読書ざんまいよせい(068)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(009)

 岩波文庫「南総里見八犬伝」(一)に高田衛氏の「『八犬伝』を読むために」という解説文がある。今更、勧善懲悪づくし、しかもやたらに長い「八犬伝」でもあるまいにと思ったが、読んでみると、意外と筋立てや表現が「論理的」で面白くも感じた。そこで、どこまでできるかはおぼつかないが、テキストのアップに取り組んでいる。まだ、冒頭部分だけなので、いつになったら完成するのやら…
 評判の悪い「勧善懲悪」でいうと「馬琴は、勧善懲悪を唱導した。しかしその悪とは、体制の悪であった。したがってその善とは、体制そのものをゆさぶる行為でさえあった」(松田修氏)の指摘は、しばし至言であり、秋水にも通じるだろう。
 ここでは、高田衛氏から冒頭部分を長く引用し、幸徳秋水の想いに馳せるうえでの一助としたい。

 先頃、幸徳秋水の獄中書簡を読んでいたら、こんな個所に目がとまった。

△六ヶ月目で此頃ー二回刺身を食た。秋刀魚を食っては季節だなと思び、新鮭や数の子を食てはモウ出たナと感じる。此夏以来鮎も食た。松茸も食た。野菜は胡瓜、東蒲塞、茄子の時代から此頃の離大根まで、果物も林檎、梨子、栗、柿、蜜柑と、新しい物が這入る毎に娑婆の節物の移り行くことを想ひやる。小供の時に読だ伏姫の山ごもりに花紅葉(ママ)村里の四季を想ふ美しい文があったが、吾等には每日の差入弁当が唯一の暦だ。
     (明治四十三年十二月六日付、師岡千代子宛)

 おそらく質素であったに違いない差入弁当の、そのおかずにさえ、くっきりと浮び上ってくる四季の姿がこの手紙にみられる。この豊饒な季節感は、もう私たちの日常からは永遠に失われてしまったことを、しみじみと感ぜずにはいられなかったのだが、その間に何気なく、『八犬伝』の一節「伏姫山ごもり」の文章の想い出が挿入されていたことが、とりわけ印象的であった。
 時代からいっても漢詩の嗜みのある点からみても、幸徳秋水のような人が『八犬伝』を碗んでいたことに別に不思議はない。ただ、秋水のような革命家の心にさえ、ひときわ豊かな季節感の感受があり、それとまったく矛盾のないかたちで、『ハ犬Tの一節が甦えってくることの、いわぱ「自然さ」に思いをはせないではいられなかったのである。
 秋水が回想した「伏姫の山ごもり」の「村里の四季を想ふ美しい文」というのは、次のような文章であった。

さて里見治部大輔義實さとみぢぶのたいふよしさねのおん息女伏姬むすめふせひめは、親のため、又國の爲に、ことまこと黎民たみくさに、失はせじと身をすてて、八房やつふさの犬にともなはれ、山道やまぢさし入日成いりひなす、隱れしのちは人とはず。岸の埴生はにふと山川の、狹山さやまほら眞菅敷ますげしき臥房ふしど定めつ冬籠ふゆごもり、春去來さりくれば朝鳥あさとりの、友呼ぶ頃は八重霞やへかすみ高峯たかねの花を見つゝおもふ、彌生やよひは里のひな遊び、垂髮少女うなひをとめ水鴨成みかもなす二人雙居ふたりならびゐ今朝けさむ、名もなつかしき母子草はゝこぐさ誰搗たがかちそめしかの日の、もちひにあらぬ菱形ひしかたの、尻掛石しりかけいしはだふれて、やゝ暖き苔衣こけごろもぬぎかえねども、夏の夜の、袂涼たもとすゞしき松風に、くしけづらして夕立ゆふだちの、雨に洗ふてかみの、おどろもと鳴蟲なくむしの、秋としなれば色々に、谷のもみぢ葉織映ばおりはえし、にしきとこ假染かりそめの、宿としらでや鹿しかぞ鳴く、水澤みさは時雨霽閒しぐれはれまなき、はて其處そこともしら雪に、岩がね枕角まくらかどとれて、眞木まき正木まさきも花ぞさく、四時しじ眺望ながめはありながら、わびしくれば鹿自物しゝじもの膝折布ひざをりしきたゝず、のちの爲とばかりに、經文讀誦書寫きやうもんどくじゆしよしやこう日數ひかず積ればうき事も、うきなれつゝしとせず、浮世うきよの事はきゝしらぬ、鳥の音獸ねけものの聲さへに、一念希求いちねんけくの友となる、心操こゝろばえこそ殊勝しゆせうなれ。
     (第二輯巻之一第十二回)

 伏姫は、父のため国のため、そして「黎民たみくさ」のため、自ら犬の八房とともに人跡まれな深山の同窟に身を閉じこめて、もう二年という歳月を過したのであった。その伏姫のわびしく孤独なたたずまいの中で、かって家族うちそろって何不足なく平安に過した故郷の四季を、いま深山にも巡ってくる美しい四季と錯綜させつつ回想している——–そういう文章であることがわかる。
 装飾の多い七五調の文章が、私たちにとって「美しい」かどうかはさておこう。一読しておどろくのは、国を思い民衆を案じて思い立った革命行動にやぶれ、国事犯の名のもとに、監獄のつめたい独房に閉じこめられ、きびしい月日を送りながらも、片々たる弁当のおかずに、豊かな季節感を感受する秋水と、この文章のパセティックな四季づくしとの偶合である。
 この文章のなかの八房の件をかりに保留し、人も訪れず外に出ることも許されぬ伏姫を、秋水自身に擬し、伏姫のこもった「狭山の洞」(山中の洞窟)を市が谷の東京監獄独房に置き替えるならば、韻律ゆたかに四季の美をうたいあげた、この『八犬伝』の一文は、そのまま獄中の秋水の心情の表白とかさなってくるであろう。
 このような偶合(?)に気づくとき、はじめて秋水がこの文章を「美しい」と呼んだ意味がわかってくる。また「美しい」からこそ、彼は自己の追いつめられた状況に即応して、自然に、そして適切に、この『八犬伝』の一節を思い出したのであろう。そう考えるならば『八犬伝』は、まぎれもなくこの感じやすい革命家の魂の一部であったのである。
 以上はたまたま秋水の獄中書簡の一節を読んで感じたことである。意外なほどに秋水にとっての『八犬伝』が身近かであったことを知るにつけ、思うことは秋水もまた同時代の多くの人々と同じように、連鎖する美的言語とその韻律をたのしみながら、声をあげて『八犬伝』を音読した読者のひとりであっただろうことである。
 実際、明治初期の書生たちの小説読書は、たいてい音読であったのであり、なかでも『八犬伝』はしばしば朗誦によって暗記され、折にふれてはそのサワリの部分が暗誦される小説であったことを、前田愛が豊富な資料をあげて指摘している(「音読から黙読へ—近代読者の成立」)。
 江戸時代後期になって成立した読ザという小説ジャンルこそは、まさにそのような音読・朗誦にたえる文章・文体を持つことを、条件のひとつとしていたのであった。もともと「読む」ということばの原義は、たんに文章の文字を目で拾う黙読ではなく、声を出し抑揚をつけて、その文章を朗誦することであったという。おそらく秋水もまたそうした読者のひとりにほかならなかった。
 しかし皮肉なことに、この幸徳秋水あたりを最後にして、そういう古典的な読者は姿を消していった。『八犬伝』は他の読本一般とひとしなみに扱える作品ではないが、その『八犬伝』は読者も、次第に黙読する近代読者にとって替わられていったのである。

第二節 こうとく・しゅうすい(幸徳秋水)

      一 秋水と兆民

 ここでは漫然と幸徳秋水の略伝をかくことは必要であるまい。獄中から「余はいぜん﹅﹅﹅として唯物論者だ」といいつづけた秋水が、彼の生涯のどんなところで、やがて唯物論的世界観をもつようになる生活要素にぶつかったか、そうした点をみることが、じつは必要であろう。私はこの節の(一)、(二)、(三)でその必要をほんの少しばかり充たしてみたいとおもう。
 秋水が死の刑をうけてこの世から消えたのは、一九一一年(二十三日は秋水らの死刑の前日にあたる)、なお、一月二十五日のところには、「昨日死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載つた。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割つた―――その事が劇しく心を衝いた」と書かれている。
 (愚童はもと僧侶だった。死刑にたちあった沼波という教誨師の記録によると、沼波が「最後の際だけでも念珠を手にかけられたらどうですか」とすすめると、「暫く黙然として考えていたが、唯一語『よしましょう』と答えた」ということである。)
 世間でいわゆるこの「大逆事伴」ほど、日本の国民のぜんたい﹅﹅﹅﹅に大きな衝動をあたえたものは、なかったろう。(私は当時まだ中学生だったが、そのころの雑誌に「十一人の死刑囚の遺骸が落合火葬場に運ばれてゆく列が、ひとだまの火のような警戒の提灯ちょうちんでそれと知れて、点々と暗い夜道を長くつづくのがみえた」といったような記事が載っていたことの記憶が今もはっきりのこっている。)
 秋水は死刑の日、監房からひき出されて、死刑執行を告げられた。このとき、彼は典獄てんごくにむかって、「原稿の書きかけが監房内に散乱してあるから一度監房へ戻して貰ひたい。原稿を整理して来るから」と願い出たが、許されなかった。前記の沼波教誨師は「彼は絞首台に上つても、従容として挙止些も取乱した様子が見えなかつた。或は強く平気を装ふたのではなからうかと疑はれもした註(1)」と伝えている。
 このとき秋水はまだ四十一歳であった。彼の四十一年の生涯は、一八七一年の旧暦七月二十二日にはじまった。それは明治四年だから、まさに維新の変革の実質的な移行の最中である。この翌年に思いきった変革の主張者だった森有礼は、アメリカに滞在中、『日本に於ける宗教の自由』を書いた。すでにのべたように、そのなかで彼は revolution についての論説にふれている。秋水はこうした時代に生れたのである。
 秋水が、自由思想の先覚者を多く出した土佐に生れたことは、まず彼の生涯のあのような進み方を規定した事情のひとつといってよい。林有造や板垣退助に師事したり、または指導をうけたりしたことは、彼が土佐生れであったことに由来する。彼は十歳ばかりのころ、兎猿合戦の物語を書き、それに挿絵まで描いたということ、また(十一、二歳のころ)自分だけの「新聞紙をこしらえて楽しんだ」ということ、それには社説も政治記事も、社会記事もあったというほどに、新聞のていさい﹅﹅﹅﹅のあるものをつくっていたということが伝えられている。もう幼い彼のうちに、のちに発展したものが、萌芽として少しずつ伸びていたということができよう。
 板垣退助を頭首とした自由党が結成されたのは明治十四年(一八八一年)十月であるが、この年は秋水が中学に入った年である。秋水少年の新聞には政治についての文章がのっていたといわれている。十八年には林に会い、十九年には板垣に会っている。これについて彼の自叙伝にはつぎのような文がある。「板垣退助君銃猟の為我郷〔東京ゆき]という事件と、社会的には自由民権派の運動者たち五七〇名が東京退出命令をうけたという前後にない大きな事件とがおこっている。いうまでもなく、三府一八県の有志総代によって、地租軽減・条約改正・言論集会の自由の要求という建白運動の起ったに対して、政府(伊藤内閣)が保安条例を発布して、直接運動者の退去命令を出した事件である。この五七〇名のうちには、もちろん林有造がいたが、中江兆民もこれに入っていた。
 秋水が先輩として師として兆民を得たことは、秋水の生涯のこれからの方針にとってまことに大きな影響力をもった。「其の教養撫育の恩、深く心肝に銘ず」と、彼は後年こうねんの『兆民先生』というながい文章のなかで語っている。註(2)。おそらく秋水は、その文章を書店からたのまれてかいたのであろうが、とにかくそれは兆民の伝記である。しかし、彼は伝記とはいっていない。彼は自問自答して、「伝記か、伝記に非ず。評論か、評論に非ず。弔辞か、弔辞に非ず。ただ予が曾て見たる所の先生のみ、予が見つつある所の先生のみ」といっている。こう書いてきた秋水は、「先生のみ」とかいてもまだ本当のことが言い得ないと思ったか、さらに、こうつけくわえている。「予が無限の悲しみのみ。予が無窮の恨みのみ」と。彼は兆民先生の伝記を書いたのでなくて、自分の悲しみを書きつけたのだというのである。これほどに真実に兆民を語っている文章は、おそらく他にないであろう。少し長いが、その文の「緒言註(3)」だけでもつぎにあげてみたい。


 寂寞北邙呑涙回、斜陽落木有余哀、
 音容明日尋何処、半是成煙半是灰。
 想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村に送りて茶毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁く草枯れ、満目惨凄として万感胸に堪へ、去らんとして去らず、悄然車に信せて還る。這一首の悪詩、即ち当時車上の口占に係る。鳴呼逝く者は如斯き歟、匆々茲に五閲月、落木粛々の景は変じて緑陰杜鵑の天となる。今や能く幾人の復た兆民先生を記する者ぞ。
 但だ予や年初めて十八、贄を先生の門に執る。今に迨で十余年、其教養撫育の恩深く心肝に銘ず。而して未だ万一の報ずる有らず、早く死別の悲みに遭ふ、遺憾何ぞ限らん。平生事に触れ物に接して、毎に憶ふて先生の生前に至れば、其容其音、夢寐の間に髣髴として、今猶ほ昨日の如きを如何せんや。
 況んや夫の高才を持し利器を抱て、而も遇ふ所ある能はず、半世轗軻伶俜の裡に老い、圧代の経論を将て、其五尺躯と共に、一笑空しく灰塵に委して悔ゐざらしむる者、果して誰の咎ぞ哉。嗚呼這箇人間の欠陥、真に丈夫児千古の恨みを牽くに足る。孔夫子曰へるあり、「従于彼曠野、我道非耶」と唯だ此一長嘆、実に彼が万斛の血涙を蔵して、凝り得て出来する者に非ずや。予豈に特に師弟の誼あるが為めにのみ泣かん哉。
 而して先生今や即ち亡し。此夕独り先生病中の小照に対して坐する者多時、涙覚へず数行下る。既にして思ふ徒らに涕泣する、是れ児女の為のみ。先生我れに誨ゆるに文章を以てす、天の意気を導達する、其れ惟だ是れ乎、即ち禿筆を援て終宵寝ねず。

 明治時代にも、師弟の情の厚かった例はいくらもあったろうけれど、秋水の兆民に対するほどのものは稀であったろう。しかも、兆民と秋水とは唯物論者としてゆるし合っていたのである。私はさきに「秋水が唯物論的世界観をもつようになる生活要素」ということをいったのであるが、秋水が兆民と相知ったということは、その要素のなかのもっとも大きいものの一つであったろう。


註(1)糸屋寿雄『幸徳秋水伝』(一九五〇年)二九一頁「刑死の記録」の節参照。さらに田中惣五郎著『幸徳秋水。一革命家の思想と生涯』四八六頁の「酷刑」の節参照。
  (2) 『幸徳秋水選集』(一九四八年)第一巻。
  (3) 前掲書三頁。

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読書ざんまいよせい(066)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(008)

第二章 明治の唯物論者

  第一節 なかえ・ちょうみん(中江兆民)

      一 「一年有半」

一年有半いちねんゆうはんとは、中江兆民の代表的な著述のなかの一つの名まえ﹅﹅である。兆民は明治三十四年(一九〇一)十二月十三日になくなったのであるが、それから九ヵ月ほどまえ、つまり三月の終りころのこと、かねてから悪かった喉頭の病気が、癌種だとわかった。兆民は医者にむかって、これから死ぬるまでどのくらいの日月があるか、とたずねた。すると、「一年半、よく養生して二年」だという答えを得た。彼はそのとき、「せいぜい五、六か月だろうと思っていたが、一年とは私にとって寿命の豊年である」とおもった。この宜告があってから、ひとつの著述が書きはじめられた。その本は四か月間くらいでいちおう結了になった。その本に、兆民は『一年有半』という書名をつけたのである。
 『一年有半』の第三節のところに、こう書いてある。「一年半、諸君は短促たんそくなりと曰はん、〔短促とは短くちぢまっていること〕、余はきはめて悠久なりと曰ふ、若しみじかしと曰はんと欲せば、十年もみじかきなり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時せいじ限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕は是れ、虚無海上一虚舟」。この短い文章のなかに、中江兆民というひとりの人間がまことによく、描き出されている。彼の持ちまえの負けじ魂も出ていることもちろんだが、それよりも、生きていく一刻、生きていく一瞬を、彼くらい「優に利用した」「楽しんだ」人は稀だと思われるからである。彼の一年有半(じつは九ヵ月だが)ほど濃縮に生きぬかれた例も少なかろう。このあいだに『一年有半』はもちろん、『無神無霊魂』という、明治・大正・昭和を通じて他に類例のない哲学書が書かれている。病気の苦痛、それにともなう人生観、これらが書きとめられている寸鉄ふう﹅﹅の文章をみても、彼の一年有半が、どのくらい緊縮的なものだったかが察せられる。つきのような一節がある。

「余の癌種、即ち一年半は如何の状を為す、彼れは徐ろに彼れの寸法を以て進めり、故に余も亦余の寸法を以て徐々に進みて余の一年半を記述しつつ有り、一の一年半は疾也、余に非ざる也、他の一年半は日記也、是れ余也」「疾病なる一年半、頃日少しく歩を進めたるものの如く、頸頭の塊物漸く大を成し、喉頭極めて緊迫を覚へ、夜間は眠り得るも昼間は安眠すること能はず、其食に対する毎に、或は嚥下すること能はざる可しと思ふこと有るも、実際未だ然らず、雞子二、三個、粥二碗、殽二礫、牛潼一日四合は之を摂取して違ふこと無し、是れ今日猶ほ能く余の一年半を録する所以なり」

 またある一節には、

「此両三日来炎威頗る加はり、朝日新聞に九十度を報ぜり、其れが為めにや余の一年半は、此際大に歩を進めたるが如き感有り、頸上の塊物俄然大を成し大に喉を圧し、裡面の腫物も亦部位を拡と為し(誰にても勿論二回以上患ふる理なし)経験無きが故に自ら明にすること能はざるも、食道の否塞する甚だ遠からざるを覚ふ」「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり、故に筆を取れば筆を以て攻撃し、口を開けば、詬罵を以て之を迎ふ、今や喉頭悪腫を獲て医治無く、手を拱して終焉を待つ、或は社会の罰を蒙りて爾るには非ざる耶、呵呵」

 このように「一年有半」を見つめ続けるあいだに、当時の日本の政治の現状についてひとつひとつ鋭い批判をなげつけている。兆民の発病の前年のころから、日本の政治は大きな転換をなしとげつつあった。自由党の歴史につながる政治力は弱まり、伊藤博文を首領とした立憲政友会ができ、その後ながく日本の政治を規定するところのあった政友会の内閣ができていた。それでもしかし、国民は「立憲内閣」だという幻影をもっていた。兆民のいわゆる「微弱なる立憲内閣」がそれなのであるが、その内閣が倒れて、桂太郎の内閣が成立したのも、彼の「一年余」の間におこっている。兆民は、桂内閣はその成立だけですでに憲法を政治の基本とする人々に対して「宣戦布告」をしたも同様だと批評している。このとき兆民は、「星亨、健在なりや、犬養毅、健在なりや」といって、民間政治家のなかに人物のいないのをなげている。その星亨が東京市の市会で伊庭想太郎のために刺されて即死した事件(六月)も、兆民の病中のことだし、やや前に戻るが、その年四月の、日本ではじめての社会主義政党である社会民主党の結成片山潜、幸徳秋水、木下尚江、川上清、堺利彦、安部磯雄、石川三四郎、吉川守園、西川光二郎等)、五月その党の綱領発表と同時におこなわれた結社禁止のことも、また「一年余」のなかの出来ごとであった。『一年有半』が公刊されたとき、日本の新聞や雑誌が前後三七社がそれぞれ長い批評を書いたことをみても、兆民の「一年余」は彼にとって「悠久」であったといえるのである。
 病気の進行が急になったのを自覚した兆民は、「余も亦歩調を迅速にし、一頁にても多く起稿し、一人にても多く罵倒し、一事にても多く破壊し去ることを求む可し」といっていて、彼の生命感はいっそう緊張し、いっそう燃焼している。私たちに見落されてならないのは、兆民が、自然法則的に推移する自然のなかの出来ごとと兆民自身とをいつも離して考えていること、また言いかえれば、いつもこの二つを一緒に把えていることである。さきに見たように、彼は癌という肉体のなかの一種の自然的組織変化をば「彼」と呼んで、兆民自身のことを「余」と呼んでいる。「彼」と「余」とが一つになって戦っている。頸頭の塊物、つまり自然物の生成﹅﹅と悩みつづける自分﹅﹅とを対立させている。この意識は彼にとって苦痛このうえないものであったろうが、しかし、癌も苦痛も、正義も愛慾も、すべてを虚無海上にうかぶ虚舟と観去みさる、ひとつの世界観が彼をつつみ、彼を慰めたこともあったろう。おそらく、そうしたところに彼の唯物論的世界観があったろうとおもわれる。
『一年有半』の読者は、この書のなかでなんどか兆民の罵倒、罵詈のことばをきくのである。
「天も亦余の罵詈癖の頑なるに驚く」だろうといっている。もちろん、彼にとって罵倒は批判であって、政治家罵倒は政治批判である。彼にとって精神罵倒は精神浄化である。彼は星亨の刺殺事件のときに、「暗殺蓋し必要欠く可らずと謂ふ可き耶」とさえいっている。これもまた批判であり検覈けんかくである。このような、ちょっとみては矯激にすぎるような言い方、仕方は彼の性格のためだと簡単にきめることは正しくない。彼の教養のひろさ、彼の思索の深さ、彼の感情の純粋さ(徳富蘇峰はこの点を強調して称揚した)、彼のイデオロギーの正かく﹅﹅さ、これらの総計が、明治の二十年と三十年代の日本の現実との間のいわば﹅﹅﹅大きな落差、大きな懸隔が、兆民にああした言動をとらせたのだというべきである。外国に求めた兆民の知識は主としてフランス語を通じてであったが、フランスの政情、フランスの文学、フランスの哲学思想については、彼は強い自信をもっていた。フランス滞在中、『孟子』『文章軌範』『外史』などの仏訳を試みたということもつたえられている。彼の思索の深さについては、あとで触れるが、『無神無霊魂』一冊の内容がいや応なく私たちを驚嘆させる。彼のイデオロギーが正かく﹅﹅であったかどうかは、彼のなくなった後の日本の半世紀の政治的推移が私たちに教えてくれている。彼の感情の純粋さについては、つぎの小話しょうわが、私たちにむしろ日本人の性格を指摘しつつ、私たちに納得なっとくを強いてすらいる。あるとき、幸徳秋水と兆民との対談のなかでフランス革命の話が出た。秋水が「仏国革命は千古の偉業だが、あのいたましさはかなわない」というと、兆民は「私の立場は革命党だ。だが、もし私がルイ十六世が眼のあたり絞頸台にあげられるのを見たら、私は走りよって剣手を撞き倒し、ルイ王を擁して逃がしたろう」と答えた。後に秋水は「先生の多血多感、忍ぶ能はざるの人なり」と、追憶して言っている。明治時代では日本はいわゆる「熱血漢」を多数、政治のなかに送りこんだが、兆民もその一人である。徳富蘇峰のつぎの評はあたっている。「真面目な人なり。常識の人なり。夫として其妻に真実に、父として其子に慈愛に、友として其交る所に忠なるの人也。但だ皮下余りに血熱し、眼底余りに涙多く、腹黒きが如くにして、極めて初心、面皮硬きに似て頗る薄く、自ら濁世の風波に触るるに堪へざるの身を以て、強て之を凌がんと欲してあたあたはず。為めに時に酒を仮り、時に奇言を籍り、以て其自ら世に容ざれる悶を排せんと試みたるのみ」
 秋水は兆民の文章を批評して、「瓢逸奇突、常に一種の異彩を放つて、尋常に異なる」ものがあるといったが、そうした風格といったようなものは、兆民が禅に関心をもって、いわゆる方外(世俗より外の人たちつまり禅僧)の人と交際し、好んで仏典や語録を読んでいた(たとえば『碧巌録』は愛読の書であった)ことと、関係があったにちがいない。兆民の病中の詩のなかにつぎの句がある。「夢覚尋思時一笑、病魔雖◦ 有◦ 兆◦ 民無」。この有兆民の圏点<◦とした>は兆民自身の付したものだと、この詩を贈られた秋水は書きのこしている。
 私はかつて、兆民の略歴と著述を『日本哲学全書』の第六巻でのべたことがある。それをここに参考のために、多少の重複はあるが、あげておきたい。

中江篤介は弘化四年(一八四七年)に土佐、高知県に生まれた。
 土佐は又明治初年における自由民権運動の発祥地であった。兆民の生涯は、フランス系統の自由主義を貫徹せんが為の苦難、受難の歴史であった。加藤弘之の高位高官生活と較べてみると、兆民の生涯を蔽う不遇と貧困とはいよいよ明瞭となる。彼は「東洋のルソー」と称せられたが、これは彼がルソーの『民約論』を翻訳して非常な影響を当時の日本の社会・政治・思想界に与えたことに原因がある。
 篤介は幼名を竹馬と称し、長じて、青陵、秋水、南海仙漁、木強生、兆民等と号した。十三歳で父を亡くした後、荻原三生、細川潤次郎に就いて蘭学を学び、慶応元年十九歳の時、高知藩の留学生として長崎に行き、平井義十郎にフランス語の指導を受け、二年の後江戸に出て村上英俊に師事したが放逸の為破門せられた。神戸、大阪開港の時仏国領事に従って大阪に赴き、転じて江戸に移り箕作麟祥の門に入った。明治初年福地源一郎の日新社の塾頭に任ぜられた事もある。明治四年政府留学生としてフランスに留学し(後藤象二郎、板垣退助の推挽に依るものであった)、主として哲学、史学、文学を修め、西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田乾一、声が漸次たかまって来た。留学中に『孟子』『文章軌範』『日本外史』等を翻訳したとも伝えられるが確実な資料がない。帰朝後元老院書記官に任ぜられたのであったが、幹事陸奥宗光と意見が一致せずして罷め、外国語学校長の椅子に就いたが間もなくそれも辞し、番町に私塾を開いて政治、法律、歴史、哲学等の諸科を講じた。前後、この門に学んだ者は二千余人に上ったとのことである。
 その当時においても彼は岡松甕谷の門に入り漢文を学んだ。甕谷は明治文学史上森田思軒と並んで漢文に優れていたことは広く人の認めるところである。
 明治十四年三月西園寺公望が『東洋自由新聞』を創刊するに際して入社したが、翌年四月同紙廃刊後十五年二月『政理叢談』を刊行(十七年まで続刊、三月(五六号)より『欧米政学雑誌』と改題)、同十五年六月『自由新聞』(十八年三月廃刊)を発行して急進的なる自由民権説を鼓吹した。
 明治二十年保安条例に遭って東京から退去を命ぜられ、大阪に走って、栗原亮一、宮崎富要、寺田寛等と協力して『東雲新聞』(二十一年)を起し主筆となったが永続しなかった。二十一年赦されて東京に帰り、後藤象二郎の援助を得て『政論』を刊行したが間もなく後藤と政治上対立したので袂別し、自ら『立憲自由新聞』を二十四年一月に創刊した。二十三年、彼は第一議会に大阪水平社に擁せられて当選、代議士となったが、予算八百万円削減問題に関し自由党の土佐派が政府の意を迎えて、その自由主義を伊藤博文等の政治運動の中に解消した事に憤激し、再び議会に出るを欲しなかった。当時又彼の『経倫』『京都活眼新聞』『民権新聞』(『立憲自由新聞』の改題)等を起して、改進、自由両党の連合を説き、政党運動にエポックな影響を与えたのも当時であった。
 その後彼は政界、文壇から去って実業に専心する様になった。
「今の政界に立つて銕面なる藩閥政府を敵手にし、如何に筆舌を爛して論議すればとて、中々捗の行くことに非らず。さらでも貧乏なる政党員が運動の不生産消費は、窮極する所、餓死するか自殺するか、左なくば節を抂げて説を売り権家豪紳に頣使せられるより外なきに至る。衆多の人間は節義の為めに餓死する程強硬なるものに非ず、(中略)金なくして何事も出来難し、予は久しく蛙鳴蝉噪の為す無きに倦む、政海のこと、我是れより絶えて関せざるべし」とは兆民が当時幸徳秋水に語った心境である。二十五年彼は小樽に行き『北門新報』の主筆となったが、間もなく罷めて札幌に紙店を開き、山林業にも手を染めたが失敗した。東京に出て実業に従事したが、その詳細は判然しない。明治二十三年の秋『毎夕新聞』の主筆に招かれ、次いで国民同盟会に投じて再び政治的関係を結び、彼の生涯の敵と目した藩閥と戦ったが、同年十一月頃より喉頭癌を病み、翌三十四年九月泉州堺に病を養うも効なく、九月帰京し、小石川武島町の自邸で『続一年有半』を執筆し、十月に出版し、十二月遂に長逝、無宗教葬をする事を遺言した。享年五十五歳。
 猶お兆民の生涯について知ろうとする人は、幸徳秋水著『兆民先生』(三十五年)を読むといい。彼の著述は政治的関心が全体を貫いている。彼の著述及び訳述を挙げれば次の如くである。

孛国財産相続法 仏・ジョゼフ著         明治十年
民約訳解 ルソー著漢訳             同 十五年
仏国訴訟法原論 仏・ボニエー著         同 十一―二年
非開化論 仏・ルソー著             同 十六年
理学沿革史 仏・アルフレッド・フーイヱー著   同 十九年
理学鉤玄                    同 十九年
革命前法朗西二世紀事              同 十九年
平民の目ざまし 一名国会の心得         同 二十年
三酔人経倫問答                 同 二十一年
国会論                     同 二十一年
選挙人の目ざまし                同 二十三年
四民の目ざまし                 同 二十五年
憂世概言                    同 二十三年
道徳大原論 ショーペンハウエル著        同 二十七年
一年有半                    同 三十四年
続一年有半                   同 三十四年
警世放言                    同 三十五年

 その他『兆民文集』(幸徳秋水編・明治四十二年)、『中江兆民集』(改造文庫・昭和四年)、『中江兆民篇』(『現代日本文学全集』第三九巻・五年)、『明治文化全集』第七巻「政治篇」等を見るべきである。

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日本人と漢詩(098)

◎中江兆民と真山民


兆民の「一年有半」は、彼が余命を知りながら、時の政治家の人物評や、大阪に療養の居を構えてから、通った人形浄瑠璃や浪花節のことなど、なかなかに話題が多岐にわたり、面白い著書である。

「越路音声の美、曲調の巧、真に匹儔《ひっちゅう》なし。けだし津太夫、呂太夫は、玉造の男形と相ひ待ち、越路太夫は紋十郎の女形と相ひ待ちて、倶にその妙を極むるを得、皆逸品なり。」

その著の紹介が恩田 雅和氏による「繁昌亭」支配人による連載として、大阪保険医協会のHP にある。

ところで「一年有半」の中では、彼が親しんだ漢詩にも触れた箇所がある。若い頃から、時折漢詩に親しんだ兆民は、杜甫、李白、高青邱をはじめ、宋末の遺民とされる真山民の詩の一部を引く。彼のバックグラウンドもなかなか奥深いものがあろう。ここではやや季節をことにするが、その全句を紹介する。

山間秋夜     真山民
夜色秋光共一闌 夜色秋光 共に一闌
飽収風露入脾肝 飽くまで風露を収めて 脾肝に入る
虚檐立盡梧桐影 虚檐立ち尽くす 梧桐の影
絡緯数聲山月寒 絡緯数声 山月寒し

語釈は関西吟詩文化協会HP参照のこと。ここでは、この詩の詩吟も紹介されている。

なかなか詩吟も力演だが、どうも重過ぎるきらいもないではない。本来の詩のピンイン読みが、さすが本場の雰囲気が出ていて、より効果的のような気がする。中国発の、漢詩原文読みのサイトがあるようなので触れておきたい。

新春 真山民

餘凍雪纔乾 余凍《よとう》 雪《ゆき》纔《わず》かに乾《かわ》き
初晴日驟暄 初晴《しょせい》 日《ひ》驟《にわ》かに暄《あたた》かなり
人心新歳月 人心《じんしん》 新歳月《しんさいげつ》
春意舊乾坤 春意《しゅんい》 旧乾坤《きゅうけんこん》
煙碧柳回色 煙《けむり》は碧《みどり》にして 柳《やなぎ》色《いろ》を回《かえ》し
燒靑草返魂 焼《やけあと》は青《あお》くして 草《くさ》魂《たましい》を返《かえ》す
東風厚薄無 東風《とうふう》 厚薄《こうはく》無《な》く
隨例到衡門 例《れい》に随《したが》いて 衡門《こうもん》に到《いた》る

語釈などは、M&Cメディア・アンド・コミュニケーションを参照のこと。

参考】
中江兆民「一年有半・続一年有半」(岩波文庫)

日本人と漢詩(093)

◎幸徳秋水と中江兆民

師弟の関係にあった幸徳秋水が中江兆民の葬儀の時の詩。その敬愛に満ちた評伝「兆民先生」の冒頭に掲げる

寂寞北邙呑涙回 寂寞《せきばく》たる北邙《ほくぼう》
斜陽落木有餘哀 斜陽《しゃよう》 落木《らくぼく》 余哀《よあい》あり
音容明日尋何處 音容《おんよう》 明日《みょうにち》 何處《いづ》くにか尋《たづ》ねん
半是成煙半是灰 半《なか》ばは、是れ煙と成り、半は是れ灰

語釈、訳文は詩詞世界を参照のこと。

続く文章も、思慕の念が溢れるものになっている。

「想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村 に送りて荼毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁く草枯れ、満目惨凄として万感胸に湛へ、去らんと欲して去らず、悄然車に信せて還へる。這の一首の悪詩、即ち当時車上の口占に係る。嗚呼、逝く者は如斯きか、匆々茲に五閲月、落木蕭々の景は変じて緑陰杜の天となる。今や能く幾人の復た兆民先生を記する者ぞ。」

一方、師の兆民も、漢詩の詩作が数百首あったようだが、まとまって紹介されることは少ない。そのなかで、「兆民先生」で引用される詩がある。

病中得二首之二 病中二首を得の二 中江兆民
西風終夜壓庭區 西風《せいふう》 終夜《しゅうや》 庭区《ていく》を圧《あ》っし
落葉撲窗似客呼 落葉《らくよう》 窓《まど》を撲《う》ちて 客の呼ぶに似たり。
夢覺尋思時一笑 夢覚め 尋思《じんし》の時一笑《いっしょう》
病魔雖有兆民無 病魔《びょうま》ありと雖《いえど》も兆民《ちょうみん》なし

語釈、訳文は同じく詩詞世界を参照のこと。

これ以上、余分な解釈は必要あるまい。兆民は、大坂堺市でその療養生活を送った。堺市市之町にはその居住先があるという。今度、機会があれば訪れてみよう。

参考】
・幸徳秋水「兆民先生」(岩波文庫)
・中江兆民「一年有半・続一年有半」(岩波文庫)