日本人と漢詩(093)

◎幸徳秋水と中江兆民

師弟の関係にあった幸徳秋水が中江兆民の葬儀の時の詩。その敬愛に満ちた評伝「兆民先生」の冒頭に掲げる

寂寞北邙呑涙回 寂寞《せきばく》たる北邙《ほくぼう》
斜陽落木有餘哀 斜陽《しゃよう》 落木《らくぼく》 余哀《よあい》あり
音容明日尋何處 音容《おんよう》 明日《みょうにち》 何處《いづ》くにか尋《たづ》ねん
半是成煙半是灰 半《なか》ばは、是れ煙と成り、半は是れ灰

語釈、訳文は詩詞世界を参照のこと。

続く文章も、思慕の念が溢れるものになっている。

「想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村 に送りて荼毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁く草枯れ、満目惨凄として万感胸に湛へ、去らんと欲して去らず、悄然車に信せて還へる。這の一首の悪詩、即ち当時車上の口占に係る。嗚呼、逝く者は如斯きか、匆々茲に五閲月、落木蕭々の景は変じて緑陰杜の天となる。今や能く幾人の復た兆民先生を記する者ぞ。」

一方、師の兆民も、漢詩の詩作が数百首あったようだが、まとまって紹介されることは少ない。そのなかで、「兆民先生」で引用される詩がある。

病中得二首之二 病中二首を得の二 中江兆民
西風終夜壓庭區 西風《せいふう》 終夜《しゅうや》 庭区《ていく》を圧《あ》っし
落葉撲窗似客呼 落葉《らくよう》 窓《まど》を撲《う》ちて 客の呼ぶに似たり。
夢覺尋思時一笑 夢覚め 尋思《じんし》の時一笑《いっしょう》
病魔雖有兆民無 病魔《びょうま》ありと雖《いえど》も兆民《ちょうみん》なし

語釈、訳文は同じく詩詞世界を参照のこと。

これ以上、余分な解釈は必要あるまい。兆民は、大坂堺市でその療養生活を送った。堺市市之町にはその居住先があるという。今度、機会があれば訪れてみよう。

参考】
・幸徳秋水「兆民先生」(岩波文庫)
・中江兆民「一年有半・続一年有半」(岩波文庫)

日本人と漢詩(092)

◎佐藤一斎と潘岳とカズオ・イシグロ

先日、カズオイシグロ脚本による「生きる」を観てきた。オリジナルの黒澤明監督「生きる」をイギリスに置き換えたリメイク版である。息子には伝えきれなかった数々の思い…でも濃淡はありつつも周囲との関係の中で、幾許かは共有しながら、最期に公園のブランコに乗り、スコットランド民謡を唄う。志村喬とは、少し違った趣きがあり、見ごたえがある映画だった。主人公の過去にあった、亡き妻との永訣、その面影でも、映画脚本にあったらなら、もう少し深みがでてきたのかもしれないと、ふと思ったがそれは「無いものねだり」というものだ。

連れ合いを亡くした時の漢詩は、古来「悼亡詩」としてある。その嚆矢が、中国南北朝時代・西普の詩人・潘岳(247~300)のそれである。

悼亡詩 潘岳
荏苒冬春謝 荏苒《じんぜん》として 冬春謝《さ》り
寒暑忽流易 寒暑 忽《たちま》ちに流易《りゅうえき》す
之子歸窮泉 之の子 窮泉《きゅうせん》に帰し
重壤永幽隔 重壤《ちょうじょう》 永《とこし》えに幽《かく》し隔《へだ》つ
私懷誰克從 私懐《しかい》 誰《たれ》か克《よ》く従《したが》わん
淹留亦何益 淹留《えんりゅう》するも亦《また》何の益あらん
僶俛恭朝命 僶俛《びんべん》として朝命《ちょうめい》を恭《つつ》しみ
囘心反始役 心を回《めぐ》らして始役《しょえき》に反《かえ》らんとす
望廬思其人 廬《かりや》を望《のぞ》みて思其人
入室想所歷 室《へや》に入《い》りては歴《へ》し所を想《おも》う
幃屏無髣髴 幃屏《いへい》には髣髴《ほうふつ》無きも
翰墨有餘跡 翰墨《かんぼく》には余跡《よせき》あり
流芳未及歇 流芳《りゅうほう》 未だ歇《や》むに及ばず
遺挂猶在壁 遺挂《いけい》 猶を壁に在り
悵怳如或存 悵怳《ちょうよう》として或いは存するが如く
周遑忡驚惕 周遑《しゅうこう》として忡《うれ》いて驚惕《きょうてき》す
如彼翰林鳥 彼の林に翰《と》ぶ鳥の
雙栖一朝隻 雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く
如彼遊川魚 彼の川に遊《およ》ぐ魚《うお》の
比目中路析 比目《ひもく》して中路《ちゅうろ》に析《わか》るるが如し
春風緣隙來 春の風は隙《すき》に縁《よ》りて来たり
晨溜承簷滴 晨《あさ》の溜《あまだれ》は簷《のき》を承《つた》いて滴《したた》る
寢息何時忘 寝息《しんそく》 何《いず》れの時か忘れん
沈憂日盈積 沈憂《ちんこう》 日びにに盈《みち》積《つ》む
庶幾有時衰 庶幾《こいねが》わくは時に衰《おと》うるあらんことを
莊罐猶可擊 荘《そう》が缶《ほとぎ》猶《な》お撃《う》つべし

語釈などは「石九鼎の漢詩館」などを参照のこと。

訳文など、高橋和巳訳を参考にした。]冬と春は移ろい、寒暑もたちまち変わった。妻は、窮泉(よみの国)に帰り、土塊により永久に隔てられた。吾だけが思い続けても誰も分かってくれないし、そこにとどまっていてもなんの益があろうか。…だが、喪中の廬《いおり》や、わが家でもをみれば、彼女を思い出すし、とばり、屏風には、彼女の手跡が残っている。香りや琴も以前のまま、あたかもまだ居るように錯覚し、こころさわぐ。林のつがいの鳥が、一羽取り残されたように、また川を泳ぐ伝説上の比目魚が途中で分かれてしまったようだ。(「彼の林に翰《と》ぶ鳥の雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く」とは、「雙」と「隻」という漢字の字体の違いをうまく使った表現である。)春の風、朝の雨だれも、独り寝の身には、深い愁いがつのるばかり。いっそ昔、莊子がしたように妻を失ったとき酒甕をたたいてうたったようにしてみたいものだ。

愛日樓詩

西風直置不堪悲 西風ただ悲しみに堪えず
況復鰥鰥枕易攲 いわんや復《ま》た鰥々《かんかん》枕を攲《そばた》てやすきを
淡月黃蘆秋似畫 淡月黃芦、秋は画に似る
憶君水墨寫成時 憶う君が水墨写し成る時

訳文など]
秋風に悲しみはたえず、独り身になり、すっかり目ざとくなった。淡い月、黄の芦は画のようで、亡妻が水墨画を書いていた時を思い返す。「淡月黃芦、秋は画に似る」とは、うまい表現。潘岳の妻も絵心があったというから、一斎は、彼の悼亡詩からまともに影響を受けたのだろう。

晩春掃亡妻墓 晩春、亡妻の墓を掃《は》く
春老山村路 春は老ゆ、山村の路
到来敲梵扉 到り来て梵扉《ぼんぴ》を敲《たた》く
新墳芳草合 新墳、芳草合し
古道晩花飛 古道、晩花飛ぶ
先後倶長夜 先後倶《とも》に長夜
壽殤同一歸 寿殤同じく帰を一つにす
啼鴉覔棲樹 啼鴉《ていあ》、棲樹を覔《もと》む
暮景足歔欷 暮景、歔欷《きょき》するに足る

訳文など]
晩春の候、山路をたどって寺の門をたたく、新しい墓は香草に囲まれ、道は遅咲きの花が散る。生まれは違っても、いずれは偕老同穴なのだ、カラスがすみかを求めて啼いている夕暮れの景色にたたずんでいると、すすり泣きせざるを得ない。

晩年の作ではあるが、率直な悲しみが伝わる詩であり、彼の「人としての優しさ」もうかがえる。ここで思い起こすのは、すこし時を遡り、天保年間に、大塩平八郎は、乱の勃発直前に佐藤一斎に書状を差し出した。また、そのすこし前に、大塩が昌平黌の林述斎に、相当な額の資金を融通したとも言う。塾頭の一斎の反応は残っていないが、書状が残存していることから、一斎は、大塩の心情は充分理解していたのではあるまいか?そのことが、彼の立場を微妙なもののしてしまい、蛮社の獄では、「日和見」的な態度に終止したのではとも思う。彼が、言志録にある「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む」のを言葉とおりに実行していたなら、また違った結末になったかもしれない。それが彼にとっても。「生きる」ということに繋がったのでは、とふと夢想してみる。

参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波書店 同時代ライブラリ)
・高橋和巳作品集9(河出書房新社)

日本人と漢詩(091)

◎梁川紅蘭と梁川星巌

先日、昨今のコロナ感染症(COVID19-9)後遺症の診療を精力的に取り組んでおられる医師の講演を拝聴した。現在わかっていること、解決の課題となっていることが、なかなかに整理されていた講演であった。後遺症(SNS などでは、long corona と呼ばれている。)の一部には、昔から「血の道を良くする」とされる漢方薬の当帰芍薬散が、効果があるらしい。(もちろん、個人差や症状の微妙な相違があるので、服用にあたっては、必ずかかりつけ医と相談することが必須である。)
当方も成分は少し違うが、山歩きなど「こむら返り」を起こした時に「芍薬甘草湯」を即効性の有る漢方薬として、重宝している。

ところで、梁川紅蘭にこんな漢詩がある。

階前栽芍藥 階前《かいぜん》に芍薬《しゃくやく》を栽《う》え
堂後蒔當歸 堂後《どうご》に当帰《とうき》を蒔《ま》く
一花環一草 一花環《ま》た一草
情緖兩依依 情緒《じょうちょ》両《ふた》つながら依依《いい》たり

語釈など]当帰:「当《まさ》に帰るべし」と夫の帰りを待ちわびる 花草に心を寄せる(どうして別れることがありましょうや)

また従兄弟で夫である梁川星巌が、旅に出て、留守宅で、薬草を育てていた時の作である。新婚当時で、夫が不在がちなので、親類からは「別かれては…」と勧められていたそうだ。当時は、こうして自家栽培で、それを収穫、煎じて、薬にしていたことが分かり、興味深い。

当時、紅蘭は美濃「梨花村草舎」(現在の大垣市)におり、夫から「三体詩」の暗誦を命ぜられていたが、みごとに全編を諳んじることで、帰宅した星巌を驚かせたという。無聊を慰めるため、江馬細香らの詩の集いに参加し、大いに腕を磨いたとある。孤閨にこりた紅蘭は、文政五年(1822年)、連れ立って西遊の長征の旅に出る。ときに、紅蘭十九歳。帰宅したのは、文政九年(1826年)、あしかけ4年の長丁場の旅路だった。途中の旅先で、その路銀の寡なさを記にしながらも、その頃詩名の高かった、頼家の人々や、菅茶山などと交友を深め、それが目的の一つだったのだろう、歓待、逗留の光栄に浴した。旅も三年目になると、望郷の念、耐えがたく、一首を残している。

紅事蘭珊綠事新 紅事は蘭珊《らんこ》として緑事新《あらた》なり
每因時節淚沾巾 時節に因《よ》るごとに涙は巾《きれ》を沾《うるお》す
遙知櫻筍登厨處 遥に知る桜筍《おうじゅん》厨《くりや》に登る処
姉妹團欒少一人 姉妹団欒《だんらん》一人を少《か》くらん

訳文など]桜、桃、杏の季節も過ぎ、すっかり新緑のときとなった。こうしためぐりの中で、涙がハンカチに溢れる。家では、さくらんぼや筍をが台所に並んでいるのに、姉妹は、仲良く歓談しているのに、私一人だけ不在なのだ。

彼女は、詩作にあたっては、三体詩をそらんじていたというから、王維の「九日山東の兄弟を懐ふ」を念頭に置き、詩のモチーフとして用いたと思われる。(日本人と漢詩(080)を参照)
一方、夫の星巌は、食道楽もあり、広島で牡蠣を食し、詩では、楊貴妃のおっぱいに見立てて表現している。ここらあたりは、遺稿を託された柏木如亭のひそみに習ったのかもしれないが、紹介は別の機会に…

天保五年(1834年)星巌は、江戸で「玉池吟社」を起こし、以来弘化二年(1845年)それを閉じるまでは江戸在住、以前紹介した大沼枕山などと広く交流したのだろう。天保という年号の時代、世の中は、天保の大飢饉、大塩平八郎の乱、蛮社の獄など大きく変動した、その最中である。
星巌は、良く言えば、用字など先鋭的な表現に工夫し、悪く言えば「僻字《へきじ》」(異常に奇異な文字)を用いるなど、奇をてらうところがあろう。こうした事は、現実世界への態度にも反映し、政治的には、ときに過激な行動を取らしめたのではないか?想像に過ぎないが、彼の主管した「玉池吟社」などは、「勤王志士」の情報交換の場だったかもしれない。対する、 旅先の彦根で知り合った(かもしれない)井伊直弼の懐刀・長野主膳には目の敵にされていたようだ。ところが、星巌は、明治維新を見ることなく、安政の大獄直前にその頃流行っていたコレラで急死する。紅蘭もそのとばっちりを受けて、半年間の牢獄の実となった、明治十二年(1879年)にこの世を去ったが、なかなか芯の強い女性であった。

最後に、梁川星巌が、大塩平八郎の乱の勃発を聞き及んだ時の詩

誰か仁義を名とし戈矛《かぼう》を弄《ろう》せん
清平《せいへい》に軍《いくさ》あることこれ天警《てんけい》
合党《ごうとう》多しといえども国讐《こくしゅう》にあらず
君子は情を原《たず》ね功罪《こうざい》を定めよ

訳文など]
仁義を名分として乱を起こすやつがいるか。やむにやまれぬ気持ちというのがあるのだ。天下泰平に内乱というのは天の戒めというやつだ。合力は多いが、国の仇にはなるまい。その事情と気持を察した上で、功績と処罰を決めるべきだ。

ここでは、白文を略する。「小説 渡辺崋山」には、七律とあるが、一、二句が対になっていないので、七言絶句の誤りだろう。星巌せんせー、至極当然の事をのべるなどなかなかやるじゃん。

写真は、当帰と芍薬の花(Wikipedia から)と二人の旅程図
参考図書】
・大原富枝「梁川星巌・紅蘭 放浪の鴛鴦」(淡交社)
・杉浦明平「小説 渡辺崋山」(上)

日本人と漢詩(090)

◎葛子琴と頼山陽


前回も述べたように、葛子琴は、木村兼葭堂と縁の深い混沌詩社のいわば盟主。木村兼葭堂への賛詞は以前に記した。

頼春水も渡った、玉江橋が完成した時の作。

玉江橋成 葛子琴

玉江晴度一條虹 玉江《ぎょっこう》 晴れて度《わた》る 一条の虹
形勢依然繩墨功 形勢 依然たり 縄墨《じょうぼく》の功
朱邸綠松當檻映 朱邸《しゅてい》 緑松《ろくしょう》 檻《かん》に当たりて映じ
紅衣畫舫竝橈通 紅衣《こうい》 画舫《がほう》 橈《かじ》を並べて通ず
蹇驢雪裡詩寧拙 蹇驢《けんろ》 雪裡《せつり》 詩寧《なん》ぞ拙《せつ》ならん
駟馬人閒計未工 駟馬《しば》 人間《じんかん》 計《けい》未だ工《たくみ》ならん
南望荒陵日將暮 南のかた 荒陵《こうりょう》を望めば 日将《まさ》に暮れんとし
浮圖湧出斷雲中 浮図《ふと》湧出《ゆうしゅつ》す 断雲《だんうん》の中《うち》

首聯と頷聯の語釈、訳文は、サワラ君の日誌を参考のこと、そこには訳文として、

玉江橋 晴れわたる 一筋の虹のごとし
その姿 以前のままに 完成
諸藩の蔵屋敷 緑の松 欄干の水際に映り
派手な衣装 色艶やかな遊覧船 橈(かじ)を並べて通う

とある。頸聯、尾聯と続けると、
「この橋のたもとに住む私が、雪の中、ロバ上での詩は、下手なわけはないと思うが、四頭立ての馬車に乗るほど出世したかった司馬相如のように、作詩の工夫は上達しそうにない。南の方には、天王寺方面の高台には、日が暮れようとし、四天王寺五重の塔が雲のあいまから湧き出て見えている。」
玉江橋を南北に通る、なにわ筋を南に眼をやると、天王寺の五重の塔が見えたことは、前に述べた。「浪華風流繁盛記」の挿絵にも、遠景として描かれている。

頼山陽は、子琴を「混沌社の傑材」として称賛する。

論詩絶句 其十六
浪速城中朋童箸 浪速《なにわ》城中に朋童箸《あつま》り
猶従嘉蔦索金銭 猶ほ嘉蔦に従って金銭を索《もと》む
廷証混沌新穿薮 廷証たる混沌に新たに薮《あな》を穿《うが》つは
唯有多才葛子琴 唯だ多才有るのみ 葛子琴

竹村則行氏「頼山陽の論詩絶句と哀枚の論詩絶句」より

子琴の作品は、五言、七言の古詩など力作長編詩も多いが、ここでは、今の季節感に満ちた五言律詩を一首。

端午後一日芥元章見過留酌 端午後一日《たんごごいちにち》。芥元章《かいげんしょう》過《す》ぎらる、留め酌《しゃく》す
風烟堪駐客 風烟《ふうえん》 客を駐《とどむ》るに堪《た》う
落日一層樓 落日 一層《いっそう》の楼
緑樹連中島 緑樹《ろくじゅ》中の島に連なり
靑山擁上游 青山《せいざん》 上游《じょうゆう》を擁《よう》す
采餘河畔草 采《と》り余《あま》す 河畔《かはん》の草
競罷渡頭舟 競《きそ》い罷《や》む 渡頭《ととう》の舟
不但殘蒲酒 但《た》だに蒲酒《ほしゅ》を残《ざん》するのみならず
簾櫳月半鉤 簾櫳《れんろう》 月半《なか》ば鉤《こう》す

語釈など]端午の翌日の作 芥元章:京都の儒者、子琴より二十九才年長 風烟:かぜにたなびく靄 一層の楼:唐・王之渙「登鸛鵲楼」より「更に上る一層の楼」より 緑樹 中の島に連なり:今より中の島は緑豊かだった 青山 上游を擁す:上流には、金剛、葛城などの山々が連なり 采り余す 河畔の草 競い罷む 渡頭の舟:屈原の入水にちなんで、薬草を採取したり、舟競争を行ったり 蒲酒を残する:厄払いに少なくなった菖蒲酒を飲み 簾櫳 月半ば鉤す:すだれ窓に、(旧暦なので)三日月の倍くらいの六日月がかかる

葛子琴の墓は、大阪市北区栗東寺にあるが、写真のように、表面が剥げ落ちている。どうか、なんとかならないものだろうか?生粋の浪華詩人であるだけに、復元整備を切に望みたい。また、機会あれば、葛子琴の作品を紹介することにする。

写真は、「浪華風流繁盛記」より、落成当時の玉江橋、大阪市HPより、玉江橋顕彰碑、子琴の旧居近く、橋の北詰めにあるが、彼の名前は出てこない。 葛子琴の墓碑(栗東寺)(参考文献から)

・参考文献】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」
・中村真一郎「木村兼葭堂のサロン」

日本人と漢詩(089)

◎中村真一郎と頼春水、木村兼葭堂

中村真一郎の「漢詩三部作」のうち(「頼山陽とその時代」、「蠣崎波響の生涯」と本書)「木村兼葭堂とそのサロン」での執筆動機の序章は、思いの外、情緒的でもある。
まず、戦争中に、書信を持って、励ましてくれた師ともいえる人物が三人、片山敏彦、吉満義彦、それと、「フマニスト(人文主義)」に対して強固な信念を持ち続けた渡辺一夫の名を挙げる。それに続けて、戦後の日本に対しても、

それは手のつけられない混乱と分裂の有様であり、極めて優秀な若者が生長しつつある反面、単なる日本猿の親戚に過ぎない、絶望的な未開の大衆も生産しつつある。ある種のテレビのお笑い人物とか称するもののなかには、動物園以下のもの、人間の言葉を間違って真似して喋っている連中が横行していて、もし彼らが民主主義の原則に従って多数を占め、権力を握った時を想像すると、「猿の王国」以下に悲惨な世界が出現するだろうと、慄然とする。

もちろん、こうした「蔑視主義」に全面的に組みはしないが、彼が懸念するディストピアの危険性が高まってきたのも事実だろう。

日本の多くのマルクス主義者が、ご本尊の託宣を鵜呑みにして、西欧の歴史上の長い社会主義的蓄積を「空想的社会主義」のもとに切り捨て、自分の頭脳で検証するのを省略する軽薄さ…毛沢東の文化大革命の大波が起こると、それに軽々と乗って、「日本の実権派」を退治せよなどなどと大見得を切る…他人事ながら顔を𧹞らめた…」

これも、満腔の賛意ではないが、遠い昔にマオイストに振り回され、幾ばくかの友人を失ったことを経て、理解の範囲内であり、同意の半ばを共有する。また、昨今に至っても、あまりにも物事を単純化する運動集団の羅列には事欠かない。

こうして、中村真一郎は、江戸漢詩に出会い、その豊かな世界に魅了され、頼山陽、蠣崎波響の評伝執筆を経て、木村兼葭堂とそれを中心として円心上に廻るといった「知識人の共和国」を描く最晩年になった。この大部な著作からくみ取れることは、豊穣とも言えるが、以前の拙稿の続編(過去の記事は、タグ「木村兼葭堂」を参照)
ということで、蒹葭堂と関係の深かった、混沌社で「詩豪」の名を馳せた頼山陽の父、頼春水 Wikipediaが、その社中で中村真一郎にコクトーと讃えられる葛子琴( Wikipedia)に贈った玉江橋(子琴は、御風堂と称し、橋の北詰に書楼を営んだ)からの眺めを詠った詩。春水は、明和3年(1766年)当時は、大坂在住で、子琴の住まいを、たびたび訪問した。ちなみに混沌社は、子琴のネーミングだったらしく、ロシア革命時のアバンギャルド詩人集団を彷彿させるステキな名である。

玉江橋春望贈葛子琴 頼春水
玉江乘霽好從容 玉江、霽《はれ》に乗じて、好《はなは》だ従容
水映長橋淑景濃 水、長橋に映じて、淑景濃し
侯邸古松濤陣陣 侯邸の古松、涛陣々
市樓春柳翠重重 市楼の春柳、翠重々
雲邊塔影天王寺 雲辺の塔影は天王寺
海上嵐光佛母峰 海上の嵐光は仏母峰
莫道村郊靑可蹈 道《い》う莫《なか》れ、村郊、青、踏むべしと
不如此處植吟筇 ここに吟筇を植《たつ》るにしかず

語釈]
従容:ゆったりとした様 淑景:春の光を伴う景色 陣々:切れ切れに続く 侯邸:大名屋敷だが誰のかな?玉江橋北詰近くには、福沢諭吉生誕の地の中津藩屋敷があった 雲辺の塔影は天王寺:当時は、玉江橋から南を見れば、四天王寺の塔が見えたらしい。もちろん今はビルに遮られててそうした展望はない。逆に、大阪大空襲後の焼け野原では、天王寺から大阪城天守が見えたとのことである 道《い》う莫《なか》れ、村郊、青、踏むべしと:郊外の村に青草を踏みにいかなくても 吟筇:詩作にふけるための杖

今は川沿いに、散歩道も出来ているが、行き交う人は、気忙しく、詩作(ないし思索)にふけるとまではいかない。
写真は、頼春水画像(Wikipedia)と現在の玉江橋から南方天王寺方面を見る(筆者撮影)

参考】
中村真一郎「木村兼葭堂のサロン」(新潮社)

日本人と漢詩(088)

◎中島棕隠(続き)
京都から浪華へ話題を移そうと思ったが、もう一回、中島棕隠の詩を三首。

鴨東四時雑咏抄から

酸漿秋熟軟珠匀 酸漿《さんしょう》秋熟《じゅく》して 軟珠《なんしゅ》匀《ととの》う
撚去撚來看作皺 撚《ねんし》去《さり》て撚し来《きた》って 看《みすみ》す皺《しわ》を作《な》す
欲和紅衣剔瓤子 紅衣《こうい》に和して瓤子《じょうし》を剔《てき》せんと欲し
嬌癡屡祝恥傍人 嬌痴《きょうち》 屡《しばし》ば祝《しゅく》して傍人《ぼうにん》に恥《は》ず

語釈]
酸漿:ほおずき 軟珠:軟らかい実 和紅衣剔瓤子:赤い皮を破らないように、その芯をとりだす 嬌痴:幼い少女 祝:まじないをかける 恥傍人:連れの人にはにかむ
「撚去撚來看作皺」とは、うまい表現、ほおずきをうまく撚り合わせるためには、ちょっとしたコツが必要。自分でやると思いの外難しい。横から亡くなった叔母が、「みっちゃんは不器用やし、ちょっと、貸してみ」と鳴るようにして返してくれたことがなつかしい。

以下の二首の「題辞・序」は、白文を略して、後ほど…

(一)
十分收七去年禾 十分《じゅうぶ》七を収《おさ》む 去年の禾《いね》
食亦減些應活過 食《しょく》も亦《ま》た些《さ》減《げんじ》て 応《まさ》に活過《かっか》すべし
爲是群州逞私貯 是《こ》群州《ぐんしゅう》の私貯《しちょ》逞《たくま》しゅうするが為《ため》に
不便糶糴苦飢多 糶糴《ちょうてき》に便《べん》ならず 飢《うえ》に苦しむこと多し

語釈]
十分收七:平年の七割くらいの出来。もちろん、東北地方などでは、もっと悲惨だった 活過:生活、なりわい 群州:大勢の地方役人 逞私貯:私腹を肥やす 糶糴:米の売り買い

危機に乗じて、投機的な相場で、いろんな物の売り買いをするワルはいつの世もいるものである。

(二)

驕奢往往想分宜 驕奢《きょうしゃ》往々《おうおう》分宜《ぶんき》を想う
籍沒餘財竟屬誰 籍没《せきぼつ》の余財《よざい》 竟《つい》に誰《たれ》にか属《ぞく》す
願出胡椒八百斛 願《ねが》わくば 胡椒八百斛《こしょうはっぴゃくこく》を出《いだ》して
窮民瘴氣一時醫 窮民《きゅうみん》の瘴気《しょうき》 一時《いちじ》に医《いや》せん

語注]
驕奢:おごり、贅沢をする 往往:いくたびか 分宜:分相応な生き方 籍没:お上が没収した悪徳富豪の財産 胡椒:解熱剤などの用途にも使う 瘴気:流行り病、熱病

富豪(大財閥、大企業)の溜め込んだ金(内部留保)を吐き出させ、民のために使う、とりわけ現在の「瘴気」(コロナ禍)で、有効活用せよ!とは、棕隠も言ってるではないか!


客歳《かくさい》夏秋の交《こう》、淫雨《いんう》連旬《れんじゅん》、諸州《しょしゅう》大水《だいすい》、歳果して登《みの》らず、今茲《ことし》七月に至り、都下の米価涌騰《ようとう》益《ますます》甚《はなはだ》し。一斗三千銭に過《す》ぐ。飢莩《がふ》路《みち》に横《よこたわ》り、苦訴《くそ》泣哭《きゅうこく》、声《こえ》四境《しきょう》に徹《てつ》す。建櫜《けんこう》より還《このかた》未だ曾《かつ》て有らざる所と云う。感慨の余《あまり》、此の二十絶を賦《ふ》す。

語釈]
建櫜:武器を袋に納め、再び使わないこと。ここでは、天下泰平をもたらした幕府開闢以来という意味だろう。いい言葉である 飢莩:餓死者

棕隠の詩序は、やたらに長いことが多いのは、語ることが尽きせぬのだろう。ここは短めながら、それでも「感慨」がほとばしる。詩は、天保八年(1838年)の作とあるので、その年二月の大塩平八郎の乱の影響が見て取れる。こうした思いは、その大塩や、蛮社の獄の渡辺崋山や高野長英と共通している。どうか、棕隠の心からの声をお聞きいただきたい。
参考文献のなかで、解説者は、

「棕隠は父祖このかたの家格の重圧が持ち前の才気に逆作用して、青春多感の日より狭斜の巷に出入りし、風流好事の名をほしいままにした。しかし棕隠はおのれの命運を素直に受け容れ、耳目に触れる万象にことよせ詩魂を燃焼させて、言志の営みを生涯廃さなかった。」

(水田紀久氏)
と述べる。棕隠は「狂詩」や遊蕩の詩人の側面に加えて、「言志の営み」も再評価に値すると考えるが、いかがであろう?。

棕隠の書は、下記書より、なかなか彼の性格を反映した達筆である。
参考文献】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」

日本人と漢詩(087)

中島棕隠

独断ではあるが、京都人は、大坂や江戸とはひと味違い、揶揄とまでは言わないが、自らを客観視する姿勢があったようだ。もっとも、昨今は、「みやこびと」のプライドもいくぶん薄くなっているが…ところで、わが中島棕隠にこんな狂詩がある。

江戶者嘲京 江戸者《えどもの》京を嘲《あざわら》う
木高水淸食物稀 木は高く水は清くして食物《くいもの》稀《まれ》なり
人人飾表內證晞 人々は表を飾りて内証は晞《かわ》く
牛糞路連大津滑 牛糞の路《みち》大津に連《つらな》って滑《なめらか》に
茶粥音向叡山飛 茶粥《ちゃがゆ》の音は叡山に向かって飛ぶ
算盤出合無立引 算盤《そろばん》出合い立引《たてひき》無く
筋壁連中假權威 筋壁連中《きんかべれんちゅう》は権威《けんい》を仮る
女雖奇麗立小便 女 奇麗《きれい》なりと雖《いえど》も 立小便《たちしょんべん》
替物茄子怕數違 替《か》え物の茄子《なすび》数の違《たがわ》んことを怕《おそ》る

棕隠は、文化二年(1805年)から同十一年(1814年)まで江戸に暮らし、その「江戸っ子」の視点で、京都人を少々突き放して評している。語釈や訳文の詳細はほぼ不要と思われるが、「京都の食物《くいもの》、おいしいもの、あらしまへん」、「内証は懐具合、立引は「勉強しときまっさ」、筋壁連中は、塀の向こうのおえらいさん、替物茄子は、農家の下肥え集めの際に交換する野菜の量をめぐる駆け引き、棕隠の「都繁盛記」に微に入り細に入り詳しい。「粋なねーちゃん、たちしょんべん」という寅さんの口上はここから来たのかな?

鴨東四時雑詞より
酣飮何知迫曉天 酣飲《かんいん》何ぞ知らん 暁天に迫るを
粉香脂膩和衾眠 粉香脂膩《ふんこうしじ》衾《しとね》に和して眠る
遊郞畢竟偎花蝶 遊郎《ゆうろう》畢竟《ひっきょう》花に偎《よ》する蝶
抵得芳心非偶然 芳心に抵《いたり》得るは偶然に非らず

夜を徹して飲み続けて、化粧濃厚な妓と同衾、わては、花に身を寄す、てふてふどすえ。花蕊に引き寄せされるのは、たまたまじゃないわいのお。実は、棕隠は、自作の詩に対して、無類の自註や解説好きで、ここでも委細を極めているが、あえて省略。要するに、高い前金を払わずに、雑魚寝をうまく利用しロハでその妓と首尾を遂げようとのことである。

棕隠は、もともと儒家の家柄、その実家とかえってプレッシャーになり、江戸に一定期間逃避するなど、ボヘミアン的な生活を送った。帰京後は、詩家としての名声もあがり、放蕩の経験豊かなせいか、このような「きわどい」「竹枝詞」を作るようになった。

もう一首、京都の風情の一つ、「大文字の送り火」を題材にした七絶。

士女蘭盆送鬼時 士女《しじょ》蘭盆《らんぼん》鬼《き》を送る時
相携薄夜傍前涯 相い携《たずさ》えて薄夜《はくや》前涯《ぜんさい》に傍《そ》う
且觀如意峰頭火 且《しばら》く観る 如意峰頭《にょいほうとう》の火の
大字畫雲收焰遲 大字《だいじ》雲を画《かく》して 焰《ほのお》を収《おさ》むること遅きを

男女連れ添ってお盆の最終イベントに、鴨の河原にでかける。まずは大文字山の「大」の字が雲間に照り、ゆっくりと消えるまで眺めやる。
子ども時代は、近くの醒泉小学校の屋上が開放され、「大文字焼き」(俗称、正式には送り火)を見ていた思い出が残っている。

京都で、詩集や、江戸の寺門静軒の「江戸繁盛記」の対抗して「都繁盛記」も出版、名声が高まったが、元号が天保に入り、天下はにわかに忙しくなってきた。天保の大飢饉を皮切りに、1837年 大塩平八郎の乱、1839年 蛮社の獄と続く騒乱へと続き、棕隠も、なかなかまっとうな見解を詩で表現するが、それは、またの機会に…
写真は、鴨川河原(Wikipedia より)と大文字の送り火
参考】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」(岩波書店)
・中村真一郎「江戸漢詩」

日本人と漢詩(086)

◎松崎慊堂、林述斎、佐藤一斎と鳥居耀蔵

渡辺崋山を巡る人物は、次のような関係である。まず、百姓から身を興した儒学者・松崎慊堂は、崋山の友にして、師と言える人物だった。まず、その詩から…

夜市納涼 松崎慊堂
黃昏浴罷去迎風 黄昏《こうこん》、浴罷《や》みて去《ゆ》きて風を迎え
燈市徜徉西又東 灯市《とうし》に徜徉《しょうよう》して西また東
時節未秋秋已至 時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り
滿街夜色賣蟲籠 満街の夜色、虫籠《むしかご》を売る

夕暮れ方、ふろ上がりの身には涼風がここちよい。明かりのともる夜市にそぞろ歩き。虫の鳴き声が、早くも秋の到来をつげるという「時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り」という句がすてき。

和一齋墨田遊暑 一斎の墨田遊暑に和す 松崎慊堂
舐眠忽破涌弦歌 舐眠《だみん》忽《たちま》ち破れて弦歌《げんか》涌く
二國橋邊千頃波 二国橋辺、千頃《せんけい》の波
納涼舟似深秋葉 納涼の舟は、深秋の葉に似て
風處紛紛不勝多 風処紛々、多きに勝《たえ》ず

酔いの気分でのうたた寝が覚めたら、しゃみの音色が聞こえる、両国橋の川辺には、幾多の波が寄せる。見れば、涼みの船は、秋のもみじばに似て、風に揺れるばかり。

松崎慊堂は、蛮社の獄では、渡辺崋山の助命、釈放に尽力した。

慊堂のそのまた師匠筋で上司であったのが、昌平黌のトップであった、林述斎。

夏日 林述斎
半窗梧葉影交加 半窓の梧葉、影は交加《こうか》し
胡蝶夢醒西日斜 胡蝶、夢醒《さ》めて西日斜めなり
將起渾身無氣力 まさに起きんとし、渾身《こんしん》に気力なく
呼童目指濯盆花 童《わらわ》を呼びて目指《もく》し盆花に濯《そそが》しむ

半開きの窓からのアオギリの葉にさす影は、陽と交錯し、「胡蝶の夢」覚めたらもう夕方。起き上がろうとするが、どうも気力がわかない。従僕を呼び、目で花に水をやるよう、そっと合図する。「胡蝶の夢」は、荘子からの類推か?目指《もく》しという表現が、とても面白い。

谷口樵唱 林述斎
辭枝花作委泥花 枝を辞《じ》する枝、花は泥に委《ゆだ》ぬる花と作《な》り
絲雨隋風整復斜 糸雨《しう》風に随《したが》いて整《ととの》い復た斜めなり
索莫吟懷無所得 索莫《さくばく》として吟懐《ぎんかい》得るところなく
惟聽哈哈滿池蛙 ただ聴く、哈々《こうこう》満池《まんち》の蛙《かわず》

少しアンニュイ気分の詩。桜の花びらは枝から落ち、泥にまみれてゆく。細雨は、風に逆らうことなく、真っ直ぐに、はたまた斜めへと向きを変える。ここらあたりの表現が絶妙。なかなか、詩句が浮かんでこない中、池の蛙の鳴き声がかしましい。ちゃんと一首できてるじゃないかと、ツッコミどころ満載である。

松崎慊堂は、林述斎にも懇願するが、色よい返事はさっぱり。その陰で、述斎の三男(四男という説あり)、鳥居耀蔵の暗略があり、崋山の助命はかなわぬこととなった。中村真一郎は、林述斎は「根っからのエピキュリアン」と述べるが、生涯、正妻をめとらず、しかも子どもや孫が幾人もいたのだから、その意味はずいぶん多義的である。昌平黌では、「朱子学」がその学問の柱とされたが、建前と本音もずいぶん乖離したものである。

慊堂の隅田川遊びに、同行したのが佐藤一斎で、昌平黌では、慊堂の同輩。著書「言志四録」に、「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む。」との格言があり亡父が好んでおり、父の実直な生き様を反映していると思っている。長年連れ添った連れ合いに先立たれた悲しみの時の「悼亡詩」

愛日楼詩 佐藤一斎
屈伸臂項物全非 臂項《ひこう》を屈伸するに、物全て非なり
一去孤鸞不復歸 ひとたび去りて、孤鸞《こらん》また帰らず
八載相從都是夢 八載、あい従うも都《すべて》これ夢
遺箱忍看嫁時衣 遺箱看るに忍《しの》びんや、嫁の時の衣《ころも》

ひとり寝の床で四肢を曲げ伸ばしするも、すべては幻。ひとたび去って、霊鳥といえども、長年連れ添っても夢のまた夢、帰ってこない。嫁入りに持参した着物を、躊躇しながらそっと見てみる。

佐藤一斎は、蛮社の獄では、崋山などの助命活動に熱心ではなかったと「偽君子」との世評を得た。「文は人なり」と簡単には言わないが、こうした詩を改めてみていると、まだ明らかにされない、複雑な事情もあったのかもしれない。

一方、弾圧者だった 鳥居耀蔵は、天保の改革後、幽囚の身になるが、幕府崩壊後は、釈放され東京に戻り、そこで生涯を終えた。その時の詩、

「東京」
交市通商競つて狂の如し
誰か知らん胡虜深望あるを
後五十年すべからく見得べし
神州恐らくはこれ夷郷とならん

(現代語訳)
人々の行き交いも商業も狂ったように競っている。
誰が知るだろう、過去の罪人(耀蔵)の考えを。
五十年後の未来を予想できるならば
日本はおそらく野蛮人の国となっているだろう。

(ともにWikipediaより)

幕臣であった栗本鋤雲の評は、
「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場の犬のようなものである」
となかなか手厳しいが、こんな「詩」を見ると、まあ、そんな人物だったのだろう。「俺の言うことを聞いていたら、こうはならなかったのだろう」というのが、最晩年の口癖だったらしい。いつの時代も、今日《こんにち》でも、こういうやから、いるよね。いずれにしても、佞人という評価は免れないだろう。
参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」
・杉浦明平「椿園記・妖怪譚」(講談社)

日本人と漢詩(085)

◎柏木如亭と白居易

江戸時代は、漢詩の表現法などが大きな変遷を遂げた時期だった。中期までの、いささや大言壮語に堕した「格調派」から、後期ともなると、日常茶飯事を含む細やかな心の動きを描出する「性霊派」へと変わってきた。柏木如亭もその潮流の一人で、その訳詩集「訳注聯珠詩格」では、白楽天の詩も、ちょっとした日常詩である。

聞亀児詠詩      亀児が詩を詠ずるを聞く    白楽天

憐渠已解弄詩草    憐れむ 渠《かれ》が已に詩草を弄することを解するを
揺膝支頤学二郎    膝を揺がし頤《あご》を支へて二郎を学ぶ
莫学二郎吟太苦    学ぶ莫れ 二郎が吟に太《はなは》だ苦しむを
年纔四十鬢如霜    年纔《わづ》かに四十 鬢《びん》 霜の如し

〈柏木如亭譯〉
憐《かあい》や渠《あれ》は已《いつか》詩草《し》を弄《つくること》を解《おぼ》えて
揺膝《びんぼゆすり》をしたり支頤《ほゝづゑをつい》たりして二郎《おれ》を学《まね》る
二郎《おれ》が吟《しをつくる》に太苦《なんぎす》るをば莫学《まねやる》な
年は纔《やうゝゝ》四十だが鬢《びん》は 如霜《まっしろになった》
以上、昭和レトロな赤坂の思い出から、語釈も同サイト参照のこと。
よりいっそうの現代語訳は、白楽天 舞夢訳を参照のこと。

訳文も、森川許六の三体詩訳の俳文調から抜け出し、現代の口語訳と変わらないところまで来ており、漢詩の日本語を使った解説の一つの到達点であろう。ずいぶん駆け足だったが、平安から室町、江戸時代にかけての訳文を通じての漢詩受容の話題は、ひとまずは、終わることにする。

実際の彼は、白楽天の詩で触れる「家庭の幸福」を知らない人生で、江戸、新潟から京都などへの放浪の詩人だった。追加として、如亭の晩年の詩作を一つ、どこか唐詩への回帰の趣きがある。
絶句
歸鴉閃閃沒煙霄 帰鴉閃閃 煙霄《えんしょう》に没す
但見漁舟趂晚潮 但だ見る 漁舟の晩潮を趁《お》うを
一傘相扶侵雨去 一傘あい扶《たす》けて 雨を侵し去《ゆ》く
黃昏獨上水東橋 黄昏に独い上る 水東の橋

簡単な注釈】
ねぐらに帰るカラスの群れが霞空へ消え、漁船も夕べの潮を追いかける。相合い傘でアベックが雨の中を寄り添って歩いている。その夕暮れの中に一人橋の上にたたずんでいる。
中村真一郎は「孤独な老人の感慨」と書くが、それでいて、どこかある種の温もりも感じる。

参考】
・柏木如亭「訳注聯珠詩格」(岩波文庫)
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波同時代ライブラリー)

日本人と漢詩(084)

◎妹背山婦女庭訓と藤原惺窩


先日、久しぶりに文楽を観て(聴いて)きた。演目は、「妹背山婦女庭訓(Wikipediaより)《いのせやまおんなていきん》」、近松半二などの合作、「本邦版ロメオとジュリエット」と称せらることも多く、確執ある二家の、若君と姫の悲恋物語である。近松門左衛門から下ること半世紀以上、人形浄瑠璃は、人情の機微を語ることのほかに、舞台演出上も大いに工夫を凝らしたものになっている。「婦女庭訓」の最大の見せ場、三段目、「妹山背山の段」では、二家の別荘を挟んで、中に吉野川が流れ、それを仲立ちにした、二人の掛け合いが見事である。上手が、ヒーロー久我之介の別荘、下手がヒロイン雛鳥の別荘、しかも浄瑠璃語りは、左右に分かれて、三味線のピッチも微妙に変えながら、男女の心根を憎いほどに、一人語りと唱和を繰り返す。これで、二回目の観賞となるが、最初は下手側、今回は上手側で、趣の違いも実感できた。当時の客もそのダイナミックな構成に堪能したことだろう。浪華での浄瑠璃文化は、ある意味ここで頂点を極めたように思われる。
今の時代、こうした文化を気軽に享受できるようになっているだろうか?ふとそんな気もしてきた。ここ十年来、文楽をめぐるさまざまな環境は変化を遂げた。ガサツとも言える勢力による文楽攻撃、コロナ禍もあった、それに輪をかけ、大阪を、単に猥雑な街に変えようとする愚策のなか、風格のある上演を望むばかりである。

妹山背山は、古くから歌枕とあるが、そこを題材とした漢詩は寡聞にして見当たらなかった。ネット上では、藤原定家十二世の孫の儒学者、藤原惺窩のやや月並みとも思える七絶を一首。

山居

靑山高聳白雲邊 青山 高く聳ゆ  白雲の辺
仄聽樵歌忘世縁 仄かに 樵歌を 聴きて  世縁を 忘る
意足不求絲竹樂 意 足りて 求めず  糸竹の楽しみを
幽禽睡熟碧巖前 幽禽 睡りは 熟す  碧巖の前

語釈、訳文は、「詩詞世界」を参照のこと。

もちろん、「妹背山婦女庭訓」での二家の別荘は、フィクションであり、廃墟であったとしても惺窩の時代に残っているはずもないが、隠遁の地には似つかわしい雰囲気であったのだろう。また、文楽では、悪役・敵役の蘇我入鹿は皇位を簒奪して、即位した後の話としているのが江戸時代の天皇観を垣間見ることができる。

参考】国立文楽劇場パンフレット(2023年4月)