後退りの記(016)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の完成」
◎堀田善衛「城舘の人」
◎渡辺一夫「世間噺 後宮異聞」

前回は、モンテーニュの「サン・バルテルミの虐殺」について述べた。堀田善衛は「城館の人」でこう書くが、その一言で尽きるであろう。
「けれども、何も書かないということもまた、一つの表現であり、かつ一つの主張でもありうることを忘れてはならないであろう。」
それでも、間接的に事件に対して感慨を催すことは避けられない。モンテーニュの引用の繰り返しにはなるが、「エセー」から少しパラドキシカルな表現で…

〈平穏普通の時代には、人はただ平凡な事件に対して心積りをする。けれども、三十年もつづいて来た混乱の時代には、あらゆるフランス人が、個人としても全体としても、二六時中、いまにも己れの運命が全的にひっくり返りそうな状態に生きている。それだけに、心にいっそう強く、逞しい覚悟をしておかなければならない。運命がわれわれを、柔弱でもなければ無為でもない時代に生きさせてくれたことを感謝しよう。他の手立てでは有名になれそうもない人間でも、自分の不幸のせいで有名になれるかもしれないのである。〉
〈私は歴史のなかで、他の国々におけるこの種の混乱を読むたびに、自分がその現場にいていっそう詳しく考察することが出来なかったことを、いつも残念に思うのである。それほどにも好奇心が強いので、わが国家の死という、この目ざましい光景を、その徴候と状態とを、目のあたりに見ることを、私はいささか喜んでいる。また自分でこの死を遅らせることが出来ない以上、この場に臨んでそこから教えられる運命をになったことを満足に思っている。〉

またしても長い引用になってしまったが、話をアンリ寄りに、というより彼周辺の女性たちに戻そう。
彼をめぐる女性は、当時から話題に事欠かなかったようだが、とりあえず当方は5人を挙げることにする。まず、祖母にあたる、マルグリット・ド・ナヴァル、その娘で母に当たり、ナバラ女王となり、熱心なプロテスタントだったジャンヌ・ダルブレ、この二人は、DNA としてアンリに受け継がれたようだ。あとは、「配偶者」としての、マルグリット・ド・ヴァロワ(マルゴ王妃)、後に再婚し、ブルボン王朝歴代の王を残した、マリー・ド・メディシス、唯一、心を通わせたとされるガブリエル・デストレの三人であろう。マルゴ王妃は、以前触れたのと、マリー・ド・メディシスは、アンリ四世没後の話題になるので、省略するが、マルゴ王妃とは、アンリが一番苦しい時代(虐殺前後から三人のアンリが絡んでの内乱状態)に、案外とアンリのサポートになったのではないか?短い期間だったが、心の支えであったろうと推測される。
さて、取り上げるのは、ジャンヌ・ダルブレをめぐる様々な人間関係であるが、少し、年代的に「虐殺」後から「ナントの勅令」あたりまでのアンリ四世をめぐる年表を整理してみる。
1572年 マルグリット・ド・ヴァロワと結婚、直後にサンバートロミューの虐殺
1573年 本意ならず、新教から離脱、ルーブル宮殿に幽閉
1574年 シャルル九世死ぬ、アンリ三世即位
1576年 パリ脱出、新教に戻る
1580年 モンテーニュ「エセー」出版(~1588年)
1584年 マルゴ幽閉
1585年 三アンリの戦い(~1588年)
1588年 スペインの無敵艦隊、イギリスに敗戦。旧教同盟のリーダー、ギュイーズ公暗殺
1589年 アンリ三世暗殺。カテリーナ・ド・メディチ死ぬ
1590年 パリ包囲
1591年 ガリブエル・デストレと知り合う
1594年 新教を捨て、シャルトルで即位式、パリ入城
1598年 ナントの勅令
1599年 ガリブエル・デストレ死ぬ。マリー・ド・メディシスと婚約
ハインリッヒ・マン「アンリ四世の完成」より抜き書き
本邦では、織豊時代から、秀吉の「朝鮮侵略」をへて、家康の台頭、関ヶ原直前までの出来事である。

寵姫ガリブエルは、父の系統は、歴代バロア朝のフランス王に使えた武人、母の実家は、
「呪わなければなるまい、この手をば、
人類《ひとびと》に快楽を与えんとして
惜しげもなく、かくも見事な verces (からすえんどうを指すが、「淪落女」の意もあるという)をば
撒き散らすこの手をば。」
と当時の戯れ歌に唱われたほどだから、一家揃って、浮名を流したのだろう。母は、複数の男性と関係をもち、挙げ句の果て、1592年に惨殺されてしまった。ガリブエルは、こんな母と距離を保っていたようで、叔母イザベールが母の変わりに宮廷における「後見人」を勤めていたそうである。姪に似て、イザベールも相当な美形だったらしく、当時の宮廷詩人ロンサールもその艶色を称える詩篇を献呈した。ガリブエルは、一応、1571年が生年とされるので、「虐殺」後の世代だろう。のちの歴史家ミシュレによれば、
「その肌色は驚くほど白く繊細であり、かすかに薔薇色を帯びている。その眼差しには、何とも言えないところ、人の心を恍惚とさせずには措かないが、安堵もさせない veghezza (魅力)がある。」
と書くぐらいだから、相当魅惑的、かつちょっぴりリスキーな女性だったんだろう。アンリ三世の宮廷に出仕した頃には、のちのちまで腐れ縁となるベルガント公と深い仲になってしまうが、1589年にアンリ三世の暗殺後、法的にフランスの王位継承者となった、アンリ四世は、それを名実共にすることに奮闘と生来の艶色家で、色香に溺れていた過程で、ガリブエルと、そのベルガント公の紹介で出会う。彼女は、文才などなかったが、宗旨のこだわりも少なく、連戦つづきのアンリにとっての心の慰みとなったのだろう。その後、別人と結婚する目にはあったが、アンリの何回目の「改宗」の後、パリ攻略に成功、1594年3月22日に、無血入城となった。9月の入市式典の際には、正式な王妃に準ずる体裁だったとある。

あと、アンリ四世の知世は、曲がりなりにも「宗教的寛容」を唱った「ナントの勅令」まで一直線であるが、ガリブエルの存在が支えになったのかもしれない。後日、ガリブエルの動向と合わせて記する機会もあろう。

今の世界において、世界史の教科書でなかば無理矢理覚えさせられた「ナントの勅令」は、本当に有効なのだろうか?有効だとすれば誰が発令するのか、誰がそれを守らせるのか?すくなくとも「勅令」の効力はルイ十四世の時代まで、曲がりなりにも続いたとされる。数日間の危な気な停戦とは言わない。世代を越えた、恒久的な平和を切に望みたい。

添付した曲は、アンリ四世が、マリー・ド・メディシスと婚姻を遂げた時の、晩年にアンリの宮廷音楽家であったウスタシュ・デュ・コレア(Eustache du Caurroy)の祝典曲、2018年の「古楽の楽しみ」から、最初の1分ほどを採った。

後退りの記(015)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」
関根秀雄訳「モンテーニュ随想録」

前回は、アンリ四世とモンテーニュとの邂逅について触れたが、「アンリ四世の青春」訳者あとがきによれば、特に「サン・バルテルミの虐殺」以前のそれは、作者ハインリヒ・マン特有の、フィクション上の創作だそうだ。それにしても、よくできた創作であり、作品に奥深い味わいをもたらしている。彼らの実際の出会いは、モンテーニュの晩年になってかららしいが、その時二人は「十年来の知己を得た」思いだったに違いない。
ここでは、少し遡って、モンテーニュをめぐって「虐殺」前後までの歩みを振り返ってみる。

まず、堀田善衛は、モンテーニュは、「エセー」の中では。「虐殺」のことは一言も触れていない、と云う。ところが、「エセー」は、1572年、虐殺の年に第一稿が作られている。この事で、彼のスタンス、彼が語らないことで、おのずと語っていることが感じられるのは、当方だけであろうか?よくモンテーニュは「折衷主義」「現状肯定の保守派」とも評されるが、この「頑なさ」は、そうした評判とは相容れないことは確かであろう。

少し長くなるが、遡ること彼の勉学時代に、少し年上で無二の親友だったラ・ボエジーの言葉から…

「実際、すべての国々で、すべてのひとびとによって毎日なされていることは、ひとりの人間が十万ものひとびとを虐待し、彼等からその自由を奪っているということなのだ。これをもし目のあたりに見るのでなく、ただ語られるのを耳にするだけだったならば、誰がそれを信じようか。(中略)しかし、このただひとりの圧制者に対しては、それと戦う必要もなく、それを亡ぼす必要もない。その国が彼に対する隷従に同意しないだけで彼は自ら亡びるのだ。(中略)それ故、自分を食いものにされるにまかせ、またはむしろそうさせているのは民衆自身ということになる。隷従することをやめれば彼等はすぐそのような状態から解放されるのだろうから。民衆こそ自らを隷従させ、自らの咽喉をたち切り、奴隷であるか自由であるかの選択を行なってその自主独立を投げすて軛をつけ、自らに及ぶ害悪に同意を与え、またはむしろそれを追い求めているのだ。」

「あわれ悲惨なひとびとよ、分別のない民衆たちよ、自分たちの災厄を固執し、幸福に盲目である国民たちよ。諸君は諸君の面前でその収入のうち最も立派で明白な部分が、諸君から奪い去られてゆくままに放置している。(中略)そしてすべてのそのような損害、不幸、破壊は、数々の敵からではなくて、まさにひとりの敵、諸君が、それが今あるように大きく今あるように大きくしてしまっているその人間から来ているのだ。その人間のために諸君はあれほど勇敢に戦争に出かけて行き、その人間を偉大にするために、諸君は自分の身を死にさらすことを少しも拒まない。しかし、諸君をそれほどに支配しているその人間は、二つしか眼を持たず、二つしか手を持たず、一つしか身体を持たず、諸君の住む多数無数の都市の最もつまらない人間の持っているもの以外は持っていない。ただあるものは、諸君が自分たちを破壊するために、彼に与えている有利な地歩だけなのだ。」
「諸君は子供たちを養うが、それは彼が彼等に対してなし得る最良のこととして、彼等を自分の戦争へと連れ出し、殺戮の中へ送り込み、自分の貪慾の執行者、自分の復讐の実行者とするためなのだ。」
「獣すらも全然了解できないか、耐えられないほどの、かくも多くの卑劣な行為から、もし諸君がそう試みるならば諸君は脱出出来るのだ。それもそれから脱出しようと試みるのではなく、ただそうしようと望むだけでよい。もはや隷従するまいと決心したまえ。そうすればそれで諸君は自由なのだ。私は、諸君が彼を押したり揺らせたりするようにすればよいと言いたいのではない。ただ彼をもはや支えないようにしたまえ。そうすれば彼は、基礎をとりのけてしまった大きな巨大な人像のように、それ自身の重みによって崩れ、倒れ、砕けるのが見られるであろう。」

ラ・ボエジーは、むしろカソリックに近い立場を堅持した。その彼をして、こうしたプロテスト(抗議)を上げせしめたのは、フランス宗教戦争の悲惨さを前にして、止むに止まれぬ思いからであろう。再三に渡って述べるが、21世紀の現在の実状を訴えているわけではないが、自ずと重なって響くのは、悲しい現実だろう。

「虐殺」前は、カソリックとプロテスタントに政治的党派としてほぼ明確に別れていたが、その後はその色分けは、単純化されるどころか、政治的打算も重なって、プロテスタントめいたカソリック、またはその逆といったように混沌とも言える状況になってきた。モンテーニュは、心に期するものがあってか、シャルル九世、アンリ三世を中心とした王統派に近づきはするが、その親好は、プロテスタント寄りの知識人と結んでいた。そんな中で、アンリ四世との関わりはどうなっていくだろうか?次回は、1572年~1592年くらいの時期に触れたい。日本史で言えば、信長の台頭から、秀吉の朝鮮侵略くらいにあたる。

どうする、信長・秀吉・家康、どうする、三人のアンリたち、そしてモンテーニュ!

後退りの記(014)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」

フランスの16世紀は、後進国とまでは言わないが、どちらかと言えば、ルネッサンスの中心だったイタリアに比して、後塵を拝していたのではないか。また、イデオロギー的にも、手法の是非はともかくとして、ドイツ、スイスなどの新教派の拡大に一歩遅れを取っていたのではなかろうか?例えば初期バロック音楽でも、イタリアなどと比べると、リュート音楽が「主流」で、野暮ったさは否めない。例をあげると、ゴーティエ一家というリュート作曲家一族がいる、その中で、エヌモン・ゴーティエの曲が Youtube にある。後のベルサイユを発信地にした典雅な音楽とは、かけ離れている。これはこれで、別種な素朴ともいうべき趣があるが…こうした社会環境は、これからのストーリーの背景にあったとも思われる。
さて、「バルテルミーの虐殺」を経たその16世紀末のフランス史では、三人のアンリが、その焦点になる。すなわち、アンリ二世(1551-1589)とカトリーヌ・メディシスの子、アンリ三世、カトリック同盟の首領ギーズ公アンリ(1550-1588)とわが主人公、アンリ四世(1553-1610)である。三人とも、最期は悲劇的な結末であったことは痛ましい限りである。
俗っぽいが、三人の関係を、ちょうど同時期の信長、秀吉、家康に比べる向きもあり、アンリ四世は家康に比すこともできようし、強いて言えばが、ギーズ公アンリは信長に、アンリ二世は秀吉に当てることも可能だが、相違点も多々あり、話が続かない。
ともかく、三人の確執は、後の話にひとまず置き、とりあえずは「虐殺」を辛うじて逃れたアンリ四世(アンリ・ナヴァール)に眼をやってみよう。プロテスタントからカトリックへ改宗というアリバイ的な立場を取った、アンリ・ナヴァールだが、ルーブル王宮での半ば幽閉生活には、毎日が心ここにあらずという生活が続くが、足かけ4年で、そこからの脱出に成功する。その逃避行の途中で、モンテーニュとの奇跡とも言うべき二度目の出会いがあった。そして、肝胆相照らす仲となる。これには、アンリ・ナヴァール側に「虐殺から監禁」という痛烈な体験が関係しているのであろう。年長のモンテーニュとしては、それまでも、いやというほど現実の過酷さを体験したことだろうが(機会があれば、これまでのモンテーニュの辿ってきた事柄に触れてみたい)、やっとアンリ・ナヴァールと同じ地平に立つことができた。さすがに、「エセー」には、アンリとの出会いについては書かれてはいないが、現実を凝視する眼がたしかな「エセー」からの引用。

「均衡のとれた中庸の人物を私は愛する。度をこえることは善においてもほとんどいとうべきものだ。」(「エセー 第1巻30章)
また、「エセー」では、ローマの文人の言葉も引く「何事においても熱中は禁物で、徳ですら過ぎれば狂となる。」(ホラーティウス「書簡」)
Omnia vitia in aperto eviora sunt. (アルユル欠陥ハアカラサマ二ナレバヨリカルイ」(セネカ 「エセー」(第2巻31章)

元来「中庸」は、ともすれば、中途半端な「日和見」的な立場と取られがちである。しかし、モンテーニュは醒めている。度を越した善は、ましてやその「強要」は、しばしば多大な損傷をもたらす。モンテーニュが経験したことが、そう語っている。
別に話を拡げるつもりはないが、現在、この時点で係争地で起こっている悲惨な状況を見よ!お互いの「善」「正義」の強要が、子どもや罪なき弱者の命を奪っている。あと幾年いや幾世紀、「度を越えた善、狂となった過ぎた徳」の応酬が続くのだろうか?アンリ四世とモンテーニュとの邂逅が、いくたび繰り返さなければならないのだろうか?
ここまで書いて、半世紀も前のことになるが、高校時代のワンゲル部の後輩が、「ジハードに征く」として、彼の地で生を終えたことを、ふと思い出した。

後退りの記(012)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アンドレ・ジッド 渡辺一夫訳「モンテーニュ論」(岩波文庫)
◎堀田善衛「ミシェル 城館の人 第一部 争乱の時代」

少し、おさらいすると、モンテーニュは、1533年、ボルドー近郊のモンテーニュ城に生まれた。フマニスト・エラスムスが亡くなったのが、1536年だから、その生涯を引き継ぐ形になっている。ルターの『95ヶ条の論題』でのカトリックへの糾弾の始まった1517年の16年後のことである。幼少期から少年期にかけての、父親の「ラテン語しごき」をへて、へ入学する。

「真に 我が子の自由な教育を願望する父兄は、学院、 特に宗教家の経営する学院などに入れるべきではない。(エラスムス)」

かどうかは分からないが、当時の学校はともすれば、

「(教師)がこういう人たち(生徒) が、自分こそ人間中の第一流の人物だと思っていられるような幻を授けてやっているのですよ。」(同じくエラスムス)

と、当時の教育の悪循環も非難する。

モンテーニュの父親も、その特訓から後、息子の教育についていろいろ迷ったことだろう。プロテスタントに傾いていたマルグリート・ド・ナヴァール公妃とも関係が深い、ボルドーのギュイエンヌ学院に入学させた。そこでは、「詰め込み」もあったが、学風は概してリベラルなものであり、ミシェル少年の勉学もローマ古典文学を手がかりに、カトリック的スコラ神学主義とは違う、異教徒的なものであったと堀田善衛は指摘する。ある意味、昨今の時の政権による Académie japonaise への政治的介入よりも自由だったかもしれない。13才で学院を卒業する頃には、(ちょうどボルドーで暴動騒ぎがあったが)

もっとも 軽蔑してはならない階級は、…最下層に立たされている人々のそれであると思う。… 私 は いつも 百姓 たちの行状や言葉が、われわれの哲学者たちのそれよりも、真の哲学の 教えにかなっていると思う。〔 庶民の方がかえって賢明である。必要な程度に知っているからである。〕

という、まっとうな見解は持ち得たのである。

フランスの文学者・小説家にアンドレ・ジードがいる。彼はモンテーニュについていくつか、小評論を書いている。戦前に渡辺一夫訳で出たものだ。そのせいだけではないが、少し難解で意味がなかなかとりにくいきらいもある。その評論で「エセー」を引きながら、晩年、モンテーニュは、「もし余が再びこの人生を繰り返さねばならぬとしたら、余のして来た通りの生活を再びしたいものである。余は過去を悔まず、未来を恐れもしないから」と書いているという。モンテーニュのこうした非宗教的態度は、死ぬまで持っていたようだ。
いずれにしても、アンリ四世との本格的な邂逅があるのは、もう少し後の話である。

後退りの記(010)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎渡辺一夫「戦国明暗二人妃 Ⅰ 巷説・逆臣と公妃」(中公文庫)
◎「エプタメロンーナヴァール王妃の七日物語」(ちくま文庫)
◎堀田善衞 「ミシェル 城館の人 第一部」

今回は、二代ほど前の人物に遡ることにする。アンリ四世は、気質の面では、プロテスタント信仰に厳格であった母のナバラ女王ジャンヌ・ダルブレではなく、むしろ祖母のそれを受け継いだようだ。その祖母、マルグリット・ド・ナヴァール Wikipediaをめぐる人間関係も相当に複雑であったらしい。話題にしたいのは、四人の人物である。まず、マルグリッド、彼女は、フランソア一世 Wikipediaの姉であった。その母である、ルイーズ・ド・サヴォワ Wikipedia、一時期は、マルグリッドと相思相愛であった、シャルル3世 (ブルボン公) Wikipedia、マルグリッドに横恋慕するボニヴェ大提督 Wikipedia 英語版との人物配置である。愛憎関係は、これにとどまらず、ルイーズ・ド・サヴォワは、寵臣として、ボニヴェを重んじる一方、年齢の差をこえて、ブルボン公に、思いを寄せるが、かなわぬとならば、「可愛さ余って憎さ百倍」で、公をフランス王朝を裏切らせ、神聖ローマ帝国カール五世 Wikipedia側に寝返させた。母親のルイーズは、後のシャルル九世の母、カテリーナ・ド・メレディスのポジションに似る、当時の政局の黒幕的存在だったことを始めとして、この四人の丁々発止はなかなかに面白いが、結末はあっけなく、ボニヴェは、1525年、フランソア一世が捕虜となった、パヴィアの戦い Wikipediaで戦死。ブルボン公は、その2年後、ローマ劫掠直前に、狙撃され落命した。これがその後のカール五世軍の劫掠の引き金になったらしい。

堀田善衛の文章に「日本の代議士が、ローマ帝国廃墟跡を見て、『イタリアの戦後復興はまだまだじゃのう』と言ったとか、言わなかったとか…」というのがあったと記憶する。、代議士の蒙昧は、ひとまず置くとして、永遠の都ローマは、近世に入り、廃墟と化すほどの軍隊の侵略をうけた。ローマ劫掠 Wikipedia(ローマごうりゃく、イタリア語: Sacco di Roma)古代にも、ローマ帝国滅亡時には、ローマ略奪(ローマりゃくだつ、イタリア語: Sack di Roma)もあったが、1527年の劫掠も、それに劣らぬ規模であったので、代議士のトンチンカンな「誤解」も生まれたのだろう。

同じ年、マルグリット・ド・ナヴァールは、ナバラ王エンリケ2世と再婚し、アンリ四世の母を生んだ。ブルボン公を一刻もはやく忘れたかった、心の葛藤があったのかもしれない。王位を継いだあとは、ラブレーなどフマニストを保護するその頃では、開明的な文化政策をとり、自らも、「デカメロン」に見習って、「エプタメロン」という艶笑的なコント集を、死ぬ直前まで綴っていた。この第四話で、人物名は別にしているが、ボニヴェに暴力的に襲われかけたことを語っている。よほど「根に持っていた」に違いない。

「エプタメロン」は、偽善的なカトリック僧を揶揄するのは、吝かではないが、一方、プロテスタント的なリゴリズムからも一歩引いているおおらかさがあるようだ。アンリ四世へは「隔世遺伝」したことが分かろう。モンテーニュの故郷、ボルドーからも、ナヴァラは、そう遠くない距離で、しかも、学んだ学校もフマニストの陣容の教師群だというから、モンテーニュへの思想的な影響があったのかもしれない。もっとも、この頃のモンテーニュは、日常生活でも、ラテン語以外の言葉は禁止されるという父親からとんでもない「英才教育」を受けていたのだが…

後退りの記(009)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎モンテーニュ「エセー」(岩波文庫その他)
◎堀田善衞 「ミシェル 城館の人 第一部」(集英社文庫)

モンテーニュ「エセー」は、昔読んだ時には、深くは感動しなかった。というのは、青年期の生意気のせいか、あまりにも「常識」の範囲をこえず、生ぬるいといった印象だったからだ。しかし、堀田善衞の著作など読んでいると、それはごく表面的なとらえ方であるとの思いが強くなった。

さて、バルテルミーの虐殺後、わがアンリ四世は、その余燼ともいえるラ・ロシェルをめぐる攻防で、ユグノー征伐の隊列に加わるよう強制される。ラ・ロシェル攻防戦は前回、メリメ「シャルル九世年代記」でも紹介した。その行軍の途中で、モンテスキューと邂逅する。小説から、少し長い引用をすると、

連れの人は、宗教戦争ほど宗教に無関係なものはないという意見だった。途方もないことばだが、…宗教戦争はその根を信仰に持っていないし、人間を敬虔にすることもない。一方の人にとって、宗教戦争は野心の口実であり、他方の人にとって、それはみずからを富ますための機会にすぎない。全く、宗教戦争で聖者の現われることはない。逆にそれは民衆と王国を弱らせる。民衆も王国も他国の欲望の餌食にされてしまうのだ。
誰の名も言われなかったのだ。…カテリーナ(時の王国母)も、息子のアンジュー(後のアンリ三世)も、プロテスタントたちの名も。それでも彼の言葉は他の何人にも言えぬほど不敵なものだった。この言葉に襲いかかったのは怒涛や嵐だけではない。ほとんどあらゆる人間が怒号をもってこの言葉をおしつぶすところだったろう。国王さえも声を大にして言いえぬことを、貴人とはいえなみの人間があえて口にしているのに、アンリはいたく驚いた。

少なくとも、モンテーニュは、バルテルミーの虐殺をつぶさに見て、その頃の、「寛容」の意味するところ、「仕方なく相手を許す」との考え方をギリギリ守りながら、一歩も二歩もそこらから推し進めようとしたことが分かる。その過程を「エセー」本文と堀田善衞「ミシェル 城館の人」で辿るようにしたい。

旧ソビエトの小説家・ヤセンスキーの「無関心な人々」という小説の、題辞に、

友を恐れるな、彼は君を裏切るだけだ。敵を恐れるな。彼は君を殺すだけだ。無関心な人々を恐れよ。彼らの沈黙の同意があればこそ、この世に無数の裏切りと殺戮が存在するのだ。

というのがある。でも少し違うような気もする。昨今の政治情勢に引きづられるわけではないが、無関心な人々の語られぬ思いに、耳を傾けよ、そこにこそ、われらのかすかな希望があるのだ。モンテーニュも、痛苦な経験を経た上で、きっとそうつぶやいたに違いない。

後退りの記(003)

◎堀田善衛「ラ・ロシュフコー公爵傳説」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

「われわれの美徳は,ほとんどの場合,偽装した悪徳に過ぎない。」人口に膾炙したこの句は、高校時代山仲間だったN君の口癖だった。ある意味、温厚だったモンテーニュの口調とはひと味ちがう感触に驚いたものだった。それがラ・ロシュフコー「箴言と考察」という本を知るきっかけだった。

1572年は、フランスにとって多事多難な年であった。アンリ四世(当時皇太子)の母が、ナバラ王国女王ジャンヌ・ダルブレ(Wikipedia)が、息子のマルグリット(マルゴ)王妃との結婚式に列席するため、パリに赴く途中で急死した。ライバル・カトリーヌ・ド・メディシス(Wikipedia)が、毒殺したとの噂が絶えなかった。母の遺言を結婚式に向かうアンリに託したのが、フランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)であると、ハインリッヒ・マンは書く。三世は、「箴言と考察」の著者の曽祖父にあたる。その後、サン・バルテルミの虐殺(Wikipedia)という大悲劇が起こった。その結果、その頃は、プロテスタントだったフランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)は、パリの路上で殺されてしまったのである。その後は、当代の六世に到るまで、ラ・ロシュフコー家にとって苦難の日々だったのである。フランス絶対王政の確立の契機となったフロンドの乱(Wikipedia)では、当代は瀕死の重傷を負うが、それは後の話となるので、機会があれば言及するだろう。