後退りの記(014)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」

フランスの16世紀は、後進国とまでは言わないが、どちらかと言えば、ルネッサンスの中心だったイタリアに比して、後塵を拝していたのではないか。また、イデオロギー的にも、手法の是非はともかくとして、ドイツ、スイスなどの新教派の拡大に一歩遅れを取っていたのではなかろうか?例えば初期バロック音楽でも、イタリアなどと比べると、リュート音楽が「主流」で、野暮ったさは否めない。例をあげると、ゴーティエ一家というリュート作曲家一族がいる、その中で、エヌモン・ゴーティエの曲が Youtube にある。後のベルサイユを発信地にした典雅な音楽とは、かけ離れている。これはこれで、別種な素朴ともいうべき趣があるが…こうした社会環境は、これからのストーリーの背景にあったとも思われる。
さて、「バルテルミーの虐殺」を経たその16世紀末のフランス史では、三人のアンリが、その焦点になる。すなわち、アンリ二世(1551-1589)とカトリーヌ・メディシスの子、アンリ三世、カトリック同盟の首領ギーズ公アンリ(1550-1588)とわが主人公、アンリ四世(1553-1610)である。三人とも、最期は悲劇的な結末であったことは痛ましい限りである。
俗っぽいが、三人の関係を、ちょうど同時期の信長、秀吉、家康に比べる向きもあり、アンリ四世は家康に比すこともできようし、強いて言えばが、ギーズ公アンリは信長に、アンリ二世は秀吉に当てることも可能だが、相違点も多々あり、話が続かない。
ともかく、三人の確執は、後の話にひとまず置き、とりあえずは「虐殺」を辛うじて逃れたアンリ四世(アンリ・ナヴァール)に眼をやってみよう。プロテスタントからカトリックへ改宗というアリバイ的な立場を取った、アンリ・ナヴァールだが、ルーブル王宮での半ば幽閉生活には、毎日が心ここにあらずという生活が続くが、足かけ4年で、そこからの脱出に成功する。その逃避行の途中で、モンテーニュとの奇跡とも言うべき二度目の出会いがあった。そして、肝胆相照らす仲となる。これには、アンリ・ナヴァール側に「虐殺から監禁」という痛烈な体験が関係しているのであろう。年長のモンテーニュとしては、それまでも、いやというほど現実の過酷さを体験したことだろうが(機会があれば、これまでのモンテーニュの辿ってきた事柄に触れてみたい)、やっとアンリ・ナヴァールと同じ地平に立つことができた。さすがに、「エセー」には、アンリとの出会いについては書かれてはいないが、現実を凝視する眼がたしかな「エセー」からの引用。

「均衡のとれた中庸の人物を私は愛する。度をこえることは善においてもほとんどいとうべきものだ。」(「エセー 第1巻30章)
また、「エセー」では、ローマの文人の言葉も引く「何事においても熱中は禁物で、徳ですら過ぎれば狂となる。」(ホラーティウス「書簡」)
Omnia vitia in aperto eviora sunt. (アルユル欠陥ハアカラサマ二ナレバヨリカルイ」(セネカ 「エセー」(第2巻31章)

元来「中庸」は、ともすれば、中途半端な「日和見」的な立場と取られがちである。しかし、モンテーニュは醒めている。度を越した善は、ましてやその「強要」は、しばしば多大な損傷をもたらす。モンテーニュが経験したことが、そう語っている。
別に話を拡げるつもりはないが、現在、この時点で係争地で起こっている悲惨な状況を見よ!お互いの「善」「正義」の強要が、子どもや罪なき弱者の命を奪っている。あと幾年いや幾世紀、「度を越えた善、狂となった過ぎた徳」の応酬が続くのだろうか?アンリ四世とモンテーニュとの邂逅が、いくたび繰り返さなければならないのだろうか?
ここまで書いて、半世紀も前のことになるが、高校時代のワンゲル部の後輩が、「ジハードに征く」として、彼の地で生を終えたことを、ふと思い出した。

本職こぼれはなし(002)

「大阪保険医雑誌」から2024年新年号への投稿依頼が来た。お題は、「音」「音色」とある。少し、気が早いようだが、腹案らしきものがあったので、したためてみた。

【聴診器で「こころ」を聞く?】(最終稿)
 月並みではあるが、医者のシンボルといえば、頚にかけた聴診器であろう。医学史によると、聴診器が世にでてきたのは、思いのほか新しく、十九世紀初め、当初は、中をくりぬいた円筒形の木で、音を聴いていたようだ。やがて、十九世紀半ばには、耳に差し込む形の聴診器が発明され、現在の聴診器の原型となる。私の研修医時代は、オーベン(指導医)の先生方は、象牙製のそれを使っておられる方がわずかだがおられた。片方の耳栓がはずれても、平気な顔で診察されるのをみて、感心したりしたのも、思い出の一つである。実際に、象牙製を使わせてもらったが、片耳はおろか両耳でもさっぱり聴こえなかった。それ以来は、もっぱら、小児用の「リットマン」の聴診器を常用している。
 医学生時代、診断学に熱心な小児科の先生がいて、心肺音を録音したレコードを聞かせてもらった。大半は忘却のかなたになったが、その後、役立ったことが一つ、聴診からは離れるが、そのレコードに、子どもの「百日咳」の咳の様子-いわゆる「スタッカート・フステン」(音楽の符号のような連続的な咳)-があった。のちに三種混合ワクチンの事故で接種が一時中止となることがあり、百日咳がふたたび流行し始めた時、ある日の外来に、舌圧子で軽く咽頭を刺激すると、レコードの音と同じような咳をする子どもがやってきた。血液検査で、百日咳と診断治療することができ、事なきを得た。学生時代、講義聴講では熱心な方ではなかったが、印象に残る音は記憶の片隅に残るもので、その先生には改めて感服した。ほかには、今ではまるで旧式になったベビーバードという人工呼吸器―複雑な回路を見よう見まねで組み立てた-をつけた未熟児の片肺の呼吸音が突然聞こえなくなり、気胸と診断、外科部長の先生のサポートのもと、一番細いネラトンカテーテル挿入で脱気を試みて、山場を乗り切ったことや、複雑心奇形の児に、酸素飽和度を高めるため、人工的に心房中隔欠損を作成する治療方法(BAS バルーン心房中隔切開)をカテーテル下に試み、みるみるまにチアノーゼが改善した時は、「ばすっ」という音が聞こえた気がして、「なるほど、だからBAS(バス)と言うんだ」と妙に納得!など、音に関することは枚挙にいとまがない。
 こうした研修医時代の忙しさの中で、時には気分的に落ち込むこともあり、たまに映画でもと観たのが、黒澤明監督の、「酔いどれ天使」だったと思う。その中で、医師役の志村喬は、世の医者のアリバイ的な聴診を揶揄しながらも、相手のやくざ役、三船敏郎の胸を旧型の聴診器で聴診し、拇指と示指でまるを作り、「お前の胸には、これくらいの空洞があるぞ」と指摘していたシーンがあり、彼の五感の鋭さに、とうてい映画とは思えず、身震いした。CTもない時代にこんな診断ができるなんて、自らの無能とは関係なく、その医者の「神々しさ」には、新たな気持ちで憧れる思いだった。
 でも後日、気がついた。志村は三船に、実際の空洞を指摘しただけではなかった。表面はみえっぱりだが、それまでの阿漕な生活に嫌気がさしていたヤクザの「心の空洞」=「心の闇」をその聴診器で聞き分けていたのだ。
 今まで、聴診器で、志村医師なみに幾人を聴き得たかは、はなはだ心もとない。ましてや、この数年来のコロナ禍で、診察室でゆっくり聴診器を当てるのもままならないが、これからは、患者さんの「心(こころ)」まで聴き分けることができる医師でありたい、とは老医晩年に至った今の見果てぬ夢の一つである。

写真左は、Baby Bird 人工呼吸器(Bird 社カタログより)、私が使っていたのはもう少し前の機種でほとんど計器類もなく回路ももっと複雑だった。写真右は、黒澤明監督「酔いどれ天使」(聴診のシーン)(Youtube では、無料でスペイン語字幕付きで閲覧できる。)
「百日咳」の咳の様子は、城北病院作成の、Youtube 動画で聞くことができる。

日本人と漢詩(100)

◎雨森芳洲

江戸幕府が確立した後、秀吉の朝鮮侵略で途絶えていた、(李氏)朝鮮との外交関係が復活する。復活後に、日朝関係を真に友好的なものに確立したのが、雨森芳洲(1668-1755)である。芳洲は、現在の滋賀県伊香郡高月町(今は長浜市に編入)出身、戦国時代、浅井氏の輩下で、主君を滅ぼした、秀吉をとことん嫌っていた。父の代になり、医業を生業にするようになり、父を嗣ぎ、当初は医学(その頃は東洋医学)を学んだが、師から「医者というものは、数多くの失敗を重ねて(もっと率直に言えば、患者を死なせて)大成するものだ」と言われ、以後、儒学者としての道を歩んだという。このあたり、彼の人格形成を考えるうえで興味深い。儒者としては、木下順庵年門下に入り、同門の先輩に新井白石(1657-1725)がいる。また、荻生徂徠(1666‐1728)と同時代人である。
江戸時代前期の日本は、それまでの「無視ないし敵対関係」にあった、中国や朝鮮の近隣国との関わりが大きくなったことである。「鎖国」状態から想像される以上に思いの外、幕府は善隣外交に力を入れていたようだ。朝鮮との関わりでは対馬藩が大きな位置を占め、その要職に登り詰めた、雨森芳洲は、多くの江戸期文人とは違った立ち位置だったのだろう。特に白石とは、木門一家の逸材の二人であったが、生来の気質やその学習環境の違いは大きかったようだ。白石は、我も相当以上で、朝鮮通信使との交渉でも、江戸幕府一辺倒であったが、芳洲は、もうすこし広い視点、東アジア全体を見渡す視点をいくばくなりともは持っていたようだ。それが、中国語やハングルをも習熟した所以であろう。通信使の朱子学に忠実な「事大主義」(朝鮮側にしたら、秀吉の朝鮮侵略の甚大な被害も昨日のことではなかろう。)にも柔軟に対応できたことに繋がる。そんな芳洲が白石の出世を聞き、読んだ詩。(以後、読み下し文は略、簡単な訳文を附ける。)1710年、芳洲42歳、白石53歳の時の作。

寄贈新井勘解由在西京
星軺聞説駐京陽 星のように輝くあなたは京都にあり
彩節錦袍跨驌驦 美しい服で駿馬に騎り
古寺花深登白閣 花深い古寺で閣に登り
綺筳酒緑倚黃堂 酒宴を立派な部屋で開き
跡尋禹穴詩篇富 禹穴(中国の伝説の禹帝の住んだという洞穴、杜甫「送孔巢父謝病歸遊江東兼呈李白」(Web 漢文大系が典拠だろう。)を訪ね詩をたくさん書いて
栄擬畿門姓字香 名を全国にとどろかせている
慾識邊城客思多 私は辺境の地で憂いばかりで
黒貂半敞鬂爲霜 黒貂の服もなかばやぶれ、白髪模様。

白石の身と比べて心労多忙な日々を、ともすれば嘆かざるをえなかった芳洲は、その後、数回の朝鮮通信使との接待という大役を果たした後は、54歳の時、ようやく「隠居」の身となる。享保の通信使(1719年)の一員、申維翰(신유한)は、別れに臨んで、

今夕有情來送我 今夜、心づくしに見送ってくれるあなたに
此生無計更逢君 この世ではもう二度と会えますまい

と詠み、芳洲は涙したとある。

その後も対馬藩の醜悪な内情や対外交渉にも関与せざるをえなかったようが、最晩年には畿内に帰ること能わず、88歳の長寿で終焉の地となった対馬で次のような詩を書き残した。

曲崎峯月
木落楓衰海面寛 木の葉が落ち、楓も散り、海原が広く感じる
素娥粧出暮雲端 月の女神は化粧して雲の端っこにたたずむ
清輝含露桂花冷 清い光は露を含んで桂の花を照らし
送與詩人褰箔看 詩人と一緒にすだれをかかげて見やっている

何か典拠の詩があるようだが、未検。教えを乞う。今までの儒学(朱子学)を吹っ切ったような艶やかで、しかもどこか清冽な作である。

芳洲の外交戦略の要諦「欺かず争わず」とする「誠信」の精神は、長年の試行錯誤を重ね努力を経て作られたものである。
「朝鮮人のみだりに言葉にあらはし申さず候は、前後をふまへたる知慮の深さにて。おろかなるとは申されまじく候。」
「とにかく義理を正し申さず押付け置き候て相済み候と存じ候は、後来の害を招き申すべき事に候。」

少なくとも言えることは、同時代の白石の「偏見」とは自由な立場であるが、現在を含めて、半島外交が芳洲の理想とほど遠いことは、あまりにも明らかであろう。ともあれ、遅きに失したが、当方は、芳洲の顰みにならって、ハングルの学習を再開しよう。

参考】
・上垣外憲一「雨森芳洲」(中公新書)
・田井友季子「対馬物語」(光言社)

本職こぼれはなし(001)

コロナ禍で、しばらくは、本来の業務に専念していました。先日のコロナワクチン接種(自分への)後のなんとも言えない倦怠感(発熱は最高37.2℃)がようやく癒えてきたので、久しぶりの投稿になります。
コロナワクチン接種にご高齢の夫婦連れ立ってやってきた妻君、問診で
私ー「夫さんの、現在飲んでいる薬は分りますか?」
妻ー「母子手帳忘れたんで、ちょっと…」
私ー「はあー、この頃は服用薬は母子手帳に書くことになってるんや」(と妙に感心)
もちろん、母子手帳は、調剤薬局でお渡しするくすり手帳のことです。それと、決してジェンダー的な意味ではなく、いくつになっても母親は母親なんだな、とあらためて納得!との次第。

写真は、上は、戦後発足当初の母子手帳。さて誰のかな?左は、ワクチンスケジュールを書き込んだ現在の母子手帳。母子手帳の歴史に関しては、以前に発表した「母子手帳の歴史」(医学生講義) を参考のこと。

日本人と漢詩(099)

◎菅原道真

以前も一度だけ菅原道真(845-903)を取り上げたが、本邦屈指の漢詩人、道真公の話題はこれにとどまらない。ここでは、初期の漢詩を中心に…まずは、詩人道真の11歳時のデビュー作。師の島田忠臣が感心したと云う。

月夜見梅花 月夜に梅の花を見る
月耀如晴雪 月の耀《かがや》くは晴れたる雪の如し (げつようせいせつのごとく)
梅花似照星 梅花は照れる星に似たり (ばいかしょうせいににたり)
可憐金鏡轉 憐れぶべし 金鏡の転《かいろ》きて (あわれむべしきんきょうてんじて)
庭上玉房馨 庭上に玉房の香れるを (ていじょうにぎょくぼうのかおれるを)

語釈、訳文は、古典・詩歌鑑賞(ときどき京都のことも)を参考ののこと。

この頃から、道真は天性の詩情が備わっていたようだ。作曲家モーツァルトのほうがもっと早熟だが、どこかモーツァルトを彷彿させるものがある。

もう一首、恋する年齢に達して、その思慕の情を表現したもの、白文は省略する。

翫梅華 梅華を翫す
梅樹 花開きて 白き繒《かとり》を剪《き》る 純白の薄絹のごとき 咲き満ちる梅の花よ
春情 勾引されて 相仍《あいよ》ること得たり 春情に導かれて 私はあなたに寄ろうとする
狂風第一《ていいち》 吹きて狼藉ならませば すると 狂った春風がいきなり吹いてきて 見る間に花を散らす
叱々忩々《そうそう》 意《こころ》 勝《た》へざらまし ああ それをただ見ているだけの耐えがたさよ

下記参考図書によると、恋心の対象は、藤原基経の妹にして先代文徳天皇の女御であった明子であったという。

大岡信や加藤周一などは、菅原道真を、文学的対象や視野を格段に拡げたと評価する一方、その後はこうした文学的継承がなされなかったとも言うが、そうした詩が書かれるのは、詩人がもう少し成熟したのちである。。

写真は、北野天満宮境内での、どこか道真公の幼き日の面影のある稚児像と梅の花(Wikipedia)

参考】 ・高瀬千図 道真(上)花の時 NHK出版

日本人と漢詩(098)

◎中江兆民と真山民


兆民の「一年有半」は、彼が余命を知りながら、時の政治家の人物評や、大阪に療養の居を構えてから、通った人形浄瑠璃や浪花節のことなど、なかなかに話題が多岐にわたり、面白い著書である。

「越路音声の美、曲調の巧、真に匹儔《ひっちゅう》なし。けだし津太夫、呂太夫は、玉造の男形と相ひ待ち、越路太夫は紋十郎の女形と相ひ待ちて、倶にその妙を極むるを得、皆逸品なり。」

その著の紹介が恩田 雅和氏による「繁昌亭」支配人による連載として、大阪保険医協会のHP にある。

ところで「一年有半」の中では、彼が親しんだ漢詩にも触れた箇所がある。若い頃から、時折漢詩に親しんだ兆民は、杜甫、李白、高青邱をはじめ、宋末の遺民とされる真山民の詩の一部を引く。彼のバックグラウンドもなかなか奥深いものがあろう。ここではやや季節をことにするが、その全句を紹介する。

山間秋夜     真山民
夜色秋光共一闌 夜色秋光 共に一闌
飽収風露入脾肝 飽くまで風露を収めて 脾肝に入る
虚檐立盡梧桐影 虚檐立ち尽くす 梧桐の影
絡緯数聲山月寒 絡緯数声 山月寒し

語釈は関西吟詩文化協会HP参照のこと。ここでは、この詩の詩吟も紹介されている。

なかなか詩吟も力演だが、どうも重過ぎるきらいもないではない。本来の詩のピンイン読みが、さすが本場の雰囲気が出ていて、より効果的のような気がする。中国発の、漢詩原文読みのサイトがあるようなので触れておきたい。

新春 真山民

餘凍雪纔乾 余凍《よとう》 雪《ゆき》纔《わず》かに乾《かわ》き
初晴日驟暄 初晴《しょせい》 日《ひ》驟《にわ》かに暄《あたた》かなり
人心新歳月 人心《じんしん》 新歳月《しんさいげつ》
春意舊乾坤 春意《しゅんい》 旧乾坤《きゅうけんこん》
煙碧柳回色 煙《けむり》は碧《みどり》にして 柳《やなぎ》色《いろ》を回《かえ》し
燒靑草返魂 焼《やけあと》は青《あお》くして 草《くさ》魂《たましい》を返《かえ》す
東風厚薄無 東風《とうふう》 厚薄《こうはく》無《な》く
隨例到衡門 例《れい》に随《したが》いて 衡門《こうもん》に到《いた》る

語釈などは、M&Cメディア・アンド・コミュニケーションを参照のこと。

参考】
中江兆民「一年有半・続一年有半」(岩波文庫)

日本人と漢詩(097)

◎大塩平八郎

元号というのは、時の為政者の思惑や、民の願望とは齟齬し、皮肉な結果をもたらすものだ。昭和が決して平和が明らかではなかっとのと同じように、天保というのも、天はおろか、地も凶作にあえぎ、民も困窮に苦しむなど、保つどころか、多事多難な時代であった。ある意味、日本の歴史の転換点とも言えるだろう、
以前、Facebookに以下のように、投稿した。

西区靭本町にある大塩平八郎終焉の地のプレート(左画像)。大塩平八郎(Wikipedia)は、1837年(天保八年)、相次ぐ大飢饉で、大商人などが暴利を貪り、民衆が塗炭の苦しみを味わう中で、門人たちと決起します。しかし、事破れて、靭にある商家に匿われ、追手が迫る中で、自決したと伝えられています。実際には、その商家は、この天理教の建物の後ろ側、道路ひとつ挟んだ北側にあったようです。
「言貌の文(げんぼうのあや・言葉や表情をうわべだけ飾りたてること)のみならば、則ち君子は親しみ信ぜず。しかして情(じょう)と誠(まこと)とあれば、則ち言貌の文なしといえども、必ず之を親しみ信ずるなり。いわんやその言貌に見(あら)はるるをや。(情と誠が言葉や表情に加わっているいるならベストである。)」(大塩平八郎「洗心洞箚記」)
現代においてはもちろん、その「武装蜂起」の手段は議論のあるところですが、彼の言葉は、誰かさんに聞かせたいものです。(ま、聞く耳を持たないでしょうね。)
以上は、ともかくとして、(大阪きづがわ医療福祉生協の)定款地域の西区には、こうした史跡碑が20数カ所あります。大正、港、西成区の数カ所より随分多いですね。歴史的に、大坂の中心だった事がよく分かります。

ところで、大塩が公務で箕面の滝を訪れた時のこんな詩がある。

箕山の楓を尋ぬるに人の其の一枝を誤るあり。山僧集まりて之を拘へ面縛す、予其の無知なるものの妄作して此に陥るを憫み、且つ僧の為す所の慈ならざるを悪む。故に僧に告げて以て其の囚を釈さしめ、戯れに絶句を賦して其の僧に贈る

律厳法具梵王宮
赤子猶懲縲絏中
楓葉容看不容損
明朝定捕五更風

(寺のおきては厳しく、きまりもいろいろあるのだろう)
(かよわい民すら罰せられ、縄にかけられるとは)
(紅葉を見るのは良いが、折ってはならぬというのなら)
(私は明日、夜明けに吹く風を捕まえなければなるまいな)

※梵王宮=仏寺。縲絏(るいせつ)=罪人として捕らわれること。五更=寅の刻、午前三時から五時頃。
私はこの詩に、市井の人に注ぐ大塩の暖かな視線、怒った時は、硬い魚の骨も噛み砕くほどだった世評とは異なる寛容さを感じるのだが、如何だろうか。
参照→大塩平八郎雑感(PDF)

日本共産党の元参議院議員・三谷秀治はその小説「大塩平八郎」で、交友のあった頼山陽に贈った詩を引く。(白文は略)
春暁城中、春睡《しゅんすい》衆《おお》く
檐《のき》を繞《めぐ》る燕雀《えんじゃく》、声虚《むな》しく囀《さえず》る
高楼に上りて、巨鐘を撞《つ》くに非ざれば
桑楡《そうゆ》日暮れて猶《なお》昏夢《こんむ》ならん

訳文)春のあかつき、大坂のえせ儒者たちは眠りまどろみ、軒端を飛びかう小人どものさえずりは空しいばかり、今高い楼に昇り警鐘をつかねば、日が暮れてもなお目覚めることはないだろう。

果たして、彼の反乱・決起は「高楼に上りて、巨鐘を撞」いたのだろうか?私たちが考えなければならない課題でもあろう。

参考】
三谷秀治「大塩平八郎」新日本出版社 1993年

日本人と漢詩(096)

「日本人と漢詩」は番外編が2投稿あるので、連番号を修正した。
◎石川啄木と白居易(白楽天)

啄木には、漢詩の実作はないが、短歌には意外と漢詩的な側面もある。白楽天は、李杜のやや下に置く傾向はあるが、彼の白楽天の詩集は、あまり人口に膾炙する詩以上に、熱心に読んでおり、自らの短歌にも影響を与えたと考えられる。

浪淘沙《ろうとうさ》
       ながくも声をふるはせて
       うたうがごとき旅なりしかな
これは、啄木が、1908年、一年間にわたる北海道各地の旅から離れ、文学一本で身を立てるため、単身で東京生活を始めた、日付は、10月23日の作品である。

浪淘沙 白楽天
隨波逐浪到天涯 波に随《したが》い浪を逐《お》いて天涯《てんがい》に到る
遷客生還有幾家 遷客《せんかく》生きて還《かえ》るは幾家《いくか》か有る
却到帝鄕重富貴 却って帝郷《ていきょう》に到りて重ねて富貴ならば
請君莫忘浪淘沙 請《こ》う君忘るる莫《なか》れ浪の沙《いさご》を淘《とう》するを

浪のまにまに天涯に貶詫《へんたく》(遠く追いやられること)された人は、生きて還ることは稀である。もし幸いに都へ帰って、さらに富貴になりえたならば、全く浪に淘《あら》われた沙のようだと思うがよい。(佐久間節訳解「白楽天詩集」第四巻)

以前、啄木は、白楽天のことを、李白・杜甫の下位に置く傾向があると指摘したが(日本人と漢詩(060))、、決して軽視したわけではなく、ややマイナーな詩作も含めて、こまめに読んでいたらしい。白楽天には珍しい、ややメランコリックな詩情を自作の短歌にうまく取り入れている。

浪淘沙六首白文は、以下のサイトにある。

啄木の本領は、拠点を東京に移した時から始まったと言ってよい。ただし、彼の人生は、あと4年しか残されていなかったが…
「大逆事件」関係では、古い蔵書から、歌人の碓田のぼる氏の新書を読み返した。戦後になりようやく資料が出揃ってきた「大逆事件」の全容を書く端緒で夭折したのが返す返すも残念である。そもそも、秋水が「暴力革命」論者であったかは、かなり難しい問題だろう。「大逆事件」供述書にそのような記載があったとしても、権力側から「嵌められた」側面が強いかな?その供述書を読むことができた啄木は、秋水の意志を受け継ぎ次の時代へ進もうとしたし、厳しい現状に対しても、何とか「人民的議会主義」への模索があったと指摘する。繰り返しになるが、その意志、意欲は、明治の終焉と時を同じくし、そして象徴的だが、啄木の夭折とともに、一旦、断絶と終焉を迎え、継承されることはなかった。碓田のぼる氏は、やがて大正から昭和にかけてのプロレタリア文学に引き継がれたとするが、議会への態度を含め、かなり強引な説明であることは否めないし、今日的な検討が必要であろう。

参考】
啄木と中國一唐詩選をめぐって一
北の風に吹かれて~独り漫遊記~啄木歌碑巡り~1~
・「石川啄木と『大逆事件』」(碓田のぼる 新日本新書)(写真も本書から)

日本人と漢詩(093)

◎幸徳秋水と中江兆民

師弟の関係にあった幸徳秋水が中江兆民の葬儀の時の詩。その敬愛に満ちた評伝「兆民先生」の冒頭に掲げる

寂寞北邙呑涙回 寂寞《せきばく》たる北邙《ほくぼう》
斜陽落木有餘哀 斜陽《しゃよう》 落木《らくぼく》 余哀《よあい》あり
音容明日尋何處 音容《おんよう》 明日《みょうにち》 何處《いづ》くにか尋《たづ》ねん
半是成煙半是灰 半《なか》ばは、是れ煙と成り、半は是れ灰

語釈、訳文は詩詞世界を参照のこと。

続く文章も、思慕の念が溢れるものになっている。

「想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村 に送りて荼毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁く草枯れ、満目惨凄として万感胸に湛へ、去らんと欲して去らず、悄然車に信せて還へる。這の一首の悪詩、即ち当時車上の口占に係る。嗚呼、逝く者は如斯きか、匆々茲に五閲月、落木蕭々の景は変じて緑陰杜の天となる。今や能く幾人の復た兆民先生を記する者ぞ。」

一方、師の兆民も、漢詩の詩作が数百首あったようだが、まとまって紹介されることは少ない。そのなかで、「兆民先生」で引用される詩がある。

病中得二首之二 病中二首を得の二 中江兆民
西風終夜壓庭區 西風《せいふう》 終夜《しゅうや》 庭区《ていく》を圧《あ》っし
落葉撲窗似客呼 落葉《らくよう》 窓《まど》を撲《う》ちて 客の呼ぶに似たり。
夢覺尋思時一笑 夢覚め 尋思《じんし》の時一笑《いっしょう》
病魔雖有兆民無 病魔《びょうま》ありと雖《いえど》も兆民《ちょうみん》なし

語釈、訳文は同じく詩詞世界を参照のこと。

これ以上、余分な解釈は必要あるまい。兆民は、大坂堺市でその療養生活を送った。堺市市之町にはその居住先があるという。今度、機会があれば訪れてみよう。

参考】
・幸徳秋水「兆民先生」(岩波文庫)
・中江兆民「一年有半・続一年有半」(岩波文庫)

日本人と漢詩(092)

◎佐藤一斎と潘岳とカズオ・イシグロ

先日、カズオイシグロ脚本による「生きる」を観てきた。オリジナルの黒澤明監督「生きる」をイギリスに置き換えたリメイク版である。息子には伝えきれなかった数々の思い…でも濃淡はありつつも周囲との関係の中で、幾許かは共有しながら、最期に公園のブランコに乗り、スコットランド民謡を唄う。志村喬とは、少し違った趣きがあり、見ごたえがある映画だった。主人公の過去にあった、亡き妻との永訣、その面影でも、映画脚本にあったらなら、もう少し深みがでてきたのかもしれないと、ふと思ったがそれは「無いものねだり」というものだ。

連れ合いを亡くした時の漢詩は、古来「悼亡詩」としてある。その嚆矢が、中国南北朝時代・西普の詩人・潘岳(247~300)のそれである。

悼亡詩 潘岳
荏苒冬春謝 荏苒《じんぜん》として 冬春謝《さ》り
寒暑忽流易 寒暑 忽《たちま》ちに流易《りゅうえき》す
之子歸窮泉 之の子 窮泉《きゅうせん》に帰し
重壤永幽隔 重壤《ちょうじょう》 永《とこし》えに幽《かく》し隔《へだ》つ
私懷誰克從 私懐《しかい》 誰《たれ》か克《よ》く従《したが》わん
淹留亦何益 淹留《えんりゅう》するも亦《また》何の益あらん
僶俛恭朝命 僶俛《びんべん》として朝命《ちょうめい》を恭《つつ》しみ
囘心反始役 心を回《めぐ》らして始役《しょえき》に反《かえ》らんとす
望廬思其人 廬《かりや》を望《のぞ》みて思其人
入室想所歷 室《へや》に入《い》りては歴《へ》し所を想《おも》う
幃屏無髣髴 幃屏《いへい》には髣髴《ほうふつ》無きも
翰墨有餘跡 翰墨《かんぼく》には余跡《よせき》あり
流芳未及歇 流芳《りゅうほう》 未だ歇《や》むに及ばず
遺挂猶在壁 遺挂《いけい》 猶を壁に在り
悵怳如或存 悵怳《ちょうよう》として或いは存するが如く
周遑忡驚惕 周遑《しゅうこう》として忡《うれ》いて驚惕《きょうてき》す
如彼翰林鳥 彼の林に翰《と》ぶ鳥の
雙栖一朝隻 雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く
如彼遊川魚 彼の川に遊《およ》ぐ魚《うお》の
比目中路析 比目《ひもく》して中路《ちゅうろ》に析《わか》るるが如し
春風緣隙來 春の風は隙《すき》に縁《よ》りて来たり
晨溜承簷滴 晨《あさ》の溜《あまだれ》は簷《のき》を承《つた》いて滴《したた》る
寢息何時忘 寝息《しんそく》 何《いず》れの時か忘れん
沈憂日盈積 沈憂《ちんこう》 日びにに盈《みち》積《つ》む
庶幾有時衰 庶幾《こいねが》わくは時に衰《おと》うるあらんことを
莊罐猶可擊 荘《そう》が缶《ほとぎ》猶《な》お撃《う》つべし

語釈などは「石九鼎の漢詩館」などを参照のこと。

訳文など、高橋和巳訳を参考にした。]冬と春は移ろい、寒暑もたちまち変わった。妻は、窮泉(よみの国)に帰り、土塊により永久に隔てられた。吾だけが思い続けても誰も分かってくれないし、そこにとどまっていてもなんの益があろうか。…だが、喪中の廬《いおり》や、わが家でもをみれば、彼女を思い出すし、とばり、屏風には、彼女の手跡が残っている。香りや琴も以前のまま、あたかもまだ居るように錯覚し、こころさわぐ。林のつがいの鳥が、一羽取り残されたように、また川を泳ぐ伝説上の比目魚が途中で分かれてしまったようだ。(「彼の林に翰《と》ぶ鳥の雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く」とは、「雙」と「隻」という漢字の字体の違いをうまく使った表現である。)春の風、朝の雨だれも、独り寝の身には、深い愁いがつのるばかり。いっそ昔、莊子がしたように妻を失ったとき酒甕をたたいてうたったようにしてみたいものだ。

愛日樓詩

西風直置不堪悲 西風ただ悲しみに堪えず
況復鰥鰥枕易攲 いわんや復《ま》た鰥々《かんかん》枕を攲《そばた》てやすきを
淡月黃蘆秋似畫 淡月黃芦、秋は画に似る
憶君水墨寫成時 憶う君が水墨写し成る時

訳文など]
秋風に悲しみはたえず、独り身になり、すっかり目ざとくなった。淡い月、黄の芦は画のようで、亡妻が水墨画を書いていた時を思い返す。「淡月黃芦、秋は画に似る」とは、うまい表現。潘岳の妻も絵心があったというから、一斎は、彼の悼亡詩からまともに影響を受けたのだろう。

晩春掃亡妻墓 晩春、亡妻の墓を掃《は》く
春老山村路 春は老ゆ、山村の路
到来敲梵扉 到り来て梵扉《ぼんぴ》を敲《たた》く
新墳芳草合 新墳、芳草合し
古道晩花飛 古道、晩花飛ぶ
先後倶長夜 先後倶《とも》に長夜
壽殤同一歸 寿殤同じく帰を一つにす
啼鴉覔棲樹 啼鴉《ていあ》、棲樹を覔《もと》む
暮景足歔欷 暮景、歔欷《きょき》するに足る

訳文など]
晩春の候、山路をたどって寺の門をたたく、新しい墓は香草に囲まれ、道は遅咲きの花が散る。生まれは違っても、いずれは偕老同穴なのだ、カラスがすみかを求めて啼いている夕暮れの景色にたたずんでいると、すすり泣きせざるを得ない。

晩年の作ではあるが、率直な悲しみが伝わる詩であり、彼の「人としての優しさ」もうかがえる。ここで思い起こすのは、すこし時を遡り、天保年間に、大塩平八郎は、乱の勃発直前に佐藤一斎に書状を差し出した。また、そのすこし前に、大塩が昌平黌の林述斎に、相当な額の資金を融通したとも言う。塾頭の一斎の反応は残っていないが、書状が残存していることから、一斎は、大塩の心情は充分理解していたのではあるまいか?そのことが、彼の立場を微妙なもののしてしまい、蛮社の獄では、「日和見」的な態度に終止したのではとも思う。彼が、言志録にある「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む」のを言葉とおりに実行していたなら、また違った結末になったかもしれない。それが彼にとっても。「生きる」ということに繋がったのでは、とふと夢想してみる。

参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波書店 同時代ライブラリ)
・高橋和巳作品集9(河出書房新社)