読書ざんまいよせい(001)

別に、「新しもの好き」ではないが、新シリーズとして、今まで読んだり読みかけの書籍を「断捨離」するつもりで、感想、注釈、抜き書きでも何でもいいが、記録に留めておくことにする。
◎実験医学序説
クロード•ベルナール著 三浦岱栄訳 岩波文庫

以下は、第2回 近代医学と実験—-クロード・ベルナール『実験医学研究序説』を読む—-からの、抜き書きが多分に占める。
奥付けをみると、昭和45年1月とあるので、学生時代に一度、研修医だった頃に二度目に読んだ時は、特に学生時代は、色んな意味で「挫折感」を味わっていたので、本書のベルナールの精緻な論理展開に、「医学」の未来に大いに希望を持ったものだ。特に、「デテルミニスム(le determinisme)=決定論」という命題と小気味良い論調には、大いに感服した。従来の医学の「神秘」的な傾向への反駁もに、小気味良い。(残念ながら現代でも「トンデモ医学」は、ネットなどでも後を絶たない。当方の理解の域をでないが、一言で言えば、「Aという原因からBという結果が出現するという因果律があるとすれば、それを証明するのは実験(E)しかない」に尽きよう。そこには、第一原因として「神の手」とか神秘的なものはなにもない。生命現象の複雑さも、A→B という因果律が、無数に連関的に絡み合ったものだ。くりかえすが、従来の魔術的な「医学」との決別が明言されていた。
しかし、今読み返してみれば、もちろん、その実証主義的な精神に感心はするが、少々厄介な問題も内包する著作とも感じる。

「実験生理学は実験医学の本来の基礎となるのであるが、患者の観察を禁じるわけでもなく、またその大切なことを軽んじるものでもない。それどころか生理学の知識は、単に疾病を説明するために必要欠くことができないのみでなく、良い臨床的観察をするためにも必要なのである。」

とベルナールは書くが、まず、「医学」の発展のおかげで言ってよいのか難しいところだが、現在において、われわれ臨床家は、ほぼエンドユーザーの立場であり、本格的な臨床実験に関与する余地はぼない、と言ってよい。せいぜい、患者の観察をするのが関の山である。テレビのコマーシャルを見て購買意欲を狩りたたれる消費者とあまり、変わりがない。その媒体が製薬会社のプロパーであったり、見栄えの良いパンフレットに置き換っただけの話である。

「我々は 観察家という名称を、自らは変化させることなく、したがって自然が彼に示すままに蒐集した現象の研究に、単純または複雑な探究方法を応用する人に対して与える。 実験家という名称は、自然現象を変化させたり、何らかの目的をもってそれらを変え、自然が彼に提供しなかったような環境や条件において自然現象を出現させるために、単純または複雑な探究方法を応用する人に対して与える。」

「 生物においても、無生物におけると同様に、すべての現象の存在条件は絶対的に決定されているということを実験学の公理として、まず承認しなければならない。換言すれば、ある現象の条件が一旦知られ、また実現されるならば、その後この現象は実験家の意のままにつねに必然的に作り出されなければならない。この命題を否定するならば、それは取りも直さず科学自身を否定することになるだろう。」

とは、なり得ないのである。
更に重大なのは、著作の第2篇くらいから、論調の変化が見られるが、

「我々が自然現象の確定的基礎的条件を認識するに至るには、ただ一つの道しかない。即ち 実験的分析によってである。」

「内科医は病人について毎日治療的実験を行い、外科医もまた被手術者について毎日生体解剖を実行している。したがって人間についてもたしかに実験することができるといわねばならぬ。」
「我々は人の生命を救うとか病気をなおすとか、その他その人の利益となる場合には、何時でも人間について実験を行う義務があり、したがってまた権利もある。内科及び外科における道徳の原理は、たとえその結果が如何に科学にとって有益であろうと、即ち他人の健康のために有益であろうと、その人にとっては害にのみなるような実験を、決して人間において実行しないということである。しかしながらそれを受ける患者の利益になるようにという見地に立ってつねに実験したり、或いは手術をしたりしつつ、同時にこれを科学のために利用することは少しも差し支えない。実際またこのようにすることは当然である。」

A→Bを証明するのは、実験(E)であるが、ではそのEを準備計画するのは、人である限り、その倫理性を担保するにはどうするか?ある意味、ベルナールは、ナチスや731部隊の蛮行を見ずに済んだのは幸せだったかもしれない。ベルナールの原則―「患者の利益」的な原則提起は案外難しい。そしてなによりも、実験(E)という手段は容易に目的化されるものである。それを避けるために、様々な倫理規定が提唱されてきたので、また改めて考えてみたいと、この著作で触発された。折しも、しんぶん「赤旗」・「歴史の証言に学ぶ」では、日本軍が散布したペスト菌の記事が掲載されていた。(記事の部分のみ抜粋)
ベルナールは、最後は、ややパセティックに自らの方法論を総括して語る。若いころ劇作家を志したとあるから、この著作にもその余燼が残っているのかもしれない。

「これらの体系(従来の「神秘的」医学の下に従属する科学は、それによって自己の豊穣性を失い、かつまた人類のあらゆる進歩の本質的条件である精神の独立と自由を失うからである。」

豊穣性を持ち、精神の独立と自由を保つ医学の道に憧れるのは、今も変わらぬつもりである。
ちなみに、岩波文庫の解説によれば、彼の連れ合いは、「ソクラテスの妻」状態であったらしいのは、妻までは、「デテルミニスム」では、説明しがたく、極めて人間的なエピソードである。
参考】
大阪大学医学部講義—-クロード・ベルナール『実験医学研究序説』を読む—-
・クロード・ベルナール 三浦岱栄訳『実験医学序説』、岩波文庫

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