日本人と漢詩(099)

◎菅原道真

以前も一度だけ菅原道真(845-903)を取り上げたが、本邦屈指の漢詩人、道真公の話題はこれにとどまらない。ここでは、初期の漢詩を中心に…まずは、詩人道真の11歳時のデビュー作。師の島田忠臣が感心したと云う。

月夜見梅花 月夜に梅の花を見る
月耀如晴雪 月の耀《かがや》くは晴れたる雪の如し (げつようせいせつのごとく)
梅花似照星 梅花は照れる星に似たり (ばいかしょうせいににたり)
可憐金鏡轉 憐れぶべし 金鏡の転《かいろ》きて (あわれむべしきんきょうてんじて)
庭上玉房馨 庭上に玉房の香れるを (ていじょうにぎょくぼうのかおれるを)

語釈、訳文は、古典・詩歌鑑賞(ときどき京都のことも)を参考ののこと。

この頃から、道真は天性の詩情が備わっていたようだ。作曲家モーツァルトのほうがもっと早熟だが、どこかモーツァルトを彷彿させるものがある。

もう一首、恋する年齢に達して、その思慕の情を表現したもの、白文は省略する。

翫梅華 梅華を翫す
梅樹 花開きて 白き繒《かとり》を剪《き》る 純白の薄絹のごとき 咲き満ちる梅の花よ
春情 勾引されて 相仍《あいよ》ること得たり 春情に導かれて 私はあなたに寄ろうとする
狂風第一《ていいち》 吹きて狼藉ならませば すると 狂った春風がいきなり吹いてきて 見る間に花を散らす
叱々忩々《そうそう》 意《こころ》 勝《た》へざらまし ああ それをただ見ているだけの耐えがたさよ

下記参考図書によると、恋心の対象は、藤原基経の妹にして先代文徳天皇の女御であった明子であったという。

大岡信や加藤周一などは、菅原道真を、文学的対象や視野を格段に拡げたと評価する一方、その後はこうした文学的継承がなされなかったとも言うが、そうした詩が書かれるのは、詩人がもう少し成熟したのちである。。

写真は、北野天満宮境内での、どこか道真公の幼き日の面影のある稚児像と梅の花(Wikipedia)

参考】 ・高瀬千図 道真(上)花の時 NHK出版

日本人と漢詩(023)

◎菅原道真
また時代をさかのぼって、菅原道真(845-903)の生きていた平安時代へ。
讃岐への国司赴任の時の作。
中途送春    中途にて春を送る
春送客行客送春  春は客行《かくかう》を送り 客《たびびと》は春を送る
傷懐四十二年人  懐《こころ》を傷《いた》む 四十二年の人
思家涙落書斎旧  家を思はば涙落つ 書斎は旧《ふる》びたらんかと
在路愁生野草新  路に在らば愁ひ生ずれど 野草は新たなり
花為随時餘色尽  花は時に随ふ為《ため》に餘色尽き
鳥如知意晩啼頻  鳥は意《こころ》を知るが如くに 晩啼頻《しきり》なり
風光今日東帰去  風光 今日東に帰り去る
一両心情且附陳  一両の心情 且かつ附《ふ》し陳《の》べん
語釈と訳文は、
以下の杜甫の有名な漢詩「春望」に直接的な影響を受けたと、大岡信さんは川口久雄氏を引いて述べていますが、十分説得力があります。
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
讃岐滞在中には、社会性の強い作品を完成させます。このあたりも杜甫の直接的な影響なしには考えられないかもしれません。加藤周一氏は、「庶民の飢えと寒さをうたったのは、憶良の「貧窮問答」以後、平安時代を通じて、ただ道真の詩集があるだけ」と述べています。
寒早、十首のうち、その四。
何人寒気早  何《いづれ》の人にか 寒気早き
寒早夙孤人  寒は早し 夙《つと》に孤《こ》なる人
父母空聞耳  父母 空しく耳に聞く
調庸未免身  調庸《てうよう》 免《まぬ》かれざる身
葛衣冬服薄  葛衣《かつい》 冬服薄く
疏食日資貧  疏食《そし》 日資《につし》貧し
毎被風霜苦  風霜に苦しめらるる毎《ごと》に
思親夜夢頻  親を思ひ 夜に夢みること頻《しきり》なり
寒早十首の語釈・訳文は以下を参照のこと
写真は、道真を祀る京都市・北野天満宮拝殿(Wikipedia より)。生家からは、やや遠方だったのであまり記憶にない。受験前に連れ出されたかな?。近年では、娘と孫の居住地(上七軒)のすぐそばだったので、かすかな記憶が蘇ったかもしれません。
参考
大岡信「歌謡そして漢詩文」より「詩人・菅原道真」