テキストの快楽(015)その1

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(10)


【編者より】
 底本にある岩波文庫「シベリアの旅」には、その他、短編小説「グーセフ Гусев」「女房ども Бабы」「追放されて В ссылке」が収載されていますが、青空文庫「チェーホフ」にありますので、参照してください。未完に終わった「シベリアの旅」は今回の神西清による解題で終了です。全編は、「シベリアの旅」タグで御覧ください。ご愛読に感謝します。
 全編を通じて、ふりがなは ruby タグ を、傍点は、b タグを用いました。また、より小さな活字体では、font タグを用いたところもあります。
 昭和九年という、日本が暗い世相の予兆から、それが現実になりつつあった時代でこそ書き得た、神西清の全霊を込めたというべき、名解説です。

解題

 ーハ九〇年は、チェ—ホフの作家的生涯に於て重要な轉機をなしてゐる(チェーホフ三十歲)その外向的なあらはれは、 言ふまでもなくシベリヤを橫斷してサガレンへの大族行である。本集はこの旅行から比較的直接に齎らされた藝術的所產を中心にして、當時の彼に見られる幾つかの動向を捉へようと試みた。

       

 サガレン旅行がチェーホフの藝術の進展のうへに演じた役割は、 從來稍ゝもすれば單なるー插話としてその價値が見失はれがちであつたに拘らず意外に大きく、ここに基點を置いて自覺せるチェーホフの出發を記念することは極めて妥當である。その意味は先づ、これに先立つ二三年のあひだに彼を度つた激しい危機と密接に關聯させて考へられなければならない。その危機の釀成は固より非常に複合的であるが、次の二三の事實はこれに就いて幾分の豫備知識を與へるものと思はれる。
 何よりも先づ眼につくことは、チェーホフか文筆生活の開始に當つて極めて不幸であつた事である。彼が一家の生計を支へるためにモスクヴァの滑稽新聞に寄稿し始めたのは、まだ醫科大學に在學してゐた一八八〇年のことに屬する。この卑俗なヂャーナリズムの泥沼に彼を引き入れたについては、 若年の彼が持つてゐた皮相な滑稽的天分も當然ー半の責を負ふべきであるにせよ彼カこの境地に自足してゐたと考へることもまた謬りである。この時期の彼を「陽氣で無帰気なー羽の小鳥」と見、彼のユーモア短篇に今なほ安易なー瞬の愉樂を求める人々に禍あれ。彼等はその「小鳥」の次の絕叫をも聽くべきである。
  「私は奴等の仲間にゐる。奴等と一緖に働き、握手し合つてゐる。遠目にはどうやらーかどの詐欺師に見えるさうだ。ああ腹が立つ。だが晚かれ早かれ緣切りだ。」(一八八三年)
  「もし私の裡に尊重に値する天分があろとすれば、私はこれ迄それを尊重して來なかつたことを自白します。色んな新聞を渡り步いてゐたこの五年のあひだに、私は自分の文學的『下らなさ』に對する世間の眼に泥んでしまひ、自分の仕事を卑めて見ることに慣つつこになりました。」(一ハ八六年)
 この悲慘な墮落は、それが彼の曇らぬ良心の面に歷然と意識されてゐるだけ、ー層眼をそむけさせるものがある。「私はあまり多作はしません。一週間にせいぜい短篇が二つか三つです」(八六年、 スヴォ—リン宛)と怖るべき吿白をしながら、ー八八〇年から一ハ八七年末までに彼が書きなぐつた作品の數は、 よしその大部分が主として片々たる短篇(まれに雜文)の類であるにせよ、 總數五百五十を超えてゐる。かかる沈湎の境に、 その懸命な身もがきにも拘らず長く彼を引留めてゐた一素因として、當時所謂八〇年代のロシャ社會の退嬰無比な倦怠の色が思ひ浮べられる。未曾有の反動の重壓の下、文學にも科學にも訪れるのは預気力な灰色の日々でしかなかつた。あらゆる希求も美への僮憬も悉く凋萎させずには措かぬ小市民生活の泥沼、その中にあつてチェーホフも亦、ある時期のあひだトルストイの無抵抗の敎義に取り縋つた。
 かうした環境と心境とが、 やがて人を自滅の深淵に臨ませることは必然的であろ。出口のない悲慘と墮落の自意識、濫作の末の疲勞困憊、題材の涸渴、無興味、自己嫌忌、やがて完膚ない破滅……。戯曲は『イヴァーノフ』Ivanov Иванов<ロシア語は編者追加>(一八八七年)の主人公が目らを過勞の極困憊した勞働者に譬へ、退屈な話』Skuchnaja istorija Скучная история<ロシア語は編者追加>(一ハ八九年)の老敎授が精神的虛脫者であるのに何の不思議もない。この二つの作品は、右のやうな諸要素及びその發生するあらゆる有機毒素の累積に孕まれた危機の深さを殘りなく反映しつつ、彼に於ける一時期の終結を記すものに他ならない。この意味から、先全な自傅小說と呼びうるこの二作品は、彼が進んで遂げた自滅の記念碑と解することが出來る。彼は饐えきつた自己及び環境の一切を舉げて火に投じ、その屍灰から起ち上るかも知れぬ新しい生命を見守つたのでもあらう。
  「この二年の間、別にこれと言つた理由は何もないが、私は印刷になつた自分の作品を顧る興味を失くしてしまひ、評論にも文學談にもゴシップにも、 成功にも失敗にも、髙い稿料にも無關心になりました。――つまり、私はまるつきり馬鹿になつたのてす。私の魂には一種の沈滯が生じたのです。私はこれを自分の個人生活の沈滯に歸してゐます。私は失望もしてゐないし、疲勞も沮喪もしてゐませんが、ただ突然何もかもが今までほどに面白くなくなつたのです。自分を振ひ起たせるために何とかしなけれはなりません。」(ーハ八九年五月、スヴォーリン宛)
 この何氣ない手紙の一節が、右のやうな危機の深さの端的な表白として改めて讀み直さるべき時期の來てゐることは明かである。チェーホフはー八九〇年の初め頃、たまたま試驗準備をしてゐた弟ミハイルの刑法・裁判法・監獄法などのノオト類をふと眼にして、「足下から鳥の立つやうに」サガレン族行を思ひ立つたといふ。丹念に彼の傳記を調べて見たとしても、或ひはこれがその唯一の「眼に見えた」動機であるかも知れない。そして、實はそれで十分ではないか。あらゆる抑壓の下に形體は自壊しつつ、しかも獨特の何か不可思議な生活力の烈しさによる抵抗熱が身裡に鬱積された極みにあつては、 一行の文字のふとした衝擊に逢つてすら、 忽ち瓣ははじけ飛ぶのである。

 これを機緣として、久しく彼の待ち望んだ一つの情熱が彼の裡に燃え上つた。彼は「一日ぢゆう本を讀み、抜書を作つてゐる。私の頭の中にも紙の上にも今ではサガレンしかない。憑物だ。サカレン病 Mania Sachalinosaだ」(一八九〇年二月、プレシチェーエフ宛)と言ひ、 全く憑かれた人のやうになつてサガレン島に關する文獻に沒頭した。その興味はとりわ、罪囚たちの悲惨な生活の上に凝つた。
  「私達は幾百萬の人間を牢獄に朽ちさせたのです。徒らに、分別もなく、野蠻な遣ロで朽ちさせたのです。私達はー萬露里の寒氣の中を、手械をはめた人々を驅り立て、シフィリスに感染させ堕落させ、みすみす罪囚の數を殖やしたのです。しかも、これら總ての責を、赤鼻の獄卒に轉嫁してゐるのです。」(ー八九〇年三月、スヴォーリン宛)

 然しこのやうな罪囚に封する異常な執心が、或る衝動的な性質を帶びてゐることは蔽ふべくもない。ここで圖らずも、 私達は彼の生活樣態のー特徴に思ひあたるのである。それは彼獨特の潑刺たる勤勞愛であり、苦行愛である。ではあるが彼が、「私は懶惰を軽蔑する。精神の動きの虛弱さや不活潑さを輕蔑すると同様に」といひ、「舊制度と和解せずに、たとひ愚かしからうと賢明であらうと、とにかくそれと闘つてこそ健康な靑春と呼びうる」と語るとき、 少くもその放射面が現實であり社會である限り、そこに働いてゐるのは彼自身の心性ではなく、何者かがその裡に巢喰つてゐて、時に彼の心性をしてこの叫びを上げさせてゐる樣な感想を、私達は受けるのを常とする。饑饉時や疫病時に際して彼のあらはした獻身的な努力、僻地の學校圖書館に豊かならぬ財囊を割いて圖書を寄附する彼――その眞撃さは疑ひもなく、これを見て感激せぬのは鬼畜であるかも知れないが、しかもこれらの行動は、彼の生活量の總體から考量するとき、常に何かしら間歇的であり無花果的であり、 受身的な積極性の相を帶びるのを常とする。そしてここで、 彼の良心的な感性の鋭さを考慮に入れながら、かかる衝動を喚び起す奥底の刺戟として一種の「苛責」に想到することは極めて自然である。のみならすこれに關しては、彼の書簡集から幾つかの證據を拾ひ出すことさへ可能である。日く、等閑に附して來た醫者としての務めに對する自責。日く、藝術の自由性乃至藝術上の制作の實踐的無價値に對する執拗な反省。……これらの不安は、恐らくその全生涯を通じて彼の心裡に巢喰ひつづけ、絕えず迸出の機會を窺ふ魔であつたのである。
 この地に絕えず追はれ、突き轉ばされるとき、彼が悲慘極りない孤獨者の悲劇を露呈することは何としても否定し難い。實際彼ほどに、倨傲ならぬ純粹の個性の殉敎者はあまり見當らぬであらう。この敎養深い孤獨人は、「連帶性とか何とかいふ囈語は、取り所や政治や宗敎などに就いてなら私にも分る」乃至「仲間の助けになりたいなら、先づ自分の個性と仕事を尊敬することだ」といひ、一切の共働を拒否し、階級を認めず、勞働者を知らず農民を信ぜず、 インテリを憎悪しブルジョアを蔑視した。固より、かうしたあらゆる集團的階級的なるものへの彼の拒否を取り上げて、これを指彈し非難することは今日となつては常識以外の何物でもない。その故に最早彼を棄て去ることも亦、各人の隨意である。然しながら忘れてはならぬことは、この個性の悲劇が實は彼の近代的全悲劇の中核に極めて接近してゐること、 或ひは中核そのものであることである。しかも彼にあつては、これは常に意識された悲劇であつた。(彼の親友メンシコフは興味ある插話を齎らしてゐる。チェーホフの仕事机の上には銅印が置いてあり、その銘に「孤獨者にとつて世界は沙漠だ」とあつたといふ。)
 チェーホフは絕えず土地や人的環境や風物の新鮮さを好んだ。健康が許すあひだ殆ど間斷なしに國內を旅行し、その足跡が外國へ及んだことも一再ではない。それが矢張り右に見た魔の所業であり、 それが絶えず彼の裡に「遠方の招きに牽かれる心」を、「居に安んぜぬ徒心」を搖すつてゐたことは否定すべくもないのである。そのあらはれが、假借することのない勞力と時間の浪費――つまり一種の苦行の相を呈することも屢ゝであつた。その意味から言つて、彼のシベリヤ及びサガレンの旅を、かかる苦行の相なるものと呼び得る。それは彼に餘りにも高價に値した。彼の早死の原因をなした胸の痼疾も、その源をこの辛勞多い旅に歸せられてゐる。
 右のやうに、チェーホフをこの旅行に驅リやつた衝動的素因を瞥見した上は、 更にこの衝動を强化し支持した謂はば潛在的動因に眼を轉じないでは濟まされない。實をいふと、前に見たやうに突然彼の激しい興味が向けられた對象が偶々罪囚の生活であつたといふことは、ここで更に彼の作家的內奧の動向と微妙な契合をなしてゐるのである。それは、彼の危機の深さを如實に反映する『イヴァーノフ』及び『退屈な話』などの祕かな根底をなしてゐる特徵――すなはち自他の病患、世紀末のロシヤ社會を蔽ふ怖るべき變態的事象に對する異常な凝視である。この二作あたりを轉機として、彼の作家的視線は漸く病的、變態的な方面――彼の鋭敏な感性には人一倍强く映ずるあらゆる醜惡さに注がれはじめた。作家チェーホフの內部に、かかる病患・變態によつてのみ初めて創造欲をそそられる、一種の傾向が漸く形成され、それが次第に强まりつつあつた。勿論自他の病患を正視しようとする彼の眼光は、彼が徒らな笑ひの性格を喪ふにつれ、 また久しきに亙る混濁生活の間に、徐徐に養はれ鍛へられてゐたとはいへ、この期に於て充分に鞏固であつたと言ふことは出來ない。それはまだ、何かしら潜在的何かしら無意識的な作家的本能の生成でしかなかつた。だがこの様な瞬間に、ふとした衝動によつてサガレン島がロシア的悲痛の完全な軆現者或ひば象徵として眼底に映’じたとすれば、チェ—ホフが勿心ち全身全靈を舉げて共處へ牽引されたのは極めて當然である。この場合、彼の作家的本能の趨向は、 突發的な一つの衝動が指し示した方向と完全に合致して,その衝動を支持し强化し、やがてこれに取つて代るべき役目を見事に果たしたのである。
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テキストの快楽(014)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(09)

 もし道中の景色が諸君にとってどうでもよい事でないならロシヤを出てシべリヤに旅行する人は、 ウラルから工ニセイ河までの間ずっと退屈し通すに違ひない。寒い平原、曲がりくねつ白樺、 溜り水の沼、ところどころに湖、 五月の雪、そしてオビ河の諸友流の荒涼とした淋しい岸。――これが、 最初の二干露里が記憶に殘すものの全部である。他國人に崇られ、わが國の亡命者に尊ばれ、遠からずシべリヤ詩人にとつて無盡藏の金坑ともならう自然、比類ない雄大な美しい自然は、 やつとエニセイに始まる。
 かう言ふとくヴォルガの熱心な讚美者たちに對して非禮に當るかも知れないが、私は生れて以來エニセイほど壯大な河を見たことがない。ヴォル力を小意氣で內氣て憂ひを含んだ美人に普へればエ二セイはそのカと靑春の遣り場に困つた力强獰猛な勇士であらう。人々はヴォルガに對するとき、最初は奔放に振舞ふけれど、遂には歌謠と呼はれる呻吟に終る。明るい金色の希望は、ヴォルガにあってはやがて一種の無力感に――ロシヤのペシミズムに變ずる。エニセイにあっては先づ呻吟に始まる代りに私逹が夢にも見たことのない奔放さに達する。少くとも私だけは、 宏大なエニセイの岸邉に立つて荒びた北氷洋めがけて奔る凄まじい水の疾さとカとに貪るやうに見入りながらさう考へた。エニセイにとってその兩岸は狹苦しのだ。高くない浪のうねりが互ひに追ひ合ひ、押し合ひへし合ひ、螺旋狀渦を卷く有様を見てゐると、この强力男がまだ岸を崩さず‘底を穿ち通さずにゐるのが不思議に思はれて來る。こちら岸には、シベリヤを通じて一番立派な美しい町クラスノヤ—ルスクが立ち、對岸にはさながらコーカサスを思はせて煙りわたる、夢幻的な山獄が連なる。私は佇立して心に思った――今にどんなに完全な聰明な剛毅な生活がこの兩岸を輝かすことであらうか。私はシビリャコフ*を羨んだ。私の讀んだところでは、 彼はエニセイの河口に達するため遥々ペテルブルクから汽船で北氷洋へ乘り出したのだ。私はまた、大學がクラスノヤ—ルスクではなく、卜ムスクに開かれたのを殘念に思った。さまざまな想念が湧いて來て、それが皆エニセイの河波のやうに押し合ひ縫れ合つた。そして私は幸福だった。……
 エ二セイを越えると間もなく、有名な密林帶タイガーがはじまる。これに關しては色々と宜傳も記述もされて來たが、そのため反つて實際とは遠い姿を期待してゐた。最初はどうやら多少の幻滅感をさへ抱く。松、 落葉松、樅、白樺から成る變哲もない森が、道の兩側に間斷なく續いてゐる。五抱へとある木は一本もなく、見上げると眼まひのするやうな喬木もない。モスクヴァのソコーリニキイ*の森に生えてゐる樹に此べて、 少しも大木といふ感じはしない。密林帶には鳥の啼聲もなく、そこの植物には匂ひがないといふ話だった。で、さう覺悟してゐたが、密林帶を行くあひだ絕えず小鳥の歌が聞え、蟲の嗚聲がした。太陽に溫められた針葉は、强い樹脂やにの臭ひで空氣を滿たし、道傍の草原や林の緣は淡靑や薔薇色や黄色の花々に掩はれて、これも眼を愉しませるだけではなかつた。大密林の記述者たちは春來て見たのではなくて、明らかに夏の觀察なのであらう。夏ならばロシヤの森にすら 、鳥は啼かずす花も匂はない。
 密林帶の迫力と魅力は、亭々と聳える巨木にあるのでもなく、底知れぬ靜寂にあるのでもない。渡鳥でもなければ恐らく見透せまい、その涯しなさにあるのだのだ。はじめの一晝夜は氣にも留.めない。二日目、三日目になると段々驚いて來る。四日目、五日目になると、この地上の怪物の胎內からは、何時になっても脫け出せまいといふやうな氣がしだす。森に蔽はれた高い丘に登って、東のかた道の行手を眺める。見えるのはすぐ眼下の森林、その先に第三の丘、かうして限りがない。一晝夜の後また石に登つて見渡すと、 又しても同じ眺めだ。……道の行方には、 とにかくアンガラ河がありイルクーツクがある筈と心得てゐる。だが道の兩側に南と北へ連なつてゐる森林の向ふには何があるのか、 この森林の深さは何百露里あるのかは、 密林帶タイガー生れの馭者も農夫も知らない。彼等の空想は私達に比べて一層大膽である。その彼等ですら密林帶の奧行を輕々に決めようとはせず、 私達の質間に答へて「りはなしでさ」と言ふ。彼等の知ってゐるのは、冬になると密林帶を越えて遙か北の方から、何とかいふ人間が馴鹿に乘ってパンを買ひに來ることだけだ。が、 この人達が何者なのか、何處から來るのかは、 老人も知らない。
 見ると松林の傍を、 樺皮の袋と銅を背負つた脫走人がよたよた步いて行く。彼の悪行も苦難も彼自身も、この巨大な密林に比べるとき、何と小さくつまらぬものに見えることだ。よし彼がこの森林のなかで消えて無くなったとしても、蚊が死んだも帀然何の意外さも何の畏怖も感じられまい。人口が稠密にならず‘密林帶の威力を征服しえぬあひだは、 此處ほどに「人は萬物の靈長」といふ文句が力無く洞ろに響く場所は、何處にもあるまい。今シベリヤ街道に沿って住む人間が皆寄って、密林を取拂はうと申し合はせて斧や火を持ち出した所で、 海*を焼かうとした四十雀の話の二の舞を演じるに過ぎないだらう。時には山火事で森が五露里も燒けることカある。が、全軆としてみれば焼跡は殆ど氣附かぬ程度で、しかも二三十年もすると焼けた埸所には前よりー層密に茂った若森が生える。或る學者が東岸地方に滯在中ほんの粗忽から森の中で火を失した。一瞬にして見渡す限りの綠の森は炎に包まれた。この異常な光景に戰慄した學者は、自分を「怖るべき災禍の因」と呼んでゐる。しかし巨大な密林帶にとって、 高々數十露里が何だらう。今日ではきっと、その火事の跡は人迹の及ばぬ森になって、 熊が安んじて橫行しなし大松鶏おおらいてうが飛んでゐるに違ひない。その學者の爲業は、 彼を怯え上らせた怖るべき災禍どころか、 反つて大きな功績を大自然の中に印したのだ。密林帶では 、人間音通の尺度は役に立たない。
 また密林帶は、どれだけの祕密を藏してゐることだらう。樹々の間に傍道や小徑がこつそり忍び入り、喑い森の奧に消える。何處へ行くのだらう。秘密の酒造場へか、 地方警視も評議員もその名を曾て聞いたこともない村へか、それとも放浪者仲間がひそかに見附けた金坑へか? この謎めいた小徑からは、 何といふ無分別な、唆かすやうな自由の氣が吹いて來ることだ。
 馭者の話では、密林には熊や狼や大鹿、黑貂や野生の羊が棲むといふ。沿道の百姓たちは、 仕事の暇には幾週間も林の中で獣獵をして暮らすさうだ。この土地の狩獵術は至極簡單だ。つまり鐵砲から弹丸が出れば儲け物だし、 不發たったら潔く熊に喰はれろである。ある獵師が、 自分の鐵砲は五度續けて引いても駄目で、飛びだすのはやつと六度目からだと零してゐた。この珍寶を提げて、 刀も逆茂木もなしで獵に行くのは、危險千萬なことである。輸入した銃は粗悪でしかも高價住だ。だから街道沿ひの町村で、銃の製作までする殿治屋を見掛けるのは珍しくない。一般に鍛冶屋は多藝多才なものだが、 他の才人の群のなかに姿を沒する懼れのない密林帶では、殊にそれが日立つのである。必要があって或る鍛治屋と僅かのあひだ接近する機會を持ったが、馭者が彼を推薦した言葉はかうであった。――「そのお、大名人なんで。鐵砲まで作りますだ。」その馭者の口調や顏附は、私達が有名な藝術家に就いて話す時の樣子に彷彿たるものがあった。實は私の旅行馬車が毀れたので、修繕の必要があったのだ。馭者の紹介で宿場にやって來たのは痩せた蒼白い男で、その神經質な動作といひ、义あらゆる兆候に徵しても、才人凡つ大洒飮みに違ひなかつた。興味のない病氣を扱ふのが退屈でならぬ名開業醫のやうに、彼はこの族行馬車にちらつと横目を吳れて簡單明瞭な診新を下すと、ちよつと默想し、 私には物も言はず物臭ささうに路上を漫步してから、振返って馭者にかう言った。――
 「どうしたね! ひとつ鍛治場まで引つ張って來て貰ひましよ。」
 馬車の修繕には四人の大工か彼の手傳ひをした。彼はさも厭々らしい怠慢な働き振りを示した。鐵の方で彼の意に反して色んな形を取るかの樣でもあった。彼は屢屢煙草をふかし、何の必要もないのに鐵屑の堆のなかをがさがさやり、私が急いで吳れと言ふと天を仰いだ。藝術家も歌や朗讀をせがまれると、やはりかうした様子を見せるのである。時たま、まるで媚態の一種か,それとも私や大工達の度膽を拔かうとしてか、高々と槌を振りかぶって火の子を八方に散らし、 一撃の下に複雜極まる難問を解決する。鐵砧かなしきも碎けよ、 大地も震動せよとばかりに打ち下ろした粗大なー撃で、 輕い一枚の鐵板は、蚤からも文句が附くまいほどの申分ない形になる。手間賃に彼は五ル—ブル半受取った。その内五ル—ブルは自分が取つて、半ル—ブルを四人の大工に分けてやつた。彼等は禮を言って馬車を宿場まで引いて歸った。恐らく内心には、己れの價値を主張し傍若無人に振舞ふ才人(それは密林帶でも都會でも變りはない――)を羨みながら。

* シビリャコフ(アレクサンドル、一八四九――?)シベリヤの社会事業家。シべリヤ大學の開設に巨資を捧げ、探檢隊の後援をなすなど貢獻が大きい。彼がシベリヤの航海路の發見に協力したのは一八七五・七六年のことである。弟二コライも同じくシベリヤの恩人として知られる。
* ソコーリニキイの森 モスクヴ北郊にある有名な遊園地。
* 海を燒かうとした四十雀の話 四十雀が海を燒いて見せるぞと大言壮語したので、海神の都に恐慌を起して、鳥獸や獵師まで見物に集まったが、勿論泡ひとつ立たなかつた話。クルィロフ『四十雀』と題する寓話詩に基く。

テキストの快楽(014)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(006)

第一編明治以前

第一章への補 東洋の学問

 第一篇の第一章の諸節のなかに出てくる思想家たちを、私たちが歴史的に理解するためには、この人たちがそのなかにいた日本の学問、ひいては東洋の学問の本質をとらえておくことが、何よりも必要である。そのため、私はかつて発表したことのある同名の題の論文に多少の筆を加えて、ここに「補」として収めておきたい。

           

 いっぱんに歴史がほんとうに明らかにされるのは、歴史への眼が現代の眼であることによって、おこなわれるのである。学問の歴史があきらかにされるにおいても同じことである。だから歴史では、いつでも現代の眼がととのうことが、何よりも大切である。唯物論の歴史においては、なおさらである。私たちの現代の眼で科学(ここでは科学という言い方と学問という言い方を区別しないことにする)を見ると、いちばん大切なものが三つ眼につく。ひとつは人民大衆である。もうひとつは自然である。最後のひとつは人や自然のことを知る知識がみな確かなことである。この三つのどれか一つ欠けていても、それはもはや現代における真の学問でないことになる。原子物理学が現代の学問だとすると、この三つの要件を完全に充足させつつ進んでいるはずである。もし、そうでなく、たとえば人民大衆という要件がひとつ欠けていると(というのは、大衆に触れさせない、大衆に秘密になっている、つまり大衆の生活と幸福が考えられていないという意味である)、その学問のある国家はやがて必ず蹉跌し、その国での学問はくずれてゆくに違いない。(そういう実例は今日ないのではない。)現在では科学はまさしくそういうところまでもうきている。これは変質的といっていいほどな学問のすばらしい発展である。私たちの現代の学問の眼は、以上のことを見てとっている。
 さて、学問の歴史を見る眼でみるとして、東洋の学問はどういう学問であったのだろう。これは東洋の学問を根本的に考えてみるにおいて、ぜひ必要なことである。まず人民大衆のことはどうなっていたか。学問と自然はどういう関係であったか。知識の確実性はどう考えられていたか。私たちは最初に中国の古代の学問から問題にしていくことにしよう。えきは当時の科学だった。老子や荘子の学問も、ちゃんと歴史的な役割をもった科学だった。孔子や孟子のそれも同様だった。これらの古代の学問は、あの三つの条件(人民と自然と知識の確実さ)をどういうように具えていたか。私たちはここで、あるひとつの便利な道をえらぶことにしたい。というのは、中国古代の学問にじかにぶつかってゆかないで、それを日本人が受けとったところで中国古代の学問を見るというやりかたをえらぶことにすれば、かねてもって、近世の日本人の学問観も同時にわかるからである。したがって、私たちがこの本でとりあつかっている人たちの学問思想の性質も、浮きあがって眼につくことになると思う。
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テキストの快楽(014)その1

◎ バイロン 土井晩翆訳 チャイルド・ハロルドの巡禮

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チャイルド・ハロルドの巡禮:目次

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土井晩翆 (1871-1952) 譯,バイロン(Lord Byron, 1788-1824) 著 「チャイルド・ハロルドの巡禮 (Childe Harold’s Pilgrimage(1812-1818))」。
底本:チャイルド・ハロルドの巡禮 (英米名著叢書),新月社,昭和二十四年四月五日印刷,昭和二十四年四月十日發行。
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チャイルド・ハロルドの巡禮

バイロン 著

土井晩翆 譯

目次

* はしがき
* マシュー・アーノルドの論集中より
* 第一卷及第二卷の序
* アイアンシイに
* 第一卷
* 第二卷
* 第三卷
* 第四卷
* 註釋

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チャイルド・ハロルドの巡禮:はしがき

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はしがき

黄金の筆を捨ててグリイス獨立戰爭に參加したバイロンが雄圖なかばにミソロンギノ露と消えて後正に一二四年である。 こゝに彼の一代の傑作長篇『チャイルド・ハロルドの巡禮』の全部を日本の韻文に譯して此大詩人に對する記念となし得たのは私の光榮とする處である。

猛虎の如く『初めの跳梁を誤れば呟きて籔に退く』とは詩作に就いてバイロンの僞らぬ告白であらう。 隨つて精神彫琢の功を缺くこともあるが、洪水の如く、猛火の如く、颱風の如き、一氣呵成の天才の筆、雄健に壯大に魂麗に、 マコーレイの評の如く『英國の國語と共にのみ亡ぶべき金玉の佳什が甚だ多い』。 — 此等の作をわが拙劣な日本韻文の瓦礫に變じたのは私の慚愧に堪へぬ處である。

本書は四卷から成り、著作の原序に曰ふ通り、ハロルドといふ假設の主人公に託して、著者が漫遊し視察した諸邦 — 大一卷はポルトガルとスペイン、第二卷がグリイスと其附近、第三卷はベルギイ、ライン地方及びスイス、 第四卷はイタリア — 此等の風土、人情、傳記、逸話等を敍し、其間に著者の感情思想を點綴したもので、 必ずしも首尾一貫の構想があるのでは無い、獨立した幾十篇の詩歌を集めたものと見ても差支は無い。

前の二卷は一八一二年に刊行されて一朝忽ちバイロンの詩名を九天の高さに揚げたもの、第三卷は一八一六年、 第四卷は一八一八年、いづれも『自ら流竄の』バイロンが英國をとこしへに去つた後の作で、 此後二卷は前二卷より遙かに遠く傑出し、バイロンの名聲を英文學史上に不朽たらしめたものである。

時代の好尚と流行に應じて詩人の聲價は常に變化するが『チャイルド・ハロルドの巡禮』は英詩界の傑作として、 常に青年の愛誦として、 百年の盛名を失はぬ。高等英文學の教科書として全世界に今日尤も廣く採用さるゝ長篇の英詩は恐らく本當であらう。 我國にも東亰高等師範學校の故岡倉教授が邦文の註譯を加へて刊行せしめたものがある。

バイロンは革命時代の潮流の中に生れた。

彼の生るる(一七八八)五年前アメリカの植民地は獨立して合衆國を建設した。 彼が生れて一年後フランス革命は端を開いた。彼は青春の曙に於て、 舊來の制度信仰習慣が『道理の法廷』の前に喚び出され、 一朝忽ち顛覆さるるを見た。彼は一般の革命的感情が自由、民生、道理、 革命の語をして到るところ人口に膾炙せしむるを見た。 ワーヅワースが山川の間に自然と默會しつゝある際、コレリヂが超自然界を夢みつゝある際、 キーツが美の女神を崇拜しつゝある際、彼はシェリイと共に革命の使徒として人界の狂瀾怒濤を凌いだ。 『チャイルド・ハロルドの巡禮』は自由と民政に對する熱烈奔放の貢獻である。

大ゲーテが驚嘆したバイロン、全歐洲の文壇を風靡したバイロン( — プシキン、ミケイヰチ、ラマルテン、 ユーゴー、ミュッセイ、ハイネ等第一流の名はこれを證明する)、 今日なほ全大陸がシェークスピアにつぐ英國最大の詩人と稱するバイロン、 — 極東の我々は彼の一二四年祭の今日に當りて彼の傑作に一瞥を投ずるを惜むだらうか。

  一九四八年十二月

土井晩翆

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チャイルド・ハロルドの巡禮:マシュー・アーノルドの論集中より

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マシュー・アーノルドの論集中より

わが見るところ此世紀の英國詩人中バイロンとワーヅワースは實際の作品に於て優秀で卓越で正に光榮の雙星である。一千九百年の暦が飜る時、わが國民が正に終り去れる世紀中の詩的光榮を追想する時、其時到らば英國にとりて第一流の名は此兩者である。

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チャイルド・ハロルドの巡禮:第一卷及第二卷の序

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第一卷及第二卷の序

此詩は大概その描寫を試むる其場其場で書き下され、アルバニアに於て先づ初められたものである。 スペインとポルトガルの關する部分は此國々に於ける著者の觀察から作られた。 敍述の正當を確かむるため斯く陳ぶることは必要であらう。描かんと試みた場所はスペイン、 ポルトガル、エパイラス、アカルナニア及グリイスで、現在の本詩はそこで止る、 著者が進んでアイオニア及びフリヂアを過ぎ、 東邦の首府へと讀者を導くや否やは本詩に對する世間の歡迎如何に因て決せらるるであらう。 此第一第二卷は只の試筆に過ぎぬ。

本篇に纒まりを附くるため(いつも左樣とは曰ひ得ぬが)一個の假の人物が設けられた。 此假作人物チャイルド・ハロルドとは著作たる餘が或る實際の人物を指したものとの疑を招くかも知れぬとわが敬服する友逹は忠告してくれた。 此の疑は斷然斥けねばならぬ、ハロルドは全く想像の所作で其目的は前述の通である。些々たる若干の — しかも單に局所的な — 場所に於てかゝる疑の根據があるかも知れぬ、しかし大體に於ては一つもかゝるものがない。

チャイルド・ヲータース、チャイルド・チルダース等の如く、 チャイルドといふ稱號は餘が採用した韻文法に適當するものとして使用されたことは殆ど曰ふ迄もないことである。 第一卷の初めにある「別れの曲」はスコット氏が刊行した「邊境曲」の中、「マクスヱル卿の別の曲」から暗示を得た。

スペインを題目として發刊された種々の詩とイベリヤ半島(スペイン及ポルトガル)を説いた本詩の第一部との間には、 聊かの類似があるかも知れぬが全く偶然に外ならなぬ。一二の終の章を除けば本詩の全部は東邦に於て書かれたのである。

「スペンサアの詩節スタンザ」は、最も成功した詩人中の一人の説に據ると、 あらゆる種類の敍述に適する。ベッティ博士は曰ふ『遠からぬ前、餘はスペンサアの詩節と詩體で一詩を初めた、 而してこゝに餘は諧謔或は悲壯、敍述或は感傷、温柔或は諷刺等、 氣分の向くに隨つてあらゆる傾向をほしいまゝに現はさうと思ふ。 若し餘が誤らぬなら餘が採用した韻律法は以上の種類の詩を等しく容るゝからである』かゝる大家により、 又イタリヤ詩人の最高なるものの例により、我説を確められて、餘は本詩に於て同種の試をなすことに對し、 何等辨解の必要を認めぬ、若し我が詩が不成功なら、其缺點は我が作爲の上に係るので、決してアリオスト、 トムソン及びベッティの作により是認された意匠に依るのではないと信ずる。

一八一二年二月

ロンドンに於て

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チャイルド・ハロルドの巡禮:アイアンシイに

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アイアンシイに

  *アイアンシイに

1.
女性の艷美類なしと早く曰はれしさとながら
わが先つ頃漂浪の旅をたどりし**邦々に、
或は獨り夢にのみ眺め得たりと吐息する
人の心に示されし其幻影のただなかに、
君に似し者あらざりき、うつつにも又思ひにも。
君を一たび仰ぎ見て、光かゞやき移りゆく
その美の力描くべく我空しくも試みじ —
君を見しことなきものに我言わがこと何の效あらむ?
君を眺めし者にとり何等の言葉あり得べき?

*オックスフォード伯の第二女シャーロット・ハーレイ十一歳の少女
**スペインとトルコ

2.
あゝ願くは今のまゝ君とこしへにあり得んを、
其青春の約束にふさはぬことに無からんを。
姿いみじく、其心清うして且つ暖かに、
獨り翼を缺くばかり*「愛」の地上の姿なり、
「希望」の思ふ處より更に優りて無垢の影!
心をこめて其若さ養ひめづる母君は
斯く刻々に照りまさる君に確かに認め得ん
未來の年の空染むる其虹霓こうけいのきらめきを、
その天上の色の前、あらゆる悲哀消え去らむ。

*キュピト、「愛の神」

3.
あゝ西歐の年わかき*仙女よ!すでにわが齡
君の齡にたくらべて倍數ふるぞ我に善き、
わが愛なき目ゆるかずに君の姿を眺め得ん、
その熟し行く艷麗を心安けく望み得ん。
行末遠きうつろひを見ざらん我の運もよし、
猶さちなるは若き心傷まん時に我ののみ
逃れん辛き運命を、 — 續きて來る讚美者よ
君が目來す運命を — 彼らの讚美さりながら
「愛」の甘美を極めたる時にも惱纒ふべし。

*原語ペリ、ペルシヤ語にて「精」の意

4.
羚羊れいやうの目の如くして或は晴やかに勇しく
あるは美しくはにかみて、見廻す時に心奪ひ、
見つむる處眩ましむる君の其まみ願くは
この集の上一瞥を投げよ、しかしてわが作に
その微笑を惜まざれ、 — *たゞ友のみに非らば
そは我が胸のいたづらにあこがれ慕ふものならむ。
親しき少女、願くは之を與へよ、問ふ勿れ
何等の故にうらわかき人にわが歌捧ぐると、
ひとつ類なき百合の花、許せ花環に加ふるを。

*友人以上に愛を抱くならば其微笑にあこがるは空し

5.
このわが歌に結ばれし君の名正に此*たぐひ、
世々のやさしき人の目が、此ハロルドの詩の上を
永く射る時、其中に初に見られ、いやはてに
忘らるる名ぞこゝにいつくアイアンシイの名なるべき。
われの現世の生閉ぢて此過ぎ去れる慇懃の
禮辭は君の艷麗を讚ぜし彼の**豎琴の
かたへに君の美はしき指をいざなひ導かば、
そは思ひづるわが靈の願ふ至上の幸たらむ、
***「希望」の請に優れども、劣るを「友情」求めんや?

*百合の花の清さ
**琴を彈ず、即此詩卷を讀む
***望みて得がたかるべけれど友情として其以下は求めず

【注記】
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テキストの快楽(013)その3

◎生田譯:ハイネ詩集


図は、Wikipedia から。

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生田春月(1892-1930年)譯の「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)。
底本:ハイネ詩集(新潮文庫,第三十五編),新潮社出版,昭和八年五月十八日印刷,昭和八年五月廿八日發行,昭和十年三月二十日廿四版。
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ハイネ詩集

ハイネ 原著

生田春月 譯

目次

* 序
* 若い悲み
* 「夢の繪」から(三章)
* 小唄(二十七章)
* 抒情插曲(六十九章)
* 歸郷(百章)
* ハルツ旅行から
* 山の牧歌
* 牧童
* 北海
* 海邊の夜
* 宣言
* 船室の夜
* 凪ぎ
* 破船者
* フヨニツクス鳥
* 船暈
* 新しい春(四十四章)
* 巴里竹枝 その他
* セラフイイヌ
* アンジエリク
* デイアヌ
* オルタンス
* クラリツス
* ジョラントとマリイと
* ジェンニイ
* エンマ
* キテイ
* フリイデリイケ
* カタリナ
* 他國で
* 悲劇
* 小唄
* 何處に?
* 後年の詩から
* 女
* 祕密
* ロマンツエロから
* アスラ
* 世相
* かしこい星
* 最後の詩集から
* エピロオグ

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ハイネ詩集中普通廣く讀まれるのは『歌の本ブツフ・デル・リイデル』と『新詩集ノイエ・ゲデイヒテ』とである。 この譯本も右の二卷を主とし、これに後年の『ロマンツェロ』『最後の詩集レツツテ・ゲデイヒテ』中の作を加へて、 總計三百有一篇、ハイネの才能のあらゆる方面を示すために十分の注意を彿つたつもりである。 ハイネ愛好者の滿足を買ふを得ば幸ひである。

『歌の本』中最も主要なる『抒情插曲リリツシエス・インテルメツツオ』 (もと劇詩『ラトクリッフ』と『アルマンソル』の中間に插まれて出版せられたので此名がある) 『歸郷デイ・ハイムケエル』の二部門、 『新詩集ノイエ・ゲデイヒテ』卷頭なる『新しい春ノイエ・フリユリング』及び 『若い悲みユンケ・ライデン』中の『小唄リイデル』は全部譯出したから、 それ等の番號は原詩と全然同一である。そして原詩の番號による事の出來ないものに限り、 番號の打ち方を(その一)といふ風にして置いた。

譯語は全部口語を用ゐた。多少無理なところもあつた代り、或點ではかなり成功したかと思ふ。 譯し方は嚴密な直譯をしたり、また極めて意譯をしたりした。韻律上の用意のためである。 尚この譯はレクラム版の全集を底本とし傍らボンス・スタンダアド・ライブラリイの英譯を參照した。

一九一九年一月

譯 者

ハイネ詩集:若い悲み

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若い悲み(一八一七年 – 一八二一年)

「夢の繪」から

  その一

むかしわたしは夢みた、はげしい戀を
きれいな捲毛を、ミルテじゆを、木犀草を
苦い言葉の出て來る甘い唇を
悲しい歌の悲しい曲調メロデイ

その夢はとつくに破れて消え失せた
わたしの夢想はすつかり逃げ去つた!
そしてわたしがかつて熱い湯のやうに
やはらかな歌の中に注いだもののみが殘つてゐる

とり殘された歌よ!さあおまへも行くがよい
そしてとつくに消え去つた夢をたづね出し
もし見付けたらよろしくと言つてくれ —
はかない影にわたしははかない思ひをおくる

【注記】
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編集日時: 2025/10/04
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テキストの快楽(013)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(08)

     

 シべリヤ街道、 これは世界ぢゆうで一番大きな道だ。また一番單調な道かも知れぬ。チュメーンからトムスクまでは、それでもまだ我慢が出來る。と言っても決して役人のお蔭ではなく、この地力の自然的條件の賜物である。この邊は森林のない平原で、 朝降った雨も夕方には乾いてしまふ。若しまた五月の末になっても雪解がやまず、 街道が氷の小山で蔽はれてゐるやうなら、 勝手に野原を突切って廻り路も出來るわけである。トムスクから先は大密林と丘陵の連續だ。こつでは地面はなかなか乾かず、 廻り路などはしようと思つても出來ない。厭でも街道を行くことになる。そこでトムスクを過ぎると旅行者が急にロ喧しくなって、 不平帳にせつせと書き込むやうになるのだ。役人諸君も几帳面に彼等の不平を讀んで、 一々「詮議に及ばず」と書いて行く。書くなんて餘計な手間だ。支那の役人ならとつくに印判スタンプにしてゐるだらう。
 トムスクからイルク—ツクまで、 二人の中尉と軍醫が一人道伴れになった。中尉のの一人は步兵で、 毛むくじゃらな毛皮帽を被つてわる。もう一人は測量將校で總肩券アクセルバンド附けてゐる。宿場に着くたびに、 馬車ののろさと動搖とでくたくたになった上に泥だらけで、びしょ濡れで、 睡くてならぬ私達は、早速長椅子に轉がって不平を連發しだす。――「やれやれ、 何て汚ない何てひどい道だい。」すると驛の書記や各主がかう答へる。――
 「これ位はまだ何でもありませんよ。まあ見てゐて御覽なさい、コズーリカ越えはどんな工合だが。」
 トムスクから先は、宿場に着くたびにこのコズーリカで威かされる。書記たちは謎みたいな笑ひを浮べ、行き合ふ旅人は意地の悪い笑顏で、 かう言ふ ――「私は越して來ましたよ。今度は君の番ですね。」あまり威かされるので、化舞には神祕なコズーリカが嘴の長い綠色の眼をした。鳥になって、夢にまで現れて來ろ。コズーリカといふのは、チェルノレーチェンスカヤとコズーリカの兩驛間二十ニ露里の道を指すのだ(これはーノチンスクとクラスノヤールスク兩市の間に當る)。この怖ろしい場所の手前二三驛あたりから、旣に豫言者が出現しはじめる。行き合った一人は四度も顚覆したといふし、 もう一人は車の心棒を折ったと零すし、三人目は難しい顏をして物も言はない。道はいいかと訊いて見ると、かう答へる,「いやはや結構の何のって。」とりわけ私を見る人々の眼は、死者を悼む眼附に似てゐる。何故なら私の馬車は自腹を切って買った車だからだ。
 「きっと毀して、泥んこの中へはまりますよ」と、 溜息まじりに言って吳れる、「惡いことは言はない、 驛馬車になさい。」
 コズーリカに近づくにつれて、豫言者は次第に物凄くなる。程なくテェルノレーチェンスカヤ驛といふ邊で、道伴れの乘つた馬車か引繰り返つた。夜だった。兩中尉も軍醫も、 トランクや包みや碁石やヴァイオリンの函もろとも、泥んこめがけて飛んでしまつた。その夜中には今度は私の番だった。愈ヽチェルノレーチェンスカヤ驛といふ間際になって、 私の車の軸釘が曲ったと急に版片が言ひ出した。(これは車臺の前部と軸部とを結ぶ鐵のボルトだ。だからこれが曲ったり折れたりすると、車體は地面に腹這ひになってしまふ。)宿場で修繕がはじまる。むかつくほど大蒜にんにくや玉葱の臭ひをさせる馭者が五人掛りで、泥んこの車を横倒しにして、曲った軸釘を金槌で打ち出しはじめる。まだ何とかいふ橫木も割れてゐる、何やらの舌も她んでゐる、ナットが三本も飛んでゐるなどと、彼等は口々に吿げる。が私には何ひとつ分らない。また分りたくもない。……暗いし、寒いし、退屈だし、睡い。……
 宿場の部屋に簿暗いランプが燃えてゐる。石油と大蒜と玉葱の臭ひがする。長椅子の一つには毛皮帽の中尉が橫になつて眠ってゐる。もう一つの長椅子には何やら髯の長い男が坐つて、て、大儀さうに長靴を穿いてゐる。今しがた電信の修理に何處やらへ行けと命令を受けたのだが、睡いので出掛けたくないのである。總肩章の中尉と軍醫とは卓に向つて、重くなった頭を兩手に支へて居睡りしてゐる。毛皮帽の舟聲が聞え、外では金槌を打つ音がする。
 馭者の話聲も聞える。……かういふ宿場の話といふと、 街道ぢゆうを通じて話題は一つだ、 つまりその土地土地の役人の月旦と、道路の惡口とである。遞信關係の業務はシベリヤ街道に沿ひ謂はば君臨してゐるだけで、別に政治を布いてゐるわけではないのに、天の憎みを蒙ることが最も甚だしい。イルクーツクまでまだー千露里以上の道程を扣へながら、 すでに困憊し切ってゐる旅人の耳には、 宿場の物語は唯々凄まじく響く。何とかいふ地理學會の會貝が、細君を伴っての旅行中に二度も自分の馬草を毀し、とどのつまりは森の中で一夜を過ごさなければならなかった話、何とかいふ貴婦人があまり搖れが酷いため頭を割ってしまった話、何とかいふ收稅吏が十六時間も泥濘のなかに坐り績けて、たうとう百姓に二十五ルーブルやって引張り出して貰ひ、宿場まで送り屆けられた話、 自用の馬車は一臺として無事に驛まで行き通した例しがないといふ話。かういふ話がみんな、まるで不吉な鳥の啼聲のやうに胸に響き返るのである。
 さうした話から推すと、 最も苦勞の多いのは郵便であるらし.い。もし篤志な人があって、ペルミからイルクーツクに至るシベリヤ郵便の動きを丹念に追って、 その印象記を書きとめるなら、さだめし讀者の淚を誘ふやうな物語になるだらう。それは先づ、宗敎、敎化、商業、 秩序、金錢などをシベリヤに齎らすこれらの皮製のこりや叺の總てが、怠惰な汽船がいつも汽車との連絡に;..!にはいといふだけの理由で、空しく幾晝夜かをペルミに停滞するところから始まる。チュメーンからトムスクまでは、春も六月に入るまで、郵便も河川の凄まじい氾濫と這ひ出ることも出來ぬ泥濘と闘ふ。氾濫のお蔭で、ある宿場にー畫夜ちかく待たされたことがあった。郵便もやはり待つてゐた。重い邺便物を小舟に積み込んで、河や水浸しの牧地を渡す。その小舟が顚覆を免れるのは、シベリヤの郵便夫のため、その母親が恐らく熱い祈りを捧げてゐればこそである。さてトムスクからイルクーツクまでには、コズ—リカだのチェルノレーチェンスカヤだのといふ難所が數知れずあって、郵便馬車は十時間乃至二十時間づつも泥濘の中に立往生する。五月二十七日に或る宿場で聞いた話では、郵便物の重みでカチャ川の橋が落ちて、馬も郵便も危く沈んでしまふ所だつたといふ。こんなことは普通の事故で、シベリヤの郵便はもうとうに慣れつこになつてゐるのだ。イルクーツクを發って先へ進む途で、六晝夜の間もモスクヴァからの郵便に追ひ抜かれなかったことがある。つまり郵便が一週間以上も遲れてゐた譯で、まる一週間何かの事故に引き留められてゐたことになる。
 シベリヤの郵便夫は殉敎者だ。その負ふ十字架は重い。彼等は英雄だ。祖國が頑迷にも認めようとしない英雄だ。彼等ほどに勞働し自然と鬪ふ者は、他にはゐない。時には堪へられぬほどの苦勞も嘗める。しかも、 彼等が免職され解雇され罰金を課せられる度數は賞與を受ける度數に比して頗る頻繁だ。諸君は彼等の月給の額を知つてゐるだらうか。諸君は生涯に一度でも、 郵便夫が褒章を着けてゐるのを見たことカあるだらうか。「詮議に及ばす」と書く人達などより、 彼等はずっと有用かも知れぬ。だが見るがいい。彼等が諸君の前に出ると、どんなに怯えたち、どんなにおどおどしてゐるかを。……
 だが、やっと修繕が出來たと言って來た。これで先へ進める。
 「起き給へ」と、軍醫が毛皮帽を起す、「呪はれたコズ—リカなんか、 さっさと越してしまふのが一番だ。」
 「いや皆さん、 繪で見るほどに惡魔は怖くないと言ひましてね」と、 長髯の男が慰める、「なあに、コズーリカだって、他の宿場よりちつとも惡いことはありません。それにもし怖けりや二十二露里ぐらゐ步いたつて譯はありませんや。」
 「さう‘泥んこに陷りさへしなけりやね……」と、 書記が言ひ添へる。
 空が朝焼けけに染まりはじめる。寒い。立場たてばの構內を岀もせぬうちから、もう馭者が言ふ、 ――「何て道だね、やれやれ。」最初は村の中を行く。……車輪を沒するどろんこの泥道があるかと思ふと、 今度はからからな丘になる。かと思ふと粗朶や棧道を渡した卑濕地に出る。それもどろどろの糞を被ってゐるうへに、丸太が肋骨のやうに突き出て、渡るとき人間の魂は反轉し、馬車の前は摧ける。……
 だが村が盡きた。怖るべきコズ—リカに差し掛る。成る程ひどい道てはあるが、といつてマリインスクや例のチェルノレ—チェンスカヤあたりの道にくらべて、 別段惡いとも思へない。幅のひろい森の切通しかあってそれについて幅五間足らずの粘土と塵芥の堤が、ずつと續いてゐると想像して見給へ。これがつまり街道だ。この堤を横から眺めると、 樂器の蓋を外した胴みたいにオルガンの太い心棒が地上に突き出て見える。その兩側には溝がある。心棒の上には、深さ一尺以上もある辙の跡が何本も走り、またこれを橫切る夥しい轍がある。從って心棒全軆は一群の山脈狀を呈し、それなりにカズベック*もあればエリブルース*もある。山巔は乾いてゐて車輪に突き當るし、麓の方はまだ水をはねかす。よつぽど巧みな奇術師でもなければ、 この堤の上に馬車を平らに据ゑることは難しいだらう。先づ大抵、 馬車はまた慣れぬ諸君が「おい馭者 、引繰り返るぢやないか!」と、 思はす一分毎に怒鳴り出すやうな位置をとる。右側の車輪が二つとも深い轍に陷り込み左の車輪が山巔に突き立つかと思ふと、二つの車輪が泥濘にめり込み、第三の車輪は山巔に、第四は空に廻ってゐる。……馬車の位置が千變萬化するにつれて、諸君が頭を抱へたり横腹を抱へたり、四万八方へお辭儀をしたり舌を嚙んだりする傍では、トランクや箱が大騒動をして、互ひに重なり合つたり諸君の上に被さったりする。だが版者を見給へ。この輕業師は何と上手に馭者臺の上に坐ってゐることだ。
 もし誰かが私達を橫から眺めたら、 あれは馬車で行くのではない、氣が觸れたのだと言ふだらう。少し先の所で、 私達は堤から離れようと思ひ、 棧道を探しながら森の緣を辿った。だがそこにも轍があり、小山があり、肋骨があり、棧道がある。暫く行くと馭者は車を停めた。ちよつと考へてゐたが、やがて、さあ愈ヽ愚劣千萬なことをやりますぞと言ふやうな表情で力無く咳拂ひをすると、堤の方へ馬首を轉じていきなり溝へ乘り掛けた。物の爆ける音がする。前の車輪ががちやんと行き、次いで後の車輪もがちやんと行く。溝を越すのである。それから堤へ乘り上げるときも、 矢張りがちやがちやんと鳴る。馬から湯気が立つ。梶棒が裂ける。尻帯も頸圈も橫へずれてしまふ。……「ほうれ、大將」と、馭者は力一ぱい鞭を振りながら叫ぶ、「ほれさ、御兩人。ぼやぼやするなってば!」十步ほど馬車を引きずつたかと思ふと、馬は停つてしまふ。幾ら鞭をやらうが、喚かうが、今度は動かうともしない。仕方がない。また溝を乘り越えて堤を下りる。また抜道を探す。それからまた逡巡して、車を溝へ向ける。りがない。
 かうして乘って行くのは辛い。實に辛い。だが、 このみつともない痘痕あばただらけの地の帶、この黒痘痕が、ヨ— ロッパとシベリヤを繫ぐ殆ど唯一の動脈であるのを思ふ時、心は一層暗くなる。人々は一軆、 どの動脈を通ってシベリヤへ文明が流れ入ると言ふのか。如何にも、 彼等の喋々する所は實に多い。だがこれを若し、馭者なり郵便夫なり、それともヨーロッパ へ茶を送る荷車の列の傍で泥濘に膝まで潰かつて、びしよ濡れに泥を浴びてゐる農民なりが耳にしたとしたら、彼等のヨーロッパ及びその誠意に對する感槪は果してどんなものであらうか。
 序でに荷車の列を見て置き給へ。四十臺ほどの車が茶箱を積んで、 堤の上に續いてゐる。……。車輪は半ば轍の深みに隱れ、瘦馬が一齋に頸をのばす。……車の傍には運搬夫がついて行く。足を泥濘から引つこ抜いたり、 馬に力を借したりで、精も根もとつくに盡きてゐる。……列の一部が停ってしまった。どうしたのだ。一臺の車の輪が碎けたのだ。……いや、もう見ない方がいい。
 へとへとになった馭者や郵便夫や運搬夫や馬を、まだ嘲弄し足りないのか、誰やらの差圖で煉瓦の碎片かけらや石塊が道の兩側に盛り上げてある。これは、 間もなく道がもっと酷くなるぞといふことを、 瞬時も忘れさせぬためである。シベリヤ街道に沿ふ町や村には、道路修繕の名で月給を取る人間がゐるといふ。これが若し本當なら、どうそ修繕には及びませんと、月給を上げてやらなければなるまい。彼等の修繕に逢ふと道は益ヽ惡くなるばかりだから。百姓の話では、 コズーリカなどの道路修繕は次のやうにするのだといふ。六月の末から七月の初めにかけては、 この土地の「埃及のわざはひ*」として殼物につく蚊の盛んに發生する季節だが、 その頃になると人人を村から「驅り出し」て、指の間で擦り潰せる程からからな枯枝で、 乾いた轍や穴を埋めさせる。修理の仕苦は更か終るまで續く。すると雪が降って船醉ひを起させるほど搖リ上げ搖り下ろす世界無類の穴ぽこが、 道路一面に出來る。それから春の泥濘が來る。また修理が始まる。これが連年の行事である。
 トムスクの手術で或る評議貝と知合ひになって、 三二驛のあひだ一緖に行ったことがある。私達が、とあるユダヤ人の農家に坐って鱸のスープを食べてゐると百人頭がはいって來て、何處共處の道略がすつかり損じてゐるが‘そこの請負人が修理をしようともしないと、評議員に報告した。……
 「ここへ呼んで來い」と評議貝は命じた。
 暫くすると頭の毛のもぢやもぢやな小男の土百姓が、 顔を歪めて這人って來た評議員は威勢よく椅子を起つて、百姓めがけて突進した。……
 「この恥知らず奴。何だって道を修理せんのか」と彼は泣聲で呶鳴りはじめた。「道は通れん、 頸つ玉は折れる、 知事の報吿は飛ぶ、 何もかもこの俺の罪になる。ええ、この惡黨め。呪はれたこのへちゃむくれ奴。――それでいいと思ふか、ああん。何たる貴樣は穀潰しだ。明日はちゃんと通れるやうにして置け。明日引き返して來て、萬一まだ直ってゐなかつたら、 しやつ面ひん吳れるぞ。ちんばにして吳れるぞ。出て行け!」
 土百姓は眼をばちくりさせて、 汗だくになった。益ヽ歪んだ顏附をして、扉から消え失せた。評議員は卓子に歸って來ると、 坐るなりにやにや笑ってかう言った。――
 「左様、そりや勿論ペテルブルグやモスクヴァの後ぢや、 ここの女はお氣には召しますまい。だが、じっくりと捜して見れば、ここにだって娘はをりますで……」
 土百姓が明日までに間に合つたかどうか知りたいものだ。この短い間に一體何が出來るだらうか。シべリヤ街道にとって幸か不幸かは知らないが、評議員は長くその椅子にとどまらない。その交送は頻繁である。こんな話も聞いた。――ある新任の評議員が持場に着くや占や、百姓を驅り出して道の兩側に溝を掘らせた。その後を襲つた男がまた、前任者の奇行に負けまいと、百姓を驅り出して溝を埋めさせた。三人目は持場の道路に、.厚さ一尺餘の粘土を敷かせた。それから四人目、五人目、六人目、七人目も思ひ思ひに、せつせと蜜を蜂巢へ運んだ。……
 一年中を通じて道路は通行に適しない。春は泥海で、春は小山と穴と修理で、冬は陷し穴で。嘗てヴィーケリや、後れてはゴンチャローフの息の根をとめたと言はれる疾走は、今日では冬、雪の初路ででもなければ想像し得ぬところだ。現代の作家も、シベリヤを术ばす壯快さを書いてにゐる。だがこれは、苟もシベリヤに來て、よし空想でなりと疾走の壯快を味はないでは、 引つ込みがつかぬからである。……
 コズーリカが軸棒や車輪を毀さなくなる日を待つのは、空頼みも甚たしい。シベリヤの役人たちがその生涯に、道路が改善されるのを見たことがあらうか。この儘の方がお氣に召すらしい。ド平帳も通信記事も、シべリヤ族行者の批評も、修理に計上される金額と同様、道路には殆ど利目がない。……
 コズーリスカヤ驛に着いたときは、 もう日が高かった。道伴れには先へ行つて貰つて、 私は馬車の修繕に殘つた。

【注】
カズベック コ—カサスの高峯。氷のピラミッドをなし、高さ一萬六千五百呎。
エリブル—ス コーカサス主山脈め最高峯。東西の兩峯があって、ともに一萬八千呎を超える。
埃及の災 エホバが、十の災(血に化する水・蛙・蚤 蚋、獣疫、腫物、雷雹、蝗、暗黑、長子の死)をエジプトに降した說話。『出埃及記』第七章――第十二章。
ヴィーゲリ 『囘想錄』の著がある。(一七八七―一八五六)
ゴンチャローフ 『オブローモフ』の作者(一ハ一ニ―九一)が提督ブーチャチンの祕書として、海路遙々日本を訪問したのは一八五三年(嘉永六年)である。その翌年彼はシベリヤを橫斷して歸つた。

テキストの快楽(011)その3

◎シュテイフター作 小島貞介訳「湖畔の処女・水晶」


[編者注記]
 シュテイフター(1805-1868)(Wikipedia)は、オーストリアの作家。
 小島貞介(1907-1946)(Wikipedia)は、戦前のドイツ文学者。敗戦後シベリア抑留中に栄養失調により38歳で死去した。彼も戦争犠牲者の一人と言えよう。

シュテイフテル(Adalbert Stifter, 1805-1868年)著,小島貞介(1907-1946年)譯「湖畔の處女・水晶」。
底本:ロマンチック叢書7「湖畔の處女・水晶」,青磁社, 昭和二十三年一月二十一日印刷,昭和二十三年一月二十五日發行,昭和二十四年七月三十日再版發行。
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湖畔の處女・水晶

シュテイフテル 原著

小島貞介 譯

目次

* 湖畔の處女
* 一 森の城
* 二 森の移動
* 三 森の家
* 四 森の湖
* 五 森の草地
* 六 森の巖
* 七 森の廢墟
* 水晶
* あとがき
湖畔の處女・水晶:湖畔の處女・一 森の城

小國オーストリアの北境三十哩にも渡つて森林がその薄色の帶を西へと曵いてゐる。 それはタイア川の水源地に起つてボヘミアの國土がオーストリアとバヴァリアに境を接するあの境界結節點にまで及ぶ。 昔この地點に、礦物結晶結成の際の針状體樣に、巨大な尾根又尾根の一群が衝突して屈強な山巓を盛り上げた。 この山嶺は三つの國土から遙かの彼方にその水色の森をのぞかせ、波打つ丘陵地と水量豐かな溪流とを四方に送り出す。 巓はこの種の山形によく見る樣に山脈の走路を阻み、かうして山脈はここから北に折れて數日の行程に渡つて連つてゐる。

廢絶した入江にも似たこの森林彎曲の地點こそここに語らうとする物語の舞臺である。 親愛なる讀者を直接事件の人物に招ずる前に、 先づ彼等が生活し活躍した右の幽麗な森林彎曲地帶中の二つの地點を手短かに紹介してみることにする。 神々の惠みを得て彼の地をさまようたその日以來私の胸に宿るあの物狂ほしくも麗しい溪谷の風景をばせめて千が一だけ描き得ればと思ふのみえある。 私逹は逍遙の途次天がすべての人に必ず一度は而も多くは一つの相として贈る彼の二重の夢、 青春の夢と初戀の夢とを、かの地に於いて夢みた。 それは一日ひとひ幾千の心の中より一の心を選み出でて未來永劫に私逹の所有ものとし又唯一のもの最も麗しいものとして魂の底深く刻むものであり、 更にその心が逍遙さまようた山野を眼前に髣髴として永遠に消ゆる事のない花園とそてふかくも又あたたかい不可思議の想像の扉へと投げかけるものである。

今はなきローゼンベルグ一族の灰色の廢墟クルマウの古都と古城から路を西にとる旅人は蕭條たる丘陵の合間彼方此方に一片空色の山影の覗くのを見るであらう。 それは奧地に連なる山脈の會釋とその記しだ。 やがてとある屋根を越えると遂に午前を通じて見た數々の丘はもう姿を見せず、 膨大な青色の山壁が南から北へと獨りわびしく走つてゐる。壁は巾廣な帶をなし、一色に夕空を埀直に區切つて、 谷間を抱き込んでゐる。谷間からはクルマウの邊りに見捨てたモルダウの流れが再びきらきらと光る。 流れは只クルマウに於けるよりも若くその水源に近い。 廣く、豐饒なこの谷には部落が點散してその中に小邑オーベルプランがある。 この山壁は將に北向せんとする先の森林であつて恰好の目標をなしてゐる。 然し目ざす本來の地點はこの山壁の略々八合目にあたるとある湖なのである。

モルダウの谷間から登ると先づ蝦夷松銀松の單調な密林が幾時間となく續いてゐる。 軈て湖尻の溪流に沿ひ傾斜面をなして打開けた野に變る。 此處は荒れ放題の裂け崩れた地層で、專ら暗黒色の土壤、幾千年を閲した植物の黒い死の床である。 花崗岩の岩塊がその上に一面散在してゐる。それが雨に曝され洗はれ浸蝕されて、 恰も蒼白い髑髏の樣に土壤と著しい對照をなして居り、 此處彼處には又崩壞した樹木の殘骸や打ち寄せられた丸太等が累々と横はつてゐる。 溪流を褐色の含鐡水が流下する。水は然し透明で水底の白砂が一面に淡紅色に光る砂金の樣に陽光を浴びて輝いてゐる。 人跡全く未踏、破られたことのない沈默。

一時間の逍遙の後蝦夷松の幼樹林に逹する。そしてその黒天鵝絨の土壤を立出でて更にも色濃い湖面の邊りにと立つ。

幾度か胸躍らして物語の世界にも似たこの沼のほとりへと登つて行つたのであるが、 その度に深い寂寞の情に抑ゆべくもなく心打たれた。 布を打ち擴げたそのままに皺一つないうみは峻險な岩石の合間を穩やかに湛へてゐる。 鬱々と繁つた嚴かな蝦夷松の森林帶がこれを取圍み、 年古びた離れ木の一つ一つが古代建築の圓柱の樣に所々に枝なしの幹をさしのべてゐる。 森林帶の對岸には岩石の臺地が灰色の壁にも似て埀直に頭を擡げてゐる。岩は嚴肅な色彩を四方に擴げてゐる。 下から見た巖の上の松は遙かに高く迷迭香の草の根ほどに小さい。 土の不足から往々松は倒壞して湖面へ落下する。湖上を見渡すと慘澹たる混亂をなして古色蒼然とした樹幹が對岸一帶に折重つてゐる。 それ等がどんよりと黒い水面を區切る樣は、例へばうら悲しいほのじろく光つた逆茂木である。 岩壁の右手はブロッケンシュタインと呼ぶ屈強な花崗岩の破風を盛り上げ、 左側は緩傾斜をなす一帶の屋根へと轉じ、丈の高い樅の林や肌理の細かな苔の織りなす緑布に被はれてゐる。

摺鉢のこの沼には文字通り風一つない。水は湛へたまま動かない。 沼は言はば巨大な暗黒の鏡、その深い奧底から森と灰色の岩と大空とが覗いてゐる。 沼の上には面積の小さい青空が深刻單調なその青を湛へてゐる。 人は幾日となく此處に彳みその思ひをひそめることが出來る。 胸底深く沈んだ物思ひを妨ぐる物音とては僅かに樅の實の落つる微かな響き、短くくぎつた禿鷹の絶叫のみ。

此の湖畔に立ち屡々同じ思ひに襲はれた。沼は不氣味な自然の眼だ。 こちらをぢつと見詰めてゐる。眞黒な眼。岩石の額と岩石の眉の奧から、 暗く繁つた樅の睫毛に隈どられて。そしてその中には身じろぎもしない水が、化石した涙のしづくの樣に。

沼の周圍、殊にバヴァリアに向つては密生林が延びてゐる。 寂たる處女峽谷が溪流をその懷に抱いて巾廣な尾根又尾根の間を走り、 所々に聳り立つ岩壁には幾千とも知れぬ發光體が日を浴びて輝いてゐる。 遠近の森の草地は陽光の下に身を繰り擴げて、雜多な野獸の燦爛たる集會堂をなしてゐる。

これが前に言つた二點の一つである。ここで第二の地點へと移る。同じ水ではあるがこれは優美な水流。 上述の山壁の一高地から見渡した時、眼下に展開した彼のモルダウの光帶がそれである。 尤もここから東に向つて更に略々十時間の行程を行かねばならぬ。 青色の靄にぼかされた山壁の森の繁みを縫うて光帶は森よりも更に強く光りながら曲りくねる谷間に沿うて遙かの彼方までその姿を見せてゐる。

はじめは一筋の光の絲、それがゆらめくリボンとなり、 遂にはほの暗い森の峽にまつはる巾廣い銀の帶。 それから突然――四圍のうら悲しい森の暗の中に優しい月の樣なぽつかりと開いた明るい盆地へと流れは迸り出るのであるが、 軈て又樅と銀松の漆黒の根を潤ほしてゐる。 盆地に入ると氣持のいい野と緑の草地とにさしかかる。 草地には天鵝絨の褥に眠るが樣にその名も麗しいフリードベルグの町がある。 ここからしばらく續いた後で流れは再び物蔭にかくれる。 はじめはイェズイーテンの森蔭、次はキーンベルグの森、 更に最後には魔壁のはざまにと呑み込まれて了ふ。

右に述べたと凡そ同じ範圍にこの森のの走路を一望にうちに收め得る地點はとある崩れ落ちた騎士の居城である。 城は盆地から見れば青い空色にかすんだ骰子の樣に山壁の輪廓に浮出てゐる。 フリードベルグの窓々はこの廢墟を西南に見る。町人等はこれをトーマの峯トーマの塔又は簡單に聖トーマなどと呼びならはしてゐる。 城は太古の騎士の居城でその昔住んだ騎士の殘忍故今魔法にかけられて暴風雨と日光に曝されながらも幾千年に亙つて崩れ落ちることが出來ないのだと言ひ傳へてゐる。

過ぎし日幾度この古びた城壁に腰を下ろしたことであらう。 興に乘つてはものの本の讀み耽り、ひたむきに目覺めんとする青春の甘いときめきに耳傾け、 崩れ落ちた窓越しに青空を見やり、さては傍の繁みを走る金色の小動物に見とれ、 或は又これ等すべてを止めてなすこともなく只靜かに默々と壁と石とに降り注ぐ陽光を身に感じつつ、 憂愁にみちたこの場所に住んだ最後の人々の運命を未だ知るに至らなかつた頃も、 好んでそして又幾度か私はこの地を彷徨うた。

物聞かん術もない外壁に圍まれて灰色の四角な塔が緑なす草地に立つて居る。 中庭には綾なす森の千草が咲亂れその間にましろな石の數々をちりばめてゐる。 塔の周は芝草であり、彼方此方に平たいもの、塊、細長いもの、 その他不思議な形をした樣々な花崗岩が散在してゐる。 大小の室一つとしてもう人の住み得るものはない。 漆喰と上塗の跡形もない壁のみひとり澄み渡つた大空に聳え立つてゐる。 そしてその高所には所々におとなふ人もない扉ともう上り得べくもないバルコン。 バルコンの側に並ぶ窓々はもう夕陽に照り映ゆることもなく、 はびこるに任せた美しい雜草がその飾窓に繁つてゐる。 凹壁に武噐はなく只斜に射す陽が幾百の金矢を織りなすばかり。 ありし日飾り床に燦然と輝いた寳石のよすがともなるものは今や巣ごもれる駒鳥の黒い問ひたげな瞳のみ。 壁の果つるところに屋根を支へる梁は見えず、只濃青の空を區切つて蝦夷松の幼樹がその緑色の生活を始めようともがいてゐる。 地下室、廊下、居間、すべては塵芥の山。黒い眼の草花がこれを追うて咲き榮えてゐる。 塵埃の山のあるものは屋内から三階の窓にも逹してゐる。 ここに登る者の眼前に展がる光景。それは四圍の悲しみの記念物の數々とは凡そ逆な感じではあるが、 これこそ芽生えんとする印象に完成の一線を引くものであることを忽然として感ずるのである。 見よ!ほの暗い樅の梢を遙かに越えた彼方に無限の展望が四方にひろがつて汝の眼に流れ込み忽ちその光にまなこ眩むではないか。 呆然として自失せる汝の瞳はゆらめく陽光の霧のさなかにただよひ、 緑なす山嶺の彼方をさまよふのであるが、やがて峯々の背後なる一線青色のうすぎぬへと及ぶ。 それはドナウの彼岸五穀のみのる傾斜地と果樹林とをのせた惠み多い國土である。 最後に視線は眼界を區切る彼の厖大なる半月形、ノーリック・アルプスの山々に逹する。 晴れた日には大ブリールが青空にかかつた白い綿雲の樣に光つてゐる。 トラウンシュタインは結晶した蒼穹のさなかに蒼白い雲の輪廓を描き出してゐる。 アルプス全連山の遠峯は透明な魔女のしごきの樣に天をひき包んでゐるが、 その端はたをやかな殆ど目に見えない光の綾絹となつて消え去つてゐる。 その弱光のあいまに微動する白い點又點、恐らく更に遠い山脈のいただく雪であらう。

瞳をめぐらして北を見よ。ここには巾廣な山壁が安らかに身を横たへてゐて、 麗はしい濃青へと色あせつつモルダウの流を遡るにつれ次第に低くなつてゐる。 西には森又森の快い青はあり、遙かに遠いその間からをちこちに纖美な青い煙の柱が晴れた空に向つて昇つてゐる。 この風景に言ひ知れぬ愛と憂愁が住んでゐる。

旅人よ。さてこの風景に見飽いたならば共に二百年の昔に歸ることにしよう。 廢墟に咲き誇る青い釣鐘草と雛菊と蒲公英と幾千のその他の雜草を頭から拭ひ去らう。 その跡には外壁のほとりまで續く白砂を、入口には屈強な山毛欅の門、塔には暴風にも毅然とした屋根を、 壁には輝く窓を置かう。部屋々々を分けて、あらゆる美しい家具と住み心地のよい裝飾で飾らう。 そこですべてがありし日のままに、金工の鑄物場を出て來たばかりの姿になつたなら、 さあ共に中央の階段を二階へ昇らう。扉がさつと開く――はて、愛くるしいこの二人は。

これはヰッティングハウゼン家のハインリッヒの娘逹で、 私逹が今居る所もハインリッヒの居城なのだ。今はやはり廢墟となつてヰるが近くに聖トーマと言ふ小寺院が建立され、 その名前がこの城に移つたもので、以然は城もヰッティングハウゼンと言はれてヰた。

妹娘の方は窓邊に坐つて縫取りをしてゐる。未だ朝早くなのにもうすつかり氣付けを濟ましてゐる。 三十年戰役時代の繪畫に今でもよく見られる樣な非常に繪畫的な樣式の淡青の着物。 すべてがしつくりしてゐる。きりきりしやんとした袖口に胴衣、引裾の皺一つにも心が配られ、 どの蝶結びもきちんとしてゐるし、どのふくらみも立派である。 着付けの全體構築の上に破風格で小さな綺麗な頭が浮いてゐる。 どこまでも金髮で古風な衣裳の中から殆ど不思議な若さに輝いてゐる。 見るとすぐ分る樣に彼女はこの着物を着ることが大變嬉しくてそれで着てゐるのである。 暗褐の殆ど黒めがちの眼が、ふと物に驚いて或は物問ひたげな風情で見上げる樣な場合に、 ブロンドの捲毛と竒妙な對照になる。然しそんな時まんまるい目があどけなく枠に收まつてゐるので、 悲しみと情熱に觸れたことのない若い魂が世の中が餘りにも廣くてすばらしいと言ふので、 その小窓から無邪氣におづおづと覗いてゐるのが、見る者の眼にも分る樣に思はれるのである。 髮の樣子から見れば十八の上、目から察すれば十四以下多分その中程であらう。

姉娘は未だ着付が濟んでゐない。白い寢衣のまま安樂椅子樣のものに腰掛けてゐる。 椅子の上に澤山の紙や羊皮紙の卷物をぶちまけてその中を何やら搜してゐる。 漆黒豐富な毛髮は無慘にもほどけ落ちて、ひだに富む寢衣の雪の白さを落下する飛瀑の樣に斷ち切つてゐる。 麗しくも才長けたその顏。只思ひなしに蒼白さはあるが却つてそのため兩の眼が毛髮の色と映えて一入黒く輝いてゐる。 黒ダイアの瞳、妹の褐色のよりももつと大きい位。部屋は娘逹の居間兼寢室であらう。 奧には樫の木造りの寢臺が二臺据ゑられてゐる。それぞれに絹の天蓋があり、花咲くばかりの緞帳が埀れてゐる。 今使用されたものか腰掛と足臺は位置が亂れて白い寢衣の類がしどけなくその上にたれかかつてゐる。 祈祷臺は祈る姿がお互に見えない樣にそれぞれ別な窓下においてある。 何故なら信仰は戀と同じ樣に人をぢするものなのだから。 化粧臺には狹い長い鏡がありその他はみごとな寳石類が並んでゐるだけである。 未だ朝非常に早いことは屋外に長々と引いた物蔭や露に濡れた樅の木が銀色に光つてゐるのでも分る。 空は快晴。アルプスの連峯が枠にはめられた樣に二つの窓の中に見えてゐる。 そして光り輝く大空がその上に擴がつてゐる。

窓邊のは縫取りに餘念がない。ほんの時折眼をあげて姉の方を見やる。 姉は急に搜しものを止めて豎琴を取上げる。そしてもう先刻から切れ切れなしのび音が夢みる樣にこぼれて來る。 音は何の連絡もない。例へば水底に沈んだメロディーの點々と現はれた島。

突然妹は口を開いた。「ね、クラリッサ。隱さうとしてもその歌よく知つてますわ。 又歌ひたくなつたのね。」

話しかけられても答へもせず姉は二句程口づさむ。

「見たるは白き骸骨と
かたへには金の冠も。」

そこまで歌つて止めたが琴を持つたまま絃の間から姉は妹の無邪氣な顏をぢつと見た。

妹は優しいまるい眼でこれに答へてそれから殆どおづおづと言ひ出した。

「何故だか私その歌氣味が惡いのよ。不吉な豫感がして。意味がとても恐いんですもの。 それにお姉樣がこの歌ばかり歌つてらつしやるのをお父樣もお好きでいらつしやらないことは御存じでせう。」

「だけどね、この歌つくつた人とても優しい親切な方なのよ」と姉は言葉をさへぎつた。

「ではその方は同じ樣にもつと優しい、もつと氣持のいい歌をつくることが出來た筈だわ。 歌と言ふものは優しくてあどけないものでなければいけないわ。 みんなが好きになつてこの歌のように恐がられない樣に」と妹。 クラリッサは妹の言ふことを聞きながら殆ど母親がする樣に優しい愛をこめて妹を見てゐたがやがて言ふのだつた。

「本當に優しい深切なひとね、あなたは何て純なのでせう。でもあの恐怖、あの戰慄こそ、 私逹の深い深い良心なのよ。遂には二倍もの親切に變るものよ。」

「いいえ、いいえ」と、一人は答へた。「私はもう始めからすぐ優しいわ。 歌は氣持よくつて朗かでなければいけないと思ふの。今日の日の樣に、 見渡す限り雲一つなく、どこもここも青々々、まじりのない氣持のいい青、 御姉樣の歌はいつも霧や雲それとも月の光の樣ですわ。 月の光も綺麗には違ひないけれど、みんなが恐がるのよ。」

「限りもなく美しい浮雲、流れ雲!!」とクラリッサは答へた。 「荒れ果てた大空に咲き誇る姿、山にかかつて輝く樣、夢みる態、光る宮殿になりむくむくと一杯に陽を受けてゐる風情、 疲れて睡たげな子供の樣に夕暮に燃立つその赤さ。ね、ヨハナ、あなたの天國は何て純なのでせう。 深くて美しくてひんやりしてて。でもその天には今に靄がかかるのよ。 人はそれに呪はしい情熱と言ふ名をつけます。あなたは靄を大變樂しいものだと思ふでせう。 青空の中に搖れ動いてゐる天使だと呼ぶでせう。所がこの靄からやがて燃ゆる電閃と暑い雨とが來ます。 その雨はあなたの涙よ。所がもつとこの涙の中から美しく光つたあの虹の門、人の手の及び難い約定の門が生れるのよ。 すると月明りも純に思はれあの歌が優しい歌になつて來るわ。 世の中はね、大變廣くつて同じ喜びの中にも烈しい喜びがあつて、 そのために胸が裂けるのよ。又同じ惱みにもまごころこめた惱みがあるものよ。 それはしんみりとした。」

ヨハナはつと立上つて姉の許へつかつかと歩みより、言ひしれぬ優しさをこめてくちづけた。 そしてその首に兩腕を投げかけて言つた。

「お姉樣はいつもさうよ、判つてゐますわ。お姉樣は胸をいためていらつしやるのね。 でも忘れないで頂戴。お父樣があなたを愛していらつしやるのよ。 御兄樣も私もそれから人は誰だつてきつと。御姉樣は他のどの方よりも御優しいんですもの。 本當はそんな口きくものではないわ。それよりか歌ひませうよ。何でも、あの王樣の歌だつて構はないわ。 ちやんと知つてるのよ、お姉樣つてば今朝起きた時からあの歌のことが氣になつてゐたんですもの。」

クラリッサは子供らしい唇に心から二度接吻を返した。 その唇の今盛り上らうとする無心な美しさを姉は戀人の樣になつかしんだ。 やがてほほゑんで言つた。「心配しなくとも大丈夫よ。ほんとに。 あなたの美しい花模樣の刺繍をうんと手傳つてあげるわね。お父樣が御喜びになるわ。」 ヨハナと向合ひにクラリッサは刺繍枠に坐つた。ヨハナは草花を刺してゐたが姉は甘んじて背景その他を刺した。 二人はそれから色々世話話をしたがやがて默りこんえ了つた。 それから又話し出した。會話の奧にはいつも心から愛し合つてゐる二人の姉妹の思ひやりがこもつてゐた。 尤もそこには姉娘が妹をやさしくいたはる風情が見えた。 小さい方は何か心にかかることがありげに思はれた。 先刻から何度も言ひかけては口ごもつた。然しやがて思切つてある大膽な密獵者の話を話し出した。 ヨハナの聞いた所によると此の男は西方の森を選んで住んでゐる。 ヨハナの時代にはこの森は今日に比べれば遙かに深いものであつたのである。 密獵者の身邊には世にも不思議な噂が立つてゐた。魔彈でなければどんなに射つてもこの男は死なないし、 又夜になると現身のこの世には全く居もしない樣な魔者逹と色々語り合ふのだと言ふ。 この話はヨハナが現に昨日聞いたばかりなのだ。

クラリッサはそれに反對して、そんなことは迷信が尾に鰭をつけたのだ、 世間の人と言ふものは本當に恐い話を喜びたがるものだから、 そんな男などはじめから、居ないのかも知れないと言つた。

「いいえ、居ると思ふわ」とヨハナは熱心に口をはさんだ。

「それにしてもその人は世間で思つてゐる樣な人ではきつとないわ」とクラリッサが答へた。

「ええ、きつともつともつと惡者だわ。ショピッツェンベルグの可哀想な粉屋のこと知つてるでせう。 その男に射ち殺されたのよ。」

「まあ!はつきり分つて居ないことをそんな風に言ひ觸らすものではないわ。 あの粉屋はスヱーデン軍の間諜に使はれたのよ。だから殺されたんだわ。」

「さう。みんながさう思つてゐるのよ。然し誰も證據を見せることは出來ないわ。 ――あのね、これはお姉樣だけに申し上げるわ―― 騎士のところからお父樣に手紙を屆けて來た獵童が下人部屋でその男の噂してたのを昨晩きいて了つたのよ。 その男は脊高のつぽで、樹木の樣にがつしりして、剛髯をはやし、長い獵銃を肩にして幾日も幾日も林を縱横に歩くのよ。 こちらの平地に住んでゐる人々の中でその男を見たものは殆どないのだけれども、 獵童はお姉樣とわたし程間近から見たのですつて、そして確かにその男が人殺しをしたのです。 粉屋の死骸はパルクフリーデルの森のあの岐れ路のマリア樣の傍にあつたのよ。 身體中傷は一つもなくて只顳[需|頁;#1-94-06]を打ち貫いた小さな彈丸の跡だけですつて。 そしてこんな小さな彈丸を使ふのはあの密獵者だけなの。 それからも少し言つたことがあるんだけど、それは餘り罸當りなことだから本當ではないと思ふわ。」

「なあに。」

「此の密獵者はね、鐵砲を只ズドンと射ちさへすれば誰でも思ひ通りの人に必ずあたるのですつて。」

「まあ、あなたはそんなお話ばかり聞きたがるのね」とクラリッサは大變眞面目に言つた。

「恐しい根も葉もない嘘ばかりだわ。若し私逹がこれから先神樣の攝理に御頼りしなければならないのなら、 それが神樣の御思召なら、神樣がそんな意地惡な竒蹟をお許しになる筈はないぢやないの。 神樣には宇宙のこと何でもお出來になるのですし、 それに神樣にお頼りするのは私逹の務めであり喜びなのですもの。」

「私だつてそのまま信じはしなかつたのよ」とヨハナもしみじみと言ふ。 「ですけれどそこで話を聞いてて、腰元逹がまるで顏色を失つてゐるのを見ると、 私もぞつとしましたわ。そして行つて了はうと思ひながらも、 つい又言葉に引きよせられて了つたのです。彼の人は何もかも全く目の前に見える樣に話すのですもの。 向ふの山奧にある森のこともすつかり。向ふでは森がどこまでも涯なく擴がつてゐてそれに比べると私逹の森なんかまるでお庭なのよ。 綺麗な暗い魔の湖が眞中にあるんですつて。岸には不思議な岩や不思議な樹木が立つてゐて、 開闢以來曾て斧の響いたことのない深い林が湖を取りかこんでゐるんだわ。 湖に出る程奧までは未だ行つたことがないけれどもその中にそれを決行しようと獵童は言つてゐるわ。 行くとなれば銀の魔彈を携へて行つて例の密漁の人殺しをお目に掛り次第やつつけるんですつて。 相手は鉛彈ムジには不死身なのよ。」

「では何故一體もつと早くやつて了はなかつたのかしら、 あなたが言ふ通りこれまでに何度も逢つたのでしたら」とクラリッサは言つた。

「それ御覽。あなたは無邪氣なお馬鹿さんよ。そしてその若者は法螺吹きの曲者だわ。 あなた逹を恐がらしてそれで偉者振らうとしたのよ。私だつたら話なんか聞きやしないわ。 例の人だつてきつと何の罪もない山番よ。それともそんな人全然居ないのかも知れない。 あの森に分入つた人々はみんな若々しい草花や雜草やすばらしい樹木の繁茂した美しい原生林、 無數の名も知らぬ鳥や獸の棲家を見たばかりで少しも怪しいことには出逢はなかつたのだから。」

「でもグレッケルベルグの河では最近豬の頭蓋が流れて來てそれに小さな彈丸が着いてゐたのよ。」

「さあもう止しませう」とクラリッサは微笑みながら言つた。 「森とか湖とか骨とか獵人とかあんまり多すぎてこの薔薇の角の所がみつともなくなつたぢやないの。」

丁度盜賊や魔法に關する想像が最も逞しく羽を延ばす年頃になつてゐるヨハナはなかなか止めようとはしなかつたが、 クラリッサはもうその口には乘らなかつた。そこでヨハナがけなされた薔薇を辯護したことから話は刺繍のことに移つた。 それからヨハナ一流の意表外な飛躍を遂げながら話は續いた。舞踏の話と思へば死のこと、 戰さの準備の話かと思へばラ・ンデルの花が、ジャムが、彗星が話題になつた。 心臟から脈搏が跳び出す樣に輕妙な思付の群がぴよんぴよんと躍つて、 次々に乙女の唇から流れ出る。そのつぶらな眼は大きく見開いて私逹を優しく見てゐる。 賢者逹のあらゆる善知にもまして私逹は思はず心を惹かれる。 神の純粹な作品、人の心と言ふものはあらゆるものに勝つて貴いものである。周圍の惡に染まず、 惡の世界に就いては夢にも知らぬ心が極端な努力でかち得た修養に比してどれ位神聖なものであるかは言葉では言はれない。 何故なら修養の人の面には常に以前の荒廢の陰翳がまつはつてゐて、 その痛ましい印象は消えるものではない。胸中の惡を抑へんと勉むる力がむしろその人の惡への慾望の逞しさの證となる時、 私逹は殆ど畏怖の念すら抱くのである。この人を驚歎はするのであるが、 心の自然の愛と言ふものは胸に何の惡も棲んでゐない人々に向つてのみ迸り出る。 さればこそ二千年の昔彼の一者なる人の言葉に、「この小さきものの一人を躓かするものは禍なる哉」とある。 私逹がかうして二つの美しい顏貌を見、一つ一つが瞳の銀光の輪に篏めこまれて、 透明なダイヤモンドの樣なその言葉の數々を聞いてゐると、 質素なこの室が日常の家具が並んでゐるにも拘らず神聖な清らかな例へば寺院の樣にも思はれるのである。

太陽はもう森の上に昇つてゐた。午前の日射しが輝き渡り靜まり返つた梢の上にきらきらと光つてゐた。 一筋の明るい陽光がやはらかに刺繍の上に注ぎはじめた。すると――戸の外で行儀よく物靜かに入室を求むるノックの音が聞えた。 つとヨハナが立つて未だかけたままになつてゐた閂を急いで外した。 直ぐ優しく會釋しながら一人の男が這入つて來た。 娘逹の父はその朝の室にこの樣につつましくこの樣に慇懃にまるで餘處から來た人の樣に入つて來たのである。 當時彼はもう非常な年配であつたが實に立派な老翁であつた。 ヴァンダイクの書額から拔け出た樣なその姿――黒天鵝絨の衣服をまとひ丈高く堂々たる風貌、 頭髮は純白、輝く銀髯は廣くみごとな老人の胸の上に波打つ如く埀れ下つてゐた―― 眼は巖の樣な皺のある額の下に強い輪廓をなし物言ふ如く。 その姿はまるであの豫言者逹の時代のものとも思はれ、 ありし日の逞しくも雄々しい力と人柄の偉さのしのばれる姿、 騷しい雷雨の後に鳴りをしづめた晩夏の風景にも似て今は只思遣りの柔和な夕陽に照らし出された姿、 秋の實り田の上に顏を出す疲れた滿月の樣に、靜かな柔かな深い思ひやり。 彼はその頃未だ僅かながら見受けられたうらぶれた騎士道の面影を殘してゐた。 他の花はみなとうに穀物倉に刈り集められた時、 刈跡の秋の野の咲く百合のひともとにも比べられる凡そ四圍にそぐはない存在であつた。

二人の子供は父の意を讀まうとする樣にその眼を見つめる。 父は刺繍を續ける樣にと言ふ。それが續けられると父は脇目もふらずしんみりした愛のこもつた眼で二人を見てゐる。 彼は刺繍を調べる。それを讚める。あれこれと尋ねる。そして子供逹の間にはいつも適切な答を言ふ。 答は油の樣に子供逹の心へ流れこむ。

乙女逹の母は十年も前に他界してゐたので、年老いた父が母なしの娘逹の間にゐるのを見ると一入心を動かされた。 乙女逹に惠まれなかつた愛を女親の分までも取り返さうと氣を遣つてゐる男親の態度に一種言ひしれぬ優しさがあつた。 末娘には特に愛が足りないかの樣に父は妹娘に心をつかつた。

娘逹のささやかな家政に何か要るものはなかつたか、刺繍の絲がなくなりかけてゐはしないか、 着物や布地はきちんと綺麗にしてゐるかどうか、下婢や腰元逹に何か落度はなかつたか、 その他何かないものや慾しいものはないかなどと訊ねて、 どの問にも「いいえ」とか「まあ、おやさしいお父樣」とか言ふ答ばかりであつた時、 父はにこにこして、でもわしはアウグスブルグの町から綺麗な珍しいものを持つて來る樣に注文してやつて置いたよ、 來たらお前逹自分で自由に選りとるがよい、一週間の中にはきつと來るに違ひないと思ふ、 そしてこれでわしは名譽と喜びとが得られると言ふものだよ、 それ迄に精々慾しいものやおねだりするものや、何が要るかしら、若しやあつたらあれを取らう、 あれは取るまいなどよく考へておきなさいと言つた。 それから何か苦しいこと望ましくないことが心にかかつてゐてそれを口に出すのを少しでも延ばさうとしてゐる樣に娘逹の色んな小さなことにまで口を出して熱心に話した。 ヨハナの鷄のこと、小鹿と野鶲のびたきのこと、それから窓の草花―― クラリッサの琴と寫生帳、手紙や遠く離れてゐるお友逹の消息など。 最後に金髮の子に向つて父は、もう夕べの御祷りを眠つて了ふ樣なことはないだらうな、 ほんの二三年前迄はお前はバルコンや庭の芝草の上にすつかり寢こんで了つてゐるので、 それを連れ上げて消え殘つた夕陽の光を浴びながらやつとこさで着物を脱がしたものだがと聞くのであつた。 それから更に二人に向つて、 お前逹は御祷りの時にはいつでも亡くなつたお母樣のことを思ひ出すだらうなと感動をこめて尋ねた時に、 二人にも父親が何か心に懸ることがあつてそれを打ち明けるのを恐れてゐると言ふことがよく分つた。 多くの剛毅な人々がよくさうである樣に、 彼は娘逹に對して父としての心遣ひと同時に又戀人の持つ樣な不安にも似たものを持つてゐた。 この點こそこの強壯な老人に見られる最も美しい長所の一つであつた。 ところが娘逹の方も父に對する畏敬と尊敬は限りなく一層深いものであつたので、 二人とも父の樣子をぢつと見ながら不安で一杯であつた。然し誰も口を切るものはんかつた。 愛は例へば徳の樣にあらゆる形態に於いて小心である、そして畏怖は恐怖自らよりも更に臆病である。 娘逹が父を理解してゐた樣に父にも娘逹の心がよく分るのである。

たたみ目が崩れないやうに注意して綺麗に疉んだ白リンネルを取除けて安樂椅子を窓近く刺繍枠の傍へ押しやつて、 父はその上に娘逹と向合ひに腰をかけた。相變らず上べは居心地がいいからさうした樣に。 娘逹の前をつくらはうとすてゐるのが、實はむしろ平氣らしい素振りで自分自らを、慰めてゐるのであつた。

「お前方はもう聞いて知つてゐることと思ふが、實は昨日自分で歸つて來たのではないが、 騎士が狩獵の旅先から手紙をつけて使ひを寄越してな」と彼は切り出した。 「みんな非常に面白かつたらしい、獲物がしこたまとれた模樣だ。それに向ふの森はさながら庭園で、 美しくて、靜かで、すつかり人里離れて人手が及んでゐない樣は、いくら讚めても讚め足りぬ位ぢやさうな。 もう今では四週間以上も騎士は向ふで狩獵の樂しみに憂身をやつしてゐるわけだ。 一行のものが森に別れを告げるのが如何にも辛いさまは手紙を讀んだだけでもほろりとさせられるよ。 『外の世界からは何の氣配も豫感も這入つて來ないのです。 そして莊嚴な靜寂が數日の行程に亙つて同じ姿でいつまでも續いていつもその優しい姿を小枝や木の葉がくれに見せて居て、 最もかよわい小草でさへのびのびと生ひ茂つてゐるのを知つては人間の世界にここ數年間と言ふもの戰爭と破壞の騷音が荒れ狂うてゐるやうなどは殆ど信ぜられない程です。 外界では最も高價な最も精巧な存在物である人命があわただしくわけもなく破壞されてゐるのに、 この森では最も微小な草花が正反對の辛勞と細心とをかけて育てはぐくまれてゐます」と騎士は言つてゐる。 ね、お前逹。あの人逹は素晴らしい岩山を見つけたんだよ。 森から高く首を擡げてゐてそこに登るとここの城が見えると言ふのだよ。 こちらからも赤い隅の部屋から見ればそれが見えるに違ひないと言つて來てゐる。 今日にもあの部屋に望遠鏡を仕立てて、その岩はブロッケンシュタインと言ふのだが、 岩臺が發見出來るか見てみようではないか。 それとも冬前に一そのこと皆であの美しい原始林へ遠足に出かけたらもつと面白いかも知れないな。」

ぎよつとして父親を見上げたヨハナの瞳が光つてゐた。父の眼はこれに答へてにこやかにその意を問ひ返した。 立上つて室内をあちこち落着きを失つた樣に歩き廻つた。ヨハナはうれはしげに父の素振りを見守つてゐた。 やがて父はヨハナの前に進み出て眞劍に心をこめて言つた。 「愛くるしい臆病ものの小鹿さん。――どうも止むを得ない、みんなであの森林地へ行かねばならんかも知れん。 ――まあ、お聞き――この夏中いろいろと心を碎いたことに就いてどうしてもお前逹に話さねばならなくなつた。 此の手紙はローゼンベルグからのものだ。これはゴルデンクロークから、こちらはプラーグ、 次はマイセン、最後の一つはバヴァリアからだ。 今日まで私はお前逹は知り度くもないことで心を傷める樣なことがない樣に戰場方面の情報はいつも知らさないで來た。 然し私は戰場にはどこにも通信網をはつておいて絶えず現在状況の動向に關する知識と將來の豫想が立つ樣にして置いたのだよ。 すべては祖國のためと、神樣によつて定められた通ち父としての喜ばしい務め、 と言ふのはお前逹を保護するためにしたことです。敵軍は冬前に上部ドナウ地方への進出を企ててゐて、 その右翼が私逹の山を乘り越えて行くことに決定してゐる。 このスヱーデン人逹は私の名を十二分に承知してゐるし、 假令知らぬにしてもあの仲間が私逹の家を行きがけの駄賃に掃蕩すて了ふだらうと言ふことは十分信ずべき筋がある。 この冬の初雪は恐らくこの城の黒く燒け落ちた壁の廢墟に降りかかることだらう。――それは構はぬ――家は又建てるさ。 それにお前逹の一身に關しては私は一番よいと思ふ方策を立てておいた。 金銀財寳の處置をどうするかは後でお話しよう。今はもつと大事なこと、 お前逹の身の振方に就いて、深林の奧に一つの足場があつて、私はとうから知つて居た。 寂しいところで人里から全く離れて、一筋の山徑も人の通る足跡も、 その他凡そ人の氣配と言ふものは影も見えない。それにこの場所は四方が塞がつてゐて通路は唯一方だけ。 ここさへ用心すればよい。その他のことは何もかも不思議に思ふ程このましく優美で、 例へて見れば優しい荒野の微笑、人の憂をしづめる護照であり、招待の手紙だね。 ここに一軒の家がある。私がこの夏建てさしたのだ。お前逹が樂しく氣よく住める樣にすつかり設備もすんでゐる。 こちらの城が復興して再び危險がなくなるまではお前逹にはあちらに住んで貰はねばならぬ。 誰も家のあることを知つてゐrるものはない。建てた者逹はみな私とは三重ものつながりに結ばれてゐるのだから。 先づ私はみんなから誓約をとつておいたし、第二にその者逹は皆數年來臣下として私に忠節をつくして來たし、 最後に私は近頃からふとした機會である仲間の全動産を保管して戰禍が去るまで私の財産と一緒に保護することになつて居つたが、 その仲間だけを今度の用に選んだのだ。この者逹が誓約を破つて私に危害を及ぼす樣なことは先づあるまい。 みなの者は非常に峻嶮な岩越えの間道から現地へおりて行つたがこの間道は今では岩石爆破作業によつて通れぬ樣にしてある。 私逹はこれまで人の通つたことのない森の奧地を拔けて廻り道をすることにならう。 この方は地面が平らだからずつと樂だと思ふ。騎士の考ではその邊では森が極めてまばらで恐らく馬で行くことさへ出來るだらうとのことだ。 少し行くと路はいくらか困難になるが、 その邊で山案内が一人他の路傳ひに自分の村からやつて來て私逹を待つてゐる手筈になつてゐる。 お前逹には山轎が用意されてゐるだらう。森は原始的ではあるが、このあたりと同じ樣に美しくて親しみ深い森だよ。 それから人と言つてはお前逹は滯在してゐる間中召使逹の他には誰にも逢はないことと思ふ。 まあこれだけして置いた。お父樣はこれでいいと思ふ。さあ、お前逹。何か言ひなさい」

二人とも死んだ樣にだまつて父をぢつと見てゐた。

父は微笑んで「それで!ヨハナ。此處のお部屋のことがそんなに悲しいかね。 あ!あちらの部屋もここと同じ造りで調度もすつかりこのままなんだよ。え!」

ヨハナは非常な努力をしておづおづと口を切つた。「でもあすこには人殺しの密獵者がゐる。」

父親はこれをきいてぴくぴくと眉を動かした。然しやがて大變物靜かにしつかりとした語調で言つた。 「そんなもの居ません。こんな馬鹿げた噂がお前逹の部屋まで這入つたことは甚だ殘念なことだ。 私は不快千番ぢや。そんな者は居やせん。私の言ふことを信じなさい。 騎士はここを留守にしてゐるこの三ヶ月と言ふものフィリックスと一緒に森を縱横に驅馳してあらゆる奧地の住民や、 炭燒き、木樵り、或は山番の小屋を訪ねては例の噂の火元やそれと思しいものを搜したのです。 無用なもくろみではあつたが、私逹の氣持を安んずる爲にわざわざ企てたことです。 そんあ男は影も形もゐない。この地方には理由もなく傳はつて來たあの噂さへ向ふでは聞かれやしない。 非常に殘念なことだ。お前方はこの噂故につまらぬことを想像しては心を惱ますだらう。 不孝者奴!一體お前はヨハナ、お父樣がお前を盜賊や人殺しの所へ出してやると思ふのか。 それに假令密獵者がゐたにしても、その人は綺麗な老翁で却てお前方の世話をしてくれることになるだらう。 そしてお前はすぐにお父樣を愛する樣にすきになつて了ふよ。 さあ機嫌をおなほし。向ふに行けば又向ふが離れにくくなるよ。 愈々この城が又新しく今までにない程美々しく飾り立てが出來たとお前逹に知らせる日になると、 きつと又嬉しさに目を輝かしながらもお前逹は住みなれた場所を去るのが悲しくて涙ぐむだらうよ。 安心しなさい、つまらぬ考はかなぐり捨てておしまい。考へても御覽、 一月するとこの邊は一面戰場となつて砲煙に包まれ、此の室で立琴がなる代りに干戈のとどろきと殺風景な工事の響が起るのだ。 氣を取りなほしてさあ用意をなさい。一週間以内に出發しよう。 それとも今度のことに就いて未だ何か言ふことがあるかね。」

娘逹は二人共喜び勇んではゐなかつた。然し何も言ふことはなかつた。 いつもの樣にお父樣の意圖はそのまま立派であつた。 二三日中にすつかり旅仕度を調へませうと約束した。此の朗かに晴れた朝の部屋に、柔和な午前の日射しの中を游ぎながら、 二人の天使の姿に潔められ、嚴かな靜かな外の自然にもとられて今急に悲しみの幕が下りた、 そしてその幕のうしろには當惑した顏が三人。父親は娘故に、娘逹は當面した事件故に。 そしてみながさりげない振りを裝うて、却て愈々こだはるばかりであつた。

それで父親は窓邊に寄つた。飽かず空模樣をながめて、出會ひ頭に妙にこぢれた娘逹の氣持を少しでも和らげようとした。 折から南の地平から昇りはじめた羊雲を數へるのに忙しいものの樣に、 片手を眼に翳していつまでも念入りに雲を見た。娘逹の方は――不思議なことである。 渝らぬ愛の瞳に棲む魔力に觸るると憂ひもみな和む――やさしく見交した二人の目はお互にそれであつた。 さき程あれ程大きく強かつたヨハナの不安が今は全く跡形もなく消えてゐた。 父は微笑を湛へて窓邊から二人の所へやつて來た。 若しお前逹が今日例の森の岩とそれから序に私逹の木造の森の城が床の間に收められた樣にその中腹に位してゐる美しい遠い山壁の走行も見ようと思ふのなら、 あんまり緩りしてゐてはいけない。私が先に行つて赤い部屋に望遠鏡を据付けることにしよう、 空模樣の通りになるとすれば今日は一夕立來るに違ひないからと言つた。 父はいたづらものの樣にヨハナを見た。 ヨハナの唇はもうすつかり紅の輝きを取戻してそつと微笑みながらそれを蔽さうとしてゐた。 父はでも見てとり何もかも分つてゐた。と言ふのは天氣豫報は父の苦手のひとつで、 十遍も當らなければその後で一囘位當つたところで、彼一流の徴候の正確を信ずるのは御自分ばかりになるのに無理もなかつた。 今日も亦例の徴候が鏡の樣に澄んだ空に發見されたのか、 それともこよなきその心ばえ故に父は氣分を引立てようとして只いつはりを並べたものであつたか、 誰も知らない、それでいいのだ、最初の緊張した氣分がいとしい娘逹の顏から消えたのを見て父は心樂しかつた。 朗かに戲れながら出口へ近づいて行つた時、二人だけにしてやるのが一番いいことを父はよく知つてゐた。 「クラリッサ、お前着物をきるのが大變だらうな」と把手を手にかけながらも一度振返つて言つた。 「でもせき立てることはないよ。お父樣にはその前にも一つすることがある。 若しお前逹濟んだら勝手に赤い部屋へ行くがよい。そしてその旨お父樣のところへ言つて寄越しなさい。 でも急ぐことはないよ。」

さう言つて父は部屋を出て背後の扉を閉めた。

天にも地にも代へ難い娘二人。 父が娘逹の着付けの長いのを難じたとしてもそれは言葉を托して何のかくし立てもない信頼の氣持を現はしたのにすぎないのであるが、 娘逹の餘りにも純眞な心にはそれが分らなかつた。二人は遽てふためいてどれかそこら邊にあつた衣裳をつけた。 お父樣を永くお待たせしてはいけないのである。

父が去つた後、唯一囘姉妹は抱擁して、 お互に救け合ひいつまでも離れないで行かうと言ふ固い強い斷つことの出來ぬかための印に二度三度熱い接吻を交した。

げに愛の力は竒蹟である。危險と困窮の時愛するものの目から流るる愛の光は、 假令自らが何の保護もなく保護を受けねばならぬよわい乙女の目であつても、 忽ち私逹の心の周りに確信の鐡壁を築いてくれる。

喜びと信頼とそれから陽氣と冗談と好竒心までも先刻の接吻の中から生れ出て乙女の旨へと流れこんだ。 着つけを遽てて何か間違へたりをかしな風に出來たりすると二人は聲を立てて笑つた。

やつとすんで娘逹は赤い部屋へ急いだ。 行つてみると父男爵に昨日の若い獵人がつまらぬ法螺を吹くものではないとしかられてゐた。 「もういい」と娘逹が這入つて來るのを見て父は言つた。「もういい、さつさと行け――おい、おい、 セバスチヤン、わしがそんなに恐いのか」と彼は一段聲を和らげて若者の後から追ひかける樣に呼んだ。 「何さま遽てふためいて逃げ出しをる。下へ行つて一杯酒でも飮め、それとも二杯にするか。さあ行け。」

獵人は去つた。父は大變な機嫌で娘逹の方を向いた。「おや、おや、えらく速く濟んだね。 御覽、すばらしいだらう。どれ、望遠鏡を据ゑて覗くことにしよう。」

そして三人は覗いた。

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テキストの快楽(011)その2

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(03)

リヤ王:第一幕 第三場 オルバニーの公爵館

ゴナリルと其家扶オズワルドが出る。王リヤは王位を婿二夫婦に讓って、自分は二百人の侍士を從へて、 最初に先づ長女ゴナリルのやしきに同棲することにし、毎日のやうに出獵し、 贅澤と我儘の限りを盡すので、不孝者のゴナリルは忽ち其本性を現はして、冷遇しはじめる。

ゴナリ
 ぢゃ、阿呆をしかったのが不埒だといって、吾邸うち侍士さむらひを御打擲なすったの?
オズワ
 はい、さやうでございます。
ゴナリ
 毎日毎晩わたしをば困らせてばッかり。始終何かしら怖ろしい惡いことをなさるので、 やしき中が引ッ繰返るやうな騷ぎです。もう忍耐がまんしますまい。 お附きの侍士さむらひどもは亂暴になるし、 御自身はまた些細な事をもとに口ぎたなくおっしゃるし。かりからお歸りになっても、 わたしァ御挨拶しますまい。病氣だとお言ひ。お前も、今までとは違ひ、 ずっと無奉公にしむけたがいゝよ。其責任はわたしが負ひますから。

奧にて角笛の聲が聞える。

オズワ
 お歸館かへりでございます。喇叭が聞えまする。
ゴナリ
 面倒がってわざとうッ棄っておくといふ樣子をしておいで、おまひも、他の者も。 如何どうしたのかと(不審がって)れおっしゃるやうにしたいの。 お氣に染まなけりゃ、妹の處へいらっしゃるがいゝのさ、彼女あれの心も、 壓制させちゃおかないといふ點だけは、わたしと一致してゐます。役に立たずの老爺ぢいさん! 一旦讓っておきながら、いつまでも權力を振廻さうとするんだもの! ほんとに耄けると赤兒あかんぼもどるんだから、 機嫌ばかり取ってると、増長して、しやうがない、時々叱りつけなくッちゃ不可いけません。 今言ひつけたことを忘れまいよ。
オズワ
 かしこまりました。
ゴナリ
 お附きの侍士さむらひ共に對しても、おまひがた一同、冷淡な顏をしてゐるがいゝ。 如何どんなことが出來しようと、かまひません。同僚へさう指圖なさい。 わたしはそれをしほにしようかと思ひます、是非、言ってのけるために。 妹へ直ぐに手紙をやって、わたしと同じ手段を取らせませう。食事の準備したくをしておゝき。

二人とも入る。

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テキストの快楽(012)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(004)


    三 東洋にはなぜ唯物論哲学がなかったのであるか

 これは大きな問題である。
 なぜ東洋には早くから自然科学が発展しなかったのであるか、なぜ東洋には西洋ほどに産業技術が発達しなかったのであるか、という問いと、もちろん連けいする問題である。しかし、それらの疑問よりも、なぜ東洋には唯物論は出て来なかったか、という疑問のほうが、よりいっそう根本的なのであり、要点をついているのである。なぜかというと、東洋でも、数学の知識では早くから発達したものがあったし、自然科学的知識らしいものにしてもなかったとはいえぬし、まして産業技術となれば、原始的なもの・発展可能でないもの(というのは、単純な耕作技術や漁撈技術は昔もたいいして変りはないから)に限られてはいたが、それにしても、とにかく産業技術は世界共通の或る線までに達していなかったのではない。生産の技術が根っからなかったのだったら東洋人はどんな文化をもつくりあげることはできなかったであろう。だから、産業技術がなかったとか、学術が発達することがなかったということは言えない。しかし、唯物論哲学があったということ、このことに限って、東洋にはそれはなかったとしか言えないのである。唯物論とは、人がなにものかに対してあげた抗議的なひとつの世界観である。東洋では、インドにも中国にも共通したヨーロッパとは別のひとつの世界観が発展していた。この世界観を語ることがこの節の目的なのである。その世界観に支配されている諸民族においては、唯物論を必要とはしないのである。必要としないというのは、東洋は唯物論をぜんぜん容れる余地がなかったという意味ではない。いいかえると、唯物論の思想を容れる余裕をもたないほどに唯物論に対する別の世界観でもって中がいっぱいふさがっていたのではない。一個の世界観が中を充実していたからではない。この点が大切なのである。東洋人は充実した世界観思想を、だから他の世界観をはじきのけるほどの世界観を、うちに懐いていたのではない。その反対なのである。東洋の世界観は、確立しているとか、充実しているとか、その余のものを、排斥するとか、そういったような性格のものではないのである。むしろ東洋の思想が確立、充実、排他、そういう性質のものであったならば、かえって唯物論思想をそのなかから誘い出し、発展させたことだったであろう。幸か不幸か、東洋思想はそういう性格のものではなかった。東洋思想はそれ自身すでに、はなはだ把えにくいものなのである。このように始末におえぬものが、じつに東洋の思想の大きな特長なのである。中江兆民は「主義の確立」<註1>という文章をのこしているが、そのなかでこういうことを言っている。「欧羅巴ようろっぱまさりて亜細亜あじあが劣るといふのはほかのでもない。欧のやつは思い切つた事をする、亜のやつは何分にも、のろ臭ひ」と言っている。兆民は、ヨーロッパ人たちは、言う行うことにおいて、確立をするが、東洋人はこれを避けることを、東洋人は「のろ臭ひ」という言い方で表現したのである。確立ということは、考える場合や、ものを言う場合では、定立ていりつ(thesis)という用語で言い表わされる。ゆるぎなくはっきり立てることが定立である。何々は何々であると、言い切ることである。言い切られたものは、客観的なものとなって自立するのである。定立は知識の出方でかたのであり、知識の約束である。定立ということがおこなわれなくては、数学もまともには発展しないし、科学も発達しない。ヨーロッパでは、経験にてらしては定立をつくり、経験にてらしてはまた定立をつくった。そうしてできたものが、ほかならぬ科学なのである。そのやり方は、近代までヨーロッパでは古代ギリシア以来めんめんと続いている。東洋では、定立は嫌われたのである。『老子』のなかの思想は、けっきょくは「不言の教を行う」(行不言教)ということに外ならない。はっきり言い切り、はっきり考えをきめることは、定立なのであるが、これを避けて定立のないままに大衆を導こうというのが、東洋の賢者のやり方であった。もちろん、一つの定立には、必ず形に陰影があるように、一の反定立(anti-thesis)がついてくる。この二つの定立の間を行こうとする東洋人は、定立を嫌い、定立ができたらそれをすぐ崩すことを、むしろ心がけたのである。弁証法論理があきらかにしているように、定立をすれば、すぐに反定立がもう出てきているから、一方の側面と他の側面とが同等の資格で浮びあがってくるのは当りまえである。さて、そうしたとき、どちらの側にもつかず、固執せず、同時に二つの側がはたらいていることに眼をつけようとするのが、東洋である。それで、「二際をほろぼすのが、菩薩ほんとうにもののわかったひとのやり方だ*註(2)」というのは仏教の精神だが、老荘の考えとまったく通ずる考え方であって、東洋的な考え方の特色である。ヨーロッパ人は、ひとつの定立にたとい他の定立がひっついて出てこようとかまわない。それを処理する次の定立を企てるのである。だから、いっこうに定立を避けようとしない。だから、はっきりした定立がいくつも累々とがなるようにできて、ひとまとまりになってくる。それがつまり科学の体系である。もし、考えをはっきりきめつけたり、言い切ったりすることが、悪いものを伴ってくるなら、さらにもうひとつの定立をもうけて、その悪さをとり去ろうとする、それはヨーロッパ的やり方である。二際を亡ぼさないで、それどころか、それを大切に生かして、ともに定立させて、二つの定立が争うのを争わせ、そのなかに現われ出るものを期待し、それをさらに定立させようとする。このように、ヨーロッパの学問では学問はつねに学的に技術的である。だから、発展がある。東洋では定立が生れるとすぐ崩すことに努めたから、も、もなくなるのである。弁証法が東洋にないことはなかったが、それが論理学として確立しなかったのは、このためである。
  ヨーロッパには、弁証法論理が成長し、とともに、唯物論が成長したことを、ひき離さないで考察することが大切である。
 インドでは冥想から数学が生れたが、それがヨーロッパのように成長しなかった。定立をやらないからである。定立をはっきりやれば、自然にそれを書きとめるはずである。書きとめないと、ほんらい葦のように弱い人聞においては定立は崩れて消えてなくなる。インド人は書きとめることを、すなわち、記録することをやらない民族だった。このことは、インド人に数学が本当に伸びなかったことと深い関係がある。書きとめて確立することをしなかったから、あれ以上数学が発達しなかったのである。エジプト人やバビロニア人たちは、数の知識や石や板や練りものに刻んででも、確立を貴んだ。定立のために手段を講じたのである。技術だったのである。東洋人は、できてくる定立のいわば灯をすぐに吹き消した。闇のなかにほんとうに明るいものを見ぬこうとしたのだといっていい。零を数としてとりあつかったのは、インド人である。ギリシア人は長さや面積のような量をとりあつかうことから数学を発達させたが、インド人は数そのものを発達させた。ヨーロッパ人は定木じょうぎとコンパスという手段をつかったが、東洋人はこうした手段を確立しなかった。おかくら・てんしん(岡倉天心)がそのなかで「アジアは一つだ」の思想をのべている『東洋の理想』のなかで、「地中海やバルト海の諸民族」のことを、「手段を探求することを好むところの諸民族」だと規定しているのは、たしかに当っている。天心はヨーロッパ人の先人たちが、手段を好むことに対して「アジア民族共通に」「広い愛の拡がり」ということをあげている。天心は彼のこの著述を英語でかいて、ロンドンで発行したから、やむなく愛という文字をつかっているが、「愛」などという定立は、ほんとうはアジア人はやらなかった。明治時代でも「愛」などというと、多くの人(常識人)はてれたのである。「愛」の定立には「憎」の他の定立がすぐ浮び出てくるのを、東洋人は嫌ったのである。「愛憎もと一体」などという言い方は、おそらくヨーロッパ人にはわかりやすい思想ではないであろう。キリスト教における、そして、一般にヨーロッパ人の生活史における「愛」は、仏教のなかでそれにちょうどあたる|ことばは、見出されないほどである。仏教では愛は「愛欲」「愛着」「愛恋」としかとられてない。『涅槃経ねはんきょう』をみると、『ほんとうにものがわかり、ものにこだわらない人は、愛を離れている」ということを言っているが、おそらく仏教の真意であろう。仏教ではむしろ近代人のラブは「愛染あいぜん」であるだろう。人格のできあがるのに妨げとなるものである。
 東洋人は、定立をしない、確立を避ける、というやり方を、自然に対してもやっている。自然界をば、どうしなくてもおのずから(自)なるようになってゆく(然)というように、東洋人はうけとっていた。無神論者のあんどう・しょうえき(安藤昌益)ですら、「自然」という字を「ひとりする」とよませている。ヨーロッパ人にとっては、自然界(natura)は生れ出る(nasci)ことから成り立っている。生れたものは、成長するであろうし、成長するものならば、成長して成長させることができる。「生れる」とは、最初から人間的な言い方である。東洋では、生れてこない自然、どうしなくてもそのとおりである自然、これが東洋人の自然(おのずからしかるもの)である。ひとりするものであっては、これに対して手段のほどこしようはないのではあるまいか。中国や日本では、自然界に対して人間が人間の力を加えて開拓することを、「開物かいぶつ」とか「開化かいか」とかいってきた。開物や開化を主張したことは、東洋の古典のなかのほんの一部に限られていた。『天工開物てんこうかいぶつ』(一七世紀)という中国の書物は、ヨーロッパの学問が中国に入ってからのちの著作である。自然界を開化することは東洋人の仕事ではなかった。中江兆民は、このことを鋭くとらえて巧みに言い表わした。彼の言い方によると、わが国では、「人民が開化し往くと謂うよりは、寧ろ開化其物の中へ人民を追い込む(註3)」というのである。知識の定立をしない東洋人においては、自然を定立のなかに置くことができない。そうだとすると、自然科学も産業技術も発達しようがないのである。では、東洋人にとっては開化は一切ないのであったか。ないのではなかった。あったのである。しかしいつからあるというようなものでなくて、はじめからあるのである。どこかで始まりようはないのである。開化そのものは時間を越え、空間を越えてあるものであった。老子が「万物はおのずから化しようとる」といった彼の形而上学は、日本では人民教化にさえ巧みにとり入れられている。日本では、「自然」を説く老荘はかえって実践的に利用された。価値をもった哲学としてではなく、この道教のいわば野放図のほうずの教えがかえって実践化されたのである。まことに不思議な国である。
 これでは唯物論は芽ばえることからが、日本、いや東洋では、むつかしかったといわなければならない。
 ヨーロッパでは唯物論のはじめをきかれると、ほとんどみな一致してギリシアのデモクリトスをあげる。デモクリトス(前・四六〇―三七〇年)は、周知のように、世界のすべてのものはアトム(原子)から成るという説をたてた自然哲学者として知られている。デモクリトスの書いたものは断片的にのこっているし、またギリシアのその後の哲学者たちがデモクリトスの説として言いのこしているものがあるので、デモクリトスの学説といっていいものは今日もつたわっている。知識や学問について彼が語ったものは、今日からみても光っている。それらのなかで特にめだっている彼の意見をまとめて、その科学的意義を要約してみると、こういうことができる。すなわち、

    1 原子と空間より外にはほんとうに存在するものはない。
    2 このことは永遠であって、変ることがない。
    3 存在するものは、ないと否定されることができない。
    4 すべてのものはきかいてきな運動である。
    5 何ものも偶然に生じるものではない、すべてのものはそれのもとから、しかも必然性でもって生じている。

 デモクリトスは、このようにはっきり言いきった。つまり、テーシスをもうけたのである。
 右の五つの考えはたいそう簡単なものであるが、これくらい科学の精神をいってしまっているものはないといってよいであろう。今日の自然科学が主張しようとする大切なものはみんないってしまっている、といっていい。(もっとも今日はデモクリトスのいったような、まったくの空の空間があるとは自然科学者はいわないけれども)。今から二千四百何十年まえにこんな意見をデモクリトスがいっただけではなく、後の学者たちが、ことにギリシアのアリストテレスやエピクロス、ローマのルクレティウスなどが、デモクリトスの学説をさらに発展させつつ、言いつたえたのである。近世では、フランシス・ベーコンいらいたくさんの哲学者、科学者たちがデモクリトス風の説をひきついだ。じつは、そうした学説が承認されて、あとあとへひきつがれたことが、ヨーロッパに自然科学の伝統が確立されたわけなのであるといえる。
 私たちがいま問題にしているマテリアリズムは、そういう自然科学の伝統のなかにあって、ぜんじ発展した思想にほかならぬのである。東洋にそういう伝統がなかった。東洋人はたとえばデモクリトスのように、定立をすることを拒んだ。もともとインドの知者たちもデモクリトスが提説したような、ひとつの学問的真理に思いつかぬのではなかったろう。インドの哲学者たちは、広大なる自然、複雑な社会、総じて宇宙ぜんたいのことは、テーシスをつくってみたところで、ほんとうに究極のものはつかめぬ、それでつかめぬならば、そのようなやり方はやめてしまって、なんでもひとつのこさずつかめるような宇宙大の智恵がほしいものだという、とてつもない、永遠といえば永遠、悠遠といえぱ悠遠な思想をもつようになった。それが割合にまとまって結実したのが、インドの仏教哲学の知恵(般若)の論である。このことは世界の仏教研究者たちの通説である。日本人が深い影響をうけた仏教が、みんなそろってそのような「高遠」の仏教だったというのではないが、日本の各宗の開宗者たちは、右のような仏教の智恵の論はのこりなく共通に理解したひとびとである、ということはできる。日本人には、一般に東洋人には、どこかたががはずれたようなところ、どこかで要領が得られるだろうから自然まかせだといったようなところがある。唯物論思想が生れなかったということは、また科学思想が生れなかったということである。

  註(1)『警世放言』(再版、明治三十五年)一八〇頁。
   (2) 竜樹の『中論』の序(中国の人僧叡のかいた文章である。彼の文章は「二際を沈さざるは菩薩のうれいなり」となっている)。
   (3) 前掲書一九八頁。

        四 どうして東洋では唯物論哲学がおこらなかったか
 東洋は、世界観とか哲学ということになると、はじめから難題を背負っていたようである。というのは、東洋人は思索することでは、わかりにくいものを最初から手にかけたが、ヨーロッパ人はわかりやすいものから手がけていったといえるからである。ヨーロッパのどの哲学史をみても、タレース(前・六世紀)がまず出てくる。この世界の本源は何か?  という問いに彼は答えてくれている。「水」だというのである。この水とはかめの水、小川の水、湖の水、そんな個々の水のことではなくて、およそ水といわれるもの、さらに湿気的なもの、さらに拡げて、胎生のもとなる精なる液、つまり世界のぜんぶにゆきわたっているもの(物)、これがタレースのいう「水」なのである。その要点は、精神的なものをさがしていっているのでないところにある。もちろん、タレースが出てのちまもなくアナクサゴラス(前・五世紀)のような哲学者が出て、やや精神的なものを世界の本源だとする説をたてはした、またやがては、ソクラテス、プラトンのごとき哲学者があって、精神の面を明らかにしてゆくようになったのであるが、それしてにも、哲学史のはじめはタレース的な問いではじまっているのである。かんたんなところからはじまっている。そしてソクラテスやプラトンにしても、物のことについては、技術や数学の考えを通じてつねに問題をすすめたのである。すじの通ることしか求めなかった。とにかく、「私」とか「精神」とか「作用」といったものから離れて、それとは別に客観的なもの(物)を問題にし、それについて何かはっきりした知識をもつようになっていたのである。ところが、それが東洋ではどうであろう。インドの哲学のはじまりは『吠陀リグヴェーダ』の哲学的讃歌だが、その最初のインド人の問いでは讃歌のなかでヨーロッパのように物には向けられない。おもしろいことに、インドの哲学的讃歌のなかでも「水」のことが出てくるには出てくるのであるが、それは物としてはとらえられていない。せっかくの「水」の考えが、「ゆうもなかった、もなかった、くうの世界もなかった。それをおおうてんもなかった」というような冥想的な問いと答えでもって、すっかりつつまれているのである。
 かようにして、古代のインド人は最初から困難な課題を背負っていたのである。インド人は水や火や地のことを考えてもいるが、だから物について考え、物をもとにして考えているかに思えるところが察しられないではないが、その水や火がまた精神的なものでもあるかのように考えられていた。だからヨーロッパ流にいうと、物活論はあったが唯物論はなかったと言える。ヨーロッパ人たちにおいては、考える態度がまったく東洋とちがっている。彼らにおいては、問いがもうけられ答えが得られ、そして知識ができるにしても、その知識はやがて仕事をしたり技術を練ったりすることに役立つように(ことごとく役立ちはしなかったが、役立ち得るようにそういうように)持っていっているのである。だから、「万物のもとは水である」といい切り、または「万物のもとは地水火風である」といい切り、あるいはまた「万物はみなつりあいという関けいからきている」(ピタゴラス)といい切ったりする。ひとつひとつ片づいていく。ことにこの第三の定立の如きは、後々まで技術的な知識にとってたいへん役にたった。なぜなら、ピタゴラスのつりあいとは数的かんけいのことだったから、数学の発展をうながした。ところが、インドではそうではなかった。手に負えないものに初めから手をつけたのである。したがって、定立はできはしない。いや、できないよりも先に、定立することは好まなかったのである。
 中国はインドとは世界観の出発がややちがう。むしろ出発はいいのである。『詩経』や『易経』のような古典からすでに、「物」「百物」「万物」というような言い方をしている。物を複数でもってとらえている。もちろん、その「物」とは水や土や、山や沢に限られているのでないので、そのなかには人間だって入っているので、その点すでに古代ギリシア人のやり方とはちがっている。いうまでもなく、近代人が「物質」とか「物体」とかいう場合の物の意味にけっして限定されてはいなかったことは、注意を要する。「物あり則あり」(『詩経』)というようなはなはだ学問的な言い方をしても、その「物」には人間(たみ)のこともふくまれていたのである。古代インド人の考え方との大きな相違がここに見出される。古代の中国では「物」の意味内容のうちには、たとい人間や精神も入れていたにしても、物という言い方をすることは、インド人とちがって、定立することを避けていないことである。それどころか人間がものを考えるときの法式(つまりカテゴリー)に対して、すでに鋭く反省をしていたのである。Kategorie というヨーロッパのことばに対し日本では「範疇」の語があてられていることは、周知のことである。それは中国古代の『書経』の「洪範九疇」の文字からとったことでもわかる。古代の中国人ははじめはこのようなすべり出しをしたのであったが、それにしてもしかし、古代ギリシア人やローマ人のような考え方はとらぬようになっていった。老荘的な違ったものだった。古代ギリシア人たちの場合では、自然は生じた物としての自然(physis)をさすのであった。中国ではそうでなかった。そこで私たちは、つぎの老子の言葉に注意してみることにしよう。「人間は大地の上にあるものにもとづいてきまりをつくった。その大地の上にあるものは、天にしたがってそのきまりができた。そのまた天のきまりのもとは道なんだ。さらにその道のきまりは自然なのだ。<註(1)>」。この一連の語でみると、発想においては、つまり地上のものに着眼されているところでは、人間の経験が卒直に出ていて、私たちは具合いいと思うのである。古代のギリシア人の発想と共通しているとおもえるのである。ところが、老子では、地上にあるもののきまりのところで、「水」とか、「湿なるもの」とかいうところへはゆかず、「天」なるものへゆき、さらに「どう」にゆき、とうとう「しぜん自然」なるものへと行ってしまっている。こうなれば、この「自然」はギリシア人の自然 physis ではない。ローマ人たちのつかった自然 natura だって physis と同じで、おのずと生れ出た物だという意味をもっている。老子では、自然ということは人間や人間のことばにつけていわれていることが多い。老子は「わざとつくらないことばが自然だ<註(1)>」というようなことをいったり、「こまかいことをきめつけないで、悠然としていて、ことばを大切にしていれば、どうしなくても事は成就するものだ。そうなれば、きっと百姓(人民)たちは、わが自然だととっているにちがいない。<註(3)>」というようなことをいっている。「自然」ということをいっても、ギリシア人やローマ人が自然といったものとは異ったものをさしたのである。中国のえき易では私たちに大いにのぞみをもたせるような出発をしている。易では天・沢・火・雷・風・水・山・地(八卦)のことをいっているのだか問いのきっかけになったのである。がしかし、かなしいことに、そこに一線を画すことはしなくて、観念的なもの、形而上的なものを考えることへと、ひきつづいて発展してしまっているのである。
 自然の解釈が形而上学的になるとともに、物といわれるものは形而上学的な意味のものとなっていった。そうなっていったのは、産業上の技術のあり方や、生産物の分配の仕方や、ひいては政治の仕方が、ヨーロッパの場合とちがっていたことと関係しあってできたのであるが、とにかく「自然」の考えにしても、「物」の考えにしても、ぜんじに形而上学的なものへと発展したのである。中国では宋代になると、仏教の思想が滲透してきていて、一層この傾向は強まった。いわゆる宋学(程朱学)の思想家たちになると、論をおこすやすぐに「天地」とか「万物」とかいったのであるけれど、万物といっても、地上のいろいろの物がはっきりと複数でもってつかまれているわけではなかった。たとえば、程明道(一〇三二―八五年)は「天地万物はその理の上からみると、独立しているものはなく、みなついをなしている。どれも自然にそうなっている」(皆自然而然)といったふうである。こうした形而上学は、中国では宋学が代表的だといわれている。この宋学のように抽象的な思索の仕方だけで済ませていたのでは、ヨーロッパに発展した自然学はもちろんのこと、自然の記述(自然誌)のような科学を発達させることはできなかったのは当然である。むしろ、そうした傾向を塞ぐのが宋学の特長ですらあった。日本の儒学もそのような系統でもって栄えていた以上、自然物につ一四、五世紀になると、学者たちは宋学(程朱学)の空疎な性質から離れてゆこうとするふうが起った。王陽明の思想はその実例のうちで著しいほうであろう。陽明はこんなことをいっている。「考えてみるに、物理は自分の心の外では求められない。自分の心より外に物理を求めても、物理があるわけではない。<註(4)>」「物理」といっても、ヨーロッパでいう意味のものにはとられないが、「物理」という語のつかい方は用語例があって、心のことだけをいうのとは、おのずから違っている。とにかく、空疎な思想でいっぱいだった。
 以上のようにして、東洋では「自然」とか「物理」とかのことばはあったけれど、その内容は空疎でしかなかった。空疎というのは、そういう概念(すなわち「自然」や「物理」の概念)をふたたび自然のじっさいの世界に戻して、そこでもう一度、検討することがぜんぜんできないという意味である。このことは人間たちの日常の生産の生活と、ああした考え(概念)とにれんかんがなかったことでもあるのである。虚空の考えはあっても、「空間」の概念はできてこない。したがって、真空の概念も気圧の概念も成長してこない。つまり、自然界のじっさいのものに戻してみることがなかったからである。こうしたことは、東洋に唯物論の出てこなかった大きな理由である。

 ;註(1)「人法地。地法天。天法道。道法自然」
   (2) 「希言自然」
   (3) 「悠兮。其貴言。功成事遂。百姓皆謂我自然」
   (4) (夫物理不外於吾心。外吾心而求物理。無物理矣)

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

テキストの快楽(010)その1

◎ ツルゲーネフ作 神西清訳「散文詩」(02)


  対 話
       ユングフラウもフィンステラ—ルホルンも、いまだ人の足跡をとどめない*。

アルプスのいただき。……そそり立つがけのつらなり。……山なみのきわまるところ。
山々のうえ、 無言で澄みかえる浅みどりの空。きびしく肌をさす寒気かんき。きらめき光る堅い雪はだ。その雪をつらぬいて、 風にさらされ氷におおわれ、荒々しく立つ岩また岩。
あまぎわに、相対してそびえ立つ二つの巨岳、ふたりの巨人。ユングフラウとフィンステラールホルンと。
さてユングフラウが、隣人に話しかける。「何か変ったことはなくて? あなたのほうが、よく見えるでしょう。下界はどんなふうなの?」
またたくまに過ぎる幾千年。さてフィンステラールホルンが、ごうごうと答える。「密雲が地面をおおっている。……まあお待ち!」
またたくまに過ぎる、またも幾千年。
「さあ、こんどはどう?」と、ユングフラウ。
「こんどは見える。下界はあい変らずだ。まだらで、せせこましい。水は青く、森は黒く、ごたごたと積んだ石は灰いろだ。そのまわりに、あい変らず虫けらどもがうごめいている。ほら、まだ一度もお前やおれを汚したことのない、あの二本足の虫けらさ。」
「人間のこと?」
「うん、その人間だ。」
またたくまに過ぎる幾千年。
「さあ、こんどはどう?」と、ユングフラウ。
「虫けらは、だいぶ減ったようだ」と、フィンステラールホルンがとどろく。「下界はだいぶ、はっきりしてきた。水はひいて、森もまぱらだ。」
またたくまに過ぎる、またも幾千年。
「何が見えて?」と、ユングフラウ。
「おれたちの近所は、さっぱりしてきたようだ」と、答えるフィンステラールホルン。「だが、遠くの谷あいには、まだらが残っていて、何やらうごめいている。」
「で、こんどは?」と、またたくまに幾千年をへて、ユングフラウがきく。
「やっと、せいせいした」と、答えるフィンステラールホルン。「どこもかしこも、さっぱりした。どこを見てもまつ白だ。……見わたすかぎり、おれたちの雪だ。いちめん雪と氷だ。みんなこおってしまった。これでいい、せいせいした。」
「よかったこと」と、ユングフラウが言う。「でもわたしたち、たんとおしゃべりしたから、ひと眠りするとしましょうよ、おじいさん。」
「うん、そうだ。」
巨山はねむる。みどりに澄んだ空も、永遠にもだした大地のうえに眠る。
       II. 1878

注]
*ユングフラウも…… この題辞は、一八七八年にあっては時代錯誤の感なしとしない。この頃までにユングフラウもフィンステラールホルンも、すでにたびたび踏破されていた。前者の初征服は一ハー一年八月、より険阻と伝えられる後者の初登舉でさえ、翌ー二年八月になされた。思うにこの題辞は、感星義作家カラムジーンの『ロシア旅行者の手紙』にもとづくものか。一七八九年八月の「手紙」のなかで、カラムジンはユングフラウにふれて言う。――「かしこにはいまだ人跡をとどめず」と。