日本人と漢詩(108)

◎加藤周一と吉田松陰


 久しぶりに、加藤周一の吉田松陰を扱った小冊子を手にしてみたが、いささかの違和感を感じた。思いの外、松陰に肩入れしているからだ。特に、彼の抱いていた政策が極めて現実的であったことを評価するのは、興味のあるところだ。ただ、加藤周一が語らぬところだが、「松下村塾」を通じて「弟子」たちに伝えていったことが、その後の日本の行く末を決定したことも間違いないが、果たしてそれが良かったのだろうか?
 そこで、少し、加藤周一の「日本文学史序説」も、松蔭の漢詩に触れた部分を繙いてみた。

松陰の詩は、その大部分を、『松陰詩稿』に収める(『全集』、岩波書店、ー九三九の第七巻)。そこには頻に「墨土火船」とか「四夷」とか「国恥」とかいう語がみえ、また頻に「忠義」とか「勤王」とか「報国」とかいう憂国の語があらわれる。身辺雑事の観察はなく、四季の吟詠もなく、恋の歌もない。措辞の洗練も、詩的「イメージ」の独創もなくて、彼の詩はほとんど日記のように、機会に応じてその政治的理想を述べる。彼が詩人であったのは、そういう詩を書いたからではなく、その生涯の思想と行動とが一種の詩に他ならなかったからである。

狂愚誠可(㆑)愛
才良誠可(㆑)虞《おそる》
狂常鋭(二)進取(一)
愚常疎《うとし》(二)避趨(一)
才多(二)機変士(一)
良多(二)郷原徒(一)
流俗多(二)顛倒(一)
目(レ)人古今殊《ことなり》
オ良非(二)才良(一)
狂愚豈狂愚
(「狂愚、『松陰詩稿』)
(書き下し文)
狂愚誠に愛すべし 才良誠に虞るべし
狂は常に進取に鋭く 愚は常に避趨に疎し
才は機変の士多く 良は郷原の徒多し
流俗顚倒多く 人を目すること古今殊なり
才良も才良に非ず 狂愚豈に狂愚ならんや

 引き続き、加藤の詩の「解説」は長い引用になるが…

「進取に鋭く」は、『論語』、子路篇、第二ー章の「狂者進取」に拠る。「郷原の徒」は、同じく、陽貨篇、第二ニ章の「郷原徳之賊也」を踏まえて、 いわゆる「八方美人」である。「機変の士」すなわち機会主義者(または現実追随主義者)に対し、また「八方美人」に対して、あくまで前進し、困難を避けない「狂愚」を、彼は愛するといったのである。そういう心情は、力関係の冷静な判断や費用と効果の計算や戦略的な妥協というもの、つまり政治的な思考と、背馳するにちがいない。彼には詩人の気質があって、政治家の天性がなかった。しかるに時代は、詩人を政治的状況のなかにまきこんだのである。吉田松陰という現象は、まさに詩人の政治化であった。そのことから現実主義に媒介されない政治的理想主義が生じる。現に彼の理想主義から影響を受けた青年は多く、非現実的な行動計画に賛成した同志は少なかった。かくして孤立は強まらざるをえず、獄中に孤立した松陰の行動計画の撰択の範囲は、いよいよ狭くなるはずであった。それでも積極的に動こうとすれば(「進取」)、もはや「テロリズム」以外に手段がなくなるだろう。妥協のない理想主義から孤立へ、孤立から手段の過激化へ、したがってより以上の孤立へ!という悲劇的な道は、ついに効果の点で絶望的な行動に終らざるをえない。その最後の行動は、もはや政治的な面においてではなく、詩的な、あるいは精神的な面においてのみ、象徴的な意味をもち得る。それが藩主の待ち伏せ計画、いわゆる「要駕策」であった。「要駕策」が失敗し、捕えられた門人に送つた彼の書簡には、「天下一人の吾れを信ずるものなきも、吾れに於ては毫も心を動かすに足るものなし」という(「和作に与ふ」、『己未文稿』、ー八五九)。詩人はどれほど政治家しても、詩人に還るのである。

 加藤特有の「論旨」の建て方には感服する面もあるが、後の世代にも引き継がれ、日本の行く末を危うくした松蔭の「ニヒリズム」が果たして詩人の「資質」なのだろうか?ここは、高杉晋作の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都々逸に現れるやや退嬰的な雰囲気のほうが、「詩情」に富む気がしてならない。(高杉晋作については、日本人と漢詩(030)でも触れた。)

参考】
・加藤周一「吉田松陰と現代」(かもがわブックレット)
・加藤周一「「日本文学史序説・下」(ちくま学芸文庫)

日本人と漢詩(099)

◎菅原道真

以前も一度だけ菅原道真(845-903)を取り上げたが、本邦屈指の漢詩人、道真公の話題はこれにとどまらない。ここでは、初期の漢詩を中心に…まずは、詩人道真の11歳時のデビュー作。師の島田忠臣が感心したと云う。

月夜見梅花 月夜に梅の花を見る
月耀如晴雪 月の耀《かがや》くは晴れたる雪の如し (げつようせいせつのごとく)
梅花似照星 梅花は照れる星に似たり (ばいかしょうせいににたり)
可憐金鏡轉 憐れぶべし 金鏡の転《かいろ》きて (あわれむべしきんきょうてんじて)
庭上玉房馨 庭上に玉房の香れるを (ていじょうにぎょくぼうのかおれるを)

語釈、訳文は、古典・詩歌鑑賞(ときどき京都のことも)を参考ののこと。

この頃から、道真は天性の詩情が備わっていたようだ。作曲家モーツァルトのほうがもっと早熟だが、どこかモーツァルトを彷彿させるものがある。

もう一首、恋する年齢に達して、その思慕の情を表現したもの、白文は省略する。

翫梅華 梅華を翫す
梅樹 花開きて 白き繒《かとり》を剪《き》る 純白の薄絹のごとき 咲き満ちる梅の花よ
春情 勾引されて 相仍《あいよ》ること得たり 春情に導かれて 私はあなたに寄ろうとする
狂風第一《ていいち》 吹きて狼藉ならませば すると 狂った春風がいきなり吹いてきて 見る間に花を散らす
叱々忩々《そうそう》 意《こころ》 勝《た》へざらまし ああ それをただ見ているだけの耐えがたさよ

下記参考図書によると、恋心の対象は、藤原基経の妹にして先代文徳天皇の女御であった明子であったという。

大岡信や加藤周一などは、菅原道真を、文学的対象や視野を格段に拡げたと評価する一方、その後はこうした文学的継承がなされなかったとも言うが、そうした詩が書かれるのは、詩人がもう少し成熟したのちである。。

写真は、北野天満宮境内での、どこか道真公の幼き日の面影のある稚児像と梅の花(Wikipedia)

参考】 ・高瀬千図 道真(上)花の時 NHK出版

日本人と漢詩(009)

◎石川丈山(続々々)と大窪詩仏


丈山先生の詩仙堂に題を寄す 先生歿して百五十年
朱門《しゅもん》の興廃《こうはい》 一枰棋《いちへいき》
草堂 期《とき》を尽《つく》くす無《な》きに似ず
百五十年 昨日《さくじつ》の如《ごと》し
光風《こうふう》霽月《さいげつ》 旧《もと》の書帷《しょい》
加藤周一の「三題噺」を読み返した。丈山先生の詩仙堂に題を寄す 先生歿して百五十年
朱門《しゅもん》の興廃《こうはい》 一枰棋《いちへいき》
草堂 期《とき》を尽《つく》くす無《な》きに似ず
百五十年 昨日《さくじつ》の如《ごと》し
光風《こうふう》霽月《さいげつ》 旧《もと》の書帷《しょい》
加藤周一の「三題噺」を読み返した。一休や富永仲基の「噺」の方が書評に触れられることが多いが、丈山の「亡霊」らしい老人と著者らしい私との対話で構成されるこの「噺」も面白い。
「どれほど偉大な歴史的事業も、晩年の丈山にとっては、懶性蕭散に任じた詩仙堂の春の一日に若かなかったろう。その一日を犠牲にすれば、歴史を変える事業に参画できたかもしれない。しかしその一日こそかけ換えのないものであった。」
最後に加藤周一は、丈山から150年を経た江戸時代後期の詩人大窪詩仏の上記の七絶を引く。
「一五〇年を三〇〇年とすれば、これはまた私の感懐でもあるだろう。ただ私の謭劣非才、遠く詩仏に及ばず、詩仙堂に遊んで一首の七絶も得ることもできないだけである。」
加藤周一ですらこうならば、詩仏の名さえわきまえない後学の徒である当方など赤面の至りである。栄華盛衰は、一瞬の勝負事。草堂にも容赦なく年月の推移が加わってゆく。朱門は、富貴な家。枰棋は、将棋盤、碁盤。長い年月も昨日の夢。晴れた昼間の風と夜の月は書斎のとばりに吹き付け降り注ぐ。
*大窪詩仏(Wikipedia http://is.gd/ihzDnw)
写真は、その Wikipedia での詩仏の真蹟。彼は能筆家でもあったようだ。
一休や富永仲基の「噺」の方が書評に触れられることが多いが、丈山の「亡霊」らしい老人と著者らしい私との対話で構成されるこの「噺」も面白い。
「どれほど偉大な歴史的事業も、晩年の丈山にとっては、懶性蕭散に任じた詩仙堂の春の一日に若かなかったろう。その一日を犠牲にすれば、歴史を変える事業に参画できたかもしれない。しかしその一日こそかけ換えのないものであった。」
最後に加藤周一は、丈山から150年を経た江戸時代後期の詩人大窪詩仏の上記の七絶を引く。
「一五〇年を三〇〇年とすれば、これはまた私の感懐でもあるだろう。ただ私の謭劣非才、遠く詩仏に及ばず、詩仙堂に遊んで一首の七絶も得ることもできないだけである。」
加藤周一ですらこうならば、詩仏の名さえわきまえない後学の徒である当方など赤面の至りである。栄華盛衰は、一瞬の勝負事。草堂にも容赦なく年月の推移が加わってゆく。朱門は、富貴な家。枰棋は、将棋盤、碁盤。長い年月も昨日の夢。晴れた昼間の風と夜の月は書斎のとばりに吹き付け降り注ぐ。