後退りの記(006)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎佐藤賢一「黒王妃」(集英社文庫)

1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺は、突如として起こったものではない。ルターの宗教改革の提唱以来、各国で新旧教徒の衝突が繰り返していたが、1562年のヴァシーの虐殺は、それが大量殺戮という結果を生み出し、より大きな形で、バルテルミへとつながってゆく。思えば、フランス王朝、特にヴァロア朝は、スペイン、イギリスと違い、両派に曖昧な立場を取り続けた。ヴァシーの虐殺後、プロテスタントでの信仰の自由を一部認めたアンボワーズ勅令も和解までは至らなかった。この頃から、両派の「仲介役」として、伸してきたのが、イタリアメディチ家出身で故フランソア二世の王妃だったカトリーヌ・ドゥ・メディシスである。
ここでは、この「仲介者」というのが曲者である。現在でも、某超大国が、侵略国にその仲立ちを持ちかけているが、侵略国に向かって侵略をやめよ!と言うのが一番になされなければならず、仲裁はその後の話である。現に、十六世紀のフランスでは、最初はためらっていた息子のシャルル九世が、当初、プロテスタントのコリニーを父とも慕っていたが、結局は、殺戮の銃口の引き金を引かせたのも、カトリーヌだと言われている。疑えば、アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ四世)と娘のマルゴ王妃との縁組を用意し、その結婚式のために、パリにプロテスタント(ユグノー)を集めて殺戮の餌食にしたのも、彼女の意図だったかもしれない。もっともバルザックは、彼女に少々同情的のようだが…いずれにせよ、パリでの1572年8月24日の攻防は、その人物配置や役割など、きわめて現代的でもある。
日本では、1562年といえば、桶狭間の戦いの2年後、織田信長と徳川家康が手を結んだ時期、1572年は、家康は三方原に武田信玄の手ごわい軍勢が迫った時期だった。一方フランスでは、アンリ四世は、サン・バルテルミ以降、しばらく幽囚の身となり、カトリックへの改宗を強いられていた。

「どうする家康!」「どうするアンリ!」

後退りの記(005)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」晶文社
◎渡辺一夫「ある王公の話-アンリ四世」(「フランス・ルネッサンスの人々」(岩波文庫)所収)
◎渡辺一夫「寛容《トレランス》は自らを守るために不寛容《アントレランス》に対して不寛容になるべきか」(トーマス・マン「五つの証言」(中公文庫)所収


1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺に触れる前に、少し、渡辺一夫さんの発言を聞こう。渡辺さんは「フランス・ルネッサンスの人々」の中で、ルネッサンスから少し時代を下った、アンリ四世の話題を取り上げている。激烈な宗教対立のなか、よほど、印象深い人物だったのだろう。また、プロテスタントからカトリック、あるいはその逆の転向を選択したのも、ナントの勅令(Wikipedia)につながる「宗教的寛容」として、評価している。さらには、後年には国々の軋轢を抑制、調停する国際機関も構想していたという。カントの「永久平和論」に先立つこと200年も前のことである。彼の政治的思惑や実際的な行動を別にしても、きわめて現代的でもある。ハインリッヒ・マンの弟にあたるトーマス・マン「五つの証言」(渡辺訳)所収の評論では

秩序は、守らなければならず、秩序を紊す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきだろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。…既成秩序の維持に当る人々、…その秩序を紊す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を紊す人々の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。

上記の文章を引いたのは、昨今の状況に鑑みると、十分にアクチュアルだが、特定の個人を念頭に置いたものではないので、誤解なきよう…

渡辺一夫評論を補強する意味で、写真は、鷲田清一「折々のことば」(朝日新聞)(ツイート裕次郎より)

後退りの記(004)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アレクサンドル・デュマ「王妃マルゴ」
◎萩尾望都「王妃マルゴ」

アンリ・ドュ・ナヴァール(後のアンリ四世)は、1572年、人生の大きな転換点を迎えることは、前回に述べた。時の王母カトリーヌ・メレディスの娘、マルゴリットと結婚したことは、その一つであった。王族の婚姻はご多分に漏れず、政略や思惑の上にあっていることは例外ではあり得ない。実の母を毒殺したとのうわさもあるカトリーヌの縁者など常識では考えられない。しかし、そうしたことをのり越えて、アンリにとっては案外慧眼であったのかもしれない。のちのち、マルグリット王妃は、彼にとっては、結果的にはキーパーソンになる要素があるからだ。
アンリにとって、マルゴは幼いころに知り合ったかもしれないが、決して愛愛の相手ではないし、マルゴにしてもカトリック派の首領、ギーズ公との関係が深かったかもしれないが、同様である。その後のアンリも愛妾には事欠かなかったようだ。
第一巻だけだが、萩尾望都の少女漫画を久しぶりに読んだ(ないし眺めた)が、少女時代のマルゴの描写が興味を引いた。周囲に信仰が少しだけ異なるだけで、簡単に人を殺める風潮に、きっぱりと「私は人を殺さない」の決意するところなど、彼女のその後の人生を形作る元になったのだろう。母のカトリーヌとは違う気質のようだ。
デュマも二人の結婚直前から小説を起こしている。その二人の会話
「承知しましたわ」彼女はいった。
「政治的同盟、誠実で忠実な同盟を?」アンリはたずねた。
「誠実で忠実な同盟を」マルゴは答えた。

「ありがとう、マルグリット。…あなたの愛を手に入れるのは無理にしても、友情は欠けていない。あなたを当てにしています。あなたもわたしを当てにしください。」

ナヴァール王はかすかに笑いながらつけ加えた。「わたしは、恋愛の貞節よりも、政治の忠実さを必要としているのです」
本邦の同時代の夫婦で言えば、織田信長と濃姫に比することができようか。

後退りの記(003)

◎堀田善衛「ラ・ロシュフコー公爵傳説」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

「われわれの美徳は,ほとんどの場合,偽装した悪徳に過ぎない。」人口に膾炙したこの句は、高校時代山仲間だったN君の口癖だった。ある意味、温厚だったモンテーニュの口調とはひと味ちがう感触に驚いたものだった。それがラ・ロシュフコー「箴言と考察」という本を知るきっかけだった。

1572年は、フランスにとって多事多難な年であった。アンリ四世(当時皇太子)の母が、ナバラ王国女王ジャンヌ・ダルブレ(Wikipedia)が、息子のマルグリット(マルゴ)王妃との結婚式に列席するため、パリに赴く途中で急死した。ライバル・カトリーヌ・ド・メディシス(Wikipedia)が、毒殺したとの噂が絶えなかった。母の遺言を結婚式に向かうアンリに託したのが、フランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)であると、ハインリッヒ・マンは書く。三世は、「箴言と考察」の著者の曽祖父にあたる。その後、サン・バルテルミの虐殺(Wikipedia)という大悲劇が起こった。その結果、その頃は、プロテスタントだったフランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)は、パリの路上で殺されてしまったのである。その後は、当代の六世に到るまで、ラ・ロシュフコー家にとって苦難の日々だったのである。フランス絶対王政の確立の契機となったフロンドの乱(Wikipedia)では、当代は瀕死の重傷を負うが、それは後の話となるので、機会があれば言及するだろう。

後退りの記(002)

◎シラー「悲劇 マリア・ストゥアルト」 岩波文庫
◎ツヴァイク「メリー・スチュアート」 みすず書房

前回、ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」がらみで言えば、王母カトリーヌ・ド・メディシスの長男にして、夭折したフランソワ2世(François II de France, 1544年1月19日 – 1560年12月5日)と結婚したのが、後のスコットランド女王・メアリー・シュチュアート。彼女のその後の人生は、様々な小説、伝記、脚本、映画などでの題材を提供した。最期の数日間を緊迫するセリフで描いたのが、シラーの戯曲。そのクライマックスとも言える、政敵エリザベス女王との直接対決のシーン。

マリア:…---姉上!この全島国に代えても、いや、大洋に囲まれたすべての国を呉れるといわれても、私は今のこのあなたのような、そんな態度であなたの前に立ちたくはありません!
エリーザベット:とうとうあなたもご自分の敗北を承認なさったのね。策略もこれで尽きたのですか。もはや刺客も、来ようとしてはいませんか。この上、冒険者があなたのために悲しい騎士の努めを敢えてつくすことはないのですか。ーーーそうとも、もうお終いですよ、マリア様。

女王の寵臣で、メアリーとまんざらの中でもなかったレスター卿の思慕の思いが復活し、助命活動に傾きかけたところの、直前の裏切りなど必ずしも史実には忠実ではないだろう。ただ、レスター卿のマリアの最期を見届ける段での、彼の嘆きは、充分にドラマティックである。

レスター:(ただ一人居残って)俺はまだ生きている!この上にも生きておらねばならぬのだ!…俺は何たる損失をしたのだ。何という立派な真珠を投げ棄てたのだ。何という天福を取逃がしたことだ。ーーーあの方は死んでゆく、浄められた精霊として。ところが俺には呪われた者の絶望が残っているのみだ。…

あまり知られていないが、ロベルト・シューマンに、晩年に「女王メアリー・スチュアートの詩」として歌曲集が残っている。その中から、Youtube 収録の「祈り」。また、「あそびの音楽館」には、メアリー・スチュアート女王の詩 作品135 (Gedichte der Königin Maria Stuart, Op.135)全曲のMidi版と訳詞が載っている。彼女自身の詩に曲をつけたものだが、短調主体で物悲しく、それが彼女の人生だったのだろう。

岩波文庫のカバーにある、メリー・スチュアートは、16歳のころ、フランス王妃時代の肖像画である。(ツヴァイク「メリー・スチュアート」による、ツヴァイク曰く「それらを見るひとは、失望もしないが、あの讃歌的感激のとりこになりきることもない。そこに見られるのは、光り輝く美しさではなく、むしろ、きりっとした美しさである。」

後退りの記(001)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

(右図は、本の表紙、左図は、Google Map でのアンリ四世像案内図)
「『人類は後退《あとじさ》りして未来へ入ってゆく』というヴァレリーの言い古された言葉が、私の脳裡に深く刻まれている。我々には未来は見えないが、過去ならば、見る眼がある限り見える筈である。後退りしながら未来へ進む我々の足を導き、愚劣なことを繰返さないようにしてくれるのも過去への反省である。…
自分自身に巣喰う痴愚と狂気を知り、それの蠢動を警戒する人々ならば、この大作が遺された幾多の教訓と慰安とを秘めていることを悟るだろう。」(渡辺一夫 本書推薦の辞より)

そこで、ヴァレリー先生や渡辺一夫先生の言葉に見習って今まで読みさしの本(それも今では結構古びた蔵書)の中から、比較的大部な本からの覚書をつくることにした。

もう、十数年前だったろうか、そういえば、セーヌ川に架かるボンヌフ橋のたもとに騎士の銅像があったのを覚えている。その時は、人物の名前や由来などは知らなかったが、この本に接して、その正体が判明した。時代は、日本で言えば、織豊時代から江戸時代にようやくかかる頃、フランスでのブルボン王朝の始祖、アンリ四世を主人公とし、彼にかかわる様々な人物の人間模様である。作者のハインリッヒ・マン(1871-1950)は、トーマス・マンの兄、1933年、ナチスの迫害により亡命、本書は1935年に発表されている。

アンリ四世は、スペインとの国境、ピレネー山脈に麓にあったナバール王国の王子、女王であり、熱烈なプロテスタントであった母ジャンヌ、フランス国王母で、メディチ家出身で策謀好きのカテリーナとの丁々発止の関わりから物語は展開する。