読書ざんまいよせい(046)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」


       第三章 オデツサ・私の家庭と學校

 一ハ八八年になって、私の生活に大事件が起り始めた。私は勉强するために、オデツサへ送られたのである。この事件は、かう云ふ風にして起つたのだ。母の甥であるモイセイ・フィリッポヴヰッチ・シュベンツェルと云ふ二十八歲許りの男が、ひと夏を私達の村で過したことがあった。彼は一寸した政治上の罪科のために、高等學校を卒業してゐながら、大學に這入ることを禁せられてゐる、立派な知識人であつた。彼はいさゝか新聞記者的であり、いさゝか政治家的であった。彼は肺結核を征服するために、この田舍へやつて來たのであった。モー二ヤ――彼はさう呼ばれた――はその才能と、立派な品性の故をもつて、彼の母親や澤山の姉妹達の誇りであつたのだ。私達の家庭も、彼に對するこの尊敬を承嗣いだ。凡べての人々が彼の到着を豫想して喜んだ。私もひそかにこの感情の一郡を分擔した。モーニヤが食堂に這入って來た時、私は『育兒室』—I小さな隅つこの室――と呼ばれた室の入口まで來てゐて、それから前へ進んで行くだけの元氣がなかつた。と云ふのは、私の靴に大きな口を開けた穴が二つもあつたからだ。これは決して貧乏のためではなかった――當時私達の家庭は旣に工面がよかった――が、田舍者の無頓着と、過重の勞働と、私達の家庭の生活標準の低いことに原因したのである。
『ヤア、坊や、おいでよ。』とモイセイ・フイリポヴヰツチが云った。
『いらっしやい。』と少年は答へたが、居る場所からは動かなかつた。彼等はお客さんに、何故私が動かないかを、意地惡さうに笑ひながら說明した。彼はいそ/\と、閾の向ふ側から私を抱上げて、心
からの抱擁をしてくれて、私の困惑を救つてくれた。
 晩餐會ではモーニヤが注目の焦點であった。母は腕に縒をかけた料理で彼をもてなし、喰べ物が美味かつたかどうか、そして彼のその中で好きな料理は何んであつたかを訊ねた。夜になって、獸群が小舍の中へ追込まれた後、モー二ヤが私に云った。『こっちへお出で、新しい牛乳を飮まうぢやないか、コップを二つ三つ持ってお出で……だが坊や、コツプを持つ時には、外側から持つもので、指を中へ入れて持つものぢやないんだよ。』
 私はモー二ヤから私の知らなかった色ななことを學んだ。例へばコッブの持ち方だとか、洗ひ方、或言葉の發音の仕方、それから、牛から取りたての牛乳が何故蓄へるのに好いか等を。彼は所有地を散步し、書きものをし、九柱戲ニネピンをして遊び、私が大學豫科ヂムナジウムの一年に這入る準備のために、私に數學とロシア語の文法を敎へた。彼は私を狂喜せしめると同時に、不安にした。彼の中に生活に於ける非常に嚴正なる訓練の要素――都市文明の要素を感得された。
 モー二ヤは彼の田舍の親近者達に優しかった。彼は冗談口をきゝ、時には柔かいテナーで低く唄つでゐた。時によると彼は何んだか陰爵らしく見えた。そして食事のテーブルに着いても、默然と坐つて、瞑想に耽ってゐた。彼はよく心配さうな目付きになって、何にか心配なことでもあるのではないかと訊ねられた。彼の答は簡單で廻避的であつた。たゞ私達の村に於ける彼の滯在が、終りに近づいたゞけのことである。だから、私は彼の陰欝な時の原因を漠然と推測し初めた。モー二ヤは村の野蠻な狀態か、それとも何んかの不正のために、惱亂されたのであった。それは彼の伯父や伯母が特に頑固な主人であったからではなかつた。――それは如何なる事情の下に於ても云ひ得ないことである。勞働者や農民に關する一般的關係の性質は、決して他の所有地より劣惡ではなかつた。と云って、非常に良くもなかつたが――そしてこれは、それが壓制的であることを意味してゐた。或時牧場人夫が馬を餘り遲くまで放つて置きすぎたと云ふので、監督が彼を長い笞で打った時、モー二ヤは眞蒼になって舌打ちをしながら『何んて恥知らずだ。』と云つた。だから私もそれが恥知らずなことだと考へた。私は同じやうに感じたとしても、彼がさう云つた表現をしなければ、さうと知らなかったのだ――私は自分の思ひ通りに物事を考へる傾向をもつてゐたのだ。然るに如何なる出來事に於ても、彼は私にそのやうな考へ方をするやうに敎へ込んだ。そしてこれ許りは、一生の間、感謝の意をこめて十分私の中に滲込んでゐる。
 シュペンツェルは、州立ユダヤ人女學校の校長と結婚しようとしてゐた。ヤノウカには彼女を知つてゐる者は一人もなかつた。然し誰でも彼は學校の校長さんで、しかもモーニャの花嫁なんだから、人竝優れた人だらうと考へてゐた。私がオデッサへ送られることに決つたのは、その次の年の春であつた。私はシュペンツェルと一緖の家に住んで、大學豫科へ通つた。其處で植民地0仕立屋はどうにか私に合ふ着物を作つた。大きなトランクは、バタの這入つた容器や、ジャムやその他、町の親戚の贈物にする、色々のものゝ這入つた壺でいつぼいになつた。吿別は永くかゝつた。私はうんと泣いた。母もさうだつたし、姉もさうだつた。そして生れて始めて、私に取つてヤノウカの一切が、如何に懷かしいものであるかを感じた。私達は草原を横切つて停車場へ馬車を走らせた。そして私達は本通りへ出るまで泣續けた。
 ノービイ・ブツグから二コライエフまで私達は汽車に乘つて、そこから汽船に乘換へた。サイレンは私の脊骨を震はせた。それは新しい生活に呼びかけるやうに響いた。私達はまだブツグ河にゐたので、海はずつと先にあつた。私の前途には實に澤山のものがあつた。埠頭があり、馭者がをり、ポクロウスキイ竝木通りがあり、大きな古い建物があり、そこには女學校があつて、その校長が泊つてゐた。私は凡ゆる角度から調査をした。第一に若い女の人が、それから婆さん――彼女の母がゐて額と兩方の頰に接吻をしてくれた。モイセイ・フィリッポヴヰツチはヤノウカのことや、そこにゐる人々のことや、良く知ってゐる牛のことまでも訊ねながら、いつもの調子で冗談を云った。いま私にとつて、牛は、こんなにすぐつた人々の中で、彼等と話をすることを妨げる不都合な動物だ、と思はれた。私の部屋も餘り大きすぎはしなかった。私は食堂ではカーテンの後ろの席が割當てられた。そして、私の擧校生活の最初の四年間が過されたのは、こゝであつたのだ。

南総里見八犬伝(004)

南總里見八犬傳卷之二 第三回
東都 曲亭主人 編次
——————————————————


景連信時暗かげつらのぶときあん義實よしさねこば
氏元貞行厄うぢもとさだゆきやく館山たてやましたが

卻說安西三郞大夫景連かくてあんざいざぶらうたいふかげつらは、近習きんじゆのものゝつぐるをきゝて、結城ゆふき落人里見義實おちうどさとみよしさね主從三人しゆうじゆうみたり水行ふなぢより、こゝにきたれることおもむきおほかたはすいしながら、後難こうなんはかりかたければ、すみやかには回答いらへせず、麻呂信時まろのりぷときを見かへりて、「如此々々しかしかことになん。なにかと思ひ給ふやらん」、ととふを信時きゝあへず、「里見は名ある源氏げんじなれども、こゝにはえんよしみもなし。無二むに持氏もちうぢがたなれば、結城氏朝ゆふきのうぢとも荷擔かたらはれ、籠城三年ろうぜうみとせに及ぶものから、京鐮倉きやうかまくらてきうけては、いのちかねてなきものと、思ふべき事なるに、落城らくぜうの日におよぴて、親のうたるゝをも見かへらず、阿容々々おめおめにげかくれ、こゝらわたりへ流浪さそらひたる、とるよしもなき白徒しれものに、なでふ對面たいめんし給ふべき。とく追退おひしりぞけ給ひね」、と爪彈つまはじきをして說諭ときさとせば、景連しばらかうべかたむけ、「それがしもさは思へども、もちふべきよしなきにあらず。彼等かれら三年みとせ籠城して、たゝかひにはなれたるもの也。義實としなほわかしといふとも、數萬すまん敵軍てきぐん殺脫きりぬけずは、いかにしてこゝまでべき。召入よぴいれて對面し、その剛臆ごうおくを試みて、使ふべきものならば、定包さだかねを討一方うついつほうの、大將たいせうを得たりとせんまた使ふべきものならずは、追退おひしりぞくるまでもなし。立地たちところ刺殺さしころして、のちわざはひはらひなん。このはいかに」、と密語さゝやけば、信時しば〳〵うち點頭うなつき、「微妙いみじくはかり給ひにけり。それがしも對面すべきに、准備ようゐし給へ」、といそがせば、景連にはか老黨ろうどうよぴよして、箇樣々々かやうかやう說示ときしめし、武藝力量兼備ぶげいりきりやうかねそなはつたる、壯士等ますらをらはかりことつたへさせ、只管ひたすらにいそがしたつれば、信時も又、したる、家臣等かしんらよびのぼして、そのことのこゝろを得させ、あるじ景連もろともに、客房きやくのまにぞいでたりける。そのこと爲體ていたらく、をさ〳〵り、をかゞやかして、安西が家臣廿人、麻呂が從者ともひと十餘人、みないかめしき打扮いでたちして、二帶ふたかはながれつゝ、飾立かざりたてたる數張すちやう弓弦ゆつるは、かべゑがけ瀑布たきごとく、かけわたしたる鎗薙刀やりなぎなたは、春の外山とやまかすみに似たり。ほそどのにはまくたれて、身甲はらまきしたる力士りきし、十人あまり、「すは」といはゞ走りいで、かの主從しゆうしゆう生拘いけとらんとて、おの〳〵手獵索てぐすひきてをり。
“南総里見八犬伝(004)” の続きを読む

中井正一「土曜日」巻頭言(12)

◎野にすみれが自由に咲くときである      ー九三七年三月五日

 一日一日、野も山も、草も本も、その装おいを変えている。
 何人がこれを止めうるか。止めえようもない静かなカが、物の秩序の中にみずからを押し進めている。
 星の移りに驚きの眼を睜り、四季の変りに怖れを抱いた原始人の畏敬は、物の秩序の動かすベ からざる厳しさに端的に向かった心持ちである。
 人間は、生きるという大きな不思議を、この物の秩序の中に読み取ろうとしたのである。物の秩序の上に、生きる秩序を築こうとしたのである。自分の秩序を、あるいは謬り、その謬りをはずみとして、新しい真実の中に、みずからを押しあげ、試み、切り展いてゆく新たな行動としての秩序を創造しているのである。一本の堇が星よりも強いのは、それが野に生えてくる秩序をみずからで創っているからである。
 それが生きていることの誇りであり、尊厳である。
 しかし、人間は今、人間の秩序を放棄している。
 弾丸の弾道の秩序の精密な研究は、人間の智力の究めたところである。しかし、その弾丸の落ちてゆく目的地は、砕け去る相手は、人間と、人間が永く築いた、人間の秩序である。すべての秩序が何物かの奴隸となっている。花に対して、星に対して、弾道の秩序に対してさえも、恥しいのは人間である。
 ロマン・ローランは、ー九一四年、十二月四日、フランスに書き送った。「私はもはやフランスの知識階級を誇りとしない。思想界の指導者たちがいたるところで衆愚に降伏していったあの信ずべからざるほどの弱さは、彼らが背骨を有しないものであることを十分に証明した。……」
 そして、彼らを弱くする、魂に抱く、イドラを粉砕するものは誰か?
 ローランは答える「野に生ゆる自由の菫」であると。
 日本に生くる幾人の人が、今、この春の光の中に生まれ出ずる自由な菫に、恥じずにいられるだろうか。

南総里見八犬伝(003)

南総里見八犬伝巻一第二回
東都 曲亭主人 編次
——————————————————-


落葉岡おちばがおか朴平ぼくへい無垢三むくざう光弘みつひろ近習きんじゆとたゝかふ」「山下定かね」「那古ノ七郎」「杣木ノぼく平」「洲さきのむく蔵」「天津ノ兵内」

一箭いつせんとばして侠者白馬けうしやはくばあやまつ
兩郡りやうぐんうばふて賊臣朱門ぞくしんしゆもんよる

安房あはもと總國ふさのくに南邊みなみのはてなり。上代あがれるよには上下かみしも分別わいだめなし。のちにわかちて、上總下總かつさしもふきなつけらる。土地擴漠ひろくしてくは多し。蠶飼こかひ便たよりあるをもて、ふさみつぎとしたりしかば、その國をもふさといひけり。かくてふさ南邊みなみのはてに、居民鮮をるたみすくなかりしかば、南海道阿波國なんかいどうあはのくはなる、民をこゝへうつし給ひて、やがて安房あばとぞよばせ給ひぬ。日本書紀景行紀やまとふみけいこうきに、所云淡いはゆるあは水門みなとこれ也。
“南総里見八犬伝(003)” の続きを読む

南総里見八犬伝(002)

南總里見八犬傳卷之一第一回
東都 曲亭主人 編次
——————————————————


義実よしさね三浦みうら白龍はくりうる」「里見よしさね」「杉倉木曽之介氏元」「堀内蔵人貞行」

季基すゑもとをしえのこしてせつ
白龍はくりうくもさしばさみてみなみおもむ

京都きやうと將軍せうぐん鐮倉かまくら副將ふくせう武威ぶゐおとろへて偏執へんしうし、世は戰國せんこくとなりしころなん東海とうかいほとりさけて、土地とちひらき、基業もとゐおこし、子孫十世しそんじゅっせに及ぶまで、房總あわかづさ國主こくしゆたる、里見治部さとみぢぶの大夫たいふ義實朝臣よしざねあそんの、事蹟じせきをつら〳〵かんがふるに、淸和せいわ皇別みすゑ源氏げんじ嫡流ちやくりう鎭守府ちんじゆふ將軍せうぐん八幡太郞はちまんたろう義家朝臣よしいへあそん十一世じういつせ里見さとみ治部ぢぶの少輔せういう源季基みなもとのすゑもとぬしの嫡男ちやくなん也。時に鐮倉の持氏卿もちうぢけう自立じりう志頻こゝろざししきりにして、執權憲實しつけんのりさねいさめを用ひず、忽地たちまち嫡庶ちやくしよをわすれて、室町將軍むろまちせうぐん義敎公よしのりこうと、確執くわくしつに及びしかば、京軍きやうぐんにはかによせきたりて、憲實に力をあはし、かつ戰ひ且進かつすゝんで、持氏父子ふしを、鐮倉なる、報國寺ほうこくじ押籠おしこめつゝ、詰腹つめはらきらせけり。これはこれ、後花園天皇ごはなぞのてんわう永享ゑいきやう十一年、二月十日のことになん。かくて持氏の嫡男義成よしなりは、父とゝもに自害じがいして、かばねを鐮倉にとゞむといへども、二男じなん春王はるわう三男さんなん安王やすわうとまうせし公達きんだちは、からく敵軍のかこみのがれて、下總しもふさおち給ふを、結城氏朝迎ゆふきのうぢともむかへとりて、主君しゆくんあほたてまつり、京都の武命ぶめいに從はず、管領くわんれい淸方持朝きよかたもちとも)の大軍たいぐんをもものゝかすとせず。されば義によつて死をだもせざる、里見季基さとみすゑもとはじめとして、およそ持氏恩顧おんこ武士ぶしまねかざれどもはせあつまりて、結城ゆふきしろを守りしかば、大軍にかこまれながら、一たびも不覺ふかくを取らず、永享十一年の春のころより、嘉吉元年かきつぐわんねんの四月まで、籠城三年ろうぜうみとせに及ぶものから、ほかたすけの兵つわものなければ、かて矢種やだね竭果つきはてつ、「今ははやのがるゝみちなし。たゞもろともに死ねや」とて、結城の一族いちぞく、里見のしゆうじゆう城戶推きどおしひらきて血戰けつせんし、込入こみいる敵をうちなびけて、衆皆みなみな討死うちしにするほどに、その城つひおちいりて、兩公達ふたりのきんだち生拘いけどられ、美濃みの垂井たるゐにてがいせらる。にいふ結城合戰ゆふきかつせんとはこれ也。
“南総里見八犬伝(002)” の続きを読む

南総里見八犬伝(001)

 しばらく更新が滞っていたが、テキスト中心の記事ゆえ、著作権の切れた著作のアップをボツボツ再開…今更、「勧善懲悪」の「八犬伝」ではあるまいにと思ったが、HTML の ruby タグに興味を持ち、テキスト処理での正規表現からの《》→ ruby タグへの変換とエディタでの実装がまあまあうまくいったので…全百八十回、いつまでかかるのやら…焦らずに…

 南総里見八犬伝のテキストとして、「ふみくら」氏のサイトがある。残念ながら、第30回までであり、HTML 版はコードが、Shift-JIS である。そこで、「序文」類を、UNICODE に変換し、掲載する。
 また 本文の第2回目以降は、今を去る20年前(校正:2005年3月25日とある)に、「ちまえの館」さんが、アップされたものを、基本的に底本とし、随時岩波文庫版(新字表記)および、国立国会図書館アーカイブを参考とした。図は,多くは岩波文庫版から掲載した。
 底本などの漢字を旧字体に統一した。
 ルビは、ruby タグを用いた。
〳〵:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)、濁点付きの二倍の踊り字は「〴〵」とした。
 UNICODE 表にない漢字は、ネコのおやつサイト(南総里見八犬伝翻刻)の文字データを利用した。

 あらためて、「ふみくら」さん、「ちまえの館」さん、「ネコのおやつ」さんのご尽力に敬意を表す。

 以上、各回ごとの注記は基本的には省略する。


『南總里見八犬傳』第一回より「序文」など

【外題】
里見八犬傳 肇輯 巻一

【見返】
曲亭主人藁本\南總里見八犬士傳\柳川重信像\山青堂

【序】書き下し
八犬士傳序[噪野風秋]
初め里見氏の安房に興るや、徳誼以て衆を率ゐ、英略以て堅を摧く。二總を平呑して、之れを十世に傳へ、八州を威服して、良めて百將の冠たり。是の時に當て、勇臣八人有り。各犬を以て姓と爲す。因て之を八犬士と稱す。其れ賢虞舜の八元に如ずと雖ども、忠魂義膽、宜しく楠家の八臣と年を同して談ずべきなり。惜い哉筆に載する者當時に希し。唯だ坊間の軍記及び槇氏が『字考』、僅かに其姓名を識るに足る。今に至て其の顛末を見る由し無し。予嘗て之を憾む。敢て残珪を攻めんと欲す。是より常に舊記を畋獵して已まず。然ども猶考据有ること無し。一日低迷して寝を思ふ。䁿聴の際だ、客南總より來る有り。語次八犬士の事實に及ぶ。其の説軍記傳所の者と同からず。之を敲けば則ち曰く、「曾て里老の口碑に出たり。敢て請ふ主人之を識せ」予が曰「諾、吾れ將に異聞を廣ん」と。客喜て而して退く。予之を柴門の下りに送る。臥狗有り。門傍に在り。予忙として其の尾を踏めば、苦聲倏ち足下に發る。愕然として覺め來れば、則ち南柯の一夢なり。頭を回して四下を覽れば。茅茨客無く。柴門に狗吠無し。言コヽニ〳〵客談を思へば、夢寐と雖ども捨つべからず。且に之を録せんとす。既にして忘失半ばに過ぐ。之を何奈すること莫し。竊かに唐山の故事を取りて。撮合して以て之を綴る。源禮部が龍を辨ずるが如きは。王丹麓が『龍經』に根つく。靈鴿書を瀧城に傳るが如きは。張九齢の飛奴に擬す。伏姫八房に嫁するが如きは。高辛氏其の女を以て槃瓠に妻すに傚へり。其の他毛擧に遑あらず。數月にして五巻を草す。僅に其の濫觴を述て。未だ八士の列傳を創せず。然と雖ども書肆豪奪して諸を梨棗に登す。刻成て又其の書名を乞ふ。予漫然として敢て辭せず。即ち『八犬士傳』を以て之に命す。
文化十一年甲戌秋九月十九日。筆を著作堂下の紫鴛池に洗ぐ。
   簑笠陳人觧撰
  [曲亭馬琴著作堂之印][乾坤一草亭]
“南総里見八犬伝(001)” の続きを読む

中井正一「土曜日」巻頭言(11)

◎正月の気分は遠い追憶に似ている  一九三七年一月五日

 一九三七年が全世界に一様に来ることは何でもないようだが、人間全体に一様の親しい感じがするものである。「元旦や昨日の鬼が礼に来る」といったように、年のはじめは対立感情がフトなくなる日である。
 一体お祭りとか騒動は人を結びつけるものである。東京震災のとき『ロンドン・タイムズ』は、「かかる災害にあって、人間は文明のヴェールがいかに薄いかを知る。日本は今やS・O・Sをかかげるべきである。全世界は直ちにこれを救いにいかねばならない」と書いた。米国からは食糧や毛布や靴や義援金を積んで軍艦が全速力をもってやってきた。
 そこには何の私心もありえようがないほどの咄嗟のことであった。これがあたりまえの人の心であり、これでさえあれば何の悲しみも怖れも、この三七年度にはないわけである。
 文明のヴェールはいつでも人間にとって薄いのだし、全世界の人間は、ただでさえ、そう楽に生きてはいないのである。東京震災のあの瞬間に全世界にあたえたショックのような気持ちが永くつづいてくれさえしたら、わが世は永遠の正月気分なのである。課長も社員も、やあおめでとうといったような正月気分でいられたらどんなにいいかと思わぬ人はあるまい。
 しかし、救いにきたその軍艦が東京震災くらいいつでも再現できることを、気づきはじめると、わが世の春も酔もさめる感じがする。
 文化というとむつかしいようだが、この正月気分のように、人間が瞬間ホッと本然の自分にたち帰った気持ちと行動を、いろいろ分析し守り育てることなのである。
 その本然の姿とは、それに帰ろう、それに帰ろうとしている人間の失った故郷である。歴史の幾千年もの過去は、その本然の姿の中に生きていたのに、いろいろの機構が、人間をそこから引き離し、追い出し、追放したのである。
 これに反して、人間ができたとか、しっかりしてきたということ、この素直な心を曲げて歪められた世界観で塗り固め、一つの疎外された世界観でガッチリ凝り固まる。そのことは口にはいわないが、実に淋しい影を人間に与えた。
 正月とかお祭りとか騒動、または物想うとき憩うとき、この凝り固まった殻を破って、それを溢れて、遠い遠い想い出と懐郷の気分が、平和と自由と協力の懐しさが込みあげてくるのである。抑えた真実がその姿を包みきれないのである。
 今年も、週末の何れの日をも、この真実を解放する憩いと想いとしようでないか。

編者注】図は、「土曜日」1937年1月号表紙

中井正一「土曜日」巻頭言(10)

◎真理は見ることよりも、支えることを求めている 一九三六年十二月五日

 ある人たちはあるいは世の中はもっと悪くなるかもしれないという。そのいろいろの理由をあげ、その必然を説いてくれる。
 そして若い人たちが無邪気に真理とし、欠乏を欠乏として主張するとき、そんなことは今の時勢では通らないし、無駄な努力だという。
 そして、いつかよい日が向こうから歩いてくるかのようにわずかな行動をも止め、また他の行動を批判し嘲笑する。
 世の中がもっと悪くなることを知っていることが、あたかも歴史の全部の知識であるかのごとく、弁証法の全部であるかのごとくである。果たしてそうであろうか。
 地図に描いた線のように、図式的に一つの点から他の点に歴史がその道を辿るものだろうか。辿るといって横から見ていていいはずのものだろうか。
 そうではない。
 一つの動きから他の動きに移るわずかな移動の、その動きのモトはなんであるか。それをもう一度考えなおさなければならない。
 生活の真実が、あらゆる無理な暴力に抵抗する。その抵抗の真実が、歴史のあらゆる動きのモトではないのか。
 世の中が悪くなれば、その無理な暴力にさらに抵抗する自然な力が、歴史そのものを動かしているのであって、善くするも、悪くするも、日常の小さな人々の正しさを支える主張の上にかかっているのである。
 人々の小さな欠乏が、その欠乏を自覚して正しくその主張を高めることによって、歴史と生活が、その方向を正しく変えてくるのである。
 真理は平常の小さな事の中にかくれているのであって、大げさなポーズや、知ったかぶりな図式の中にあるわけではない。
 どんな大きな声で演説してみても、旗と行列を何年繰り返してみても、何の英雄も一番簡単な肉の値段を一銭でも下げることはでぎなかったではないか。否、数字はその反対を黙って物語っている。
 真理と勝利は常に日常の生活の味方である。自分たちの小さな生活の周囲の、どんな小さな正しい批判も、どんなささやかなる行動も、それは歴史を一端より一端に移動せしめる巨大なる動きのモトとなりうるのである。
 歴史は横から見られるよりも、その中に入つて、それを支えることを求めている。男も女も諸君の一つ一つの小さな手が、手近な生活の批判と行動を手離さないことを、真理は今や切に求めている。

中井正一「土曜日」巻頭言(09)

◎秩序が万人のものとなる闘いそれが人間である ー九三六年十一月二十日

 ある哲学者は、自分の存在を、自分で否定できること、例えば自殺することができること、これが人間が存在それみずからよりも優れた自由をもっている証拠だという。
 それが、石やら、星やら、動物よりも、人間がすぐれている証拠だといおうとする。
 そのことはとんでもない間違いである。
 自分が自分で死ぬことは、人間の闘いとったみずからの秩序に、暴力を奮って、それを破壊して土とか、水とかの秩序に還すことである。
 それは決して、人間の誇りではない。
 人間の誇りは、死を賭して、破滅をも賭して、人間の秩序が万人のものとなる創造への厳かな闘いを挑むことの中にあるのである。ダダ的な単なる破滅への戯れ、似而非抑的な無への落着、「地の涯」的な虚無への感激、フランコ的な存在そのものへの火遊び、ただそれだけでは秩序へのいたずらなる暴力である。
 しかし、また行動のないただ秩序の認識、図式的な歴史の推移の見透しと見極めだけでは、それがいかに賢明であっても、それがいかに的確であっても、ただそれだけでは秩序のいたすらなる無力である。
 秩序の正しい認識の下に、しかも欠乏に差し出す嬰児の学のような、直截な無邪気をもって、命を賭けた秩序が万人のものとなる創造への闘い、この闘いの中に、一個の人問の意味のすべてが含まれているのである。
 新たなヒューマニズムは、命をかけていることの感じの中に在るのでもなく、また単なる合理の誇りでもない。
 合理が万人のものとなることに向かって、自由に向かって、存在そのものをかけている關い、この存在みずからの賭けられた存在、命をかけた命、この中にヒューマニズムの意味があるのである。
 しかもこの合理に向かって存在をかける闘いは、幾万年の人間の闘いの勝利を教えてくれた方法である。
 合理が万人のものとなることが、弓矢と武器を獲ることよりも、もっと近道であり、困雄でもある、最も急を要する大切なことであることを知らせてくれたのも、この闘いの幾万年の教訓である。
 私たちは週末の一日をこの幾十万年の人間の誇りを顧ることに皆そうではないか。

中井正一「土曜日」巻頭言(08)

◎人間の最後への勝利への信頼が必要である ー九三六年十一月五日

 水がすき間があれば常に低いところに降りるように、自然は噓をついたことはない。
 人間はこの噓のない自然の現象に副って、みずからを処してゆ.くほかはないのである。そして、自然と闘い、人間みずからの生活を合理化してゆくこと、それが生きてゆくということである。生活みずからにも人間は噓はつけないのである。噓をついたところで、足下から、それははげてゆくのである。
 何故なら自然と人間との戦いは切実であって、噓を許さないし、噓をつけば人間は直ぐみずからを傷つけずにいないのである。
 噓はすぐ傷となってあらわれる。
 小さい傷なら、噓は噓をもって覆える。しかし、そのことによつて傷はそのロをより大きく開く。
 覆うべくもない傷口となって万人の前に横たわるのである。
 噓に対して闘うものは、言葉でなくして、最後は生活の事実である。
 万人の生活があらゆる噓を噓として示し、生活みずからの矛盾として現われた場合、真実はたとい何人の言葉をも、雄弁をも借りなかったとしても、みずから万人のものとなるのである。
 そのとき、人間はまともに自然に向かう戦いに参加することができるのである。そして、実に数百万年を勝ってきた人間の勝利の戦列に加わることができるのである。
 人間のなした過失が二千年つづいたといって、嘘を二千年いわれつづけたといって、地球を支えるアトラスのように、すべてを支えてきた人間たちは希望を失いはしない。
 人間の祖先の親しむべき人たちは数万年をどしやぶりの雨の中に、数十万年を氷河の中にみずからの生活を守りつづけてきたのである。そしてそれを正しく守りつづけたからこそ、ここに存在したのである。
 今ここに人間がいることは、希望を失い、自棄に堕ちるには余りにも切実であり、真実への闘いの結果なのである。
 結晶がその噓のない秩序を宇宙の前に誇るように、人間はその秩序を宇宙の前に築きあげつつあるのである。

編者注】
 嘘・虚偽が、特に「政治」や「ビジネス」の世界で、まかり通る世の中なれど、長いスパンでみると、「真実」が優ると信じる他ないのだろう。「噓に対して闘うものは、言葉でなくして、最後は生活の事実である。万人の生活があらゆる噓を噓として示し、生活みずからの矛盾として現われた場合、真実はたとい何人の言葉をも、雄弁をも借りなかったとしても、みずから万人のものとなるのである。」
 先日、医療生協の地域でのまとめ役だった、S さんが亡くなった。嘘のない人柄は誰からも好かれていた。十年以上まえになるだろうか、母の日を前に、カーネーションのギフト券を、「お母さんへのプレゼントに使いよし。」と進呈したことがあった。彼は、そのままその券を、母親に手渡したそうだ。「花を買ってから、それを渡すもんや!」と思ったが、彼らしい率直さの現れだったかもしれない。最晩年は、幾たびかは、意にそぐわないことも多かったと推測するが 彼の誠実な人生を思い、心から悼む。

 図は、「土曜日」の3度目の表紙。