後退りの記(013)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎渡辺一夫「戦国明暗二人妃 Ⅱ世間噺。マルゴ公妃」(中公文庫)
◎アレクサンドル・デュマ「王妃マルゴ(上、下)」

アンリ四世にとって、大事なキーパーソンの一人が、マルゴ王妃であり、「バルテルミーの虐殺」の際には、アンリ四世を影になり日向になり援助したのは、以前に簡単に触れた。マルゴなかりせば、アンリも虐殺の渦に巻き込まれていたにちがいない。しかし、皮肉なことに、その後は、二人の運命が決定的に分かれたのだ。アンリは、紆余曲折はあったにしろ、国王に登り詰め、マルゴは長い放浪生活を余儀なくされる。ようやく、二人が再会したのは、1584年、バルテルミーから12年後、アンリとの離婚を条件にされ、パリに戻ったのは、1605年で21年後、1605年のことであった。1610年には、アンリ四世の暗殺、その5年後には、マルゴは62才で長逝した。渡辺一夫氏は、十数人にもなるマルゴの生涯に渡る愛人の一覧表を掲げるが、その多くは、殺害されるなど、安寧な人生をおくった男性はいなかった。こうしたことが、マルゴに対しては「色情狂《ナンフォマニ-》」との世評の根拠になったのだろう。しかし、それは、「英雄色を好みすぎる」アンリ四世とて同じことである。渡辺氏も論告に対してマルゴの弁論を試みている。離婚後、アンリは、イタリア・メディチ家の血筋をひくマリー・ド・メディシスと結婚、ルイ十三世の父となり、ブルボン王朝の始祖となった。マルゴの母、カトリーヌ・ド・メディシスは、その頃は亡くなっていたが、草葉の陰で、「してやったり」とほくそ笑んでいたかもしれない。

「『こんなにはかないものでなかったら、こんな甘美なものはないのだが」と、マルゴ公妃は書いている。この虚無感が、…一生涯、何かを追い求めさせていたものだったかもしれない。そして、一切の崩壊と消滅とが、徐々にまた確実に行われる以上、…それを敏感に感じ取っていたのかもしれず、それ故に、いずれ虚無に帰する自分、しかし、まだ生きている自分の存在証明を探り続けていたとは言えまいか?…華やかなるべきその生涯は暗く嶮《けわ》しかったし、充たされて安らかなるべきその肉体は悶え通し、円満具足たるべきその心は許されないものを求め続けていたことだけは確かであろう…」

と渡辺氏は、その「情状酌量請願文」を最終弁論として閉じる。一言付け加えるなら、スコットランド女王・メリー・スチュアートにも当てはまり、ともに文才があっただけに、時代に翻弄されながら、その生涯をなかば「ロマン」として、自ら描くことでは、マルゴと好一対をなすであろう。

これまで、アンリ四世の周辺人物の話題に、多くを割いてきたが、ここらあたりで、「アンリ四世の青春」に戻り、モンテーニュとの本格的な邂逅などを含めて続けてゆきたいと思っている。

図は、「戦国明暗二人妃」から。

後退りの記(006)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎佐藤賢一「黒王妃」(集英社文庫)

1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺は、突如として起こったものではない。ルターの宗教改革の提唱以来、各国で新旧教徒の衝突が繰り返していたが、1562年のヴァシーの虐殺は、それが大量殺戮という結果を生み出し、より大きな形で、バルテルミへとつながってゆく。思えば、フランス王朝、特にヴァロア朝は、スペイン、イギリスと違い、両派に曖昧な立場を取り続けた。ヴァシーの虐殺後、プロテスタントでの信仰の自由を一部認めたアンボワーズ勅令も和解までは至らなかった。この頃から、両派の「仲介役」として、伸してきたのが、イタリアメディチ家出身で故フランソア二世の王妃だったカトリーヌ・ドゥ・メディシスである。
ここでは、この「仲介者」というのが曲者である。現在でも、某超大国が、侵略国にその仲立ちを持ちかけているが、侵略国に向かって侵略をやめよ!と言うのが一番になされなければならず、仲裁はその後の話である。現に、十六世紀のフランスでは、最初はためらっていた息子のシャルル九世が、当初、プロテスタントのコリニーを父とも慕っていたが、結局は、殺戮の銃口の引き金を引かせたのも、カトリーヌだと言われている。疑えば、アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ四世)と娘のマルゴ王妃との縁組を用意し、その結婚式のために、パリにプロテスタント(ユグノー)を集めて殺戮の餌食にしたのも、彼女の意図だったかもしれない。もっともバルザックは、彼女に少々同情的のようだが…いずれにせよ、パリでの1572年8月24日の攻防は、その人物配置や役割など、きわめて現代的でもある。
日本では、1562年といえば、桶狭間の戦いの2年後、織田信長と徳川家康が手を結んだ時期、1572年は、家康は三方原に武田信玄の手ごわい軍勢が迫った時期だった。一方フランスでは、アンリ四世は、サン・バルテルミ以降、しばらく幽囚の身となり、カトリックへの改宗を強いられていた。

「どうする家康!」「どうするアンリ!」

後退りの記(003)

◎堀田善衛「ラ・ロシュフコー公爵傳説」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

「われわれの美徳は,ほとんどの場合,偽装した悪徳に過ぎない。」人口に膾炙したこの句は、高校時代山仲間だったN君の口癖だった。ある意味、温厚だったモンテーニュの口調とはひと味ちがう感触に驚いたものだった。それがラ・ロシュフコー「箴言と考察」という本を知るきっかけだった。

1572年は、フランスにとって多事多難な年であった。アンリ四世(当時皇太子)の母が、ナバラ王国女王ジャンヌ・ダルブレ(Wikipedia)が、息子のマルグリット(マルゴ)王妃との結婚式に列席するため、パリに赴く途中で急死した。ライバル・カトリーヌ・ド・メディシス(Wikipedia)が、毒殺したとの噂が絶えなかった。母の遺言を結婚式に向かうアンリに託したのが、フランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)であると、ハインリッヒ・マンは書く。三世は、「箴言と考察」の著者の曽祖父にあたる。その後、サン・バルテルミの虐殺(Wikipedia)という大悲劇が起こった。その結果、その頃は、プロテスタントだったフランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)は、パリの路上で殺されてしまったのである。その後は、当代の六世に到るまで、ラ・ロシュフコー家にとって苦難の日々だったのである。フランス絶対王政の確立の契機となったフロンドの乱(Wikipedia)では、当代は瀕死の重傷を負うが、それは後の話となるので、機会があれば言及するだろう。