日本人と漢詩(084)

◎妹背山婦女庭訓と藤原惺窩


先日、久しぶりに文楽を観て(聴いて)きた。演目は、「妹背山婦女庭訓(Wikipediaより)《いのせやまおんなていきん》」、近松半二などの合作、「本邦版ロメオとジュリエット」と称せらることも多く、確執ある二家の、若君と姫の悲恋物語である。近松門左衛門から下ること半世紀以上、人形浄瑠璃は、人情の機微を語ることのほかに、舞台演出上も大いに工夫を凝らしたものになっている。「婦女庭訓」の最大の見せ場、三段目、「妹山背山の段」では、二家の別荘を挟んで、中に吉野川が流れ、それを仲立ちにした、二人の掛け合いが見事である。上手が、ヒーロー久我之介の別荘、下手がヒロイン雛鳥の別荘、しかも浄瑠璃語りは、左右に分かれて、三味線のピッチも微妙に変えながら、男女の心根を憎いほどに、一人語りと唱和を繰り返す。これで、二回目の観賞となるが、最初は下手側、今回は上手側で、趣の違いも実感できた。当時の客もそのダイナミックな構成に堪能したことだろう。浪華での浄瑠璃文化は、ある意味ここで頂点を極めたように思われる。
今の時代、こうした文化を気軽に享受できるようになっているだろうか?ふとそんな気もしてきた。ここ十年来、文楽をめぐるさまざまな環境は変化を遂げた。ガサツとも言える勢力による文楽攻撃、コロナ禍もあった、それに輪をかけ、大阪を、単に猥雑な街に変えようとする愚策のなか、風格のある上演を望むばかりである。

妹山背山は、古くから歌枕とあるが、そこを題材とした漢詩は寡聞にして見当たらなかった。ネット上では、藤原定家十二世の孫の儒学者、藤原惺窩のやや月並みとも思える七絶を一首。

山居

靑山高聳白雲邊 青山 高く聳ゆ  白雲の辺
仄聽樵歌忘世縁 仄かに 樵歌を 聴きて  世縁を 忘る
意足不求絲竹樂 意 足りて 求めず  糸竹の楽しみを
幽禽睡熟碧巖前 幽禽 睡りは 熟す  碧巖の前

語釈、訳文は、「詩詞世界」を参照のこと。

もちろん、「妹背山婦女庭訓」での二家の別荘は、フィクションであり、廃墟であったとしても惺窩の時代に残っているはずもないが、隠遁の地には似つかわしい雰囲気であったのだろう。また、文楽では、悪役・敵役の蘇我入鹿は皇位を簒奪して、即位した後の話としているのが江戸時代の天皇観を垣間見ることができる。

参考】国立文楽劇場パンフレット(2023年4月)

日本人と漢詩(083)

◎渡辺崋山と杉浦明平

渡辺崋山( Wikipedia )は、愛知県知多半島にあった田原藩(小藩というより貧藩と言えるだろう)の家老。蛮社の獄で、高野長英らと、捕縛、崋山は切腹に追い詰められた。従来、絵画が有名だが、彼の漢詩が紹介されることは意外と少ない。たしか、杉浦明平の大部な小説「小説 渡辺崋山」では、上巻は、一首だけだったと思う。

ここでは、まずは、その一首、27歳のおり、江戸在住での作と小説にはある。

中秋歩月
俗吏難與意 俗吏意を与《とも》にし難く
孤行却自憐 孤行却って自ら憐れむ
松林黒于墨 松林は墨より黒く
江水白於天 江水は天よりも白し
樓遠唯看燭 楼は遠く唯燭を看る
城高半帯雲 城は高く半ば雲を帯ぶ
不知今夜月 知らず今夜の月
偏照綺羅莚 偏《ひとえ》に綺羅《きら》の莚《むしろ》を照らすを

語釈】孤行:同僚と協調しない独自の生き方 樓遠唯看燭:将軍家斉の観月の宴 綺羅:その豪勢の様

小説では、華山のハラのうちを描く。為政者の金の使い方の理不尽さは現在も続く。

おれたちは腹をすかしておるのに、夜中まで飲み食い遊びほうけてけつかる腹が立ってならなかったんだ。…いまは日本中が飢えている。それなのに、大奥では依然として、毎日白砂糖千斤ずつ消費している。…そういう後宮のために消尽された無駄な費用をよそへ廻せば、四、五十万人と見込まれる今年の餓死者の大半は生きのびることができたのではなかろうか。

次に、晩年幽居での詩作を掲げる。

辛丑元旦二首
其一
萬甍烟裏海暾紅 万甍烟裏 海暾《かいとん》紅《くれない》なり
投刺飛轎西又東 刺を投じ轎を飛ばして 西又た東
滾々馬聲皆醉夢 滾々たる馬声 皆な酔夢
今朝眞箇迎春風 今朝真箇《まこと》に春風を迎う

語釈】辛丑:天保十二年(1841年) 海暾;海から昇る太陽 投刺飛轎西又東:人々のせわしい様 滾々馬聲皆醉夢:駆け抜ける馬の蹄の音も、酔っ払った後の夢の中

其二
四十九年官道樗 四十九年 官道樗《ちょ》なり
昨非不改愧衞蘧 昨非改めず 衛蘧《えいきょ》に愧《は》ず
天下難望只天樂 天下望み難きは只だ天楽
七十萱堂數架書 七十の萱堂《けんどう》 数架の書

語釈】官道樗:宮使いも樗(節が多く曲がりくねった木)で役に立たない。莊子に由来 衛蘧:春秋時代、衛の蘧伯玉は、齢五十にして、それまでの非を悟った 天樂:至高の楽しみ、萱堂(自らの母親)と數架の書をせめてもの楽しみにしたい

これらの詩を読むと、吹っ切れたというより、なにかそれまでの緊張感が抜けていった印象があり、自刃直前の華山の心情はいかばかりのものだったろうか?

付】Wikipeda 写真の詩を、訓読すると「石に倚って疎花痩せ、風を帯びて細葉長し。霊均の情夢遠く、遺珮沅湘に満つ」となる。霊均は、屈原の字だから、蘭を屈原に例えると同時に華山自らの自負であるだろう。天保十年(1839年)の「蘭竹双清」に添えたものだそうだ。

とまれ、蛮社の獄で犠牲になった、渡辺崋山や高野長英は、当時最高の知性であり、彼らが、非業の死を遂げたことは、日本の近代史でも、有数の悲劇であったことは論を俟たない。

【参考】
・入矢義高「日本文人詩選」(中公文庫)
・杉浦明平「小説 渡辺崋山」(上)(朝日新聞社)

日本人と漢詩(082)

◎藤原定家と白居易

日本での漢詩の「読み解き」を広く取れば、時代を遡ると「和漢朗詠集」あたりからだろう。この時代に引用される詩人は、白居易が一定割合を占め、鎌倉時代になっても定家晩年の作「拾遺愚草員外」の中では、「白氏文集」から題をとった句題和歌が百首ある。どの和歌も、さすが定家、よく熟されている。

氷とく人の心やかよふらむ風にまかする春の山みづ

府西池 白居易
柳無氣力枝先動 柳《やなぎ》に気力無くして 枝先《ま》ず動うごき
池有波紋冰盡開 池に波は紋《もん》有りて 氷《こおり》尽《ことごと》く開らく
今日不知誰計會 今日《こんにち》 知らず誰《たれ》か計会《けいかい》せる
春風春水一時來 春風《しゅんぷう》 春水《しゅんすい》 一時に来たる

語釈・訳文は、Web漢文大系を参照のこと。

白妙の梅咲山の谷風や雪げにさえぬ瀬々のしがらみ
此の里の向ひの村の垣ねより夕日をそむる玉のを柳

春至る   白居易

若爲南國春還至  若為《いかんせん》 南国 春還また至るを
爭向東樓日又長  争向《いかんせん》 東楼《とうろう》 日又長きを
白片落梅浮澗水  白片《はくへん》の落梅《らくばい》は澗水《かんすい》に浮うかぶ
黄梢新柳出城墻  黄梢《こうしょう》の新柳《しんりゅう》は城墻《せいしょう》より出でたり
閑拈蕉葉題詩詠  閑《しづか》に蕉葉《しょよう》を拈《と》り 詩を題して詠じ
悶取藤枝引酒嘗  悶《むすぼ》れて藤枝《とうし》を取り 酒を引きて嘗《たし》なむ
樂事漸無身漸老  楽事《らくじ》 漸《やや》く無くして 身漸《やや》老ゆ

語釈・訳文は、雁の玉梓 ―やまとうたblog―を参照のこと。

思ふとちむれこし春も昔にて旅寝の山に花や散らむ

曲江憶元九

春来無伴閑遊少 春来《しゆんらい》伴《とも》無くして閑遊《かんゆう》少なく
行楽三分減二分 行楽三分《さんぶん》二分《にぶん》を減ず
何況今朝杏園裏 何《なん》ぞ況《いわ》んや今朝《こんちょう》杏園《きょうえん》の裏《うち》
閑人逢尽不逢君 閑人《かんじん》逢い尽くせども君に逢はず

語釈・訳文は、『拾遺愚草全釈』参考資料 漢詩を参照のこと。

釘貫亨氏の「日本語の発音はどう変わってきたか」(中公新書)を興味深く読んだ。それによると、藤原定家は、なかなかの理論家だったらしく、和歌や「源氏物語」など仮名+漢字表記を分かりやすく、しかもバランスがよいように、工夫をこらしたようだ。(私事ながら、釘貫氏は、わが連れ合いの従兄弟にあたる。)

この著書にそって、当時の読みを、下段に提示すると、

咲きぬ也夜の間の風に誘はれて梅より匂ふ春の花園
さきぬなりよのまのかぜにさそふぁれてうめよりにふぉふふぁるのふぁなぞの

 春風  白居易
春風先発苑中梅  春風 先に発《ひら》く 苑中の梅
桜杏桃梨次第開  桜 杏 桃 梨 次第に開く
薺花楡莢深村裏  薺花《せいか》 楡莢《ゆきょう》 深村の裏《うち》
亦道春風為我来  亦《ま》た道《い》う 春風 我が為に来たると

語釈・訳文は、沈思翰藻を参照のこと。

その後、平板になった現代より、より抑揚のある発音であり、和歌の朗詠もなかなかにドラマティックだったように思う。

【参考】浅野春江「定家と白氏文集」(教育出版センター)

日本人と漢詩(081)

◎如月寿印(「中華若木詩抄」)と白居易

前回、漢詩の不特定多数向けの啓蒙書という話題に触れたが、どうやら、その形式ができあがったのが、室町時代の「抄物」が嚆矢だったようだ。その代表例が、「中華若木詩抄」で、中国では、唐・宋・元、そして明にかけての詩人、本邦では、ほぼ同時代の、禅僧の七言絶句、二六一首の解説を行うが、これが実に懇切丁寧である。以下、白居易(白楽天)の詩を紹介する。

明妃曲 白居易

滿面胡沙滿鬢風 面《おもて》に満《み》つる胡沙《こさ》 鬢《びん》に満《み》つる風《かぜ》
眉銷殘黛臉銷紅 眉《まゆ》は残黛《ざんたい》銷《き》え 臉《かお》は紅《べに》銷《き》ゆ
愁苦辛勤憔悴盡 愁苦《しゅうく》辛勤《しんきん》して憔悴《しょうすい》し尽《つ》くし
如今卻似畫圖中 如今《じょこん》 却《かえ》って画図《がと》の中《うち》に似《に》たり

明妃は、王昭君也。胡国へ赴かれたが、憐《あわ》れなるによりて、曲に作《つく》りて歌《うた》ふ也。昭君の義は耳熟することなれば、申するに及ばぬ也。一二之句は胡国へ赴かるゝ路《みち》也。面《かほ》へは胡沙を吹《ふき》かけ、髪をば寒風が吹乱《ふきみだれ》すぞ。眉に残《のこ》りたる黛《まゆずみ》も消《きえ》はてて、瞼の紅も失せて、ないぞ。三四之句は、胡国へ赴《おもむく》路次《ろじ》に辛労するほどに、身も衰《おとろ》へて、見し皃《かたち》もないぞ。


王昭君が選別されるときのエピソード-似顔絵を描く絵師に賂いをやらなかったために、醜婦に描かれ、漢の皇帝が、これなら差し支えないと王昭君を指名した。ところが、いざ顔を合わせると、あまりにも美形であったが、「綸言汗の如し」あとの祭りであったという。しかしこれは史実ではないらしい(Wikipedia 王昭君)ーを記載するが略する。

宮を出でし時《とき》は画図にも似ずしてうつくしかりつるが、風沙に吹埋《ふきう》められて身も衰《おとろ》へたれば、今こそ始《はじめ》て画図の中に似たれと云心也。妙なる詩也。

この「抄物」にはないが、王昭君第二も掲載する。

王昭君其二
漢使卻回憑寄語 漢使《かんし》 却回《きゃくかい》 憑《よ》りて語《ご》を寄《よ》す
黄金何日贖蛾眉 黄金《おうごん》 何《いず》れの日《ひ》か蛾眉《がび》を贖《あがな》わん
君王若問妾顏色 君王《くんおう》 若《も》し妾《しょう》が顔色《がんしょく》を問《と》わば
莫道不如宮裏時 道《い》う莫《なか》れ 宮裏《きゅうり》の時《とき》に如《し》かずと

ともに、語釈、訳文は、漢文委員会を参考のこと。

嘆髪落 髪ノ落ツルヲ歎ズ 白居易
多病多愁心自知 多病《たへい》多愁 心自ズカラ知ル
行年未老鬂先衰 行年《こうねん》未ダ老イザルニ 鬂先ンジテ衰フ
隨梳落去何須惜 梳ルニ随ヒテ落去ス 何ゾ惜シムヲ須《もち》イン
不落終須変作糸 落チザルモ 終《つい》ニ須《すべか》ラク変ジテ糸ト作《な》ルベシ

一の句、多病と云い、多愁と云い、吾と心中《しんぢゆう》に老衰を覚《おぼ》ゆるぞ。二之句、さあるほどに、いまだ年も寄《よ》らねども、鬂から衰《おとろへ》て行《ゆき》たぞ。行年は、星月とともに深《ふけ》行く年也。三四之句は、衰鬂を梳《けづる》に随つて落葉の如く落《おつる》ぞ。落《おつ》ると云《いう》ても、惜むべきことでないぞ。若《もし》此《この》髪が梳に随て落《おち》ずんば、白髪三千丈の絲となるべきぞ。落《お》ちずば、さて也。面白く云出《いひいづ》る也。

以上、「解説訳文」の部分は、カタカナはひらがなへ、訓点部分は読み下して改変掲載した。

語釈、訳文は、yoshのブログを参照のこと。

白楽天は、その当時は長命であったが、現在いう後期高齢者(七十五才)になった途端、世を去った。当方も、とっくに「髪ノ落ツル」時は過ぎたが、そこら辺まではなんとか行けるだろうかな?

【参考】「中華若木詩抄・湯山聯句鈔」(新日本古典文学体系)岩波書店

日本人と漢詩(080)

◎森川許六と王維、杜荀と柳宗元

江戸時代、荻生徂徠の古文辞学派の「盛唐詩」偏重の前は、日本では、三体詩(七言絶句、五言律詩、七言律詩の三詩型をいう)はじめの唐詩のみならず宋詩を含む詩集が実作の手本だった。江戸中期以降も、改めてその傾向は続く。それのみならず、多様な受け止め方がされるようになり、松尾芭蕉の弟子・森川許六の七五調を交えた訳文もその一つで、漢詩の受容のあり方として興味深い。

そもそも、現代も行われている、漢詩解説の、白文、読み下し文、語句の解説・典拠、訳文が確立したのは、いつの時代だったのだろう。遡れば、室町時代の「抄物」になるらしいが、いずれ紹介する機会があろう。

許六の「和訓三体詩」から、二、三首、比較的有名どころの詩の、注や訳文を挙げてみると、

九日懐山東兄弟 九日山東の兄弟を懐ふ 王維

獨在異鄕爲異客 独り異郷に在りて異客と為る
每逢佳節倍思親 佳節に逢ふ毎に倍《ます》々親を思う
遙知兄弟登高處 遥に知る兄弟高きに登る処
遍插茱萸少一人 遍く茱萸を挿して一人少なからん

*許六注 他国に旅寝すれば、他国のものになりたると云ふことなり。―中略―佳節は爰にては重陽を指す。王維十七歳の作なり。親にます〳〵孝心深きものなり。此詩微弱なれど孝子の情ます〳〵厚きゆえに称して世に伝ふ。九日に高きに登って茱萸をかくること、本註にくはし、日本洛陽にて茱萸を売る。家毎に買い取りて之をかく、是なり。

《詩意》京生れの人。年若にして東に下り。一とせ二とせを過ぎざるに関東の訛りを習ひ。都言葉は露ばかりも見えず。二階のろく台には、庭竈の春を思ひ。吾妻の柏餅をすゝめられては。鞍馬笹の粽を忘れずして。母の俤を慕ふ。殊に重陽の節は。古きを追ひ。東山の高きに登らむろて。姉は妹を負ひ兄は弟の手を引き。残らず茱萸《ぐみ》を買ひとりて。故郷の家に帰へらん。はらから打ちならびたる食時《めし》どきには。われ一人の膳を少《かゝ》さんと。旅の乏しきにうち添へ。一入故郷の空をおもひ出ける。
(解釈)重陽の日には家族小高い丘に登る「登高」 。佳節がめぐるたびに京の家族を思い出して、母や兄弟の姿を思いやり、自分ひとり欠けた膳が哀しく目に浮かぶのである。参勤交代の勤務が始まれば、東武にあって関東の言葉に馴染み、鞍馬笹の粽の味も遠い。家族を想う漢詩は和訳され俳文に整うと、より親族のぬくもりを表す。

現代語の語注や訳は、くらすらんを参考のこと。(解釈)の部分は、藤井美保子氏の論考からの引用。

酬曹侍御過象縣見寄 曹侍御が象縣を過きて寄せ見らるゝに酬ゆ 柳宗元
破額山前碧玉流 破額山前《はがんさんぜん》 碧玉の流れ
騒人遥駐木蘭舟 騒人遥に駐《とど》む木蘭《もくらん》の舟
春風無限瀟湘意 春風限《かぎ》りなし瀟湘の意
欲採蘋花不自由 蘋花を採《とら》んと欲するに自由ならず

*許六注 破額山は五祖寺のある所、碧玉の流は水の色なり。騒人は曹侍御をいふ。遥駐は象県というところまで来たるを聞き及びたりといふ意。木蘭の舟は舟をほめていふ詞なり。註にくはし。三の句、常に曹侍御が事を忘れず、思ひくらすといふ事、瀟湘は曹侍御が在りし所、四の句は早速罷り出で蘋花を採って迎へたけれども、流人の身自由ならずといふことなり。

《詩意》石山の麓《ふもと》勢多の流れに。木蘭《もくらん》の舟をつなぎて夜泊せる俳諧の翁いませりと遥に聞きけり。其風を慕ふ者、あるは官袴につながれ儘《まゝ》ならぬ身の恨に、春風の限りなきを添へたり。江東筑摩江には、蓴菜《じゅんさい》いたづらに肥えて、五老井の新茶はむなしく壺に朽ちたりとて、相訪らはざるうらみを述べたり。

現代語の語注や訳は、ティェンタオの自由訳漢詩を参照のこと

旅懐《りょかい》 旅の懐《おも》い 杜荀鶴悵

月華星彩座来収 月華星彩座し来れば収まる
嶽色江聲暗結愁 嶽色江聲暗に愁を結ぶ
半夜燈前十年事 半夜燈前十年の事
一時和雨到心頭 一時に雨に和して心頭に至る

*許六注 二の句暗の一字、流浪行く末のおぼつかなきを尽くせり。かたらふべき友なき一人旅、たしかにあらわれたり。嶽色江聲は月華星彩に対せる辞、和はあはするといふ心。全編客中の雨の慵《ものう》き事にて結ぶ。

《詩意》くたびれて宿かる頃の藤の花。月のたそがれ星の隈。雲に収まる峯の色。闇の川音すさまじく。旅の枕に寐ざめたり。夜半の灯撥き立てゝ。十とせ余りの流浪の身。居をうつすこと七所。一時にうかぶ胸の上。降り出す雨にまじへたり。

現代語の語注や訳は、日々是好日を参照のこと

《詩意》は、松尾芭蕉「くたびれて宿かる頃の藤の花」の句を敷衍したのだろう。また、杜荀は、杜牧の庶子で、父親の「遣懷」とのタイトルでの「十年ひとたび覚む揚州の夢、占め得たるは 靑樓 薄倖《はくこう》)の名」の名句を明らかに意識する。

村上哲見『三体詩・上』は、残念ながら、許六の「和訓三体詩」は、「詩意」のみの所収であるが、他の詩も紹介する機会がこれまたあろう。

参考】藤井美保子「森川許六『和訓三体詩』-「序」と「詩意」」

日本人と漢詩(079)

◎高村薫と杜甫、劉長卿、張謂

以前のサーバにあったのだが、その不調で閲覧できない状態になっていたので、改めて稿を起こすことにする。
この本を読んだのが、何年か前に、中国からチベットへ行ったときだった。たしか飛行機の中のような気がする。
ハードボイルドの中の漢詩という取り合わせに興味を惹かれるとともに、中国が近づくにつれ、小説世界の中に入り込んだような錯覚だった。おまけに、ラサで格安の岩塩を買ったのが、北京での手荷物検査に反応し、官憲が飛んできてリュックを開けるよう求められた。中国語で「这就是岩盐」と言おうとしたが、とっさのことで口にできず、「It’s rock salt !」と叫び、ようやく事なきを得た。ヤクの運び屋と間違えられたのかもしれない。とまれ、作中の漢詩は、高村にとって、この小説の叙情的な支えになっているようだ。

小説の大部分は、大阪市の西側、中小の工場がひしめいていた地帯である。子ども時代に、京都から大阪に越してきたが、まず驚いたのは、京都と全く趣が違う十三付近の賑わいであった。それでも、高校時代は時には十三まで「遠征」もしたが、その先となると、まるで異世界のように感じられたものだ。その中で、主人公は、工場経営のかたわら、チャカ(拳銃)の修理補修に勤しんでいたのである。

小説では、数首の漢詩の全体ないし数句が引用され、まず杜甫の詩について軽く触れられる。いづれも「唐詩選」に収録されている。杜甫の五言古詩の全文を示すと、

杜甫 春帰
苔径臨江竹 苔径 江に臨む竹
茅簷覆地花 茅簷 地を覆う花
別来頻甲子 別来 頻りに甲子
帰到忽春華 帰り到れば 忽ち春華
倚杖看孤石 杖に倚りて 孤石を看
傾壷就浅沙 壷を傾けて 浅沙に就く
遠鴎浮水静 遠鴎は 水に浮かんで静かに
軽燕受風斜 軽燕は 風を受けて斜めなり
世路雖多梗 世路 梗(ふさが)るること多しと雖も
吾生亦有涯 吾が生も 亦た涯り有り
此身醒復酔 此の身 醒めて復た酔う
乗興即為家 興に乗じて 即ち家と為さん

語釈は、Web 漢文大系 参照のこと

杜甫の心の片隅には「世路 梗(ふさが)るること多しと雖も吾が生も 亦た涯り有り」との思いもあるが、季節が春だけに、自然描写を背景に、成都の草堂にふたたび帰還した喜びを素直に現す杜甫らしい佳詩である。

次の杜甫「返照」は省略する。「ガラスの迷宮」などのサイトを参照のこと。

次は、作者も変わって、主人公が謎の殺し屋、李歐を大阪市大正区で密航船に見送るシーンで、写真に書き付けた詩だ。

重送裴郞中貶吉州 重《かさ》ねて裴郎中《はいろうちゅう》の吉州《きっしゅう》に貶《へん》せらるるを送《おく》る 劉長卿
猿啼客散暮江頭 猿《さる》は啼《な》き 客《かく》は散《さん》ず 暮江《ぼこう》の頭《ほとり》
人自傷心水自流 人《ひと》は自《おのずか》ら傷心《しょうしん》 水《みず》は自《おのずか》ら流《なが》る
同作逐臣君更遠 同《おな》じく逐臣《ちくしん》と作《な》りて君《きみ》は更《さら》に遠《とお》く
靑山萬里一孤舟 青山《せいざん》 萬里《ばんり》 一孤舟《いちこしゅう》

語釈、訳文は詩詞世界を参照のこと。青山《せいざん》 萬里《ばんり》 一孤舟《いちこしゅう》とは、李歐が岸壁を離れ、逃亡の船で出航するのと、また李歐自体の人生とも重なるようだ。

湖中對酒行 張謂
夜坐不厭湖上月 夜坐《やざ》厭《いと》わず 湖上《こじょう》の月
晝行不厭湖上山 昼行《ちゅうこう》厭わず 湖上の山
心中萬事如等閑 心中《しんちゅう》の万事 等閑《とうかん》のごとし
濁醪數斗應不惜 濁醪《だくろう》数斗《すうと》 応《まさ》に惜まざるべし
主人有黍萬餘石 主人黍《きび》あり 万余石《ばんよこく》
即今相對不盡歡 即今《そっこん》相対《あいたい》して歓《かん》を尽くさずんば
別後相思復何益 別後《べつご》相思《あいおも》うも復た何の益《えき》かあらん
茱萸灣頭歸路賖 茱萸《しゅゆ》湾頭《わんとう》 帰路《きろ》賖《はる》かなり
願君且宿黄公家 願がわくは君且《しばら》く宿《しゅく》せよ 黄公《こうこう》の家
風光若此人不醉 風光《ふうこう》此《か》くの若《ごと》くして人酔わずんば
參差辜負東園花 参差《しんし》として東園《とうえん》の花に辜負《こふ》せん

語釈などは、Web 漢文大系 を参照のこと。

ちょっと、大阪べんの訳もある。

昔、京都の祖母が、父に向かって、「夜道に日は暮れんよってに!」と大阪に帰ろうとするのを引き止めて酒を勧めていたのをふと思い出した。

小説は、思わぬ悲劇のあと、「ユートピア」の入り口で幕を閉じるが、今となっては、意外と現実感は薄く、もうひとりのヒーロー、李歐の印象も、イマイチとも思う。年月のすぎるというのも、こういうことを言うのだろう。

画像は、Wikipedia 劉長卿 より。

参考]
以前の文章
日本人と漢詩(027)
高村薫「李毆」
 阪大にほど近い千里丘陵のアパートから小説は始まり、やがて舞台は大陸へと広がるが、その内容を紹介するのが本筋ではない。ハードボイルド的なタッチの中で、ところどころ、漢詩が挿入されているのが、とても印象的で、「乾いた叙情」ともいうべきだろう。最初は、タイトルだけで、杜甫の「春歸」。白文で示すと
苔徑臨江竹,茅簷覆地花。別來頻甲子,倏忽又春華。
倚杖看孤石,傾壺就淺沙。遠鷗浮水靜,輕燕受風斜。
世路雖多梗,吾生亦有涯。此身醒複醉,乘興即為家。
全唐詩(巻228) https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%A8%E5%94%90%E8%A9%A9/%E5%8D%B7228#.E6.98.A5.E6.AD.B8
語釈と読み下し文は、Web漢文大系参照
https://kanbun.info/syubu/toushisen144.html
張謂と劉長卿の詩は、ブログ内部のリンク参照のこと。
劉長卿の詩の白文は、
猿啼客散暮江頭、人自傷心水自流。
同作逐臣君更遠、青山萬里一孤舟。
読み終えたのは、初めて中国に足を踏み入れた時で、成都の杜甫草堂を訪れたのはその翌年だった。

日本人と漢詩(078)

◎高橋和巳と(陳舜臣と)六朝詩選(曹植、阮籍、無名氏)

学生時代、高橋和巳が中国文学者出身とは知らずに読みふけっていた。柴田翔の「されど我らが日々」から続くわが人生において、彷徨といえばカッコいいが、「ネクラ」と言っていい時期からようやく抜けきろうとしていたのと重なる。周囲からは文字どおり白い眼で見られていただろう。吉川幸次郎門下の彼が、歴代の漢詩の歴史から、分担執筆したのが、「六朝詩選」とあるが、実は詩経から始まり「漢」「三国」から「南北朝」の「古詩」の世界。彼の文学的淵源がここにありそうだ。

雜詩 曹植

轉蓬離本根 転蓬《てんぽう》は本《もと》の根を離れ
飄颻隨長風 飄颻《ひょうりょう》として長風に随《したが》う
何意迴飆舉 何んぞ意《おも》わんや 迴飆《かいほう》の挙《あ》がり
吹我入雲中 我を吹いて雲中《うんちゅう》に入れんとは
高高上無極 高高《こうこう》として上《あが》りて極《きわ》み無し
天路安可窮 天路 安《いずく》んぞ窮《きわ》む可《べ》けんや
類此遊客子 類《に》たるかな 此の遊客《ゆうかく》の子の
捐躯遠從戎 躯《み》を捐《す》てて遠く戎《じゅう》に従うに
毛褐不掩形《もうかつ》 形を掩《おお》わず
薇藿常不充 薇藿《びかく》 常に充《み》たず
去去莫復道 去《ゆ》去《ゆ》きて復《ま》た道《い》うこと莫《な》けん
沈憂令人老 沈憂《ちんゆう》 人をして老いしむ

【語注】轉蓬:風に吹かれ、根を離れて、丸くなってころがって行くヨモギ。 漢詩では、人が漂泊することのモチーフとなる 毛褐:毛皮のチョッキ 不掩形:体全体をカバーできない 薇藿常不充:わらびや豆の葉など粗末な食べ物では満腹にならない

訳は、私家版曹子建集を参考

曹植は、陳舜臣氏が挙げる次の詩も秀逸である。

野田黃雀行(Wikisource

高樹多悲風 高き樹に悲風多く
海水揚其波 海水 其《そ》の波を揚ぐ
利劍不在掌 利剣 掌《て》に在《あ》らずんば
結友何須多 結友 何ぞ多きを須《もち》いん
不見籬間雀 見ずや 籬間《りかん》の雀
見鷂自投羅 鷂《たか》を見て自ら羅《あみ》に投ず
羅家得雀喜 羅《あみ》する家《ひと》 雀を得て喜べど
少年見雀悲 少年 雀を見て悲しむ
拔劍捎羅網 剣を拔きて羅網《らもう》を捎《はら》えば
黃雀得飛飛 黄雀《こうじゃく》飛び飛ぶを得たり
飛飛摩蒼天 飛び飛びて蒼天《そうてん》を摩《ま》し
來下謝少年 来り下《くだ》りて少年に謝す

大樹(自らをに見立てる)には、風当たりも強くなる。海の波も波立つほどだ。鋭い剣を持たなければ友もできまい。ごらんよ、垣のところのスズメがタカを見て自ら網に引っかかった。仕掛けた人は喜んだが、若者(自分を指す)は悲しみにくれた。剣をはらって網を切るとスズメは飛びに飛び、青空まで届かんばかりだったが、今度は舞い降りて助けてくれた礼を言った。(そうしたいものだ。)
【語注】などは、Web漢文大系など参照。

詠懐 阮籍

其三
嘉樹下成蹊    嘉《よ》き樹として下に蹊《こみち》を成すは
東園桃與李    東の園の桃と李なれど
秋風吹飛藿    秋風の飛藿《ヒカク》を吹けば
零落從此始    零落は此《ここ》從《よ》り始まる
繁華有憔悴    繁華には憔悴有りて
堂上生荊杞    堂上には荊杞《ケイキ》を生ず
驅馬舍之去    馬を驅りて之れを舍《す》てて去り
去上西山趾    去りて西山の趾《ふもと》に上らん
一身不自保    一身すら自ずから保たざるに
何況戀妻子    何ぞ況《いわ》んや妻子を恋いん
凝霜被野草    凝《こご》れる霜は野の草に被《かむ》り
歳暮亦云已    歳,暮るれば亦た已《や》むを云えり

【語注】
嘉樹下成蹊:よい木のもとにはめでる人も多く集まり自ずからこみちができる 飛藿:豆の葉 繁華:はなやかな賑わい 堂上:宮殿の座敷 荊杞:いばら 西山:昔、伯夷と叔斉が、周の食べ物を拒否し、餓死したところ 凝霜被野草 秋の霜が凍り霜となり野の草を被う 云已:万事休す

阮籍は、竹林七賢の一人。客を迎えるに当たり、嫌な奴には、白眼を、歓迎するときは、青眼を向けたとある。いわゆる「白眼視」はここからの由来。時代は、こうした詩人にとって、決して軟なものではなかった。阮籍や陶淵明などは、刑死など免れた例外と言えるだろう。「政治の悪からのがれて山野にかくれようとしながら、なお仙化することも、餓死することもかなわず、心みだれて慟哭した彼の悲哀を、よく象徴するものといえる。」と高橋和巳は言う。

最後に、少々艶っぽい詩を二首。

子夜歌  其三 其七 普代呉歌

宿昔不梳頭 宿昔《しゅくせき》頭《こうべ》を梳《くしけず》らず
糸髪披両肩 糸髪《しはつ》両肩《りょうけん》を披《おお》う
婉伸郎膝上 郎《ろう》の膝上《しつじょう》に婉伸《えんしん》すれば
何処不可憐 何れの処《ところ》か可憐ならざる

始欲識郎時 始めて郎を識らんと欲せし時
両心望如一 両心《りょうしん》一の如きを望む
理糸入残機 糸を理《おさ》めて残機《(ざんき》に入る
何悟不成匹 何ぞ悟らん匹《ひつ》を成らざるを

訳文は、サワラ君の日誌を参照のこと。

六朝時代は、一癖も二癖もある詩人が多く、アクも強いが、それ故多感である。こうした傾向が民謡風の歌詞にも現れているのが興味を惹かれる。

とまれ、高橋和巳の文学は、それなりにアクチュアルだった時代から、半世紀が経った今は、その源も含め、トータルに向かい合わさなければならないのかもしれない。もっとも、彼の中国訪問の際の毛語録を読んでいるらしい「人民服」の姿は、「あの頃の文学者の多くが同じ心情だったんだ」以上の評価をすることしかできないし、あの時代、当方も含めて、中国に対して幾分「浮かれた」気分があったのだろう。

【参考】
・高橋和巳作品集 9 「中国文学論集」(河出書房新社)
・陳舜臣 「中国詩人伝」(講談社文庫)

日本人と漢詩(077)

◎永井荷風と大沼沈山
「江戸詩人選集」には、以前、紹介した成島柳北とともに、大沼沈山の詩も載っていた。そこで、沈山の詩を繙くとともに、彼を扱った永井荷風の「下谷叢話」を読んでみた。

永井荷風は、森鷗外に傾倒し、師とも仰いでいたようだ。特にその史伝小説に影響され、関東大震災の後、古き東京(江戸)に思いをはせ、「下谷叢話」(青空文庫)を発表した。鷗外のそれとは一味違い、扱う人物が荷風の縁者(鷲津毅堂の外孫)なだけに、思い入れが深い気がする。また大窪詩仏、菊池五山、館柳湾、梁川星巌、成島柳北など江戸後期から末期、明治に至るまでの漢詩人が網羅的に多く登場、彼らのコミュニティも描かれ、そこにも荷風の憧れを感じる。後半になると、維新前後の詩人が多くなり、文字通り「二世」を生きた人生だったが、荷風が取り上げる沈山は、江戸時代の「一世」を送り、残りは余燼ともいえる。荷風は書く。

枕山の依然として世事に関せざる態度は「偶感」の一律よくこれを言尽《いいつ》くしている。

孤身謝俗罷奔馳 孤身俗ヲ謝シ奔馳ヲ罷ム
且免竿頭百尺危 且ツ免ル竿頭百尺ノ危キヲ
薄命何妨過壯歲 薄命何ゾ壮歳ヲ過こユルヲ妨ゲンヤ
菲才未必補淸時 菲才未ダ必ズシモ清時ヲ補ハズ
莫求杜牧論兵筆 求ムル莫カレ杜牧ノ兵ヲ論ズルノ筆ヲ
且檢淵明飮酒詩 且ツ検セヨ淵明ノ飲酒ノ詩ヲ
小室垂幃溫舊業 小室幃《い》ヲ垂レテ旧業ヲ温ム
殘樽斷簡是生涯 残樽《ざんそん》断簡是レ生涯
[語注]奔馳:走り去る 竿頭百尺:更に一歩を踏み出すことを目指す 杜牧:唐の詩人、兵法書に詳しい 淵明:晋の詩人、陶淵明、「飲酒」の詩は有名 幃:とばり 断簡:文書の断片、「断簡零墨」という

 わたくしはこの律詩をここに録しながら反復してこれを朗吟した。何となればわたくしは癸亥震災以後、現代の人心は一層険悪になり、風俗は弥いよいよ頽廃《たいはい》せんとしている。此《か》くの如き時勢にあって身を処するにいかなる道をか取るべきや。枕山が求むる莫《なか》れ杜牧《とぼく》兵を論ずるの筆。かつ検せよ淵明が飲酒の詩。小室に幃《い》を垂れて旧業を温めん。残樽《ざんそん》断簡これ生涯。と言っているのは、わたくしに取っては洵《まこと》に知己の言を聴くが如くに思われた故である。

枕山は年いまだ四十に至らざるに蚤《はや》くも時人と相容《あいいれ》ざるに至ったことを悲しみ、それと共に後進の青年らが漫《みだ》りに時事を論ずるを聞いてその軽佻《けいちょう》浮薄なるを罵《のの》しったのである。

飲酒


憶我少年日 憶フ我ガ少年ノ日
距今僅廿春 今ヲ距《へだ》ツルコト僅《わず》カニ廿春
當時讀書子 当時ノ読書子
風習頗樸醇 風習頗ル樸醇
接物無邊幅 物ニ接シテ辺幅無ク
坦率結交親 坦率交親ヲ結ビ
儒冠各守分 儒冠各々《おのおの》分ヲ守ル
不追紈袴塵 紈袴ノ塵ヲ追ハズ
今時輕薄子 今時ノ軽薄子
外面表誠純 外面誠純ヲ表ス
纔解弄文史 纔ニ文史ヲ弄スルヲ解シ
開口說經綸 口ヲ開ケバ経綸ヲ説ク
問其平居業 其ノ平居ノ業ヲ問ヘバ
未曾及修身 未ダ曾テ修身ニ及バズ
譬猶敗絮質 譬フレバ猶敗絮ノ質ノゴトク
炫成金色新 炫《くらま》シテ金色ノ新タナルヲ成ス
世情皆粉飾 世情皆粉飾
哀樂無一眞 哀楽一真無シ
只此醉鄕內 只此ノ酔郷ノ内ニ
遠求古之人 遠ク古ノ人ヲ求ム
小兒李太白 小児ハ李太白
大兒劉伯倫 大児ハ劉伯倫
隔世拚同飮 世ヲ隔テテ同飲ニ拚《まか》セ
我醉忘吾貧 我酔ヒテ吾ガ貧ヲ忘レン

[語注]憶我少年日:陶淵明の雑詩「憶う我少壮の時」 樸醇:質素で真面目 坦率:さっぱりして飾り気がない 儒冠、紈袴:儒者が貴族の子弟に取り入る。杜甫「紈袴餓死せず、儒冠多く身を誤る」 敗絮質:ぼろの綿入れのような実情 李太白、劉伯倫:ともに酒豪、劉伯倫は「竹林七賢」の一人 拚:すっかりまかせる

ここで、荷風が割愛した沈山の「飲酒」の二首目を掲げる。


春風吹客到 春風《しゅんぷう》客《かく》を吹いて到らしむ
春酒傍花斟 春酒《しゅんしゅ》花に傍《そ》うて斟《く》む
不談天下事 天下の事を談《だん》ぜず
只話古人心 只《ただ》古人の心を話《かた》る
樽空客亦去 樽《たる》空《むな》しくして客《かく》亦《また》去る
月淡海棠陰 月淡くして海棠《かいどう》陰《くら》し
明朝又來飮 明朝《みょうちょう》又《また》来《き》たりで飲め
何勞抱素琴 何ぞ素琴《そきん》を抱《いだ》くろ労《ろう》せん

[語注]明朝又來飮:李白「我酔うて眠らんと欲す卿しばらく去れ。明朝意あらば琴を抱いて来たれ」 素琴:弦のはっていない琴。陶淵明が撫でて楽しんだとある。

 枕山がこの「飲酒」一篇に言うところはあたかもわたくしが今日の青年文士に対して抱いている嫌厭《けんえん》の情と殊《こと》なる所がない。枕山は酔郷の中に遠く古人を求めた。わたくしが枕山の伝を述ぶることを喜びとなす所以《ゆえん》もまたこれに他《ほか》ならない。

「天下の事を談ぜず、ただ古人の心をかたる」とは、「紅旗征戎《こうきせいじゅう》吾が事に非ず」(藤原定家「明月記」)にも通じるかもしれないが、沈山や荷風の感慨を額面通りに受け取ってはならず、彼ら独自のイロニーであろう。たしかなことは、時代の風潮に「前向き」なだけが、その人の評価にはならないことである。こうした荷風の江戸末期と大正から昭和にかけてを重ね合わせ、沈山に思いをはせる気持ちは現在にもきっと生かせるだろう。

荷風は、「下谷叢話」を、明治以降についての沈山などの詩作については、その墨を薄くしており、毅堂と沈山の死をもって静かに擱筆する形となる。これまた荷風の見識だろうが、余燼ともいうべき明治に入っての沈山も、世間を確かな眼で眺め、なかなか「熱いもの」を持っているようだが、いずれ、また。

【参考】
・永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫、青空文庫)
・「成島柳北 大沼沈山 江戸詩人選集 第十巻」 岩波書店

日本人と漢詩(076)

◎武田泰淳と杜甫

先日亡くなった大江健三郎の師ともいうべきフランス文学者・渡辺一夫にとってのラブレー、機会があれば紹介予定の「下谷叢話」( 青空文庫)を書いた永井荷風にとっての江戸後期文化、今回の武田泰淳にとっての司馬遷を始めとする中国文学(戦時中、殺戮の歴史というべき、中国通史「資治通鑑」を読み終えた中井正一も付け加えてもいいかもしれない。)は、彼らにとっては時代の風潮に対する抵抗の拠り所になった。彼らの時代とはまた違う困難な現代を生きる私たちにとって、そのよすがが何であるかをふと考えたくなる。
さて、武田泰淳には、戦後、数年を経て短編「詩をめぐる風景」が発表された
そのエピグラフにはこうある。

ー円き荷《はす》は小さき葉を浮かべ
細き麦は軽き花を落すー杜甫

詩の全体は、以下の通りで、五言律詩の頷聯《がんれん》である。

爲農 農と為る
錦裡煙塵外 錦里《きんり》煙塵《えんじん》の外
江村八九家 江村《こうそん》八九家
圓荷浮小葉 円荷《えんか》小葉浮かび
細麥落輕花 細麦《さいばく》軽花落つ
卜宅從茲老 宅を卜《ぼく》して茲これ従り老いん
爲農去國賒 農と為って国を去ること賒《はる》かなり
遠慚勾漏令 遠く勾漏《こうろう》の令に慚《は》ず
不得問丹砂 丹砂を問うことを得ず

語釈、訳文は、杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会
古代文化研究所:第2室などを参照。

『杜甫にとって安住の地であった、蜀成都の草堂も彼にとって安住ばかりはできなかったようだ。『杜甫の奴僕たちにとっては草堂は宿命のようなものである。……奴僕たちは他の世界を知らない」として、外の世界に開かれない宿命をもった奴僕に対し、杜甫は外界を求めてさまよう宿命にあった。「草堂は永いこと杜甫の脳裏にえがかれた幸福の象徴であった。……自然にひたり、草木にうずもれて詩の世界をひろげるために、杜甫は草堂を求めていた」。杜甫は「草堂」という「混沌世界の中に占める自分の一点」を維持してこそ、「幸福の象徴を追い求めながら旅をつづける文学者の生き方」ができたのだと泰淳は描く。
そのような生き方を選ぶ理由を、泰淳は「詩をめぐる風景」という小説において次のように説明する。「安定できず安住できない自分というものが、自分の詩の不安ではあるが新鮮な泉になっている」、「次から次へあらわれてくる諸現象、そしてそれをむかえての自分のもろもろの精神状態のごく複雑な総合が自分の詩をささえている。……それ故、自分の外界が安定しないばかりでなく、自分の内心そのものが広い広いとりとめもない混沌世界であるように思われる。」泰淳が描いた杜甫は、戦乱によって引き起こされる内心の葛藤こそが詩を作る原動力であることを知り、安穏とした草堂生活に留まることができず、「家」を捨て、「漂泊の生涯」を送る詩人であった。』

王俊文 中国戦地の風景を見つめる「喪家の狗」―武田泰淳の日中戦争体験と「風景」の創出― より

逆に、彼はそうした心情を素直に吐露することで、成都の自然(この詩では、円き荷と細き麦)とうまく重ね合わせたくみに詩情を詠いあげているように思われる。「農と為る」は為りきれない彼の吐露をのぞかせる詩題であろう。それにしても、小説では、農奴である阿火と阿桂の若きカップルの結末が哀れである。

成都の草堂は、チベット・ラサからの帰り道、成都に宿泊、そのついでにたっぷり一日訪れたことがある。もちろん、杜甫の時代の草堂とは大違いで、大規模に整備もされ、効率よく杜甫の生涯を辿ること可能だが、散策の道には人も少なく、彼の真情に少し触れることができた。

【参考】
・武田泰淳「中国小説集 第二巻」新潮社(写真)

日本人と漢詩(075)

◎一海知義と中国留学生

本箱が、本の重みで一部棚が落ちてしまった。仕方なく新調することにして、並べていた書物を取り出したが、パラパラめくり、中には熱中し、読み返しの連続で、なかなか作業が進行しない。漢詩を中心とした時折の随想を集めた著書で、7年前に物故の、一海知義先生の本があったので、結局読みふけってしまった一本の一つである。そのなかに、「『文革』を批判した漢詩」という一節があった。
思えば、1989年の第二次天安門事件から、やがて34年が経とうとしている。その弾圧の首謀者の一人、李鵬(Wikipedia)も亡くなってしまった。天安門事件の2年後、1991年3月20日、「人民日報」海外版にアメリカ留学生の、李鵬を諷する漢詩が投稿された。さすがに「人民日報」もその寓意は理解できなかったようだ。
ちょうど今の時期、中国では全人代が開催されている。前回だったかの会議の直前には、当方は中国滞在中であったが、会議の始まる前に、なかば強制的に中国から追い払われ、予定を切り上げ、日本に帰国した。今回もそうした強権発動があったことだろう。そして天安門事件などなかったように、習体制の賛美に終始することだろう。

東風拂面催桃李 東風(はるかぜ)面《おもて》を払いて桃李を催《うながせ》ば
鷂鷹舒翅展程 鷂鷹(とんび)《ようとう》翅《はね》を舒《のべ》て鵬程を展ず(鵬とおなじように遠くまで飛ぼうとする)
玉盤照海熱涙 玉盤(白玉の大皿のような月)を照せば熱涙下《くだ》り
遊子登思故城 遊子(たびびとである私は)台に登りて故城(故郷の町)を思う
休負生報國志 負《そむ》く休《な》かれ平生国に報いんとする志に
育我勝萬金 人民の我を育《はぐ》くむこと万金に勝《まさ》れり
起急追振華夏 憤起急追して華夏(祖国中国)を振《ふる》わさんも
且待神洲遍地春 且《しばら》く待たん神洲(中国)の地に遍《あまね》きの春を

第一句の最後の文字から斜め上にたどり、第八句をそのまま読むと、
李鵬、台より下《くだ》れば、民の憤《いきどお》りを平らげん、
且《しばら》く待たん神洲の地に遍《あまね》きの春を。

なお、Wikipedia 掲載の詩とは若干の異同がある。

汚職の噂も絶えない李鵬が内閣、大臣をやめれば、民衆の怒りもしずまり、春の訪れも期待できるだろう。それまでは、忍耐がつづくかもしれないが…

天安門事件で、旗を振りながら素手で戦車に立ち向かった一人の若者がいた。彼を想いながら、上記の漢詩に倣って、短歌を一つ。

いはざり
はたにおり
かぜには
とわ()つたゑかし
づつにむかひて

「『文革』は本質的にはまだ決着がついていません。しかしほんとうにそこから脱却する日は必ず来るでしょう。中国人民の批判精神と楽天性、私はそこに信頼をおき、期待しています。」(一海知義)
写真は、事件以前の天安門(1988年 Wikipediaより)
【参考】
一海知義「詩魔ー二十世紀の人間と漢詩」 藤原書店