日本人と漢詩(074)

◎成島柳北


仏蘭西《フランス》がらみの話題である。

成島柳北(1837-1884)は、幕末から明治にかけての人、当初は幕臣にて、荻生徂徠からの系譜で儒官であった。遊蕩にも精をだしたらしく、「柳橋新誌」なる戯作も著した。森繁久彌も時代を下っての縁者らしい。(Wikipedia)その柳北は、維新後、「東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)、共に欧米を巡る。」その時にパリとベルサイユを訪れたときの詩。

巴里雜詠 巴里雑詠(四首のうち二首)
一.
十載夢飛巴里城 十載《じつさい》 夢は飛ぶ 巴里城《パリじよう》
城中今日試閑行 城中 今日《こんにち》 閑行《かんこう》を試《こころ》む
畫樓涵影淪渏水 画楼《がろう》影を涵《ひた》す 淪渏《りんい》の水
士女如花簇晚晴 士女《しじよ》 花の如く晩晴に簇《むら》がる
閑行:のんびり歩くこと。
淪渏:さざ波。
二.
五洲富在一城中 五洲《ごしゆう》の富 一城の中《うち》に在《あ》り
石叟陶公比屋同 石叟《せきそう》 陶公《とうこう》 比屋《ひおく》同じ
南海珊瑚北山玉 南海の珊瑚《さんご》 北山の玉《たま》
廛廛排列衒奇工 廛廛《みせみせ》 排列《はいれつ》して 奇工《きこう》を衒《てら》う
五洲:全世界。
石叟:晋の石崇。富裕の人。
陶公:中国・春秋時代、越王勾践に仕えた范蠡《はんれい》。のちに斉に移り、巨万の富を築いた。
比屋:どの家も。

烏児塞宮 烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》

想曾鳳輦幾回過 想《おも》う 曾《かつ》て鳳輦《ほうれん》幾回《いくかい》か過《よぎ》り
来与淑姫長晤歌 来《きたり》て淑姫《しゅくき》と長く晤歌《ごか》せしを
錦帳依然人未見 錦帳《きんちよう》依然たるも 人見《み》えず
玻璃窻外夕陽多 玻璃《はり》窓外《そうがい》 夕陽《せきよう》多し

烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》:バロア朝時代のルーブル宮からブルボン朝のルイ十四世(アンリ四世の孫)から王宮はパリ郊外のベルサイユに移された。
鳳輦:フランス歴代の王や皇帝の馬車。
淑姫:貞淑で美しい婦人
晤歌:一緒に歌う。詩経陳風「東門之池」「彼の美なる淑姫、与《とも》に晤歌すべし」
依然:昔のまま。

成島柳北は、他の多くの官僚・知識人と同様に、福沢諭吉のいうごとく、江戸時代から明治にかけて「二世を生きた」ことは間違いない。でも、成島は、福沢のように、近代的な自己を持つことはついにできなかった。(もちろん、後年の福沢が唱えた「侵略主義」的主張を是とはしないが…)成島がパリを訪れた、1872年といえば、前年、パリコミューンが樹立されたが、約半年で崩壊させられ、徹底的な弾圧の嵐が吹き荒れていた直後であるが、彼の詩情では一顧だにされない。かろうじて、ヴェルサイユ宮から見た夕陽が、普仏戦争、パリコミューンを経た大仏帝国の落日を象徴するとも言えるだろう。

写真は、Wikipedia から
【参考文献】江戸詩人選集第十巻 成島柳北 大沼沈山 岩波書店