者には霊の安息《いこい》!』を歌う。

 のばしちゃうぞ*!
*「のしちゃうぞ!」の言い違いほどの可笑味。

 七月には高麗鶯が朝いっぱい歌う。

「Sigov《シゴーフ》(鮭)豊富に取揃え」――毎日街を通るたびにXはそう読んで、一たい鮭だけで店が立ち行くものか、誰が鮭を買うのかといつも不思議に思っていた。三十年たってからやっと、気をつけて正しく読んだ、「Sigar《シガール》(葉巻)豊富に取揃え。」

 技師の眼にうつる賄賂。――百円札の一ぱい詰ったダイナマイトの筒。

「あたくし、スペンサーを読んだことがありませんのよ。どんな事を書いているのか話して下さいな。一たい何に就いて書いていますの?」「あたくし、巴里の展覧会に壁間画《パノオ》を出品しようと思いますの。題材を下さらない?」(うるさい奥さん。)

 労働をしない人々、つまりいわゆる支配階級は、長いあいだ戦争なしでは居られない。戦争がないと彼等は退屈になる、安逸に倦んでいらいらして来る。何のために生きているのか分らなくなり、共喰いをしたり、せいぜい不愉快な悪口を、なるべく後の祟りのないような言い方で浴びせ合うのに懸命だ。なかで最も優秀な分子は、お互い同士にも自分自身にも飽きが来ないように、精根をつくすのである。ところが戦争が始まると、みんな吾を忘れて熱狂して、共通の不幸によって一致団結する。

 不貞をはたらいた妻は、大きな冷えたカツレツだ。誰かほかの人の手に握られたに違いないので、触《さわ》る気がしない。

 ある老嬢が、『敬虔の電車*』という論文を書く。
*古臭い敬虔と近代的な電車の対照から来る可笑味。

 Rytseborskij《ルイツエボルスキー》,Tovbich《トヴビチ》,Gremuhin《グレムーヒン》,Koptin《コプチン》*.
*「騎士の格闘」「乞食の負袋」「轟く」「煤ける」。

 彼女の顔には皮膚が足りなかった。眼をあくには口を閉じなければならぬ。及びその逆。

 彼女がスカートをもち上げて、しゃれたペチコートを見せると、男に見られつけている女のような身装《みなり》をしていることがわかる。

 Xが理窟をこねる。――「たとえば鼻《ノース》という字をとって見給え。ロシヤじゃ君、この字は尾籠千万にも、謂わば不体裁な肉体の一部を意味するね。ところがフランスじゃ、婚礼という字だぜ。」そして実際、Xにあっては鼻は不体裁な肉体の一部だった。