日本人と漢詩(013)

◎皆川淇園、芥川龍之介と木村蒹葭堂


採蓮曲 皆川淇園
別渚《べっしょ》 風少《すく》なくして 花 乱れ開《ひら》く
船を移《うつ》し 槳《しょう》を揺《うご》かして 独り徘徊《はいかい》す
偶《たまたま》 葉底《ようてい》 軽波《けいは》の動《うご》くに因って
知る是《こ》れ 人の相逐《あふお》ひ来《きた》る有《あ》るを
江戸時代の大坂の「文化遺産」で誇れるものが三つはある。一つは、人形浄瑠璃、二つには、懐徳堂(Wikipedia http://is.gd/DynQwM)、商人が設立した学問所である。加藤周一の「三題噺」の一題に登場する富永仲基はこの学問所の門人であった。三つ目に、木村蒹葭堂が開いたサロンがあげられるのではないか。明治や戦争中を経ていづれの「文化遺産」もその「保存・継承」は決してたやすいことではなかった。橋下大阪市長の自分の好き嫌いだけでの文楽助成打ち切りや、懐徳堂保存会長に、日本郵政公社第一代総裁だった西川善文氏が座っていることなどは、また別の話題ではある。
ところで、東京人は、めったに大阪をほめない。逆もまた真実であろう。しかし、東京人龍之介は、「僻見」の「四題噺」の一題に、木村蒹葭堂のサロンを誉めちぎる。巽斎の生涯に「如何に落莫たる人生を享楽するかを知つてゐた」として深い共感を寄せている。その収集物には、「クレオパトラの金髪」も混じっていたに違いないと龍之介特有のウィットまで付け加える。そうした思いを継ぐ形で「江戸文化人の共和国」を一冊の書物として作り上げたのは中村真一郎氏。その遺稿となった「木村蒹葭堂のサロン」がそれである。大部の本から、抜き出したらきりはないが、本日は、蒹葭堂が京都に訪ねた皆川淇園 Wikipediaの詩を、遇《たまたま》NHKカルチャーラジオ「漢詩を読む」で流れていたので…
真一郎先生は、淇園を「清濁併せ呑む」と、NHK解説者宇野直人先生は、「なかなか幅の広い人格」と論評する。
ま、他愛もない詩と言えばそれまでだが、一応解説すると、採蓮曲は、楽府という日本でいう小唄に比べられるか、そのお題。「お客さんとの接待に飽きてか、別の船に移って舵を動かして一人で蓮の花が愛でていると、風がないのに葉が浮いた水面にさざ波が...さては、私を追いかけてきたのかしら」位の意味だろうか?
これはこれは、淇園先生、隅に置けないですな。祇園で相当浮名を流さないとここまでは書けないだろうな(笑)。
写真は、谷文晁作の木村蒹葭堂肖像画、Wikipedia より

日本人と漢詩(011)

◎芥川龍之介と李賀と佐藤春夫


蘇小小の墓――(李賀)
 幽蘭露 如啼眼
 無物結同心
 煙花不堪剪
 草如茵 松如蓋
 風爲裳 水爲珮
 油壁車 夕相待
 冷翆燭 勞光彩
 西陵下 風吹雨
読み下し文は、Wikipedia 李賀の項(http://is.gd/PJaTwI)を参照。「ひとりよがりの漢詩紀行」(http://is.gd/e8hfPL)では、中国音(ピンイン)まで付けられている。
佐藤春夫は次のように訳す
幽蘭の露と
わが眼を泣き腫らし
何に願をわれは掛くべき
われ娼女《たはれめ》を誰《たれ》かは手生《ていけ》けの花と見ん
草を茵《しとね》とし
松は蓋《おほひ》となり
風は裳《もすそ》とみだれ
水は珮《おびたま》となる
油壁《いふへき》の車して
夕されば人を待つ
青白き鬼火のあかり
ひえびえとゆらめきひかり
西陵のあたり
風まじり雨振りしきり
また、「連想」を働かせることにする。とりあえずは「西湖」がキーワードになるだろうか。
以前読んだ、芥川龍之介の文章で、たしか「支那」紀行の一文、「江南游記」の中だったと記憶しているが、いかにも彼らしく、日本人ならちょっとは憧れる杭州郊外の西湖を「貶す」ところが印象的だった。有名な南朝の時代の名妓蘇小小の墓は「詩的でも何でもない土饅頭《どまんじゅう》だった。」そうだ(+_+)。これじゃあ、あまりにも蘇小小が可哀想なので、李賀の有名な詩と「古調自愛集」からの佐藤春夫の訳詩を小小、じゃなかった少々(^^;)付け加えた。原詩は、定律詩ではなく「詩余」の形。三言が基本だけに余計な説明がなく、どこかサンボリスム的でもある。というより「よこはま・たそがれ」的な体言止めの「演歌」というべきだろうか?
写真は、Wikipedia(http://is.gd/HHeKwY)からの李賀の肖像画。ちなみに、詩仙堂で見た利賀像は、あまりにもオジン臭かった。こちらのほうが「青春詩人」らしく格段にカッコよい。

日本人と漢詩(010)

◎私と蘇東坡


「連載」にあたり、連想ゲーム的に繋いできたが、近年の「脳力」の衰えからか、そううまく続く訳がない。また、浅学非才の故、手持ちの材料も少なくなったし、漢詩一首をひねる技量もあるべくもない。ここらで気分一新、以前あるブログに載せた以下の一文で、今回の投稿に換え、次回以降は趣を新たにする。
身内の結婚式で、乾杯の音頭とりをしました。晴れがましい席での挨拶は苦手で、いつも適当にして、後で不評を買うのですが、そうしたドジは許されないと脅されて、今回は、予め原稿をしたためました。
本日は、乾杯の音頭を仰せつかりましたが、その前に一言二言述べさていただくのをお許しください。実は、私こうした席の挨拶では、アドリブでは何を言い出すかわからないと家人から堅く戒められておりますので、今日は原稿を読ませて頂きます。
さて、新婦の思い出と申しますと…(略)…その子ども達も、一人、二人と一人前になり、家庭も持ち、…(略)…、感慨を新たにしているところです。
閑話休題《はなしはさておき》、実は、私、とある下町で町医者を生業《なりわい》としています。長年、子どもからお年寄りまで診るこうした稼業をしておりますと、姪や子ども達の成長に合わせて、診ている患者さんも大きくなり、診察に来ていた子どもも最近結婚、その生まれた子どもを診る時など、その若い夫婦に、つい身内を連想し、お説教じみた診療になりがちです。
また、更に年齢を経て、二人そろって仲良くデイケアに来られる高齢のご夫婦を見ているとこれはこれで燻し銀の光沢が感じられ、先日の結婚式に新婦のお父さんが、白楽天の「比翼の鳥、連理の枝」との詩句をいただきましたが、その思いをいっそう深くしている次第です。
その白楽天に対抗するわけではありませんが、時代は少し下がりまして、宋の時代の詩人、蘇東坡が、中国の有名な湖、西湖を詠った詩を紹介したいと思います。
水光瀲灔《れんえん》として晴れ方《ひとえ》に好く
山色空濛《くうもう》として雨も亦奇なり
若し西湖を把つて西子に比せば
淡粧濃抹総て相い宜《よろ》し
水の色はキラキラ光って、晴れればよい風景である
山の色は薄霞だが、雨の景色も格別である
薄化粧であれ、厚化粧であれ、越の美女、西施に比べてみても、西湖というのはどちらもすばらしい。
夫婦でも同じ事だと存じます。本日の華燭の典、濃抹《のうまつ》な、お二人も本当に素敵だし、いつまでも今日の日のことを忘れないとは思いますが、むしろ明日からは、淡粧《たんしょう》な普段着の生活が始まります。どうか、晴れの日はもちろんのこと、雨の日にも、お互い自由で闊達なご夫婦であり続け、明るいご家庭を築かれることを願って、わたくしの挨拶とさせて頂きます。乾杯!
詩の題名は、超有名な蘇東坡「湖上に飲す、初は晴れ後は雨ふる」。写真は、Wikipedia の西湖の項目(http://is.gd/0aR9ey)より。

日本人と漢詩(009)

◎石川丈山(続々々)と大窪詩仏


丈山先生の詩仙堂に題を寄す 先生歿して百五十年
朱門《しゅもん》の興廃《こうはい》 一枰棋《いちへいき》
草堂 期《とき》を尽《つく》くす無《な》きに似ず
百五十年 昨日《さくじつ》の如《ごと》し
光風《こうふう》霽月《さいげつ》 旧《もと》の書帷《しょい》
加藤周一の「三題噺」を読み返した。丈山先生の詩仙堂に題を寄す 先生歿して百五十年
朱門《しゅもん》の興廃《こうはい》 一枰棋《いちへいき》
草堂 期《とき》を尽《つく》くす無《な》きに似ず
百五十年 昨日《さくじつ》の如《ごと》し
光風《こうふう》霽月《さいげつ》 旧《もと》の書帷《しょい》
加藤周一の「三題噺」を読み返した。一休や富永仲基の「噺」の方が書評に触れられることが多いが、丈山の「亡霊」らしい老人と著者らしい私との対話で構成されるこの「噺」も面白い。
「どれほど偉大な歴史的事業も、晩年の丈山にとっては、懶性蕭散に任じた詩仙堂の春の一日に若かなかったろう。その一日を犠牲にすれば、歴史を変える事業に参画できたかもしれない。しかしその一日こそかけ換えのないものであった。」
最後に加藤周一は、丈山から150年を経た江戸時代後期の詩人大窪詩仏の上記の七絶を引く。
「一五〇年を三〇〇年とすれば、これはまた私の感懐でもあるだろう。ただ私の謭劣非才、遠く詩仏に及ばず、詩仙堂に遊んで一首の七絶も得ることもできないだけである。」
加藤周一ですらこうならば、詩仏の名さえわきまえない後学の徒である当方など赤面の至りである。栄華盛衰は、一瞬の勝負事。草堂にも容赦なく年月の推移が加わってゆく。朱門は、富貴な家。枰棋は、将棋盤、碁盤。長い年月も昨日の夢。晴れた昼間の風と夜の月は書斎のとばりに吹き付け降り注ぐ。
*大窪詩仏(Wikipedia http://is.gd/ihzDnw)
写真は、その Wikipedia での詩仏の真蹟。彼は能筆家でもあったようだ。
一休や富永仲基の「噺」の方が書評に触れられることが多いが、丈山の「亡霊」らしい老人と著者らしい私との対話で構成されるこの「噺」も面白い。
「どれほど偉大な歴史的事業も、晩年の丈山にとっては、懶性蕭散に任じた詩仙堂の春の一日に若かなかったろう。その一日を犠牲にすれば、歴史を変える事業に参画できたかもしれない。しかしその一日こそかけ換えのないものであった。」
最後に加藤周一は、丈山から150年を経た江戸時代後期の詩人大窪詩仏の上記の七絶を引く。
「一五〇年を三〇〇年とすれば、これはまた私の感懐でもあるだろう。ただ私の謭劣非才、遠く詩仏に及ばず、詩仙堂に遊んで一首の七絶も得ることもできないだけである。」
加藤周一ですらこうならば、詩仏の名さえわきまえない後学の徒である当方など赤面の至りである。栄華盛衰は、一瞬の勝負事。草堂にも容赦なく年月の推移が加わってゆく。朱門は、富貴な家。枰棋は、将棋盤、碁盤。長い年月も昨日の夢。晴れた昼間の風と夜の月は書斎のとばりに吹き付け降り注ぐ。

日本人と漢詩(008)

◎石川丈山(続々)


白牡丹
是《こ》れ 姚家《ようか》ならず 魏家《ぎか》ならず
玉杯露を承《う》けて 光華《こうか》発す
誰《たれ》か天上《てんじょう》 十分《じゅうぶん》の月を将《も》て
化して人間《じんかん》 第一の花と作《な》す
「立てば芍薬座れば牡丹」と言うが、鑑賞用に牡丹を育てるのは、古くから行われていたようだ。これからの季節、時に他家の庭先で見かけるが、正直、花が暑苦しい感じがしないわけでもない。白い牡丹はあまり知らないので、この色なら好きになりそうだ。「魏紫姚黄」は、牡丹の異名にかぎらず、広く著名な花の意味。愛好家だった姚家や魏家の好んだ色らしい。同じく牡丹を愛でた欧陽脩の「洛陽牡丹記」が出典と聞く。十分の月は満月、人間は世間。
「ちりて後おもかげにたつぼたん哉」(蕪村)(Wikipedia 「牡丹」より )
画像は、丈山の好みのい花色ではないは、東京国立博物館 TNM Image Archives から、葛飾北斎の版画「牡丹に胡蝶」。
宇野直人 NHKラジオテキスト・カルチャーラジオ「漢詩を読む―日本の漢詩(鎌倉〜江戸中期)2011年10月〜2012年3月

日本人と漢詩(007)

◎石川丈山(続)と謝霊運


池の上《ほとり》の樓に登る 謝霊運
(身を守るため)潛《ひそ》める虯《みずち》は幽なる姿を媚《いろめか》し
飛ぶ鴻《おおとり》は遠き音を響かす
(私は)霄《そら》に薄《とど》まりて雲の浮かべる(高きに)愧《は》じ
川に棲みて淵に沈める(深さ)を怍《は》ず
德を進《みが》かんとするも智の拙なる所《ため》(進まず)
耕に退かんとするに力は任《た》えず
祿に徇《した》がいて窮海《いなかのうみ》に反《かえ》る
痾《あ》に臥《ふ》し空林に對す
衾《ねや》枕にて節候《じせつ》に昧《くら》く
褰《かか》げ開き暫《しばら》く窺《うかが》い臨み
耳を傾けて波瀾を聆《き》き
目を舉げて嶇嶔《たかきやま》を眺むるのみ
初景《はつはる》は緒《なご》りの風を革《あらた》め
新陽は故《こぞ》の陰《ふゆ》を改む
池の塘《つつみ》に春の草生じ
園の柳に鳴く禽《とり》も變わりぬ
(草つむ人の)祁祁《おお》きに豳《ひん》の歌の(人を慕う)を傷《いた》む(を知り)
萋萋《せいせい》たる楚吟に感ず
索居《ひとりい》は永く久しくなり易《やす》く
群を離れて心を處し難《がた》し
操を持するは豈《あ》に獨り古《いにし》えのみならんや
悶《うれ》い無く徵《しるし》は今(ここに)在りと
「池塘、春草生じ、園柳に鳴禽變ず」の詩句が有名なので、前項、謝霊運の画額の詩の全編を筑摩世界文学全集「文選」などを引っ張りだして読み下してみた。「人生挫折」の感情は、本来なら万物生成の候である春の景がバックグラウンドだけに切々と訴える。写真は、当方が撮った詩仙堂の園庭、「池塘、春草生じ」の雰囲気があるかな?その他の詩仙堂の写真は、Facebook にて。
「詩仙堂」ホームページ

日本人と漢詩(006)

◎石川丈山


詩仙圖の成るを喜ぶ
老を投ず 一乘山水の生涯
身閑《しずか》に心足りて 紛華《ふんか》に遠し
詩仙圖就《な》り 堂宇に列し
風雅新たに開く 凹凸花
浦上玉堂の項で触れた「隷書」の達人と言えば、江戸時代初期の詩人、石川丈山(1583〜1672 Wikipedia http://is.gd/KGwbOJ)。その名は、加藤周一の「三題噺」(Amazon http://is.gd/bkIEin)で知った。幼い頃、京都・詩仙堂(Wikipedia http://is.gd/h16ecS)に連れて行かれた記憶はあるが、その当時は、その山荘の主の名を知る由もない。近年、2回ほど、静寂の詩仙堂を訪れたことがある。詩仙堂は正確には凹凸窠 (おうとつか) というらしい。堂に掲げ、名前の由来となった三十六詩仙の狩野探幽筆の画額は、見事な「隷書」で書かれている。詩仙の間は、撮影禁止なので、早稲田大学古典籍データベースから、中国南北朝の詩人、「謝霊運」の額。ところで、詩仙を選ぶにあたり、こだわりがあるらしく、中薗英助の「艶隠者–小説 石川丈山」では、丈山一流の「政治嫌い」、「三題噺」では、ひいては「人間嫌い」がその因とあるが、そんな所だろうか。

日本人と漢詩(005)

◎浦上玉堂(続)

鴻《ひこう》別鶴《べっかく》 琴弾《きんだん》に入り
酒を把《と》り 茆堂《ぼうどう》に暫《しばら》く合歓《ごうかん》す
山陽《さんよう》に別《わかれ》し後《のち》 若《も》し相思《あいおも》わば
天涯《てんがい》 此《こ》の画中《がちゅう》に問いて看《み》よ
    画に題して如意道人《にょいどうじん》の西州《さいしゅう》に遊ぶを送る 玉堂琴士
西国に旅立つ如意道人という知人に乞われて一幅の絵を書いた。(画像は、その奇峯連聳図)この時代、これが絵画かと思われるほど、山々の連なりを、とことん省略しつくした斬新の図柄は、もはや江戸時代を超えている。この山水画の概説は、「浦上玉堂の山水画を読む」(http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/gyokudo.html)に詳しい。絵に題する詩は、隷書で書かれ、自分の意中はこの絵に聞いてくれと相手に投げかける。飛鴻別鶴は彼の得意とする七弦琴の曲名にかけて、鴻(白鳥)と鶴を、自分と相手になぞらえ、酒を酌み交わした楽しい往時を語る。
玉堂は、その頃大坂で一大文化サロンを作っていた木村蒹葭堂(1736~1802)(Wikipedia http://is.gd/G4xaUj)などと深い関わりがあったそうだ。また、晩年には、頼山陽、江馬細香などとも交流があったとある。江戸時代中期~後期は、意外とそうしたサロンの広がりもあり、文化的な成熟期と言えるだろう。後日、機会があれば、このあたりに立ち返ることにする。
参考】
浦上玉堂の山水画を読む
・久保三千雄「浦上玉堂伝」より(ISBN-13: 978-4104119011 Amazon http://is.gd/YT6nIk)

日本人と漢詩(004)

◎浦上玉堂


衰老《すいろう》の身は 宜《よろ》しく数寄《すき》に甘んずべし
那《な》んぞ論ぜん 挙世《きょせい》わが癡《ち》を笑うを
春来《しゅんらい》 いささか清忙《せいぼう》の事あり
唯《た》だ是《これ》 花開き花落つる時
先程の投稿が消えてしまった(泣)。気を取り直して、再投稿。さて、鷗外から遡り、江戸時代へ向かうのだが、別に当てがあるわけではない。手始めに手元にあった本から、わかりやすい詩だったので…したがって、語釈はあえて必要あるまい。Wikipedia(http://is.gd/emSW9A)にあるので、詳述は避けるが、浦上玉堂(1745〜1820)、岡山藩の支藩、鴨方藩の能吏であった。ところが、50才を期に「思うところ」あって、リタイア、それまで趣味であった、七弦琴、絵画、詩文などを生業として、会津、江戸、大坂、京都をと「放浪」した。時代が時代だけに、致仕→脱藩→出奔というライフイベントは、彼にとって一生涯の「負い目」だったのかもしれない。
詩は、「玉堂詩集前集」に収められおり、彼の人生の転機の時期の作であろうか?承句の「世間では、私のことを随分とタワケと噂しているようだが、気にしない、気にしない」は、何か「トラウマ」を引きづっているようにも思え、彼独特のこだわりに聞こえる。しかし、ここは、転句、結句の「春が来て花の評判を聞く楽しさ」を玉堂の清々しさとして信じたい。
ブルーノ・タウトは彼をして「日本のゴッホ」と称したらしいが、なるほど、それまでの山水画と違い、デフォルメされた表現技法は、彼の「内面」を語っているような印象である。画像は、「国宝 凍雲篩雪図」。その他、Google 検索すると、彼の絵が「展覧」されており、見ているだけで楽しくなる。ぜひ、実物も見たいものだ。
久保三千雄「浦上玉堂伝」より(ISBN-13: 978-4104119011 Amazon http://is.gd/YT6nIk)

日本人と漢詩(003)

森鷗外(続々)
詠伯林婦人七絶句 其一 試衣娘子(Probrimamsella)
試衣娘子艷如花 試衣の娘子《ぢやうし》 艶《つや》あるは花の如《ごと》し
時樣粧成豈厭奢 時様《じやう》に粧《よそほひ》ひ成して 豈《あ》に奢《おごれ》るに厭《あ》くや
自道妃嬪非有種 自《みづか》ら道《い》ふ「妃嬪《ひひん》 種《しゆ》あるに非ず
平生不上碧燈車 平生は碧灯車《へきとうしや》に上《のぼ》らざるのみ」
【語義私注】
試衣娘子
ファッションモデル
時樣
最新流行の衣装、化粧
粧成
めかし込む、「鴎外歴史文学集」第十二巻(以後「歴文12」と略)では、注釈者の古田島洋介氏は、「粧」を動詞、「成」は「〜しとげる」との意であると述べる。これで、よく分かった。
妃嬪非有種
やんごとない姫君も、わたしらと同じ人間よ!
碧燈車
よく分からない、「歴文12」では、南斉国の姫君が乗った馬車に拠るとあるが、鷗外君はベルリンで、青いランプがぶらさがる馬車を見たのかも。
 以下、「脱線」ついでに、もう一回鷗外で戯文風に…
 吾輩は、ドクトルOガイである。懲りもせずに、吾輩の現みの世の姿、森鴎外君の漢詩を披露していきたいと考えている。
 鷗外君は、明治17年(1884年)から明治21年(1888年)まで、衛生学研究のためドイツ留学したのは、承知しておられるだろうな。しかし、最後の年、1888年には、鉄血宰相ビスマルクとも面会して、名探偵として事件を解決したことまではご存知あるまい。ただし、それは、推理小説での上のことじゃが…(海渡 英祐「伯林‐1888年」)
 ベルリン到着後、何事も几帳面な性分なので、鷗外君は丹念に日記をつけた。名づけてずばり「独逸日記」。また、留学中に体験したこもごもを「舞姫などの作品として書き上げたから、帰らぬ青春という創作上の原点でもあったのだろう。「独逸日記」の中に、ベルリンのご婦人の生態を写し出した漢詩、「詠伯林婦人七絶句」という連作がある。こういう方面は、ほんとにまめであるのお。写真は、廿壱世紀のパリコレならぬベルコレ試衣展示会の模様、電子網独逸大使館頁から拝借した(笑)。