◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(009)
岩波文庫「南総里見八犬伝」(一)に高田衛氏の「『八犬伝』を読むために」という解説文がある。今更、勧善懲悪づくし、しかもやたらに長い「八犬伝」でもあるまいにと思ったが、読んでみると、意外と筋立てや表現が「論理的」で面白くも感じた。そこで、どこまでできるかはおぼつかないが、テキストのアップに取り組んでいる。まだ、冒頭部分だけなので、いつになったら完成するのやら…
評判の悪い「勧善懲悪」でいうと「馬琴は、勧善懲悪を唱導した。しかしその悪とは、体制の悪であった。したがってその善とは、体制そのものをゆさぶる行為でさえあった」(松田修氏)の指摘は、しばし至言であり、秋水にも通じるだろう。
ここでは、高田衛氏から冒頭部分を長く引用し、幸徳秋水の想いに馳せるうえでの一助としたい。
先頃、幸徳秋水の獄中書簡を読んでいたら、こんな個所に目がとまった。
△六ヶ月目で此頃ー二回刺身を食た。秋刀魚を食っては季節だなと思び、新鮭や数の子を食てはモウ出たナと感じる。此夏以来鮎も食た。松茸も食た。野菜は胡瓜、東蒲塞、茄子の時代から此頃の離大根まで、果物も林檎、梨子、栗、柿、蜜柑と、新しい物が這入る毎に娑婆の節物の移り行くことを想ひやる。小供の時に読だ伏姫の山ごもりに花紅葉て村里の四季を想ふ美しい文があったが、吾等には每日の差入弁当が唯一の暦だ。
(明治四十三年十二月六日付、師岡千代子宛)おそらく質素であったに違いない差入弁当の、そのおかずにさえ、くっきりと浮び上ってくる四季の姿がこの手紙にみられる。この豊饒な季節感は、もう私たちの日常からは永遠に失われてしまったことを、しみじみと感ぜずにはいられなかったのだが、その間に何気なく、『八犬伝』の一節「伏姫山ごもり」の文章の想い出が挿入されていたことが、とりわけ印象的であった。
時代からいっても漢詩の嗜みのある点からみても、幸徳秋水のような人が『八犬伝』を碗んでいたことに別に不思議はない。ただ、秋水のような革命家の心にさえ、ひときわ豊かな季節感の感受があり、それとまったく矛盾のないかたちで、『ハ犬Tの一節が甦えってくることの、いわぱ「自然さ」に思いをはせないではいられなかったのである。
秋水が回想した「伏姫の山ごもり」の「村里の四季を想ふ美しい文」というのは、次のような文章であった。扠も里見治部大輔義實のおん息女伏姬は、親の爲、又國の爲に、言の信を黎民に、失はせじと身を捨て、八房の犬に伴れ、山道を指て入日成、隱れし後は人訪ず。岸の埴生と山川の、狹山の洞に眞菅敷、臥房定めつ冬籠り、春去來れば朝鳥の、友呼ぶ頃は八重霞、高峯の花を見つゝおもふ、彌生は里の雛遊び、垂髮少女が水鴨成、二人雙居今朝ぞ摘む、名もなつかしき母子草、誰搗そめし三かの日の、餠にあらぬ菱形の、尻掛石も膚ふれて、稍暖き苔衣、脫かえねども、夏の夜の、袂涼しき松風に、梳らして夕立の、雨に洗ふて乾す髮の、蓬が下に鳴蟲の、秋としなれば色々に、谷のもみぢ葉織映し、錦の床も假染の、宿としらでや鹿ぞ鳴く、水澤の時雨霽閒なき、果は其處ともしら雪に、岩がね枕角とれて、眞木も正木も花ぞさく、四時の眺望はありながら、わびしく處れば鹿自物、膝折布て外に立ず、後の世の爲とばかりに、經文讀誦書寫の功、日數積ればうき事も、憂に馴つゝ憂しとせず、浮世の事は聞しらぬ、鳥の音獸の聲さへに、一念希求の友となる、心操こそ殊勝なれ。
(第二輯巻之一第十二回)伏姫は、父のため国のため、そして「黎民」のため、自ら犬の八房とともに人跡まれな深山の同窟に身を閉じこめて、もう二年という歳月を過したのであった。その伏姫のわびしく孤独なたたずまいの中で、かって家族うちそろって何不足なく平安に過した故郷の四季を、いま深山にも巡ってくる美しい四季と錯綜させつつ回想している——–そういう文章であることがわかる。
装飾の多い七五調の文章が、私たちにとって「美しい」かどうかはさておこう。一読しておどろくのは、国を思い民衆を案じて思い立った革命行動にやぶれ、国事犯の名のもとに、監獄のつめたい独房に閉じこめられ、きびしい月日を送りながらも、片々たる弁当のおかずに、豊かな季節感を感受する秋水と、この文章のパセティックな四季づくしとの偶合である。
この文章のなかの八房の件をかりに保留し、人も訪れず外に出ることも許されぬ伏姫を、秋水自身に擬し、伏姫のこもった「狭山の洞」(山中の洞窟)を市が谷の東京監獄独房に置き替えるならば、韻律ゆたかに四季の美をうたいあげた、この『八犬伝』の一文は、そのまま獄中の秋水の心情の表白とかさなってくるであろう。
このような偶合(?)に気づくとき、はじめて秋水がこの文章を「美しい」と呼んだ意味がわかってくる。また「美しい」からこそ、彼は自己の追いつめられた状況に即応して、自然に、そして適切に、この『八犬伝』の一節を思い出したのであろう。そう考えるならば『八犬伝』は、まぎれもなくこの感じやすい革命家の魂の一部であったのである。
以上はたまたま秋水の獄中書簡の一節を読んで感じたことである。意外なほどに秋水にとっての『八犬伝』が身近かであったことを知るにつけ、思うことは秋水もまた同時代の多くの人々と同じように、連鎖する美的言語とその韻律をたのしみながら、声をあげて『八犬伝』を音読した読者のひとりであっただろうことである。
実際、明治初期の書生たちの小説読書は、たいてい音読であったのであり、なかでも『八犬伝』はしばしば朗誦によって暗記され、折にふれてはそのサワリの部分が暗誦される小説であったことを、前田愛が豊富な資料をあげて指摘している(「音読から黙読へ—近代読者の成立」)。
江戸時代後期になって成立した読ザという小説ジャンルこそは、まさにそのような音読・朗誦にたえる文章・文体を持つことを、条件のひとつとしていたのであった。もともと「読む」ということばの原義は、たんに文章の文字を目で拾う黙読ではなく、声を出し抑揚をつけて、その文章を朗誦することであったという。おそらく秋水もまたそうした読者のひとりにほかならなかった。
しかし皮肉なことに、この幸徳秋水あたりを最後にして、そういう古典的な読者は姿を消していった。『八犬伝』は他の読本一般とひとしなみに扱える作品ではないが、その『八犬伝』は読者も、次第に黙読する近代読者にとって替わられていったのである。
第二節 こうとく・しゅうすい(幸徳秋水)
一 秋水と兆民
ここでは漫然と幸徳秋水の略伝をかくことは必要であるまい。獄中から「余はいぜんとして唯物論者だ」といいつづけた秋水が、彼の生涯のどんなところで、やがて唯物論的世界観をもつようになる生活要素にぶつかったか、そうした点をみることが、じつは必要であろう。私はこの節の(一)、(二)、(三)でその必要をほんの少しばかり充たしてみたいとおもう。
秋水が死の刑をうけてこの世から消えたのは、一九一一年(二十三日は秋水らの死刑の前日にあたる)、なお、一月二十五日のところには、「昨日死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載つた。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割つた―――その事が劇しく心を衝いた」と書かれている。
(愚童はもと僧侶だった。死刑にたちあった沼波という教誨師の記録によると、沼波が「最後の際だけでも念珠を手にかけられたらどうですか」とすすめると、「暫く黙然として考えていたが、唯一語『よしましょう』と答えた」ということである。)
世間でいわゆるこの「大逆事伴」ほど、日本の国民のぜんたいに大きな衝動をあたえたものは、なかったろう。(私は当時まだ中学生だったが、そのころの雑誌に「十一人の死刑囚の遺骸が落合火葬場に運ばれてゆく列が、魂の火のような警戒の提灯でそれと知れて、点々と暗い夜道を長くつづくのがみえた」といったような記事が載っていたことの記憶が今もはっきりのこっている。)
秋水は死刑の日、監房からひき出されて、死刑執行を告げられた。このとき、彼は典獄にむかって、「原稿の書きかけが監房内に散乱してあるから一度監房へ戻して貰ひたい。原稿を整理して来るから」と願い出たが、許されなかった。前記の沼波教誨師は「彼は絞首台に上つても、従容として挙止些も取乱した様子が見えなかつた。或は強く平気を装ふたのではなからうかと疑はれもした註(1)」と伝えている。
このとき秋水はまだ四十一歳であった。彼の四十一年の生涯は、一八七一年の旧暦七月二十二日にはじまった。それは明治四年だから、まさに維新の変革の実質的な移行の最中である。この翌年に思いきった変革の主張者だった森有礼は、アメリカに滞在中、『日本に於ける宗教の自由』を書いた。すでにのべたように、そのなかで彼は revolution についての論説にふれている。秋水はこうした時代に生れたのである。
秋水が、自由思想の先覚者を多く出した土佐に生れたことは、まず彼の生涯のあのような進み方を規定した事情のひとつといってよい。林有造や板垣退助に師事したり、または指導をうけたりしたことは、彼が土佐生れであったことに由来する。彼は十歳ばかりのころ、兎猿合戦の物語を書き、それに挿絵まで描いたということ、また(十一、二歳のころ)自分だけの「新聞紙を拵えて楽しんだ」ということ、それには社説も政治記事も、社会記事もあったというほどに、新聞のていさいのあるものをつくっていたということが伝えられている。もう幼い彼のうちに、のちに発展したものが、萌芽として少しずつ伸びていたということができよう。
板垣退助を頭首とした自由党が結成されたのは明治十四年(一八八一年)十月であるが、この年は秋水が中学に入った年である。秋水少年の新聞には政治についての文章がのっていたといわれている。十八年には林に会い、十九年には板垣に会っている。これについて彼の自叙伝にはつぎのような文がある。「板垣退助君銃猟の為我郷〔東京ゆき]という事件と、社会的には自由民権派の運動者たち五七〇名が東京退出命令をうけたという前後にない大きな事件とがおこっている。いうまでもなく、三府一八県の有志総代によって、地租軽減・条約改正・言論集会の自由の要求という建白運動の起ったに対して、政府(伊藤内閣)が保安条例を発布して、直接運動者の退去命令を出した事件である。この五七〇名のうちには、もちろん林有造がいたが、中江兆民もこれに入っていた。
秋水が先輩として師として兆民を得たことは、秋水の生涯のこれからの方針にとってまことに大きな影響力をもった。「其の教養撫育の恩、深く心肝に銘ず」と、彼は後年の『兆民先生』というながい文章のなかで語っている。註(2)。おそらく秋水は、その文章を書店からたのまれてかいたのであろうが、とにかくそれは兆民の伝記である。しかし、彼は伝記とはいっていない。彼は自問自答して、「伝記か、伝記に非ず。評論か、評論に非ず。弔辞か、弔辞に非ず。ただ予が曾て見たる所の先生のみ、予が見つつある所の先生のみ」といっている。こう書いてきた秋水は、「先生のみ」とかいてもまだ本当のことが言い得ないと思ったか、さらに、こうつけくわえている。「予が無限の悲しみのみ。予が無窮の恨みのみ」と。彼は兆民先生の伝記を書いたのでなくて、自分の悲しみを書きつけたのだというのである。これほどに真実に兆民を語っている文章は、おそらく他にないであろう。少し長いが、その文の「緒言註(3)」だけでもつぎにあげてみたい。
寂寞北邙呑涙回、斜陽落木有余哀、
音容明日尋何処、半是成煙半是灰。
想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村に送りて茶毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁く草枯れ、満目惨凄として万感胸に堪へ、去らんとして去らず、悄然車に信せて還る。這一首の悪詩、即ち当時車上の口占に係る。鳴呼逝く者は如斯き歟、匆々茲に五閲月、落木粛々の景は変じて緑陰杜鵑の天となる。今や能く幾人の復た兆民先生を記する者ぞ。
但だ予や年初めて十八、贄を先生の門に執る。今に迨で十余年、其教養撫育の恩深く心肝に銘ず。而して未だ万一の報ずる有らず、早く死別の悲みに遭ふ、遺憾何ぞ限らん。平生事に触れ物に接して、毎に憶ふて先生の生前に至れば、其容其音、夢寐の間に髣髴として、今猶ほ昨日の如きを如何せんや。
況んや夫の高才を持し利器を抱て、而も遇ふ所ある能はず、半世轗軻伶俜の裡に老い、圧代の経論を将て、其五尺躯と共に、一笑空しく灰塵に委して悔ゐざらしむる者、果して誰の咎ぞ哉。嗚呼這箇人間の欠陥、真に丈夫児千古の恨みを牽くに足る。孔夫子曰へるあり、「従于彼曠野、我道非耶」と唯だ此一長嘆、実に彼が万斛の血涙を蔵して、凝り得て出来する者に非ずや。予豈に特に師弟の誼あるが為めにのみ泣かん哉。
而して先生今や即ち亡し。此夕独り先生病中の小照に対して坐する者多時、涙覚へず数行下る。既にして思ふ徒らに涕泣する、是れ児女の為のみ。先生我れに誨ゆるに文章を以てす、天の意気を導達する、其れ惟だ是れ乎、即ち禿筆を援て終宵寝ねず。
明治時代にも、師弟の情の厚かった例はいくらもあったろうけれど、秋水の兆民に対するほどのものは稀であったろう。しかも、兆民と秋水とは唯物論者としてゆるし合っていたのである。私はさきに「秋水が唯物論的世界観をもつようになる生活要素」ということをいったのであるが、秋水が兆民と相知ったということは、その要素のなかのもっとも大きいものの一つであったろう。
註(1)糸屋寿雄『幸徳秋水伝』(一九五〇年)二九一頁「刑死の記録」の節参照。さらに田中惣五郎著『幸徳秋水。一革命家の思想と生涯』四八六頁の「酷刑」の節参照。
(2) 『幸徳秋水選集』(一九四八年)第一巻。
(3) 前掲書三頁。






