日本人と漢詩(097)

◎大塩平八郎

元号というのは、時の為政者の思惑や、民の願望とは齟齬し、皮肉な結果をもたらすものだ。昭和が決して平和が明らかではなかっとのと同じように、天保というのも、天はおろか、地も凶作にあえぎ、民も困窮に苦しむなど、保つどころか、多事多難な時代であった。ある意味、日本の歴史の転換点とも言えるだろう、
以前、Facebookに以下のように、投稿した。

西区靭本町にある大塩平八郎終焉の地のプレート(左画像)。大塩平八郎(Wikipedia)は、1837年(天保八年)、相次ぐ大飢饉で、大商人などが暴利を貪り、民衆が塗炭の苦しみを味わう中で、門人たちと決起します。しかし、事破れて、靭にある商家に匿われ、追手が迫る中で、自決したと伝えられています。実際には、その商家は、この天理教の建物の後ろ側、道路ひとつ挟んだ北側にあったようです。
「言貌の文(げんぼうのあや・言葉や表情をうわべだけ飾りたてること)のみならば、則ち君子は親しみ信ぜず。しかして情(じょう)と誠(まこと)とあれば、則ち言貌の文なしといえども、必ず之を親しみ信ずるなり。いわんやその言貌に見(あら)はるるをや。(情と誠が言葉や表情に加わっているいるならベストである。)」(大塩平八郎「洗心洞箚記」)
現代においてはもちろん、その「武装蜂起」の手段は議論のあるところですが、彼の言葉は、誰かさんに聞かせたいものです。(ま、聞く耳を持たないでしょうね。)
以上は、ともかくとして、(大阪きづがわ医療福祉生協の)定款地域の西区には、こうした史跡碑が20数カ所あります。大正、港、西成区の数カ所より随分多いですね。歴史的に、大坂の中心だった事がよく分かります。

ところで、大塩が公務で箕面の滝を訪れた時のこんな詩がある。

箕山の楓を尋ぬるに人の其の一枝を誤るあり。山僧集まりて之を拘へ面縛す、予其の無知なるものの妄作して此に陥るを憫み、且つ僧の為す所の慈ならざるを悪む。故に僧に告げて以て其の囚を釈さしめ、戯れに絶句を賦して其の僧に贈る

律厳法具梵王宮
赤子猶懲縲絏中
楓葉容看不容損
明朝定捕五更風

(寺のおきては厳しく、きまりもいろいろあるのだろう)
(かよわい民すら罰せられ、縄にかけられるとは)
(紅葉を見るのは良いが、折ってはならぬというのなら)
(私は明日、夜明けに吹く風を捕まえなければなるまいな)

※梵王宮=仏寺。縲絏(るいせつ)=罪人として捕らわれること。五更=寅の刻、午前三時から五時頃。
私はこの詩に、市井の人に注ぐ大塩の暖かな視線、怒った時は、硬い魚の骨も噛み砕くほどだった世評とは異なる寛容さを感じるのだが、如何だろうか。
参照→大塩平八郎雑感(PDF)

日本共産党の元参議院議員・三谷秀治はその小説「大塩平八郎」で、交友のあった頼山陽に贈った詩を引く。(白文は略)
春暁城中、春睡《しゅんすい》衆《おお》く
檐《のき》を繞《めぐ》る燕雀《えんじゃく》、声虚《むな》しく囀《さえず》る
高楼に上りて、巨鐘を撞《つ》くに非ざれば
桑楡《そうゆ》日暮れて猶《なお》昏夢《こんむ》ならん

訳文)春のあかつき、大坂のえせ儒者たちは眠りまどろみ、軒端を飛びかう小人どものさえずりは空しいばかり、今高い楼に昇り警鐘をつかねば、日が暮れてもなお目覚めることはないだろう。

果たして、彼の反乱・決起は「高楼に上りて、巨鐘を撞」いたのだろうか?私たちが考えなければならない課題でもあろう。

参考】
三谷秀治「大塩平八郎」新日本出版社 1993年

日本人と漢詩(091)

◎梁川紅蘭と梁川星巌

先日、昨今のコロナ感染症(COVID19-9)後遺症の診療を精力的に取り組んでおられる医師の講演を拝聴した。現在わかっていること、解決の課題となっていることが、なかなかに整理されていた講演であった。後遺症(SNS などでは、long corona と呼ばれている。)の一部には、昔から「血の道を良くする」とされる漢方薬の当帰芍薬散が、効果があるらしい。(もちろん、個人差や症状の微妙な相違があるので、服用にあたっては、必ずかかりつけ医と相談することが必須である。)
当方も成分は少し違うが、山歩きなど「こむら返り」を起こした時に「芍薬甘草湯」を即効性の有る漢方薬として、重宝している。

ところで、梁川紅蘭にこんな漢詩がある。

階前栽芍藥 階前《かいぜん》に芍薬《しゃくやく》を栽《う》え
堂後蒔當歸 堂後《どうご》に当帰《とうき》を蒔《ま》く
一花環一草 一花環《ま》た一草
情緖兩依依 情緒《じょうちょ》両《ふた》つながら依依《いい》たり

語釈など]当帰:「当《まさ》に帰るべし」と夫の帰りを待ちわびる 花草に心を寄せる(どうして別れることがありましょうや)

また従兄弟で夫である梁川星巌が、旅に出て、留守宅で、薬草を育てていた時の作である。新婚当時で、夫が不在がちなので、親類からは「別かれては…」と勧められていたそうだ。当時は、こうして自家栽培で、それを収穫、煎じて、薬にしていたことが分かり、興味深い。

当時、紅蘭は美濃「梨花村草舎」(現在の大垣市)におり、夫から「三体詩」の暗誦を命ぜられていたが、みごとに全編を諳んじることで、帰宅した星巌を驚かせたという。無聊を慰めるため、江馬細香らの詩の集いに参加し、大いに腕を磨いたとある。孤閨にこりた紅蘭は、文政五年(1822年)、連れ立って西遊の長征の旅に出る。ときに、紅蘭十九歳。帰宅したのは、文政九年(1826年)、あしかけ4年の長丁場の旅路だった。途中の旅先で、その路銀の寡なさを記にしながらも、その頃詩名の高かった、頼家の人々や、菅茶山などと交友を深め、それが目的の一つだったのだろう、歓待、逗留の光栄に浴した。旅も三年目になると、望郷の念、耐えがたく、一首を残している。

紅事蘭珊綠事新 紅事は蘭珊《らんこ》として緑事新《あらた》なり
每因時節淚沾巾 時節に因《よ》るごとに涙は巾《きれ》を沾《うるお》す
遙知櫻筍登厨處 遥に知る桜筍《おうじゅん》厨《くりや》に登る処
姉妹團欒少一人 姉妹団欒《だんらん》一人を少《か》くらん

訳文など]桜、桃、杏の季節も過ぎ、すっかり新緑のときとなった。こうしためぐりの中で、涙がハンカチに溢れる。家では、さくらんぼや筍をが台所に並んでいるのに、姉妹は、仲良く歓談しているのに、私一人だけ不在なのだ。

彼女は、詩作にあたっては、三体詩をそらんじていたというから、王維の「九日山東の兄弟を懐ふ」を念頭に置き、詩のモチーフとして用いたと思われる。(日本人と漢詩(080)を参照)
一方、夫の星巌は、食道楽もあり、広島で牡蠣を食し、詩では、楊貴妃のおっぱいに見立てて表現している。ここらあたりは、遺稿を託された柏木如亭のひそみに習ったのかもしれないが、紹介は別の機会に…

天保五年(1834年)星巌は、江戸で「玉池吟社」を起こし、以来弘化二年(1845年)それを閉じるまでは江戸在住、以前紹介した大沼枕山などと広く交流したのだろう。天保という年号の時代、世の中は、天保の大飢饉、大塩平八郎の乱、蛮社の獄など大きく変動した、その最中である。
星巌は、良く言えば、用字など先鋭的な表現に工夫し、悪く言えば「僻字《へきじ》」(異常に奇異な文字)を用いるなど、奇をてらうところがあろう。こうした事は、現実世界への態度にも反映し、政治的には、ときに過激な行動を取らしめたのではないか?想像に過ぎないが、彼の主管した「玉池吟社」などは、「勤王志士」の情報交換の場だったかもしれない。対する、 旅先の彦根で知り合った(かもしれない)井伊直弼の懐刀・長野主膳には目の敵にされていたようだ。ところが、星巌は、明治維新を見ることなく、安政の大獄直前にその頃流行っていたコレラで急死する。紅蘭もそのとばっちりを受けて、半年間の牢獄の実となった、明治十二年(1879年)にこの世を去ったが、なかなか芯の強い女性であった。

最後に、梁川星巌が、大塩平八郎の乱の勃発を聞き及んだ時の詩

誰か仁義を名とし戈矛《かぼう》を弄《ろう》せん
清平《せいへい》に軍《いくさ》あることこれ天警《てんけい》
合党《ごうとう》多しといえども国讐《こくしゅう》にあらず
君子は情を原《たず》ね功罪《こうざい》を定めよ

訳文など]
仁義を名分として乱を起こすやつがいるか。やむにやまれぬ気持ちというのがあるのだ。天下泰平に内乱というのは天の戒めというやつだ。合力は多いが、国の仇にはなるまい。その事情と気持を察した上で、功績と処罰を決めるべきだ。

ここでは、白文を略する。「小説 渡辺崋山」には、七律とあるが、一、二句が対になっていないので、七言絶句の誤りだろう。星巌せんせー、至極当然の事をのべるなどなかなかやるじゃん。

写真は、当帰と芍薬の花(Wikipedia から)と二人の旅程図
参考図書】
・大原富枝「梁川星巌・紅蘭 放浪の鴛鴦」(淡交社)
・杉浦明平「小説 渡辺崋山」(上)

日本人と漢詩(088)

◎中島棕隠(続き)
京都から浪華へ話題を移そうと思ったが、もう一回、中島棕隠の詩を三首。

鴨東四時雑咏抄から

酸漿秋熟軟珠匀 酸漿《さんしょう》秋熟《じゅく》して 軟珠《なんしゅ》匀《ととの》う
撚去撚來看作皺 撚《ねんし》去《さり》て撚し来《きた》って 看《みすみ》す皺《しわ》を作《な》す
欲和紅衣剔瓤子 紅衣《こうい》に和して瓤子《じょうし》を剔《てき》せんと欲し
嬌癡屡祝恥傍人 嬌痴《きょうち》 屡《しばし》ば祝《しゅく》して傍人《ぼうにん》に恥《は》ず

語釈]
酸漿:ほおずき 軟珠:軟らかい実 和紅衣剔瓤子:赤い皮を破らないように、その芯をとりだす 嬌痴:幼い少女 祝:まじないをかける 恥傍人:連れの人にはにかむ
「撚去撚來看作皺」とは、うまい表現、ほおずきをうまく撚り合わせるためには、ちょっとしたコツが必要。自分でやると思いの外難しい。横から亡くなった叔母が、「みっちゃんは不器用やし、ちょっと、貸してみ」と鳴るようにして返してくれたことがなつかしい。

以下の二首の「題辞・序」は、白文を略して、後ほど…

(一)
十分收七去年禾 十分《じゅうぶ》七を収《おさ》む 去年の禾《いね》
食亦減些應活過 食《しょく》も亦《ま》た些《さ》減《げんじ》て 応《まさ》に活過《かっか》すべし
爲是群州逞私貯 是《こ》群州《ぐんしゅう》の私貯《しちょ》逞《たくま》しゅうするが為《ため》に
不便糶糴苦飢多 糶糴《ちょうてき》に便《べん》ならず 飢《うえ》に苦しむこと多し

語釈]
十分收七:平年の七割くらいの出来。もちろん、東北地方などでは、もっと悲惨だった 活過:生活、なりわい 群州:大勢の地方役人 逞私貯:私腹を肥やす 糶糴:米の売り買い

危機に乗じて、投機的な相場で、いろんな物の売り買いをするワルはいつの世もいるものである。

(二)

驕奢往往想分宜 驕奢《きょうしゃ》往々《おうおう》分宜《ぶんき》を想う
籍沒餘財竟屬誰 籍没《せきぼつ》の余財《よざい》 竟《つい》に誰《たれ》にか属《ぞく》す
願出胡椒八百斛 願《ねが》わくば 胡椒八百斛《こしょうはっぴゃくこく》を出《いだ》して
窮民瘴氣一時醫 窮民《きゅうみん》の瘴気《しょうき》 一時《いちじ》に医《いや》せん

語注]
驕奢:おごり、贅沢をする 往往:いくたびか 分宜:分相応な生き方 籍没:お上が没収した悪徳富豪の財産 胡椒:解熱剤などの用途にも使う 瘴気:流行り病、熱病

富豪(大財閥、大企業)の溜め込んだ金(内部留保)を吐き出させ、民のために使う、とりわけ現在の「瘴気」(コロナ禍)で、有効活用せよ!とは、棕隠も言ってるではないか!


客歳《かくさい》夏秋の交《こう》、淫雨《いんう》連旬《れんじゅん》、諸州《しょしゅう》大水《だいすい》、歳果して登《みの》らず、今茲《ことし》七月に至り、都下の米価涌騰《ようとう》益《ますます》甚《はなはだ》し。一斗三千銭に過《す》ぐ。飢莩《がふ》路《みち》に横《よこたわ》り、苦訴《くそ》泣哭《きゅうこく》、声《こえ》四境《しきょう》に徹《てつ》す。建櫜《けんこう》より還《このかた》未だ曾《かつ》て有らざる所と云う。感慨の余《あまり》、此の二十絶を賦《ふ》す。

語釈]
建櫜:武器を袋に納め、再び使わないこと。ここでは、天下泰平をもたらした幕府開闢以来という意味だろう。いい言葉である 飢莩:餓死者

棕隠の詩序は、やたらに長いことが多いのは、語ることが尽きせぬのだろう。ここは短めながら、それでも「感慨」がほとばしる。詩は、天保八年(1838年)の作とあるので、その年二月の大塩平八郎の乱の影響が見て取れる。こうした思いは、その大塩や、蛮社の獄の渡辺崋山や高野長英と共通している。どうか、棕隠の心からの声をお聞きいただきたい。
参考文献のなかで、解説者は、

「棕隠は父祖このかたの家格の重圧が持ち前の才気に逆作用して、青春多感の日より狭斜の巷に出入りし、風流好事の名をほしいままにした。しかし棕隠はおのれの命運を素直に受け容れ、耳目に触れる万象にことよせ詩魂を燃焼させて、言志の営みを生涯廃さなかった。」

(水田紀久氏)
と述べる。棕隠は「狂詩」や遊蕩の詩人の側面に加えて、「言志の営み」も再評価に値すると考えるが、いかがであろう?。

棕隠の書は、下記書より、なかなか彼の性格を反映した達筆である。
参考文献】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」