日本人と漢詩(088)

◎中島棕隠(続き)
京都から浪華へ話題を移そうと思ったが、もう一回、中島棕隠の詩を三首。

鴨東四時雑咏抄から

酸漿秋熟軟珠匀 酸漿《さんしょう》秋熟《じゅく》して 軟珠《なんしゅ》匀《ととの》う
撚去撚來看作皺 撚《ねんし》去《さり》て撚し来《きた》って 看《みすみ》す皺《しわ》を作《な》す
欲和紅衣剔瓤子 紅衣《こうい》に和して瓤子《じょうし》を剔《てき》せんと欲し
嬌癡屡祝恥傍人 嬌痴《きょうち》 屡《しばし》ば祝《しゅく》して傍人《ぼうにん》に恥《は》ず

語釈]
酸漿:ほおずき 軟珠:軟らかい実 和紅衣剔瓤子:赤い皮を破らないように、その芯をとりだす 嬌痴:幼い少女 祝:まじないをかける 恥傍人:連れの人にはにかむ
「撚去撚來看作皺」とは、うまい表現、ほおずきをうまく撚り合わせるためには、ちょっとしたコツが必要。自分でやると思いの外難しい。横から亡くなった叔母が、「みっちゃんは不器用やし、ちょっと、貸してみ」と鳴るようにして返してくれたことがなつかしい。

以下の二首の「題辞・序」は、白文を略して、後ほど…

(一)
十分收七去年禾 十分《じゅうぶ》七を収《おさ》む 去年の禾《いね》
食亦減些應活過 食《しょく》も亦《ま》た些《さ》減《げんじ》て 応《まさ》に活過《かっか》すべし
爲是群州逞私貯 是《こ》群州《ぐんしゅう》の私貯《しちょ》逞《たくま》しゅうするが為《ため》に
不便糶糴苦飢多 糶糴《ちょうてき》に便《べん》ならず 飢《うえ》に苦しむこと多し

語釈]
十分收七:平年の七割くらいの出来。もちろん、東北地方などでは、もっと悲惨だった 活過:生活、なりわい 群州:大勢の地方役人 逞私貯:私腹を肥やす 糶糴:米の売り買い

危機に乗じて、投機的な相場で、いろんな物の売り買いをするワルはいつの世もいるものである。

(二)

驕奢往往想分宜 驕奢《きょうしゃ》往々《おうおう》分宜《ぶんき》を想う
籍沒餘財竟屬誰 籍没《せきぼつ》の余財《よざい》 竟《つい》に誰《たれ》にか属《ぞく》す
願出胡椒八百斛 願《ねが》わくば 胡椒八百斛《こしょうはっぴゃくこく》を出《いだ》して
窮民瘴氣一時醫 窮民《きゅうみん》の瘴気《しょうき》 一時《いちじ》に医《いや》せん

語注]
驕奢:おごり、贅沢をする 往往:いくたびか 分宜:分相応な生き方 籍没:お上が没収した悪徳富豪の財産 胡椒:解熱剤などの用途にも使う 瘴気:流行り病、熱病

富豪(大財閥、大企業)の溜め込んだ金(内部留保)を吐き出させ、民のために使う、とりわけ現在の「瘴気」(コロナ禍)で、有効活用せよ!とは、棕隠も言ってるではないか!


客歳《かくさい》夏秋の交《こう》、淫雨《いんう》連旬《れんじゅん》、諸州《しょしゅう》大水《だいすい》、歳果して登《みの》らず、今茲《ことし》七月に至り、都下の米価涌騰《ようとう》益《ますます》甚《はなはだ》し。一斗三千銭に過《す》ぐ。飢莩《がふ》路《みち》に横《よこたわ》り、苦訴《くそ》泣哭《きゅうこく》、声《こえ》四境《しきょう》に徹《てつ》す。建櫜《けんこう》より還《このかた》未だ曾《かつ》て有らざる所と云う。感慨の余《あまり》、此の二十絶を賦《ふ》す。

語釈]
建櫜:武器を袋に納め、再び使わないこと。ここでは、天下泰平をもたらした幕府開闢以来という意味だろう。いい言葉である 飢莩:餓死者

棕隠の詩序は、やたらに長いことが多いのは、語ることが尽きせぬのだろう。ここは短めながら、それでも「感慨」がほとばしる。詩は、天保八年(1838年)の作とあるので、その年二月の大塩平八郎の乱の影響が見て取れる。こうした思いは、その大塩や、蛮社の獄の渡辺崋山や高野長英と共通している。どうか、棕隠の心からの声をお聞きいただきたい。
参考文献のなかで、解説者は、

「棕隠は父祖このかたの家格の重圧が持ち前の才気に逆作用して、青春多感の日より狭斜の巷に出入りし、風流好事の名をほしいままにした。しかし棕隠はおのれの命運を素直に受け容れ、耳目に触れる万象にことよせ詩魂を燃焼させて、言志の営みを生涯廃さなかった。」

(水田紀久氏)
と述べる。棕隠は「狂詩」や遊蕩の詩人の側面に加えて、「言志の営み」も再評価に値すると考えるが、いかがであろう?。

棕隠の書は、下記書より、なかなか彼の性格を反映した達筆である。
参考文献】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」

日本人と漢詩(087)

中島棕隠

独断ではあるが、京都人は、大坂や江戸とはひと味違い、揶揄とまでは言わないが、自らを客観視する姿勢があったようだ。もっとも、昨今は、「みやこびと」のプライドもいくぶん薄くなっているが…ところで、わが中島棕隠にこんな狂詩がある。

江戶者嘲京 江戸者《えどもの》京を嘲《あざわら》う
木高水淸食物稀 木は高く水は清くして食物《くいもの》稀《まれ》なり
人人飾表內證晞 人々は表を飾りて内証は晞《かわ》く
牛糞路連大津滑 牛糞の路《みち》大津に連《つらな》って滑《なめらか》に
茶粥音向叡山飛 茶粥《ちゃがゆ》の音は叡山に向かって飛ぶ
算盤出合無立引 算盤《そろばん》出合い立引《たてひき》無く
筋壁連中假權威 筋壁連中《きんかべれんちゅう》は権威《けんい》を仮る
女雖奇麗立小便 女 奇麗《きれい》なりと雖《いえど》も 立小便《たちしょんべん》
替物茄子怕數違 替《か》え物の茄子《なすび》数の違《たがわ》んことを怕《おそ》る

棕隠は、文化二年(1805年)から同十一年(1814年)まで江戸に暮らし、その「江戸っ子」の視点で、京都人を少々突き放して評している。語釈や訳文の詳細はほぼ不要と思われるが、「京都の食物《くいもの》、おいしいもの、あらしまへん」、「内証は懐具合、立引は「勉強しときまっさ」、筋壁連中は、塀の向こうのおえらいさん、替物茄子は、農家の下肥え集めの際に交換する野菜の量をめぐる駆け引き、棕隠の「都繁盛記」に微に入り細に入り詳しい。「粋なねーちゃん、たちしょんべん」という寅さんの口上はここから来たのかな?

鴨東四時雑詞より
酣飮何知迫曉天 酣飲《かんいん》何ぞ知らん 暁天に迫るを
粉香脂膩和衾眠 粉香脂膩《ふんこうしじ》衾《しとね》に和して眠る
遊郞畢竟偎花蝶 遊郎《ゆうろう》畢竟《ひっきょう》花に偎《よ》する蝶
抵得芳心非偶然 芳心に抵《いたり》得るは偶然に非らず

夜を徹して飲み続けて、化粧濃厚な妓と同衾、わては、花に身を寄す、てふてふどすえ。花蕊に引き寄せされるのは、たまたまじゃないわいのお。実は、棕隠は、自作の詩に対して、無類の自註や解説好きで、ここでも委細を極めているが、あえて省略。要するに、高い前金を払わずに、雑魚寝をうまく利用しロハでその妓と首尾を遂げようとのことである。

棕隠は、もともと儒家の家柄、その実家とかえってプレッシャーになり、江戸に一定期間逃避するなど、ボヘミアン的な生活を送った。帰京後は、詩家としての名声もあがり、放蕩の経験豊かなせいか、このような「きわどい」「竹枝詞」を作るようになった。

もう一首、京都の風情の一つ、「大文字の送り火」を題材にした七絶。

士女蘭盆送鬼時 士女《しじょ》蘭盆《らんぼん》鬼《き》を送る時
相携薄夜傍前涯 相い携《たずさ》えて薄夜《はくや》前涯《ぜんさい》に傍《そ》う
且觀如意峰頭火 且《しばら》く観る 如意峰頭《にょいほうとう》の火の
大字畫雲收焰遲 大字《だいじ》雲を画《かく》して 焰《ほのお》を収《おさ》むること遅きを

男女連れ添ってお盆の最終イベントに、鴨の河原にでかける。まずは大文字山の「大」の字が雲間に照り、ゆっくりと消えるまで眺めやる。
子ども時代は、近くの醒泉小学校の屋上が開放され、「大文字焼き」(俗称、正式には送り火)を見ていた思い出が残っている。

京都で、詩集や、江戸の寺門静軒の「江戸繁盛記」の対抗して「都繁盛記」も出版、名声が高まったが、元号が天保に入り、天下はにわかに忙しくなってきた。天保の大飢饉を皮切りに、1837年 大塩平八郎の乱、1839年 蛮社の獄と続く騒乱へと続き、棕隠も、なかなかまっとうな見解を詩で表現するが、それは、またの機会に…
写真は、鴨川河原(Wikipedia より)と大文字の送り火
参考】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」(岩波書店)
・中村真一郎「江戸漢詩」