日本人と漢詩(101)

◎高橋和巳と王士禛と鄭成功

雨森芳洲(1668~1755)が活躍した、17~18世紀の少し前は、東アジア、大きくは世界史的に見て、激動の時代だった。本邦では、戦国時代の乱世、中国では明王朝の衰微と清王朝の勃興、その迫間に位置するのが、我らが王士禛(1634~1711)である。その意味では、彼は「亡国の詩人」だが、これまでのこうした形容を負う幾多の詩人とは少々趣きが違うような気がする。一つには、明王朝滅亡時、彼は未だ十年の齡いしか重ねていたかったこと、もう一つは、幸いなことに、勃興した清王朝は、異民族とは言え、前王朝の到達点の大半を、無傷のまま、手に入ったことだ。世界史的に言えば、欧州を含め、十五世紀から十六世紀の「激変、戦乱」の時代から、比較的安定した統治機構が各国とも確立し、ほぼ現在に至るまでの「国家」のプロトタイプが出来上がってきたことにも関係している。
とまれ、
「価値ある人間のいとなみの総てがそうであるように、詩の美もまた、この世のなにびともまぬがれぬ様様な束縛や制限のうちにあって、しかし怠らず日日に精進する誠実な魂によってのみ築かれる。」
中国詩人選集第二集「王士禛」の解説は、高橋和巳らしい文で始まる。王士禛がデビューしたのは、今の季節にふさわしく「秋柳」四首。
そのうち、第一首(Wikipedia より)
秋來何處最銷魂 秋来 何れの処にか最も銷魂なる 秋になって最も人の哀愁をそそる柳はどこかといえば、
殘照西風白下門 残照 西風 白下の門 むろんそれは夕映えのなか秋風をうける白下の門だろう。
他日差池春燕影 他日 差池たり 春燕の影 先だっては飛び交うツバメが柳の糸に影を落としていたのに、
祇今憔悴晩煙痕 祇今 憔悴す 晩煙の痕 今では柳の糸も枯れ果てて夕もやがたなびくばかり。
愁生陌上黄驄曲 愁生ず 陌上 黄驄の曲 路傍に死んだ愛馬を悲しむ「黄驄の曲」を聴けば哀愁はかきたてられ、
夢遠江南烏夜村 夢は遠し 江南 烏夜の村 江南の村で夜中にカラスが鳴いたというのも今や遠い昔の夢である。
莫聽臨風三弄笛 聴く莫かれ 風に臨む三弄の笛 風に対して三度も吹き鳴らしたという笛の音など聴くものではない、
玉關哀怨總難論 玉関の哀怨 総て論じ難し ましてや柳のない玉門関で奏でる「折楊柳」の曲に至っては。

「楊柳」という古来からの題材に、さり気なく、春(はる)秋(あき)の対比を背景として、亡国の哀惜を一旦昇華させて詠った佳詩である。世にはやるのも頷ける。これぞ、まさしく歴史の「春秋」を表現(あらわ)した「神韻」の七律である。

頻歳 頻歳《ひんさい》
頻歳孫恩亂 頻歳《ひんさい》 孫恩の乱
帆檣壓海頭 帆檣《はんしょう》 海頭を圧す
傳烽連戍塁 伝烽《でんぽう》 戍塁《じゅるい》に連なり
野哭聚沙洲 野哭《やこく》 沙洲《さしゅう》に聚《あつま》る
司馬能靑野 司馬《しば》 能《よ》く青野《せいや》し
天呉漸隠流 天呉《てんご》 漸《ようや》く隠流《おんりゅう》す
江淮非異土 江淮《こうわい》 異土に非《あら》ず
飄泊汝何憂 飄泊《ひょうはく》し 汝《なんじ》何を憂《うれ》う

そこで、
[逐一の語釈は、略、大阪弁で意訳を試みた]

ちかごろはブッソウでんな、昔のソンはんのしでかしたどえらいことのまねしはって
うみべのすぐねきまで、白帆がたってまんがな。
けむりも兵隊はんのいやはるとこまで届いて
ソーレンもせんで、死んでいかはる人もいやはるし、
御国の大将はんは、はたけででけたもんを焼いたはるという噂や。
川の神さんもそれで、きーおさまって、流れものたりのたりやがな。
ここら辺の地面は、遠いかみよの昔から、わてらのもんだっせ。
鄭はん、あんたに土地を分けたげるという話や、ここら辺でてー打ったらええんとちがいまっか。
あんさんが亡くなったあと、リーペン(日本)という国のターポー(大坂)というとこで、ジョールリちゅう京劇にもにてはる人形つかはる芝居でえらいあんさんの評判でっせ。「トラは皮を残し、人は名を残す」というやおまへんか?それで満足できはらしまへんか?リーペンレン(日本人)のあんさんのおかんも、メードで、めえーに涙流してよろこんだはるで。
という意味がどうかは、保証の限りではない。また世界各地での昨今の緊迫した状況を直接には反映したものではない、と断っておく。

参考】
・高橋和巳 中国詩人選集第二集「王士禛」 岩波書店
・橋本循 漢詩大系23 「王漁洋」 集英社

日本人と漢詩(078)

◎高橋和巳と(陳舜臣と)六朝詩選(曹植、阮籍、無名氏)

学生時代、高橋和巳が中国文学者出身とは知らずに読みふけっていた。柴田翔の「されど我らが日々」から続くわが人生において、彷徨といえばカッコいいが、「ネクラ」と言っていい時期からようやく抜けきろうとしていたのと重なる。周囲からは文字どおり白い眼で見られていただろう。吉川幸次郎門下の彼が、歴代の漢詩の歴史から、分担執筆したのが、「六朝詩選」とあるが、実は詩経から始まり「漢」「三国」から「南北朝」の「古詩」の世界。彼の文学的淵源がここにありそうだ。

雜詩 曹植

轉蓬離本根 転蓬《てんぽう》は本《もと》の根を離れ
飄颻隨長風 飄颻《ひょうりょう》として長風に随《したが》う
何意迴飆舉 何んぞ意《おも》わんや 迴飆《かいほう》の挙《あ》がり
吹我入雲中 我を吹いて雲中《うんちゅう》に入れんとは
高高上無極 高高《こうこう》として上《あが》りて極《きわ》み無し
天路安可窮 天路 安《いずく》んぞ窮《きわ》む可《べ》けんや
類此遊客子 類《に》たるかな 此の遊客《ゆうかく》の子の
捐躯遠從戎 躯《み》を捐《す》てて遠く戎《じゅう》に従うに
毛褐不掩形《もうかつ》 形を掩《おお》わず
薇藿常不充 薇藿《びかく》 常に充《み》たず
去去莫復道 去《ゆ》去《ゆ》きて復《ま》た道《い》うこと莫《な》けん
沈憂令人老 沈憂《ちんゆう》 人をして老いしむ

【語注】轉蓬:風に吹かれ、根を離れて、丸くなってころがって行くヨモギ。 漢詩では、人が漂泊することのモチーフとなる 毛褐:毛皮のチョッキ 不掩形:体全体をカバーできない 薇藿常不充:わらびや豆の葉など粗末な食べ物では満腹にならない

訳は、私家版曹子建集を参考

曹植は、陳舜臣氏が挙げる次の詩も秀逸である。

野田黃雀行(Wikisource

高樹多悲風 高き樹に悲風多く
海水揚其波 海水 其《そ》の波を揚ぐ
利劍不在掌 利剣 掌《て》に在《あ》らずんば
結友何須多 結友 何ぞ多きを須《もち》いん
不見籬間雀 見ずや 籬間《りかん》の雀
見鷂自投羅 鷂《たか》を見て自ら羅《あみ》に投ず
羅家得雀喜 羅《あみ》する家《ひと》 雀を得て喜べど
少年見雀悲 少年 雀を見て悲しむ
拔劍捎羅網 剣を拔きて羅網《らもう》を捎《はら》えば
黃雀得飛飛 黄雀《こうじゃく》飛び飛ぶを得たり
飛飛摩蒼天 飛び飛びて蒼天《そうてん》を摩《ま》し
來下謝少年 来り下《くだ》りて少年に謝す

大樹(自らをに見立てる)には、風当たりも強くなる。海の波も波立つほどだ。鋭い剣を持たなければ友もできまい。ごらんよ、垣のところのスズメがタカを見て自ら網に引っかかった。仕掛けた人は喜んだが、若者(自分を指す)は悲しみにくれた。剣をはらって網を切るとスズメは飛びに飛び、青空まで届かんばかりだったが、今度は舞い降りて助けてくれた礼を言った。(そうしたいものだ。)
【語注】などは、Web漢文大系など参照。

詠懐 阮籍

其三
嘉樹下成蹊    嘉《よ》き樹として下に蹊《こみち》を成すは
東園桃與李    東の園の桃と李なれど
秋風吹飛藿    秋風の飛藿《ヒカク》を吹けば
零落從此始    零落は此《ここ》從《よ》り始まる
繁華有憔悴    繁華には憔悴有りて
堂上生荊杞    堂上には荊杞《ケイキ》を生ず
驅馬舍之去    馬を驅りて之れを舍《す》てて去り
去上西山趾    去りて西山の趾《ふもと》に上らん
一身不自保    一身すら自ずから保たざるに
何況戀妻子    何ぞ況《いわ》んや妻子を恋いん
凝霜被野草    凝《こご》れる霜は野の草に被《かむ》り
歳暮亦云已    歳,暮るれば亦た已《や》むを云えり

【語注】
嘉樹下成蹊:よい木のもとにはめでる人も多く集まり自ずからこみちができる 飛藿:豆の葉 繁華:はなやかな賑わい 堂上:宮殿の座敷 荊杞:いばら 西山:昔、伯夷と叔斉が、周の食べ物を拒否し、餓死したところ 凝霜被野草 秋の霜が凍り霜となり野の草を被う 云已:万事休す

阮籍は、竹林七賢の一人。客を迎えるに当たり、嫌な奴には、白眼を、歓迎するときは、青眼を向けたとある。いわゆる「白眼視」はここからの由来。時代は、こうした詩人にとって、決して軟なものではなかった。阮籍や陶淵明などは、刑死など免れた例外と言えるだろう。「政治の悪からのがれて山野にかくれようとしながら、なお仙化することも、餓死することもかなわず、心みだれて慟哭した彼の悲哀を、よく象徴するものといえる。」と高橋和巳は言う。

最後に、少々艶っぽい詩を二首。

子夜歌  其三 其七 普代呉歌

宿昔不梳頭 宿昔《しゅくせき》頭《こうべ》を梳《くしけず》らず
糸髪披両肩 糸髪《しはつ》両肩《りょうけん》を披《おお》う
婉伸郎膝上 郎《ろう》の膝上《しつじょう》に婉伸《えんしん》すれば
何処不可憐 何れの処《ところ》か可憐ならざる

始欲識郎時 始めて郎を識らんと欲せし時
両心望如一 両心《りょうしん》一の如きを望む
理糸入残機 糸を理《おさ》めて残機《(ざんき》に入る
何悟不成匹 何ぞ悟らん匹《ひつ》を成らざるを

訳文は、サワラ君の日誌を参照のこと。

六朝時代は、一癖も二癖もある詩人が多く、アクも強いが、それ故多感である。こうした傾向が民謡風の歌詞にも現れているのが興味を惹かれる。

とまれ、高橋和巳の文学は、それなりにアクチュアルだった時代から、半世紀が経った今は、その源も含め、トータルに向かい合わさなければならないのかもしれない。もっとも、彼の中国訪問の際の毛語録を読んでいるらしい「人民服」の姿は、「あの頃の文学者の多くが同じ心情だったんだ」以上の評価をすることしかできないし、あの時代、当方も含めて、中国に対して幾分「浮かれた」気分があったのだろう。

【参考】
・高橋和巳作品集 9 「中国文学論集」(河出書房新社)
・陳舜臣 「中国詩人伝」(講談社文庫)