日本人と漢詩(103)

◎河上肇と陸游と一海知義

先日、劇団きづがわの「貧乏物語(井上ひさし作)」を観てきた。戦争中に、彼なりに「非転向」を貫いた、マルクス主義経済学者・河上肇が獄中にあり、その留守家庭を守る五人の女性たちの「対話劇」である。

獄中などで、河上肇が傾倒した陸游の詩に

文能換骨余無法 文能《よ》く骨を換《か》う 余《ほか》に法なし
学但窮源自不疑 学んで但《た》だ源を窮《きわ》め 自《みずか》ら疑わざるなり
歯豁頭童方悟此 歯はぬけ頭《かみ》うすくして 方《はじ》めて此を悟る
乃翁見事可憐遅 乃翁《われ》の事を見ること 遅きを憐れむべし

また、河上肇の「注釈」として、

「骨とは、…基本的な人格である。文は学問…どういう法か…徹底的に…窮めつくして、もはや他人が何と云おうと、どんな目に逢おうと、絶対に揺ぐことのない確信を得ること、…放翁はこう云う、…私の年来の主張と符合する…」

「すべての学者は文学士なり。大いなる学理は詩の如し」
と書く。彼の志が、周囲の人々にどう浸透したのか、河上肇の妻・ひで役を演じた、和田さん等の熱演でよく伝わった。しかし、より多く観客と共感する点では、もう一工夫も二工夫も必要ではなかろうか。上演会場の制約もあってのことだが、舞台全体もあまりにも「リアリズム」すぎて、装置の書割など、もう少し現代にシフトするつもりで、もっとデフォルメでもよかったのでは、と思う。衣装も「和服」主体ではなく、普通の洋装で、河上肇の肖像も、照明的な効果で、劇の進行に合わせて、だんだんシルエット的に大ききなるとか?また、「引用」される芝居が、ゴーリキーの「どん底」(決して古臭くなったわけではないが)ではなく、唐十郎の「腰巻お仙」とまではいかないが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」あたりでもいいのでは?そのほうがより「異化効果」があるかもしれない、いっそのこと、井上ひさしの戯曲の枠組みが、初めから決まっているなら、もう少し「崩して」もいいのではないか?彼の劇も、時代に合わせて書きあらためる時期になったのか、とふとそんな気もした。

河上肇の出獄後の詩から

天猶活此翁
昭和十三年十月二十日、第五十九回の誕辰を迎へて、五年前の今月今日を想ふ。この日、余初めて小菅刑務所に収容さる。当時雨降りて風強く、薄き囚衣を纏ひし余は、寒さに震えながら、手錠をかけ護送車に載りて、小菅に近き荒川を渡りたり。当時の光景今なほ忘れ難し。乃ち一詩を賦して友人堀江君に贈る。詩中奇書といふは、エドガー・スノウの支那に関する新著のことなり。今日もまた当年の如く雨ふれども、さして寒からず。朝、草花を買ひ来りて書斎におく。夕、家人余がために赤飯をたいてくれる
秋風就縛度荒川  秋風縛に就いて荒川を度りしは、
寒雨蕭々五載前  寒雨蕭々たりし五載の前なり。
如今把得奇書坐  如今奇書を把り得て坐せば、
盡日魂飛萬里天  尽日魂は飛ぶ万里の天。

青空文庫・河上肇「閉戸閑詠」

改めての注釈になるが、奇書とは、エドガー・スノウの「中国の赤い星」を指す。「奇書」の表現は、「三国志」「水滸伝」などの四大奇書の類ではなく、彼独特の韜晦だと、一海知義さんは言う。ちなみに河上肇は、アグネス・スメドレー「中国は抵抗する」にも涙したそうである。

もう一つ、一海知義「読書人漫語」の背表紙に、「渡頭」という陸游の自筆詩が載っていたので紹介。

蒼檜丹楓古渡頭  蒼き檜 丹(あか)き楓 古き渡頭(わたしば)
小橋橫處系孤舟 小橋 横たわる処に孤舟を繋ぐ
范寬只恐今猶在 范寛 只だ恐る 今猶お在りて
寫出山陰一片秋 山陰一片の秋を写し出だせりと

昔の絵に、陸游の詩が溶け込む、または、詩の背景に、昔の絵が浮かび出るような印象の、今の季節にふさわしい詩である。語釈などは略、Youtubeに、
「渡頭」陸游自書詩を読む という、書と詩の丁寧な解説があるので、参考のこち

参考】
一海知義「読書人漫語」(新評論)

日本人と漢詩(016)

◎河上肇と王維


輞川《もうせん》に歸りての作 王維
谷口 疎鐘《そしょう》動き
漁樵《ぎょしょう》 稍《ようや》く稀《まれ》ならんと欲す
悠然《ゆうぜん》たり 遠山の暮
獨り白雲に向って歸る
菱《ひし》の實は弱くして定《さだま》り難く
楊花《ようか》は輕くして飛び易やすし
東皐《とうこう》 春草の色
惆悵《ちゅうちょう》して柴扉《さいひ》を掩《おお》う
もう、一回か二回、河上肇の話題にお付き合いください。2007年7月1日の旧文を若干改変しました。
彼は、獄中で、白楽天や蘇東坡など中国の詩人に親しんだらしく、とりわけ陸放翁に心酔し、後に詩の注釈書——放翁鑑賞(その六その七 )を書いたことは、一海先生もあちこちで書かれています。また、王維(王右丞)の詩にも心引かれ、妻宛の書簡(1934年11月20日付け)に
「最近に差し入れてもらった王右丞集は非常に結構です。「悠然たる遠山の暮、独り白雲に向うて帰る」と云つたような佳句に出会つて、飽くことを知らず口吟しながら、寝に就くと、やがて詩を夢に見ます。不愉快な夢を見るのと違つて実に気持が善いです。 」
とあります。
王維らしく、対句になるべき所に「佳句」が決まっている律詩です。人の世の煩いに例えた、菱の実や楊花という足元に見る春の景色も、人事を超越したとも言うべき、遠い山に懸かる白雲という大きな舞台にあればこそ、何か物悲しく惆悵とした感情を抱く、獄中での河上肇はそんな気分をこの詩から受け止めたのでしょうか。この他の詩にも、王維の詩には、「決め所」があるように思います。
「寒食汜上の作」
落花寂寂として山に啼く鳥
揚柳青青として水を渡る人
「積雨輞川荘の作」
漠獏《ばくばく》たる水田 白鷺《はくろ》飛《と》び
陰陰《いんいん》たる夏木 黄鸝《こうり》囀《さえ》ずる
「終南の別業」
行きて水の窮まる処に到り
坐して雲の起る時を看る
後の二例は、同時代の詩人から「剽窃」したとの非難があったそうですが、そんな評判を吹き消すくらい、不思議と律詩全体にうまくはめ込まれています。そんな「佳句」に出会って、自作の漢詩の対句へのインスピレーションが湧き、獄中でのつかの間の安らぎにせよ、心地良い夢をみたことでしょう。
・参考 「王維詩集」(岩波文庫)
画像は、王維画(とされる)「輞川圖」(視覚素養学習網より)

日本人と漢詩(015)

◎一海知義と河上肇


辛未春日偶成 閉戸閑人
対鏡似田夫 鏡に対すれば田夫に似たり
形容枯槁眼眵昏 形容枯槁《ここう》 眼は眵昏《しこん》
眉宇纔存積憤痕 眉宇《びう》 纔《わず》かに存す 積憤《せきふん》の痕《あと》
心如老馬雖知路 心は老馬の如く 路を知ると雖《いえど》も
身似病蛙不耐奔 身は病蛙《びょうあ》に似て 奔《はし》るに耐《た》えず
今回は、木村蒹葭堂の話題から離れる。というのは、18日付の赤旗文化欄に経済学者・河上肇の紹介記事が、一海知義氏の執筆で掲載(漢詩閑談その2)されていたからだ。いつも、赤旗記事を丁寧にスキャンしておられるFB友のYさんの投稿にも見当たらないので、当方で用意した。
明治以来の日本の漢詩では、夏目漱石と河上肇が双璧だと思う。その内容の深みが他を圧倒するからだ。また、記事にあるように、「詩は志を云う」点では、河上肇をおいて他にないのではではないか。
一海知義氏は、河上肇も傾倒した中国・宋の詩人・陸游の詩を、一首づつ解説している「一海知義の漢詩道場」(岩波書店刊)のコラム欄で、河上肇の詩を、「揮毫」した色紙(河上肇のデリケートな内面が現れているような筆跡である。)とともに紹介し、漢詩を読む際の幾つかのハードルについて書いておられる。そのうちの一つが字句の意味である。上に挙げた漢詩について言えば、「形容」は姿かたち。枯槁は、枯れしなびる。眵昏は、目やにがたまってよく見えぬ。眉宇は眉と眉の間。後半二句は、別のハードル、中国古典からの「典故」が待ち構える。老馬は道を知っているがゆえに遭難した旅人を救うことができるという「韓非子」からの「引用」があると一海氏は説く。もっとも、肝心なのはこの詩の時代背景である。赤旗記事にあるように、河上肇が漢詩作法を覚えたのは、獄中の独学とある。しかし実際にはその詩作が多くなるのは、1937年(昭和12年)に出獄の後のこと。辛未春日偶成は、辛未とは、1941年(昭和16年)の作。出獄後、特高警察の監視のもと(監視下に漢詩を作るというのは、下手なダジャレだが…いずれにしても、特高も言葉の意味は理解の範囲外だったのだろう。)ひっそりと暮らしていた河上肇にとっても、否が応にでも、戦争の足音は聞こえてくる。たとえ、故事来歴を知らなくても、「積憤」という漢語に彼の込めた思いは深く、悲しい。