日本人と漢詩(009)

◎石川丈山(続々々)と大窪詩仏


丈山先生の詩仙堂に題を寄す 先生歿して百五十年
朱門《しゅもん》の興廃《こうはい》 一枰棋《いちへいき》
草堂 期《とき》を尽《つく》くす無《な》きに似ず
百五十年 昨日《さくじつ》の如《ごと》し
光風《こうふう》霽月《さいげつ》 旧《もと》の書帷《しょい》
加藤周一の「三題噺」を読み返した。丈山先生の詩仙堂に題を寄す 先生歿して百五十年
朱門《しゅもん》の興廃《こうはい》 一枰棋《いちへいき》
草堂 期《とき》を尽《つく》くす無《な》きに似ず
百五十年 昨日《さくじつ》の如《ごと》し
光風《こうふう》霽月《さいげつ》 旧《もと》の書帷《しょい》
加藤周一の「三題噺」を読み返した。一休や富永仲基の「噺」の方が書評に触れられることが多いが、丈山の「亡霊」らしい老人と著者らしい私との対話で構成されるこの「噺」も面白い。
「どれほど偉大な歴史的事業も、晩年の丈山にとっては、懶性蕭散に任じた詩仙堂の春の一日に若かなかったろう。その一日を犠牲にすれば、歴史を変える事業に参画できたかもしれない。しかしその一日こそかけ換えのないものであった。」
最後に加藤周一は、丈山から150年を経た江戸時代後期の詩人大窪詩仏の上記の七絶を引く。
「一五〇年を三〇〇年とすれば、これはまた私の感懐でもあるだろう。ただ私の謭劣非才、遠く詩仏に及ばず、詩仙堂に遊んで一首の七絶も得ることもできないだけである。」
加藤周一ですらこうならば、詩仏の名さえわきまえない後学の徒である当方など赤面の至りである。栄華盛衰は、一瞬の勝負事。草堂にも容赦なく年月の推移が加わってゆく。朱門は、富貴な家。枰棋は、将棋盤、碁盤。長い年月も昨日の夢。晴れた昼間の風と夜の月は書斎のとばりに吹き付け降り注ぐ。
*大窪詩仏(Wikipedia http://is.gd/ihzDnw)
写真は、その Wikipedia での詩仏の真蹟。彼は能筆家でもあったようだ。
一休や富永仲基の「噺」の方が書評に触れられることが多いが、丈山の「亡霊」らしい老人と著者らしい私との対話で構成されるこの「噺」も面白い。
「どれほど偉大な歴史的事業も、晩年の丈山にとっては、懶性蕭散に任じた詩仙堂の春の一日に若かなかったろう。その一日を犠牲にすれば、歴史を変える事業に参画できたかもしれない。しかしその一日こそかけ換えのないものであった。」
最後に加藤周一は、丈山から150年を経た江戸時代後期の詩人大窪詩仏の上記の七絶を引く。
「一五〇年を三〇〇年とすれば、これはまた私の感懐でもあるだろう。ただ私の謭劣非才、遠く詩仏に及ばず、詩仙堂に遊んで一首の七絶も得ることもできないだけである。」
加藤周一ですらこうならば、詩仏の名さえわきまえない後学の徒である当方など赤面の至りである。栄華盛衰は、一瞬の勝負事。草堂にも容赦なく年月の推移が加わってゆく。朱門は、富貴な家。枰棋は、将棋盤、碁盤。長い年月も昨日の夢。晴れた昼間の風と夜の月は書斎のとばりに吹き付け降り注ぐ。

日本人と漢詩(008)

◎石川丈山(続々)


白牡丹
是《こ》れ 姚家《ようか》ならず 魏家《ぎか》ならず
玉杯露を承《う》けて 光華《こうか》発す
誰《たれ》か天上《てんじょう》 十分《じゅうぶん》の月を将《も》て
化して人間《じんかん》 第一の花と作《な》す
「立てば芍薬座れば牡丹」と言うが、鑑賞用に牡丹を育てるのは、古くから行われていたようだ。これからの季節、時に他家の庭先で見かけるが、正直、花が暑苦しい感じがしないわけでもない。白い牡丹はあまり知らないので、この色なら好きになりそうだ。「魏紫姚黄」は、牡丹の異名にかぎらず、広く著名な花の意味。愛好家だった姚家や魏家の好んだ色らしい。同じく牡丹を愛でた欧陽脩の「洛陽牡丹記」が出典と聞く。十分の月は満月、人間は世間。
「ちりて後おもかげにたつぼたん哉」(蕪村)(Wikipedia 「牡丹」より )
画像は、丈山の好みのい花色ではないは、東京国立博物館 TNM Image Archives から、葛飾北斎の版画「牡丹に胡蝶」。
宇野直人 NHKラジオテキスト・カルチャーラジオ「漢詩を読む―日本の漢詩(鎌倉〜江戸中期)2011年10月〜2012年3月

日本人と漢詩(007)

◎石川丈山(続)と謝霊運


池の上《ほとり》の樓に登る 謝霊運
(身を守るため)潛《ひそ》める虯《みずち》は幽なる姿を媚《いろめか》し
飛ぶ鴻《おおとり》は遠き音を響かす
(私は)霄《そら》に薄《とど》まりて雲の浮かべる(高きに)愧《は》じ
川に棲みて淵に沈める(深さ)を怍《は》ず
德を進《みが》かんとするも智の拙なる所《ため》(進まず)
耕に退かんとするに力は任《た》えず
祿に徇《した》がいて窮海《いなかのうみ》に反《かえ》る
痾《あ》に臥《ふ》し空林に對す
衾《ねや》枕にて節候《じせつ》に昧《くら》く
褰《かか》げ開き暫《しばら》く窺《うかが》い臨み
耳を傾けて波瀾を聆《き》き
目を舉げて嶇嶔《たかきやま》を眺むるのみ
初景《はつはる》は緒《なご》りの風を革《あらた》め
新陽は故《こぞ》の陰《ふゆ》を改む
池の塘《つつみ》に春の草生じ
園の柳に鳴く禽《とり》も變わりぬ
(草つむ人の)祁祁《おお》きに豳《ひん》の歌の(人を慕う)を傷《いた》む(を知り)
萋萋《せいせい》たる楚吟に感ず
索居《ひとりい》は永く久しくなり易《やす》く
群を離れて心を處し難《がた》し
操を持するは豈《あ》に獨り古《いにし》えのみならんや
悶《うれ》い無く徵《しるし》は今(ここに)在りと
「池塘、春草生じ、園柳に鳴禽變ず」の詩句が有名なので、前項、謝霊運の画額の詩の全編を筑摩世界文学全集「文選」などを引っ張りだして読み下してみた。「人生挫折」の感情は、本来なら万物生成の候である春の景がバックグラウンドだけに切々と訴える。写真は、当方が撮った詩仙堂の園庭、「池塘、春草生じ」の雰囲気があるかな?その他の詩仙堂の写真は、Facebook にて。
「詩仙堂」ホームページ

日本人と漢詩(006)

◎石川丈山


詩仙圖の成るを喜ぶ
老を投ず 一乘山水の生涯
身閑《しずか》に心足りて 紛華《ふんか》に遠し
詩仙圖就《な》り 堂宇に列し
風雅新たに開く 凹凸花
浦上玉堂の項で触れた「隷書」の達人と言えば、江戸時代初期の詩人、石川丈山(1583〜1672 Wikipedia http://is.gd/KGwbOJ)。その名は、加藤周一の「三題噺」(Amazon http://is.gd/bkIEin)で知った。幼い頃、京都・詩仙堂(Wikipedia http://is.gd/h16ecS)に連れて行かれた記憶はあるが、その当時は、その山荘の主の名を知る由もない。近年、2回ほど、静寂の詩仙堂を訪れたことがある。詩仙堂は正確には凹凸窠 (おうとつか) というらしい。堂に掲げ、名前の由来となった三十六詩仙の狩野探幽筆の画額は、見事な「隷書」で書かれている。詩仙の間は、撮影禁止なので、早稲田大学古典籍データベースから、中国南北朝の詩人、「謝霊運」の額。ところで、詩仙を選ぶにあたり、こだわりがあるらしく、中薗英助の「艶隠者–小説 石川丈山」では、丈山一流の「政治嫌い」、「三題噺」では、ひいては「人間嫌い」がその因とあるが、そんな所だろうか。