本職こぼれはなし(002)

「大阪保険医雑誌」から2024年新年号への投稿依頼が来た。お題は、「音」「音色」とある。少し、気が早いようだが、腹案らしきものがあったので、したためてみた。

【聴診器で「こころ」を聞く?】(最終稿)
 月並みではあるが、医者のシンボルといえば、頚にかけた聴診器であろう。医学史によると、聴診器が世にでてきたのは、思いのほか新しく、十九世紀初め、当初は、中をくりぬいた円筒形の木で、音を聴いていたようだ。やがて、十九世紀半ばには、耳に差し込む形の聴診器が発明され、現在の聴診器の原型となる。私の研修医時代は、オーベン(指導医)の先生方は、象牙製のそれを使っておられる方がわずかだがおられた。片方の耳栓がはずれても、平気な顔で診察されるのをみて、感心したりしたのも、思い出の一つである。実際に、象牙製を使わせてもらったが、片耳はおろか両耳でもさっぱり聴こえなかった。それ以来は、もっぱら、小児用の「リットマン」の聴診器を常用している。
 医学生時代、診断学に熱心な小児科の先生がいて、心肺音を録音したレコードを聞かせてもらった。大半は忘却のかなたになったが、その後、役立ったことが一つ、聴診からは離れるが、そのレコードに、子どもの「百日咳」の咳の様子-いわゆる「スタッカート・フステン」(音楽の符号のような連続的な咳)-があった。のちに三種混合ワクチンの事故で接種が一時中止となることがあり、百日咳がふたたび流行し始めた時、ある日の外来に、舌圧子で軽く咽頭を刺激すると、レコードの音と同じような咳をする子どもがやってきた。血液検査で、百日咳と診断治療することができ、事なきを得た。学生時代、講義聴講では熱心な方ではなかったが、印象に残る音は記憶の片隅に残るもので、その先生には改めて感服した。ほかには、今ではまるで旧式になったベビーバードという人工呼吸器―複雑な回路を見よう見まねで組み立てた-をつけた未熟児の片肺の呼吸音が突然聞こえなくなり、気胸と診断、外科部長の先生のサポートのもと、一番細いネラトンカテーテル挿入で脱気を試みて、山場を乗り切ったことや、複雑心奇形の児に、酸素飽和度を高めるため、人工的に心房中隔欠損を作成する治療方法(BAS バルーン心房中隔切開)をカテーテル下に試み、みるみるまにチアノーゼが改善した時は、「ばすっ」という音が聞こえた気がして、「なるほど、だからBAS(バス)と言うんだ」と妙に納得!など、音に関することは枚挙にいとまがない。
 こうした研修医時代の忙しさの中で、時には気分的に落ち込むこともあり、たまに映画でもと観たのが、黒澤明監督の、「酔いどれ天使」だったと思う。その中で、医師役の志村喬は、世の医者のアリバイ的な聴診を揶揄しながらも、相手のやくざ役、三船敏郎の胸を旧型の聴診器で聴診し、拇指と示指でまるを作り、「お前の胸には、これくらいの空洞があるぞ」と指摘していたシーンがあり、彼の五感の鋭さに、とうてい映画とは思えず、身震いした。CTもない時代にこんな診断ができるなんて、自らの無能とは関係なく、その医者の「神々しさ」には、新たな気持ちで憧れる思いだった。
 でも後日、気がついた。志村は三船に、実際の空洞を指摘しただけではなかった。表面はみえっぱりだが、それまでの阿漕な生活に嫌気がさしていたヤクザの「心の空洞」=「心の闇」をその聴診器で聞き分けていたのだ。
 今まで、聴診器で、志村医師なみに幾人を聴き得たかは、はなはだ心もとない。ましてや、この数年来のコロナ禍で、診察室でゆっくり聴診器を当てるのもままならないが、これからは、患者さんの「心(こころ)」まで聴き分けることができる医師でありたい、とは老医晩年に至った今の見果てぬ夢の一つである。

写真左は、Baby Bird 人工呼吸器(Bird 社カタログより)、私が使っていたのはもう少し前の機種でほとんど計器類もなく回路ももっと複雑だった。写真右は、黒澤明監督「酔いどれ天使」(聴診のシーン)(Youtube では、無料でスペイン語字幕付きで閲覧できる。)
「百日咳」の咳の様子は、城北病院作成の、Youtube 動画で聞くことができる。

日本人と漢詩(092)

◎佐藤一斎と潘岳とカズオ・イシグロ

先日、カズオイシグロ脚本による「生きる」を観てきた。オリジナルの黒澤明監督「生きる」をイギリスに置き換えたリメイク版である。息子には伝えきれなかった数々の思い…でも濃淡はありつつも周囲との関係の中で、幾許かは共有しながら、最期に公園のブランコに乗り、スコットランド民謡を唄う。志村喬とは、少し違った趣きがあり、見ごたえがある映画だった。主人公の過去にあった、亡き妻との永訣、その面影でも、映画脚本にあったらなら、もう少し深みがでてきたのかもしれないと、ふと思ったがそれは「無いものねだり」というものだ。

連れ合いを亡くした時の漢詩は、古来「悼亡詩」としてある。その嚆矢が、中国南北朝時代・西普の詩人・潘岳(247~300)のそれである。

悼亡詩 潘岳
荏苒冬春謝 荏苒《じんぜん》として 冬春謝《さ》り
寒暑忽流易 寒暑 忽《たちま》ちに流易《りゅうえき》す
之子歸窮泉 之の子 窮泉《きゅうせん》に帰し
重壤永幽隔 重壤《ちょうじょう》 永《とこし》えに幽《かく》し隔《へだ》つ
私懷誰克從 私懐《しかい》 誰《たれ》か克《よ》く従《したが》わん
淹留亦何益 淹留《えんりゅう》するも亦《また》何の益あらん
僶俛恭朝命 僶俛《びんべん》として朝命《ちょうめい》を恭《つつ》しみ
囘心反始役 心を回《めぐ》らして始役《しょえき》に反《かえ》らんとす
望廬思其人 廬《かりや》を望《のぞ》みて思其人
入室想所歷 室《へや》に入《い》りては歴《へ》し所を想《おも》う
幃屏無髣髴 幃屏《いへい》には髣髴《ほうふつ》無きも
翰墨有餘跡 翰墨《かんぼく》には余跡《よせき》あり
流芳未及歇 流芳《りゅうほう》 未だ歇《や》むに及ばず
遺挂猶在壁 遺挂《いけい》 猶を壁に在り
悵怳如或存 悵怳《ちょうよう》として或いは存するが如く
周遑忡驚惕 周遑《しゅうこう》として忡《うれ》いて驚惕《きょうてき》す
如彼翰林鳥 彼の林に翰《と》ぶ鳥の
雙栖一朝隻 雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く
如彼遊川魚 彼の川に遊《およ》ぐ魚《うお》の
比目中路析 比目《ひもく》して中路《ちゅうろ》に析《わか》るるが如し
春風緣隙來 春の風は隙《すき》に縁《よ》りて来たり
晨溜承簷滴 晨《あさ》の溜《あまだれ》は簷《のき》を承《つた》いて滴《したた》る
寢息何時忘 寝息《しんそく》 何《いず》れの時か忘れん
沈憂日盈積 沈憂《ちんこう》 日びにに盈《みち》積《つ》む
庶幾有時衰 庶幾《こいねが》わくは時に衰《おと》うるあらんことを
莊罐猶可擊 荘《そう》が缶《ほとぎ》猶《な》お撃《う》つべし

語釈などは「石九鼎の漢詩館」などを参照のこと。

訳文など、高橋和巳訳を参考にした。]冬と春は移ろい、寒暑もたちまち変わった。妻は、窮泉(よみの国)に帰り、土塊により永久に隔てられた。吾だけが思い続けても誰も分かってくれないし、そこにとどまっていてもなんの益があろうか。…だが、喪中の廬《いおり》や、わが家でもをみれば、彼女を思い出すし、とばり、屏風には、彼女の手跡が残っている。香りや琴も以前のまま、あたかもまだ居るように錯覚し、こころさわぐ。林のつがいの鳥が、一羽取り残されたように、また川を泳ぐ伝説上の比目魚が途中で分かれてしまったようだ。(「彼の林に翰《と》ぶ鳥の雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く」とは、「雙」と「隻」という漢字の字体の違いをうまく使った表現である。)春の風、朝の雨だれも、独り寝の身には、深い愁いがつのるばかり。いっそ昔、莊子がしたように妻を失ったとき酒甕をたたいてうたったようにしてみたいものだ。

愛日樓詩

西風直置不堪悲 西風ただ悲しみに堪えず
況復鰥鰥枕易攲 いわんや復《ま》た鰥々《かんかん》枕を攲《そばた》てやすきを
淡月黃蘆秋似畫 淡月黃芦、秋は画に似る
憶君水墨寫成時 憶う君が水墨写し成る時

訳文など]
秋風に悲しみはたえず、独り身になり、すっかり目ざとくなった。淡い月、黄の芦は画のようで、亡妻が水墨画を書いていた時を思い返す。「淡月黃芦、秋は画に似る」とは、うまい表現。潘岳の妻も絵心があったというから、一斎は、彼の悼亡詩からまともに影響を受けたのだろう。

晩春掃亡妻墓 晩春、亡妻の墓を掃《は》く
春老山村路 春は老ゆ、山村の路
到来敲梵扉 到り来て梵扉《ぼんぴ》を敲《たた》く
新墳芳草合 新墳、芳草合し
古道晩花飛 古道、晩花飛ぶ
先後倶長夜 先後倶《とも》に長夜
壽殤同一歸 寿殤同じく帰を一つにす
啼鴉覔棲樹 啼鴉《ていあ》、棲樹を覔《もと》む
暮景足歔欷 暮景、歔欷《きょき》するに足る

訳文など]
晩春の候、山路をたどって寺の門をたたく、新しい墓は香草に囲まれ、道は遅咲きの花が散る。生まれは違っても、いずれは偕老同穴なのだ、カラスがすみかを求めて啼いている夕暮れの景色にたたずんでいると、すすり泣きせざるを得ない。

晩年の作ではあるが、率直な悲しみが伝わる詩であり、彼の「人としての優しさ」もうかがえる。ここで思い起こすのは、すこし時を遡り、天保年間に、大塩平八郎は、乱の勃発直前に佐藤一斎に書状を差し出した。また、そのすこし前に、大塩が昌平黌の林述斎に、相当な額の資金を融通したとも言う。塾頭の一斎の反応は残っていないが、書状が残存していることから、一斎は、大塩の心情は充分理解していたのではあるまいか?そのことが、彼の立場を微妙なもののしてしまい、蛮社の獄では、「日和見」的な態度に終止したのではとも思う。彼が、言志録にある「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む」のを言葉とおりに実行していたなら、また違った結末になったかもしれない。それが彼にとっても。「生きる」ということに繋がったのでは、とふと夢想してみる。

参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波書店 同時代ライブラリ)
・高橋和巳作品集9(河出書房新社)