日本人と漢詩(090)

◎葛子琴と頼山陽


前回も述べたように、葛子琴は、木村兼葭堂と縁の深い混沌詩社のいわば盟主。木村兼葭堂への賛詞は以前に記した。

頼春水も渡った、玉江橋が完成した時の作。

玉江橋成 葛子琴

玉江晴度一條虹 玉江《ぎょっこう》 晴れて度《わた》る 一条の虹
形勢依然繩墨功 形勢 依然たり 縄墨《じょうぼく》の功
朱邸綠松當檻映 朱邸《しゅてい》 緑松《ろくしょう》 檻《かん》に当たりて映じ
紅衣畫舫竝橈通 紅衣《こうい》 画舫《がほう》 橈《かじ》を並べて通ず
蹇驢雪裡詩寧拙 蹇驢《けんろ》 雪裡《せつり》 詩寧《なん》ぞ拙《せつ》ならん
駟馬人閒計未工 駟馬《しば》 人間《じんかん》 計《けい》未だ工《たくみ》ならん
南望荒陵日將暮 南のかた 荒陵《こうりょう》を望めば 日将《まさ》に暮れんとし
浮圖湧出斷雲中 浮図《ふと》湧出《ゆうしゅつ》す 断雲《だんうん》の中《うち》

首聯と頷聯の語釈、訳文は、サワラ君の日誌を参考のこと、そこには訳文として、

玉江橋 晴れわたる 一筋の虹のごとし
その姿 以前のままに 完成
諸藩の蔵屋敷 緑の松 欄干の水際に映り
派手な衣装 色艶やかな遊覧船 橈(かじ)を並べて通う

とある。頸聯、尾聯と続けると、
「この橋のたもとに住む私が、雪の中、ロバ上での詩は、下手なわけはないと思うが、四頭立ての馬車に乗るほど出世したかった司馬相如のように、作詩の工夫は上達しそうにない。南の方には、天王寺方面の高台には、日が暮れようとし、四天王寺五重の塔が雲のあいまから湧き出て見えている。」
玉江橋を南北に通る、なにわ筋を南に眼をやると、天王寺の五重の塔が見えたことは、前に述べた。「浪華風流繁盛記」の挿絵にも、遠景として描かれている。

頼山陽は、子琴を「混沌社の傑材」として称賛する。

論詩絶句 其十六
浪速城中朋童箸 浪速《なにわ》城中に朋童箸《あつま》り
猶従嘉蔦索金銭 猶ほ嘉蔦に従って金銭を索《もと》む
廷証混沌新穿薮 廷証たる混沌に新たに薮《あな》を穿《うが》つは
唯有多才葛子琴 唯だ多才有るのみ 葛子琴

竹村則行氏「頼山陽の論詩絶句と哀枚の論詩絶句」より

子琴の作品は、五言、七言の古詩など力作長編詩も多いが、ここでは、今の季節感に満ちた五言律詩を一首。

端午後一日芥元章見過留酌 端午後一日《たんごごいちにち》。芥元章《かいげんしょう》過《す》ぎらる、留め酌《しゃく》す
風烟堪駐客 風烟《ふうえん》 客を駐《とどむ》るに堪《た》う
落日一層樓 落日 一層《いっそう》の楼
緑樹連中島 緑樹《ろくじゅ》中の島に連なり
靑山擁上游 青山《せいざん》 上游《じょうゆう》を擁《よう》す
采餘河畔草 采《と》り余《あま》す 河畔《かはん》の草
競罷渡頭舟 競《きそ》い罷《や》む 渡頭《ととう》の舟
不但殘蒲酒 但《た》だに蒲酒《ほしゅ》を残《ざん》するのみならず
簾櫳月半鉤 簾櫳《れんろう》 月半《なか》ば鉤《こう》す

語釈など]端午の翌日の作 芥元章:京都の儒者、子琴より二十九才年長 風烟:かぜにたなびく靄 一層の楼:唐・王之渙「登鸛鵲楼」より「更に上る一層の楼」より 緑樹 中の島に連なり:今より中の島は緑豊かだった 青山 上游を擁す:上流には、金剛、葛城などの山々が連なり 采り余す 河畔の草 競い罷む 渡頭の舟:屈原の入水にちなんで、薬草を採取したり、舟競争を行ったり 蒲酒を残する:厄払いに少なくなった菖蒲酒を飲み 簾櫳 月半ば鉤す:すだれ窓に、(旧暦なので)三日月の倍くらいの六日月がかかる

葛子琴の墓は、大阪市北区栗東寺にあるが、写真のように、表面が剥げ落ちている。どうか、なんとかならないものだろうか?生粋の浪華詩人であるだけに、復元整備を切に望みたい。また、機会あれば、葛子琴の作品を紹介することにする。

写真は、「浪華風流繁盛記」より、落成当時の玉江橋、大阪市HPより、玉江橋顕彰碑、子琴の旧居近く、橋の北詰めにあるが、彼の名前は出てこない。 葛子琴の墓碑(栗東寺)(参考文献から)

・参考文献】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」
・中村真一郎「木村兼葭堂のサロン」

日本人と漢詩(089)

◎中村真一郎と頼春水、木村兼葭堂

中村真一郎の「漢詩三部作」のうち(「頼山陽とその時代」、「蠣崎波響の生涯」と本書)「木村兼葭堂とそのサロン」での執筆動機の序章は、思いの外、情緒的でもある。
まず、戦争中に、書信を持って、励ましてくれた師ともいえる人物が三人、片山敏彦、吉満義彦、それと、「フマニスト(人文主義)」に対して強固な信念を持ち続けた渡辺一夫の名を挙げる。それに続けて、戦後の日本に対しても、

それは手のつけられない混乱と分裂の有様であり、極めて優秀な若者が生長しつつある反面、単なる日本猿の親戚に過ぎない、絶望的な未開の大衆も生産しつつある。ある種のテレビのお笑い人物とか称するもののなかには、動物園以下のもの、人間の言葉を間違って真似して喋っている連中が横行していて、もし彼らが民主主義の原則に従って多数を占め、権力を握った時を想像すると、「猿の王国」以下に悲惨な世界が出現するだろうと、慄然とする。

もちろん、こうした「蔑視主義」に全面的に組みはしないが、彼が懸念するディストピアの危険性が高まってきたのも事実だろう。

日本の多くのマルクス主義者が、ご本尊の託宣を鵜呑みにして、西欧の歴史上の長い社会主義的蓄積を「空想的社会主義」のもとに切り捨て、自分の頭脳で検証するのを省略する軽薄さ…毛沢東の文化大革命の大波が起こると、それに軽々と乗って、「日本の実権派」を退治せよなどなどと大見得を切る…他人事ながら顔を𧹞らめた…」

これも、満腔の賛意ではないが、遠い昔にマオイストに振り回され、幾ばくかの友人を失ったことを経て、理解の範囲内であり、同意の半ばを共有する。また、昨今に至っても、あまりにも物事を単純化する運動集団の羅列には事欠かない。

こうして、中村真一郎は、江戸漢詩に出会い、その豊かな世界に魅了され、頼山陽、蠣崎波響の評伝執筆を経て、木村兼葭堂とそれを中心として円心上に廻るといった「知識人の共和国」を描く最晩年になった。この大部な著作からくみ取れることは、豊穣とも言えるが、以前の拙稿の続編(過去の記事は、タグ「木村兼葭堂」を参照)
ということで、蒹葭堂と関係の深かった、混沌社で「詩豪」の名を馳せた頼山陽の父、頼春水 Wikipediaが、その社中で中村真一郎にコクトーと讃えられる葛子琴( Wikipedia)に贈った玉江橋(子琴は、御風堂と称し、橋の北詰に書楼を営んだ)からの眺めを詠った詩。春水は、明和3年(1766年)当時は、大坂在住で、子琴の住まいを、たびたび訪問した。ちなみに混沌社は、子琴のネーミングだったらしく、ロシア革命時のアバンギャルド詩人集団を彷彿させるステキな名である。

玉江橋春望贈葛子琴 頼春水
玉江乘霽好從容 玉江、霽《はれ》に乗じて、好《はなは》だ従容
水映長橋淑景濃 水、長橋に映じて、淑景濃し
侯邸古松濤陣陣 侯邸の古松、涛陣々
市樓春柳翠重重 市楼の春柳、翠重々
雲邊塔影天王寺 雲辺の塔影は天王寺
海上嵐光佛母峰 海上の嵐光は仏母峰
莫道村郊靑可蹈 道《い》う莫《なか》れ、村郊、青、踏むべしと
不如此處植吟筇 ここに吟筇を植《たつ》るにしかず

語釈]
従容:ゆったりとした様 淑景:春の光を伴う景色 陣々:切れ切れに続く 侯邸:大名屋敷だが誰のかな?玉江橋北詰近くには、福沢諭吉生誕の地の中津藩屋敷があった 雲辺の塔影は天王寺:当時は、玉江橋から南を見れば、四天王寺の塔が見えたらしい。もちろん今はビルに遮られててそうした展望はない。逆に、大阪大空襲後の焼け野原では、天王寺から大阪城天守が見えたとのことである 道《い》う莫《なか》れ、村郊、青、踏むべしと:郊外の村に青草を踏みにいかなくても 吟筇:詩作にふけるための杖

今は川沿いに、散歩道も出来ているが、行き交う人は、気忙しく、詩作(ないし思索)にふけるとまではいかない。
写真は、頼春水画像(Wikipedia)と現在の玉江橋から南方天王寺方面を見る(筆者撮影)

参考】
中村真一郎「木村兼葭堂のサロン」(新潮社)

日本人と漢詩(088)

◎中島棕隠(続き)
京都から浪華へ話題を移そうと思ったが、もう一回、中島棕隠の詩を三首。

鴨東四時雑咏抄から

酸漿秋熟軟珠匀 酸漿《さんしょう》秋熟《じゅく》して 軟珠《なんしゅ》匀《ととの》う
撚去撚來看作皺 撚《ねんし》去《さり》て撚し来《きた》って 看《みすみ》す皺《しわ》を作《な》す
欲和紅衣剔瓤子 紅衣《こうい》に和して瓤子《じょうし》を剔《てき》せんと欲し
嬌癡屡祝恥傍人 嬌痴《きょうち》 屡《しばし》ば祝《しゅく》して傍人《ぼうにん》に恥《は》ず

語釈]
酸漿:ほおずき 軟珠:軟らかい実 和紅衣剔瓤子:赤い皮を破らないように、その芯をとりだす 嬌痴:幼い少女 祝:まじないをかける 恥傍人:連れの人にはにかむ
「撚去撚來看作皺」とは、うまい表現、ほおずきをうまく撚り合わせるためには、ちょっとしたコツが必要。自分でやると思いの外難しい。横から亡くなった叔母が、「みっちゃんは不器用やし、ちょっと、貸してみ」と鳴るようにして返してくれたことがなつかしい。

以下の二首の「題辞・序」は、白文を略して、後ほど…

(一)
十分收七去年禾 十分《じゅうぶ》七を収《おさ》む 去年の禾《いね》
食亦減些應活過 食《しょく》も亦《ま》た些《さ》減《げんじ》て 応《まさ》に活過《かっか》すべし
爲是群州逞私貯 是《こ》群州《ぐんしゅう》の私貯《しちょ》逞《たくま》しゅうするが為《ため》に
不便糶糴苦飢多 糶糴《ちょうてき》に便《べん》ならず 飢《うえ》に苦しむこと多し

語釈]
十分收七:平年の七割くらいの出来。もちろん、東北地方などでは、もっと悲惨だった 活過:生活、なりわい 群州:大勢の地方役人 逞私貯:私腹を肥やす 糶糴:米の売り買い

危機に乗じて、投機的な相場で、いろんな物の売り買いをするワルはいつの世もいるものである。

(二)

驕奢往往想分宜 驕奢《きょうしゃ》往々《おうおう》分宜《ぶんき》を想う
籍沒餘財竟屬誰 籍没《せきぼつ》の余財《よざい》 竟《つい》に誰《たれ》にか属《ぞく》す
願出胡椒八百斛 願《ねが》わくば 胡椒八百斛《こしょうはっぴゃくこく》を出《いだ》して
窮民瘴氣一時醫 窮民《きゅうみん》の瘴気《しょうき》 一時《いちじ》に医《いや》せん

語注]
驕奢:おごり、贅沢をする 往往:いくたびか 分宜:分相応な生き方 籍没:お上が没収した悪徳富豪の財産 胡椒:解熱剤などの用途にも使う 瘴気:流行り病、熱病

富豪(大財閥、大企業)の溜め込んだ金(内部留保)を吐き出させ、民のために使う、とりわけ現在の「瘴気」(コロナ禍)で、有効活用せよ!とは、棕隠も言ってるではないか!


客歳《かくさい》夏秋の交《こう》、淫雨《いんう》連旬《れんじゅん》、諸州《しょしゅう》大水《だいすい》、歳果して登《みの》らず、今茲《ことし》七月に至り、都下の米価涌騰《ようとう》益《ますます》甚《はなはだ》し。一斗三千銭に過《す》ぐ。飢莩《がふ》路《みち》に横《よこたわ》り、苦訴《くそ》泣哭《きゅうこく》、声《こえ》四境《しきょう》に徹《てつ》す。建櫜《けんこう》より還《このかた》未だ曾《かつ》て有らざる所と云う。感慨の余《あまり》、此の二十絶を賦《ふ》す。

語釈]
建櫜:武器を袋に納め、再び使わないこと。ここでは、天下泰平をもたらした幕府開闢以来という意味だろう。いい言葉である 飢莩:餓死者

棕隠の詩序は、やたらに長いことが多いのは、語ることが尽きせぬのだろう。ここは短めながら、それでも「感慨」がほとばしる。詩は、天保八年(1838年)の作とあるので、その年二月の大塩平八郎の乱の影響が見て取れる。こうした思いは、その大塩や、蛮社の獄の渡辺崋山や高野長英と共通している。どうか、棕隠の心からの声をお聞きいただきたい。
参考文献のなかで、解説者は、

「棕隠は父祖このかたの家格の重圧が持ち前の才気に逆作用して、青春多感の日より狭斜の巷に出入りし、風流好事の名をほしいままにした。しかし棕隠はおのれの命運を素直に受け容れ、耳目に触れる万象にことよせ詩魂を燃焼させて、言志の営みを生涯廃さなかった。」

(水田紀久氏)
と述べる。棕隠は「狂詩」や遊蕩の詩人の側面に加えて、「言志の営み」も再評価に値すると考えるが、いかがであろう?。

棕隠の書は、下記書より、なかなか彼の性格を反映した達筆である。
参考文献】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」

日本人と漢詩(087)

中島棕隠

独断ではあるが、京都人は、大坂や江戸とはひと味違い、揶揄とまでは言わないが、自らを客観視する姿勢があったようだ。もっとも、昨今は、「みやこびと」のプライドもいくぶん薄くなっているが…ところで、わが中島棕隠にこんな狂詩がある。

江戶者嘲京 江戸者《えどもの》京を嘲《あざわら》う
木高水淸食物稀 木は高く水は清くして食物《くいもの》稀《まれ》なり
人人飾表內證晞 人々は表を飾りて内証は晞《かわ》く
牛糞路連大津滑 牛糞の路《みち》大津に連《つらな》って滑《なめらか》に
茶粥音向叡山飛 茶粥《ちゃがゆ》の音は叡山に向かって飛ぶ
算盤出合無立引 算盤《そろばん》出合い立引《たてひき》無く
筋壁連中假權威 筋壁連中《きんかべれんちゅう》は権威《けんい》を仮る
女雖奇麗立小便 女 奇麗《きれい》なりと雖《いえど》も 立小便《たちしょんべん》
替物茄子怕數違 替《か》え物の茄子《なすび》数の違《たがわ》んことを怕《おそ》る

棕隠は、文化二年(1805年)から同十一年(1814年)まで江戸に暮らし、その「江戸っ子」の視点で、京都人を少々突き放して評している。語釈や訳文の詳細はほぼ不要と思われるが、「京都の食物《くいもの》、おいしいもの、あらしまへん」、「内証は懐具合、立引は「勉強しときまっさ」、筋壁連中は、塀の向こうのおえらいさん、替物茄子は、農家の下肥え集めの際に交換する野菜の量をめぐる駆け引き、棕隠の「都繁盛記」に微に入り細に入り詳しい。「粋なねーちゃん、たちしょんべん」という寅さんの口上はここから来たのかな?

鴨東四時雑詞より
酣飮何知迫曉天 酣飲《かんいん》何ぞ知らん 暁天に迫るを
粉香脂膩和衾眠 粉香脂膩《ふんこうしじ》衾《しとね》に和して眠る
遊郞畢竟偎花蝶 遊郎《ゆうろう》畢竟《ひっきょう》花に偎《よ》する蝶
抵得芳心非偶然 芳心に抵《いたり》得るは偶然に非らず

夜を徹して飲み続けて、化粧濃厚な妓と同衾、わては、花に身を寄す、てふてふどすえ。花蕊に引き寄せされるのは、たまたまじゃないわいのお。実は、棕隠は、自作の詩に対して、無類の自註や解説好きで、ここでも委細を極めているが、あえて省略。要するに、高い前金を払わずに、雑魚寝をうまく利用しロハでその妓と首尾を遂げようとのことである。

棕隠は、もともと儒家の家柄、その実家とかえってプレッシャーになり、江戸に一定期間逃避するなど、ボヘミアン的な生活を送った。帰京後は、詩家としての名声もあがり、放蕩の経験豊かなせいか、このような「きわどい」「竹枝詞」を作るようになった。

もう一首、京都の風情の一つ、「大文字の送り火」を題材にした七絶。

士女蘭盆送鬼時 士女《しじょ》蘭盆《らんぼん》鬼《き》を送る時
相携薄夜傍前涯 相い携《たずさ》えて薄夜《はくや》前涯《ぜんさい》に傍《そ》う
且觀如意峰頭火 且《しばら》く観る 如意峰頭《にょいほうとう》の火の
大字畫雲收焰遲 大字《だいじ》雲を画《かく》して 焰《ほのお》を収《おさ》むること遅きを

男女連れ添ってお盆の最終イベントに、鴨の河原にでかける。まずは大文字山の「大」の字が雲間に照り、ゆっくりと消えるまで眺めやる。
子ども時代は、近くの醒泉小学校の屋上が開放され、「大文字焼き」(俗称、正式には送り火)を見ていた思い出が残っている。

京都で、詩集や、江戸の寺門静軒の「江戸繁盛記」の対抗して「都繁盛記」も出版、名声が高まったが、元号が天保に入り、天下はにわかに忙しくなってきた。天保の大飢饉を皮切りに、1837年 大塩平八郎の乱、1839年 蛮社の獄と続く騒乱へと続き、棕隠も、なかなかまっとうな見解を詩で表現するが、それは、またの機会に…
写真は、鴨川河原(Wikipedia より)と大文字の送り火
参考】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」(岩波書店)
・中村真一郎「江戸漢詩」

日本人と漢詩(086)

◎松崎慊堂、林述斎、佐藤一斎と鳥居耀蔵

渡辺崋山を巡る人物は、次のような関係である。まず、百姓から身を興した儒学者・松崎慊堂は、崋山の友にして、師と言える人物だった。まず、その詩から…

夜市納涼 松崎慊堂
黃昏浴罷去迎風 黄昏《こうこん》、浴罷《や》みて去《ゆ》きて風を迎え
燈市徜徉西又東 灯市《とうし》に徜徉《しょうよう》して西また東
時節未秋秋已至 時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り
滿街夜色賣蟲籠 満街の夜色、虫籠《むしかご》を売る

夕暮れ方、ふろ上がりの身には涼風がここちよい。明かりのともる夜市にそぞろ歩き。虫の鳴き声が、早くも秋の到来をつげるという「時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り」という句がすてき。

和一齋墨田遊暑 一斎の墨田遊暑に和す 松崎慊堂
舐眠忽破涌弦歌 舐眠《だみん》忽《たちま》ち破れて弦歌《げんか》涌く
二國橋邊千頃波 二国橋辺、千頃《せんけい》の波
納涼舟似深秋葉 納涼の舟は、深秋の葉に似て
風處紛紛不勝多 風処紛々、多きに勝《たえ》ず

酔いの気分でのうたた寝が覚めたら、しゃみの音色が聞こえる、両国橋の川辺には、幾多の波が寄せる。見れば、涼みの船は、秋のもみじばに似て、風に揺れるばかり。

松崎慊堂は、蛮社の獄では、渡辺崋山の助命、釈放に尽力した。

慊堂のそのまた師匠筋で上司であったのが、昌平黌のトップであった、林述斎。

夏日 林述斎
半窗梧葉影交加 半窓の梧葉、影は交加《こうか》し
胡蝶夢醒西日斜 胡蝶、夢醒《さ》めて西日斜めなり
將起渾身無氣力 まさに起きんとし、渾身《こんしん》に気力なく
呼童目指濯盆花 童《わらわ》を呼びて目指《もく》し盆花に濯《そそが》しむ

半開きの窓からのアオギリの葉にさす影は、陽と交錯し、「胡蝶の夢」覚めたらもう夕方。起き上がろうとするが、どうも気力がわかない。従僕を呼び、目で花に水をやるよう、そっと合図する。「胡蝶の夢」は、荘子からの類推か?目指《もく》しという表現が、とても面白い。

谷口樵唱 林述斎
辭枝花作委泥花 枝を辞《じ》する枝、花は泥に委《ゆだ》ぬる花と作《な》り
絲雨隋風整復斜 糸雨《しう》風に随《したが》いて整《ととの》い復た斜めなり
索莫吟懷無所得 索莫《さくばく》として吟懐《ぎんかい》得るところなく
惟聽哈哈滿池蛙 ただ聴く、哈々《こうこう》満池《まんち》の蛙《かわず》

少しアンニュイ気分の詩。桜の花びらは枝から落ち、泥にまみれてゆく。細雨は、風に逆らうことなく、真っ直ぐに、はたまた斜めへと向きを変える。ここらあたりの表現が絶妙。なかなか、詩句が浮かんでこない中、池の蛙の鳴き声がかしましい。ちゃんと一首できてるじゃないかと、ツッコミどころ満載である。

松崎慊堂は、林述斎にも懇願するが、色よい返事はさっぱり。その陰で、述斎の三男(四男という説あり)、鳥居耀蔵の暗略があり、崋山の助命はかなわぬこととなった。中村真一郎は、林述斎は「根っからのエピキュリアン」と述べるが、生涯、正妻をめとらず、しかも子どもや孫が幾人もいたのだから、その意味はずいぶん多義的である。昌平黌では、「朱子学」がその学問の柱とされたが、建前と本音もずいぶん乖離したものである。

慊堂の隅田川遊びに、同行したのが佐藤一斎で、昌平黌では、慊堂の同輩。著書「言志四録」に、「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む。」との格言があり亡父が好んでおり、父の実直な生き様を反映していると思っている。長年連れ添った連れ合いに先立たれた悲しみの時の「悼亡詩」

愛日楼詩 佐藤一斎
屈伸臂項物全非 臂項《ひこう》を屈伸するに、物全て非なり
一去孤鸞不復歸 ひとたび去りて、孤鸞《こらん》また帰らず
八載相從都是夢 八載、あい従うも都《すべて》これ夢
遺箱忍看嫁時衣 遺箱看るに忍《しの》びんや、嫁の時の衣《ころも》

ひとり寝の床で四肢を曲げ伸ばしするも、すべては幻。ひとたび去って、霊鳥といえども、長年連れ添っても夢のまた夢、帰ってこない。嫁入りに持参した着物を、躊躇しながらそっと見てみる。

佐藤一斎は、蛮社の獄では、崋山などの助命活動に熱心ではなかったと「偽君子」との世評を得た。「文は人なり」と簡単には言わないが、こうした詩を改めてみていると、まだ明らかにされない、複雑な事情もあったのかもしれない。

一方、弾圧者だった 鳥居耀蔵は、天保の改革後、幽囚の身になるが、幕府崩壊後は、釈放され東京に戻り、そこで生涯を終えた。その時の詩、

「東京」
交市通商競つて狂の如し
誰か知らん胡虜深望あるを
後五十年すべからく見得べし
神州恐らくはこれ夷郷とならん

(現代語訳)
人々の行き交いも商業も狂ったように競っている。
誰が知るだろう、過去の罪人(耀蔵)の考えを。
五十年後の未来を予想できるならば
日本はおそらく野蛮人の国となっているだろう。

(ともにWikipediaより)

幕臣であった栗本鋤雲の評は、
「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場の犬のようなものである」
となかなか手厳しいが、こんな「詩」を見ると、まあ、そんな人物だったのだろう。「俺の言うことを聞いていたら、こうはならなかったのだろう」というのが、最晩年の口癖だったらしい。いつの時代も、今日《こんにち》でも、こういうやから、いるよね。いずれにしても、佞人という評価は免れないだろう。
参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」
・杉浦明平「椿園記・妖怪譚」(講談社)

日本人と漢詩(085)

◎柏木如亭と白居易

江戸時代は、漢詩の表現法などが大きな変遷を遂げた時期だった。中期までの、いささや大言壮語に堕した「格調派」から、後期ともなると、日常茶飯事を含む細やかな心の動きを描出する「性霊派」へと変わってきた。柏木如亭もその潮流の一人で、その訳詩集「訳注聯珠詩格」では、白楽天の詩も、ちょっとした日常詩である。

聞亀児詠詩      亀児が詩を詠ずるを聞く    白楽天

憐渠已解弄詩草    憐れむ 渠《かれ》が已に詩草を弄することを解するを
揺膝支頤学二郎    膝を揺がし頤《あご》を支へて二郎を学ぶ
莫学二郎吟太苦    学ぶ莫れ 二郎が吟に太《はなは》だ苦しむを
年纔四十鬢如霜    年纔《わづ》かに四十 鬢《びん》 霜の如し

〈柏木如亭譯〉
憐《かあい》や渠《あれ》は已《いつか》詩草《し》を弄《つくること》を解《おぼ》えて
揺膝《びんぼゆすり》をしたり支頤《ほゝづゑをつい》たりして二郎《おれ》を学《まね》る
二郎《おれ》が吟《しをつくる》に太苦《なんぎす》るをば莫学《まねやる》な
年は纔《やうゝゝ》四十だが鬢《びん》は 如霜《まっしろになった》
以上、昭和レトロな赤坂の思い出から、語釈も同サイト参照のこと。
よりいっそうの現代語訳は、白楽天 舞夢訳を参照のこと。

訳文も、森川許六の三体詩訳の俳文調から抜け出し、現代の口語訳と変わらないところまで来ており、漢詩の日本語を使った解説の一つの到達点であろう。ずいぶん駆け足だったが、平安から室町、江戸時代にかけての訳文を通じての漢詩受容の話題は、ひとまずは、終わることにする。

実際の彼は、白楽天の詩で触れる「家庭の幸福」を知らない人生で、江戸、新潟から京都などへの放浪の詩人だった。追加として、如亭の晩年の詩作を一つ、どこか唐詩への回帰の趣きがある。
絶句
歸鴉閃閃沒煙霄 帰鴉閃閃 煙霄《えんしょう》に没す
但見漁舟趂晚潮 但だ見る 漁舟の晩潮を趁《お》うを
一傘相扶侵雨去 一傘あい扶《たす》けて 雨を侵し去《ゆ》く
黃昏獨上水東橋 黄昏に独い上る 水東の橋

簡単な注釈】
ねぐらに帰るカラスの群れが霞空へ消え、漁船も夕べの潮を追いかける。相合い傘でアベックが雨の中を寄り添って歩いている。その夕暮れの中に一人橋の上にたたずんでいる。
中村真一郎は「孤独な老人の感慨」と書くが、それでいて、どこかある種の温もりも感じる。

参考】
・柏木如亭「訳注聯珠詩格」(岩波文庫)
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波同時代ライブラリー)

日本人と漢詩(084)

◎妹背山婦女庭訓と藤原惺窩


先日、久しぶりに文楽を観て(聴いて)きた。演目は、「妹背山婦女庭訓(Wikipediaより)《いのせやまおんなていきん》」、近松半二などの合作、「本邦版ロメオとジュリエット」と称せらることも多く、確執ある二家の、若君と姫の悲恋物語である。近松門左衛門から下ること半世紀以上、人形浄瑠璃は、人情の機微を語ることのほかに、舞台演出上も大いに工夫を凝らしたものになっている。「婦女庭訓」の最大の見せ場、三段目、「妹山背山の段」では、二家の別荘を挟んで、中に吉野川が流れ、それを仲立ちにした、二人の掛け合いが見事である。上手が、ヒーロー久我之介の別荘、下手がヒロイン雛鳥の別荘、しかも浄瑠璃語りは、左右に分かれて、三味線のピッチも微妙に変えながら、男女の心根を憎いほどに、一人語りと唱和を繰り返す。これで、二回目の観賞となるが、最初は下手側、今回は上手側で、趣の違いも実感できた。当時の客もそのダイナミックな構成に堪能したことだろう。浪華での浄瑠璃文化は、ある意味ここで頂点を極めたように思われる。
今の時代、こうした文化を気軽に享受できるようになっているだろうか?ふとそんな気もしてきた。ここ十年来、文楽をめぐるさまざまな環境は変化を遂げた。ガサツとも言える勢力による文楽攻撃、コロナ禍もあった、それに輪をかけ、大阪を、単に猥雑な街に変えようとする愚策のなか、風格のある上演を望むばかりである。

妹山背山は、古くから歌枕とあるが、そこを題材とした漢詩は寡聞にして見当たらなかった。ネット上では、藤原定家十二世の孫の儒学者、藤原惺窩のやや月並みとも思える七絶を一首。

山居

靑山高聳白雲邊 青山 高く聳ゆ  白雲の辺
仄聽樵歌忘世縁 仄かに 樵歌を 聴きて  世縁を 忘る
意足不求絲竹樂 意 足りて 求めず  糸竹の楽しみを
幽禽睡熟碧巖前 幽禽 睡りは 熟す  碧巖の前

語釈、訳文は、「詩詞世界」を参照のこと。

もちろん、「妹背山婦女庭訓」での二家の別荘は、フィクションであり、廃墟であったとしても惺窩の時代に残っているはずもないが、隠遁の地には似つかわしい雰囲気であったのだろう。また、文楽では、悪役・敵役の蘇我入鹿は皇位を簒奪して、即位した後の話としているのが江戸時代の天皇観を垣間見ることができる。

参考】国立文楽劇場パンフレット(2023年4月)

日本人と漢詩(083)

◎渡辺崋山と杉浦明平

渡辺崋山( Wikipedia )は、愛知県知多半島にあった田原藩(小藩というより貧藩と言えるだろう)の家老。蛮社の獄で、高野長英らと、捕縛、崋山は切腹に追い詰められた。従来、絵画が有名だが、彼の漢詩が紹介されることは意外と少ない。たしか、杉浦明平の大部な小説「小説 渡辺崋山」では、上巻は、一首だけだったと思う。

ここでは、まずは、その一首、27歳のおり、江戸在住での作と小説にはある。

中秋歩月
俗吏難與意 俗吏意を与《とも》にし難く
孤行却自憐 孤行却って自ら憐れむ
松林黒于墨 松林は墨より黒く
江水白於天 江水は天よりも白し
樓遠唯看燭 楼は遠く唯燭を看る
城高半帯雲 城は高く半ば雲を帯ぶ
不知今夜月 知らず今夜の月
偏照綺羅莚 偏《ひとえ》に綺羅《きら》の莚《むしろ》を照らすを

語釈】孤行:同僚と協調しない独自の生き方 樓遠唯看燭:将軍家斉の観月の宴 綺羅:その豪勢の様

小説では、華山のハラのうちを描く。為政者の金の使い方の理不尽さは現在も続く。

おれたちは腹をすかしておるのに、夜中まで飲み食い遊びほうけてけつかる腹が立ってならなかったんだ。…いまは日本中が飢えている。それなのに、大奥では依然として、毎日白砂糖千斤ずつ消費している。…そういう後宮のために消尽された無駄な費用をよそへ廻せば、四、五十万人と見込まれる今年の餓死者の大半は生きのびることができたのではなかろうか。

次に、晩年幽居での詩作を掲げる。

辛丑元旦二首
其一
萬甍烟裏海暾紅 万甍烟裏 海暾《かいとん》紅《くれない》なり
投刺飛轎西又東 刺を投じ轎を飛ばして 西又た東
滾々馬聲皆醉夢 滾々たる馬声 皆な酔夢
今朝眞箇迎春風 今朝真箇《まこと》に春風を迎う

語釈】辛丑:天保十二年(1841年) 海暾;海から昇る太陽 投刺飛轎西又東:人々のせわしい様 滾々馬聲皆醉夢:駆け抜ける馬の蹄の音も、酔っ払った後の夢の中

其二
四十九年官道樗 四十九年 官道樗《ちょ》なり
昨非不改愧衞蘧 昨非改めず 衛蘧《えいきょ》に愧《は》ず
天下難望只天樂 天下望み難きは只だ天楽
七十萱堂數架書 七十の萱堂《けんどう》 数架の書

語釈】官道樗:宮使いも樗(節が多く曲がりくねった木)で役に立たない。莊子に由来 衛蘧:春秋時代、衛の蘧伯玉は、齢五十にして、それまでの非を悟った 天樂:至高の楽しみ、萱堂(自らの母親)と數架の書をせめてもの楽しみにしたい

これらの詩を読むと、吹っ切れたというより、なにかそれまでの緊張感が抜けていった印象があり、自刃直前の華山の心情はいかばかりのものだったろうか?

付】Wikipeda 写真の詩を、訓読すると「石に倚って疎花痩せ、風を帯びて細葉長し。霊均の情夢遠く、遺珮沅湘に満つ」となる。霊均は、屈原の字だから、蘭を屈原に例えると同時に華山自らの自負であるだろう。天保十年(1839年)の「蘭竹双清」に添えたものだそうだ。

とまれ、蛮社の獄で犠牲になった、渡辺崋山や高野長英は、当時最高の知性であり、彼らが、非業の死を遂げたことは、日本の近代史でも、有数の悲劇であったことは論を俟たない。

【参考】
・入矢義高「日本文人詩選」(中公文庫)
・杉浦明平「小説 渡辺崋山」(上)(朝日新聞社)

日本人と漢詩(082)

◎藤原定家と白居易

日本での漢詩の「読み解き」を広く取れば、時代を遡ると「和漢朗詠集」あたりからだろう。この時代に引用される詩人は、白居易が一定割合を占め、鎌倉時代になっても定家晩年の作「拾遺愚草員外」の中では、「白氏文集」から題をとった句題和歌が百首ある。どの和歌も、さすが定家、よく熟されている。

氷とく人の心やかよふらむ風にまかする春の山みづ

府西池 白居易
柳無氣力枝先動 柳《やなぎ》に気力無くして 枝先《ま》ず動うごき
池有波紋冰盡開 池に波は紋《もん》有りて 氷《こおり》尽《ことごと》く開らく
今日不知誰計會 今日《こんにち》 知らず誰《たれ》か計会《けいかい》せる
春風春水一時來 春風《しゅんぷう》 春水《しゅんすい》 一時に来たる

語釈・訳文は、Web漢文大系を参照のこと。

白妙の梅咲山の谷風や雪げにさえぬ瀬々のしがらみ
此の里の向ひの村の垣ねより夕日をそむる玉のを柳

春至る   白居易

若爲南國春還至  若為《いかんせん》 南国 春還また至るを
爭向東樓日又長  争向《いかんせん》 東楼《とうろう》 日又長きを
白片落梅浮澗水  白片《はくへん》の落梅《らくばい》は澗水《かんすい》に浮うかぶ
黄梢新柳出城墻  黄梢《こうしょう》の新柳《しんりゅう》は城墻《せいしょう》より出でたり
閑拈蕉葉題詩詠  閑《しづか》に蕉葉《しょよう》を拈《と》り 詩を題して詠じ
悶取藤枝引酒嘗  悶《むすぼ》れて藤枝《とうし》を取り 酒を引きて嘗《たし》なむ
樂事漸無身漸老  楽事《らくじ》 漸《やや》く無くして 身漸《やや》老ゆ

語釈・訳文は、雁の玉梓 ―やまとうたblog―を参照のこと。

思ふとちむれこし春も昔にて旅寝の山に花や散らむ

曲江憶元九

春来無伴閑遊少 春来《しゆんらい》伴《とも》無くして閑遊《かんゆう》少なく
行楽三分減二分 行楽三分《さんぶん》二分《にぶん》を減ず
何況今朝杏園裏 何《なん》ぞ況《いわ》んや今朝《こんちょう》杏園《きょうえん》の裏《うち》
閑人逢尽不逢君 閑人《かんじん》逢い尽くせども君に逢はず

語釈・訳文は、『拾遺愚草全釈』参考資料 漢詩を参照のこと。

釘貫亨氏の「日本語の発音はどう変わってきたか」(中公新書)を興味深く読んだ。それによると、藤原定家は、なかなかの理論家だったらしく、和歌や「源氏物語」など仮名+漢字表記を分かりやすく、しかもバランスがよいように、工夫をこらしたようだ。(私事ながら、釘貫氏は、わが連れ合いの従兄弟にあたる。)

この著書にそって、当時の読みを、下段に提示すると、

咲きぬ也夜の間の風に誘はれて梅より匂ふ春の花園
さきぬなりよのまのかぜにさそふぁれてうめよりにふぉふふぁるのふぁなぞの

 春風  白居易
春風先発苑中梅  春風 先に発《ひら》く 苑中の梅
桜杏桃梨次第開  桜 杏 桃 梨 次第に開く
薺花楡莢深村裏  薺花《せいか》 楡莢《ゆきょう》 深村の裏《うち》
亦道春風為我来  亦《ま》た道《い》う 春風 我が為に来たると

語釈・訳文は、沈思翰藻を参照のこと。

その後、平板になった現代より、より抑揚のある発音であり、和歌の朗詠もなかなかにドラマティックだったように思う。

【参考】浅野春江「定家と白氏文集」(教育出版センター)

日本人と漢詩(081)

◎如月寿印(「中華若木詩抄」)と白居易

前回、漢詩の不特定多数向けの啓蒙書という話題に触れたが、どうやら、その形式ができあがったのが、室町時代の「抄物」が嚆矢だったようだ。その代表例が、「中華若木詩抄」で、中国では、唐・宋・元、そして明にかけての詩人、本邦では、ほぼ同時代の、禅僧の七言絶句、二六一首の解説を行うが、これが実に懇切丁寧である。以下、白居易(白楽天)の詩を紹介する。

明妃曲 白居易

滿面胡沙滿鬢風 面《おもて》に満《み》つる胡沙《こさ》 鬢《びん》に満《み》つる風《かぜ》
眉銷殘黛臉銷紅 眉《まゆ》は残黛《ざんたい》銷《き》え 臉《かお》は紅《べに》銷《き》ゆ
愁苦辛勤憔悴盡 愁苦《しゅうく》辛勤《しんきん》して憔悴《しょうすい》し尽《つ》くし
如今卻似畫圖中 如今《じょこん》 却《かえ》って画図《がと》の中《うち》に似《に》たり

明妃は、王昭君也。胡国へ赴かれたが、憐《あわ》れなるによりて、曲に作《つく》りて歌《うた》ふ也。昭君の義は耳熟することなれば、申するに及ばぬ也。一二之句は胡国へ赴かるゝ路《みち》也。面《かほ》へは胡沙を吹《ふき》かけ、髪をば寒風が吹乱《ふきみだれ》すぞ。眉に残《のこ》りたる黛《まゆずみ》も消《きえ》はてて、瞼の紅も失せて、ないぞ。三四之句は、胡国へ赴《おもむく》路次《ろじ》に辛労するほどに、身も衰《おとろ》へて、見し皃《かたち》もないぞ。


王昭君が選別されるときのエピソード-似顔絵を描く絵師に賂いをやらなかったために、醜婦に描かれ、漢の皇帝が、これなら差し支えないと王昭君を指名した。ところが、いざ顔を合わせると、あまりにも美形であったが、「綸言汗の如し」あとの祭りであったという。しかしこれは史実ではないらしい(Wikipedia 王昭君)ーを記載するが略する。

宮を出でし時《とき》は画図にも似ずしてうつくしかりつるが、風沙に吹埋《ふきう》められて身も衰《おとろ》へたれば、今こそ始《はじめ》て画図の中に似たれと云心也。妙なる詩也。

この「抄物」にはないが、王昭君第二も掲載する。

王昭君其二
漢使卻回憑寄語 漢使《かんし》 却回《きゃくかい》 憑《よ》りて語《ご》を寄《よ》す
黄金何日贖蛾眉 黄金《おうごん》 何《いず》れの日《ひ》か蛾眉《がび》を贖《あがな》わん
君王若問妾顏色 君王《くんおう》 若《も》し妾《しょう》が顔色《がんしょく》を問《と》わば
莫道不如宮裏時 道《い》う莫《なか》れ 宮裏《きゅうり》の時《とき》に如《し》かずと

ともに、語釈、訳文は、漢文委員会を参考のこと。

嘆髪落 髪ノ落ツルヲ歎ズ 白居易
多病多愁心自知 多病《たへい》多愁 心自ズカラ知ル
行年未老鬂先衰 行年《こうねん》未ダ老イザルニ 鬂先ンジテ衰フ
隨梳落去何須惜 梳ルニ随ヒテ落去ス 何ゾ惜シムヲ須《もち》イン
不落終須変作糸 落チザルモ 終《つい》ニ須《すべか》ラク変ジテ糸ト作《な》ルベシ

一の句、多病と云い、多愁と云い、吾と心中《しんぢゆう》に老衰を覚《おぼ》ゆるぞ。二之句、さあるほどに、いまだ年も寄《よ》らねども、鬂から衰《おとろへ》て行《ゆき》たぞ。行年は、星月とともに深《ふけ》行く年也。三四之句は、衰鬂を梳《けづる》に随つて落葉の如く落《おつる》ぞ。落《おつ》ると云《いう》ても、惜むべきことでないぞ。若《もし》此《この》髪が梳に随て落《おち》ずんば、白髪三千丈の絲となるべきぞ。落《お》ちずば、さて也。面白く云出《いひいづ》る也。

以上、「解説訳文」の部分は、カタカナはひらがなへ、訓点部分は読み下して改変掲載した。

語釈、訳文は、yoshのブログを参照のこと。

白楽天は、その当時は長命であったが、現在いう後期高齢者(七十五才)になった途端、世を去った。当方も、とっくに「髪ノ落ツル」時は過ぎたが、そこら辺まではなんとか行けるだろうかな?

【参考】「中華若木詩抄・湯山聯句鈔」(新日本古典文学体系)岩波書店