読書ざんまいよせい(049)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(017)
「題材 ・ 断想 ・ 覚書 ・ 断片」から
付き】「可愛い女」「おでこの白い仔犬」雑感

 もとは、松下裕氏の訳書にあるので、孫引きになるが、阿刀田高氏が、「レーニンのある文章で、メンシェヴィキだったかの論敵を揶揄して、「チェーホフの『可愛い女』のように、支配勢力にすり寄ってゆくだろう」と書いている。自分の作品がこんなところで利用されるなんて、草葉の陰でチェーホフもびっくりしたことだろう。また、「可愛い女」=悪女説も根強かったのだろう。でも、昨今を考えれば、KM党首などは、そんな役割なんだと、ふと思いついた次第。

ここから
題材・断想・覚書・断片(01)

 ……何という馬鹿げたことだろう。第一、何という偽善だろう。相手をやりこめて、不愉快な思いをさせるのがその男の目的なら、何もグラノーフスキイ*なんかを持ち出す必要はないではないか。
 私は傷めつけられ散々に侮蔑された感情を抱いて、グリゴーリイ・イヴァーノヴィチの家を後にした。私は美辞麗句や、美辞麗句に隠れる連中に対する憤懣の念で、胸が一ぱいだった。家に帰る途々こう考えた。――或る者は社会を罵り、或る者は俗衆を罵る。過去を讃美し現代を非難して、理想がないなどと喚き立てる。だがそんなことは、二三十年前にもやはり言われたことではないか。それはもう役目を勤め上げて、廃れ物になりつつある紋切型ではないか。そして今日それを繰り返す者は、自分が若さを失って、時代に遅れつつあることを白状することになる。昨年の落葉の中に埋れる者は、昨年の落葉とともに朽ちるのだ。私は考えているうちに、こんな気もしはじめた――今や時勢におくれつつある無教養なわれわれ、喋ることは俗っぽく、考えつくことは陳腐なわれわれは、すっかり黴が生えているのではあるまいか。われわれがインテリ仲間同士で古びた襤褸の山を掻きまわしたり、昔ながらのロシヤ流儀で啀み合いをやったりしているひまに、われわれの周囲には何時の間にか、見も知らぬ別の生活が沸き立っているのではあるまいか。「睡り娘」みたいなわれわれに、やがて突如として大事件が襲いかかるだろう。その時になって諸君は、商人のシードロフだのエレツから出て来た郡立学校の教師だのという、われわれなどより眼も見え知識もひろい人間が、われわれを舞台のずっと後方へ追いやるのを見るだろう。何故なら彼等はわれわれ皆んなを束にしたより働きがあるからだ。また私は思った――私達が互いに啀み合いながら、瞬時も喋々することをやめない言論の自由を、いま突然与えられたとしたら、私達ははじめのうちはその使い途に困るに相違ない。折角のその自由を、互いのスパイ的行為だの財慾だのを新聞紙上で暴露し合うことに濫費するのが落ちではあるまいか。そしてわが国には人間らしい人間も、科学も、文学も、何から何まで一切ありはしないという怖るべき事実を、社会に向って立証するのが落ちではあるまいか。ところでこんな事実を突きつけて社会を慴えあがらせることは、われわれが現にやっていることだし今後もやることだろうが、みすみす社会の勇気を挫くことになるのだ。つまりわれわれは社会的意義も政治的意義も持っておらぬということをはっきり裏書きすることになるのだ。また私は考えた――新しい生活の曙光が射さぬうちに、われわれは縁起でもない老婆や老人になり果てて、その曙光から厭わしげに顔をそむけ、他に率先してその曙光を讒誣中傷するようになるであろう。……
*西欧派の有名な思想家。(一八一三―五五)

 ――ママはしょっちゅう貧乏話ばかりするんです。それがとても変なんです。なぜ変かっていうと、第一私達は貧乏で、乞食みたいに人様の情に縋っているくせに、結構な食事を頂いてますし、こうして大きな邸にいますし、夏には田舎の持村へ避暑をしますし、一向に貧乏人らしくないんですからね。きっとこれは貧乏じゃなくて、何かしら別の、もっと悪いものなんでしょうよ。第二に変なのは、もう十年このかたママは利払いのお金を工面するだけのことに精根涸らしているんです。あれだけの精力があるんなら、それを何かほかのことに使ったら、今じゃこんな家は二十軒ぐらい建っていはしないかと思いますね。第三に変なのは、私達の家の一番つらい仕事はママが背負っていて、私の肩にかからないことです。これが私には一ばん不思議で、気味のわるいことなんです。ママは、今しがたも自分で言ってましたが、ちゃんと考えがあると言うんで、そこらを頼み廻って肩身の狭い思いをしています。借金は日ましに殖えるばかりですが、私は今の今までママの手助けは何一つしないのです。それに、この私に何が出来ましょう。私はいくら考えて見ても、何にも分らないんです。私にはっきり分っていることは唯ひとつ、私達は坂道をぐんぐん降りて行くところだということだけです。先に何があるか――そんなこと誰が知るもんですか。今にも私達は貧乏のどん底に沈みそうだという話ですし、貧乏は恥辱だとかいうことも聞きますが、何しろまだ貧乏をしたことがないので、それも私には分らないんです。

 あの婦人たちの頭の中味は、その顔色や服装と同様に灰いろで色つやがない。彼女達が科学だの文学だの傾向だのといった話をするのは、彼女達が学者や文学者の妻なり姉妹なりだからに過ぎない。彼女達がもし警察署長か歯科医の妻なり姉妹だったら、きっと火事や歯の話を、同様の熱心さでするに相違ない。縁もゆかりもない科学の話を彼女達にさせて置いて、黙って聴いているのは、とりも直さずその無学に阿ることである。

 もともとそんなことは、みんながさつで愚劣なことなんです。詩的な恋愛なんて言ったって、山の上から無意識に落ちてきて人を圧し潰す雪崩みたいな、無意味なものに思えるんです。ところが音楽を聴いていると、そうした一切――つまり何処かの墓の下で睡っている人もあれば、命びろいをして、白髪婆さんになっていま劇場のボックスに収まってる女もある、といったようなことは、安らかで荘厳なことのような気がして、あの雪崩にしろもう無意味なものとは思えないんです、だって大自然の中には、何一つ意味のないものはないんですからね。そして一切は赦されるんです。赦さなけりゃ可笑しいんです。

 古くなって、そろそろ用をしなくなったソファや腰掛や寝椅子を、鄭寧に労わるオリヴ・イヴァーノヴナの様子は、老いぼれた犬や馬に対するときと同じだった。したがって彼女の部屋は、さながら家具の養老院とでもいった風な有様だった。鏡のまわりにも、どの卓子の上にも、どの飾棚の上にも、半ば忘れられた人々の一向に見栄えのしない写真が立ててあって、壁には今まで誰一人として眺めたことのない絵が掛けめぐらしてあった。青い笠をしたランプがたった一つともっているだけなので、部屋の中はいつも暗かった。

 君が「前へ」と叫ぶ時には、前へとはどっちのことなのか、必ずその方角を示し給え。もし方角を示さずに、この言葉で坊さんと革命家とを同時に焚きつけたら、彼等は全くちがった道を進むだろうことを認め給え。

 聖書のなかに、「師父たちよ、爾の子等が心を騒がすな」とあります。身持のわるい出来損いの子等にさえそうせよというのです。ところがうちの坊さんたちは僕をいじめるんです、ひどくいじめるんです。すると朋輩が、いいも悪いもなしにその真似をします。若僧がまたその真似をします。で私は、しょっちゅう結構な言葉で顔をぶたれています。

 叔母さんが心の苦しみを顔色に出さないのを見て、彼はまるで手品のようだと思った。

 O・Iはしょっちゅうそこらを歩き廻っている。ああした女というものは、蜜蜂と同じに、授精力のある花粉を撒いて歩くものである。……

 金持から嫁は貰うな――亭主の方が追い出される。貧乏人から嫁は貰うな――夜もろくろく眠られぬ。同じ貰うなら、自由きままなコサック気質の女を貰え。(ウクライナの諺)

 <ここから太字>アリョーシヤ<ここまで太字> よく世間の人がこう言いますね、「婚礼までが花なのさ。婚礼は――さらば夢よ幻よ! さ」なんて。一たい何という情味のないがさつな言い草でしょう!

 梭魚《かます》の跳ねる水音が好きなうちは、その人は詩人だ。あれは強者が弱者を追う音に他ならぬと知るならば、その人は思想家だ。さて彼が、この追跡にはどんな意味があるか、駆逐によって得られる平衡がなぜ必要なのかを覚らないならば、彼は再び子供の頃のように馬鹿で痴鈍になる。そして物を知れば知るほど、考えれば考えるほど、益〻馬鹿になる。

 <ここから太字>赤ん坊の死<ここまで太字>。やっとこれで一安心と思えば、忽ちまた運命の平手打ちさ!

 神経質で心配性で子煩悩の牝狼が、冬籠りの番人小屋で小犬の「額白《しろ》」を攫った。羊の仔と思い違えをしたのである。彼女はかねがね、そこには牝羊がいて、子どものあることを知っていた。「額白《しろ》」を攫って逃げ出すと、誰か不意に口笛を吹いた。彼女はあわてて小犬を口から取り落したが、小犬は後からついて来た。……無事に窩まで辿りついた。小犬は狼の仔たちと一緒に彼女の乳を吸うようになった。次の冬が近づいても小犬は殆んど変らなかった。ただ少し痩せて、脚が長くなって、額《ぶち》の白い斑がちょうど三角の形になった。牝狼はからだが弱かった。*
*これは短篇『額白《しろ》』(一八九五年)の一部分をかい摘んで述べたもの。

 『額白《しろ》』は、「おでこの白い仔犬」などの題名で、いくつか翻訳されているが、数は意外と少ない。チェーホフの数編ある「児童文学」の一つ。グリムと違って、オオカミもほほえましく描かれている。
そこで、原文(ロシア語)からの、機械翻訳を試みた。比較のために、「沼野充義訳チェーホフ短篇集 集英社」から冒頭部分の引用。

 腹ぺこの母さん狼がむっくりと起き上がりました。狩りに行こうというのです。狼の子供たちは全部で三匹、ひとかたまりになり、お互いに体を温めあって、ぐっすり眠っています。母さんは子供たちをぺろりとなめ回してから、出かけました。

以下、翻訳だが、多少のぎこちなさはあるが、意は通じるので掲載する。

ロシア語タイトル Белолобый(白い額)

お腹を空かせた雌オオカミは狩りに行くために立ち上がった。彼女の子オオカミは3匹とも、体を寄せ合って温め合いながらすやすやと眠っていた。彼女は子オオカミたちを舐めると、出発した。
すでに3月の春だったが、夜になると木々は12月のような寒さでひび割れ、舌を出すのもはばかられるほどだった。雌狼は体調が悪く、疑心暗鬼に陥っていた。ちょっとした物音に身震いし、誰かが自分なしで家の狼を傷つけないか、ずっと考えていた。人や馬の足跡、切り株、積み上げられた薪、そして暗い手入れされた道の匂いが彼女を怯えさせた。暗闇の木々の向こうに人がいて、森の向こうのどこかで犬が吠えているように彼女には思えた。
彼女はもう若くはなく、勘も鈍っていた。そのため、キツネの足跡を犬の足跡と間違えることもあったし、若い頃にはなかったことだが、勘に惑わされて道に迷うことさえあった。健康状態が悪かったため、以前のように子牛や大きな雄羊を狩ることはなくなり、仔馬を連れた馬にはすでに遠く及ばず、腐肉だけを食べていた。新鮮な肉を食べることはめったになく、春に野ウサギに出くわしたとき、子供を連れ去ったとき、子羊のいる納屋に入ったときだけだった。
彼女の巣穴から4メートルほど離れた、街道沿いに冬の家があった。イグナットは70歳くらいの老人で、咳をしながら独り言を言っていた。彼は整備工だったに違いない。停車する前にはいつも、「止まれ、車!」、そして発進する前には 「全開だ!」と叫んでいた。彼と一緒にいたのは、アラプカと名付けられた犬種不明の巨大な黒い犬だった。アラプカが遠くまで走っていくと、彼はアラプカに叫んだ: 「リバース!」。時々彼は歌いながら、激しくよろめき、しばしば転んで(雌狼は風のせいだと思った)叫んだ: 「レールから外れた!」
女狼は、夏と秋に雄羊と2匹のヤルカがウィンターハウスの近くで草を食んでいたことを思い出した。そして今、小屋に近づくにつれ、彼女はもう3月であり、時間から判断して馬小屋には子羊がいるに違いないと気づいた。空腹に苛まれながら、彼女はその子羊をどんなに貪欲に食べるだろうかと考えた。そのような考えが、彼女の歯をカチカチと鳴らし、暗闇の中で目を二つの光のように輝かせた。
イグナートの小屋、納屋、馬小屋、井戸は高い雪の塊に囲まれていた。静かだった。アラプカは納屋の下で寝ていたに違いない。
雌狼は雪渓を登って馬小屋に行き、前足とマズルで藁葺き屋根をかき集め始めた。藁は腐って緩んでいたため、雌狼はもう少しで落ちそうになった。突然、暖かい湯気と糞と羊乳の匂いに顔を打たれた。下界では寒さを感じたのか、子羊が小さく吠えた。穴の中に飛び込んだ雌狼は、前足と胸で柔らかくて暖かいものの上に倒れ込んだ。
彼女は力を振り絞って走り、同時にすでに狼の匂いを嗅ぎつけたアラプカが激しく吠え、小屋では不穏な鶏が鳴き、ポーチに出てきたイグナットが叫んだ:
– 全速力で!笛を吹け!
そして機械のように口笛を吹き、そして……ゴーゴーゴーゴーゴーゴー!……。そしてこの騒音はすべて、森のこだまとなって響き渡った。
少しずつ静まり、雌狼は少し落ち着くと、歯で掴んで雪の中を引きずっていた獲物が、この時期の子羊よりも重く、まるで硬いことに気づき始めた。雌狼は立ち止まり、荷を雪の上に置いて休み、食事を始めた。それは子羊ではなく子犬で、黒く、頭が大きく、足が高く、大型の犬種で、額にはアラプカと同じ白い斑点があった。その様子から察するに、ただの雑種である。アラプカは傷だらけの背中をなめると、何事もなかったかのように尻尾を振り、雌狼に向かって吠えた。彼女は犬のように唸り、彼から逃げ出した。狼は後を追った。彼女は振り返って歯を鳴らした。彼は困惑して立ち止まり、おそらく彼女が自分と遊んでくれていると思ったのだろう、マズルを小屋の方角に伸ばし、まるで母親のアラプカに自分と雌狼と一緒に遊ぼうと誘っているかのように楽しそうに吠えた。
すでに明るくなり、雌狼が鬱蒼としたアスペンの茂みの中を進むと、どのアスペンの木もはっきりと見え、すでにライチョウが目を覚まし、美しい雄鶏が子犬の不注意な跳躍や吠え声に邪魔されてよく鳴いていた。
「どうして私を追いかけてくるの?- と雌狼は腹立たしく思った。- 私に食べてもらいたいに違いない」。
3年前の大嵐のとき、背の高い老松が根こそぎ倒れて穴ができた。穴の底には古葉と苔が生え、骨や牛の角があり、子オオカミたちはそれで遊んでいた。子オオカミたちはすでに目を覚ましており、3匹ともよく似た姿で穴の縁に並んで立ち、尻尾を振って母オオカミの帰りを見つめていた。子犬は3匹を見つけると、少し離れたところで立ち止まり、長い間2匹を見ていた。
太陽はすでに夜が明けて昇り、辺り一面雪が光っていたが、彼はまだ遠くに立って吠え続けていた。仔犬たちは母犬に乳を飲ませ、前足で母犬の痩せた腹に押し込み、母犬は白く乾いた馬の骨をかじっていた。彼女は空腹で、犬の吠え声で頭が痛く、招かれざる客に突進して引き裂いてやりたかった。
とうとう子犬は疲れて声を荒げた。自分が恐れられておらず、注目すらされていないのを見て、彼は狼の子供に近づき、しゃがんだり飛び跳ねたりし始めた。さて、日中になると、彼を見るのは簡単だった……。目は小さく、青く、つぶらで、顔全体の表情は極めて愚かだった。子オオカミに近づくと、前足を大きく伸ばし、マズルを子オオカミの上に置いて、こう言った:
– ムニャ、ムニャ…」。ムニャ、ムニャ…」。
子オオカミたちは何も理解せず、尻尾を振った。それから子犬は前足で狼の子の大きな頭を叩いた。オオカミの子も前足で子犬の頭を殴った。子犬は狼の横に立ち、尻尾を振りながら横目で狼を見た。カラスたちは彼を追いかけ、彼は仰向けに倒れて足を上げた。3羽のカラスが彼に襲いかかり、歓喜の声を上げながら、痛くはないが冗談のように噛み始めた。カラスたちは高い松の木の上に座り、上から彼らの争いを見ていた。騒がしくなり、陽気になった。太陽はすでに春に燃えており、嵐で倒れた松の木の上を時々飛んでいたにわとりたちは、太陽のきらめきに照らされてエメラルド色に見えた。
そして今、子オオカミたちが氷の上で子犬を追いかけ、格闘しているのを見て、雌オオカミは思った:
「そして今、子オオカミが氷の上で子オオカミと追いかけっこをしたり、取っ組み合いをしたりするのを見て、雌オオカミはこう思った。
遊び終わると、子オオカミたちは穴に入って寝た。子犬は少しお腹を空かせ、それから太陽の下で伸びをした。そして目が覚めると、また遊び始めた。
雌狼は一日中、そして夕方になっても、昨夜馬小屋で子羊が鳴いていたこと、そしてそれが羊の乳のにおいがしたことを思い出していた。トカゲは乳を吸い、お腹を空かせた子犬は走り回り、雪の匂いを嗅いだ。
「私が食べよう…」。- 雌狼はそう決めた。
彼女は子犬に近づくと、子犬は彼女のマズルを舐めて鳴いた。以前は犬を食べたこともあったが、その子犬は犬の臭いが強く、弱っていた彼女はその臭いに耐えられなくなった。
日暮れには寒くなった。子犬は寂しくなって家に帰った。
子オオカミが眠りにつくと、雌オオカミは再び狩りに出かけた。前の晩と同じように、彼女はわずかな物音にも警戒し、切り株や薪、暗くて寂しいジュニパーの茂みにおびえた。彼女は道から離れ、氷の上を走った。突然、はるか前方の道路に何か暗いものが光った……。視覚と聴覚を研ぎ澄ますと、確かに何かが歩いている。アナグマだろうか?彼女は用心深く、わずかに呼吸を整え、すべてを脇に置いて、暗い場所を追い越し、振り返って見た。額の白い子犬が冬の家に戻ってきたのだ。
「もう二度と邪魔されたくない」と思った雌狼は、すぐに前へ走った。
しかし小屋はもう間近だった。彼女は再び雪の吹きだまりを登って馬小屋に向かった。昨日の穴はすでに春藁で埋まっており、屋根には新しい足跡が2本伸びていた。雌狼は足と口輪を素早く動かし、子犬が来るかどうか見回したが、温かい湯気と糞尿の臭いがしたかと思うと、後ろから湧き上がるような喜びの吠え声が聞こえた。子犬が戻ってきたのだ。子犬は屋根の上の雌狼に飛びつき、それから穴の中に入り、暖かさの中でくつろぎ、自分の羊を見つけると、さらに大きな声で吠えた……。アラプカは納屋の下で目を覚まし、狼の匂いを嗅ぎつけて吠え、鶏は鳴き、イグナートが単発銃を持ってポーチに現れたときには、怯えた雌狼はすでに小屋から遠く離れていた。
– フユット!- とイグナットが口笛を吹いた。- フユート!全速力で走れ
引き金を引くと銃は誤射し、もう一度引くとまた誤射し、三度目に引くと銃身から大きな火の束が飛び出し、耳をつんざくような「ブー!ブー!」という音がした。彼は肩に激痛を感じ、片手に銃、もう片方の手に斧を持ち、何の音か見に行った……。
しばらくして、彼は小屋に戻った。
– どうしたんだ?- その夜一緒に寝ていて、物音で目を覚ました旅人が、かすれた声で尋ねた。
– なんでもない – イグナートは答えた。- 何でもないよ。私たちのリスフットは、暖かいところで羊と一緒に寝ていたんだ。でも彼はドアの中じゃなくて、屋根の上で寝たいんだ。昨日の夜、屋根を解体して散歩に出かけたんだ。
– バカだ。
– そう、私の脳内の泉が破裂したのだ。死は愚か者を好まない!- イグナートは炊事場に登ってため息をついた。- まあ、まだ起きるには早いし、寝るか……」。
そして朝になると、イグナートはベロロボゴを呼び寄せ、耳のあたりを痛いほど引っ掻いた:
– ドアへ行け!ドアへ行け!ドアへ行け!ドアへ行け!」!

・参考】
ロシア語原文のサイト
・阿刀田高「チェーホフを楽しむために」 新潮社

中井正一「土曜日」巻頭言(03)

 今回は、すこし掲載順を変え、「土曜日」第十五号( ー九三六年八月十五日)から…

◎虚しいという感じだけに立ち止まるまい

 人は営みの嵐音の中で、すき間を洩れる風のような不思議な想いにめぐりあうことがある。
 何故こんなに多くの人々が歩いているのか。何故こんなに多くの人々が苦しんでいるのか、何故苦しみがあるのか。何故こんなに忙しいのか、何故人は笑っているのか、何故泣いているのか。
 小さな子供が母親にいくらでも問いかける問のような、何か大きな問が、次から次へと追いかけるように、止まることなく湧いてくることがある。
 それは想いというよりは、一つの感じである。自分にもわからない一つの心の動きである。そよそよと吹く風が、大気の全体を音もなく動かしているような、あらゆるものを親しく撫で、触ってゆく微かな感じである。
 そしてそこに漲るものは、大きな虚しさである。このすべての営みが全体をあげて、寥々たる無の中に沈んでゆくのではないかという感じである。
 それは実に太古の民もが、大きな自然や、激しい人生に臨んで、いだいた感じであり、その時代その時代において、その色合いが変わりその現わしかたが違ってきた想いである。そして、その想いの中に立ち止まって、それを、「道」にまで変えてきたことが度々である。
 しかし、大切なことは、この感じを、この虚しさだけに立ち止まらせては、ものを半分で止めて打ち切っているのだと気づくことである。
 すべての物のさながらな生きいきした動きが、いろいろのものに拒まれ、いろいろのものによってそらされていることを、微かにも気づいた人間の心が、この感じである。利刃のような鋭さをもって切り裂いているこのいいあらわしようのない豊富な人間の心が、この漠然とした感じである。この大きな虚しい心である。この虚しい心は、虚しさだけで立ち止まってはならない。この感じこそすべての行動のはずみとしての感情の基礎であり、知識の源である。批判の精神の原始的な無尽の蔵である。
 烈々とした、人間の明日へののぞみに直ちに打ち変わる原鉱であり、ほんとうの知恵の嵐の最初の微風である。それは手離さないことによって、人間のあらゆる正しい行動の原動となる至宝である。
『土曜日』はかかる宝のいっぱいにみちている倉庫である。

編者注】
 総選挙も終わり、「虚しいという感じだけ」の現在の心境にピッタリのタイトルである。これから各政党で虚々実々の駆け引きが盛んになるだろう。そういう意味では「激動の時代、先のわからない時代」の訪れである。その中では、その場限りの言い訳や当たり障りのない言葉、もっときつく言えば、嘘、騙し、虚偽の言葉などやがて削ぎ落とされるに違いない。沖縄から、ほんのりと風があったが、「ほんとうの知恵の嵐の最初の微風」を感じたかどうかはおぼつかない。人々の暮らしの営みを静かに、しかもしっかりと見守ってゆくしかないのかもしれない。この巻頭言が書かれた九年後に、日本が迎えた敗戦の日を、それに至る狂気の戦争の日々を含め、絶対に来ささないためにも。

 図は、「土曜日」に掲載された、京都市の喫茶店の広告。なかには、今も続いている店もあるという。