日本人と漢詩(092)

◎佐藤一斎と潘岳とカズオ・イシグロ

先日、カズオイシグロ脚本による「生きる」を観てきた。オリジナルの黒澤明監督「生きる」をイギリスに置き換えたリメイク版である。息子には伝えきれなかった数々の思い…でも濃淡はありつつも周囲との関係の中で、幾許かは共有しながら、最期に公園のブランコに乗り、スコットランド民謡を唄う。志村喬とは、少し違った趣きがあり、見ごたえがある映画だった。主人公の過去にあった、亡き妻との永訣、その面影でも、映画脚本にあったらなら、もう少し深みがでてきたのかもしれないと、ふと思ったがそれは「無いものねだり」というものだ。

連れ合いを亡くした時の漢詩は、古来「悼亡詩」としてある。その嚆矢が、中国南北朝時代・西普の詩人・潘岳(247~300)のそれである。

悼亡詩 潘岳
荏苒冬春謝 荏苒《じんぜん》として 冬春謝《さ》り
寒暑忽流易 寒暑 忽《たちま》ちに流易《りゅうえき》す
之子歸窮泉 之の子 窮泉《きゅうせん》に帰し
重壤永幽隔 重壤《ちょうじょう》 永《とこし》えに幽《かく》し隔《へだ》つ
私懷誰克從 私懐《しかい》 誰《たれ》か克《よ》く従《したが》わん
淹留亦何益 淹留《えんりゅう》するも亦《また》何の益あらん
僶俛恭朝命 僶俛《びんべん》として朝命《ちょうめい》を恭《つつ》しみ
囘心反始役 心を回《めぐ》らして始役《しょえき》に反《かえ》らんとす
望廬思其人 廬《かりや》を望《のぞ》みて思其人
入室想所歷 室《へや》に入《い》りては歴《へ》し所を想《おも》う
幃屏無髣髴 幃屏《いへい》には髣髴《ほうふつ》無きも
翰墨有餘跡 翰墨《かんぼく》には余跡《よせき》あり
流芳未及歇 流芳《りゅうほう》 未だ歇《や》むに及ばず
遺挂猶在壁 遺挂《いけい》 猶を壁に在り
悵怳如或存 悵怳《ちょうよう》として或いは存するが如く
周遑忡驚惕 周遑《しゅうこう》として忡《うれ》いて驚惕《きょうてき》す
如彼翰林鳥 彼の林に翰《と》ぶ鳥の
雙栖一朝隻 雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く
如彼遊川魚 彼の川に遊《およ》ぐ魚《うお》の
比目中路析 比目《ひもく》して中路《ちゅうろ》に析《わか》るるが如し
春風緣隙來 春の風は隙《すき》に縁《よ》りて来たり
晨溜承簷滴 晨《あさ》の溜《あまだれ》は簷《のき》を承《つた》いて滴《したた》る
寢息何時忘 寝息《しんそく》 何《いず》れの時か忘れん
沈憂日盈積 沈憂《ちんこう》 日びにに盈《みち》積《つ》む
庶幾有時衰 庶幾《こいねが》わくは時に衰《おと》うるあらんことを
莊罐猶可擊 荘《そう》が缶《ほとぎ》猶《な》お撃《う》つべし

語釈などは「石九鼎の漢詩館」などを参照のこと。

訳文など、高橋和巳訳を参考にした。]冬と春は移ろい、寒暑もたちまち変わった。妻は、窮泉(よみの国)に帰り、土塊により永久に隔てられた。吾だけが思い続けても誰も分かってくれないし、そこにとどまっていてもなんの益があろうか。…だが、喪中の廬《いおり》や、わが家でもをみれば、彼女を思い出すし、とばり、屏風には、彼女の手跡が残っている。香りや琴も以前のまま、あたかもまだ居るように錯覚し、こころさわぐ。林のつがいの鳥が、一羽取り残されたように、また川を泳ぐ伝説上の比目魚が途中で分かれてしまったようだ。(「彼の林に翰《と》ぶ鳥の雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く」とは、「雙」と「隻」という漢字の字体の違いをうまく使った表現である。)春の風、朝の雨だれも、独り寝の身には、深い愁いがつのるばかり。いっそ昔、莊子がしたように妻を失ったとき酒甕をたたいてうたったようにしてみたいものだ。

愛日樓詩

西風直置不堪悲 西風ただ悲しみに堪えず
況復鰥鰥枕易攲 いわんや復《ま》た鰥々《かんかん》枕を攲《そばた》てやすきを
淡月黃蘆秋似畫 淡月黃芦、秋は画に似る
憶君水墨寫成時 憶う君が水墨写し成る時

訳文など]
秋風に悲しみはたえず、独り身になり、すっかり目ざとくなった。淡い月、黄の芦は画のようで、亡妻が水墨画を書いていた時を思い返す。「淡月黃芦、秋は画に似る」とは、うまい表現。潘岳の妻も絵心があったというから、一斎は、彼の悼亡詩からまともに影響を受けたのだろう。

晩春掃亡妻墓 晩春、亡妻の墓を掃《は》く
春老山村路 春は老ゆ、山村の路
到来敲梵扉 到り来て梵扉《ぼんぴ》を敲《たた》く
新墳芳草合 新墳、芳草合し
古道晩花飛 古道、晩花飛ぶ
先後倶長夜 先後倶《とも》に長夜
壽殤同一歸 寿殤同じく帰を一つにす
啼鴉覔棲樹 啼鴉《ていあ》、棲樹を覔《もと》む
暮景足歔欷 暮景、歔欷《きょき》するに足る

訳文など]
晩春の候、山路をたどって寺の門をたたく、新しい墓は香草に囲まれ、道は遅咲きの花が散る。生まれは違っても、いずれは偕老同穴なのだ、カラスがすみかを求めて啼いている夕暮れの景色にたたずんでいると、すすり泣きせざるを得ない。

晩年の作ではあるが、率直な悲しみが伝わる詩であり、彼の「人としての優しさ」もうかがえる。ここで思い起こすのは、すこし時を遡り、天保年間に、大塩平八郎は、乱の勃発直前に佐藤一斎に書状を差し出した。また、そのすこし前に、大塩が昌平黌の林述斎に、相当な額の資金を融通したとも言う。塾頭の一斎の反応は残っていないが、書状が残存していることから、一斎は、大塩の心情は充分理解していたのではあるまいか?そのことが、彼の立場を微妙なもののしてしまい、蛮社の獄では、「日和見」的な態度に終止したのではとも思う。彼が、言志録にある「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む」のを言葉とおりに実行していたなら、また違った結末になったかもしれない。それが彼にとっても。「生きる」ということに繋がったのでは、とふと夢想してみる。

参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波書店 同時代ライブラリ)
・高橋和巳作品集9(河出書房新社)

日本人と漢詩(086)

◎松崎慊堂、林述斎、佐藤一斎と鳥居耀蔵

渡辺崋山を巡る人物は、次のような関係である。まず、百姓から身を興した儒学者・松崎慊堂は、崋山の友にして、師と言える人物だった。まず、その詩から…

夜市納涼 松崎慊堂
黃昏浴罷去迎風 黄昏《こうこん》、浴罷《や》みて去《ゆ》きて風を迎え
燈市徜徉西又東 灯市《とうし》に徜徉《しょうよう》して西また東
時節未秋秋已至 時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り
滿街夜色賣蟲籠 満街の夜色、虫籠《むしかご》を売る

夕暮れ方、ふろ上がりの身には涼風がここちよい。明かりのともる夜市にそぞろ歩き。虫の鳴き声が、早くも秋の到来をつげるという「時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り」という句がすてき。

和一齋墨田遊暑 一斎の墨田遊暑に和す 松崎慊堂
舐眠忽破涌弦歌 舐眠《だみん》忽《たちま》ち破れて弦歌《げんか》涌く
二國橋邊千頃波 二国橋辺、千頃《せんけい》の波
納涼舟似深秋葉 納涼の舟は、深秋の葉に似て
風處紛紛不勝多 風処紛々、多きに勝《たえ》ず

酔いの気分でのうたた寝が覚めたら、しゃみの音色が聞こえる、両国橋の川辺には、幾多の波が寄せる。見れば、涼みの船は、秋のもみじばに似て、風に揺れるばかり。

松崎慊堂は、蛮社の獄では、渡辺崋山の助命、釈放に尽力した。

慊堂のそのまた師匠筋で上司であったのが、昌平黌のトップであった、林述斎。

夏日 林述斎
半窗梧葉影交加 半窓の梧葉、影は交加《こうか》し
胡蝶夢醒西日斜 胡蝶、夢醒《さ》めて西日斜めなり
將起渾身無氣力 まさに起きんとし、渾身《こんしん》に気力なく
呼童目指濯盆花 童《わらわ》を呼びて目指《もく》し盆花に濯《そそが》しむ

半開きの窓からのアオギリの葉にさす影は、陽と交錯し、「胡蝶の夢」覚めたらもう夕方。起き上がろうとするが、どうも気力がわかない。従僕を呼び、目で花に水をやるよう、そっと合図する。「胡蝶の夢」は、荘子からの類推か?目指《もく》しという表現が、とても面白い。

谷口樵唱 林述斎
辭枝花作委泥花 枝を辞《じ》する枝、花は泥に委《ゆだ》ぬる花と作《な》り
絲雨隋風整復斜 糸雨《しう》風に随《したが》いて整《ととの》い復た斜めなり
索莫吟懷無所得 索莫《さくばく》として吟懐《ぎんかい》得るところなく
惟聽哈哈滿池蛙 ただ聴く、哈々《こうこう》満池《まんち》の蛙《かわず》

少しアンニュイ気分の詩。桜の花びらは枝から落ち、泥にまみれてゆく。細雨は、風に逆らうことなく、真っ直ぐに、はたまた斜めへと向きを変える。ここらあたりの表現が絶妙。なかなか、詩句が浮かんでこない中、池の蛙の鳴き声がかしましい。ちゃんと一首できてるじゃないかと、ツッコミどころ満載である。

松崎慊堂は、林述斎にも懇願するが、色よい返事はさっぱり。その陰で、述斎の三男(四男という説あり)、鳥居耀蔵の暗略があり、崋山の助命はかなわぬこととなった。中村真一郎は、林述斎は「根っからのエピキュリアン」と述べるが、生涯、正妻をめとらず、しかも子どもや孫が幾人もいたのだから、その意味はずいぶん多義的である。昌平黌では、「朱子学」がその学問の柱とされたが、建前と本音もずいぶん乖離したものである。

慊堂の隅田川遊びに、同行したのが佐藤一斎で、昌平黌では、慊堂の同輩。著書「言志四録」に、「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む。」との格言があり亡父が好んでおり、父の実直な生き様を反映していると思っている。長年連れ添った連れ合いに先立たれた悲しみの時の「悼亡詩」

愛日楼詩 佐藤一斎
屈伸臂項物全非 臂項《ひこう》を屈伸するに、物全て非なり
一去孤鸞不復歸 ひとたび去りて、孤鸞《こらん》また帰らず
八載相從都是夢 八載、あい従うも都《すべて》これ夢
遺箱忍看嫁時衣 遺箱看るに忍《しの》びんや、嫁の時の衣《ころも》

ひとり寝の床で四肢を曲げ伸ばしするも、すべては幻。ひとたび去って、霊鳥といえども、長年連れ添っても夢のまた夢、帰ってこない。嫁入りに持参した着物を、躊躇しながらそっと見てみる。

佐藤一斎は、蛮社の獄では、崋山などの助命活動に熱心ではなかったと「偽君子」との世評を得た。「文は人なり」と簡単には言わないが、こうした詩を改めてみていると、まだ明らかにされない、複雑な事情もあったのかもしれない。

一方、弾圧者だった 鳥居耀蔵は、天保の改革後、幽囚の身になるが、幕府崩壊後は、釈放され東京に戻り、そこで生涯を終えた。その時の詩、

「東京」
交市通商競つて狂の如し
誰か知らん胡虜深望あるを
後五十年すべからく見得べし
神州恐らくはこれ夷郷とならん

(現代語訳)
人々の行き交いも商業も狂ったように競っている。
誰が知るだろう、過去の罪人(耀蔵)の考えを。
五十年後の未来を予想できるならば
日本はおそらく野蛮人の国となっているだろう。

(ともにWikipediaより)

幕臣であった栗本鋤雲の評は、
「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場の犬のようなものである」
となかなか手厳しいが、こんな「詩」を見ると、まあ、そんな人物だったのだろう。「俺の言うことを聞いていたら、こうはならなかったのだろう」というのが、最晩年の口癖だったらしい。いつの時代も、今日《こんにち》でも、こういうやから、いるよね。いずれにしても、佞人という評価は免れないだろう。
参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」
・杉浦明平「椿園記・妖怪譚」(講談社)

日本人と漢詩(083)

◎渡辺崋山と杉浦明平

渡辺崋山( Wikipedia )は、愛知県知多半島にあった田原藩(小藩というより貧藩と言えるだろう)の家老。蛮社の獄で、高野長英らと、捕縛、崋山は切腹に追い詰められた。従来、絵画が有名だが、彼の漢詩が紹介されることは意外と少ない。たしか、杉浦明平の大部な小説「小説 渡辺崋山」では、上巻は、一首だけだったと思う。

ここでは、まずは、その一首、27歳のおり、江戸在住での作と小説にはある。

中秋歩月
俗吏難與意 俗吏意を与《とも》にし難く
孤行却自憐 孤行却って自ら憐れむ
松林黒于墨 松林は墨より黒く
江水白於天 江水は天よりも白し
樓遠唯看燭 楼は遠く唯燭を看る
城高半帯雲 城は高く半ば雲を帯ぶ
不知今夜月 知らず今夜の月
偏照綺羅莚 偏《ひとえ》に綺羅《きら》の莚《むしろ》を照らすを

語釈】孤行:同僚と協調しない独自の生き方 樓遠唯看燭:将軍家斉の観月の宴 綺羅:その豪勢の様

小説では、華山のハラのうちを描く。為政者の金の使い方の理不尽さは現在も続く。

おれたちは腹をすかしておるのに、夜中まで飲み食い遊びほうけてけつかる腹が立ってならなかったんだ。…いまは日本中が飢えている。それなのに、大奥では依然として、毎日白砂糖千斤ずつ消費している。…そういう後宮のために消尽された無駄な費用をよそへ廻せば、四、五十万人と見込まれる今年の餓死者の大半は生きのびることができたのではなかろうか。

次に、晩年幽居での詩作を掲げる。

辛丑元旦二首
其一
萬甍烟裏海暾紅 万甍烟裏 海暾《かいとん》紅《くれない》なり
投刺飛轎西又東 刺を投じ轎を飛ばして 西又た東
滾々馬聲皆醉夢 滾々たる馬声 皆な酔夢
今朝眞箇迎春風 今朝真箇《まこと》に春風を迎う

語釈】辛丑:天保十二年(1841年) 海暾;海から昇る太陽 投刺飛轎西又東:人々のせわしい様 滾々馬聲皆醉夢:駆け抜ける馬の蹄の音も、酔っ払った後の夢の中

其二
四十九年官道樗 四十九年 官道樗《ちょ》なり
昨非不改愧衞蘧 昨非改めず 衛蘧《えいきょ》に愧《は》ず
天下難望只天樂 天下望み難きは只だ天楽
七十萱堂數架書 七十の萱堂《けんどう》 数架の書

語釈】官道樗:宮使いも樗(節が多く曲がりくねった木)で役に立たない。莊子に由来 衛蘧:春秋時代、衛の蘧伯玉は、齢五十にして、それまでの非を悟った 天樂:至高の楽しみ、萱堂(自らの母親)と數架の書をせめてもの楽しみにしたい

これらの詩を読むと、吹っ切れたというより、なにかそれまでの緊張感が抜けていった印象があり、自刃直前の華山の心情はいかばかりのものだったろうか?

付】Wikipeda 写真の詩を、訓読すると「石に倚って疎花痩せ、風を帯びて細葉長し。霊均の情夢遠く、遺珮沅湘に満つ」となる。霊均は、屈原の字だから、蘭を屈原に例えると同時に華山自らの自負であるだろう。天保十年(1839年)の「蘭竹双清」に添えたものだそうだ。

とまれ、蛮社の獄で犠牲になった、渡辺崋山や高野長英は、当時最高の知性であり、彼らが、非業の死を遂げたことは、日本の近代史でも、有数の悲劇であったことは論を俟たない。

【参考】
・入矢義高「日本文人詩選」(中公文庫)
・杉浦明平「小説 渡辺崋山」(上)(朝日新聞社)

日本人と漢詩(057)

◎森鴎外と寒山(拾得)


鷗外の作品をもう一つ。青空文庫「寒山拾得」(新字版)→ https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/1071_17107.html
(旧字版)→ https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/679_15361.html
 作品そのものは、寒山の漢詩の引用もなく、どうも中途半端で終わっており、鴎外の筆力の衰えと見るか、釈然としない。寒山は、村人と合わず「剰《あま》つさえ自らの妻に疎《うと》んぜらる」結果、仕官の道をさぐるが失敗の人生。山に籠もったあとも、彼女のことが忘れられなかったようだ。相貌が変わったのはお互い様なのに、妻の面影は昔のままだったとすると少し物悲しいが、逆にユーモアも感じる。そうしたエピソードを小説中に盛り込めば、また違った趣きも出てきそうだが…
昨夜夢還家 昨夜夢に家に還り
見婦機中織 婦の機中に織るを見る
駐梭若有思 梭《ひ》を駐《とど》めて思い有るが若《ごと》く
擎梭似無力 梭を擎《ささ》げて力無きに似たり
呼之廻面視 之《これ》を呼べば面《おもて》を廻らして視《み》
怳復不相識 怳《きょう》として復《ま》た相い識らず
応是別多年 応《まさ》に是れ別るること多年
鬢毛非旧色 鬢毛《びんもう》旧色に非ざるべし
 訳と語釈は https://akasakanoomoide.muragon.com/entry/922.html を参照のこと
 図は、渡辺崋山「寒山拾得図」とあるが、華山の真筆であろうか?古今の寒山拾得図の人物は、どれも丸顔で、諧謔的だが、ちょっとニュアンスが違うようだ。
参考)・一海知義編著「続漢詩の散歩道」