後退りの記(012)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アンドレ・ジッド 渡辺一夫訳「モンテーニュ論」(岩波文庫)
◎堀田善衛「ミシェル 城館の人 第一部 争乱の時代」

少し、おさらいすると、モンテーニュは、1533年、ボルドー近郊のモンテーニュ城に生まれた。フマニスト・エラスムスが亡くなったのが、1536年だから、その生涯を引き継ぐ形になっている。ルターの『95ヶ条の論題』でのカトリックへの糾弾の始まった1517年の16年後のことである。幼少期から少年期にかけての、父親の「ラテン語しごき」をへて、へ入学する。

「真に 我が子の自由な教育を願望する父兄は、学院、 特に宗教家の経営する学院などに入れるべきではない。(エラスムス)」

かどうかは分からないが、当時の学校はともすれば、

「(教師)がこういう人たち(生徒) が、自分こそ人間中の第一流の人物だと思っていられるような幻を授けてやっているのですよ。」(同じくエラスムス)

と、当時の教育の悪循環も非難する。

モンテーニュの父親も、その特訓から後、息子の教育についていろいろ迷ったことだろう。プロテスタントに傾いていたマルグリート・ド・ナヴァール公妃とも関係が深い、ボルドーのギュイエンヌ学院に入学させた。そこでは、「詰め込み」もあったが、学風は概してリベラルなものであり、ミシェル少年の勉学もローマ古典文学を手がかりに、カトリック的スコラ神学主義とは違う、異教徒的なものであったと堀田善衛は指摘する。ある意味、昨今の時の政権による Académie japonaise への政治的介入よりも自由だったかもしれない。13才で学院を卒業する頃には、(ちょうどボルドーで暴動騒ぎがあったが)

もっとも 軽蔑してはならない階級は、…最下層に立たされている人々のそれであると思う。… 私 は いつも 百姓 たちの行状や言葉が、われわれの哲学者たちのそれよりも、真の哲学の 教えにかなっていると思う。〔 庶民の方がかえって賢明である。必要な程度に知っているからである。〕

という、まっとうな見解は持ち得たのである。

フランスの文学者・小説家にアンドレ・ジードがいる。彼はモンテーニュについていくつか、小評論を書いている。戦前に渡辺一夫訳で出たものだ。そのせいだけではないが、少し難解で意味がなかなかとりにくいきらいもある。その評論で「エセー」を引きながら、晩年、モンテーニュは、「もし余が再びこの人生を繰り返さねばならぬとしたら、余のして来た通りの生活を再びしたいものである。余は過去を悔まず、未来を恐れもしないから」と書いているという。モンテーニュのこうした非宗教的態度は、死ぬまで持っていたようだ。
いずれにしても、アンリ四世との本格的な邂逅があるのは、もう少し後の話である。

後退りの記(010)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎渡辺一夫「戦国明暗二人妃 Ⅰ 巷説・逆臣と公妃」(中公文庫)
◎「エプタメロンーナヴァール王妃の七日物語」(ちくま文庫)
◎堀田善衞 「ミシェル 城館の人 第一部」

今回は、二代ほど前の人物に遡ることにする。アンリ四世は、気質の面では、プロテスタント信仰に厳格であった母のナバラ女王ジャンヌ・ダルブレではなく、むしろ祖母のそれを受け継いだようだ。その祖母、マルグリット・ド・ナヴァール Wikipediaをめぐる人間関係も相当に複雑であったらしい。話題にしたいのは、四人の人物である。まず、マルグリッド、彼女は、フランソア一世 Wikipediaの姉であった。その母である、ルイーズ・ド・サヴォワ Wikipedia、一時期は、マルグリッドと相思相愛であった、シャルル3世 (ブルボン公) Wikipedia、マルグリッドに横恋慕するボニヴェ大提督 Wikipedia 英語版との人物配置である。愛憎関係は、これにとどまらず、ルイーズ・ド・サヴォワは、寵臣として、ボニヴェを重んじる一方、年齢の差をこえて、ブルボン公に、思いを寄せるが、かなわぬとならば、「可愛さ余って憎さ百倍」で、公をフランス王朝を裏切らせ、神聖ローマ帝国カール五世 Wikipedia側に寝返させた。母親のルイーズは、後のシャルル九世の母、カテリーナ・ド・メレディスのポジションに似る、当時の政局の黒幕的存在だったことを始めとして、この四人の丁々発止はなかなかに面白いが、結末はあっけなく、ボニヴェは、1525年、フランソア一世が捕虜となった、パヴィアの戦い Wikipediaで戦死。ブルボン公は、その2年後、ローマ劫掠直前に、狙撃され落命した。これがその後のカール五世軍の劫掠の引き金になったらしい。

堀田善衛の文章に「日本の代議士が、ローマ帝国廃墟跡を見て、『イタリアの戦後復興はまだまだじゃのう』と言ったとか、言わなかったとか…」というのがあったと記憶する。、代議士の蒙昧は、ひとまず置くとして、永遠の都ローマは、近世に入り、廃墟と化すほどの軍隊の侵略をうけた。ローマ劫掠 Wikipedia(ローマごうりゃく、イタリア語: Sacco di Roma)古代にも、ローマ帝国滅亡時には、ローマ略奪(ローマりゃくだつ、イタリア語: Sack di Roma)もあったが、1527年の劫掠も、それに劣らぬ規模であったので、代議士のトンチンカンな「誤解」も生まれたのだろう。

同じ年、マルグリット・ド・ナヴァールは、ナバラ王エンリケ2世と再婚し、アンリ四世の母を生んだ。ブルボン公を一刻もはやく忘れたかった、心の葛藤があったのかもしれない。王位を継いだあとは、ラブレーなどフマニストを保護するその頃では、開明的な文化政策をとり、自らも、「デカメロン」に見習って、「エプタメロン」という艶笑的なコント集を、死ぬ直前まで綴っていた。この第四話で、人物名は別にしているが、ボニヴェに暴力的に襲われかけたことを語っている。よほど「根に持っていた」に違いない。

「エプタメロン」は、偽善的なカトリック僧を揶揄するのは、吝かではないが、一方、プロテスタント的なリゴリズムからも一歩引いているおおらかさがあるようだ。アンリ四世へは「隔世遺伝」したことが分かろう。モンテーニュの故郷、ボルドーからも、ナヴァラは、そう遠くない距離で、しかも、学んだ学校もフマニストの陣容の教師群だというから、モンテーニュへの思想的な影響があったのかもしれない。もっとも、この頃のモンテーニュは、日常生活でも、ラテン語以外の言葉は禁止されるという父親からとんでもない「英才教育」を受けていたのだが…

後退りの記(009)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎モンテーニュ「エセー」(岩波文庫その他)
◎堀田善衞 「ミシェル 城館の人 第一部」(集英社文庫)

モンテーニュ「エセー」は、昔読んだ時には、深くは感動しなかった。というのは、青年期の生意気のせいか、あまりにも「常識」の範囲をこえず、生ぬるいといった印象だったからだ。しかし、堀田善衞の著作など読んでいると、それはごく表面的なとらえ方であるとの思いが強くなった。

さて、バルテルミーの虐殺後、わがアンリ四世は、その余燼ともいえるラ・ロシェルをめぐる攻防で、ユグノー征伐の隊列に加わるよう強制される。ラ・ロシェル攻防戦は前回、メリメ「シャルル九世年代記」でも紹介した。その行軍の途中で、モンテスキューと邂逅する。小説から、少し長い引用をすると、

連れの人は、宗教戦争ほど宗教に無関係なものはないという意見だった。途方もないことばだが、…宗教戦争はその根を信仰に持っていないし、人間を敬虔にすることもない。一方の人にとって、宗教戦争は野心の口実であり、他方の人にとって、それはみずからを富ますための機会にすぎない。全く、宗教戦争で聖者の現われることはない。逆にそれは民衆と王国を弱らせる。民衆も王国も他国の欲望の餌食にされてしまうのだ。
誰の名も言われなかったのだ。…カテリーナ(時の王国母)も、息子のアンジュー(後のアンリ三世)も、プロテスタントたちの名も。それでも彼の言葉は他の何人にも言えぬほど不敵なものだった。この言葉に襲いかかったのは怒涛や嵐だけではない。ほとんどあらゆる人間が怒号をもってこの言葉をおしつぶすところだったろう。国王さえも声を大にして言いえぬことを、貴人とはいえなみの人間があえて口にしているのに、アンリはいたく驚いた。

少なくとも、モンテーニュは、バルテルミーの虐殺をつぶさに見て、その頃の、「寛容」の意味するところ、「仕方なく相手を許す」との考え方をギリギリ守りながら、一歩も二歩もそこらから推し進めようとしたことが分かる。その過程を「エセー」本文と堀田善衞「ミシェル 城館の人」で辿るようにしたい。

旧ソビエトの小説家・ヤセンスキーの「無関心な人々」という小説の、題辞に、

友を恐れるな、彼は君を裏切るだけだ。敵を恐れるな。彼は君を殺すだけだ。無関心な人々を恐れよ。彼らの沈黙の同意があればこそ、この世に無数の裏切りと殺戮が存在するのだ。

というのがある。でも少し違うような気もする。昨今の政治情勢に引きづられるわけではないが、無関心な人々の語られぬ思いに、耳を傾けよ、そこにこそ、われらのかすかな希望があるのだ。モンテーニュも、痛苦な経験を経た上で、きっとそうつぶやいたに違いない。

後退りの記(003)

◎堀田善衛「ラ・ロシュフコー公爵傳説」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

「われわれの美徳は,ほとんどの場合,偽装した悪徳に過ぎない。」人口に膾炙したこの句は、高校時代山仲間だったN君の口癖だった。ある意味、温厚だったモンテーニュの口調とはひと味ちがう感触に驚いたものだった。それがラ・ロシュフコー「箴言と考察」という本を知るきっかけだった。

1572年は、フランスにとって多事多難な年であった。アンリ四世(当時皇太子)の母が、ナバラ王国女王ジャンヌ・ダルブレ(Wikipedia)が、息子のマルグリット(マルゴ)王妃との結婚式に列席するため、パリに赴く途中で急死した。ライバル・カトリーヌ・ド・メディシス(Wikipedia)が、毒殺したとの噂が絶えなかった。母の遺言を結婚式に向かうアンリに託したのが、フランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)であると、ハインリッヒ・マンは書く。三世は、「箴言と考察」の著者の曽祖父にあたる。その後、サン・バルテルミの虐殺(Wikipedia)という大悲劇が起こった。その結果、その頃は、プロテスタントだったフランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)は、パリの路上で殺されてしまったのである。その後は、当代の六世に到るまで、ラ・ロシュフコー家にとって苦難の日々だったのである。フランス絶対王政の確立の契機となったフロンドの乱(Wikipedia)では、当代は瀕死の重傷を負うが、それは後の話となるので、機会があれば言及するだろう。