日本人と漢詩(021)

◎毛有慶(亀川盛棟)


日本人であるかどうかは微妙ですが、「琉球処分」により琉球王朝が消滅しようとしていた時代、彼は、清国に救援を求めに渡ったが、琉球に帰ったところ、投獄されたとあります。
「日日王城を瞻望《せんぼう》し、悲歎《ひたん》に勝《た》えず、偶《たま》たま書す」 毛有慶(亀川盛棟)(1861-1893)
城古《ふ》りて転《うた》た蒼茫たり
城荒れて草木長ず
龍楼《りゅうろう》龍《たつ》既に脱し
鳳闕《ほうけつ》鳳《おおとり》猶お翔《と》ぶ
本《もと》簫笙《しょうしょう》の殿《でん》を以て
変じて剣戟《けんげき》の倉《くら》と成す
一朝《いっちょう》一《ひと》たび首を翹《あ》げ
愁断《しゅうだん》す 九廻《きゅうかい》の腸
首里城での詩歌管弦の御殿も、今や武器庫となっていると嘆くところは、現在の沖縄基地の重圧につながるように感じます。
最近、Youtube のじゅんちゃんの哲学チャンネルで、関西学院大学の冨田先生との対談を聴きました。富田先生は、丸山真男を援用しながら、日本の近代から現代にかけては、「他者」をきちんと対象化しながら、対峙してこなかった弊害について述べられていました。それは、実際の対話も欠落していたし、自己の内側でも、なおさらそうであったとしています。琉球に根付いた文化は、狭い意味での「日本」にとって他者であることを、彼の漢詩は示してくれます。(本場中国の漢詩では、いくたびの亡国の際に、その感情表現が昂ぶることが多いように思われます。)
彼の漢詩は、以下の琉球大学アーカイブで読むことはできますので、ゆっくり読んでみたいと思っています。
https://core.ac.uk/download/pdf/59152852.pdf
写真は、焼失前の首里城です。
参考】
・石川忠久「日本人の漢詩」琉球の詩人たちより

日本人と漢詩(020)

◎頼山陽と江馬細香


文化十年(1813年)暮に山陽は細香の住む美濃を跡にして、翌年新春に梨影という女性を娶ります。大垣を去るにあたって
「重ねて細香女史に留別す」
宿雪《しゅくせつ》漫々《まんまん》として謝家《しゃけ》を隔《へだ》す
離情《りじょう》述《の》べんと欲《ほっ》して 路程《ろてい》賒《はる》かなり
重ねて道藴《どううん》に逢ふ 何処《いづこ》に期《き》せん
洛水《らくすい》春風《しゅんぷう》 柳花《りゅうか》を起《おこ》す
とまた京都で逢うことを期待している一方で
蘇水《そすい》遙々《ようよう》 海に入りて流る
櫓声《ろせい》雁語《がんご》 郷愁を帯ぶ
独り天涯《てんがい》に在りて 年暮れんと欲す
一篷《いっぽう》の風雪 濃州《のうしゅう》を下る
と傷心の胸裡も述べます。
翌年春2月半ばに細香と再会、嵐山に花見遊山し、
山色稍《やゝ》暝《くろう》して 花《はな》尚《》お明《あき》らかなり
綺羅《きら》人散じて 各々城に帰る
渓亭《けいてい》に独り 吟詩の伴《とも》有り
共に春燈《しゅんとう》を剪《き》 水声《すいせい》を聞く
暮《く》れて帰《かえ》る 旧《むかし》を話し 歩み遅々たり
鬢《びん》に挿す 桜花 白一枝
濃国《のうこく》に 相逢《あいあ》ふ 昨日の如し
記す 君が雪を衝《つ》きて 吾を訪《おとず》れし時
江馬家蔵「山陽先生真蹟詩巻」よりとあるので、細香に直接贈ったのでしょう。
でも、『山陽詩鈔』では、次のように七絶に改作
「武景文細香と同じく嵐山に遊び旗亭に宿す」
山色稍《やゝ》暝《くろう》して 花《はな》尚《》お明《あき》らかなり
綺羅《きら》路を分ちて 各々城に帰る
詩人故《ことさら》に人後に落ちんと擬《ほっ》す
燭を呼んで 渓亭《けいてい》に 水声《すいせい》を聴く
といろいろ経緯を巡って憶測を呼ぶようになったのです。
写真は、京都・嵐山(Wikicommon より)
参考】
・門玲子「江馬細香」

日本人と漢詩(018)

◎市河寛斎


あまり昨今の時勢とは関係ないかもしれませんが、再開します。通し番号は、前回の続きです。では、徒然なるままに、気が向いたら…
先日、下記の映画を観ました。 
大コメ騒動
大正年間に起こった富山魚津から始まった、米騒動を扱ったものです。主人公の井上真央さんのやや抑えた演技が光っていました。江戸時代に同じ富山を流れる神通川の水害があり、市河寛斎(1749-1820)でその後の貧窮を扱っています。
岩波文庫 「江戸漢詩選」(下)より
「窮婦の嘆き」
路《みち》に小羽邨《こばむら》に過ぎる。九月十二日、神通《じんづう》の岸崩《くず》るること数百歩、農民の家を壊す。

神通川の頭《ほとり》 岸の崩るる辺《あたり》
響きは平地に及び 良田を陥《おと》す
拆勢《たくせい》 横さまに入る 民人の宅《いえ》
屋は傾き 壁は壊れ 殆んど顚《たお》れんと欲す
門に農婦の子を抱きて哭《こく》する有り
自ら陳《の》ぶ 夫壻《ふせい》は本《も》と薄福
山田《さんでん》の贏余《えいよ》 菜《さい》と蔬《そ》と
父子《ふし》六箇《ろっこ》の腹を満たさず
前年の水旱《すいかん》に田は荒蕪《こうぶ》し
歳の終りに猶《な》ほ未《いま》だ輸《ゆ》せざるの租《そ》あり
計《けい》尽《つ》き 仮貸《かたい》して牛犢《ぎゅうとく》を買ひ
塩を鬻《ひさ》いで遠く度《わた》る 飛山《ひざん》の途《みち》
飛山《ひざん》の石路《せきろ》 二百里
大は刃《やいば》を蹈《ふ》むが如《ごと》く 小は歯の如し
但《た》だ人の労《つか》るるのみならず 牛も亦《ま》た労れ
官租《かんそ》未《いま》だ輸《ゆ》せざるに 牛先《ま》づ死す
官租 仮貸《かたい》 一身に負《お》ひ
怨訴《えんそ》して天に号《さけ》べど 陳ぶるに処《ところ》無し
其《そ》れ淵《ふち》に投《とう》ずる予《よ》りは 寧《むし》ろ自ら売らんと
奴《ど》と為《な》り 家を離れて 已に幾春《いくしゅん》
妾《われ》は孤独と為りて空室を守り
児子《じし》は背に在《あ》り 女《むすめ》は膝を遶《めぐ》る
昼は人の傭《やとわれ》と為り 夜は纑《あさ》を辟《つむ》ぐ
光陰《こういん》空《むな》しく度《わた》る 一日日《いちにちにち》
何ぞ計《はか》らんや 天変《てんぺん》又た我に帰し
一夜 此の顚覆《てんぷく》の禍《わざわい》に覯《あ》はんとは
児《じ》は号《さけ》び女《むすめ》は泣いて 妾《わ》が身に纏《まつ》はる
嗟《ああ》 是れ何の因《いん》ぞ 又た何の果《か》ぞ
吾《わ》が壻《おっと》 平生《へいぜい》 悪を作《な》さず
妾《われ》も亦《ま》た艱苦《かんく》して耕穫《こうかく》を助《たす》く
身の死するは何ぞ厭《いと》はん 女児を奈《いか》んせんと
語《ご》畢《おわ》りて 双涙《そうるい》 糸絡《しらく》の如し
一行《いっこう》の聴《き》く者 皆な傷愁《しょうしゅう》し
為《ため》に喩辞《ゆじ》を作《な》して沈憂《ちんゆう》を慰《なぐさ》む
悠悠《ゆうゆう》たる蒼天《そうてん》 爾《なんじ》の為ならざるも
明明《めいめい》たる皇天《こうてん》 爾 尤《とが》むること勿《なか》れ
天高くして 人語《じんご》響《ひび》き易《やす》からず
中に冥吏《めいり》の忠儻《ちゅうとう》ならざる有るも
恃《たの》む所は 皇天 生生《せいせい》を好む
豈《あ》に雨露《うろ》の枯壌《こじょう》を湿《うるお》すこと無《な》からんやと
日本人の漢詩は、中国の伝統と違い、一部の優れた例外(菅原道真公くらいか)を除きこうした社会的視野をもった題材は極めて少ないと思います。また、比較的平明な言葉遣いで、余計な訳文は不要だとおもいますが…大意を示すと
神通川辺の水害、田畑、家屋に及んだ。被災者の農婦の言、
「もともとの貧乏暮らし、家族の食事にも事欠く始末、また年貢も納めるのもむつかしい。
 夫は、飛騨の国に、塩の行商の途中で、牽いていた牛が死ぬ始末、年貢と借金を背負う始末。少しの足しにと夫は他家に稼ぎにいったのも何年か前。
 私は、子どもの面倒を見ながら、人に傭われ、夜も夜なべ仕事にあけくれたところに今度の水害。家も転覆する始末、夫婦とも悪いことはした覚えはないのに、何の因果でしょうか、子どもたちをどうすれば…」と目に涙に皆ももらい泣き、なんとか慰めの言葉をかけた。
「神様をうらむじゃないよ、民の声が天がたかければ届かないこともあるだろう、また神の側近には不忠、不誠実な輩もおるだろう。(このあたり、現実に当時の役人の実態の反映でしょうね。)天の神は、人々、万物が生き生きと暮らすことを望まれているはず、きっとそのうちに恩恵もあるだろうよ。(まさか作者は本気では信じておるまい。)
米騒動だってしかり、映画を観てはじめて地下水脈として受け継がれる庶民の思いを感じました。

日本人と漢詩(番外編2)ーこんなご時世だから(11)

◎海音寺潮五郎と詩経


海音寺潮五郎先生曰く
詩経邶風 擊鼓
擊鼓其鏜、踊躍用兵。
土國城漕、我獨南行。
從孫子仲、平陳與宋。
不我以歸、憂心有忡。
爰居爰處、爰喪其馬。
于以求之、于林之下。
死生契闊、與子成說。
執子之手、與子偕老。
于嗟闊兮、不我活兮。
于嗟洵兮、不我信兮。
兵のうたえる
どろろん どろろん
太鼓がひびく
訓練ぢやア、訓練ぢやア
いくさするちゆて
國中(くにぢゆう)支度
皆かり出されて城ぶしん
都ぢや壁つき、在郷(ざいご)ぢや砦
おいらひとりは兵士に召され
南の國にしよぴかれる
將軍さんは孫子仲
陳と宋とを仲よくさせて
その勢(せい)合わせて、鄭征伐ぢやとよ
いつもどさるることぢややら
だんまりべえで言うてはくれぬ
兵隊どもの心配は
少しも上にはひびかぬわ
傷つき、病(いた)づき、兵隊共は
あちらこちらでころころ死んだ
賴る黑馬(あを)さえどこぞへ逃げた
おらもやんがて死ぬであろ
おらがむくろをさがすなら
どこぞ林の草の下
女房よ、女房
昔お前と約束したな
死のが、生きよが、會ほが、別りよが
心がはりはしまいぞと
おらはお前の手をにぎり
老いの末まで添ひとげようと
かたい約束、おぼえてゐよう
この身になっては、その約束も
はかなく消えてしまうたわ
今は夫婦といふも名ばかり
こげいに遠くひきはなされた
何しに歸つて添ひとげられよ
ほんによほんに
あれほどかたい約束が
あだとなつたがかなしやな
海音寺潮五郎訳
ちなみに偕老は、かいろうどうけつ【偕老同穴】 の元になった言葉( http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/37270/m0u/ )

日本人と漢詩ー番外編(1)

◎一海知義と河上肇、姚合
 2012年9月28日付けの赤旗文化欄、一海知義先生の漢詩閑談(写真)は、以前の河上肇からの連想で「貧乏神」物語。学生時代の初舞台が「貧乏神」(作者失念!)という芝居の「馬鹿殿様」役だった。貧乏神は、実は庶民の味方で、「水呑み百姓」に「殿様」に反抗をしかける、その殿様の「馬鹿さ加減」をたたいたところで現実は何も変わらない、といったテーマと筋だったと思うが、現代でも示唆的である。ともあれ、紹介の漢詩からもあるように、貧乏神というと、どこか、憎んでも憎みきれないユーモアがあるようだ。

 

日本人と漢詩(018)

◎木村蒹葭堂と葛子琴
贈世粛木詞伯 葛子琴 五言排律
酤酒市中隠 酒を酤《う》る 市中の隠《いん》
傳芳天下聞 芳《ほまれ》を伝へて 天下に聞《きこ》ゆ
泰平須賣剣 泰平《たいへい》 須《すべから》く剣を売るべく
志氣欲凌雲 志気《しき》 雲を凌《そそ》がんと欲す
名豈楊生達 名は豈《あ》に 楊生《ようせい》の達《すす》むるならんや
財非卓氏分 財は卓氏の分《わ》くるに非《あら》ず
世粉稱病客 世粉《せふん》 病客《びょうきゃく》と称《しょう》し
家事託文君 家事《かじ》 文君《ぶんくん》に託《たく》す
四壁自圖画 四壁《しへき》 自《おのづ》から図画《とが》
五車富典墳 五車《ごしゃ》 典墳《てんふん》に富《と》む
染毫銕橋柱 毫《ふで》を染《そ》む 銕橋《いきょう》の柱
滌器白州濆 器《うつわ》を滌《あら》ふ 白州の濆《ほとり》
堂掲蒹葭字 堂に掲《かか》ぐ 蒹葭《けんか》の字《じ》
侶追鷗鷺群 侶《とも》は追《お》ふ 鷗鷺《おうろ》の群《むれ》
洞庭春不盡 洞庭《どうてい》 春は盡《つ》きず
數使我曹醺 数《しばしば》 我が曹《そう》をして醺《よわ》しめたり
江戸時代18世紀後半、蒹葭堂をして、サロンたらしめたのは、三つの条件があったと思う。一つには、主人の収集を価値とする生い立ち、二つには、大坂商人の「エートス」ともいうべきまめな性格で、毎日の来訪者を丹念に書き留めており、現在は、その「蒹葭堂日記」として残っている。日記を調べると、堂を訪れた文人は、広く日本全国に及んでいると言う。三つ目は、実際、蒹葭堂を会場にして、詩の集いなどのミーティングが、毎月定例化されたことだ。その詩会は、当初蒹葭堂が会場になったが、毎月、お店が会場になるというのも商売に差支えもあったのだろう、やがてその場所を移し、明和二年(1765)、「混沌詩社」の結成へと発展していった。その中での中心メンバーが、作者の葛子琴(Wikipedia)である。
葛子琴は、元文4年(1739年)生まれとあるから、木村蒹葭堂より、三つ年少だが、ほぼ同時代に生を受けたとみて良い。大坂玉江橋北詰に屋敷があった生粋の浪速人、しかも代々医を家業としていた(同業者!)。このことは、大坂生まれの漢詩人というのは、寡聞にして他にいないので、そのたぐいまれな詩才は、もっと知られてもよいと思う。45年という比較的短い生涯であったが、詩会を通じての知り合いだったが晩年は、蒹葭堂に出入りしたと「日記」にはあるという。詩は、その蒹葭堂讃である。詩の背景として、前漢の時代、その文名をはせた司馬相如(Wikipedia http://is.gd/IjZ7Io)に蒹葭堂を模している。司馬相如は、不遇の時代、酒屋を営んで、糊口をしのいでいた。しかも、駆け落ち同然で結ばれた卓文君という妻が、なかなかのやり手で、司馬相如が漢の武帝に見出されるまでは、内助の功を発揮した。司馬相如は若い頃は剣の達人だったというエピソードは、木村蒹葭堂の祖先が、大坂夏の陣で活躍した後藤又兵衛というから、それに重ねあわせたのかもしれない。しかし、「ボロは着てても心は錦」、志気の極めて軒高なことを司馬相如に例える。次は、蒹葭堂のユニークなところ、楊生のような推薦者がいたわけではなく、細君の実家からの援助があったわけでもない。ただ、元来「蒲柳の質」で、家事は妻(と妾―江戸時代は、妻妾同居が当たり前だったんだろう)に任していた。その結果、汗牛充棟、三典五墳の一大コレクションが出来上がった。銕橋(くろがねばし)は、今はもう埋め立てられてしまった、堀江川にかかる橋、蒹葭堂のあった北堀江と南堀江の境だろう。6月始めに、この近くにある保育所健診に行くので、このあたりの地理的関係を確かめておこう。(後注:http://www.yuki-room.com/horie.html によると北堀江と南堀江の境の道路から一つ南の筋にかかっていたらしい。)清人から送られた蒹葭堂の書斎に掲げられた扁額に触れ、その縁語で、堂に集う文人たちを鷗鷺に例え、そこにいると名勝地洞庭湖にも比すべき別天地、その春の情は尽きることなく、美酒に酔う心持ちであると述べ、讃詩の結びとしている。
*参考文献:水田紀久「水の中央にあり―木村蒹葭堂研究」(岩波書店)
写真は、明治末年に発刊された「漢籍国字解全書」詩疏図解・淵景山述(安永年間の人とあるので、ほぼわが主人と同時代である。)で、「蒹葭」の図が載っている。こんな本で四書五経を学んだという意味でスキャンした。

日本人と漢詩(017)

◎木村蒹葭堂、テレサ・テンと詩経

蒹葭《けんか》篇 詩経国風 秦風
兼葭蒼蒼   兼葭蒼蒼たり
白露為霜   白露霜と為る
所謂伊人   所謂伊《こ》の人
在水一方   水の一方に在り
溯洄從之   溯洄して之に從はんとすれば
道阻且長   道阻にして且つ長し
溯游從之   溯游して之に從はんとすれば
宛在水中央  宛として水の中央に在り
兼葭萋萋   兼葭萋萋たり
白露未晞   白露未だ晞《かは》かず
所謂伊人   所謂伊の人
在水之湄   水の湄《きし》に在り
溯洄從之   溯洄して之に從はんとすれば
道阻且躋   道阻にして且つ躋《のぼ》る
溯游從之   溯游して之に從はんとすれば
宛在水中心  宛として水の中心に在り
兼葭采采   兼葭采采たり
白露未已   白露未だ已まず
所謂伊人   所謂伊の人
在水之畔   水の畔に在り
溯洄從之   溯洄して之に從はんとすれば
道阻且右   道阻にして且つ右す
溯游從之   溯游して之に從はんとすれば
宛在水中沚  宛として水の中沚に在り
まず、この詩の現代中国語バージョン、鄧麗君 (テレサ・テン)「 在水一方」。こちらは、もう立派な艶歌である。Youtubeでは→https://youtu.be/xrI__4dqYhI

語釈 兼葭:植物、ヨシやアシ 蒼蒼:あおあお 白露為霜:旧暦9月頃の気候 伊人:「愛しい人」だろう 溯洄:さかのぼる 溯游:流れに沿って下る 宛在水中央:手が届きそうで届かない

語釈の続きと訳文は、愛の物語―詩経の新解釈を参照。

再び、木村蒹葭堂の話題へ戻る。河上肇については、機会があればということで…今回は、蒹葭堂の由来となった詩から。ある時、庭の井戸より芦の根が出てきたのを喜び、「蒹葭(アシとヨシ)堂」と名付けたとあるが、その大坂の地らしいエピソードで思い浮かべた詩経の一編にちなんだ要素のほうが強いのではないか。詩経(Wikipedia http://is.gd/4465RJ)は、中国最古の詩集、紀元前6世紀頃、孔子が編纂したと言われている。国風は、そのうち、各地の民謡、秦風とあるから、今の陜西地方で唄われた歌。従来、詩経は、道徳的、政治的解釈が主流だったが、朱子に至って「近代的」解釈がされるようになり、男女間の愛情を扱った詩もあると主張した。その朱子ですら、この詩はよく分からないといっているそうだが、会うことがままならぬ恋人の事を歌ったものとするのが、自然であろう。

日本人と漢詩(016)

◎河上肇と王維


輞川《もうせん》に歸りての作 王維
谷口 疎鐘《そしょう》動き
漁樵《ぎょしょう》 稍《ようや》く稀《まれ》ならんと欲す
悠然《ゆうぜん》たり 遠山の暮
獨り白雲に向って歸る
菱《ひし》の實は弱くして定《さだま》り難く
楊花《ようか》は輕くして飛び易やすし
東皐《とうこう》 春草の色
惆悵《ちゅうちょう》して柴扉《さいひ》を掩《おお》う
もう、一回か二回、河上肇の話題にお付き合いください。2007年7月1日の旧文を若干改変しました。
彼は、獄中で、白楽天や蘇東坡など中国の詩人に親しんだらしく、とりわけ陸放翁に心酔し、後に詩の注釈書——放翁鑑賞(その六その七 )を書いたことは、一海先生もあちこちで書かれています。また、王維(王右丞)の詩にも心引かれ、妻宛の書簡(1934年11月20日付け)に
「最近に差し入れてもらった王右丞集は非常に結構です。「悠然たる遠山の暮、独り白雲に向うて帰る」と云つたような佳句に出会つて、飽くことを知らず口吟しながら、寝に就くと、やがて詩を夢に見ます。不愉快な夢を見るのと違つて実に気持が善いです。 」
とあります。
王維らしく、対句になるべき所に「佳句」が決まっている律詩です。人の世の煩いに例えた、菱の実や楊花という足元に見る春の景色も、人事を超越したとも言うべき、遠い山に懸かる白雲という大きな舞台にあればこそ、何か物悲しく惆悵とした感情を抱く、獄中での河上肇はそんな気分をこの詩から受け止めたのでしょうか。この他の詩にも、王維の詩には、「決め所」があるように思います。
「寒食汜上の作」
落花寂寂として山に啼く鳥
揚柳青青として水を渡る人
「積雨輞川荘の作」
漠獏《ばくばく》たる水田 白鷺《はくろ》飛《と》び
陰陰《いんいん》たる夏木 黄鸝《こうり》囀《さえ》ずる
「終南の別業」
行きて水の窮まる処に到り
坐して雲の起る時を看る
後の二例は、同時代の詩人から「剽窃」したとの非難があったそうですが、そんな評判を吹き消すくらい、不思議と律詩全体にうまくはめ込まれています。そんな「佳句」に出会って、自作の漢詩の対句へのインスピレーションが湧き、獄中でのつかの間の安らぎにせよ、心地良い夢をみたことでしょう。
・参考 「王維詩集」(岩波文庫)
画像は、王維画(とされる)「輞川圖」(視覚素養学習網より)

日本人と漢詩(015)

◎一海知義と河上肇


辛未春日偶成 閉戸閑人
対鏡似田夫 鏡に対すれば田夫に似たり
形容枯槁眼眵昏 形容枯槁《ここう》 眼は眵昏《しこん》
眉宇纔存積憤痕 眉宇《びう》 纔《わず》かに存す 積憤《せきふん》の痕《あと》
心如老馬雖知路 心は老馬の如く 路を知ると雖《いえど》も
身似病蛙不耐奔 身は病蛙《びょうあ》に似て 奔《はし》るに耐《た》えず
今回は、木村蒹葭堂の話題から離れる。というのは、18日付の赤旗文化欄に経済学者・河上肇の紹介記事が、一海知義氏の執筆で掲載(漢詩閑談その2)されていたからだ。いつも、赤旗記事を丁寧にスキャンしておられるFB友のYさんの投稿にも見当たらないので、当方で用意した。
明治以来の日本の漢詩では、夏目漱石と河上肇が双璧だと思う。その内容の深みが他を圧倒するからだ。また、記事にあるように、「詩は志を云う」点では、河上肇をおいて他にないのではではないか。
一海知義氏は、河上肇も傾倒した中国・宋の詩人・陸游の詩を、一首づつ解説している「一海知義の漢詩道場」(岩波書店刊)のコラム欄で、河上肇の詩を、「揮毫」した色紙(河上肇のデリケートな内面が現れているような筆跡である。)とともに紹介し、漢詩を読む際の幾つかのハードルについて書いておられる。そのうちの一つが字句の意味である。上に挙げた漢詩について言えば、「形容」は姿かたち。枯槁は、枯れしなびる。眵昏は、目やにがたまってよく見えぬ。眉宇は眉と眉の間。後半二句は、別のハードル、中国古典からの「典故」が待ち構える。老馬は道を知っているがゆえに遭難した旅人を救うことができるという「韓非子」からの「引用」があると一海氏は説く。もっとも、肝心なのはこの詩の時代背景である。赤旗記事にあるように、河上肇が漢詩作法を覚えたのは、獄中の独学とある。しかし実際にはその詩作が多くなるのは、1937年(昭和12年)に出獄の後のこと。辛未春日偶成は、辛未とは、1941年(昭和16年)の作。出獄後、特高警察の監視のもと(監視下に漢詩を作るというのは、下手なダジャレだが…いずれにしても、特高も言葉の意味は理解の範囲外だったのだろう。)ひっそりと暮らしていた河上肇にとっても、否が応にでも、戦争の足音は聞こえてくる。たとえ、故事来歴を知らなくても、「積憤」という漢語に彼の込めた思いは深く、悲しい。

日本人と漢詩(014)

◎木村蒹葭堂と祗園南海

白屋靑燈獨夜情 白屋青燈、独夜の情
樽中有酒誰共傾 樽中、酒あり、誰と共にか傾けん
寒花十月無人見 寒花十月、人を見るなく
黃葉滿山聽鹿行 黄葉満山、鹿の行くを聴くのみ
「私たちの主人公、小字《おさなな》木村太吉郎が生まれたのは、元文元年(1736)、11月28日、大坂北堀江瓶橋北詰の酒造屋の一室であった。」とするのは、先日の投稿した史跡になるのだろうか?
中村真一郎氏は、その伝を執筆動機からはじめて、主人公の出生に及んでゆく。そこで、わが蒹葭堂が、少年時代から勤しんだ書画などの勉学から説く。大阪市の記念碑には、絵とともに漢詩の師匠筋にあたるのが、片山北海、柳沢淇園などの名を挙げる。更に中村氏は、淇園の先輩であり、同じ流派であった祗園南海らの詩や絵の中国直輸入ぶりに、逆に純粋なインターナショナルな精神を感じるという。
祗園南海(Wikipedia)は、わが蒹葭堂と15年くらい生涯が重なる詩人、文人。なかなか起伏に富む生涯であったようだ。中村氏が引用する詩は、その謫居中の詩。ひとり住むあばら屋に花は咲けども酒の相手もいない、紅葉の山に鹿の鳴く声のみがうつろに響く、とする七言絶句は、単に「唐詩選」からの模倣ではなく、ずいぶん率直な詩だと感じる。
「…十八世紀大坂の一少年太吉郎の胸を騒がせたのも(世界主義という)同じ衝動であり、やがてこの衝動は『蒹葭堂』という国際博物館の実現にまで、その夢が膨らんで行くことになる。

 それは日本にとっては、十六世紀後半の切支丹伝来時の、短い国際化に次ぐ本格的な、世界に向っての窓の開かれた、又、世界の水平線上に日本の影の現れはじめた時代なのである。

 そうした世界的雰囲気のなかで、ブルジョアジーの支配する都市、大坂の一隅に、世界を視野においた博物学のディレッタントが成長して行くのである。」(同)
これからも、「春風が(ガラス越しにも)伝わ」(芥川龍之介)ってくるようなわがディレッタントに則しながら、また時には離れ、時空も超えて、ゆっくり、ゆったりと書き綴ってゆくとする。
なお、大阪市の記念碑がある所は、正確には蒹葭堂跡ではないらしい。その石碑より100mほど西に入った所が、生家のようである。(Google map

【参考】中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』(新潮社)