日本人と漢詩(091)

◎梁川紅蘭と梁川星巌

先日、昨今のコロナ感染症(COVID19-9)後遺症の診療を精力的に取り組んでおられる医師の講演を拝聴した。現在わかっていること、解決の課題となっていることが、なかなかに整理されていた講演であった。後遺症(SNS などでは、long corona と呼ばれている。)の一部には、昔から「血の道を良くする」とされる漢方薬の当帰芍薬散が、効果があるらしい。(もちろん、個人差や症状の微妙な相違があるので、服用にあたっては、必ずかかりつけ医と相談することが必須である。)
当方も成分は少し違うが、山歩きなど「こむら返り」を起こした時に「芍薬甘草湯」を即効性の有る漢方薬として、重宝している。

ところで、梁川紅蘭にこんな漢詩がある。

階前栽芍藥 階前《かいぜん》に芍薬《しゃくやく》を栽《う》え
堂後蒔當歸 堂後《どうご》に当帰《とうき》を蒔《ま》く
一花環一草 一花環《ま》た一草
情緖兩依依 情緒《じょうちょ》両《ふた》つながら依依《いい》たり

語釈など]当帰:「当《まさ》に帰るべし」と夫の帰りを待ちわびる 花草に心を寄せる(どうして別れることがありましょうや)

また従兄弟で夫である梁川星巌が、旅に出て、留守宅で、薬草を育てていた時の作である。新婚当時で、夫が不在がちなので、親類からは「別かれては…」と勧められていたそうだ。当時は、こうして自家栽培で、それを収穫、煎じて、薬にしていたことが分かり、興味深い。

当時、紅蘭は美濃「梨花村草舎」(現在の大垣市)におり、夫から「三体詩」の暗誦を命ぜられていたが、みごとに全編を諳んじることで、帰宅した星巌を驚かせたという。無聊を慰めるため、江馬細香らの詩の集いに参加し、大いに腕を磨いたとある。孤閨にこりた紅蘭は、文政五年(1822年)、連れ立って西遊の長征の旅に出る。ときに、紅蘭十九歳。帰宅したのは、文政九年(1826年)、あしかけ4年の長丁場の旅路だった。途中の旅先で、その路銀の寡なさを記にしながらも、その頃詩名の高かった、頼家の人々や、菅茶山などと交友を深め、それが目的の一つだったのだろう、歓待、逗留の光栄に浴した。旅も三年目になると、望郷の念、耐えがたく、一首を残している。

紅事蘭珊綠事新 紅事は蘭珊《らんこ》として緑事新《あらた》なり
每因時節淚沾巾 時節に因《よ》るごとに涙は巾《きれ》を沾《うるお》す
遙知櫻筍登厨處 遥に知る桜筍《おうじゅん》厨《くりや》に登る処
姉妹團欒少一人 姉妹団欒《だんらん》一人を少《か》くらん

訳文など]桜、桃、杏の季節も過ぎ、すっかり新緑のときとなった。こうしためぐりの中で、涙がハンカチに溢れる。家では、さくらんぼや筍をが台所に並んでいるのに、姉妹は、仲良く歓談しているのに、私一人だけ不在なのだ。

彼女は、詩作にあたっては、三体詩をそらんじていたというから、王維の「九日山東の兄弟を懐ふ」を念頭に置き、詩のモチーフとして用いたと思われる。(日本人と漢詩(080)を参照)
一方、夫の星巌は、食道楽もあり、広島で牡蠣を食し、詩では、楊貴妃のおっぱいに見立てて表現している。ここらあたりは、遺稿を託された柏木如亭のひそみに習ったのかもしれないが、紹介は別の機会に…

天保五年(1834年)星巌は、江戸で「玉池吟社」を起こし、以来弘化二年(1845年)それを閉じるまでは江戸在住、以前紹介した大沼枕山などと広く交流したのだろう。天保という年号の時代、世の中は、天保の大飢饉、大塩平八郎の乱、蛮社の獄など大きく変動した、その最中である。
星巌は、良く言えば、用字など先鋭的な表現に工夫し、悪く言えば「僻字《へきじ》」(異常に奇異な文字)を用いるなど、奇をてらうところがあろう。こうした事は、現実世界への態度にも反映し、政治的には、ときに過激な行動を取らしめたのではないか?想像に過ぎないが、彼の主管した「玉池吟社」などは、「勤王志士」の情報交換の場だったかもしれない。対する、 旅先の彦根で知り合った(かもしれない)井伊直弼の懐刀・長野主膳には目の敵にされていたようだ。ところが、星巌は、明治維新を見ることなく、安政の大獄直前にその頃流行っていたコレラで急死する。紅蘭もそのとばっちりを受けて、半年間の牢獄の実となった、明治十二年(1879年)にこの世を去ったが、なかなか芯の強い女性であった。

最後に、梁川星巌が、大塩平八郎の乱の勃発を聞き及んだ時の詩

誰か仁義を名とし戈矛《かぼう》を弄《ろう》せん
清平《せいへい》に軍《いくさ》あることこれ天警《てんけい》
合党《ごうとう》多しといえども国讐《こくしゅう》にあらず
君子は情を原《たず》ね功罪《こうざい》を定めよ

訳文など]
仁義を名分として乱を起こすやつがいるか。やむにやまれぬ気持ちというのがあるのだ。天下泰平に内乱というのは天の戒めというやつだ。合力は多いが、国の仇にはなるまい。その事情と気持を察した上で、功績と処罰を決めるべきだ。

ここでは、白文を略する。「小説 渡辺崋山」には、七律とあるが、一、二句が対になっていないので、七言絶句の誤りだろう。星巌せんせー、至極当然の事をのべるなどなかなかやるじゃん。

写真は、当帰と芍薬の花(Wikipedia から)と二人の旅程図
参考図書】
・大原富枝「梁川星巌・紅蘭 放浪の鴛鴦」(淡交社)
・杉浦明平「小説 渡辺崋山」(上)

日本人と漢詩(080)

◎森川許六と王維、杜荀と柳宗元

江戸時代、荻生徂徠の古文辞学派の「盛唐詩」偏重の前は、日本では、三体詩(七言絶句、五言律詩、七言律詩の三詩型をいう)はじめの唐詩のみならず宋詩を含む詩集が実作の手本だった。江戸中期以降も、改めてその傾向は続く。それのみならず、多様な受け止め方がされるようになり、松尾芭蕉の弟子・森川許六の七五調を交えた訳文もその一つで、漢詩の受容のあり方として興味深い。

そもそも、現代も行われている、漢詩解説の、白文、読み下し文、語句の解説・典拠、訳文が確立したのは、いつの時代だったのだろう。遡れば、室町時代の「抄物」になるらしいが、いずれ紹介する機会があろう。

許六の「和訓三体詩」から、二、三首、比較的有名どころの詩の、注や訳文を挙げてみると、

九日懐山東兄弟 九日山東の兄弟を懐ふ 王維

獨在異鄕爲異客 独り異郷に在りて異客と為る
每逢佳節倍思親 佳節に逢ふ毎に倍《ます》々親を思う
遙知兄弟登高處 遥に知る兄弟高きに登る処
遍插茱萸少一人 遍く茱萸を挿して一人少なからん

*許六注 他国に旅寝すれば、他国のものになりたると云ふことなり。―中略―佳節は爰にては重陽を指す。王維十七歳の作なり。親にます〳〵孝心深きものなり。此詩微弱なれど孝子の情ます〳〵厚きゆえに称して世に伝ふ。九日に高きに登って茱萸をかくること、本註にくはし、日本洛陽にて茱萸を売る。家毎に買い取りて之をかく、是なり。

《詩意》京生れの人。年若にして東に下り。一とせ二とせを過ぎざるに関東の訛りを習ひ。都言葉は露ばかりも見えず。二階のろく台には、庭竈の春を思ひ。吾妻の柏餅をすゝめられては。鞍馬笹の粽を忘れずして。母の俤を慕ふ。殊に重陽の節は。古きを追ひ。東山の高きに登らむろて。姉は妹を負ひ兄は弟の手を引き。残らず茱萸《ぐみ》を買ひとりて。故郷の家に帰へらん。はらから打ちならびたる食時《めし》どきには。われ一人の膳を少《かゝ》さんと。旅の乏しきにうち添へ。一入故郷の空をおもひ出ける。
(解釈)重陽の日には家族小高い丘に登る「登高」 。佳節がめぐるたびに京の家族を思い出して、母や兄弟の姿を思いやり、自分ひとり欠けた膳が哀しく目に浮かぶのである。参勤交代の勤務が始まれば、東武にあって関東の言葉に馴染み、鞍馬笹の粽の味も遠い。家族を想う漢詩は和訳され俳文に整うと、より親族のぬくもりを表す。

現代語の語注や訳は、くらすらんを参考のこと。(解釈)の部分は、藤井美保子氏の論考からの引用。

酬曹侍御過象縣見寄 曹侍御が象縣を過きて寄せ見らるゝに酬ゆ 柳宗元
破額山前碧玉流 破額山前《はがんさんぜん》 碧玉の流れ
騒人遥駐木蘭舟 騒人遥に駐《とど》む木蘭《もくらん》の舟
春風無限瀟湘意 春風限《かぎ》りなし瀟湘の意
欲採蘋花不自由 蘋花を採《とら》んと欲するに自由ならず

*許六注 破額山は五祖寺のある所、碧玉の流は水の色なり。騒人は曹侍御をいふ。遥駐は象県というところまで来たるを聞き及びたりといふ意。木蘭の舟は舟をほめていふ詞なり。註にくはし。三の句、常に曹侍御が事を忘れず、思ひくらすといふ事、瀟湘は曹侍御が在りし所、四の句は早速罷り出で蘋花を採って迎へたけれども、流人の身自由ならずといふことなり。

《詩意》石山の麓《ふもと》勢多の流れに。木蘭《もくらん》の舟をつなぎて夜泊せる俳諧の翁いませりと遥に聞きけり。其風を慕ふ者、あるは官袴につながれ儘《まゝ》ならぬ身の恨に、春風の限りなきを添へたり。江東筑摩江には、蓴菜《じゅんさい》いたづらに肥えて、五老井の新茶はむなしく壺に朽ちたりとて、相訪らはざるうらみを述べたり。

現代語の語注や訳は、ティェンタオの自由訳漢詩を参照のこと

旅懐《りょかい》 旅の懐《おも》い 杜荀鶴悵

月華星彩座来収 月華星彩座し来れば収まる
嶽色江聲暗結愁 嶽色江聲暗に愁を結ぶ
半夜燈前十年事 半夜燈前十年の事
一時和雨到心頭 一時に雨に和して心頭に至る

*許六注 二の句暗の一字、流浪行く末のおぼつかなきを尽くせり。かたらふべき友なき一人旅、たしかにあらわれたり。嶽色江聲は月華星彩に対せる辞、和はあはするといふ心。全編客中の雨の慵《ものう》き事にて結ぶ。

《詩意》くたびれて宿かる頃の藤の花。月のたそがれ星の隈。雲に収まる峯の色。闇の川音すさまじく。旅の枕に寐ざめたり。夜半の灯撥き立てゝ。十とせ余りの流浪の身。居をうつすこと七所。一時にうかぶ胸の上。降り出す雨にまじへたり。

現代語の語注や訳は、日々是好日を参照のこと

《詩意》は、松尾芭蕉「くたびれて宿かる頃の藤の花」の句を敷衍したのだろう。また、杜荀は、杜牧の庶子で、父親の「遣懷」とのタイトルでの「十年ひとたび覚む揚州の夢、占め得たるは 靑樓 薄倖《はくこう》)の名」の名句を明らかに意識する。

村上哲見『三体詩・上』は、残念ながら、許六の「和訓三体詩」は、「詩意」のみの所収であるが、他の詩も紹介する機会がこれまたあろう。

参考】藤井美保子「森川許六『和訓三体詩』-「序」と「詩意」」

日本人と漢詩(016)

◎河上肇と王維


輞川《もうせん》に歸りての作 王維
谷口 疎鐘《そしょう》動き
漁樵《ぎょしょう》 稍《ようや》く稀《まれ》ならんと欲す
悠然《ゆうぜん》たり 遠山の暮
獨り白雲に向って歸る
菱《ひし》の實は弱くして定《さだま》り難く
楊花《ようか》は輕くして飛び易やすし
東皐《とうこう》 春草の色
惆悵《ちゅうちょう》して柴扉《さいひ》を掩《おお》う
もう、一回か二回、河上肇の話題にお付き合いください。2007年7月1日の旧文を若干改変しました。
彼は、獄中で、白楽天や蘇東坡など中国の詩人に親しんだらしく、とりわけ陸放翁に心酔し、後に詩の注釈書——放翁鑑賞(その六その七 )を書いたことは、一海先生もあちこちで書かれています。また、王維(王右丞)の詩にも心引かれ、妻宛の書簡(1934年11月20日付け)に
「最近に差し入れてもらった王右丞集は非常に結構です。「悠然たる遠山の暮、独り白雲に向うて帰る」と云つたような佳句に出会つて、飽くことを知らず口吟しながら、寝に就くと、やがて詩を夢に見ます。不愉快な夢を見るのと違つて実に気持が善いです。 」
とあります。
王維らしく、対句になるべき所に「佳句」が決まっている律詩です。人の世の煩いに例えた、菱の実や楊花という足元に見る春の景色も、人事を超越したとも言うべき、遠い山に懸かる白雲という大きな舞台にあればこそ、何か物悲しく惆悵とした感情を抱く、獄中での河上肇はそんな気分をこの詩から受け止めたのでしょうか。この他の詩にも、王維の詩には、「決め所」があるように思います。
「寒食汜上の作」
落花寂寂として山に啼く鳥
揚柳青青として水を渡る人
「積雨輞川荘の作」
漠獏《ばくばく》たる水田 白鷺《はくろ》飛《と》び
陰陰《いんいん》たる夏木 黄鸝《こうり》囀《さえ》ずる
「終南の別業」
行きて水の窮まる処に到り
坐して雲の起る時を看る
後の二例は、同時代の詩人から「剽窃」したとの非難があったそうですが、そんな評判を吹き消すくらい、不思議と律詩全体にうまくはめ込まれています。そんな「佳句」に出会って、自作の漢詩の対句へのインスピレーションが湧き、獄中でのつかの間の安らぎにせよ、心地良い夢をみたことでしょう。
・参考 「王維詩集」(岩波文庫)
画像は、王維画(とされる)「輞川圖」(視覚素養学習網より)