◎芥川龍之介と孫子瀟
郷書《きょうしょ》遙《はるか》に憶《おも》ふ、路漫々《まんまん》
幽悶《ゆうもん》聊《いささ》か憑《たの》む、鵲語《じゃくご》の寛《かん》なるを
今夜合歡《ごうかん》花底《かてい》の月
小庭《しょうてい》の兒女《じじょ》長安《ちょうあん》を話す
やぶちゃんの電子テキスト(http://yab.o.oo7.jp/kabu.html)から
1921年の4ヶ月にわたる芥川龍之介の中国旅行で得たものは大きいと思う。また、芥川作品の各国語への翻訳のうち、民族差別的な要素を指摘されがちな評価であった「支那游記」のその中国語訳が出るくらいだから、再評価の機運があるのだろう。(関口安義氏は、その急先鋒の一人。)「支那游記」は、上海游記、江南游記、長江游記、北京日記抄、雑信一束と続く一連の中国紀行文で、Blog 鬼火(http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/)に掲載されている。各々の巻で差別的な表現のニュアンスの違いもあるが、今読み返すと、まず、日本文化の底に流れる中国文明への憧憬を感じる。それに比べて、龍之介がつぶさに見た植民地化した中国の過酷な体験と、さらにその中国に「野望」を隠さない日本の現実が、二重にも三重にもだぶって描かれているとも取れる。西湖で蘇小小の土饅頭の墓を見てきただけではないようだ。漱石とは時代が違うし、谷崎潤一郎や佐藤春夫とも、気質が違う、芥川独自のとらえ方があると言えるだろう。関口安義氏は、旅行後の作品でも「桃太郎」「将軍」「湖南の扇」など、新たな社会批判的な小説に生かされていると言う。
今、ちくま文庫版全集第7巻をみてみると旅行の1年前1920年1月執筆に「漢文漢詩の面白味」という短文がある。
原文は、やぶちゃんの電子テキスト(縦書版)を見ていただきたい。
やや控えめながら、彼の「趣味」を超えた中国古典文学への素直な思いを感じる。ただ残念なことに、この短文で紹介される中国の詩人は、あまりおなじみではなく、孫子瀟(清)も語注に簡単に触れられるのみなので掲載しておく。鵲語はカササギの鳴き声。合歡花底月は、ねむの木に咲く花のもとに照る月という意味か?龍之介ではないが、なぜかノスタルジックな中にものんびりした感じである。
ところで、同じ文庫に「僻見」という人物評論が収録されている。1924年発表というから、彼の「晩年」である。その中で、木村蒹葭堂(巽斎)が取り上げられている。これはこれで江戸時代の文化的サロンとして興味深いのだが、紹介は次回以降ということで…
写真は、再掲だが、昨年のさるアニバーサリーにさる人に贈ったエバーグリーンというねむの木の一種。