読書ざんまいよせい(067)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)

——————————————————-

一 番作と蟇六

 伏姫ふせひめが富山に神去かんさり給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作いぬづかばんさくといふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行ちぎやうして大塚を名乘つた管領くわんれい持氏もちうぢ家人けにんであつたが、結城ゆふきの亂に加はつて暫らく踪跡をくらました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏なりうぢが再び管領となつてから放浪中にめとつた妻をれて何年振かで舊采地へ戻つて来た。

 然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠かめざさは物竪い父や弟には似ない淫奔女いたづらもので、さぬ仲の義理の母と、二人ふたり棲で誰憚たれはゞかる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句あげくはては母が病氣でひとの足りないのをかこつけに破落戸ならずものの蟇六を引摺込ひきずりこみ、母が眼をつぶつたのを好い幸ひにズル〳〵ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家くわんれいけとなつて舊臣を召出されると聞くとひき六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きんじよがつぺきつまはぢきせぬ者はない破落戸ならずものが先代の忠義の餘徳で村長むらおさを命ぜられ、八町四反を宛行あておこなはれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。
“読書ざんまいよせい(067)” の続きを読む

読書ざんまいよせい(066)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(008)

第二章 明治の唯物論者

  第一節 なかえ・ちょうみん(中江兆民)

      一 「一年有半」

一年有半いちねんゆうはんとは、中江兆民の代表的な著述のなかの一つの名まえ﹅﹅である。兆民は明治三十四年(一九〇一)十二月十三日になくなったのであるが、それから九ヵ月ほどまえ、つまり三月の終りころのこと、かねてから悪かった喉頭の病気が、癌種だとわかった。兆民は医者にむかって、これから死ぬるまでどのくらいの日月があるか、とたずねた。すると、「一年半、よく養生して二年」だという答えを得た。彼はそのとき、「せいぜい五、六か月だろうと思っていたが、一年とは私にとって寿命の豊年である」とおもった。この宜告があってから、ひとつの著述が書きはじめられた。その本は四か月間くらいでいちおう結了になった。その本に、兆民は『一年有半』という書名をつけたのである。
 『一年有半』の第三節のところに、こう書いてある。「一年半、諸君は短促たんそくなりと曰はん、〔短促とは短くちぢまっていること〕、余はきはめて悠久なりと曰ふ、若しみじかしと曰はんと欲せば、十年もみじかきなり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時せいじ限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕は是れ、虚無海上一虚舟」。この短い文章のなかに、中江兆民というひとりの人間がまことによく、描き出されている。彼の持ちまえの負けじ魂も出ていることもちろんだが、それよりも、生きていく一刻、生きていく一瞬を、彼くらい「優に利用した」「楽しんだ」人は稀だと思われるからである。彼の一年有半(じつは九ヵ月だが)ほど濃縮に生きぬかれた例も少なかろう。このあいだに『一年有半』はもちろん、『無神無霊魂』という、明治・大正・昭和を通じて他に類例のない哲学書が書かれている。病気の苦痛、それにともなう人生観、これらが書きとめられている寸鉄ふう﹅﹅の文章をみても、彼の一年有半が、どのくらい緊縮的なものだったかが察せられる。つきのような一節がある。

「余の癌種、即ち一年半は如何の状を為す、彼れは徐ろに彼れの寸法を以て進めり、故に余も亦余の寸法を以て徐々に進みて余の一年半を記述しつつ有り、一の一年半は疾也、余に非ざる也、他の一年半は日記也、是れ余也」「疾病なる一年半、頃日少しく歩を進めたるものの如く、頸頭の塊物漸く大を成し、喉頭極めて緊迫を覚へ、夜間は眠り得るも昼間は安眠すること能はず、其食に対する毎に、或は嚥下すること能はざる可しと思ふこと有るも、実際未だ然らず、雞子二、三個、粥二碗、殽二礫、牛潼一日四合は之を摂取して違ふこと無し、是れ今日猶ほ能く余の一年半を録する所以なり」

 またある一節には、

「此両三日来炎威頗る加はり、朝日新聞に九十度を報ぜり、其れが為めにや余の一年半は、此際大に歩を進めたるが如き感有り、頸上の塊物俄然大を成し大に喉を圧し、裡面の腫物も亦部位を拡と為し(誰にても勿論二回以上患ふる理なし)経験無きが故に自ら明にすること能はざるも、食道の否塞する甚だ遠からざるを覚ふ」「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり、故に筆を取れば筆を以て攻撃し、口を開けば、詬罵を以て之を迎ふ、今や喉頭悪腫を獲て医治無く、手を拱して終焉を待つ、或は社会の罰を蒙りて爾るには非ざる耶、呵呵」

 このように「一年有半」を見つめ続けるあいだに、当時の日本の政治の現状についてひとつひとつ鋭い批判をなげつけている。兆民の発病の前年のころから、日本の政治は大きな転換をなしとげつつあった。自由党の歴史につながる政治力は弱まり、伊藤博文を首領とした立憲政友会ができ、その後ながく日本の政治を規定するところのあった政友会の内閣ができていた。それでもしかし、国民は「立憲内閣」だという幻影をもっていた。兆民のいわゆる「微弱なる立憲内閣」がそれなのであるが、その内閣が倒れて、桂太郎の内閣が成立したのも、彼の「一年余」の間におこっている。兆民は、桂内閣はその成立だけですでに憲法を政治の基本とする人々に対して「宣戦布告」をしたも同様だと批評している。このとき兆民は、「星亨、健在なりや、犬養毅、健在なりや」といって、民間政治家のなかに人物のいないのをなげている。その星亨が東京市の市会で伊庭想太郎のために刺されて即死した事件(六月)も、兆民の病中のことだし、やや前に戻るが、その年四月の、日本ではじめての社会主義政党である社会民主党の結成片山潜、幸徳秋水、木下尚江、川上清、堺利彦、安部磯雄、石川三四郎、吉川守園、西川光二郎等)、五月その党の綱領発表と同時におこなわれた結社禁止のことも、また「一年余」のなかの出来ごとであった。『一年有半』が公刊されたとき、日本の新聞や雑誌が前後三七社がそれぞれ長い批評を書いたことをみても、兆民の「一年余」は彼にとって「悠久」であったといえるのである。
 病気の進行が急になったのを自覚した兆民は、「余も亦歩調を迅速にし、一頁にても多く起稿し、一人にても多く罵倒し、一事にても多く破壊し去ることを求む可し」といっていて、彼の生命感はいっそう緊張し、いっそう燃焼している。私たちに見落されてならないのは、兆民が、自然法則的に推移する自然のなかの出来ごとと兆民自身とをいつも離して考えていること、また言いかえれば、いつもこの二つを一緒に把えていることである。さきに見たように、彼は癌という肉体のなかの一種の自然的組織変化をば「彼」と呼んで、兆民自身のことを「余」と呼んでいる。「彼」と「余」とが一つになって戦っている。頸頭の塊物、つまり自然物の生成﹅﹅と悩みつづける自分﹅﹅とを対立させている。この意識は彼にとって苦痛このうえないものであったろうが、しかし、癌も苦痛も、正義も愛慾も、すべてを虚無海上にうかぶ虚舟と観去みさる、ひとつの世界観が彼をつつみ、彼を慰めたこともあったろう。おそらく、そうしたところに彼の唯物論的世界観があったろうとおもわれる。
『一年有半』の読者は、この書のなかでなんどか兆民の罵倒、罵詈のことばをきくのである。
「天も亦余の罵詈癖の頑なるに驚く」だろうといっている。もちろん、彼にとって罵倒は批判であって、政治家罵倒は政治批判である。彼にとって精神罵倒は精神浄化である。彼は星亨の刺殺事件のときに、「暗殺蓋し必要欠く可らずと謂ふ可き耶」とさえいっている。これもまた批判であり検覈けんかくである。このような、ちょっとみては矯激にすぎるような言い方、仕方は彼の性格のためだと簡単にきめることは正しくない。彼の教養のひろさ、彼の思索の深さ、彼の感情の純粋さ(徳富蘇峰はこの点を強調して称揚した)、彼のイデオロギーの正かく﹅﹅さ、これらの総計が、明治の二十年と三十年代の日本の現実との間のいわば﹅﹅﹅大きな落差、大きな懸隔が、兆民にああした言動をとらせたのだというべきである。外国に求めた兆民の知識は主としてフランス語を通じてであったが、フランスの政情、フランスの文学、フランスの哲学思想については、彼は強い自信をもっていた。フランス滞在中、『孟子』『文章軌範』『外史』などの仏訳を試みたということもつたえられている。彼の思索の深さについては、あとで触れるが、『無神無霊魂』一冊の内容がいや応なく私たちを驚嘆させる。彼のイデオロギーが正かく﹅﹅であったかどうかは、彼のなくなった後の日本の半世紀の政治的推移が私たちに教えてくれている。彼の感情の純粋さについては、つぎの小話しょうわが、私たちにむしろ日本人の性格を指摘しつつ、私たちに納得なっとくを強いてすらいる。あるとき、幸徳秋水と兆民との対談のなかでフランス革命の話が出た。秋水が「仏国革命は千古の偉業だが、あのいたましさはかなわない」というと、兆民は「私の立場は革命党だ。だが、もし私がルイ十六世が眼のあたり絞頸台にあげられるのを見たら、私は走りよって剣手を撞き倒し、ルイ王を擁して逃がしたろう」と答えた。後に秋水は「先生の多血多感、忍ぶ能はざるの人なり」と、追憶して言っている。明治時代では日本はいわゆる「熱血漢」を多数、政治のなかに送りこんだが、兆民もその一人である。徳富蘇峰のつぎの評はあたっている。「真面目な人なり。常識の人なり。夫として其妻に真実に、父として其子に慈愛に、友として其交る所に忠なるの人也。但だ皮下余りに血熱し、眼底余りに涙多く、腹黒きが如くにして、極めて初心、面皮硬きに似て頗る薄く、自ら濁世の風波に触るるに堪へざるの身を以て、強て之を凌がんと欲してあたあたはず。為めに時に酒を仮り、時に奇言を籍り、以て其自ら世に容ざれる悶を排せんと試みたるのみ」
 秋水は兆民の文章を批評して、「瓢逸奇突、常に一種の異彩を放つて、尋常に異なる」ものがあるといったが、そうした風格といったようなものは、兆民が禅に関心をもって、いわゆる方外(世俗より外の人たちつまり禅僧)の人と交際し、好んで仏典や語録を読んでいた(たとえば『碧巌録』は愛読の書であった)ことと、関係があったにちがいない。兆民の病中の詩のなかにつぎの句がある。「夢覚尋思時一笑、病魔雖◦ 有◦ 兆◦ 民無」。この有兆民の圏点<◦とした>は兆民自身の付したものだと、この詩を贈られた秋水は書きのこしている。
 私はかつて、兆民の略歴と著述を『日本哲学全書』の第六巻でのべたことがある。それをここに参考のために、多少の重複はあるが、あげておきたい。

中江篤介は弘化四年(一八四七年)に土佐、高知県に生まれた。
 土佐は又明治初年における自由民権運動の発祥地であった。兆民の生涯は、フランス系統の自由主義を貫徹せんが為の苦難、受難の歴史であった。加藤弘之の高位高官生活と較べてみると、兆民の生涯を蔽う不遇と貧困とはいよいよ明瞭となる。彼は「東洋のルソー」と称せられたが、これは彼がルソーの『民約論』を翻訳して非常な影響を当時の日本の社会・政治・思想界に与えたことに原因がある。
 篤介は幼名を竹馬と称し、長じて、青陵、秋水、南海仙漁、木強生、兆民等と号した。十三歳で父を亡くした後、荻原三生、細川潤次郎に就いて蘭学を学び、慶応元年十九歳の時、高知藩の留学生として長崎に行き、平井義十郎にフランス語の指導を受け、二年の後江戸に出て村上英俊に師事したが放逸の為破門せられた。神戸、大阪開港の時仏国領事に従って大阪に赴き、転じて江戸に移り箕作麟祥の門に入った。明治初年福地源一郎の日新社の塾頭に任ぜられた事もある。明治四年政府留学生としてフランスに留学し(後藤象二郎、板垣退助の推挽に依るものであった)、主として哲学、史学、文学を修め、西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田乾一、声が漸次たかまって来た。留学中に『孟子』『文章軌範』『日本外史』等を翻訳したとも伝えられるが確実な資料がない。帰朝後元老院書記官に任ぜられたのであったが、幹事陸奥宗光と意見が一致せずして罷め、外国語学校長の椅子に就いたが間もなくそれも辞し、番町に私塾を開いて政治、法律、歴史、哲学等の諸科を講じた。前後、この門に学んだ者は二千余人に上ったとのことである。
 その当時においても彼は岡松甕谷の門に入り漢文を学んだ。甕谷は明治文学史上森田思軒と並んで漢文に優れていたことは広く人の認めるところである。
 明治十四年三月西園寺公望が『東洋自由新聞』を創刊するに際して入社したが、翌年四月同紙廃刊後十五年二月『政理叢談』を刊行(十七年まで続刊、三月(五六号)より『欧米政学雑誌』と改題)、同十五年六月『自由新聞』(十八年三月廃刊)を発行して急進的なる自由民権説を鼓吹した。
 明治二十年保安条例に遭って東京から退去を命ぜられ、大阪に走って、栗原亮一、宮崎富要、寺田寛等と協力して『東雲新聞』(二十一年)を起し主筆となったが永続しなかった。二十一年赦されて東京に帰り、後藤象二郎の援助を得て『政論』を刊行したが間もなく後藤と政治上対立したので袂別し、自ら『立憲自由新聞』を二十四年一月に創刊した。二十三年、彼は第一議会に大阪水平社に擁せられて当選、代議士となったが、予算八百万円削減問題に関し自由党の土佐派が政府の意を迎えて、その自由主義を伊藤博文等の政治運動の中に解消した事に憤激し、再び議会に出るを欲しなかった。当時又彼の『経倫』『京都活眼新聞』『民権新聞』(『立憲自由新聞』の改題)等を起して、改進、自由両党の連合を説き、政党運動にエポックな影響を与えたのも当時であった。
 その後彼は政界、文壇から去って実業に専心する様になった。
「今の政界に立つて銕面なる藩閥政府を敵手にし、如何に筆舌を爛して論議すればとて、中々捗の行くことに非らず。さらでも貧乏なる政党員が運動の不生産消費は、窮極する所、餓死するか自殺するか、左なくば節を抂げて説を売り権家豪紳に頣使せられるより外なきに至る。衆多の人間は節義の為めに餓死する程強硬なるものに非ず、(中略)金なくして何事も出来難し、予は久しく蛙鳴蝉噪の為す無きに倦む、政海のこと、我是れより絶えて関せざるべし」とは兆民が当時幸徳秋水に語った心境である。二十五年彼は小樽に行き『北門新報』の主筆となったが、間もなく罷めて札幌に紙店を開き、山林業にも手を染めたが失敗した。東京に出て実業に従事したが、その詳細は判然しない。明治二十三年の秋『毎夕新聞』の主筆に招かれ、次いで国民同盟会に投じて再び政治的関係を結び、彼の生涯の敵と目した藩閥と戦ったが、同年十一月頃より喉頭癌を病み、翌三十四年九月泉州堺に病を養うも効なく、九月帰京し、小石川武島町の自邸で『続一年有半』を執筆し、十月に出版し、十二月遂に長逝、無宗教葬をする事を遺言した。享年五十五歳。
 猶お兆民の生涯について知ろうとする人は、幸徳秋水著『兆民先生』(三十五年)を読むといい。彼の著述は政治的関心が全体を貫いている。彼の著述及び訳述を挙げれば次の如くである。

孛国財産相続法 仏・ジョゼフ著         明治十年
民約訳解 ルソー著漢訳             同 十五年
仏国訴訟法原論 仏・ボニエー著         同 十一―二年
非開化論 仏・ルソー著             同 十六年
理学沿革史 仏・アルフレッド・フーイヱー著   同 十九年
理学鉤玄                    同 十九年
革命前法朗西二世紀事              同 十九年
平民の目ざまし 一名国会の心得         同 二十年
三酔人経倫問答                 同 二十一年
国会論                     同 二十一年
選挙人の目ざまし                同 二十三年
四民の目ざまし                 同 二十五年
憂世概言                    同 二十三年
道徳大原論 ショーペンハウエル著        同 二十七年
一年有半                    同 三十四年
続一年有半                   同 三十四年
警世放言                    同 三十五年

 その他『兆民文集』(幸徳秋水編・明治四十二年)、『中江兆民集』(改造文庫・昭和四年)、『中江兆民篇』(『現代日本文学全集』第三九巻・五年)、『明治文化全集』第七巻「政治篇」等を見るべきである。

“読書ざんまいよせい(066)” の続きを読む

読書ざんまいよせい(065)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(001)

南總里見八犬傳(解題的梗概を含む)

滝澤(曲亭)馬琴・内田魯庵抄訳

——————————————————-
【テキスト中に現れる記号について】
:おどり字
(例)〳〵はおどり字濁点付きは〴〵と表記
以下は、上記注釈は省略する
——————————————————-

       小   引

一 八犬傳は全部を完成するに二十八年を費やしてをる。總冊百六巻。一篇の物語として此の如く長きは東西共に比倫を絶する。西欧小説中の最大長篇として推される猷豪ユーゴーの『哀史』も杜翁の『戰争與平和』も八犬傳に比べてはその雄を称する事は出來ない。随つて讀者としても全部を卒業するのは決して容易でないので、所謂八犬傳の愛讀者がそらんするは大抵、信乃濱路の情史乎、芳流閣上の争闘乎、房八の悲劇乎、荒芽山の活劇乎、部分的の物語に限られてをる。能く全部を通串してその半ばにだも達したものは甚だれである。明治の文学史に高名な博士中の博士ともいふべき某氏は、曾て八犬傳を八分通り通讀したのを誇りとして、八犬傳を全部卒業したものは恐らく一人も有るまいと、能く八分通りを讀破したのを以て讀書心旺盛を示すものとして暗に自負する處があった。八犬傳は特別の忍耐力を要するほどソンナ怠屈なものでは無いが、何しろ長いには大抵な者は根負けがしてしまふ。殊に馬琴時代とは思想上文章上の鑑質的態度や興味を根本から異にする今日の中年以下の讀者に取つては、八犬傳も大般若経も餘り大差は無いので、これが全部の通讀を望むのは草鞋脚半掛けの五十三次の行脚を強要するよりも困難である。八犬傳を覆印するに方つて編纂者が先づ解題的梗慨を添へんとする旨趣は此埋由からである。

一 が、編纂者から此依嘱を受けた時は梗慨を書く如きは何でも無いと思ってゐた。但し梗概を書くのは如何に名著でも餘り氣の利いた役目でも無いと思って躊躇もしたが.同時に又自分等に丁度相應した仕事だとも思って幾度か依違した後に應諾した。が、ざ着手して見ると屡〻案外な困難に逢着して梗慨を書くといふのは容易ならざる難事であるのを知つた。何しろ百六冊といふ大部の長物語を僅か三百枚や五百枚に切詰めて大體の輪郭を分明ならしめるといふはレンズを透かして縮写するやうなソンナ手輕なものでは無い。それに就いての困難咄は兎角に手前味噌や自画自讃に流れ勝ちだから之を措くが、梗概といふのも矢張創作の一つで、一口にいふと、自分のやうな創作の才の貧しいものがする仕事でない事を痛切に悟った。その才の短い為めの当然の結果として覆刻本の各冊毎にその一冊分の物語の全部の慨略を記述する豫定であったのが、豫定より多少頁を伸ばしても猶二分の一しか祖述出來無かつた。それでも何度か削ったり省いたりしてヤツトこさと之までに縮めて纏めたので、今更に自分の省筆の才の短いのを恥入つた。この比例を以てすると結局許された頁では全部の半分の梗慨しか書けないわけであるが、發行期日が迫ってゐるから第一冊目は是非無いとして何とかして最後の第三冊目までには、全部を纏めるツモリである。

一 馬琴の描寫が極めて細密に渉つて煩瑣を極めてるとは誰も云ふ處であるが、實際に當つて見ると豫想以上に煩冗を極めてゐる。発端を掻摘ままうとするには微細の點までも呑込んで置かねばならないが、三度も四度も反覆しなければ解らぬ個處は相應に多い。その精究の結果、馬琴ほどの細心の作家でも時としては矛盾したり撞着したり、時間が曖昧で、往〻多少相違したり、随分好い加減な與太を飛ばした個處が少からず有る。且脚色にも同じ構想を反覆したり無理な細工をしたり、且又強て自家獨特の因果律に萬事をあてはめようとする牽強があまり餘り煩はし過ぎるに堪へない。馬琴は自分の幼年から青年時代へ掛けての愛讀書で、その代表作は大抵通讀し、一度は馬琴論を書いて見ようと思ふ豫ての腹案もあったのが其後いつとなく興味が去つて了つたが、偶然この最大作の梗概を祖述するにあたつて、馬琴の著作の態度や慣用の作意が以前よりも一層明瞭に解つて再び馬琴諭の興味を沸湧して來た。馬琴の評傳といふやうな大袈裟なものはイツとも解らぬが將來に期するとして、八犬傳總括評乃至八犬傳偏痴氣論といふやうなものは若し頁が許されるなら第三冊目の梗概終結後に載せたいと思ふ。
十二月十五日
魯庵生識
八犬傳物語

 一 金碗八郎孝吉

 今から五百年前、其處此處そここゝで戰ひの絶間なかつた時代の咄。房州は白濱から小湊こみなとへ行く長狹ながさ白箸河しらはしかはほとりつりをする主従らしい三人の武家があつた。こゝらで餘り見掛けない人品骨柄こつがらで、中にも中央の床几しやうぎに腰を卸して竿を垂れる一番年少としわかなのは武門の棟梁の氣品を備へた天晴貴人あつぱれきじん御曹子おんざうしと見受けた。

今日けふ三日みつか落武者おちむしやにもせよ源氏の嫡流たる里見の冠者がこひぴきれぬといふは、く〳〵武運に見放されたと見える。』

 と思はず溜息をいたのを微笑にまぎらして、

『敗軍の將は鯉まで對手あひてにせぬと見えて、何遍なんペん釣っても小鰕こえび雑魚ざこばかりぢや。』

『殿、止めさせ給へ』と老職らしい年老としふけたのが、『弓矢ゆみや持つ武將を釣師扱つりしあつかひして鯉を釣って來いといふさへ心得ぬに、此國でれるかれぬかわからぬものを三日みつかと限るといふは奇怪千萬な。君を迎へまつる誠意の無い安西あんさいの腹がきますわい、ノウ堀内氏ほりうちうぢ!』

如何いかにも杉倉殿すぎくらどのの云はれる通り。』

 と今一人いまひとりのがムシヤクシヤと、

不信ふしんの安西、麻呂まろらを頼んでイツまでおはすとも詮が無い。杉倉氏、上總かづさへおとも仕らうぢやござらぬか。』

『兩人ともはやまるまい。』

 と御曹子は左右を顧みて兩人の短慮を嗜たしなめ、

『石橋山に敗れて安房に渡った右幕下うぱくかの武運にあやかるツモリは無いが、結城を落ちるそも〳〵からと先づ安房に落ちついておもむろに再擧を図る決心であった。安西、麻呂の頼むに足らぬ心の底はえ透いてるが、上總へ落て誰を頼まうとする。所詮は時と勢ひをうしなつた義實、誰を頼むといふしかとした寄邊よるべが無いから暫らく界隈を放浪さすらつて安西、麻呂のせんやうを見る外は無い。』

 と静かに沈吟しあんしつゝ、

『鯉を釣るのは國を釣るのぢや。弓矢持ゆみやもつ手に竿さをにぎるも亦風流!』

 と莞爾につこと笑って武門の棟梁の襟度きんどを示しつ、再びいとを垂れる折しも、

里見さとみえて〳〵白帆走しらほはしらせ風もよし、安房あは水門みなとに寄る船は、なみに砕けずしほにも朽ちず、人もこそ引け、我も引かなん。』

 とみたる聲にてふし面白く繰返し〳〵歌ひ來れる乞兒かたゐがあつた。おもてくづ膿血うみちながれて臭氣堪へ難きに、主従三人は鼻を掩うて疾くけかしと思ふを憚りもなく近づいて、

『殿は何を釣らうとお思召す?』

 と義實の顏を覗込みつゝ、

最前さいぜんから見てをれば何がかゝつても直ぐ棄てゝしまはれるが、何を釣らうとお思召すのか?えッ、鯉を?はゝゝゝゝツ、安房には鯉はゐませんわい。』

 とから〳〵と笑つた。

なに、安房には鯉はゐないと申すか。』

 と杉倉氏元うじもとと堀内貞行さだゆききつとなつて双方一度に詰寄つた。

『安房には鯉はをりませぬ。』

 と乞兒かたゐめず臆せず平然として

『俗に鯉は十郡からの大國で無いと生じないと申しますが、あながうともきまりませぬ。風土に由るので國の大小にらない。奥羽は五十四郡の大國であるが、矢張鯉がをりませぬ。例へば里見の御曹司が上野かうづけに人となつても上野を知ろし召す事が出來なくて、この房州に流遇さすらつて膝を容れるの室が無いやうなものでござる。』

 と知る知らぬ乎 恐れも無く傍若無人にいひ放つたので、飛ぶ鳥にも氣を置く主従三人、思はず呆れて顏を見合はした。

『汝は一體何者ぢや?』

 と暫らくして義實は乞兒かたゐきつと睨まへた。

乞兒かたゐはハツと飛退とびすさつて大地に手を突き、

『さてはそれがしの推量にたがはず里見の御曹司おんざうしにおはしましたか。君をためし奉つた無禮はお許し下されて言上したい事もあれば、ざこなたへ成らせ給へ。』

 とさきへ立ちつつ、人の往來ゆききする路傍を離れたある山蔭へ主従を案内し、上座に義實を据ゑて遥かうしろ後退あとずさりして、改めてうや〳〵しく大地に額突ぬかづいた。

『それがしは 當國瀧田たきたの城主神餘長狹介光弘じんよながさのすけみつひろの家の子金碗八郎孝吉かなまりはちろうたかよしと申すものゝ成れの果でござります。君にも聞こし召されんが神餘じんよの家は――』

うん〳〵かく〳〵と、義實主従も安房に渡ると直ぐうす〳〵小耳こみみに入れた神餘の家の動亂どうらん一伍一什いちぶしじふ事詳ことつまびらかに言上した。

 神餘は安西あんさい麻呂まろならんで安房四郡を分領した東條の末であつた長狹介光弘ながさのすけみつひろの代となつて東條瀧田たきたはして安房半國を領し、安西、麻呂を下風かふうに立たして威勢並ぶものも無かつたので、光弘は心おごつて日夜酒色に沈湎ちんめんした。嬖臣へいしん山下柵左衞門定包さくざえもんさだかね微賤よリ歷上へあがつた君の御恩ごおんを思はず傍若無人に振舞ひ、君の眼をぬすんで嬖妾玉梓へいそうたまずさと私通し、忠臣を遠ざけ侫人を手馴てなづけ、内外心を併はして思ふまゝ國政を掻亂し、民の怨府となつて家運日に傾き、數代連綿たる神餘の家も累卵よリも危くなつた。

金碗かなまりはもと神餘じんよの支わかれで代々老職の筆頭であつた孝吉は早く父母に別れマダ年少であつたので光弘の近習きんじゆに召れてゐたが、光弘が淫楽に耽つて奸臣時を得顏えがほ跋扈ばつこし君家の内外日に非なるを視るに忍びず、屡々しば〳〵苦諌したがれられないので、暫らく時を俟つの決心で一時退身した。斯くて五年の歳月を往方ゆくへ定めぬ旅路に暮して久方振ひさかたぶりに故郷の土を踏んだ時は光弘不慮ふりょ狂死わうしして奸臣定包さだかね國をも婢妾ひせうをもぬすんで瀧田たきたの城主としての威福をほしいままにしてゐた。

かねしたる事ではあるが、今更に胸のつぶれる思ひ。段々聞くと定包の好智にけたるかねおのれの横暴を憎んで機會を覘うものがあると聞くや、狩倉かりくらすすめて領内に触れさして刺客を釣り、其日の狩倉には姦計を用ひて君の乘馬を中途に斃れさしておのれの乘馬をうまとしてすゝめ、刺客のを欺いて己れの身代りに君を射留いとめさせ、意外の珍事に驚いたやうな顏をして直ちに刺客をかららして首をね、即座に君の仇を報たやうな忠臣顏をした。加之のみならず陰謀の張本人たる口を拭いて世子せいしの無いのを奇貨とし、一國一日も君無かるべからずと、暫らく國政をあづかるといふ名目でマンマと領主となつて玉梓たまづさを嫡室とし其他の婢妾をまで竊んだ。

 これから後、孝吉は身にうるしして乞兒かたゐに姿をへ、日毎に瀧田を徘徊して容子ようすを探り、或る時人目を避けて彼地此地あちらこちら放浪さすらつてるうちに不斗ふと耳に入つたのは里見冠者さとみのくわんじや義實が結城ゆふきの戰ひを遁れて安房へ渡つて來られたといふ噂であつた。所詮やせ浪人の赤手せきしゆで敵をうかゞうよりはこの名門のきみを仰いで義兵を揚げるにくは無いと、里見の御曹子の行衞を尋ねるうちに 、自箸河しらはしがはほとり邂逅であつた主従三人の武家は人品骨柄世の常ならず見受けたので、乞兒婆かたゐすがたの恐れもなく近づいて鯉に事寄せ口占くちうらを引いて見たので、

『貴いおかたとはで見奉つたが、』

 と金碗かなまりは感概に堪へないやうな顏をして、

『正しく里見の君におはしましたのは、先君亡靈の導き給ふところ…………』

 とちく一言上して逆賊討伐の義兵の旗揚げを勸めた。

 孤忠をあはれむ義心と、不忠不義にいきどほ侠骨けうこつと、天涯の孤客の鬱勃うつぼつたる雄心とで、義實は金碗の熱辯に耳を傾け、杉倉、堀内、金碗と環座くわんざして旗上けの謀議を凝らした。

 その晩金碗は義實主従を嚮導みちしるべして小湊へ行き、はかりごとを用ひて土民百五十名を糾合し、兵は神速しんそくを貴ぶ、即時に瀧田の支城東條へ押寄せ、敵の備へなきに乘じて一擧にしておとしいれた。降兵數百人、軍馬、兵器、糧餉りやうしやう山の如く捕獲して、勢ひに乘じて一氣に城を抜くべく瀧田へ押寄せた。沿道ふうを望んで集る野武士豪族千餘騎、軍容大いに振った。

 が、瀧田は肯繁さすがに要害で。一時に容易に落つる氣色けしきなく、智略に秀づる義實も、老功手だれの杉倉、堀内も、瞻勇無双の金碗も攻めあぐんで策のほどこしやうも無かつたが、不斗ふと案じつきて反間苦肉はんかんくにく羽檄うげきを飛ばして城内の人心を動揺せしめた。奇策は誤またず、城内俄かに浮足となり、定包眤近じつきんの幕僚までが不安となつて終に陰謀を企て、突然定包の帳中てうちうに切込んで首を擧げ、これを幣物へいもつとして開城して義實の軍門に降つた。逆徒の一味は此の如くして亡びて、義實は目出度く瀧田へ入城して安房半國の領主となつた。
“読書ざんまいよせい(065)” の続きを読む

読書ざんまいよせい(064)

◎ グリーンブラット「暴君」ーシェイクスピアの政治学(02)

 「リア王」は、シェイクスピア最長の戯曲、それだけ脚本に込める思いもあったのだろう。また、他の戯曲とひと味もふた味も違って見える。筋も相当に複雑だ。道化のセリフなど、まともでない登場人物が、まともなことを言う、というブレヒトの唱える、「異化効果」につながる手法がみられる。

 リチャード三世もマクベスも、邪魔になる正統な王を殺すことによって権力の座に就いた犯罪者である。しかし、シェイクスピアは、もっとじわじわと進行する問題にも興味を覚えた。最初は正統な支配者であったのに、精神的不安定さのために暴君のように振る舞い出す人たちが惹き起こす問題だ。…そのまわりには思慮深い顧問官や味方や、健全な自衛本能をもって国家を慮る人々もいるだろうが、そうした人たちが狂気ゆえの専制政治に対抗するのは極めてむずかしい。予期していなかったことだし、これまでの長きに亘る忠誠や信頼ゆえに、王に唯々諾々と従う癖がついているからだ。
…引退を決意した王は、宮廷人たちを集めて、その「決意」を明らかにする。王国を三分割して、王への追従を言う能力に応じて娘たちに分け与えるというのである。
むすめどもよ、今や、予は、支配をも、所領をも、 國事に關する心勞をも、悉く脱ぎ棄てゝしまはうと存ずるによって、聞かしてくれ、 其方そなた逹のうちで、誰れが最も深くわしを愛してをるかを。 眞に孝行の徳ある者に最大の恩惠を輿へようと思ふから。」
坪内逍遥譯より(第一幕第一場四六〜五一行)

以上、グリーンブラット「暴君」より(一部改変)
 一般的な世評では、リア王の高齢による認知症状がテーマで、その後のドラマツルギーが展開したとされるが、少し違うような気もする。一言では言えないが、おのれを含めた権力というか「暴君」に振り回された王の末路と捉えられるのではないか?
 疎外された末娘のコーディリアの哀れみだけが強調され、のちの時代には、ハッピーエンドに改変された脚本もあったようだ。私は、コーディリアの「反撃」の名目がなにかチグハグだった気がしてならない。ないものねだりかもしれないが、彼女の旗印は、「善政であったリアの治世に戻す」という「最小限綱領」を掲げるべきだったのだ。それに賛同するあらゆる旧家臣を結集させるべきだったのだ。昨今の世で言えば、「消費税率を下げる、企業団体献金を止める」という最小限の政治目標で「選挙管理内閣」を作るべきだったのだ。「最大限綱領」を持ち出して、みすみすそのチャンスをのがし、茶番劇にもならない猿芝居を演じた輩には次の言葉が似つかわしいかもしれない。
 Edmund Burke(エドマンド・バーク)曰く

When bad men combine, the good must associate, else they will fall one by one, an unpitied sacrifice in a contemptible struggle.
悪人どもが結託するときには、善人たちは結びつかねばならぬ。でなければ卑劣な争いの中で、一人ずつ哀れみを受けることのない生贄となることだろう。

Facebook での一知人の引用である。
 こんな世の中で、「リア王」を上演するのはどんな演出になるのだろうか?実際に観にはいけないが、大竹しのぶがリア王を演じる民芸の演目などは楽しみである。

テキストの快楽(015)その3

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(04) 第二幕 第三場~第四場


——————————————————————————-
リヤ王:第二幕 第三場
——————————————————————————-

第二幕

第三場 荒れた岡の一部。(前と同じ城内としてあるテキストもある。)

父の勘氣を蒙ったエドガーが出る。他國へ放浪しようとしても、警戒が嚴しいので、 餘儀なく躊躇してゐるていである。

エドガ
布令が出て手が廻ってゐるといふことを聞いたが、幸ひに樹の洞にかくれて追手をばまぬかれた。 どの港も閉され、どこ一箇所非常な警戒で以て俺を捕へようとしてゐない處はない。 のがれられるだけは命を助かるために、 貧窮がかつて人間をして獸も同樣の墮落の極に到らしめた其時の姿も 是程ではと思ふやうな最もあさましい姿をも取らうと思ふ。 顏はむさいもので塗りたて、腰には古ゲットを卷き、頭髮かみのけはもぢゃ~にもつれさせ、 赤裸々あかはだかで以て風雨雷電にも身を曝さう。さういふ先例は、此國のベドラムの乞食共だ、 彼奴等は、わめき聲をあげて、麻痺しびれて無感覺になってゐる素肌のかひなへ、針だの、 木串だの、釘だの、迷迭香まんねんかうの刺だのを突きたて、怖ろしげな樣子を見せて、 呪ったり祷ったりして、下賤の農家から、あはれな小ぽけな村から、羊小舎から、磨粉屋こなやから、 無理やりに布施を貰ふ。なさけないタリーゴッド!なさけないトム(なぞと呼んであるく)! が、まだしもあれは人だ。此エドガーは人でなしだ。

エドガー入る。

“テキストの快楽(015)その3” の続きを読む

テキストの快楽(015)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(007)


  第三節 とみなが・ちゅうき(富永仲基)

    一 彼の生涯

 ヨーロッパで近世の唯物論が盛んにおこったのは、商人階級およびこの階級のひごによる人たちの間から学問が伸び、いきいきとした思想が出はじめてからである。いわゆるブルジョアジーの擡頭からである。日本でもこれと同じことがいえるのである。商人社会がまず成立した大阪から、唯物論への道を用意した思想家が多く出たのは自然のなりゆきである。江戸時代では、皇室を尊崇する風のあつい学者が京都に、幕府の学問に忠実であろうとした学者たちが江戸に、そしてどこにも尊崇の対象や権威のありどころをもたなかった学者たちが大阪に現われたのも、また自然である。
 私たちのとみながちゅうきは大阪に生れ大阪で成長した。江戸時代の日本の学問の歴史からいって江戸時代の中ごろまででは、大阪に生れた青少年たちは、学問する便利があったはずはなかった。大阪という都会が商人社会を形成するようになったのは、だいたい元禄いごである。大阪に学問の風がおこり、就学にも便利になったのは、懐徳堂かいとくどうというひとつの学堂ができてからといってよいであろう。そのはじめは享保九年(一七二四)の頃であった。この学堂のじっさいの世話をした学者はみやけ・せきあん(三宅石庵)という朱子学の系統の人だった。もっともしかし、この学堂は朱子学だけではなく、いわゆる陸王の学の系統でもあった。いずれにしても、三宅は大阪という商人社会が生み出さねばならないような思想家の性格の人ではなかった。この学堂の敷地や建物の配慮からはじめて、その創立の経営までをうけもった人が、五人ほどいた。仲基の父の芳春はそのなかのひとりであった。芳春の家は代々醤油醸造を家業としていたということであって、彼はかなりの分限者ぶげんしゃ(財産もち)であった。だから、仲基はブルジョア社会に成長したのである。でも彼の学問の出発には、父の教養はもとより石庵の学問の影響があったわけである。
 仲基の生涯はまだくわしくは知られていないが、正徳五年(一七一五年)の生れである。このことは仲基研究者たち(日本生命保険会社のあるところ)であるといわれている。幼い時の名は幾三郎、一般に通っていた名は三郎兵衛であった。芳春の三番目の子だった。
 さて、彼の生涯のことで知っておきたいのは、右の学堂での研究の模様、彼の学問の成長のありさま、家庭事情、生涯の職業、社会的活動、著述などである。ところで懐徳堂での研究の様子は殆んどわかっていない。彼が学堂に入ったのは、一七二七年頃であるが、一七三〇年(享保十五年)の頃にはもうすばらしい著述ができていたことがわかっている。というのは、その著述の名まえは『説蔽せつへい』というのであるが、この本は伝わっていないし、またその内容を誰かが書いてくれた本ものこっていないからである。しかし幸いなことに、仲基の著述で今日のこっている『翁の文』のなかにこの本の内容が推定できる箇所がある。もっともしかし『説蔽』にどんなことが主張されてあったかは、つぎの事件が物語っている。それは『説蔽』を公けにしたことが、懐徳堂の石庵の怒りに触れて、仲基は破門されたということである。それほどの事件をひきおこした彼のこの労作は、彼のとしが十六才よりものちのものではなかったのを考えると、彼の才能は驚くべきものであったとおもわれる。私の解釈では、彼は儒学思想の歴史的批判をこの『説蔽』で企てたものとおもわれる。そは前述の『翁の文』の第十一節がその手がかりになる。中国で孔子以後いくつかの学派学統が出ているが、それぞれがその時代時代に立って前行するものを批判するところに意義があるものであって、どの一派、どの一統も権威をもつ性質のものではない、という主張が『説蔽』の骨子だったらしい。このような仲基の学説は当時のいかなる儒学者からも許容されるはずはなかった。彼の学問の眼は、儒者や老荘のあらゆる学説を、イデオロギーと見てとるところまで澄んでいたのであるとせねばならない。このような見識は当時の伝統のどの学問からも流出し得ないものであって、仲基の社会的環境、その生活諸条件がもとで、彼の思索のなかで、いつか結成へとすすんだ新しい思想だとせねばならない。「蔽」を説くのではなくて、「説の蔽」を明らかにするというのが、書名のもとであったと考えられる。
 つぎに、彼の家庭事情であるが、富裕のなかで家庭の平和を享有するようには、できていなかった。この事情は彼の思想を一層せんえいにしたことであったろう。父の芳春のなくなったあとは、同じ家に住むことがたえられないまでに、家庭不和はこうじていたらしい。母とともに、同母弟妹を連れて分家し、独立した。年若い仲基は町儒者として一家を支えねばならなかったものと察しられる。それにもかかわらず、不幸にも仲基は病弱だった。社会的活動といわれ得るほどのことは、ついになかった。というのは、一七四六年(延享三年)八月に、三十二歳でなくなったからである。彼の著述であるが、それについては、つぎの(二)および(三)で述べてみたい。
“テキストの快楽(015)その2” の続きを読む

テキストの快楽(011)その3

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(04)
第一幕 第五場~第二幕 第二場

リヤ王:第一幕 第五場
——————————————————————————-

第一幕

第五場 同じ處の前庭。

リヤとケントと阿呆と出る。

リヤ
(ケントに)其方は、此書面を持って、予に先き立ち、グロースターまで參れ。 此書中のことを問ふたならば、答へいぢゃが、其餘は其方が存じてをる何等の事をも女兒むすめには知らすまいぞ。 勉強して急いで參らんと、予のはうが先きへ往くぞ。
ケント
御書面をお渡し申しますまでは、休むこッちゃァございません。

ケント入る。

阿呆
もしか人間の腦髓が踵ンとこにあったら、あかぎれりゃァせんかい?
リヤ
れるかも知れん。
阿呆
ぢゃァ、御安心なさましだ、お前だけは緩靴を穿く必要が無いから。
リヤ
はゝゝゝゝゝ!
阿呆
今に見な、お前のもう一人の女兒むすめは、きッと親身らしくしてくれるよ。 何故なら、彼女あれ彼女あれとはだい~(苦林檎)が九年母(林檎)に似てるやうに似てるけれど、 しかしおれにゃ解ってることは解ってらァ。
リヤ
如何どういふことが解ッとるんぢゃ?
阿呆
彼女あれ彼女あれとは同じ味だよ、だい~(苦林檎)がだい~(苦林檎)に似てるやうに。 お前は知るまい、なぜ人の鼻は顏の中央まんなかにあるか?
リヤ
知らんなう。
阿呆
はッて、鼻の兩側を善う見張って、鼻で嗅ぎ出せないことは、目で以て見附ける爲だ。

末女コーディーリャの事を想起して、おのが輕擧を悔むてい

リヤ
(煩悶の思入れ)濟まんことをしたわい彼女あれには。……
阿呆
かき如何どうして貝を造るか、知ってるかいお前。
リヤ
うんにゃ、知らん。
阿呆
おれも知らん。しかしなぜ蝸牛まひ~つぶりが家を有ってるかは知ってらァ。
リヤ
なぜぢゃ?
阿呆
はッて、うぬが頭をしまっとく爲だ。 女兒むすめどもにっちまって角の容場いればをなくするためぢゃァないや。
リヤ
(煩悶して)親の情を棄てゝしまはう。これほどにしてやった父をば! ……馬の支度はどうした?
阿呆
驢馬が何疋も其支度にいってるよ。七つ星の數は、七つしか無いといふ其理由いはれが面白いや。
リヤ
八つとは無いからであらうが。
阿呆
その通り。お前は立派に阿呆になれらァ。
リヤ
(又煩悶して)是非とも取返して!おそろしい恩知らずめ!
阿呆
小父たん、お前がおれの阿呆だったら、おら撲るよ、あんまり早く齡を取ったから。
リヤ
どうして?
阿呆
聰明りこうにもならんうちに、齡を取るやるがあるもんかい!
リヤ
(又煩悶して)おゝ、天よ、氣ちがひにならせて下さるな、氣ちがひに! 正氣にしておいて下され。氣ちがひにはなりたくない、氣ちがひには!

一紳士出る。

どうぢゃ!馬の支度は出來たか?
紳士
出來ましてございます。
リヤ
さァ、來い。
阿呆
觀衆けんぶつに對って)今はしんぞで、おれの引込むのを見て笑ってゐる女子あまツこも、 さう~は處女むすめぢゃゐまいて、物がちょんぎられてしまはぬ以上は。

王を先きに一同入る。

“テキストの快楽(011)その3” の続きを読む

テキストの快楽(015)その1

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(10)


【編者より】
 底本にある岩波文庫「シベリアの旅」には、その他、短編小説「グーセフ Гусев」「女房ども Бабы」「追放されて В ссылке」が収載されていますが、青空文庫「チェーホフ」にありますので、参照してください。未完に終わった「シベリアの旅」は今回の神西清による解題で終了です。全編は、「シベリアの旅」タグで御覧ください。ご愛読に感謝します。
 全編を通じて、ふりがなは ruby タグ を、傍点は、b タグを用いました。また、より小さな活字体では、font タグを用いたところもあります。
 昭和九年という、日本が暗い世相の予兆から、それが現実になりつつあった時代でこそ書き得た、神西清の全霊を込めたというべき、名解説です。

解題

 ーハ九〇年は、チェ—ホフの作家的生涯に於て重要な轉機をなしてゐる(チェーホフ三十歲)その外向的なあらはれは、 言ふまでもなくシベリヤを橫斷してサガレンへの大族行である。本集はこの旅行から比較的直接に齎らされた藝術的所產を中心にして、當時の彼に見られる幾つかの動向を捉へようと試みた。

       

 サガレン旅行がチェーホフの藝術の進展のうへに演じた役割は、 從來稍ゝもすれば單なるー插話としてその價値が見失はれがちであつたに拘らず意外に大きく、ここに基點を置いて自覺せるチェーホフの出發を記念することは極めて妥當である。その意味は先づ、これに先立つ二三年のあひだに彼を度つた激しい危機と密接に關聯させて考へられなければならない。その危機の釀成は固より非常に複合的であるが、次の二三の事實はこれに就いて幾分の豫備知識を與へるものと思はれる。
 何よりも先づ眼につくことは、チェーホフか文筆生活の開始に當つて極めて不幸であつた事である。彼が一家の生計を支へるためにモスクヴァの滑稽新聞に寄稿し始めたのは、まだ醫科大學に在學してゐた一八八〇年のことに屬する。この卑俗なヂャーナリズムの泥沼に彼を引き入れたについては、 若年の彼が持つてゐた皮相な滑稽的天分も當然ー半の責を負ふべきであるにせよ彼カこの境地に自足してゐたと考へることもまた謬りである。この時期の彼を「陽氣で無帰気なー羽の小鳥」と見、彼のユーモア短篇に今なほ安易なー瞬の愉樂を求める人々に禍あれ。彼等はその「小鳥」の次の絕叫をも聽くべきである。
  「私は奴等の仲間にゐる。奴等と一緖に働き、握手し合つてゐる。遠目にはどうやらーかどの詐欺師に見えるさうだ。ああ腹が立つ。だが晚かれ早かれ緣切りだ。」(一八八三年)
  「もし私の裡に尊重に値する天分があろとすれば、私はこれ迄それを尊重して來なかつたことを自白します。色んな新聞を渡り步いてゐたこの五年のあひだに、私は自分の文學的『下らなさ』に對する世間の眼に泥んでしまひ、自分の仕事を卑めて見ることに慣つつこになりました。」(一ハ八六年)
 この悲慘な墮落は、それが彼の曇らぬ良心の面に歷然と意識されてゐるだけ、ー層眼をそむけさせるものがある。「私はあまり多作はしません。一週間にせいぜい短篇が二つか三つです」(八六年、 スヴォ—リン宛)と怖るべき吿白をしながら、ー八八〇年から一ハ八七年末までに彼が書きなぐつた作品の數は、 よしその大部分が主として片々たる短篇(まれに雜文)の類であるにせよ、 總數五百五十を超えてゐる。かかる沈湎の境に、 その懸命な身もがきにも拘らず長く彼を引留めてゐた一素因として、當時所謂八〇年代のロシャ社會の退嬰無比な倦怠の色が思ひ浮べられる。未曾有の反動の重壓の下、文學にも科學にも訪れるのは預気力な灰色の日々でしかなかつた。あらゆる希求も美への僮憬も悉く凋萎させずには措かぬ小市民生活の泥沼、その中にあつてチェーホフも亦、ある時期のあひだトルストイの無抵抗の敎義に取り縋つた。
 かうした環境と心境とが、 やがて人を自滅の深淵に臨ませることは必然的であろ。出口のない悲慘と墮落の自意識、濫作の末の疲勞困憊、題材の涸渴、無興味、自己嫌忌、やがて完膚ない破滅……。戯曲は『イヴァーノフ』Ivanov Иванов<ロシア語は編者追加>(一八八七年)の主人公が目らを過勞の極困憊した勞働者に譬へ、退屈な話』Skuchnaja istorija Скучная история<ロシア語は編者追加>(一ハ八九年)の老敎授が精神的虛脫者であるのに何の不思議もない。この二つの作品は、右のやうな諸要素及びその發生するあらゆる有機毒素の累積に孕まれた危機の深さを殘りなく反映しつつ、彼に於ける一時期の終結を記すものに他ならない。この意味から、先全な自傅小說と呼びうるこの二作品は、彼が進んで遂げた自滅の記念碑と解することが出來る。彼は饐えきつた自己及び環境の一切を舉げて火に投じ、その屍灰から起ち上るかも知れぬ新しい生命を見守つたのでもあらう。
  「この二年の間、別にこれと言つた理由は何もないが、私は印刷になつた自分の作品を顧る興味を失くしてしまひ、評論にも文學談にもゴシップにも、 成功にも失敗にも、髙い稿料にも無關心になりました。――つまり、私はまるつきり馬鹿になつたのてす。私の魂には一種の沈滯が生じたのです。私はこれを自分の個人生活の沈滯に歸してゐます。私は失望もしてゐないし、疲勞も沮喪もしてゐませんが、ただ突然何もかもが今までほどに面白くなくなつたのです。自分を振ひ起たせるために何とかしなけれはなりません。」(ーハ八九年五月、スヴォーリン宛)
 この何氣ない手紙の一節が、右のやうな危機の深さの端的な表白として改めて讀み直さるべき時期の來てゐることは明かである。チェーホフはー八九〇年の初め頃、たまたま試驗準備をしてゐた弟ミハイルの刑法・裁判法・監獄法などのノオト類をふと眼にして、「足下から鳥の立つやうに」サガレン族行を思ひ立つたといふ。丹念に彼の傳記を調べて見たとしても、或ひはこれがその唯一の「眼に見えた」動機であるかも知れない。そして、實はそれで十分ではないか。あらゆる抑壓の下に形體は自壊しつつ、しかも獨特の何か不可思議な生活力の烈しさによる抵抗熱が身裡に鬱積された極みにあつては、 一行の文字のふとした衝擊に逢つてすら、 忽ち瓣ははじけ飛ぶのである。

 これを機緣として、久しく彼の待ち望んだ一つの情熱が彼の裡に燃え上つた。彼は「一日ぢゆう本を讀み、抜書を作つてゐる。私の頭の中にも紙の上にも今ではサガレンしかない。憑物だ。サカレン病 Mania Sachalinosaだ」(一八九〇年二月、プレシチェーエフ宛)と言ひ、 全く憑かれた人のやうになつてサガレン島に關する文獻に沒頭した。その興味はとりわ、罪囚たちの悲惨な生活の上に凝つた。
  「私達は幾百萬の人間を牢獄に朽ちさせたのです。徒らに、分別もなく、野蠻な遣ロで朽ちさせたのです。私達はー萬露里の寒氣の中を、手械をはめた人々を驅り立て、シフィリスに感染させ堕落させ、みすみす罪囚の數を殖やしたのです。しかも、これら總ての責を、赤鼻の獄卒に轉嫁してゐるのです。」(ー八九〇年三月、スヴォーリン宛)

 然しこのやうな罪囚に封する異常な執心が、或る衝動的な性質を帶びてゐることは蔽ふべくもない。ここで圖らずも、 私達は彼の生活樣態のー特徴に思ひあたるのである。それは彼獨特の潑刺たる勤勞愛であり、苦行愛である。ではあるが彼が、「私は懶惰を軽蔑する。精神の動きの虛弱さや不活潑さを輕蔑すると同様に」といひ、「舊制度と和解せずに、たとひ愚かしからうと賢明であらうと、とにかくそれと闘つてこそ健康な靑春と呼びうる」と語るとき、 少くもその放射面が現實であり社會である限り、そこに働いてゐるのは彼自身の心性ではなく、何者かがその裡に巢喰つてゐて、時に彼の心性をしてこの叫びを上げさせてゐる樣な感想を、私達は受けるのを常とする。饑饉時や疫病時に際して彼のあらはした獻身的な努力、僻地の學校圖書館に豊かならぬ財囊を割いて圖書を寄附する彼――その眞撃さは疑ひもなく、これを見て感激せぬのは鬼畜であるかも知れないが、しかもこれらの行動は、彼の生活量の總體から考量するとき、常に何かしら間歇的であり無花果的であり、 受身的な積極性の相を帶びるのを常とする。そしてここで、 彼の良心的な感性の鋭さを考慮に入れながら、かかる衝動を喚び起す奥底の刺戟として一種の「苛責」に想到することは極めて自然である。のみならすこれに關しては、彼の書簡集から幾つかの證據を拾ひ出すことさへ可能である。日く、等閑に附して來た醫者としての務めに對する自責。日く、藝術の自由性乃至藝術上の制作の實踐的無價値に對する執拗な反省。……これらの不安は、恐らくその全生涯を通じて彼の心裡に巢喰ひつづけ、絕えず迸出の機會を窺ふ魔であつたのである。
 この地に絕えず追はれ、突き轉ばされるとき、彼が悲慘極りない孤獨者の悲劇を露呈することは何としても否定し難い。實際彼ほどに、倨傲ならぬ純粹の個性の殉敎者はあまり見當らぬであらう。この敎養深い孤獨人は、「連帶性とか何とかいふ囈語は、取り所や政治や宗敎などに就いてなら私にも分る」乃至「仲間の助けになりたいなら、先づ自分の個性と仕事を尊敬することだ」といひ、一切の共働を拒否し、階級を認めず、勞働者を知らず農民を信ぜず、 インテリを憎悪しブルジョアを蔑視した。固より、かうしたあらゆる集團的階級的なるものへの彼の拒否を取り上げて、これを指彈し非難することは今日となつては常識以外の何物でもない。その故に最早彼を棄て去ることも亦、各人の隨意である。然しながら忘れてはならぬことは、この個性の悲劇が實は彼の近代的全悲劇の中核に極めて接近してゐること、 或ひは中核そのものであることである。しかも彼にあつては、これは常に意識された悲劇であつた。(彼の親友メンシコフは興味ある插話を齎らしてゐる。チェーホフの仕事机の上には銅印が置いてあり、その銘に「孤獨者にとつて世界は沙漠だ」とあつたといふ。)
 チェーホフは絕えず土地や人的環境や風物の新鮮さを好んだ。健康が許すあひだ殆ど間斷なしに國內を旅行し、その足跡が外國へ及んだことも一再ではない。それが矢張り右に見た魔の所業であり、 それが絶えず彼の裡に「遠方の招きに牽かれる心」を、「居に安んぜぬ徒心」を搖すつてゐたことは否定すべくもないのである。そのあらはれが、假借することのない勞力と時間の浪費――つまり一種の苦行の相を呈することも屢ゝであつた。その意味から言つて、彼のシベリヤ及びサガレンの旅を、かかる苦行の相なるものと呼び得る。それは彼に餘りにも高價に値した。彼の早死の原因をなした胸の痼疾も、その源をこの辛勞多い旅に歸せられてゐる。
 右のやうに、チェーホフをこの旅行に驅リやつた衝動的素因を瞥見した上は、 更にこの衝動を强化し支持した謂はば潛在的動因に眼を轉じないでは濟まされない。實をいふと、前に見たやうに突然彼の激しい興味が向けられた對象が偶々罪囚の生活であつたといふことは、ここで更に彼の作家的內奧の動向と微妙な契合をなしてゐるのである。それは、彼の危機の深さを如實に反映する『イヴァーノフ』及び『退屈な話』などの祕かな根底をなしてゐる特徵――すなはち自他の病患、世紀末のロシヤ社會を蔽ふ怖るべき變態的事象に對する異常な凝視である。この二作あたりを轉機として、彼の作家的視線は漸く病的、變態的な方面――彼の鋭敏な感性には人一倍强く映ずるあらゆる醜惡さに注がれはじめた。作家チェーホフの內部に、かかる病患・變態によつてのみ初めて創造欲をそそられる、一種の傾向が漸く形成され、それが次第に强まりつつあつた。勿論自他の病患を正視しようとする彼の眼光は、彼が徒らな笑ひの性格を喪ふにつれ、 また久しきに亙る混濁生活の間に、徐徐に養はれ鍛へられてゐたとはいへ、この期に於て充分に鞏固であつたと言ふことは出來ない。それはまだ、何かしら潜在的何かしら無意識的な作家的本能の生成でしかなかつた。だがこの様な瞬間に、ふとした衝動によつてサガレン島がロシア的悲痛の完全な軆現者或ひば象徵として眼底に映’じたとすれば、チェ—ホフが勿心ち全身全靈を舉げて共處へ牽引されたのは極めて當然である。この場合、彼の作家的本能の趨向は、 突發的な一つの衝動が指し示した方向と完全に合致して,その衝動を支持し强化し、やがてこれに取つて代るべき役目を見事に果たしたのである。
“テキストの快楽(015)その1” の続きを読む

テキストの快楽(014)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(09)

 もし道中の景色が諸君にとってどうでもよい事でないならロシヤを出てシべリヤに旅行する人は、 ウラルから工ニセイ河までの間ずっと退屈し通すに違ひない。寒い平原、曲がりくねつ白樺、 溜り水の沼、ところどころに湖、 五月の雪、そしてオビ河の諸友流の荒涼とした淋しい岸。――これが、 最初の二干露里が記憶に殘すものの全部である。他國人に崇られ、わが國の亡命者に尊ばれ、遠からずシべリヤ詩人にとつて無盡藏の金坑ともならう自然、比類ない雄大な美しい自然は、 やつとエニセイに始まる。
 かう言ふとくヴォルガの熱心な讚美者たちに對して非禮に當るかも知れないが、私は生れて以來エニセイほど壯大な河を見たことがない。ヴォル力を小意氣で內氣て憂ひを含んだ美人に普へればエ二セイはそのカと靑春の遣り場に困つた力强獰猛な勇士であらう。人々はヴォルガに對するとき、最初は奔放に振舞ふけれど、遂には歌謠と呼はれる呻吟に終る。明るい金色の希望は、ヴォルガにあってはやがて一種の無力感に――ロシヤのペシミズムに變ずる。エニセイにあっては先づ呻吟に始まる代りに私逹が夢にも見たことのない奔放さに達する。少くとも私だけは、 宏大なエニセイの岸邉に立つて荒びた北氷洋めがけて奔る凄まじい水の疾さとカとに貪るやうに見入りながらさう考へた。エニセイにとってその兩岸は狹苦しのだ。高くない浪のうねりが互ひに追ひ合ひ、押し合ひへし合ひ、螺旋狀渦を卷く有様を見てゐると、この强力男がまだ岸を崩さず‘底を穿ち通さずにゐるのが不思議に思はれて來る。こちら岸には、シベリヤを通じて一番立派な美しい町クラスノヤ—ルスクが立ち、對岸にはさながらコーカサスを思はせて煙りわたる、夢幻的な山獄が連なる。私は佇立して心に思った――今にどんなに完全な聰明な剛毅な生活がこの兩岸を輝かすことであらうか。私はシビリャコフ*を羨んだ。私の讀んだところでは、 彼はエニセイの河口に達するため遥々ペテルブルクから汽船で北氷洋へ乘り出したのだ。私はまた、大學がクラスノヤ—ルスクではなく、卜ムスクに開かれたのを殘念に思った。さまざまな想念が湧いて來て、それが皆エニセイの河波のやうに押し合ひ縫れ合つた。そして私は幸福だった。……
 エ二セイを越えると間もなく、有名な密林帶タイガーがはじまる。これに關しては色々と宜傳も記述もされて來たが、そのため反つて實際とは遠い姿を期待してゐた。最初はどうやら多少の幻滅感をさへ抱く。松、 落葉松、樅、白樺から成る變哲もない森が、道の兩側に間斷なく續いてゐる。五抱へとある木は一本もなく、見上げると眼まひのするやうな喬木もない。モスクヴァのソコーリニキイ*の森に生えてゐる樹に此べて、 少しも大木といふ感じはしない。密林帶には鳥の啼聲もなく、そこの植物には匂ひがないといふ話だった。で、さう覺悟してゐたが、密林帶を行くあひだ絕えず小鳥の歌が聞え、蟲の嗚聲がした。太陽に溫められた針葉は、强い樹脂やにの臭ひで空氣を滿たし、道傍の草原や林の緣は淡靑や薔薇色や黄色の花々に掩はれて、これも眼を愉しませるだけではなかつた。大密林の記述者たちは春來て見たのではなくて、明らかに夏の觀察なのであらう。夏ならばロシヤの森にすら 、鳥は啼かずす花も匂はない。
 密林帶の迫力と魅力は、亭々と聳える巨木にあるのでもなく、底知れぬ靜寂にあるのでもない。渡鳥でもなければ恐らく見透せまい、その涯しなさにあるのだのだ。はじめの一晝夜は氣にも留.めない。二日目、三日目になると段々驚いて來る。四日目、五日目になると、この地上の怪物の胎內からは、何時になっても脫け出せまいといふやうな氣がしだす。森に蔽はれた高い丘に登って、東のかた道の行手を眺める。見えるのはすぐ眼下の森林、その先に第三の丘、かうして限りがない。一晝夜の後また石に登つて見渡すと、 又しても同じ眺めだ。……道の行方には、 とにかくアンガラ河がありイルクーツクがある筈と心得てゐる。だが道の兩側に南と北へ連なつてゐる森林の向ふには何があるのか、 この森林の深さは何百露里あるのかは、 密林帶タイガー生れの馭者も農夫も知らない。彼等の空想は私達に比べて一層大膽である。その彼等ですら密林帶の奧行を輕々に決めようとはせず、 私達の質間に答へて「りはなしでさ」と言ふ。彼等の知ってゐるのは、冬になると密林帶を越えて遙か北の方から、何とかいふ人間が馴鹿に乘ってパンを買ひに來ることだけだ。が、 この人達が何者なのか、何處から來るのかは、 老人も知らない。
 見ると松林の傍を、 樺皮の袋と銅を背負つた脫走人がよたよた步いて行く。彼の悪行も苦難も彼自身も、この巨大な密林に比べるとき、何と小さくつまらぬものに見えることだ。よし彼がこの森林のなかで消えて無くなったとしても、蚊が死んだも帀然何の意外さも何の畏怖も感じられまい。人口が稠密にならず‘密林帶の威力を征服しえぬあひだは、 此處ほどに「人は萬物の靈長」といふ文句が力無く洞ろに響く場所は、何處にもあるまい。今シベリヤ街道に沿って住む人間が皆寄って、密林を取拂はうと申し合はせて斧や火を持ち出した所で、 海*を焼かうとした四十雀の話の二の舞を演じるに過ぎないだらう。時には山火事で森が五露里も燒けることカある。が、全軆としてみれば焼跡は殆ど氣附かぬ程度で、しかも二三十年もすると焼けた埸所には前よりー層密に茂った若森が生える。或る學者が東岸地方に滯在中ほんの粗忽から森の中で火を失した。一瞬にして見渡す限りの綠の森は炎に包まれた。この異常な光景に戰慄した學者は、自分を「怖るべき災禍の因」と呼んでゐる。しかし巨大な密林帶にとって、 高々數十露里が何だらう。今日ではきっと、その火事の跡は人迹の及ばぬ森になって、 熊が安んじて橫行しなし大松鶏おおらいてうが飛んでゐるに違ひない。その學者の爲業は、 彼を怯え上らせた怖るべき災禍どころか、 反つて大きな功績を大自然の中に印したのだ。密林帶では 、人間音通の尺度は役に立たない。
 また密林帶は、どれだけの祕密を藏してゐることだらう。樹々の間に傍道や小徑がこつそり忍び入り、喑い森の奧に消える。何處へ行くのだらう。秘密の酒造場へか、 地方警視も評議員もその名を曾て聞いたこともない村へか、それとも放浪者仲間がひそかに見附けた金坑へか? この謎めいた小徑からは、 何といふ無分別な、唆かすやうな自由の氣が吹いて來ることだ。
 馭者の話では、密林には熊や狼や大鹿、黑貂や野生の羊が棲むといふ。沿道の百姓たちは、 仕事の暇には幾週間も林の中で獣獵をして暮らすさうだ。この土地の狩獵術は至極簡單だ。つまり鐵砲から弹丸が出れば儲け物だし、 不發たったら潔く熊に喰はれろである。ある獵師が、 自分の鐵砲は五度續けて引いても駄目で、飛びだすのはやつと六度目からだと零してゐた。この珍寶を提げて、 刀も逆茂木もなしで獵に行くのは、危險千萬なことである。輸入した銃は粗悪でしかも高價住だ。だから街道沿ひの町村で、銃の製作までする殿治屋を見掛けるのは珍しくない。一般に鍛冶屋は多藝多才なものだが、 他の才人の群のなかに姿を沒する懼れのない密林帶では、殊にそれが日立つのである。必要があって或る鍛治屋と僅かのあひだ接近する機會を持ったが、馭者が彼を推薦した言葉はかうであった。――「そのお、大名人なんで。鐵砲まで作りますだ。」その馭者の口調や顏附は、私達が有名な藝術家に就いて話す時の樣子に彷彿たるものがあった。實は私の旅行馬車が毀れたので、修繕の必要があったのだ。馭者の紹介で宿場にやって來たのは痩せた蒼白い男で、その神經質な動作といひ、义あらゆる兆候に徵しても、才人凡つ大洒飮みに違ひなかつた。興味のない病氣を扱ふのが退屈でならぬ名開業醫のやうに、彼はこの族行馬車にちらつと横目を吳れて簡單明瞭な診新を下すと、ちよつと默想し、 私には物も言はず物臭ささうに路上を漫步してから、振返って馭者にかう言った。――
 「どうしたね! ひとつ鍛治場まで引つ張って來て貰ひましよ。」
 馬車の修繕には四人の大工か彼の手傳ひをした。彼はさも厭々らしい怠慢な働き振りを示した。鐵の方で彼の意に反して色んな形を取るかの樣でもあった。彼は屢屢煙草をふかし、何の必要もないのに鐵屑の堆のなかをがさがさやり、私が急いで吳れと言ふと天を仰いだ。藝術家も歌や朗讀をせがまれると、やはりかうした様子を見せるのである。時たま、まるで媚態の一種か,それとも私や大工達の度膽を拔かうとしてか、高々と槌を振りかぶって火の子を八方に散らし、 一撃の下に複雜極まる難問を解決する。鐵砧かなしきも碎けよ、 大地も震動せよとばかりに打ち下ろした粗大なー撃で、 輕い一枚の鐵板は、蚤からも文句が附くまいほどの申分ない形になる。手間賃に彼は五ル—ブル半受取った。その内五ル—ブルは自分が取つて、半ル—ブルを四人の大工に分けてやつた。彼等は禮を言って馬車を宿場まで引いて歸った。恐らく内心には、己れの價値を主張し傍若無人に振舞ふ才人(それは密林帶でも都會でも變りはない――)を羨みながら。

* シビリャコフ(アレクサンドル、一八四九――?)シベリヤの社会事業家。シべリヤ大學の開設に巨資を捧げ、探檢隊の後援をなすなど貢獻が大きい。彼がシベリヤの航海路の發見に協力したのは一八七五・七六年のことである。弟二コライも同じくシベリヤの恩人として知られる。
* ソコーリニキイの森 モスクヴ北郊にある有名な遊園地。
* 海を燒かうとした四十雀の話 四十雀が海を燒いて見せるぞと大言壮語したので、海神の都に恐慌を起して、鳥獸や獵師まで見物に集まったが、勿論泡ひとつ立たなかつた話。クルィロフ『四十雀』と題する寓話詩に基く。