正岡子規スケッチ帖(006)

編者注】タイトルを変更して…

七月二十六日曇 李《すもも》 此《この》李ハ不折《ふせつ》留守宅ヨリ贈ラル 其《その》庭園中ノモノナリ
七月二十七日曇 越瓜 シロウリ 胡瓜 キウリ

参考】岩波文庫「正岡子規スケッチ帖」

読書ざんまいよせい(025)

◎正岡子規スケッチ帖(004)

①同日 茄子《なす》
②七月二十二日晴 天津桃
③七月二十三日雨 甜瓜《てんか》[マクワウリ]一ツ梨二ツ
④[下村為山の画]

第三部から

子規氏の絵 下村為山

 自分が子規氏を知つたのは、子規氏が一高の寄宿舎である常磐舎に居た時であつた。常磐舎の監督をして居たのは、自分の親戚にあたる鳴雪〔内藤鳴雪〕氏で、鳴雪氏の家と常磐舎とは廊下一つでつながつてゐたので、時々嗚雪氏の所へ遊びに行く内、いつか常磐舎へも次第に出入するやうになり、子規とも相知るに至つたのであつた。その当時、子規氏は好く故人の俳句を写してゐたやうに憶えてゐる。
 その後私が本郷の湯島に下宿してゐた頃、子規は二三度訪ねて来てくれたが、何をその時話し合つたか忘れてしまつた。私は子規氏が「日本新聞」に入つた時代には郷里に帰つてゐた。が、日本新聞の別動隊といふべき「小日本」を出した時、子規氏は私に手紙を寄せて、今度新聞に俳句欄を作るやうになり、挿絵を入れたいと思つてゐるが、君一つ書いてはくれぬだろうかと相談されたことがあつた。当時の私は今のやうに日本画はやらず、専ら洋画をかいてゐたのであつたが、一々画材|迄《まで》指図されては困ると言つて、それに応ぜず、断りを言ひ送つた。で、挿絵は不折〔中村不折〕氏の方へ廻ることになつた。

 私が再度郷国から上京した時には、子規氏は、最早《もはや》病人であつた。私は常に御気の毒だと思つてゐたので、度々出かけて余り病人を疲労させてはと思ひ、却《かえ》つて見舞にも出かけずにゐた。唯だ句会には欠かさず出かけて、そこで子規氏に会つてゐた。子規氏は、病中にも拘《かかわ》らず好く短冊をかいては私にくれられた。その短尺は今も家に取つてある。

 恐らく誰にも話されなかつたことだらうと思ふが、或る時、子規氏は私に向つて、体が丈夫なら画家になつて見たく思ふよと言はれたことがあつたが、子規氏は却々《なかなか》絵が上手で、絵画の天分は性来的にもつてゐられた人のやうであつた。寝て居て、枕頭にある花や果物|杯《など》を水彩で写生してゐたが、その絵は誰に習つた訳ではないのに、自ら一家の風格を具《そな》へてゐた。言はば子供の自由画式のものだが併し簡略な筆致の中に却々好いものを表現してゐる。子規氏の絵について思ひ出したが、つい先日、私の郷里の人から、子規氏が幼年の折、(十二三歳時分)誰のものか分らぬが、或る画手本を写したものを送つて、私にその画帳に何か記してほしいと言つて寄越したことがあつた。その子規氏の写した画手本といふものは余程《よほど》好く考へて作られたもので、人物、風景、魚貝類の一々を、何人にも描けるやう、運筆の順序を一格々々平仮名文字で説明し、それを三十一文字の歌に作り成して、歌の通りに筆を運ぶと、自然画が描けるやうになつてゐたが、凡そ三四十枚ばかりあつて、赤紫の二色位で色取りが施してあつた。小冊子ではあるが、子規氏は実に根気好く、且つ忠実にそれを写してゐた。さうして表紙の裏に「正岡|升《のぼる》写す、十二歳」と記してあつた。私は此《こ》の画帳を見た時、子規氏が幼少時代より美術的に天分を有してゐたのを知つて、後年病中で私に画家になつて見たいと言はれたことの、謂《いわ》れなき気紛れ心からでなかつたのをしみじみと感じたのであつたが、恐らく子規氏は、画家として立たれても、亦《また》驚くべき才能を発揮せられたらうと私は思つてゐる。子規氏の幼年時代の絵、並《ならび》に病中略画に見てもその豊かなる才分は十分に窺知《きち》し得らるる所で、氏の多方面的才能には、驚かざるを得ない。
〔「日本及日本人」第百六十号(正岡子規号)昭和三年〕

編者注】寒川鼠骨の文章二篇は、2025年1月に、著作権が消失するので、時期が来れば、改めて投稿する。

読書ざんまいよせい(023)

◎正岡子規スケッチ帖(003)

①七月二日曇 山形ノ桜ノ実
②七月十日雨 昨日来モルヒネノ利《き》キスギタル気味ニテ昼夜|昏々《こんこん》夢ノ如ク幻ノ如シ 食欲少シモ 無シ 今朝|睡起《ねおき》漸《ようや》ク回復ス 午餐《ごさん》ヲ食シ了《おわ》ツテ巴旦杏《はたんきょう》〔スモモ〕ヲ喫ス 快言フペカラズ
③七月十四日小雨 桃二顆
④七月十六日曇 夏蜜柑又|夏橙《なつだいだい》

岩波文庫には、第二部、第三部として、当時の新聞論調や諸家の批評が載っている。このうち、版権が消失している分から、収録する。

第二部 子規の絵画観

「明治二十九年の俳句界」より

(四)

 印象の明瞭なる句を作らんと欲せば高尚なる理想と茫漠たる大観とを避け、成るべく客観中の小景を取りて材料となさざるべからざること既に之《これ》を言へり。印象の明瞭といふ事は美の一分子なれども一句の美を判定するは印象の明不明のみを以《もっ》てすべからざること勿論なり。印象の不明なる句の中に幽玄深遠なる者もあり。印象の明瞭なる句の中に浅薄無味なる者もあり。即《すなわ》ち印象不明なるがために却《かえ》って善く印象明瞭なるがために却って悪しき者さへあるなり。然《しか》れども碧梧桐《へきごどう》の特色は多く印象明瞭なる処《ところ》に在り且《か》つ其《その》好むところ亦印象明瞭なる一方に傾くを以て吾人が此《ここ》に論ずるところも亦此一点に在り。
 印象明瞭といふことは絵画の長所なり。俳句をして印象明瞭ならしめんとするは成るべくたけ絵画的ならしむることなり。内容に限りある俳句は到底複雑精緻なる絵画を学ぶ能《あた》はざるを以て簡単明快なる絵画を学ばざるべからず。絵画にー枝の花、一羽の鳥、数顆の菓物、婦人半身の像あるが如き碧梧桐の俳句と相似たる者なり。此の如き絵画、此の如き俳句は写生写実に偏して殆《ほとん》ど意匠なる者なし。精密帮言にへば意匠無き絵画、意匠無き俳句はあるべからざる筈《はず》にてー枝の梅も数顆の梨も其形状の上に於て配置の上に於て多少の撰択と取捨とを要すること勿論なれども他の理想の多き者に比して殆ど意匠無しといふて可なるべし。此意匠無き絵両俳句が美術文学の上に幾何《いくばく》の価値を有するかといふは一疑問に属す。
 理想に偏する人は此の無意匠の著作を嫌ふて浅薄無味|蠟《ろう》を嚙《か》むが如しと為す。普通一般の人も亦之を見て何等の興味をも感せず。而《しか》して此柿の絵両を見て多少の感を起す者は絵画の技術に経験ある者と些《いささか》の智識も無き田舎の爺様婆様の徒を多しとす。(俳句は専門家の感を起すこと同様なれども、爺婆を感ぜしむること能はず。蓋《けだ》し俳句は文字といふ符号を用うるを以て全く無教育無知識の若を絵両の如く直覚的に感ぜしむる能はざるなり)爺婆の感ずる所は「ああ美しい」と感じ「本とうの物のやうだーと感ずるのみにして専門家の複雑なる感情を起す者と同じからずといへども「本とうの物のやうだ」と感ずる一点に至りては両者密も異なることなく、専門家の第一要点として見る者亦実に此処《ここ》に在り。是れ専門家は技術の熟練に感ずる者にして多くは自家の経験より出づ。之を排斥する者には二説あり。日く 一花ー烏の簡単なる事物は尋常にして無味を免れず、同じく写生なりとも今少し珍しき事物、複雑なる事物を写すべしと。日く写生は天然を写すなり。然れども吾人の美術家に望む所は天然よりも史に美なる者を写すに在り。美術家は高尚なる理想を写し出ださざるべからずと。
 第一説は簡単と複雑との美の比較にして(此説を極論すれぱ第二説となるべし)説者は複雑を以て簡単よりも美多きものと為すなり。此小に就きては曽《かつ》て屬々《しばしば》論ぜし所あるを以てここに詳論せずといへども、要するに吾人は此説を否定し、複雑なる者の美、必ずしも簡単なる者よりも多からずといふなり。即ち簡単なる器にして複雑なる者より善きもあり、又複雑なる者にして簡単なる者より悪きもあるなり。例へばー株の牡丹を画く者必ずしもー園の牡丹を画く者に劣らず、石版摺《せきはんずり》の楠公《なんこう》父子訣別の図は必ずしも抱一《ほういつ》[酒井抱一〕上人の一花草の図に勝《まさ》らざるなり。
 説者日く子の言必ずしも偽ならず、然れども大体に於て複雑なる者は簡単に勝ると。吾《われ》問ふて日く大体とは如何《いか》なる意ぞ。説者答ふる能はず。少題《しょうけい》〔しばらくの間〕口を開いて日く、簡単にも美なる者あり。然れども簡単にして最も美なる者と複雑にして域も美なる者とを比較せば、簡単なる者は必ず複雑なる者に劣るべしと。吾日く是れ殆ど比較すべからざる事なり。美術の価値は比校的の者なれば自ら見たる画の外《ほか》に最上の美なる者を想像すべからず、縦《よ》し想像し得たりとも其が最上の画なりや否やを知るべからず。一歩を譲りて子の実験中の画に就きて之を言ふも子が複雑の方を可とするに反して、簡単の方を可とする者もあらん。画の価値が評者によりて多少の相違あること致方《いたしかた》も無きことにて固《もと》より之を判定すべき法律も無ければ、各自の標準を以て判定するより外なけれども、吾は複雑を以て簡単に勝るとするの説には賛せざるなり。さりながら簡単を以て複雑に勝るとも主張するに非ず。吾は簡単の美と複雑の美と各特色ありて必ずしも優劣を判する能はずとするなり。只《ただ》製作の上に於て簡単なる者は変化少く複雑なる者は変化多し。従って多数の意匠を得ることは複雑なる若简単なる者に勝れり。是れ数に於て見易き道理にして吾も之あるを認む。然れどもこれは美の区域の広狭にして美の程度の高低に非《あらざ》るなり。

(五)

 第二説は純粋の写生といふ事を非難するなり。絵両にして純枠のゆ牛たる以上は画家の意匠の上に殆ど見る可き者なく貴ぶべきなしといヘども、写生の技術にして巧ならば其技術の上だけにても人を喜ばしむる筈なり。説者若《も》し写生の技術を斥けて、开《そ》は写真師の撮影術に巧拙あると一般普通の技術として見るべきも美術として見るべきに非ずと言はばそれ迄《まで》なり。されども撫子《なでしこ》の花を両いて撫子に似たらば実際の撫子を見て起すだけの感は画を見ても起る筈なり。説者若しそれをも擯斥《ひんせき》して、画にして此の如きものならんに実物を見て足れり、画を見るに及ばずといはば、これもそれ迄なり。
 此種の人多くは画家に向って極めてむつかしき注文を為す人にして共むつかしき注文に合はざる普通の絵画を以て無用とするなり。其の注文必ずしも悪《あし》きに非ず。或は其注文には最も高尚純潔なる観念を含むことさへあれば画家は此の注文にも応じて製作せざるべからず。しかはあれど画家の翺翔馳駆《こうしょうちく》すべき区域は此むつかしき注文が命令する程の狭隘《きょうあい》なる者に非ず。人間が感じ得べき美の種類も或る理想家が感ずる如き特種の者に限られざるなり。
 今ここに一本二本の野花を巧《たくみ》に画きたる者ありと仮定せよ。吾は之を見て美を感ずべし。少くも天然の実物を見て起すだけの感を起すべし。否《いな》実物を見るよりも更に美なる感を起すことさへ少からず。是れ其形状配置の巧なるにも囚《よ》るべけれど又周囲に不愉快る感を起すべき者無きにも因るべし。即ち絵画の材料として美なる者のみを摘み来りしに因るなり。縦《よ》し一歩を退いて此等の実物以上の感無しとするも絵画は厳冬の候に当りて盛夏の事物を見せ得べく、一室の中に在りて山野の光景をも見せ得べし。曽て見たる者をにても再び見せしむるも絵画の力なり、未だ見ざる所を実に見るが如く明瞭に見せしむる絵両の力なり。写生の一点より論ずるも絵画にして幾多の変化せる.天然の美を容易に眼前に現出するの功あらば猶《なお》美術として存ず<ママ>べきにあらずや。況《いわ》んや純粋の写生にも猶ほ多少の取捨選択あるをや。
 然るに或る理想家が全く之を排して無用の者と為すは其実《そのじつ》、天然美の模写を以て無力と為すのみにあらずして犬然物|其物《そのもの》の美を感ぜざる者多に居る。一草一木の画を見て何等の感を起さぬ人は多く実物の一草一木を見て感を起らぬ人なリ。此種の人の美と感ずるは多く天然にあらずして人間に在り。天然的に見たる人間にあらずして人情的に見たる人間に在り。即ち人間の美は大然の美よりも多しといふに在り。吾の説は之を否定して人間の美必ずしも天然の美より多からずといふなり。或は忠孝を以て美の極致と為し或は恋愛を以て美の極致と為す器あれども吾は必ずしもしか思はず。非情の草木、無心の山河亦た時に之に劣らぬ美を感ぜしむるなり”此の説は略々《ほぼ》前の簡単複雑の説と同一致なる者なれば復《ま》たここに言はず。天然は多く簡単にして人情は多く複雑なりとの一語を言ふを以て足れりとすべし。
 以上主として絵画に就きて論じたれども俳句に於けるも同じ事なり。吾人は此等の点に於て絵画を論ずるも俳句を論ずるも共他の文学美術も同一ならざるべからずと信ずるなり。世人或は文学を重んじて絵両を軽んずる者あり。或は理想を絵両に要求せずして文学にのみ要求する人あり。吾人は此等の謬見《びゅうけん》を破らんがために、且つ印象の点に於て其極端を現さんがために特に絵画を論じたり。絵両を詳論したるは即ち俳句を詳論したるなり。
〔「日本新聞」明治三十年一月六日、一月七日付]

参考】
・復本一郎編「正岡子規スケッチ帖」(岩波文庫)
・国立国会図書館デジタルコレクション「正岡子規 果物帖」

読書ざんまいよせい(018)

◎正岡子規スケッチ帖(002)

初|南瓜《かぼちゃ》
六月二十八日雨

青空文庫・夏目漱石「子規の畫」より
図は、漱石に寄せた子規の絵 東京都足立区綾瀬美術館HPより

子規の文は、
「コレハ萎ミカケタ処ト思ヒタマヘ
画ガマヅイノハ病人ダカラト思ヒタマヘ
嘘ダト思ハバ肘ツイテカイテ見玉ヘ」

短歌は「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰りくるかね」
参考】「正岡子規スケッチ帖」(復本一郎編)岩波文庫

読書ざんまいよせい(017)

◎正岡子規スケッチ帖(001)

 「正岡子規スケッチ帖」を購入、木下杢太郎とは違った趣きもあり、眺めていて飽きない。余力があれば、少しづつ紹介する。
 図は、岩波文庫表紙以外は、「国会図書館デジタルコレクション」から、転載した。また岩波文庫での注釈は、一切省略した。

— ここから —
これは蘇山人《ろさんじん》が支那に赴くとき持ち来《きた》りて何か書けと言ひて残し置きし帖なり 其《その》後蘇山人逝きて此《ここ》帖に主なし 乃《すなわ》ち取りて病牀いたづらが(書)きの用に供す 名づけて菓物帖といふ 中に為山《いざん》子の筆に成れる者二枚あるは初めより画《か》きありし也
  明治三十五年七月十六日  病子規

青梅 明治三十五年 六月二十七日雨

参考】「正岡子規スケッチ帖」(復本一郎編)岩波文庫